おびきゅう【帯久】演目

日本橋の商人、和泉屋与兵衛と帯屋久七との金にからむ大岡政談の一編です。

別題:和泉屋与兵衛(上方) 名奉行(上方) 指政談(上方)

あらすじ

享保5年、春のこと。

日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛という呉服店があった。

主人は温厚な人柄で、町内の評判もよく、店はたいそうな繁盛ぶり。

本町二丁目にも帯屋という、これも呉服屋があるが、対照的にこちらは、主人久七の性格が一癖あるのに加え、店も陰気な雰囲気で、「売れず屋」という異名がついてしまうぐらい、さっぱりはやらない。

とうとう三月の晦日の決済もできず、久七が和泉屋に二十両の金を借りにきた。

人のいい与兵衛は、「商人は相身互い」と、証文、利息もなしで快く用立てた上、ごちそうまでして帰す。

二十日ほどして返しにきたが、これに味をしめたか、たて続けにだんだん高額の金を無心しにくるようになった。

その都度、二十日ほどできちんと返済に来たので、十一月に百両という大金を借りに来た時も、与兵衛はあっさりと貸してしまう。

今度は、一月たっても梨のつぶて。

さすがに気になりだしたころ、大晦日になって、やっと返しに来た。

ところが、座敷に通して久七が金を出し、入帳したところで、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出し。

大晦日でてんてこ舞いの折から、与兵衛があわただしく出かけると、不用意にも金はそのまま、久七一人座敷に残された。

久七、悪心が兆し、これ幸いと金を懐に入れ、なに食わぬ顔でさようなら。

帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、さてはと思い至ったが、確かな証拠もないので、自分の不注意なのだとあきらめてしまう。

帯屋の方では、百両浮いたのが運のつき始め。

新年早々、景品をつけて大奉仕したので、たちまち大繁盛。

一方、和泉屋はこれがケチのつき始めで、三月に一人娘が、次いで五月にはおかみさんがぽっくりみまかった。

追い打ちをかけるようにその年の暮れ、享保六年十二月十日の神田三河町の大火で、蔵に戸前もろとも店は全焼。

あえなく倒産した。

与兵衛は、以前に分家してあった武兵衛という忠義な番頭に引き取られるが、どっと病の床につく。

武兵衛もまた、他人の請け判をしたことから店をつぶし、今はうらぶれて、下谷長者町に裏長屋住まいの身だが、懸命に旧主の介抱をするうち、十年の歳月が流れた。

ようやく全快した与兵衛、自分はもうなんの望みもないが、長年貧しい中、自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいと、武兵衛が止めるのも聞かず、帯屋に金を借りにいく。

相手も昔の義理に感じて善意で報いてくれるだろう、という期待だが、当の帯屋は冷酷無残でけんもほろろ。

「銭もらい」
とののしり、
「びた一文も貸す金はない」
と言い放つ。

思わず、かっとして百両の件を持ちだし、
「人間ではない」
とののしると、
「因縁をつけるのか」
と、久七は煙管で与兵衛の額を打ち、表にたたき出す。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうとふと見ると、不用心にもかんなくずが散らばっているので、いっそ放火して思いを晴らそうと火をつけたが、未遂のうちに取り押さえられる。

事情を聞いた町役人は同情し、もみ消してくれるが、久七は近所の噂から、百両の一件が暴かれるのを恐れ、先手を打って奉行所に訴え出る。

これで与兵衛は火つけの大罪でお召し捕り。

名奉行、大岡越前守さまのお裁きとなる。下調べの結果、帯屋の業悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた。

越前守はお白州で、
「その方、大晦日で間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで春ながにでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れておったのではないか」
とカマをかけるが、久七は
「絶対に返しました」
とシラを切る。

そこで、久七に右手を出させ、人指し指と中指を紙で巻いて張り付け、判を押す。

「これはものを思い出す呪いである。破却する時はその方は死罪、家は闕所、そのむね心得よ」

久七は、紙が破れれば首が飛ぶというので、飯も食えない。

三日もすると音を上げて青ざめ、出頭して、まだ返していないと白状する。

奉行はその場で元金百両出させた上、十年分の利息百五十両を払うように久七に命じた。

持ち合わせがないとべそをかくと、百両を奉行所で立て替えた上、残金五十両を年賦一両ずつ払うよう、申し渡す。

「……さて、和泉屋与兵衛。火付けの罪は逃れられぬ。火あぶりに行うによって、さよう心得よ」

これを聞いて、久七が喜んだのなんの。

「さすがは名奉行の大岡さま。どうかこんがりと焼いていただきましょう」
「なれど、五十両の年賦金、受け取りし後に刑を行う」

これだと、和泉屋がフライになるまで五十年も待たねばならない。あわてたのは久七。

「恐れながら申し上げます。ただちに五十両払いますので、どうかすぐに和泉屋をお仕置きに」
「だまれッ。かく証文をしたためたるのち、天下の裁判に再審を願うとは不届き千万。その罪軽からず」
「うへえッ、恐れいりました」

奉行、与兵衛に
「その方、まことに不憫なやつ。何歳にあいなる」
「六十一でございます」
「還暦か。いやさ、本卦(=本家)じゃのう」
「今は分家の居候でございます」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

大岡政談がネタ本  【RIZAP COOK】

講談の大岡政談ものと、『明和雑記』中の名奉行、曲淵甲斐守(曲淵景漸)の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。

曲淵景漸は、隠居年齢ともいえる41歳で大坂西町奉行に就任して甲斐守の受領名を拝名しました。明和6年(1769)には江戸北町奉行に出世して、約18年間その職を務め、江戸の治安統治に尽力しました。その間、田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付などに出仕停止などの処分を下したという人です。

『明和雑記』は和歌や俳諧について見聞したことを記した雑記随筆。作者は尾張藩士で俳人の東条有儘です。大坂の風聞雑記が中心です。明和元年(1764)、朝鮮通信使が大坂に立ち寄ったところから書き起こされています。

「名奉行」と題して、明治末に『文藝倶楽部』に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作し、昭和32年(1957)10月、上野・本牧亭での独演会で初演しました。円生没後は三遊亭円窓が復活させて演じています。立川志の輔もまた。

円生は『三遊亭円生全集』(青蛙房)中で、大岡政談では加賀屋四郎右衛門と駿河屋三郎兵衛の対決として、ほとんど同類のネタがあることを紹介しています。

米朝の十八番  【RIZAP COOK】

大阪では古くから演じられ、桂米朝が得意にしていました。大阪のやり方は円生のものとほとんど変わりませんが、和泉屋の所在地が東横堀三丁目、帯屋が同二丁目で、奉行は松平大隅守となっています。

米朝は発端の火事を、宝暦6年(1756)夏の大坂・瓦町の大火(銭亀の火事)としています。

火あぶり  【RIZAP COOK】

江戸中期からは放火のみに科されました。千住小塚原または鈴ヶ森で執行され、財産は没収(闕所)、引回しが付加され、文字通り「こんがり」焼かれた上、男は止め焚(罪人が焼死後再び火をつけ、鼻と陰嚢を焼く)までされました。

焼死体は三日二夜さらされました。火付けの罪科がここまで過酷なのも、いかに幕府が、一夜で江戸の町が灰になってしまう大火を恐れたかのあらわれでしょう。その流れは脈々と生きていて、放火の罪が重いのは現行法でも変わりません。

町火消

本卦  【RIZAP COOK】

本卦返りで、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。還暦のことです。

陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせ、その(10と12)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる、数え61歳を本卦返りとし、赤い着物を贈って祝う風習は今でもありますね。子供に返るという意味で赤い着物なのだそうです。

分家  【RIZAP COOK】

分家は本来は親戚筋の店で、奉公人ののれん分けは「別家」と呼んで区別しますが、この噺の武兵衛のように、忠節で店への功労があった大番頭を、特別に親類扱いで同店名を許し、「分家」と認めることがありました。

つっこみ  【RIZAP COOK】

あらすじでは略しましたが、お白洲で、奉行が最初、利息の返済を「月賦にするか」と久七にただし、年賦がいいというので、「それでは年十両か」「もう少しご猶予を」「では五両か」「もう少しご勘弁を」と値切り、年一両に落ち着くというやり取りがあります。

しかし、これでは、奉行の腹をもし久七が察知して、最初の条件で承諾すれば、数年で与兵衛はフライですから、危ない橋で、噺の盲点といえます。奉行の智略、貫禄で押し切らないと、名裁判にも難癖がつきかねません。

【語の読みと注】
享保5年 きょうほうごねん:1720年
請け判 うけはん:連帯保証人
闕所 けっしょ:お取りつぶし
曲淵景漸 まがりぶちかげつぐ
田沼意知 たぬまおきとも
佐野政言 さのまさこと
東条有儘 とうじょうゆうじん
本卦 ほんけ
本卦返り ほんけがえり:還暦
十干 じっかん
十二支 じゅうにし
陰陽道 おんみょうどう

【RIZAP COOK】

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たいないりょこう【体内旅行】演目

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落語版「ミクロの決死圏」。根本敬の漫画にもこんなのがありました。

【あらすじ】

二人の男(以下、甲と乙)が牛鍋をつつきながら話している。

ドイツの薬が、本町四丁目のウルコリポイ薬種店に来た。体に塗れば塗るほど体が小さくなる薬とか。

さっそく乙が試し、甲の目から体内に侵入した。体内旅行の始まりだ。

入り口では、目黒瞳町の眉毛屋の黒兵衛がごあいさつ。上にいる額区の味噌屋の主人が体内旅行の案内役になる。

まずは、黒毛町を経て頭山へ参詣としゃれこむ。見渡せば、耳が淵脳骨山や痰仏が眺望できる。

「大変な地面ですから水を打つには税を出さなければならず、いくら税を出しても痰仏さまの税がゼーゼー」
と味噌屋。

喘息道の前に建つ石の門が喘門、その奥が咽家気管という工学士が設計した西洋館。

周りには椿(=唾き)の植え込みがあり、大きな泉水は水落ちの池、向こうの寺は溜院、広い公園は助膜園、りっぱな蔵付きの家が脹満銀行で、寄席は胃病亭。

ただいま心臓病の三味線で腸胃が義太夫を語っている。

乙「大勢聞いていますね」
味噌屋「虫が聞いてます。虫のいい奴で」

やがて疝気の虫、驚風の虫、癇癪の虫など多くの虫が傍聴している議事堂へ。

乙が
「虫諸君、人間を殺して生きていることはできません。外から来る者に害を与えるのは心得違いです」
と、演説をぶつ。

胃病の虫「私は甘いものが好きなので三度の食事の後に茶菓子をいただきたい」
乙「そりゃあできません」
ほかの虫「人間が食わなければいいのです」
乙「それは虫がいいというもの」
ほかの虫「虫が好きます」

まぜっかえしの混戦で、議会は解散する始末。

やがて甲のくしゃみで、乙は甲の鼻から飛びだしてきた。

甲「君は利口だな。目から鼻へ抜けた」

底本:三代目三遊亭円遊

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【しりたい】

「鼻の円遊」のシュール珍作

「鼻の円遊」「ステテコの円遊」と呼ばれ、明治初期の爆笑王だった初代(実は三代目)三遊亭円遊が、明治30年(1897)12月の「百花園」に速記を掲載したものです。

当時の科学の進歩を当て込んだ、円遊の新作と思われますが、詳細はまたく不明で、それきり消えた珍品中の珍品です。

聞きかじりの怪しげな西洋医学の知識と、「疝気の虫」にも見られた、病気はすべて体内の「虫」が引き起こすという古めかしい俗信をないまぜにし、あとはダジャレばかり。落語の構成としてはひどい愚作なのですが、あの時代に「ミクロの決死圏」よろしく人間が「ナノ化」して体内をめぐるという発想は新鮮で、現在読んでも楽しめるものになっています。

あるいは「疝気の虫」をヒントに、当時流布した体内解剖図を参照して作ったのかもしれませんが、どなたかが、現代の最新医学?を採り入れて改作してくれるとおもしろいですね。

本町四丁目

ほんちょう。中央区日本橋本町二、三丁目にあたります。家康が江戸入府後、最初に手掛けた町割りで、その意味で、まさしく「江戸のルーツ」といえる由緒ある町ですが、それ以前に処刑場があったとされ、その「不浄」が嫌われて「天下祭り」と言われた山王権現や神田明神の祭礼の神輿渡御が許されなかったという因縁があります。

江戸屈指の目抜き通りで、問屋や大商店が軒を並べました。本町のうちでも、この噺に登場する薬種問屋は三、四丁目に集まっていました。「ウルコリポイ」については不詳です。

目から鼻へ抜けた

オチは言うまでもなく、「頭の回転が速い」という意味の慣用句を掛けたものですが、「鼻」は円遊自身のあだ名を効かせてあるのでしょう。これは八代目桂文楽の最後の高座となった人情噺「大仏餅」のオチをちゃっかりとパクったものです。

【語の読みと注】
本町四丁目 ほんちょうよんちょうめ
ウルコリポイ薬種店 うるこりぽいやくしゅてん
目黒瞳町 めぐろひとみちょう
眉毛屋 まゆげや
黒兵衛 くろべえ
額区 ひたいく
黒毛町 くろげちょう
頭山 あたまやま
淵脳骨山 えんのうこうつざん
痰仏 たんぼとけ
喘息道 ぜんそくどう
喘門 ぜんもん
咽家気管 いんけきかん
椿 つばき
水落ちの池 みずおりのいけ
溜院 りゅういん
助膜園 ろくまくえん
脹満銀行 ちょうまんぎんこう
胃病亭 いびょうてい
腸胃 ちょうい
疝気の虫 せんきのむし
驚風の虫 きょうふうのむし
癇癪の虫 かんしゃくのむし

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ゆめきん【夢金】演目

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船宿に駆け込んできた男と女。金銭欲丸出しの船頭との取り合わせで。

あらすじ

山谷堀の吉田屋という船宿。

そこの船頭・熊五郎は、このところ毎晩のように超現実的な寝言をうなっている。

「金が欲しいな。二十両欲しい。だれかくれぇ」

ある夜、いつものように熊の
「金くれえ」
が始まったころ合いに、門口で大声で案内を乞う者がある。

亭主が出てみると、年のころは三十ばかり、赤羽二重の黒紋の羽織、献上博多の帯のぼろぼろになったのを着た侍が、お召し縮緬の小袖に蝦夷錦の帯を締め、小紋の羽織、文金高島田しとやかにお高祖頭巾をかぶった十六、七の娘を連れて、雪の中を素足で立っている。

話を聞くと、今日妹を連れて芝居見物に行ったが、遅くなり、この雪の中を難渋しているので、大橋まで屋根舟を一艘仕立ててもらいたいという。

今、船頭は相変わらず
「二十両くれえ」
とやっている熊五郎しかいない。

「大変に欲張りなやつですから、酒手の無心でもするとお気の毒ですので」
と断っても
「かまわない」
と言うので、急いで熊を起こして支度をさせる。

舟はまもなく大川の中へ。

酒手の約束につられてしぶしぶ起き出した熊五郎、出がけにグイっとあおってきたものの、雪の中。寒さにブルブル震えながら漕いでいる。

娘の顔をちらちら見て
「こいつら兄妹じゃねえな」
と踏んだが、まあなんにしろ
「早くゼニをくれればいい、酒手をくれ、早く一分くれ」
と独り言を言っていると、侍が舟の障子をガラリと開け
「おい、船頭。ちょっともやえ(止めろ)。きさまに話がある」

女は寝入っている。

「この娘は実は妹ではなく、今日、吉原土手のところで犬に取り巻かれて難儀していたのを助けてやったもの。介抱しながら懐に手を入れると、大枚二百両を持っていたから、これからこの女をさんざんなぐさんだ上、金をとってぶち殺すので手伝え」
という。

熊が仰天して断ると、侍は
「大事を明かした上は命はもらう」
とすごむ。

「それじゃあ、いくらおくんなさいます」
「さすがは欲深いその方。震えながらも値を決めるのは感心だ。二両でどうだ」
「冗談言っちゃいけねえ。二両ばかりの目くされ金で、大事な首がかけられるけえ。山分け、百両でどうでやす。イヤなら舟を引っくり返してやる」

とにかく話がまとまった。

舟中でやるのは証拠が残るからと言って中洲まで漕ぎつけ、侍が先に上がったところをいっぱいに棹を突っ張り、舟を出す。

「ざまあみろ。土左衛門になりゃあがれ」

これから娘を親元である本町三丁目の糸屋林蔵に届け、二十両の礼金をせしめる。

思わず金を握りしめた瞬間
「あちいッ」

夢から覚めると熊、おのれの熱いキンを握っていた。

しりたい

六代目円生の芸談

戦後、稠密な人物描写の妙で、この噺には定評のあった六代目三遊亭円生は、「これは初めから終わりまで夢……まことにたあいのない噺ですが、出てくる人物の表現、言葉のやりとり、そういったものを形から何からととのえてやれば面白く聞けるというのが、むずかしいところでもあるわけです。(中略)とりわけこの『夢金』なぞは、まずくやったら聞いちゃいられないという噺でございます」と語り残しています。

「芝浜」などと同じく、最後まで夢であると客に悟らせず、緊密な構成と描写力で噺を運ぶ力量が必要とされる、大真打の出し物でしょう。

我欲の浅ましさ

古くは別題を「欲の熊蔵」ともいいましたが、その通り、熊に代表される人間の金銭欲のすさまじさ、浅ましさが中心になります。

ただ、その場合も落語のよいところで、その欲望を誰もが持っている業として、苦笑とともに認めることで、この熊五郎も実に愛すべき、今でもどこにでもいそうな人間に思えてきます。

円生は、金銭欲の深さを説明するのに、マクラで「百万円やるからおまえさんをぶち殺させろ」と持ちかけられた男が、「半分の五十万円でいいから、半殺しにしてくれ」という小ばなしを振っています。

オチの改訂

昔からそのものずばり、夢うつつで金玉を握り、その痛さで目覚めるというのが本当で、これでこそ「カネ」と「キン」の洒落でオチが成立するのですが、やはり下品だというので、そのあたりをぼやかす演者も少なくありません。

たとえば、「錦嚢」と題した明治23年(1890)の二代目古今亭今輔の速記では、熱いと思ったらきんたま火鉢(火鉢を股間に挟んで温まる)をして寝ていた、と苦肉の改訂をしていますし、立川談志は、金玉の部分をまったくカットして、「静にしろッ、熊公ッ」と初めの寝言の場面に戻り、親方にどなられて目覚める幕切れにしていました。

明治の珍演出

安藤鶴夫・述『四代目小さん・聞書』によると、明治の初代・三遊亭円右は、「夢金」を演ずるとき、始めから終わりまで、人物のセリフも地の語りもすべて、人気役者や故人の落語家、講釈師の声色(声帯模写)で通したということです。

これは「夢金」だけに限られたといいますから、それだけこの噺は、芝居がかったセリフが目立つということなのでしょう。

お召し縮緬と蝦夷錦

お召し縮緬(ちりめん)は、横に強い撚りをかけた糸を織り込み、織ったあと、ぬるま湯に入れてしぼり立てた絹織物です。縞、無地、紋、錦紗などの種類があります。

「お召し」とは貴人が着用したことから付いた名称です。蝦夷錦(えぞにしき)は、繻子地に金糸、銀糸と染め糸で雲竜の紋を織り出した錦。満洲(中国東北部)でつくられたものが、樺太、蝦夷(北海道)経由で入ってきたため、この名があります。

文金高島田

日本髪で、島田髷(まげ)の根を高く上げ、油で固めて結ったものです。高尚、優美な髪型で、江戸時代には御殿女中、明治維新後は花嫁の正装となりました。これに似せた「文金風」は男の髪型で、髷の根を上げて前に出し、月代(さかやき)に向かって急傾斜させた形です。

お高祖頭巾

おこそずきん。四角な切地に紐を付けた頭巾で、頭、面、耳を隠し、目だけを出します。婦人の防寒用で、袖頭巾ともいいます。時代劇で、ワケありの女がお忍びで夜出歩くときに、よく紫地のものをかぶっていますね。