ひけしやしき【火消屋敷】ことば 江戸覗き

この項では、武家地を対象とした火消の組織について記します。武家から町人へ。消防の軸足は次第に移っていったことがわかります。

江戸の防火   【RIZAP COOK】

防火対策は江戸の諸政策の要でした。明暦3年(1657)の大火、いわゆる「明暦大火」の後には、大名屋敷の移転、火除け土手や火除け空き地の設置、隅田川東岸の本所や向島の開発など、大江戸を見据えた防火対策が図られていきました。

18世紀初頭の享保改革では、土蔵造り、塗屋造り、瓦葺きによる「燃えない町家」が進められました。それでも、火事はやまず、大きな対策にはなりませんでした。

大名火消   【RIZAP COOK】

消防組織は初期の頃から始まっています。寛永16年(1639)、紅葉山霊廟の火消が生まれました。その後、要所要所だけを守る火消が生まれていきました。江戸城の各所、幕府とかかわり深い寺院、隅田川の架橋などが対象となりました。

寛永20年(1643)には、6万石以下の大名16家を4隊に分けて、10日交代で消防に当たらせる大名火消が設置されました。明暦大火後には、桜田、山手、下谷の3隊に分けた方角火消も生まれました。これも大名火消の中の組織です。

定火消   【RIZAP COOK】

明暦大火の翌年、つまり万治元年(1658)には定火消(江戸中定火之番)が生まれました。これは江戸城を主とする建前ながらも、江戸全体、つまり都市防災を視野に入れた本格的な消防組織でした。

4人の旗本に役宅を与えました。これが火消屋敷と呼ばれたものです。おのおのの役屋敷には造営費銀100貫を与えて整備させました。役宅にはそれぞれ与力6騎、同心30人が付きました。火消人足、つまり臥煙を抱える経費として300人扶持が与えられ、消防器具も与えられました。臥煙は「火事息子」でおなじみですね。目塗りです。

火消屋敷の配置と変遷   【RIZAP COOK】

火消屋敷は、万治元年(1658)には、御茶の水、飯田町、半蔵門外、伝通院前に置かれました。翌2年(1659)には、半蔵口、駿河台、3年(1660)には、代官町に置かれていきました。これを見てわかるように、江戸城の北西側に置かれました。冬の北西風による延焼対策こそが江戸城を守る最優先と考えたようです。

ただし、万治3年(1660)には八代洲河岸を手始めに、元禄8年(1695)には溜池の上、幸橋門外、日本橋浜町にも置かれていきました。つまり、江戸城から江戸全体へと視点を変えていったのです。

とはいえ、日本橋浜町の火消屋敷はその後、宝永元年(1704)に廃止されました。10年とありませんでした。幸橋門外の火消屋敷も、宝永7年(1711)には木挽町に移り、享保9年(1724)には表六番町に移転しました。理由は、幕府の財政難によるものとされています。八王子千人同心に不足分を負わせましたが、これもまもなく廃されました。この頃には町火消が整い出して、武家中心の消防から町人中心の消防へ軸足が移っていったのです。

火消屋敷の機能   【RIZAP COOK】

定火消を勤める旗本は役宅の火消屋敷に、家族で居住しました。たとえば、こんな具合です。八代洲河岸の火消屋敷の例。

敷地には、火消屋敷を中心に取り囲むようにさまざまな建物がありました。北側には与力の組屋敷、役中間部屋、道具置所、長屋、厩などが並び、反対側には同心長屋があります。

臥煙は役中間部屋にいました。よく言われるのは、太い丸太ん棒を枕に寝ていて、いざ火事となると、不寝番が丸太の端っこを木槌叩いて起こしたということ。火消屋敷には火之見櫓が建っており、江戸市中の住所の目安にもなっていました。

参考文献:黒木喬『明暦の大火』(講談社現代新書、1977年)、波多野純『江戸城2』(至文堂、1999年)、黒木喬『江戸の火事』(同成社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
塗屋造り ぬりやづくり
瓦葺き かわらぶき
江戸中定火之番 えどじゅうじょうひのばん
八代洲河岸 やよすかし
目塗り めぬり:火事の際、蔵などに火が入らないように戸などの合わせ目を粘土で塗ってふさぐこと。

町火消 火事息子

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たがや【たがや】演目

川開き。魔封じの花火。ごったがえす両国橋で職人と武士の諍い。江戸前の噺。

あらすじ

安永年間、五月二十八日は両国の川開き。

両国橋の上は見物人でごったがえす。

花火をめでると「玉屋」の声しきり。

本所方向から旗本の一行。

前には二人の供侍、中間は槍を持っている。

「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。

反対側の広小路方向から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。

「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。もっと早く気がつきゃァよかったなあ。といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。しかたがねえ。通してもらおう。すみません」

もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。

恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り、
「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」

たがやはあやまるが、侍は容赦しない。

開き直ったたがや、
「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」

必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。

最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。

突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。

まわりにいた見物人が
「上がった上がったィ。たァがやァい」

底本:三代目桂三木助

【RIZAP COOK】

しりたい

夏休み限定落語  【RIZAP COOK】

生粋の江戸前落語。詳しい起源や原話は不明です。両国の川開きで、花火が年中行事化したのは享保2年(1717)ですから、少なくともそれ以後の作でしょう。

かつては三代目三遊亭金馬、三代目桂三木助などが威勢のよさを競いましたが、現在でも、花火をあてこんで、夏になるとやたらと高座にかかる納涼ばなしです。

底本に使ったのは三木助の速記です。時代を、江戸中期の安永年間(1772-81)、十代将軍家治の治世としています。

元はたがやの首が飛び  【RIZAP COOK】

立川談志は、逆にたがやの首を飛ばすオチでした。これがオリジナルのやり方。そうでなければ、「上がった上がった、たァがやァい」という最後の掛け声の意味がなくなります。

この改変に関するどの解説は判で押したように、以下の通り。

侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、首ならぬ職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった彼らが寄席に大勢来るようになったので、職人仲間のたがやをヒーローにしてハッピーエンドに変え、ニワカ客のごきげんをうかがったため。

本当でしょうか。いくら幕府の権勢が地に落ちたとはいえ、あの恐怖政治の井伊大老が、こんな武士への冒涜を許しておくとも考えにくいもの。案外、季節違いとはいえ、その井伊直弼の首が飛んだこと(1860)がきっかけなのではないか、と勘ぐってしまうのですが。

たがや  【RIZAP COOK】

大道で桶を修理したり、たがを交換したりする職人です。たがとは、桶や樽などの周りを巻いて、外れないように締める竹の輪。極限までばか力でギリギリと締めてある上、竹ですから一度外れた場合の反発力はすさまじいものでしょう。

というわけで、この噺の笠を跳ね飛ばす場面はたいへんにリアルで、無理がありません。

玉屋  【RIZAP COOK】

両国にあった花火屋で、日本橋横山町の老舗、鍵屋の番頭がのれん分けしたものです。以来、業界の勢力を主家筋の鍵屋と二分し、川開きでも「鍵屋」「玉屋」と平等に声が掛かるまでになりましたが、天保14年(1843)、自火を出したとしてお上のおとがめを受け、廃業処分になりました。どうも、鍵屋の陰謀のにおいがプンプンしますが。

ところが、それ以来判官びいきの江戸っ子の同情を一身に集め、店はなくなったのに、掛け声だけは「玉屋」「玉屋」の一点張りで、「鍵屋」のカの字もなくなったのは皮肉です。これも本当かどうかはあやしい話。

柱暦  【RIZAP COOK】

はしらごよみ。たがやのタンカの中に登場しますが、縦長の暦で、柱に張っておくものです。暦のたぐいは、表向き町人や百姓は所持を禁じられていましたが、ないと生活に不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。

千段巻き  【RIZAP COOK】

槍の柄を籐で巻いて、漆を塗った部分です。

手は見せんぞ  【RIZAP COOK】

侍の言う「手は見せんぞ」というのは、時代劇では昔から常套句です。刀を抜く手さばきも見えないほど、素早く斬ってしまう、という脅しです。

両国橋  【RIZAP COOK】

両国橋は万治2年(1659)に架けられました。その2年前の明暦の大火からの教訓によるものです。全長94間(171m)。これは長い。この橋が架かったことから、川向こうの開発が進み、江戸が巨大化していくきっかけとなりました。両国橋は何度も架け替えられました。洪水によるものです。橋のちょっと上流に隅田川が大きく曲がっているため、洪水のとばっちりを受けやすかったのです。上流から流れてくる壊れた橋の流木が両国橋にぶつかって、しまいには両国橋そのものが倒壊してしまうのです。その対策として、ちょっと上流に芥留杭が流れに並んで打たれていました。これが「死神」の舞台となる千本杭です。流木の流れを修正する意図でしたが、大きな洪水では効果ありません。重り石と呼ばれる10貫目(37.5kg)以上の石を東西の橋詰に1000個も置いて、とにかく橋が流されるのを食い止めようとしました。

武蔵国と下総国とを結ぶので「両国」と呼ばれたというのは知られていますが、川の西側は町奉行が支配(管理)で、東側は本所奉行の支配でした。正徳3年(1713)に、本所深川は町奉行支配に変更されました。享保4年(1719)になると、武家地は普請奉行に、道路、橋、水路関係は勘定奉行に支配が移り、本所奉行は廃止となりました。一般行政や町民に請け負わせていた作業の支配は、町奉行の中にに「本所見廻」という役職が設けられました。こうして、18世紀前半には川向こうの深川あたりも都市化していっていたのですね。

両国、両国といっても、両国橋西詰の西両国と東詰の東両国ではだいぶ雰囲気が違っていました。ともに、橋詰には広小路(道幅の広い街路)がありましたが、西両国のほうは芝居小屋、茶店、料理屋、揚弓場などが並ぶただの繁華街でした。東両国のほうは、回向院があって、死者の霊を弔う雰囲気でした。回向院は諸宗山無縁寺といわれる寺院で、明暦の大火、浅間山噴火(死者が上流から多数流れてきた)、安政の大地震など災害死の無縁仏を供養してきました。街の発祥がこんなところからでしたが、鎮魂や悪疫除けから隅田川の花火が享保18年(1733)から始まったり、大相撲の勧進興行が寛政3年(1791)から始まったりして、次第ににぎやかな街に発展していきました。大相撲の勧進興行の始まりは、回向院が浅間山噴火の死者を川から引き揚げて荼毘に付すまでの費用捻出が本音でした。さらには、両国橋東詰の近くには「大山詣り」の水垢離場がありました。西両国はたんなる江戸一の繁華街でしたが、東両国はつねに死者とのかかわりから発展していったのです。

西両国の繁栄  【RIZAP COOK】

両国橋西詰、つまり西両国は江戸で一番の繁華街でした。ここの広小路では、幕府は橋番や水防を請け負う町人に区画を決めて土地を貸し出していました。町人たちは床見世、水茶屋、芝居小屋、髪結床などを商いさせて地代店賃を取っていました。この収入を水防請け負いなど費用に充当していました。床見世の内訳は、古着、煙管、絵草紙、鼈甲細工、扇など。三人兄弟芝居(のちの明治座)、春五郎芝居、勘九郎芝居、おででこ芝居、らん杭芝居などの小屋が軒を並べていました。ここで使われる菰や筵は灘や伊丹から届いた下り酒の樽を覆っていたものです。芝居小屋と筵や菰のイメージは西両国でのイメージだったのですね。

川開き  【RIZAP COOK】

毎年、5月28日(川開き)から8月28日(川仕舞い)までの3か月間は、船宿、茶屋、うろうろ船(移動販売船)などの商売が許可されていました。花火はその間、毎晩打ち上げられました。両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が受け持っていました。天保14年以降は鍵屋の独占ですね。花火には悪疫除けと鎮魂と、江戸っ子の切なる思いがこめられていました。

【語の読み】
三一 さんぴん
生粋 きっすい
籐 とう

【RIZAP COOK】

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