まちわり【町割】ことば 江戸覗き

なぜ江戸なのか   【RIZAP COOK】

徳川家康が拠点として江戸を選んだのはなぜでしょう。

江戸湾に面しているのと、背後に武蔵野台地が入り江間際までつながっているからなのでしょう。江戸は天然の要害だったのですね。

江戸は江戸湾の奥にあるので、海は荒れずに天然の良港でした。台地を防壁とすれば、低地には街道を配していました。都市としては十分の機能を用意できていたのですね。

この二点が、江戸を選んだ決め手でした。

江戸も碁盤目状   【RIZAP COOK】

江戸にも碁盤目状の都市区画はありました。京都と異なるのは、全体一律に碁盤目にするのではなく、地形や地域に合わせての碁盤目だったので、江戸全体を俯瞰すると、なんだかいびつでゆがんだ都市のように見えるのです。

たとえば、日本橋では、北側と南側では碁盤目が四十五度ずれているそうです。たしかに、大通りは一直線ではありません。南端で大きく曲がっていますね。

町人地の町割   【RIZAP COOK】

日本橋の北側では本町通り、南側では通町通りを軸として、京間60間(118m)の内法制を基本に、碁盤目状の町割がつくられていきました。

表通り、裏通り、横丁、に囲まれた京間60間の正方形の街区を、京間20間(約39m)ずつに三分割して、周りに町屋敷を建てて、中央に会所地を置くのです。

当初の会所地は、宅地造成で生じた土の置き場やごみ捨て場、排水の溜め池などに使われていましたが、17世紀半ばには新道が通されて、使い勝手がよくなっていきました。

後になってからできた道、これが新道です。新道というのは、このような流れの中から生まれたものでした。

両側町   【RIZAP COOK】

江戸の都市計画は京都がモデルでした。通りを挟んだ家々が結束するのは生活感覚によく合ったものでしょう。

通りを中心に構成された町を両側町と呼びます。表通りや裏通りに面した京間60間と横町に面した京間20間の町が生まれていきました。

江戸も京間

京間の1間は6尺5寸(197cm)です。京間では、8畳で4寸(12cm)角とすると、畳の大きさは6尺3寸×3尺1寸5分となります。

江戸で京間が用いられたのは、町割の担当者が中井正清だったことと関係していたといわれます。

中井は法隆寺村出身の御大工で、開幕当時の幕府の建物のほとんどを受け持っていました。家康に重用された建築家だったのです。

家康の後には、京に移って中井役所をつくりました。これは、畿内近江六か国の大工や左官たちの建築工事を差配する役所となりました。

庇の効用   【RIZAP COOK】

庇は、江戸の町家の特徴のひとつでした。二階建ての町家の一階部分を道にせり出させて、アーケードのような連続した道としたのです。雪国の雁木のようなものです。

明暦3年(1657)の大火後に出された町触を見てみましょう。

本町通りと通町通りについては私有地である屋敷地と公儀地に属する道からそれぞれ半間出しあって、一間幅の庇下通道を連続してつくることが定められました。

参考文献:波多野純『復原・江戸の町』(筑摩書房、1998年)、小澤弘、丸山伸彦編『江戸図屏風をよむ』(河出書房新社、1993年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
内法制 うちのりせい:畳割
畳割 たたみわり
新道 じんみち

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なぬし【名主】ことば 江戸覗き

この項では、町年寄の下で江戸の住民に寄った代表者として双方の間を取り持つ役割を果たしていた名主について記します。

名主の分類  【RIZAP COOK】

名主は、以下のような分類がなされています。

江戸の町の本来の構成員は家持=町人で、名主はその町の代表者です。江戸では家持層が早くから不在となる場合が多く、17世紀末には町名主は姿を消してしまいます。町名主に代わって、家守の代表である月行事が町を代表するようになっていきます。

江戸の町名主には、町が町奉行支配(管理)の区域である「御町中」になった時代によって、以下の4つの分類があったといわれています。

草創名主
慶長年間の町割で町となった地、天正以前からあった村が「御町中」に編入された場合での名主。家康の江戸入り以来の由緒を持ちます。元文年間(1736-41)に29人(のち24人に)いました。

古町名主
寛永年間(1624-44)までに成立した古町を支配(管轄)した名主。文化年間(1804-18)には79人いました。代官支配から町奉行支配になった町の名主です。

平名主
正徳3年(1713)以降に代官支配から町奉行支配になった新市街地の名主。それ以前の町と区別するため「新町」と呼びました。町奉行と代官の両方の支配を受ける土地を「町並地」といいますが、平名主はまさにここが対象となります。

門前名主
寺社奉行から町奉行へ支配が移った町の名主。

正徳3年(1713)とはどんな年か。その年の閏5月15日に、代官支配だった、本所、深川、浅草、小石川、牛込、市谷、四谷、赤坂、麻布などの近郊市街地259町が町奉行支配となったのです。この年こそは、江戸のなりたちを考える上でエポックメイクな年といえるでしょう。

名主の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

名主の仕事はいろいろあります。ざっと並べると以下のとおりです。

町触の伝達
人別改
忠孝奇特者の取り調べ
火の元の取り締まり
火事場での火消人足の差配
町奉行や町年寄からの指示による取り調べ
町奉行所への訴状や届書への奥印
沽券状その他の諸証文の検閲や奥印
支配町内紛議の調停
失行者への説諭
町入用の監査
祭礼の監督と執行

このように見ると、名主は管轄町内のすべて町用と公用にかかわっていたのですね。

名主というのは落語には出てきません。落語を聴いているかぎりでは見落としがちなのですが、当該町と町年寄の中間に位置して、町民の生活に根づいた課題に対処していたのですね。江戸を知る上ではかなり重要な存在といえるでしょう。

名主組合  【RIZAP COOK】

町奉行支配地が拡大していくと、正徳年間(1711-16)には地域ごとに、日本橋北組合、日本橋中組合、日本橋南組合、霊巌島組合、芝組合、神田組合、浅草組合といった名主組合が生まれました。

享保7年(1722)には、これらが再編成されて一番から十七番までの組合に生まれ変わりました。

各番組ごとに年番を決めました。とりわけ、日本橋北の一、二番組と日本橋南の四番組の年番を「南北小口年番」といって、町触などの急なお達しなどを各番組に伝達させるようなネットワークが形成されていきました。番名主はさらに、その頃問題化していた名主のサボりや不正の監督にもあたりました。この番組制は、十八番組から二十一番組まで生まれ、番外の吉原と品川ができて、合計23組となりました。

名主の数は、享保7年(1722)に17組264人いましたが、天保2年(1831)には23組246人へと少し減りました。一人の名主が支配する町の数は平均6、7町でした。

そもそも名主は兼業が禁じられていたため、支配町内から役料を徴収することが許されていました。この金額は、幕末では、平均60両ほどを手にしていたいいます。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
草創名主 くさわけなぬし
古町名主 こちょうなぬし
平名主 ひらなぬし
町並地 まちなみち
町触 まちぶれ
人別改 にんべつあらため
店借人 たながりにん
地借人 じがりにん
家持 いえもち
家主 いえぬし
大家 おおや
家守 やもり
町入用 ちょうにゅうよう

町年寄 月行事

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