うきよどこ【浮世床】演目

【RIZAP COOK】

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日がな一日、髪結い床でごろごろ。こんな人生も悪くない。

別題:片側町(上方)

あらすじ

髪結い床。

若い衆が集まってワイワイばか話の最中に、留さん一人、講談本に読みふけっている。

すぐ目を付けられて、退屈しているから読んで聞かせてくれと頼まれ、
「オレは読み出すと立て板に水で、止まらなくなるから、同じところは二度と読まねえ」
と豪語して始めたのはいいが、本当はカナもろくに読めないから、
「えー、ひとつ、ひ、ひとつ、ひとつ、あねがわかっ、せんのことなり……真柄、まからからから、しふろふざへもん」
「真柄十郎左衛門か?」
「そう、その十郎左衛門が、敵にむかむかむか……」
「金たらいを持ってきてやれ。むかつくとさ」
「敵にむ、向かって一尺八寸の大太刀を……まつこう」
「呼んだか?」
「なんだよ」
「今、松公って呼んだだろ」
「違う。真っ向だ」

一尺八寸は長くないから、大太刀は変だと言われ、これは横幅だとこじつけているうちに、向こうでは将棋が始まる。

一人が、王さまがないないと騒ぐので
「ああ、それならオレがさっきいただいた。王手飛車取りの時、『そうはいかねえ』って、てめえの飛車が逃げたから」
「おめえの王さまは、取られてないのにねえな」
「うん、さっき隠しておいた」
というインチキ将棋。

かと思うと、半公がグウグウいびきをかいている。

起こすと、
「女に惚れられるのは疲れてしょうがねえ」
と、オツなことを抜かしたと思うと、
「芝居で知り合ったあだな年増と、さしつさされつイチャついた挙げ句、口説の末にしっぽり濡れて、一つ床に女の赤い襦袢がチラチラ……」
と、えんえんとノロケ始める。

「女が帯を解き、いよいよ布団の中へ……」
「こんちくしょう、入ってきたのか」
「という時に、起こしゃあがったのは誰だ」

床屋の親方が、あんまり騒がしいので、
「少しは静かにしてくれ。気を取られているすきに、銭を置かずに帰っちまった奴がいる。印半纏のやせた……」
「それなら、畳屋の職人だ」
「道理で、床を踏み(=踏み倒し)に来やがったか」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

意外にも上方ダネ  【RIZAP COOK】

一尺八寸の大太刀の部分の原話は安永2年(1773)刊『聞上手』中の「大太刀」、夢のくだりは同4年(1775)刊『春遊機嫌袋』中の「うたゝね」、オチの畳屋の部分は同2年刊『芳野山』中の「髪結床」と、いくつかの小ばなしが合体して、できた噺です。

これらの原話はいずれも江戸で出版されているのに、意外なことに落語そのものは上方で発達し、明治末期に初代柳家小せんが東京に「逆輸入」しました。

演題の「浮世床」は、式亭三馬(1776-1822)と滝亭鯉丈の合作の同名の滑稽本(初編、文化10年=1813年刊)から採られているとみられます。

無筆(=非識字)に近い者が見栄を張ってでたらめ読みし、からかわれるくだりの原型は『浮世床』にあり、これも原典の一つといえるでしょう。

先代三平の音源も  【RIZAP COOK】

戦後は六代目三遊亭円生と三代目三遊亭金馬が得意としました。その他数多くの落語家によって手掛けられています。先代林家三平のレコードも昭和56年(1981)にビクターから発売されましたが、CD化はされず、レコードは現在は廃盤です。

円生の芸談  【RIZAP COOK】

六代目三遊亭円生はこの噺について、「テンポと呼吸をくずさないこと」という貴重な芸談を残しています。

片側町  【RIZAP COOK】

床屋の親方が客の片鬢(びん)を剃り落とし、「これじゃ表を歩かれねえ」と文句を言われると、「なーに、片側をお歩きなさい」とオチる、「片側町」という小ばなしを含むこともあります。これは、現在は同じ床屋ばなしの「無精床」に入れることが多くなっています。

オチの「床を踏む」というのは、畳屋が新畳のへりを踏んでならして落ち着かせること。そのことばと、髪結い賃の「踏み倒し」を掛けたものですが、これも、今ではかなりわかりにくくなっているでしょう。

髪結い床の歴史  【RIZAP COOK】

起源は古く、応仁の乱(1467-77)後、男がかぶりものを常時着けない習慣ができたので、月代(さかやき)を剃って髪を整える必要が生じ、職業的な髪結いが生まれました。

天正年間(1573-92)にはもう記録があり、一人一文で結髪したため、別名「一銭職」と呼ばれました。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「髪結新三(かみいしんざ)」の「一銭職と昔から、下がった稼業の世渡りに……」というよく知られたセリフは、ここからきています。

万治元年(1658)から、髪結い床は江戸で一町内に一軒と定められましたが、享保年間(1716-36)には千軒あまり、幕末の嘉永年間(1848-54)になると二千四百軒に増えたといわれています。

この噺の中でも詳しく説明されるのですが、江戸の髪結い床は、通常は親方一人に中床(下剃り=助手)、小僧の計三人です。中床を置かず、小僧一人の床屋もありました。

二階は噺に出てくるように社交場になっていて、順番を待つ間、碁将棋、ばか話などで息抜きをする場でもありました。

髪結い賃は、大人三十二文、子供二十四文が幕末の相場です。

明治になっても「かみどこ」という呼び名と、江戸以来の古い床屋の面影や性格は、下町ではまだ色濃く残っていて、町内のゴシップの発信地でもありました。

髪結い床が登場する噺は「無精床」「十徳」「お釣りの間男」「崇徳院」など、多数あります。

じっとく【十徳】演目

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噺全編、これ駄洒落の集合体。ばかばかしいだけですが。

【あらすじ】

ふだん物知り顔な男。

髪結床で仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、早速隠居のところへ聞きに言った。

隠居は「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとくで十徳だ」と教え、「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹町の金座御用の後藤が金を出し合って掛けたから、ゴトとゴトで一石だ」とウンチクをひとくさり。

「さあ、今度は見やがれ」と床屋に引き返したはいいが、着いた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。

「ええと、立てば衣のようだ、座れば羽織のようだ、ヨウだヨウだで、やだ」
「いやならよしにしねえ」
「そうじゃねえ、立てば衣みてえ、座れば羽織みてえ、みてえみてえでむてえ」
「眠たけりゃ寝ちまいな」
「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これはしたり」

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【しりたい】

遊び心に富むダジャレ噺  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「十徳のいわれ」で、そっくりそのままです。

江戸にはシャレ小咄が多く、ばかばかしいようで遊び心とウイットに富み、楽しいものです。

落語の「一目上がり」などもそうですが、数でシャレるものがあります。たとえば。

「屋島の戦で、平教経が義経を見て、勝負をしそうになった。義経は臆して、『よそうよそう』で八艘飛び」
「西と書いて産前産後と解く。その心は二四は三前三後」

いろいろあります。

本来、前座噺ですが、大看板では八代目春風亭柳枝(1959年没)がよく演じました。

上方ではこの後、「ごとくごとくで十徳やろ」と先回りされ、困って、「いや、たたんでとっとくのや」と落とします。

これはしたり  【RIZAP COOK】

オチに使われていますが、今ではどうでしょう。

「これは悪しき(=悪い)ことしたり」の真ん中が取れた言葉といわれ、「しまった」と「驚いた」の両義に使われます。

この噺では前者でしょうが、ダジャレなので、あまり詮索しても意味はありません。

「仮名手本忠臣蔵」五段目・山崎街道鉄砲渡しの場で、狩人となっている早野勘平が、かつての同僚の千崎弥五郎に偶然出会い、両人膝をたたいて「これはしたり」と言います。この場合は後者の意味で、歌舞伎ではこのパターンは紋切り型で繰り返し使われます。

十徳  【RIZAP COOK】

脇を縫いつけた、羽織に似た着物です。おもに儒者、絵師、医者らが礼服として用いました。本当の語源は、「直綴」からの転訛で、脇を綴じてある意味でしょう。

鎌倉時代末期に始まるといわれ、古くは武士も着用しました。江戸時代には腰から下にひだを付け、普段着にもなりますが、袴ははかないのが普通でした。

そもそもは、鎌倉末期に素襖より下級の小素襖のことです。高貴な人が外出する時に輿舁きや供侍が上着の上から掛けて、腰回りを帯で締めて四幅袴を履くようになりました。室町時代には上下ともに侍の旅行用衣服に転じ、江戸時代には袴が省略されて、儒者、医師、俳諧師、絵師、茶人など、剃髪した人の外出着や礼服と変化していきました。黒無紋の精好、絽、紗といった布地で仕立て、脇を縫い綴じ、共切れの平ぐけの短い紐を付けて、腰から下にひだをこしらえています。見るからに浮世離れした風流人の上品な風情です。これが変化していって、羽織となってきます。

後藤は江戸の「造幣局」  【RIZAP COOK】

金座は勘定奉行に直属です。家康が貨幣制度の整備を企てて日本橋に金座を設け、新両替町(現・中央区銀座一-四丁目)に駿府から銀座を移転。家臣の後藤庄三郎光次に両方を統括させ、金貨・銀貨を鋳造・鑑定させたのが始まりです。

金座の設置は文禄4(1595)年、銀座は慶長17(1612)年とされます。後藤庄三郎は代々世襲で、大判小判を俗に「光次」と呼んだのはそのためです。

金座は当初、日本橋金吹町(「長崎の赤飯」参照)に設けられ、後藤の配下で、実際に貨幣に金を吹きつける役目の業者を「金吹き」と呼びましたが、元禄8(1695)年にこれを廃止。

新たに鋳造所を本郷に移転・新築しましたが、間もなく火事で全焼し、同11(1698)年、後藤の官宅があった、金吹町のすぐ真向かい、日本橋本石町二丁目の現日銀本店敷地内へ再移転しました。

一石橋  【RIZAP COOK】

正確には「いちこくばし」と読みます。中央区日本橋本石町一丁目から、同八重洲一丁目までの外堀通りを南北に渡し、北詰に日銀本店、その東側に三越があります。

この橋上から自身と常磐橋、呉服橋、鍛冶橋、銭亀橋、日本橋、江戸橋、道三橋と、隅田川を代表する八つの橋を一望する名所で、別名を「八ツ橋」「八つ見の橋」といったゆえんですが、現在は情けなくも高速道路の真下です。

噺の中の「ゴトとゴトで一石」は俗説です。このダジャレ説のほか、橋のたもとに米俵を積み上げ、銭一貫文と米一石を交換する業者がいたからとする説も。どちらも信用されていなかったらしく、「屁のような由来一石橋のなり」と、川柳で嘲笑される始末でした。

もう一つの「呉服屋の後藤」は、幕府御用を承る後藤縫之助で、「北は金 南は絹で橋をかけ」と、これまた川柳に詠まれました。

一石橋の南の呉服橋はこの後藤の官宅に由来し、橋自体、元は「後藤橋」と呼ばれていたとか。一石橋の南詰に安政4年(1857)、迷子札に代わる「まひごのしるべ石」が置かれ、現存しています。

【語の読みと注】
直綴 じきとつ
素襖 すおう
小素襖 こずおう
輿舁き こしかき
供侍 ともざむらい
四幅袴 よのばかま
剃髪 ていはつ
無紋 むもん
精好 せいごう
絽 ろ
紗 しゃ
共切れ ともぎれ
平ぐけ ひらぐけ
羽織 はおり

【RIZAP COOK】

【十徳 八代目春風亭柳枝】

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