しにがみ【死神】演目

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古典落語の傑作ですが、元ネタはイタリアやドイツにあるそうです。

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「恐がらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより儲かる商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、儲かり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」と、教えられた通りにするとアーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、麹町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」と因果を含めようとしたが、先方は諦めず、「助けていただければ一万両差し上げる」という。

最近愛人狂いで金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」、と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、「それじゃ、一度だけチャンスをやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作登場!

何しろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう、かなり厚い一冊の本になってしまった(「落語『死神』の世界」西本晃二著)ぐらいです。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が洋学者から聞き、落語に翻案したと言われます。

それはともかく、そこの旦那。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。

美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。

日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子をまとった、やせた老人で、亡者の悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死を司る神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀鳶」で演じた死神は、「頭に薄鼠色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子に葱の枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味にヒヒヒヒと笑い、登場人物を入水自殺に誘います。

客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間(たいこ)」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

「死神」のやり方

円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方です。

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【死神 柳家喬太郎】

てっかい【鉄拐】演目

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中国大陸が舞台、奇妙で底抜けに壮大な噺です。

あらすじ

北京の横町に、上海屋唐左衛門という大貿易商がいた。

中国はもちろんのこと、ロンドンやニューヨークにも支店を持つという大金持ち。

毎年正月には世界中から知人、友人、幹部社員などを集めて大宴会を催し、珍しい芸人を集めて余興をやらせることにしていた。

毎年のこととて、余興の種が尽き、いい芸人が集められなくなった。

そこで、番頭の金兵衛が各地を巡り、募ることにした。

金兵衛は山また山を越え、とある山中で道に迷っていると、大きな岩の上にボロボロの着物を着て杖をつき、ヒゲぼうぼうの老人がぼんやり座っている。

聞いてみると、鉄拐と名乗る仙人。

何か変わったことができるかと尋ねると、腹の中からもう一人の自分を吐き出してみせたから、これは使えると金兵衛は大喜び。

渋るのを無理に承知させ、鉄拐の雲に便乗して北京に帰った。

鉄拐の芸は大受けで大評判となり、お座敷や寄席の出演依頼がどっと押し寄せた。

今では当人もすっかりその気になり、上海屋に豪邸をもらい、厄貝、モッ貝、シジミッ貝という三人の弟子を取り、近ごろは女を物色するというありさま。

評判がよくなると、ねたむ者も出る。

「このごろ昔のおんぼろななりを忘れてぜいたく三昧、お高くとまってやたらに寄席を抜きゃあがる。どうでえ、あの野郎をへこますために、鉄拐の向こうを張るような仙人を連れてこようじゃねえか」

そんなわけで引っ張ってきてのが、張果老という仙人。

こちらは、徳利から馬を出す。

新し物好きの世間のこと、鉄拐はあっと言う間に飽きられ、お座敷ひとつかからない。

逆に張果老は大人気。

面白くない鉄拐、どんな芸か見てやろうと、ある晩ライバルの家に潜入してみると、張果老は大酒をのんで高いびき。

この徳利からどうやって馬が出るのかしらんと、口に当てて息を吸い込んだから、たちまち中の馬は徳利から鉄拐の腹の中へ。

虎の子の馬が盗まれて、今度は張果老があっと言う間に落ち目に。

しかし悪いことはできないもので、いつの間にか、犯人は鉄拐だという噂が立った。

「先生、あんたが馬泥棒てえ評判ですが」
「とんでもねえ、ヒヒーン」

腹の馬がいなないて、あっさりバレた。

「それならそれで、今度はあんたの分身を馬に乗せて吐き出すという新趣向を出したらどうだ」

そんな悪知恵を授けた者がいる。

ところが、鉄拐は馬を吐き出せないので、客を腹の中に入れて見物させる。

これが大当たりで、たちまち満員札を口と肛門に張る騒ぎに。

そのうち、酔っぱらった客二人が大げんかを始め、さすがの鉄拐もたまらず吐き出す。

それがなんと、李白と陶淵明。

スヴェンソンの増毛ネット

しりたい

鉄拐仙人

道教の八仙の一人で、李鉄拐といいます。

伝説によると、自宅に肉体を置いたまま魂で華山まで飛び、太上老君(道教の神・老子)に会いましたが、帰ってみると、弟子が肉体を火葬してしまった後で、戻るべきところがなくなり、困りました。

そこで、近所に行き倒れの物乞いがいたのを幸い、その屍骸を乗っ取って蘇生したとか。

鉄拐がボロをまとった姿で登場するのは、この故事に由来します。

張果老

同じく、八仙の一人。

白いロバに乗っているのが特徴です。

このロバ、用のないときは紙のように折りたたんで行李に納められ、水を吹きかけると、たちまち、一日何万里も歩くロバになります。

噺の中の馬は、このロバのことでしょう。

北京の大富豪の「番頭」が金兵衛というのが笑わせるじゃないですか。

この噺が得意だった立川談志は、「上海は新横町2の2上海屋唐右衛門」で演じていました。

談志なりのリアリティーなのでしょうが、目くそ鼻くそを笑うがごときこざかしさ。リアリティーもへったくれもない設定です。

ま、そこがいいのですがね。

李白と陶淵明が最後に出てきますが、両者とも酔いどれ詩人で有名です。

だからこそ、オチの意味がああるわけで。

談志は、大島渚と野坂昭如に代えたりもしていますが、だからといって、まあ、さしたるおかしさがかもしだされるわけでもないでしょう。

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【鉄拐 立川談志】

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しちやぐら【質屋蔵】演目

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質屋が生活と密接だった時代なら、こんな想像力も沸こうというものです。

別題:ひちやぐら(上方) 質屋庫

あらすじ

ある大きな質屋の三番蔵に、夜な夜な化け物がでるという町内の噂を、当のだんなが朝湯で聞いてきた。

「これは信用にかかわるから捨ててはおけない」

早速番頭に寝ずの番で見届けるよう言いつける。

だんなの考えでは、「これはきっと大切な品物を心ならずも質物にした人の、その物に対する執着が蔵に残り、妖怪と化したものだろう」という。

番頭は臆病なので、「とても一人では怖くていけない」と、普段から腕に龍の刺青をして強そうなことばかり言っている出入りの熊五郎に応援を頼みたいと申し出る。

突然だんなが呼んでいると聞いた熊、さてはしくじったかとびくびくして、だんなの前に出ると、言われもしないうちから、台所から酒とタクアン樽、それに下駄を三足盗んだことをぺらぺら白状してしまう。

だんなが渋い顔をしながらも、「今日呼んだのはそんなことじゃない。おまえは強いと聞いているが本当か」と尋ねると、熊五郎、途端に威勢がよくなり、木曽で虎退治をしたとホラを吹くが、化け物のことを聞かされると、急にぶるぶる震えだす。

しかたがないので、逃がさないように店に禁足し、夜になると番頭ともども、真っ暗な土蔵の中にほっぽり込まれる。

二人がガタガタ震えていると、やがて草木も眠る丑三ツ時。

蔵の奥で何かがピカリと光り、ガラガラガラと大きな音。

生きた心地もない番頭と熊、それでも怖いもの見たさでそっとのぞいてみると、何と誰かが相撲を取っている。

行司の声で「片やァ、竜紋、竜紋、こなたァ、小柳、小柳ィ、ハッケヨイ、ノコッタノコッタ……」

「番頭さん、ありゃなんです」
「だんなの言う通り、質物の気が残ったんだ。羽織の竜紋と小柳の帯が相撲を取ったんだ」
「あっ、また出た」

棚の掛け軸がすーっと開く。

よく見ると、横町の藤原さんの質物の、天神さま、つまりは菅原道真公の画像の掛け軸。

仰天していると、衣冠束帯、梅の花を持った天神が現れて、「こちふかばあー、においおこせようめのはなー」と、朗々と詠み上げた。

「こりゃ番頭。藤原方に利上げせよと申し伝えよ。あァあ、また流されそうだ」

しりたい

伊勢屋稲荷に……

落語には、質屋は「伊勢屋」という屋号でたびたび登場します。これは、質商は伊勢出身の者がほとんどだったからです。「伊勢屋稲荷に犬の糞」と江戸名物の一つに挙げられるくらい、江戸にはやたらに質屋が多かったのです。

大工調べ」で、因業大家の源六が奉行に、「その方、質屋の株を持っておるのか?」と脅かされたように、旧幕時代は質屋は株売買による許可制でした。

大きく分けて本質・脇質があり、本質は規模の大きな、正規の質屋。

入質には本人のほかに請け人(連帯保証人)の判が必要でした。

脇質の方は今でいう消費者金融で、請け人がいらない代わりに質流れの期限は一か月。

この噺のオチ(サゲ)にある「利下げ」とは、期限が来たとき、利子を今までより多く払って、質流れを食い止めることです。対語は「利上げ」。詳しくは「おもと違い」をお読みください。

天保年間(1830-44)以後は、期限は八か月に延ばされました。

元は江戸で

安永2年(1773)に江戸で刊行された『近目貫(きんめぬき)』収載の「天神」という小咄が元のようです。

それが上方噺となって「ひちやぐら」に。これが古くから江戸に移されて演じられていました。宇井無愁の『落語の根多』(角川文庫、1976、絶版)でこの噺を検索すると、「し」の項ではなく「ひ」の項にあります。びっくりです。宇井は東京落語を評価しない人で有名でした。

平成5年(1993)、宇井のこの本を私(古木)は上野の古書店で5000円で購入しました。なけなしで。でも、今ではAmazonのマーケットプレイスで100円台で求められます。びっくりです。

演者と演出

熊さんの大言壮語と、いざとなったときの腰抜けぶりの落差は、桂歌丸で聞くとたまらないおかしさです。

六代目三遊亭円生は、戦後大阪の四代目桂文団治に教わって、得意にしていましたが、最後の天神の場面を古風に風格豊かに演じました。

桂歌丸のほか、円生一門に継承され、三遊亭円弥、三遊亭生之助らが演じ、本家大阪では、やはり桂米朝のものでした。

上方のオチは、番頭が「あ、流れる思うとる」と言ってサゲるやり方もありました。

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【質屋蔵 三遊亭円生】

ねこときんぎょ【猫と金魚】演目

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ああ言えばこう言う相手も、落語にかかれば、こんな具合に。

あらすじ

ある商家の番頭。

ああ言えばこう言うで、素直に言うことを聞かないばかりか、かなりピントがずれているので、だんなの悩みのタネ。

金魚の大きいのが二匹いなくなったので問いただせば「あたしは食べません」

「誰が、おまえが食べた、と言った。隣の猫が庭続きだから、縁側に上がって食べるんだから、どこか高いところへ上げておけ」と言いつけると「それじゃ、湯屋の煙突の上へ」

「あたしが眺められない」と文句を付けると「望遠鏡で見れば」と始末に終えない。

ようよう金魚鉢を湯殿の棚の上に置かせて一安心、と思ったら「金魚はどこへ上げましょう」

「金魚鉢と金魚を放したら、金魚は死んじまう、あたしゃ金魚の干物を見たいんじゃない」と叱りつけて、しばらくすると、番頭が悠々と報告に来た。

「実はその、棚へ上げましたらァ、お隣の物干しとつながってるもんですから、猫が入ってまいりまして……」

金魚鉢の中に手を突っ込んで食べてるというから、だんなは大あわて。

猫の衿っ首を捕まえてひっぱたいてやれと命じても、あたしはネズミ年だから、そばに寄ったら食われちまうといやがる。

こんな奴に任せておいたら、いくら買っても一匹残らず猫の栄養になってしまうと頭を抱えて、思い出したのが、横丁の鳶頭の虎さん。

力はあるし、背中に刺青を彫っているし、尻にたくさんの毛が生えているから猫もびっくりするだろうというので、早速呼びにやる。

常日ごろ、だんなのためなら命はいらねえ、たとえ火の中水の中……と豪語している鳶頭だから、何とかしてくれるだろうと思って「おまえさん、猫は恐くないかい」「猫ォ? あたしゃあ名前が虎で、寅年ですよ。世の中に恐いものなんか一つもない。で、猫は何匹で」

「あたしは猫屋をやろうってんじゃないよ。一匹でいいんだから、金魚鉢ィかき回してる奴を捕まえてなぐっておくれ」
「へえ、そいじゃあ、日を改めて」

なんだか、また雲行きが怪しくなってきた。

ともかく、むりやり湯殿に押し込むと「猫、おらァこの横丁の虎ってもんだぞォ。どうだァ」という、虎さんの大声が聞こえる。

そのうち「きゃあー」という悲鳴と金魚鉢を引っくり返した音。静かになったので戸を開けてみると、虎さんはびしょ濡れで目を回し、猫は棚で悠然と顔を洗っている。

金魚は外でピンピン跳ねているから、だんな驚いて「虎さん、しっかりしとくれ。早く猫ォ捕まえてなぐっとくれ」

「あたしゃあもう猫は恐いからイヤだ」
「恐いって、おまえさん、虎さんじゃないか」
「今はこの通り、濡れネズミです」

うんちく

新作落語史上の最高傑作!

「のらくろ」シリーズの作者として一世を風靡した漫画家、田河水泡が、まだ落語作家時代の昭和初期、売り出し中の初代柳家権太楼に書き下ろした「猫」シリーズの第一弾です。

このあと、「猫と電車」「猫とタコ」と続きますが、「金魚」がギャグの連続性と底無しのナンセンスで、もっとも優れています。そのセンスは今聞いても全く古びず、近代新作落語史上、金箔付きの最高傑作と呼んで過言ではないでしょう。

十代目桂文治のが無類におかしく、中でも虎さんの表現が秀逸でした。

橘家円蔵は前半の旦那と番頭のやりとりがテンポよく、軽快に笑わせました。

なお、前半の趣向は「質屋庫」に似ていて、口だけは英雄豪傑の虎さんのキャラクターも「質屋庫」の熊さんと重なるため、何らかのヒントを得ていると思われます。

続編「猫と電車」

校長宅で産まれた六匹目の子猫を、鰹節一本付けて押しつけられた田舎出の用務員が、子猫を風呂敷に隠して満員電車に乗ります。

ところが、いつの間にか帽子の中に入った子猫に小便をかけられ、あわてて降ります。

「車掌さん、今の客、シャッポに猫を隠してた」
「道理で猫をかぶっていた」

「金魚」ほどではありませんが、校長とのやりとりで、

「キミの家にネズミおるかい?」
「校長先生さま、ネズミたべるんでェ?」
「わしのうちに猫がおるよ」
「猫とネズミに相撲をとらせるんでェ?」
「実はァ、子どもが今度、産まれてな」
「お坊ちゃまで?」
「わしの子ではないよ」
「奥様のお子さまで?」
「猫の子じゃよ」
「すると、奥様が猫の子を産んだのでェ?」

こういったトンチンカンなギャグの連続で笑わせます。

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【猫と金魚 八代目橘家円蔵】

ふみちがい【文違い】演目

 

淋菌のついた指でこするとこんな具合に。「風眼」と呼ばれていました。

あらすじ

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて
「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

しりたい

六代目円生の回顧

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(注:もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(女郎屋)がずいぶんありましたもので」

「なかでも覚えておりますのは、新金(しんかね)という楼(うち)、それから大万(おおよろず)、そういうとこは新宿でも大見世(おおみせ)としてあります」

明治末年のころ

この中に出てくる「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井の場所にあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど、女郎に過酷な見世だったといいます。

芸談・円生

以下は、六代目三遊亭円生の芸談です。

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、女殺し。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋(きょうじや)、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。「蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿(ししゅく=非公認の遊郭)の一。飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

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【文違い 三遊亭円生】

みいらとり【木乃伊取り】演目

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その名のとおり、みいら取りがみいらになってしまった噺です。

あらすじ

道楽者の若だんなが、今日でもう四日も帰らない。

心配した大だんなが、番頭の佐兵衛を吉原にやって探らせると、江戸町一丁目の「角海老」に居続けしていることが判明。

番頭が「何とかお連れしてきます」と出ていったがそれっきり。

五日たっても音沙汰なし。

大だんなが「あの番頭、せがれと一緒に遊んでるんだ。誰が何と言っても勘当する」と怒ると、お内儀が「一人のせがれを勘当してどうするんです。鳶頭ならああいう場所もわかっているから、頼みましょう」ととりなすので呼びにやる。

鳶頭、「何なら腕の一本もへし折って」と威勢よく出かけるが、途中の日本堤で幇間の一八につかまり、しつこく取り巻くのを振り切って角海老へ。

若だんなに「どうかあっしの顔を立てて」と掛け合っているところへ一八が「よッ、かしら、どうも先ほどは」

あとはドガチャカで、これも五日も帰らない。

「どいつもこいつも、みいら取りがみいらになっちまやがって。今度はどうしても勘当だ」と大だんなはカンカン。

「だいたい、おまえがあんな馬鹿をこさえたからいけないんです」と、夫婦でもめていると、そこに現れたのが飯炊きの清蔵。

「おらがお迎えに行ってみるべえ」と言いだす。

「おまえは飯が焦げないようにしてりゃいい」としかっても「仮に泥棒が入ってだんながおっ殺されるちゅうとき、台所でつくばってるわけにはいかなかんべえ」と聞かない。

「首に縄つけてもしょっぴいてくるだ」と、手織り木綿のゴツゴツした着物に色の褪めた帯、熊の革の煙草入れといういでたちで勇んで出発。

吉原へやって来ると、若い衆の喜助を「若だんなに取りつがねえと、この野郎、ぶっ張りけえすぞ」と脅しつけ、二階の座敷に乗り込む。

「番頭さん、あんだ。このざまは。われァ、白ねずみじゃなくてどぶねずみだ。鳶頭もそうだ。この芋頭」と毒づき、「こりゃあ、お袋さまのお巾着だ。勘定が足りないことがあったら渡してくんろ、せがれに帰るように言ってくんろと、寝る目も寝ねえで泣いていなさるだよ」と泣くものだから、若だんなも持て余す。

あまりしつこいので「何を言ってやがる。てめえがぐずぐず言ってると酒がまずくなる。帰れ。暇出すぞ」と意地になってタンカを切ると、清蔵怒って「暇が出たら主人でも家来でもねえ。腕づくでもしょっぴいていくからそう思え。こんでもはァ、村相撲で大関張った男だ」と腕を捲くる。

腕力ではかなわないので、とうとう若だんなは降参。

一杯のんで機嫌良く引き揚げようと、清蔵に酒をのませる。

もう一杯、もう一杯と勧められるうちに、酒は浴びる方の清蔵、すっかりご機嫌。

ころあいを見て、若だんなの情婦のかしく花魁がお酌に出る。

「おまえの敵娼に出したんだ。帰るまではおまえの女房なんだから、あくぁいがってやんな」

花魁「こんな堅いお客さまに出られて、あたしうれしいの。ね、あたしの手を握ってくださいよ」としなだれかかってくすぐるので、清蔵はもうデレデレ。

「おい番頭、かしくと清蔵が並んだところは、似合いだな」
「まったくでげすよ。鳶頭、どうです?」
「まったくだ。握ってやれ握ってやれ」

三人でけしかける。

「へえ、若だんながいいちいなら、オラ、握ってやるべ。ははあ、こんだなアマっ子と野良ァこいてるだな、帰れっちゅうおらの方が無理かもすんねえ」
「おいおい、清蔵、そろそろ支度して帰ろう」
「あんだ? 帰るって? 帰るならあんた、先ィお帰んなせえ。おらもう二、三日ここにいるだよ」

しりたい

「みいらとりがみいらに……」

呼びに行った者が誰も帰らないことですが、皮肉なこの噺の結末にはぴったりの演題です。清蔵をいちずに、実直に演じることで最後のオチのドンデン返しが効いてきます。

「みいら」は本来、死体の防腐用の樹液のことで、元はポルトガル語。木乃伊、蜜人とも書きます。それが乾燥死体そのものの意味にに転じたものですが、ことわざの意味との関係は不明です。

円生から談志へ

古くからの江戸前噺です。

戦後、得意にしていたのは六代目三遊亭円生と八代目林家正蔵で、特に円生のものは、人物の描き分けが巧みで、定評がありました。

円生没後は立川談志の得意ネタで、談志は、花魁が権助(清蔵)の上にまたがったりするエロチックな演出を加え、オチは、「こんなに惚れられてんのに、店なんぞに帰れるか」「勘定どうする?」「さっきの巾着よこせ」としていました。

角海老のこと

落語にしばしば登場する「角海老(かどえび)」は、旧幕時代は「海老屋」といい、吉原屈指の大見世、超有名店でした。「角海老」と称するようになったのは維新後です。

「角海老」の創業者は、信州出身の宮沢平吉なる者で、幕末に上京して牛太郎(客引き)から身を起こし、海老屋を買い取って、明治17年(1884年)に「角海老」の看板をあげました。

その屋根の、イルミネーション付きの大時計は明治の吉原のシンボルでした。

日本堤

元和6年(1620)、荒川の治水のため、浅草聖天町から箕輪(三ノ輪)まで築いた堤防です。そのうち吉原衣紋坂までを土手八丁、または馬道八丁と呼びました。

日本堤(にっぽんづつみ)の名の由来は、堤防構築に、在府している全国のすべての大名が駆り出されたことからきたといいます。

落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

【木乃伊取り 立川談志】

しちだんめ【七段目】演目

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生活すべてが芝居の調子。マニアっていうやつは、いつの時代も……。

あらすじ

若だんなが常軌を逸した芝居マニアで、家業そっちのけ。

四六時中芝居小屋に入り浸り、何をやっても芝居のセリフになってしまう。

今日も朝から帰らないので、だんなが番頭に愚痴をこぼしている。

「今日という今日はみっちり小言を言います」とカンカンに怒るのを番頭がなだめているところへ、当の若だんなが意気揚々とご帰還。

しかっても蛙のツラに何とやらで「遅なわりしは拙者が不調法」と忠臣蔵・三段目の判官気取り。

あきれ果てて二階へ追い払うと、早速「とざい、とーざーい」と金切り声を張り上げる。

閉口しただんな、小僧の定吉に止めてこいと命じたが、定吉も悪のりして「やあやあ若だんな、芝居の真似をやめればよし、いやだなんぞとじくねると、とっつかめえて……」と忠臣蔵・道行の鷺坂伴内のパロディー。

これが逆効果で、若だんなは仲間ができたと大喜び。

一緒に芝居をやろうと聞かない。

定吉ももともと芝居狂なので、とうとう乗せられ、忠臣蔵・七段目・茶屋場の平右衛門とお軽の場面を二人でやる羽目に。

やるからには衣装を整えようと若だんな、赤い長襦袢と帯のしごき、手拭いの姉さんかぶりで定吉に女装させたのはいいが、平右衛門の自分が丸腰ではと、床の間の本身の刀を持ち出したから定吉は驚いた。やめると言うのを、決して抜かないからと、刀の鯉口をコヨリで結んでやっとなだめすかす。

足軽の平右衛門が、妹・お軽が仇討ちの大事を知ったことを悟り、秘密露顕を恐れて、自分の手で始末しようと決心するところで、だんだん若だんなの目がすわってきたので、定吉はびくびく。

とうとう恐れていた事態。

「あなた、抜いちゃいけませんったらッ」

もう何も耳に入らない若だんな、コヨリをあっという間にぶっちぎり「妹、こんたの命ァ、兄がもらったッ」

抜き身を振り回すからたまらない。

定吉、逃げる拍子に階段からゴロゴロゴロ。

「おい、定吉、しっかりしろ」「ハア、私には勘平さんという夫のある身」
「馬鹿野郎。小僧に夫があってたまるか。変な格好をして、さては二階であの馬鹿と芝居ごっこをして、てっぺんから落ちたか」
「いえ、七段目」

しりたい

「忠臣蔵」のパロディー

全編、浄瑠璃・歌舞伎でおなじみの「仮名手本忠臣蔵」のパロディーです。

江戸、大坂のような都市部の人々なら、特にこの若だんなのような芝居狂でなくとも、芝居の「忠臣蔵」のセリフや登場人物くらいは隅々まで頭に入っていて、日常会話の一部にさえなっていました。

「とざい、とーざい」は「東西声」といい、「仮名手本忠臣蔵」開幕の前にからくり人形が観客に挨拶する掛け声。

定吉の「芝居の真似を……」は四段目の切、清元舞踊「道行旅路花婿」の道化敵・鷺坂伴内のセリフ、「やあやあ勘平、お軽をこっちへ渡さばよし、いやだなんぞとじくねると……」のもじりです。

騒動の元になる後半の大立ち回りは、七段目・祇園一力茶屋の場で、密書を読んで仇討ちの計画を知った遊女・お軽を、身請けの後に殺そうという大星由良之助(大石内蔵之助)の腹を、お軽の兄・寺岡平右衛門が察し、妹を手に掛けた手柄で、同志に加えてもらおうとする見せ場です。

ほかに登場する芝居

この噺でパロディーギャグに使われる芝居は、「忠臣蔵」以外は演者によって変わります。

若だんなが「菅原伝授手習鑑」・「車引」の「そのくるまァ、やァらァぬゥー」という決めゼリフで人力車を止めたり、おやじにぶたれて、「こりゃこのおとこの、生きィづらァをー」と、「夏祭」の団七のセリフでうなったりするギャグは、大方の落語家が入れますが、観客が歌舞伎をよく理解していないとウケません。

東西とも、芝居のクライマックスは、下座の鳴り物を使って、にぎやかに演じます。

「七段目」演者と演出

芝居ばなしの素養がないとできない噺で、先代三遊亭円歌、先代雷門助六などが軽妙に演じていました。

春風亭小朝、林家正雀などのレパートリーにもなっています。

大阪でも古くから演じられ、二代目立花家花橘が得意にしていたのを桂米朝が継承し、桂吉朝、桂文珍など後進に伝えてました。

最後のオチは、古い型では「七段目から落ちたか」「いえ、てっぺんから」と逆で、米朝はこの型でサゲていました。

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【七段目 柳亭市馬】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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はんたいぐるま【反対車】演目

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威勢はいいのですが、ここまでそそっかしいのはいかがなものか……。

別題:いらち車(上方)

あらすじ

人力車がさかんに走っていた明治の頃。

車屋といえば、金モールの縫い取りの帽子にきりりとしたパッチとくれば速そうに見えるが、さるだんなが声を掛けられた車屋は、枯れた葱の尻尾のようなパッチ、色の褪めた饅頭笠と、どうもあまり冴えない。不運。

「上野の停車場までやってくれ」
「言い値じゃ乗りますまい」
「言い値でいいよ」
「じゃ十五円」

十五円あれば、吉原で一晩豪遊できた時分。

「馬鹿野郎、神田から上野まで十五円で乗る奴がどこにいる」

勝手に値切ってくれと言うから、「三十銭」「ようがしょう」といきなり下げた。

それにしても車の汚いこと。

臭いと思ったら、「昨日まで豚を運搬していて、人を乗せるのはお客さんが始めてだ」と抜かす。

座布団はないわ、梶棒を上げすぎて客を落っことしそうになるわ。

おまけに提灯はお稲荷さまの奉納提灯をかっぱらってきたもの。

どうでもいいが、やけに遅い。

若い車屋ばかりか、年寄りの車にも抜かれる始末。

「あたしは心臓病で、走ると心臓が破裂するって医者に言われてますんで。もし破裂したら、死骸を引き取っておくんなさい」

そう言い出したから、だんなはあきれ返った。

「二十銭やるからここでいい」
「決めだから三十銭おくんなさい」

ずうずうしい。

「まだ万世橋も渡っていないぞ」
「それじゃ上野まで行きますが、明後日の夕方には着くでしょう」

だんなはとうとう降参して、三十銭でお引き取り願う。

次に見つけた車屋は、人間には抜かれたことがないと威勢がいい。

それはいいが、乗らないうちに「アラヨッ」と走りだす。

飛ばしすぎてこっちの首が落っこちそう。

しょっちゅうジャンプするので、生きた心地がない。

走りだしたら止まらないと言うから、観念して目をつぶると、どこかの土手へ出てやっとストップ。

見慣れないので、「どこだ」と聞いたら埼玉県の川口。

「冗談じゃねえ。上野まで行くのに、こんなとこへ来てどうするんだ」

しかたなく引き返させると、また超特急。

腹が減って目がくらむので、川があったら教えてくれと言う。

汽車を追い抜いてようやく止まったので、命拾いしたと、値を聞くと十円。

最初に決めなかったのが悪かったと、渋々出した。

「見慣れない停車場だな」
「へい、川崎で」

また通り越した。

ようやく上野に戻ったら午前三時。

「それじゃ、終列車は出ちまった」
「なあに、一番列車には間に合います」

しりたい

人力車あれこれ

1870年(明治3)、和泉要助ら三人が製造の官許を得て、初お目見えしたのは1875年(明治8)でした。車輪は当初は木製でしたが、後には鉄製、さらにゴム製になりました。登場間もない明治初年には、運賃は一里につき一朱。車引きは駕籠屋からの転向組がほとんど。ただし、雲助のように酒手をせびることは明治政府により禁止されました。明治10年代までは、二人乗りの「相乗車」もあったようです。

落語家も売れっ子や大看板になると、それぞれお抱えの車引きを雇い、人気者だった明治の爆笑王・初代三遊亭円遊の抱え車引きが、あまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードもあります。

全盛時は全国で三万台以上を数え、東南アジアにも「リキシャ」の名で輸出されましたが、1923年(大正12)の関東大震災以後、自動車の時代の到来とともに急激にその姿を消しました。

車屋の談志

この噺の本家は大阪落語の「いらち車」ですが、大正初期には、六代目立川談志(1888-1952)が「反対車」で売れに売れました。住んでいた駒込辺りで「人力車の……」と言いかければ、すぐ家が知れたほど。そこで、ついた異名がそのものずばり「車屋の談志」。その談志も、人力車の衰退後は不遇な晩年だったといいます。

昭和初期には、七代目林家正蔵(1894-1949、本名・海老名竹三郎)の十八番でした。八代目橘家円蔵(1934-2015、本名・大山武雄)のも、若い頃の月の家円鏡だった時代から、漫画的なナンセンスで定評がありました。客が二人目の車屋に連れて行かれる先は、演者によって大森、赤羽などさまざまで、「青森」というのもありました。

人力車の噺いろいろ

人力車は明治の文明開化の象徴。それを当て込んでか、勘当された若だんなが車引きになる「素人人力」、貧しい車屋さんの悲喜劇を描く「大豆粉のぼた餅」、初代三遊亭円左の古い速記が残る怪談「幽霊車」。そういった多くの新作がものされましたが、今では「反対車」のほか、すべてすたれました。

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【反対車 八代目橘家円蔵】

がまのあぶら【蝦蟇の油】演目

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ホント、昔はよく縁日で見かけたもんです、こういうの。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇の油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬が入った容器を手に、刀を差して、白袴に鉢巻、タスキ掛けという出て立ち。

「さあさ、お立会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目山越し笠のうち、物の文色(あいろ)と道理がわからぬ……」

さまざまに言い立てて、なつめという容器の蓋をパッと取り、「手前持ち出したるはこれにあるヒキセンソウはがまの油。……手前持ちいだしたるは四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六のがま。このがまの棲める所は、これより、はァるゥか北にあたる筑波山の麓にて、オンバコという露草を食らう。……このがまの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にがまを追い込む。がまはおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間とろーり、とろりと煮詰めたるのがこのがまの油だ。赤いはシンシャヤシイの実、テレメンテエカにマンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔イボ痔、はしり痔ヨコネガンガサ、その他腫れ物一切に効く。いつもはひと貝で百文だが、今日はおひろめのため、小貝を添え、二貝で百文だ」と、怪しげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬の効能を実証するため、刀で白紙を三十六枚に切ってみせた。

「……かほどに斬れる業物でも、差裏差表へがまの油を塗る時は、白紙一枚容易に斬れぬ。さ、このとおり、たたいて……斬れない。引いても斬れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。触ったばかりでこれくらい斬れる。だがお立会い、こんな傷は何の造作もない。がまの油をこうして付ければ、痛みが去って血がピタリと止まる」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くしたがまの油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上。

ロレツが回らないので支離滅裂。それでもどうにか紙を切るところまではきたが、「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ?」

「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通りがまの油をひと付け付ければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二付け付ければ、今度はピタリと……かくなる上はもうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立会い」
「どうした」
「お立会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路に連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は先代(三代目)金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。金馬は、がまの油の口上をそのまま「高田の馬場」の中でも使っています。

昭和期では三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。大阪では、「東の旅」の一部として桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版ではガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「がまの油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚せい剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレビン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

『昭和なつかし博物学』(周達生、平凡社新書)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。

いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんな。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。

同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ジャズのディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はジャマイカをイメージして彼が作ったものですが、このマンテカは「蝦蟇の油」のマンテエカと同語源です。英軍が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来です。世界は狭いもので。なんともいやはや。

「ガマの油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「がまの油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

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【蝦蟇の油 三遊亭円生】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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さんまいぎしょう【三枚起請】演目

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性悪女にひっかかるのも、お得な人生かもしれませんね。

あらすじ

町内の半公が吉原の女郎に入れ揚げて家に帰らず、父親に頼まれた棟梁が呼んで意見をするが、当人、のぼせていて聞く耳を持たない。

かえってノロケを言いだす始末。あんな実のある女はいない、年季が明けたらきっとおまえさんといっしょになる、神に誓って心変わりしないという起請文も取ってあるという。

棟梁が見てみると「小照こと本名すみ……」

どこかで聞いたような名。

それもそのはず、棟梁も同じ女からの同じ起請文を一枚持っているのだ。

江戸中探したら何千枚あるか知れやしねえとあきれているところへ、今度は三河屋の若だんながやってきて、またまた同じノロケを言いだした。

「セツに吉原の女がオカボレでげして、来年の三月に年季が明けたら、アナタのお側へ行って、朝暮夜具の揚げ下ろしをしたいなぞと……契約書まであるんでゲス」とくる。

「若だんな、そりゃひょっとして、吉原江戸町二丁目、小照こと本名すみ……」
「おや、よくご存じで」

これでエースが三枚、いやババか。

半公と若だんなはカンカンになり、これから乗り込んで化けの皮をひんむいてやると息巻くが、棟梁がそこは年の功、正面から強談判しても相手は女郎、開き直られればこっちが野暮天にされるのがオチ、それよりも……と作戦を授け、その夜三人そろって吉原へ。

小照を茶屋の二階へ呼びつけると、二人を押し入れに隠し、まず棟梁がすご味をきかせる。

起請てえのは、別の人間に二本も三本もやっていいものか、それを聞きに来たと言うと、女もさるもの、白ばっくれる。

「それじゃ、三河屋の富さんにやった覚えはねえか」
「なんだい、あんな男か女かわからない、水瓶に落ちた飯粒みたいなやつ」
「おい、水瓶に落ちたおマンマ粒、出といで」

これで一人登場。

「唐物屋の半公にもやったろう」
「知らないよ。あんな餓鬼みたいな小僧」
「餓鬼みたいな小僧、こちらにご出張願います」

こうなっては申し開きできないと観念して、小照が居直る。

「ふん、おまえたち、大の男が三人も寄って、一人の女にかかろうってのかい。何を言いやがる。はばかりながら、女郎は客をだますのが商売さ。だまされるテメエたちの方が大馬鹿なんだよ」
「このアマぁ、嘘の起請で、熊野の烏が三羽死ぬんだ。バチ当たりめ」
「へん、あたしゃ、世界中の烏をみんな殺してやりたいよ」
「こいつめ、烏を殺してどうしようってんだ」
「朝寝がしたいのさ」

しりたい

起請文

「年季(ねん)が明けたら夫婦になる」は女郎のくどき文句ですが、その旨の誓いを、紀伊国・熊野三所権現発行の午王(ごおう)の宝印に書き付け、男に贈ります。

宝印は、熊野権現のお使いの烏七十五羽をかたどった文字で呪文が記してあります。これを熊野の護符といい、それをのみ込むやり方もありました。

その場合、嘘をつくと熊野の烏(暗に当人)が血を吐いて死ぬといわれていました。

「三千世界の……」

オチの言葉は、倒幕の志士・高杉晋作が、品川遊郭の土蔵相模(「居残り佐平次」)で酒席で酔狂に作ったというざれ唄「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」から直接採られています。

1958年の映画「幕末太陽伝」で、佐平次(フランキー堺)がごきげんでこの唄をうなっていると、隣で連れションをしていた高杉本人(石原裕次郎)。

「おい、それを唄うな。……さすがにてれる」

お女郎の年季

吉原にかぎり、建前として十年で、二十七歳を過ぎると「現役引退」し、教育係の「やり手」になるか、品川などの岡場所に「住み替え」させられました。

明治5年の「娼妓解放令」で、表向きは自由廃業が認められ、この年季も廃止されましたが、実際はほとんどのお女郎が借金のため引き続き身を売らざるを得ず、実態は何も変わりませんでした。

【語の読みと注】
年季 ねん
午王 ごおう

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【三枚起請 古今亭志ん朝】

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

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まつやまかがみ【松山鏡】演目

いまだ自分の姿を見たことのない人々が生活する村の、ちぐはぐなお話です。

別題:羽生村の鏡(上方)

あらすじ

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文のほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋の古葛籠の中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に狂って泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

しりたい

ルーツはインド   【RIZAP COOK】

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経』巻三十五「宝篋の鏡の喩」が最古の出典といわれます。中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も   【RIZAP COOK】

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝、志ん生の長男十代目馬生も演じました。現在では十一代目桂文治がなかなかです。

累伝説のパロディー   【RIZAP COOK】

上方では「羽生村の鏡」と題します。筋は東京と変わりませんが、舞台を累怪談で有名な下総羽生村とします。これは、同村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村   【RIZAP COOK】

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりでなんらかの実話があったのかもしれません。

地頭   【RIZAP COOK】

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび   【RIZAP COOK】

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰   【RIZAP COOK】

大山詣り 」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の愛人になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山詣り」ではおかみさんたちを、「剃刀(坊主の遊び)」ではお女郎さんを、それぞれ丸刈りにしています。

インチキなまり   【RIZAP COOK】

八代目文楽が『芸談 あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

【語の読みと注】
青緡 あおざし:青繦。銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの
貫文 かんもん:銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫
宝篋の鏡の喩 ほうきょうのかがみのたとえ
東頸城郡 ひがしくびきぐん
八咫鏡 やたのかがみ
葛籠 つづら
北越雪譜 ほくえつせっぷ:江戸後期の地誌。鈴木牧之の著作
累伝説 かさねでんせつ

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はまののりゆき【浜野矩随】演目

彫金職人の一途な噺。元は講釈噺。ものつくりの喜びと哀しみが出ています。

別題:名工矩随

あらすじ

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

浜野矩随  【RIZAP COOK】

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚  【RIZAP COOK】

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家です。若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末  【RIZAP COOK】

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。ところが、五代目志ん生はこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。言うまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた出来だと思います。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋  【RIZAP COOK】

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。久保田万太郎は戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家、俳人です。『浅草風土記』などで有名ですが、久保田を師と仰いだ小島政二郎は『円朝』という作品を残しています。

水垢離  【RIZAP COOK】

神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

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あわびのし【鮑のし】演目

与太郎系の噺。賢い女房が金をこさえる手立てにご祝儀をレバレッジする知恵。

別題:鮑貝(上方)

あらすじ

ついでに生きているような、おめでたい男。

今日も仕事を怠けたので、銭が一銭もなく、飯が食えない。

すきっ腹を抱えて、かみさんに
「なにか食わしてくれ」
とせがむと、
「おまんまが食いたかったら田中さんちで五十銭借りてきな」
と言われる。

いつ行っても貸してくれたためしがない家だが、かみさんが
「あたしからだっていえば、貸してくれるから」

その通りになった。つまりは信用の問題。

所帯は全部、しっかり者のかみさんが切り盛りしているのを、みんな知っている。

借りた五十銭持って帰り、
「さあ、飯を」
と催促するとかみさんは、
「まだダメだよ」

今度は
「この五十銭を持って魚屋で尾頭付きを買っておいで」
と命じる。

「今度大家のところの息子が嫁を迎えるので、そのお祝いだと言って尾頭付きを持っていけば、祝儀に一円くれるから、その金で米を買って飯を食わせてやるよ」
と言うのだ。

ところが、行ってみると鯛は五円するので、しかたがないから、あわび三杯、十銭まけてもらい、買って帰るとかみさん、渋い顔をしたが、まあ、この亭主の脳味噌では、と諦め、今度は口上を教える。

「こんちはいいお天気でございます。うけたまりますれば、お宅さまの若だんなさまにお嫁御さまがおいでになるそうで、おめでとうございます。いずれ長屋からつなぎ(長屋全体からの祝儀)がまいりますけれど、これはつなぎのほか(個人としての祝い)でございます」

長くて覚えられないので、かみさんの前で練習するが、どうしても若だんなを「バカだんな」、嫁御を「おにょにょご」、つなぎを「つなみ」と言ってしまう。

それでも
「ちゃんと一円もらってこないと飯を食わせずに干し殺すよ」
と脅かされ、極楽亭主、のこのこと出かけていく。

大家に会うといきなりあわびをどさっと投げ出し、
「さあ、一円くれ」

早速、口上を始めたはいいが、案の定、「バカだんな」に、「おにょにょご」「津波」を全部やってしまった。

腹を立てた大家、
「あわびは『磯のあわびの片思い』で縁起が悪いから、こんなものは受け取れねえ」
と突っ返す。

これでいよいよ干し殺しかとしょげていると、長屋の吉兵衛に出会ったので、これこれと話すと、吉兵衛は
「『あわびのどこが縁起が悪いんだ。おめえんとこに祝い物で、ノシが付いてくるだろう。そのノシを剥がして返すのか。あわびってものは、志州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が布団に鮑を敷いて一晩かかって伸ばさなきゃできねえんだ。それをなんだって受け取らねえんだ。ちきしょーめ、一円じゃ安い。五円よこせ』って、尻をまくって言ってやれ」
とそそのかす。

「尻まくれねえ」
「なぜ」
「サルマタしてねえから」

そこで大家の家に引き返し、今度は言われた通り威勢よく、
「一円じゃ安いや。五円よこせ五円。いやなら十円にまけてやる……ここで尻をまくるとこだけど、事情があってまくらねえ」

のし(右肩の部分)と水引き(中央の紅白糸)

しりたい

五代目志ん生が得意に   【RIZAP COOK】

原話は不詳。上方落語「鮑貝」を明治中期に東京に移植したものです。五代目志ん生が得意とした噺です。亭主が口上を言えずにもどかしいところが笑いを誘いますね。

古いオチは、大家が「丸い『の』の字ではなく、つえを突いたような形の『乃』の字があるが、あれはどういうわけだ?」と聞くと、ぼんくら亭主が「あれはアワビのおじいさんです」というもの。

大阪では、「生貝をひっくり返してみなはれ。裏はつえ突きのしの形になってある」となりますが、「つえ突きのし」という言葉が、戦後、わかりにくくなったので、志ん生が「サルマタしてねえ」という前のセリフを生かして、多少シモがかったオチに改めたのでしょう。

大阪では、さらに「カタカナの『シ』の字のしは?」と聞かれ、「あれは生貝がぼやいているところや」「アワビがぼやくかい」「アワビやさかい、ぼやく。ほかの貝なら、口を開きます」と落とす場合がありますが、なんだか要領を得ません。

磯の鮑の片思い   【RIZAP COOK】

鮑の貝殻が片面だけ、つまり巻き貝なので「片思い」と掛けた洒落です。それだけのことです。「磯の鮑の片思い」「鮑の貝の片思い」と、片思いのたとえに今でも使われます。鮑は古来、食料や儀式にの肴、進物などに用いられました。「鮑玉」「鮑白玉」は、真珠をさします。「鮑結び」は、ひもの飾り結びのひとつで、中央に一つ、左右に二つの輪を作る結び方です。輪は真珠の形状からの発想で和にも通じました。貝殻は猫がえさを食べる、猫の皿になるのが通り相場でした。

昔は「現物」使用   【RIZAP COOK】

熨斗は元来、「あわびのし」だけを指しました。というのも、昔は生のアワビの一片を方形の紙に包み、祝いののしにしたからで、婚礼の引き出物としてあわびのしを贈る習慣は16世紀ごろからあったそうです。

不祝儀の場合は、のしを付けないのが古くからの習わしでした。この噺で語られる通り、あわびのしは志州特産で生産量も少ないため、時代が下るにつれ、簡略なものとして「の」「乃」「のし」などと書いたものが代用されるようになりました。

現在では品物の包みに水引きを掛け、その右肩に小さな黄色い紙を四角い紙で包んだのが本格で高級品。水引きとは、進物用の包み紙などを結ぶのに使う紙糸で、細いこよりに水のりを引いて干し固めたもの。今はほとんどその形を印刷したもので済ますので、あの形がなにを表すのか忘れられているかもしれません。

この噺でのポイントは、仲のよい夫婦が一晩かけてのしをつくる、というところ。「 あわびってものは、志州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が布団に鮑を敷いて一晩かかって伸ばさなきゃできねえんだ 」と吉兵衛は言っています。鮑を下に敷いた布団の上で一晩中睦事をいたした果てのあわびのし、ということです。現代人から見ればずいぶんエロいことしてるなと思えますが、古い日本人はそんなことをふつうにわきまえていて、それ自体、縁起よいと祝う感覚を持ち合わせていました。生産→豊穣→子孫繁栄といった具合にです。明治より以前の日本人が性に対しておおらかだったのですね。かなりおおざっぱですが、日本人の美風でしょう。

「あわびのし」も「のしあわび」も   【RIZAP COOK】

「あわびのし」も「のしあわび」も同じ意味です。鮑の肉を薄く削るように切って(リンゴの皮をむくように長く伸ばして)、それを引き伸ばして干したものです。初めは食用でしたが、儀式用の肴(引き出物、おまけ、つまみ。「さか」は酒、「な」は副食物の意)に使ったり、祝いごとの贈り物に添えたりしました。「打ち鮑」とも。「のし」は「熨斗」で「のす(「伸ばす」の古代語)」の意がありました。

【語の読みと注】
尾頭付き おかしらつき
熨斗 のし
志州 ししゅう:志摩国。三重県の一部
鳥羽 とば:志摩の海岸。鳥羽浦
鮑玉 あわびたま:真珠のこと
鮑白玉 あわびしらたま:真珠のこと

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【鮑のし 古今亭志ん生】

ふなとく【船徳】演目

勘当若だんなの噺。船頭にあこがれる道楽の過ぎた野郎は見上げたもんです。

別題: お初徳兵衛

あらすじ

道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿・大枡(だいます)の二階で居候の身の上の若だんな、徳兵衛。

暇をもてあました末、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」などと、言いだす始末。

親方始め船宿の若い者の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と宣言してしまった。

お暑いさかりの四万六千日。

なじみ客の通人が二人やってきた。あいにく船頭が出払っている。

柱に寄り掛かって居眠りしている徳を認めた二人は引き下がらない。

船宿の女将が止めるのもきかず、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことに。

舟を出したのはいいが、同じところを三度も回ったり、石垣に寄ったり。

徳「この舟ァ、石垣が好きなんで。コウモリ傘を持っているだんな、石垣をちょいと突いてください」

傘で突いたのはいいが、石垣の間に挟まって抜けずじまい。

徳「おあきらめなさい。もうそこへは行きません」

さんざん二人に冷や汗をかかせて、大桟橋へ。

目前、浅瀬に乗りあげてしまう。

客は一人をおぶって水の中を歩いて上にあがったが、舟に残された徳、青い顔をして「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」

底本:八代目桂文楽

しりたい

文楽のおはこ   【RIZAP COOK】

八代目桂文楽の極めつけでした。

文楽以後、無数の落語家が「船徳」を演じていますが、はなしの骨格、特に、前半の船頭たちのおかしみ、「四万六千日、お暑い盛りでございます」という決め文句、客を待たせてひげを剃る、若旦那船頭の役者気取り、舟中での「この舟は三度っつ回る」などのギャグ、正体不明の「竹屋のおじさん」の登場などは、刷り込まれたDNAのように、どの演者も文楽に右にならえです。

ライバルの五代目古今亭志ん生は、前半の、若旦那の船頭になるくだりは一切カットし、川の上でのドタバタのみを、ごくあっさりと演じていました。

この噺は元々、幕末の初代志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を、明治の爆笑王・鼻の円遊こと初代三遊亭円遊がパロディ化し、こっけい噺に仕立てたものです。

元の心中がらみの人情噺は、五代目志ん生が「お初徳兵衛」として時々演じました。

四万六千日さま   【RIZAP COOK】

浅草の観世音菩薩の縁日で、旧暦7月10日にあたります。現在の8月なかば、もちろん猛暑のさ中です。

この日にお参りすれば、四万六千日(約128年)毎日参詣したのと同じご利益が得られるという便利な日です。なぜ四万六千日なのかは分かりません。

この噺の当日を四万六千日に設定したのは明治の三代目柳家小さんといわれます。

「お初徳兵衛浮名桟橋」のあらすじ   【RIZAP COOK】

(上)勘当された若旦那・徳兵衛は船頭になり、幼なじみの芸者お初を送る途中、夕立に会ったのがきっかけで関係を結ぶ。

(中)ところが、お初に横恋慕する油屋九兵衛の策謀で、徳兵衛とお初は心中に追い込まれる。

(下)二人は死に切れず、船頭の親方のとりなしで徳兵衛の勘当もとけ、晴れて二人は夫婦に。

竹屋のおじさん   【RIZAP COOK】

客を乗せて船出した後、徳三郎が「竹屋のおじさあん、今からお客を 大桟橋まで送ってきますゥッ」と橋上の人物に呼びかけ、このおじさんなる人が、「徳さんひとりかいッ?大丈夫かいッ?」と悲痛に絶叫して、舟中の旦那衆をふるえあがらせるのが、「船徳」の有名なギャグです。

「竹屋」は、今戸橋の橋詰、向島に渡す「竹屋の渡し」の山谷堀側にあった、同名の有名船宿を指すと思われます。

端唄「夕立や」に「堀の船宿、竹屋の人と呼子鳥」という文句があります。

渡船場に立って、「竹屋の人ッ」と呼ぶと、船宿から船頭が艪を漕いでくるという、夏の江戸情緒にあふれた光景です。

噺の場面も、多分この唄からヒントを得たものでしょう。

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【船徳 古今亭志ん朝】

いのこりさへいじ【居残り佐平次】演目

映画『幕末太陽傳』元ネタ。痛快な廓噺。佐平治とも記し嫌がられ役の代名詞。

あらすじ

仲間が集まり、今夜は品川遊廓で大見世遊びをして散在しようということになったが、みんな金がない。

そこで一座の兄貴分の佐平次が、俺に任せろと胸をたたく。

大見世では一晩十五円はかかるが、のみ放題食い放題で一円で済まそうという。

一同半信半疑だが、ともかく繰り込んだのが「土蔵相模」という有名な見世。

その晩は芸者総揚げで乱痴気騒ぎ。

さて寝る段になると、佐平次は仲間を集めて割り前をもらい、この金をお袋に届けてほしい、と頼んだ。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「どうせ胸を患っていて、医者にも転地療養を勧められている矢先当分品川でのんびりするつもりなので、おまえたちは朝立ちして先に帰ってくれ」と言う。

翌朝若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次、早速舌先三寸で煙にまき始める。

まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。

心配になってまた催促すると、帰った四人が夜、裏を返しにきて、そろって二日連続で騒ぐから、きれいに明朝に精算すると言う。

いっこうに仲間など現れないから、三日目の朝またせっつくと、しゃあしゃあと「金はねえ」。

帳場はパニックになるが、当人少しも騒がず、蒲団部屋に籠城して居残りを決め込む。

だけでなく、夜になり見世が忙しくなると、お運びから客の取り持ちまで、チョコマカ手伝いだした。

無銭飲食の分働くというのだから、文句も言えない。

器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい気持ちにさせた上、幇間(たいこもち)顔負けの座敷芸まで披露するのだから、たちまちどの部屋からも「居残りはまだか」と引っ張りだこ。

面白くないのが他の若い衆で、「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだからたたき出せ」と主人に直談判する。

だんなも放ってはおけず、佐平次を呼び、勘定は待つからひとまず帰れと言う。

ところがこの男、自分は悪事に悪事を重ね、お上に捕まると、三尺高い木の空でドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれととんでもないことを言いだし、だんなは仰天。

金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いしたが、それでも心配で、あいつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじり。

驚いて問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次てんだ、よく覚えておけ」と捨てぜりふ。

聞いただんな、
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、あなたのおツムがごま塩です」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

居残り  【RIZAP COOK】

居残りは遊興費に足が出て、一人が人質として残ることですが、そんな商売はありません。ところで、「佐平次」も元々は普通名詞だったのです。古くから芸界で「図々しい人間」を意味する隠語でした。

品川遊郭  【RIZAP COOK】

いわゆる四宿(ししゅく=品川、新宿、千住、板橋)の筆頭。吉原のように公許の遊廓ではないものの、海の近くで魚はうまいし、佐平次が噺の中で言うように、結核患者の転地療養に最適の地でした。

おこわ  【RIZAP COOK】

オチの「おこわにかける」は古い江戸ことばで、すでに明治末年には死後になっていたでしょう。

語源は「おおこわい」で、人を陥れる意味でした。

それを赤飯のおこわと掛けたものですが、もちろん今では通じないため、立川談志が「あんな奴にウラを返されたら、後が恐い」とするなど、各師匠が工夫しています。

昔から多くの名人・上手が手がけましたが、戦後ではやはり六代目円生のものだったでしょう。

【RIZAP COOK】

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【居残り佐平次 古今亭志ん朝】

めぐろのさんま【目黒のさんま】演目

おなじみのお噺ですが、ここでは少々古い型を紹介します。

あらすじ】

雲州松江十八万石の第八代城主、松平出羽守斉恒(なりつね)は月潭(げったん)公とも呼ばれ、文武両道に秀でた名君だけあり、在府中は馬の遠乗りを欠かさない。

ある日、早朝から、目黒不動尊参詣を名目に、二十騎ほどを供に従え、赤坂御門内の上屋敷から目黒まで早駆けした。

参詣を終えたが、昼時には間があるので、あちらこちらと散歩。

いつしか目黒不動の地内を出て、上目黒辺の景色のいい田舎道にかかった時、殿さま、戦場の訓練に息の続くまで駆け、自分を追い抜いた者は褒美を取らすと宣言。

自分から走り出したので、家来どもも慌てて後を追いかける。

ところが、腰に大小と馬杓を差したままだから、なかなかスピードが上がらない。

結局、ついて来れたのは三人だけ。

雲州公、松の切り株に腰を下ろして一息つき、遅れて着いた者に小言を言ううち、にわかに腹がグウと鳴った。

陽射しを見ると、もう八ツ(午後二時)過ぎらしい。

その時、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきた。

殿さまのこと、下魚のサンマなどは見たこともない。

家来に、「あれは何の匂いじゃ」とご下問になる。

「おそれながら、下様でさんまと申し、丈は一尺ほどで、細く光る魚でございます。近所の農家で焼いておると存じます」
「うむ、しからば、それを求めてまいれ」
「それは相かないません。下様の下人どもが食します魚、俗に下魚と称しますもの。高位の君の召し上がるものでは」
「そのほうは、治にいて乱を忘れずの心がけがない。もし戦場で敗走し、何も食うものがないとき、下様のものとて食わずに餓死するか。大名も下々も同じ人。下々が食するものを大名が食せんということはない。求めてまいれ」

家来はしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、あばら家で農民の爺さんが五、六本串に刺して焼いている。

これこれで、高貴なお方が食したいとの仰せだから、譲ってくれと頼むと、爺さん、たちまち機嫌が悪くなり、「人にものを頼むのに笠をかぶったまま突っ立っているのは、礼儀を知らないニセ侍だから、そんな者に意地でもやれねえ」と突っぱねる。

殿さまが名君だけに分別のわかった侍だから、改めて無礼を詫び、やっと譲ってもらって御前へ。

松江公、空腹だからうまいのうまくないの。

これ以来病み付きになり、屋敷内に四六時中もうもうと煙が立ち込めるありさま。

しまいには江戸中のさんまを買い上げた。

それでは飽き足らず、朋輩の諸大名に、事あるごとにさんまの講釈を並べ立てるから、面白くないのは黒田候。

負けじと各地の網元に手をまわして買いあさったが、重臣どもが「このように脂の多いものを差し上げては」と余計な気をまわし、塩気と脂を残らず抜いて調理させたから、パサパサでまずいことこの上ない。

怒った黒田候、江戸城で雲州公をつかまえ、あんなまずいものはないと文句を言う。

「して貴殿、いずれからお取り寄せになりました」
「家来に申しつけ、房州の網元から」
「ああ、房州だからまずい。さんまは目黒に限る」

しりたい

元サムライの殿さまばなし   【RIZAP COOK】

古くからよく知られた噺です。

「サンマは目黒に限る」というオチは、落語をご存知ない方でも、一度は耳にされたことがおありでは? もちろん、現在でも前座から大看板まで、頻繁に口演されます。

今回は、明治中期まで活躍した二代目柳家(禽語楼)小さん(1850-98)の、明治24年(1891)の速記を元にあらすじを構成しました。

小さんは延岡の内藤藩士という、れっきとしたサムライでした。

それだけに、「目黒のさんま」を始め、「将棋の殿様」「そばの殿様」など殿様ばなしなら、右に出る者はいなかったとか。

この噺も、小さんが原型を作ったと言ってよく、大筋の演出は現行とそうは違いません。

ただ、オチで小さんが「房州の網元から」としているのを、現在では「日本橋の魚河岸」となるなど、細部はかなり変わっています。

殿さまの正体   【RIZAP COOK】

演者によってもっとも大きく分かれるのが、殿様のモデルです。

二代目小さんのように雲州公とする場合と、三代将軍・家光公とする場合があります。

たとえば、八代目林家正蔵(彦六)は家光公で演じ、六代目三遊亭円生や、門下の現円楽は殿様を特定していません。

目黒一帯は将軍家のお狩場だったところで、家光公が鷹狩りの途中、偶然立ち寄ってサンマを食し、たいへん気に入ったという伝説があります。

雲州公で演ずる場合、二代目小さんは第八代松江藩主・松平斉恒としていますが、以後は現在まで、その父で茶人・食通として名高く、出雲にそばを移植したので有名な、不昧公・治郷(はるさと、1751-1818)とされています。

演出によっては、家来が爺さんともめているところへ、殿さまがニコニコして現れ、「許せよ」と丁重に頼むので、爺さんが機嫌を直すやり方もあります。

もっとも、これは「ただの殿さま」の雲州公だからよいので、将軍家が来てこんなにゴネればハリツケものでしょう。

目黒不動とサンマのこと   【RIZAP COOK】

「目黒のお不動さま」は、現在の東京都目黒区下目黒三丁目の瀧泉寺境内にあります。江戸の五色不動の一つで、境内では富くじの抽選が催され、湯島天神、谷中天満宮とともに江戸三大突き富といわれました。

この噺の爺さんがいた「爺が茶屋」がどこにあったのかは、諸説あって不明です。

サンマはその短刀に似た形から、通称九寸五分。江戸に入荷するのは、九十九里沖で獲れたものがほとんどでした。輸送の関係で生のものはなかなか出回らず、干物で売られることが多かったのです。

この噺でも、重臣たちが心配するように脂が多いものなので、労働量の多い農民や、町人でも、馬喰などの肉体労働者に好まれました。

「また築山を見ようか」   【RIZAP COOK】

以下は榎本滋民の『殺し文句の研究』から。

十代目金原亭馬生が好演した「目黒のさんま」をはじめとして、落語に登場する殿さまは、わがままで下情に暗く苦労知らずと、相場はきまっているが、単純に偏向した戯画化ばかりではないのが、さすがにエスプリのきいた話芸である。最高級魚の鯛など、食べあきていて、ひと箸ほどしかつけないから、勝手元不如意の節、不経済な残りを出さないように、御膳番は仕入れを少なくしている。ところが、たまには御意に召すことがあり、ひと箸つけただけで、「代わりをもて」と命じる。そんなときに限って、あいにく一匹の余分もない。近習がさそくの機転で、築山の美景の鑑賞を促し、殿さまが目をやったすきに、皿の鯛を裏返して、お代わりをと言上する。またひと箸つけた殿さま、さらに御意に召してか、また「代わりをもて」。さあ、もうあとがない。近習が苦悶していると、殿さまは涼やかに、「いかがいたした。また築山を見ようか」。ちゃんと下情をお見通しだったのである。ときには、知らないふりをしなければならないのも、統率者のたしなみの一つだし、部下の手抜きの指摘に当たっては、微笑をたたえたおうようさが好もしい。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

これは、志ん生の長男、馬生のエスプリでした。さすがですなあ。

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

とみきゅう【富久】演目

すべてが崖っぷちの久蔵。富くじ当たって、土俵際でうっちゃった佳話。

【あらすじ

浅草安部川町の長屋に住む幇間の久蔵は、人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。

酒の上での失敗であっちのだんな、こっちのだんなとしくじり、仕事にあぶれている。

ある年の暮れ深川八幡の富くじを、義理もあってなけなしの一分で買った。

札は「松の百十番」。

一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。

久蔵、大神宮さまのお宮(神棚)に札をしまい、
「二番富でけっこうですから当たりますように」
と祈る。
「そうしたら堅気になり、二百三十両で売りに出ている小間物屋の店を買って、岡ぼれしている料亭「万梅」の仲居・お松っつあんを嫁にもらって」
と楽しい空想にふけりながら、一升酒をあおってそのまま高いびき。

夜中にすきま風で目を覚ますと、半鐘の音。

火事は芝金杉見当だという。

しくじった田丸屋のだんなの店はその方角だ。

久蔵、ご機嫌を取り結ぶのはこの時とばかり、押っ取り刀で火事見舞いに駆けつけると、幸い火は回っていない。

期待通りだんなが喜んで、出入りを許されたので久蔵は大喜び。

さっそく、火事見舞い客の張付けに大奮闘するが、ご本家から届けられた酒を見ると、もう舌なめずりで上の空。

だんなが苦笑して
「のむのはいいがな、おまえは酒でしくじったんだから、たんとのむなよ」
と言ってくれたので、大喜びで冷酒をあおっているうち、またもへべれけで寝入ってしまう。

夜更けに、また半鐘の音。

今度は久蔵の家がある浅草鳥越方向というので、だんなは急いで久蔵を起こすと、
「万一のことがあれば必ず店に戻ってこい」
と、ろうそくを持たせて帰す。

とんだ火事の掛け持ち。

久蔵、冬の夜空を急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。

しかたなく田丸屋に引き返すと、だんなは親切に店に置いてくれたので、久蔵は田丸屋の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。

「ああ、そう言えばおれも一枚買ったっけ」
と思い出したが、
「どうもあの札も火事で焼けちまった」
と、あきらめめ半分で見ていると
「一番、松の百十番」
の声。

「あ、当たったッ」

久蔵、卒倒した。

今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。
八百両あれば御の字だ。

「札をお出し」
「札は……焼けちまってないッ」
「当たり札がなければダメだ」
と言われ、
「よくも首っくくりの足を引っ張るようなまねをしやがったな、覚えてやがれ、俺は先ィ死んでてめえをとり殺す」
と、世話人にすごんでみても、ダメなものはダメ。

あきらめきれずに泣く泣く帰る途中、相長屋の鳶頭にばったり。
「火事だってえのに何処へ行ってたんだ。布団と釜は出しといてやった。それにしても、さすがに芸人だ。りっぱな大神宮さまのお宮だな。あれも家にあるよ」
「ど、泥棒ッ。大神宮さまを出せッ」
と半狂乱で喉首を締め上げたから、鳶頭は目を白黒。

やっと事情を聞いて
「なるほど、千両富の当たり札とは、狂うのも無理はねえ。運のいい男だなァ。おまえが正直者だから、正直の頭に神宿るだ」
「へえ、これも大神宮さまのおかげです。近所にお払いをいたします」

底本:八代目桂文楽

しりたい

八代目文楽の名人芸   【RIZAP COOK】

江戸時代の実話をもとに、円朝が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことはわかりません。というか、円朝作というのはうそでしょう。

それよりも、この噺の演者は、なんといっても八代目桂文楽が代表格です。文楽はすぐれた描写力で、冬の夜の寒さ、だんなと幇間の人間関係まで見事に浮き彫りにし、押しも押されぬ十八番に練り上げました。ここでのあらすじも文楽版をテキストにしていますが、強いていえば、人物の性格描写が時に類型的できれいごとに過ぎるのが、この師匠の難点だったでしょう。

そんなことはありませんよ」   【RIZAP COOK】

文楽の「富久」について、榎本滋民が気のきいた一文を残しています。

駆け出そうとする久蔵を、旦那が呼び止めて、類焼した場合には、遠慮なくうちを頼ってこいといってやるのだが、絶品とうたわれた八代目桂文楽の演出では、その前置きに、「そんなことはないよ」と、打ち消して見せる。念頭に浮かびがちな、いまわしい状況を、まず断定的に否認してやることによって、相手の不安の軽減を計る。さらに、「そんなことはない」とくり返してから、柔らかに逆転の「けど」をそえ、「もしものことがあったら、よそへ行くな。うちへ帰ってきておくれよ」という主文に接続させる。窮迫した者に、援助を確約しながら、その表明に、恩着せがましさをもたせまいとつとめるデリカシーが、この簡潔な否定の前置きに、十分働いている。表記の上では、なんの綾も曲もない否定文にしかすぎないものが、練達のいい回しによって、真情あふれる、味わい深いことばになるのも、話芸なればこそである。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

なるほど。鋭く豊かな視点に脱帽です。

志ん生の「媚びない久蔵」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生の「富久」も、文楽のそれとはまったく行き方の違う名品でした。

文楽が久蔵の実直さ、気の弱さを全面に出すのに対し、志ん生は酒乱と貧乏ゆえの居直り、ふてぶてしさを強調しました。志ん生の久蔵は、決してだんなに媚びてはいません。

ながらく貧乏していた志ん生は、久蔵の不安、やるせなさ、絶望感、それを酒に逃避する弱さを、自らの貧乏体験からはじき出して放埓に演じ、それが観客を勘違いさせて感動に結び付けていました。評論家諸氏は「志ん生は貧乏のどん底だった」といったりしますが、どうも違和感があります。たしかに「どん底」ではあったのかもしれませんが、「貧苦」とは無縁です。どこか楽しんでいたふしもあり、本人は「貧困」「貧窮」とは異なる次元での楽観した生活だったように思えます。

火事で家に急ぐ場面でも、文楽は「しょい、しょい、しょいこらしょっ」と様式的。志ん生は「寒い寒い、寒いよォ」と嘘も飾りもない裸の人間そのまま。両者の違いがはっきり出ています。

浅草阿部川町   【RIZAP COOK】

東京都台東区元浅草三、四丁目から寿一、二丁目。町名主が駿河・阿部川から移住してきたことから、この名があります。

もともと寺社地だったところが町屋になったためか、今でもこのあたりは寺ばかりです。江戸の頃は、裏長屋や同心などの御家人の住居が多く、正徳3年(1713)、町奉行所の直轄御支配地になっています。

大神宮さまのお宮   【RIZAP COOK】

大神宮とは伊勢神宮のことです。「神宮」はなにがしか天皇家と関係がある、という意味です。こんなこと、ガッコ―ではおせえてくれませんな。

伊勢神宮というのは、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)をあわせて総称です。内宮は天照大神をまつり、外宮は豊受大御神をおまつっています。この神さま天照大御神の食事係りです。さらには、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。そこまで敷衍されるのは、この神さま、じつはお稲荷さまと同一神だともいわれています。その話はいずれどこかの項目で。

さて。

この噺の大神宮さまとは伊勢の神さまを祭る神床をさします。歳末になると家々に回ってくる伊勢神宮の御師が神床を配ります。御師は旧年のお祓いをしに回ります。御師とは下級の神職者で、全国を分担して巡回していたようです。御師は来年の御札(神符、大麻)も配りますから、この来年用のを神棚にまつるのです。神棚はどんな貧しい長屋住まいにもあったようです。

大神宮信仰は、江戸では水商売や芸人に多くあったといわれています。縁起をかつぎ、霊験に誓い、大神宮の神床をおのれの経済力以上に大きなものをまつったりしていました。

神床は伊勢神宮の神明造を模したもので、これを「大神宮の御宮」と呼んでいました。

江戸の末期になると、都市部の町人に経済力が備わって、伊勢参宮ができるほどになりました。とはいえ、生涯一度のもので、大半の人々には夢のまた夢。江戸にいながら参拝できるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたのがこれらの品々です。

それすら高価なので、買うのは芸者や幇間など花柳界の者が中心。芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買う習わし、というのが本心だったようです。見栄を張って生きているのですが、富くじはこのあたりに隠しておくのが通り相場だったようです。

【RIZAP COOK】

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かえんだいこ【火焔太鼓】演目

道具屋の噺。古い太鼓がお大名に三百両で売れた。夫婦はびっくりにんまり。

あらすじ

道具屋の甚兵衛は、女房と少し頭の弱い甥の定吉の三人暮らしだが、お人好しで気が小さいので、商売はまるでダメ。

おまけに恐妻家で、しっかり者のかみさんに、毎日尻をたたかれ通し。

今日もかみさんに、市で汚い太鼓を買ってきたというので小言を食っている。

なにせ甚兵衛の仕入れの「実績」が、清盛のしびんだの、清少納言のおまるだの「立派」な代物ばかりだから、かみさんの怒るのも無理はない。

それでも、買ってきちまったものは仕方がないと、定吉にハタキをかけさせてみると、ホコリが出るわ出るわ、出尽くしたら太鼓がなくなってしまいそうなほど。

調子に乗って定吉がドンドコドンドコやると、やたらと大きな音がする。

それを聞きつけたか、赤井御門守(あかいごもんのかみ)の家臣らしい身なりのいい侍が「コレ、太鼓を打ったのはその方の宅か」。

「今、殿さまがお駕籠でお通りになって、太鼓の音がお耳に入り、ぜひ見たいと仰せられるから、すぐに屋敷に持参いたせ」

最初はどんなお咎めがあるかとビビっていた甚兵衛、お買い上げになるらしいとわかってにわかに得意満面。

ところがかみさんに
「ふん。そんな太鼓が売れると思うのかい。こんなに汚いのを持ってってごらん。お大名は気が短いから、『かようなむさいものを持って参った道具屋。当分帰すな』てんで、庭の松の木へでも縛られちゃうよ」
と脅かされ、どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で押しつけてこいと家を追い出される。

さすがに心配になった甚兵衛、震えながらお屋敷に着くと、さっきの侍が出てきて
「太鼓を殿にお目にかけるから、暫時そこで控えておれ」

今にも侍が出てきて「かようなむさい太鼓を」ときたら、風のようにさっと逃げだそうと、びくびくしながら身構えていると、意外や意外、殿様がえらくお気に召して、三百両の値がついた。

聞けば「あれは火焔太鼓といい、国宝級の品」というからまたびっくり。

甚兵衛感激のあまり、百五十両まで数えると泣きだしてしまう。

興奮して家に飛んで帰ると、さっそく、かみさんに五十両ずつたたきつける。

「それ二百五十両だ」
「あァらま、お前さん商売がうまい」
「うそつきゃあがれ、こんちくしょうめ。それ、三百両だ」
「あァら、ちょいと水一ぱい」
「ざまあみゃあがれ。オレもそこで水をのんだ」
「まあ、おまえさん、たいへんに儲かるねェ」
「うん、音のするもんに限ラァ。おらァこんだ半鐘(はんしょう)を買ってくる」
「半鐘? いけないよ。おジャンになるから」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

おジャン  【RIZAP COOK】

オチの「おジャン」は江戸ことばで「フイになる」こと。江戸名物の火事の際、鎮火するとゆるく「ジャン、ジャン」と二度打って知らせたことから、「終わり」の意味がついたものです。

戦後この噺を専売にしていた五代目古今亭志ん生が前座時分、神田の白梅で聞き覚えた初代三遊亭遊三の演出では、実際に半鐘を買ってしまい、小僧に叩かせたので、近所の者が店に乱入、道具はメチャメチャで儲けが本当におジャンという「悲劇」に終わっています。

この噺は随所にギャグ満載で、「本物の火焔太鼓は高さ3mを超える化け太鼓だから、とても持ち運びなどできない」という真っ当な批判など、鼻で吹き飛ばすようなおもしろさがあります。

実際、長男の先代馬生がそのことを言うと、志ん生は「だからてめえの噺はダメなんだ!」としかったといいます。

二男の志ん朝は、甚兵衛の人間描写・心理も掘り下げ、軽快さと登場人物の存在感では親父まさりの「火焔太鼓」に仕上げて、後世に残しました。

火焔太鼓の急所  【RIZAP COOK】

最後の、甚兵衛がこれでもかと金をたたきつけ、神さんが逆にひっくり返るところがクライマックスでしょう。

志ん生独自の掛け合いのおもしろさ。「それ百両だ」「あーら、ちょいと」「それ百五十両だ」「あーら、ま」

畳み掛けるイキは無類。志ん朝だと序幕でかみさんの横暴ぶりを十分に強調してありますから、この場は、何年も耐えに耐えてきた甚兵衛のうっぷんが一気に爆発するようなカタルシスがあります。

火焔太鼓のこばなし  【RIZAP COOK】

まだまだ無数にあります。まずは一度聞いてみてください。

その1

(太兵衛=甚兵衛)「金は、フンドシにくるんで」

(侍)「天下の通用金を褌にくるむやつがあるか」

(太)「どっちも金です」

                        (遊三)

その2

(甚兵衛)「この目を見なさい。馬鹿な目でしょう。これはバカメといって、おつけの実にしかならない」


(志ん生)

その3

(甚兵衛)「顔をごらんなさい。ばかな顔してるでしょ。あれはバカガオといって、夏ンなると咲いたりなんかすンですよ」


(志ん朝)

その4

(かみさん)「おまいさんはね、人間があんにゃもんにゃなんだから、自分てえものを考えなくちゃいけないよ。血のめぐりが悪いんだから、人間が少し足りないんだからって」

                         (志ん生) 

   
世に二つ  【RIZAP COOK】

実際は、「(せいぜい)世に(一つか)二つ(しかない)という名器」ということですね。志ん生も含め、明治生まれの古い江戸っ子は、コトバの上でも気が短く、ダラダラと説明するのを嫌い、つい表現をはしょってしまうため、現代のわれわれにはよく通じないことが、ままあります。

これを「世に二つとない」と補って解釈することも可能でしょうが、それではいくらなんでも意味が百八十度ひっくり返ってしまうので、やはり前者程度の「解読」が無難でしょう。

もっとしりたい

五代目古今亭志ん生が、神田白梅亭で初代三遊亭遊三のやった「火焔太鼓」を聞いたのは、明治40年(1907)ごろのこと。前座なりたてのころだったらしい。それから約30年後、志ん生はじっくり練り直した「火焔太鼓」を演じる。世評を喝采させて不朽の名作に仕立て上げてしまった。とはいえ、全編にくすぐりをてんこ盛りにした噺にすぎない。噺の大筋は遊三のと変わっていないのだが。海賀変哲は、この噺を「全く以ってくだらないお笑いです」と評している。遊三の専売だったそうだ。遊三のは、太鼓でもうけたあとに半鐘を買ってきて小僧がジャンジャン鳴らしたら、近所の人が火事と間違えて店に乱入。飾ってあった道具はめちゃくちゃに。「ドンと占めた太鼓のもうけが半鐘でおジャンになった」というオチになっている。五代目桂文楽は、火事のくだりで、懐からおもちゃのまといを取り出して振るという所作をしていたそうだ。大正のころのこと。うーん、こんな芸で受けたのだろうか。志ん生のは、金を差し出してかみさんを驚き喜ばせるくだりで笑いがピークに達したところで、すーっと落とす筋の運び。見事に洗練されている。遊三のでは、甚兵衛ではなく銀座の太兵衛だ。お殿さまは赤井御門守、侍は平平平平(ひらたいらへっぺい)。落語世界ではお決まりの面々である。それを、志ん生は甚兵衛以外名なしで通した。おそらく、筋をしっかり聞いてほしいというたくらみからだったのだろう。リアリティーなどどうでもいいのだ、この噺には。火焔太鼓とは、舞楽に使うもの。太鼓の周りが火焔の文様で施されている。一般に、面の直径は6尺3寸(約2m)という。まあ、庶民には縁のなさそうな代物だ。志ん生の長男・金原亭馬生が「火焔太鼓ってのは風呂敷で持っていけるようなものじゃないよ、おとっつぁん」と詰め寄ったという逸話は、既出の手垢のついた話題だ。遊三の「火焔太鼓」でも、太兵衛は風呂敷でお屋敷に持参している。志ん生は遊三をなぞっているわけだから、当然だ。考証や詮索にうつつを抜かしすぎると、野暮になるのが落語というもの。リアリティーを出すために太鼓を大八車に載せては、それこそおジャンだ。この噺の眼目は別のところにあるのだろうから。

古木優

【RIZAP COOK】

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【RIZAP COOK】

おなおし【お直し】演目

廓噺。吉原育ちの男女が切羽詰まって商売を。辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「蹴転」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「蹴転はおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい】

蹴転  【RIZAP COOK】

蹴転、ケコロというのは、吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。「蹴転ばし」の略。「蹴倒し」ともいいました。すぐに寝る意味で、そういう意がこめられたうえでの最下級なのですね。泊まりはなくて百文一切り、所要時間は今の時計で10分程度だったといいます。10分では短すぎるので、たいていの客は改めて延長を希望します。これが「お直し」です。裏路地の棟割り長屋のような粗末な木造の、4尺5間の間口、2尺の戸、2尺5寸の羽目板、3尺の土間、これら全部含めても2畳ほどの狭い部屋で商売をするのです。「切り見世」「局見世」と呼ばれていました。吉原にかぎらず、岡場所にはあったものですが、吉原で蹴転は、お歯黒どぶ(囲いの下水)の岸にあったので、「河岸見世」と呼ばれていました。吉原の蹴転は寛政年間(1789-1801)にはもう絶えたようです。寛政改革では吉原が大打撃をこうむっていますから、そのさなかにつぶされていったのですね。

切り見世は 突き放すように いとまごい

お直しを 食らい素百の さて困り

銭がなけ よしなと路地へ 突き出され

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町2丁目南側、「お歯黒どぶ」といわれた真っ黒な溝に沿った一角を本拠にしていました。「羅生門」とは、蹴転が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人・渡辺綱が鬼女の隻腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。「一度つかんだら放さない」というニュアンスが込められているのがミソです。こわごわとしたかんじがしますね。表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、客をすってんてんにひんむいてしまうという、魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生が復活させ、昭和31年度(1956年)の芸術選奨を受賞しました。志ん生亡き後は、次男の志ん朝がさらに磨きのかかった噺にこさえていました。

【語の読みと注】
蹴転 けころ:最下級の商売女性
一切り ひときり:一段落
切り見世 きりみせ:蹴転がいる場所
局見世 つぼねみせ:蹴転がいる場所
河岸見世 かしみせ:吉原の蹴転がいる場所
素百 すびゃく:百文ぽっきり

【RIZAP COOK】 

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【お直し 古今亭志ん朝】

さいぎょう【西行】演目

佐藤義清とは西行のこと。染殿内侍との逢瀬はほどほどに。ご教訓めいたバレ噺。

あらすじ

遍歴の歌人として名高い西行法師。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達し、気の毒に思しめして、佐藤義清あてに御文をしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。

西行、もとは佐藤兵衛尉義清という禁裏警護の北面の武士だった。

染殿内侍が南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」と詠まれたのに対し、義清が「一羽にて千鳥といへる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。

「佐藤さん、郵便」というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。

喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」とある。

「はて、この意味は」と思い巡らしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。

この世にては逢わずというから、今夜は逢われないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。

三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。地に実は、草木も露を含んだ深夜。人間絶えし後は丑三ツ時。

西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂で待っていろということだろう、と気づいた。

ところが義清、待ちくたびれてついまどろんでしまう。

そこへ内侍が現れ「我なれば鶏鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみにけり」と詠んで帰ろうとした途端に義清、危うく目を覚まし、「宵は待ち夜中は恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返した。

これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねて、翌朝別れる時に義清が、「またの逢瀬は」と尋ねると内侍は「阿漕であろう」と袖を払ってお帰り。

さあ義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。

歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。

諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が、「ハイハイドーッ。さんざん前宿で食らやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」。

これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」

「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

しりたい

阿漕   【RIZAP COOK】

阿漕とは、 

伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ

という「古今六帖」の古歌から。

阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。「阿漕」には当初は「たびかさなる」という意味で使われていました。それが江戸時代に入ると転じて「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」意味に変わりました。

阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸。伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。それを、病気の母を思い、平次なる男が禁断を犯して魚を取ったたまに簀巻きにされたという伝説が残りました。ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』(勢州阿漕浦)などがつくられました。先行作品に能『阿漕』や御伽草子『阿漕の草子』がありますが、これらには「平次」の名はありません。「阿漕」は歌枕として残りました。

染殿内侍   【RIZAP COOK】

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえてぴしゃりと言い渡したわけです。

馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのですが、西行先生、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、「二回もさせたげたのに、未練な男ね」と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。

このあたりが落語の機微で、歌をひねくりまわしているうちにいつの間にかエロ噺と化しているのですね。セックスといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。なるほど。見習いたいものです。

染殿内侍という女性が実在したのかどうかしらはっきりしません。染殿内侍が登場する『大和物語』や『伊勢物語』から察すれば、在原業平と同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。

永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。

それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。

在原業平には3人の息子がいたとされています。三男滋春の母親が染殿内侍だとされています。これは『伊勢物語』の冷泉家流古注本に記されています。文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりもそういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが大切なのです。少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。

染殿内侍は在原業平と契った女性ということになります。これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。

染殿というのは、藤原良房の邸宅をさします。京の都は、「一条大路の南、正親町小路の北、京極大路の西、富小路の東」のあたりにあったそうです。良房は、臣下としては初の太政大臣、摂政となり、藤原北家繁栄のきっかけを作った人です。染殿大臣などと呼ばれていました。その娘の明子は文徳天皇に入内して、のちの清和天皇を生みました。明子は染殿后と呼ばれていました。染殿后は美麗であったそうで、『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。

内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のことです。染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮での仕事をつかさどっていたんだそうです。斎宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇名代です。内侍と伊勢神宮とはかかわり深かったようです。

「隠者の歌詠み」として後世に名を残した西行。その大先輩が在原業平といえるでしょう。「むかし男ありけり、その男、身をえうなきものに思ひなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで貴族の間では最高の教養文芸でした。業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。流浪する業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。聖と俗を両有しているのですね。その業平の思い人の一人が染殿内侍です。これはすごい。業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(ドクターノオの)か、はたまた若林映子さん(007は二度死ぬの)といったところでしょう。あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。

なんと美しい若林映子さん。この方は小三治師匠の同級生かも

西行の存在   【RIZAP COOK】

西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。残した歌は約2300首。歌人の最高峰です。

江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。みんなが知っている教養を肴に笑う、という趣向だったのでしょう。

西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。『西行物語』と『選集抄』がその双璧です。さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麿と双璧です。蓑笠をつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。そんな逸話の一つ。西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付け鬢姿で、つまり俗人のなりで参宮したといわれています。

なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

存疑の歌といわれています。見えない神さまに接して落涙するというもの。われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。伊勢では二見浦に庵を結び、地元の神職者荒木田氏と交わったそうです。

と、このように記していって、見えてくるものがありました。西行、伊勢、和歌、女性、浦……。江戸人が抱く西行のイメージ。そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達、融通無碍な雰囲気がいかにも江戸人の西行なのでしょう。

西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人と形成されていきました。寺院や宗派を超えて(高野山の真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。

この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の痴楽がたまに演じていました。いまや、どうでもよいことですね。

参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって–『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)

【語の読みと注】
染殿内侍 そめどののないし
佐藤義清 さとうのりきよ:西行のこと
阿漕 あこぎ:阿漕ヶ浦
藤原良房 ふじわらのよしふさ
正親町小路 おおぎまちこうじ
染殿大臣 そめどののおとど
明子 あきらけこ、あきらけいこ
入内 じゅだい:嫁ぐ
染殿后 そめどののきさき

【RIZAP COOK】

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【西行 三代目三遊亭円歌】

はつねのつづみ【初音の鼓】演目 

歌舞伎『義経千本桜』中、有名な「狐忠信」のパロディー です。

別題:ぽんこん

【あらすじ】

骨董好きの殿さまのところに、出入りの道具屋・金兵衛が怪しげな鼓を売り込みに来る。

側用人の三太夫に、これは下駄の歯入れ屋のじいさんが雨乞いに使っていた鼓で、通称「初音の鼓」という。

「じいさんが今度娘夫婦に引き取られて廃業するので形見にもらった」と説明。

これを殿さまに百両でお買い上げ願いたいと言うから、三太夫はあきれた。

なにしろこの金兵衛、先日も真っ黒けの天ぷら屋の看板を、慶長ごろの額と称して、三十両で売りつけた「実績」の持ち主。

金兵衛、殿さまの身になれば、「狐忠信」の芝居で名高い「初音の鼓」が百両で手に入れば安いもので、一度買って蔵にしまってしまえば、生涯本物で通ると平然。

「もし殿が、本物の証拠があるかと言われたら、どうする」
「この鼓を殿さまがお調べになりますと、その音を慕って狐がお側の方に必ず乗り移り、泣き声を発します、とこう申し上げます」
「乗り移るかい」
「殿さまがそこでポンとやったら、あなたがコンと鳴きゃ造作もないことで」

三太夫、
「仮にも武士に狐の鳴きまねをさせようとは」
と怒ったが、結局、一鳴き一両で買収工作がまとまる。

殿さまポンの三太夫コンで一両。

ポンポンのコンコンで二両、というわけ。

早速、金兵衛を御前に召し連れる。

話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。

「これこれ、そちはただ今こんと申したが、いかがいたした」
「はあ、前後忘却を致しまして、いっこうにわきまえません」

「ポンポン」
「コンコン」
「また鳴いたぞ」
「前後忘却つかまつりまして、いっこうに」
「ポンポンポン」
「コンコンコン」
「ポンポン」
「コンコンコンコン」
「これ、鼓はとうにやめておる」
「はずみがつきました」

「次の間で休息せよ」
というので、二人が対策会議。

いくつ鳴いたか忘れたので、結局、折半の五十両ずつに決めたが、三太夫、鳴き疲れて眠ってしまい、ゆすっても起きない。

そこへ殿さまのお呼び出し。

一人で御前へ通ると、殿さまが
「今度はそちが調べてみい」

さあ困ったが、今さらどうしようもない。

どうなるものかと金兵衛が「ポン」とたたくと、殿さまが「コン」。

「殿さま、ただ今お鳴きに」
「何であるか、前後忘却して覚えがない」
「ありがとうさまで。ポンポンポン、スコポンポン」
「コンコンコン、スココンコン」
「ポンポン」
「コンコン……。ああ、もうよい。本物に相違ない。金子をとらすぞ」

「へい、ありがとうさまで」

金包みを手に取ると、えらく軽い。

「心配するな。三太夫の五十両と、今、身が鳴いたのをさっ引いてある」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

歌舞伎のパロディー 【RIZAP COOK】

古風な噺で、歌舞伎や文楽のファンにはなじみ深い『義経千本桜』の「狐忠信」のくだりのパロディーです。「初音の鼓」はその前の場「吉野山」で、落ち行く義経が愛妾の静御前に形見に与える狐革の鼓をさします。

義経は、逃避行に足手まといとなるだろうろ、静御前を吉野の山中に置き去りにします。その際、初音の銘のある鼓を形見の品として静に与えました。紫檀の胴に羊の皮を張った中国渡来の名器です。とは、『義経記』に載っています。

狐忠信とのかかわり   【RIZAP COOK】

『義経記』記載から転じて『義経千本桜』では、鼠退治に功労あった狐の皮でつくったその鼓を、親への愛惜の情を抱く子狐が、義経の忠臣、佐藤忠信に化けて静(初音の鼓を所持している)を守りながらにお供をするという筋立てに変えています。鼓を奪おうとしますが、見破られ、静の打つ鼓の音で正体を現すのです。子狐が涙ながらに述懐するくだりこそ、「狐忠信」の通称で知られる名場面でしょう。

「初音」の意味は、その浄瑠璃の詞章に「狐は陰の獣ゆえ、雲を起こして降る雨の、民百姓が喜びの声を初めてあげしより」に由来します。噺の中で下駄屋の爺さんが雨乞いをしたのは、天気だと皆わらじばかり履き、下駄の歯がすりきれないから。

林家彦六がよく演じましたが、立川談志も持ちネタにしていました。殿さま、金兵衛、三太夫みんな仲良しで、誰もがうそを承知で遊び戯れているような、ほのぼのと捨てがたい味わいが。別話の「継信」も、別題が「初音の鼓」なので、区別してこの噺は「ぽんこん」とも呼ばれています。

さらに猫忠も   【RIZAP COOK】

「初音の鼓」はここまでの筋立てですが、三味線に張った皮の猫の子と変えたのが「猫の忠信」(猫忠)となります。酒を「ただ飲む」猫の忠信、駿河屋の次郎吉で駿河次郎、亀屋の六兵衛で亀井六兵衛、弁慶橋に住む吉野屋の常兄いで義経、常磐津文字静で静御前というふうに、登場人物も「義経記」や「義経千本桜」に沿ってあります。

猫忠

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【初音の鼓 三遊亭円生】

ひつけとうぞくあらため【火付盗賊改】ことば 江戸覗き

現代では町奉行よりも有名になった火付盗賊改。池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズでは「火盗改」とも略されています。この項では、火付盗賊改の実際について記します。落語には出てきませんが、江戸を覗くということでおつきあいください。

江戸の治安  【RIZAP COOK】

町奉行」や「与力、同心」の項目で記したように、江戸の町方は南北の与力、同心を合わせても300人にも満たない数で100万都市の治安と行政を受け持っていたのですから、行き届きませんでした。それを補う警察組織として、放火犯や盗賊団を取り締まる凶悪犯罪専門を受け持つのが火付盗賊改でした。

池波は小説では長谷川平蔵を「長官」と記したりしていますが、こんなことばは当時はあるわけもなく、「おかしら」「かしら」と呼ばれていたことでしょう。旗本から任命される「御先手頭」の中から火付盗賊改を別に任命していたのです。

御先手組  【RIZAP COOK】

若年寄の支配(管轄)に属し、江戸城本丸の各門の警備、将軍が城外出かける際の警固(警護)を任務と「御先手組」の長を「御先手頭」といいました。「先手物頭」とも。このような職務を江戸時代には「御先手」と呼んでいました。わりと小禄の旗本から成っています。この人たちは戦時では歩兵大隊として最前線で白兵戦の働きをするはずなのですが、平和な時代には使いようもなく、一部は犯罪捜査を受け持ったわけです。自衛隊が災害救助しているようなものでしょうか。御先手組は先手弓組と先手鉄砲組の二分構成でしたが、それとは別に「火付盗賊改」のグループがあり、江戸市中の重犯罪取り締まりに当たっていました。

成り立ちと変遷  【RIZAP COOK】

はじまりは寛文5年(1665)で、幕府が先手頭の水野守正に関東の各地にはびこる強盗一味の捕縛を命じたことからです。

天和3年(1683)、火付改が新設され、先手頭の中山勘解由が兼務を命じられました。元禄12年(1699)には火付改も盗賊改も廃止となりましたが、3年後の元禄15年(1702)、火付改が、翌16年(1703)には盗賊改がまたも設けられました。

宝永6年(1709)には、両改方が統合されて、火付盗賊改が生まれました。享保3年(1718)には博奕改も兼職となり、こうして、火付盗賊改は火付、盗賊、博奕の犯罪をまとめて取り締まることになりました。これでうまくいくかと思いきや、享保10年(1725)には博奕犯は町奉行の管轄となり、火付盗賊改はまたも火付と盗賊だけを管轄することになりました。この組織は、慶応2年(1866)に廃止となるまで江戸の治安を受け持ちました。

実際の活動  【RIZAP COOK】

火付盗賊改は、与力10騎、同心50人ほどで構成されていました。その下に岡引きと下引きが組み込まれているのは町奉行と同じです。幕末には、岡引きは400人、下引きは1000人いたそうです。岡引きと下引きは親分子分の関係です。犯罪捜査は彼らに支えられていましたが、無給の彼らは博奕場を開いたり、商家に難癖をつけて金銭を出させたりと、ろくでもないのが常でした。奉行所は捕り物に差しさわりがないないよう甘い監視でした。

火付盗賊改は町奉行所に比べると、安手で粗いのが特徴です。町奉行の役宅は天保期までありませんでした。それまでは自邸が役宅を兼ねていたといいます。その取り締まりも荒っぽくて、江戸の人々は恐れていました。町奉行所とも権限が交差するため、衝突や対立がひんぱんに起こりました。

たとえば、江戸近在で盗まれて物が江戸で換金されることが増えたため、火付盗賊改の活動範囲は江戸周辺にまで及びました。文化期以降には、関東取締出役(八州廻り)が無宿や浪人の取り締まりをするようになったため、火付盗賊改と係争するケースが増えました。火付盗賊改は町奉行所や関東取締出役と対立することが多くなりました。職務の縄張り争いです。ここでいう「関東」とは、上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)、上総(千葉県)、下総(千葉県、茨城県)、安房(千葉県)、武蔵(神奈川県、東京都、埼玉県)、相模(神奈川県)をさします。関八州ともいいます。今の関東地方ですね。

中山勘解由  【RIZAP COOK】

中山勘解由直守といいます。鬼勘解由と呼ばれるほど、犯罪捜査には凄腕だったそうです。中山家は武蔵七党の一、丹党加治氏の流れをくみます。飯能周辺を領有し、秩父鉄を工夫して武士団を構成しました。小田原北条氏の配下となり、小田原征伐では中山家範とその息子、照守と信吉は八王子城に籠城して死守しましたが、やがて敗北。家範は討ち死に。享年43。残った2人の息子は、その勇猛ぶりを徳川家康に評価され、徳川家臣団に組み入れられました。直参旗本となったのです。

関ヶ原の戦いや大坂の陣などで紆余曲折はありましたが、馬術を得意とした兄の照守は秀忠の指南役を務めるなどして、家は3500石の大身旗本に収まりました。子孫からは町奉行や火付盗賊改の頭などが現れ、武勇家系の評価が受け継がれたのです。直守は照守の孫です。

一方、弟の信吉は水戸藩の附家老(幕府直属の家老)となり、代々は水戸藩領内の松岡領(茨城県高萩市全域、日立市、北茨城市の一部)を有し、立藩をうかがっていましたが、独立できたのは明治2年(1869)でした。松岡藩2万5000石、藩庁は陣屋です。

参考文献:平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社、1988年)、服藤弘司『火附盗賊改の研究史料編』(創文社、1998年)、高橋義夫『火付盗賊改』(中公新書、2019年)、高萩市『高萩市史』(高萩市、1969年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
御先手頭 おさきてがしら
勘解由 かげゆ
附家老 つけがろう:幕府直属の家老
関東取締出役 かんとうとりしまりしゅつやく:八州廻り

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がちぎょうじ【月行事】ことば 江戸覗き

この項では、主に長屋の大家さん(家主、家守、差配)がどんな仕事をしていたのか、町方の組織の中でどんな立場だったのかについて記します。

月行事が生まれるまで  【RIZAP COOK】

1600年代中頃から1700年代にかけて、江戸では富裕商家による町屋敷の集積が進展していき、不在地主が所有する町屋敷がたくさん出てきました。

1600年代を通して、町方行政の組織や機構が整備されていき、町のすべき業務が多様化してくると、家持はその役割分担を嫌がるようになりました。町の運営は家持の代理人である家主(家守、差配)に委託されていきました。

この家主こそが、落語におなじみの「大家さん」です。地主そのものではなく、地主の代行者だったのです。

やがて、家主たちが同業者を集めて五人組を構成し、五人組の中から毎月交代で町用、公用のを務める人を出すようにしました。これを月行事といいます。

ただ、月行事を五人組以外から雇うようなこともあって、しばしば問題が生じていました。寛文6年(1666)10月27日、「雇月行事」が禁止されました。

月行事の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

月行事の仕事とは。そのいろいろを列挙してみましょう。

名主からの町触の町内への伝達
町内訴訟、願届への加判、町奉行所への付き添い
検視見分の立ち会い
囚人の保留
名主の指揮下での火消人足の差配
火の番
夜廻り
上下水道の普請
井戸の修理
町内道路の修繕
木戸番、自身番の修復
喧嘩公論の仲裁
捨て子や行き倒れの世話
切支丹宗門の取り締まり
浪人の取り締まり

月行事も名主同様、町内にかかわるすべての町用、公用をこなしました。

自身番  【RIZAP COOK】

月行事はこれらのことがらを町内の自身番に詰めて行いました。自身番には月行事の補助役として書役がいました。自身番は町内につくられた交番のようなものです。

月行事の任期中は五人組の責務についてはほかの組員に代行してもらっていたようです。

自身番は犯罪者を拘留する場でもありました。こんな川柳があります。

月行事 しらみの喰ふを かいてやり

縛られている犯人がしらみに食われてかゆいので、月行事が代わりにかいてやるという風景です。なんだか、ほほえましいですね。

月行事持  【RIZAP COOK】

町並地(町奉行・代官両支配地)では複数の五人組の代表として「年寄」を置くところもあったようです。名主のいない町では月行事が名主の代行をしたそうです。家数が少なくて名主役料も負担できない、寺社門前町家、拝領町屋敷などでは月行事持でした。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
家持 いえもち
家主 いえぬし:大家さん。差配、家守
家守 やもり:大家さんのこと
公役 くやく
町並地 まちなみち

町年寄 名主

【RIZAP COOK】

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なぬし【名主】ことば 江戸覗き

名主というのは町年寄の下にあったのですね。ここでは、町年寄の下役として江戸の住民に寄った代表者として、双方の間を取り持つ役割を果たしていた名主について記します。

名主の分類  【RIZAP COOK】

名主は、以下のような分類がなされています。

江戸の町の本来の構成員は家持=町人で、名主はその町の代表者です。江戸では家持層が早くから不在となる場合が多く、17世紀末には町名主は姿を消してしまいます。町名主に代わって、家守の代表である月行事が町を代表するようになっていきます。

江戸の町名主には、町が町奉行支配(管理)の区域である「御町中」になった時代によって、以下の4つの分類があったといわれています。

草創名主
慶長年間の町割で町となった地、天正以前からあった村が「御町中」に編入された場合での名主。家康の江戸入り以来の由緒を持ちます。元文年間(1736-41)に29人(のち24人に)いました。

古町名主
寛永年間(1624-44)までに成立した古町を支配(管轄)した名主。文化年間(1804-18)には79人いました。代官支配から町奉行支配になった町の名主です。

平名主
正徳3年(1713)以降に代官支配から町奉行支配になった新市街地の名主。それ以前の町と区別するため「新町」と呼びました。町奉行と代官の両方の支配を受ける土地を「町並地」といいますが、平名主はまさにここが対象となります。

門前名主
寺社奉行から町奉行へ支配が移った町の名主。

正徳3年(1713)とはどんな年か。その年の閏5月15日に、代官支配だった、本所、深川、浅草、小石川、牛込、市谷、四谷、赤坂、麻布などの近郊市街地259町が町奉行支配となったのです。この年こそは、江戸のなりたちを考える上でエポックメイクな年といえるでしょう。

名主の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

名主の仕事はいろいろあります。ざっと並べると以下のとおりです。

町触の伝達
人別改
忠孝奇特者の取り調べ
火の元の取り締まり
火事場での火消人足の差配
町奉行や町年寄からの指示による取り調べ
町奉行所への訴状や届書への奥印
沽券状その他の諸証文の検閲や奥印
支配町内紛議の調停
失行者への説諭
町入用の監査
祭礼の監督と執行

このように見ると、名主は管轄町内のすべて町用と公用にかかわっていたのですね。

名主というのは落語には出てきません。落語を聴いているかぎりでは見落としがちなのですが、当該町と町年寄の中間に位置して、町民の生活に根づいた課題に対処していたのですね。江戸を知る上ではかなり重要な存在といえるでしょう。

名主組合  【RIZAP COOK】

町奉行支配地が拡大していくと、正徳年間(1711-16)には地域ごとに、日本橋北組合、日本橋中組合、日本橋南組合、霊巌島組合、芝組合、神田組合、浅草組合といった名主組合が生まれました。

享保7年(1722)には、これらが再編成されて一番から十七番までの組合に生まれ変わりました。

各番組ごとに年番を決めました。とりわけ、日本橋北の一、二番組と日本橋南の四番組の年番を「南北小口年番」といって、町触などの急なお達しなどを各番組に伝達させるようなネットワークが形成されていきました。番名主はさらに、その頃問題化していた名主のサボりや不正の監督にもあたりました。この番組制は、十八番組から二十一番組まで生まれ、番外の吉原と品川ができて、合計23組となりました。

名主の数は、享保7年(1722)に17組264人いましたが、天保2年(1831)には23組246人へと少し減りました。一人の名主が支配する町の数は平均6、7町でした。

そもそも名主は兼業が禁じられていたため、支配町内から役料を徴収することが許されていました。この金額は、幕末では、平均60両ほどを手にしていたいいます。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
草創名主 くさわけなぬし
古町名主 こちょうなぬし
平名主 ひらなぬし
町並地 まちなみち
町触 まちぶれ
人別改 にんべつあらため
店借人 たながりにん
地借人 じがりにん
家持 いえもち
家主 いえぬし
大家 おおや
家守 やもり
町入用 ちょうにゅうよう

町年寄 月行事

【RIZAP COOK】

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まちどしより【町年寄】ことば 江戸覗き

江戸時代にいう「年寄」とは、世話役のような意味なのですね。ならば、「町年寄」とは。知りたくなりました。ここでは、幕府と町人の間にあってさまざまな行政を受け持たされた町年寄の3家について記します。

3家が世襲  【RIZAP COOK】

江戸の都市行政を管理する町奉行所の下には、3人の町年寄がいました。世襲です。正月3日には、江戸城に年頭挨拶に登城していました。特別な町人といえるでしょう。

樽屋 藤左衛門(与左衛門)を代々名乗る
奈良屋 市右衛門を代々名乗る
喜多村 彦右衛門を代々名乗る

伝達の順序  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。家主、地借人、店借人は家持ではないので町費負担はありませんでした。町人としては認められていませんでした。

職務の中身  【RIZAP COOK】

町年寄はどんなことをするのかといえば、以下のようなことです。

町触の名主への伝達
新開地の地割りと受け渡し
人別の集計
商人や職人の統制
公役、冥加、運上の徴収事務
町奉行の諮問に対する調査と答申
町人の願出に関する調査
民事関係の訴訟の調停

町年寄の居宅は、町人からは役所と見られていました。

樽屋 日本橋本町一丁目に居宅
奈良屋 日本橋本町二丁目に居宅
喜多村 日本橋本町三丁目に居宅

こんなぐあいで、日本橋本町に集中していました。

地割役  【RIZAP COOK】

さらに、町年寄に準ずる職務を受け持つ「地割役」がいました。町触伝達には関係しません。地面の区画調査、屋敷の受け取りや受け渡し、消火後に行う出火元の跡見分などを受け持っていました。火事や地震が頻繁に生じて住まいの強制移転が起こる江戸では重要な役職となりました。

開府直後は木原家が任されましたが、正徳2年(1712)以降は樽屋三右衛門家が世襲するようになりました。樽屋右衛門家は町年寄の樽屋藤左衛門家と親戚です。

町人とは  【RIZAP COOK】

ここで、町人について記しておきます。

町人とは家持のことです。町人=家持。町人の社会的役割のひとつに賃貸しの長屋を持って、わずかな店賃で店子に貸す慣習がありました。

町人は大家を雇います。大家には、店子からの家賃の取り立てやさまざまな問題のめんどうなど長屋の管理運営を任せます。その対価として店賃の免除などの優遇をしていました。

江戸をはじめとした大都市(大坂、京、長崎)には、富裕町人や下層町人のほか、没落した都市下層民をはじめとするさまざまな階層の人々が生活するようになります。

長屋の住人である熊五郎、八五郎、糊屋のばあさんなどは借家人ですから、町人ではありません。

町年寄の収入  【RIZAP COOK】

幕府から拝領した土地から上がる地代が、町年寄の収入となります。600両ほどの利益です。

これとは別に、樽屋は枡の独占販売の収益がありました。毎年200両ほどが入ってきたので、奈良屋、喜多村よりも豊かでした。

枡座という江戸と京都で枡を専売した機関が枡座です。東日本33か国で使われる枡は樽屋が扱っていました。西日本33か国で使われる枡は京都の福井作左衛門が作る枡でした。公許となる両者の枡は焼き印が押されて認証されていました。

樽屋は別格  【RIZAP COOK】

明和2年(1765)以降、町年寄が幕府公用金の江戸町人への貸付を委託されました。とくに樽屋は枡座のかかわりもあってのことか、経済・金融政策に特異な能力を発揮したことで知られます。

寛政改革で、樽屋与左衛門は棄捐令で手腕を発揮したといいます。棄捐令は旗本・御家人の借財整理です。文化期には町人からの御用金の徴収や貸付にもかかわりました。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
地割役 じわりやく
木原家 きはらけ
樽屋三右衛門家 たるやさんえもんけ
跡見分 あとけんぶん
家持 いえもち
家守 やもり:大家さん。名主の代理人。差配人
月行事 がちぎょうじ
店子 たなこ
店賃 たなちん
地借人 じがりにん
店借人 たながりにん

名主 月行事

【RIZAP COOK】

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よりき、どうしん【与力、同心】ことば 江戸覗き

時代劇でよく出る「与力」と「同心」。与力が上役で同心がその下にるように見えます。実際、どんなことをしていたのでしょうか。知りたくなりました。ここでは、町方の与力も同心もともに下級武士でありながら、幅広い行政権限と大きな実権、さらには副収入もあって、実際にはなかなか羽振りがよかったようです。そんなことを記します。

江戸の与力  【RIZAP COOK】

江戸の町方与力は、両町奉行所ごとに25騎、計50騎。与力は騎馬が許されていたため、員数の単位は「騎」だったのです。町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたりました。

与力には、2種類ありました。町奉行その人から俸禄を受ける与力、つまりは町奉行である殿さまの家臣です。これは「内与力」と呼ばれました。それと、将軍から俸禄を受けて奉行所に所属する役人である普通の「与力」です。

内与力は陪臣です。奉行に就いている殿さまの用人ですね。普通の与力よりは格下で禄高も低かったのですが、奉行の側近ですから、その実権は侮れないほど大きいものでした。

与力は配下となる「同心」を指揮・監督する管理職です。と同時に、警察権でいうならば警察署長、司法権でいうならば民事と刑事の双方の裁判も審議したので、今日の裁判官や検察官のような役割も果たしました。

与力は「役宅」として八丁堀に250-350坪の組屋敷が与えられていました。まあまあ広いですね。問題や紛争が起こればなにかと便宜を図ってくれるよう、常日頃は大名や富裕町家からの付け届けがひんぱんにあり、わりと裕福な家も多かったといわれます。

それともうひとつ。今から見れば不思議な特権としか映りませんが、与力は毎朝湯屋の女風呂に入ることができました。八丁堀の湯屋は混雑していたことに加え、その頃の女性には朝湯の習慣がなかったので、朝の女湯は空いており、男湯でささやかれる噂話や密談を盗み聴きするのにもよかったようなのです。八丁堀の女湯に刀掛けが置かれてあることは、「八丁堀の七不思議」に数えられていました。

与力は、屋敷に回ってくる流しの髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕しました。粋な身なりで人気があったのです。与力、力士、火消の頭は「江戸の三男」ともてはやされたそうです。

町与力組頭クラスは150-200石を給付されていましたから、下級旗本の待遇の上をいっていました。とはいえ仕事柄、罪人を扱うことから「不浄役人」とみなされ、将軍謁見や登城は許されませんでした。御目見がかなわないので、身分上は御家人です。御家人の中では上位の俸禄でありましたが。

与力は、建前上は騎兵なので、袴を着用します。徒歩(歩兵)扱いの同心は将軍の御成先でも着流しでの「御成先御免」が許されましたが、与力には「御成先御免」はありませんでした。

同心=足軽  【RIZAP COOK】

開府当初、徳川家直参の足軽は全員「同心」と扱われました。伊賀同心、甲賀同心、鉄砲組の百人同心など、いろいろありました。最初に同心となった人は「譜代」と呼ばれ、役職がなくても俸禄をもらうことができ、代々子孫にこれを受け継がせることができました。幕府の同心=足軽ですから、幕臣ではあっても旗本ではなく御家人でしたが。

江戸の同心  【RIZAP COOK】

両町奉行所には与力が各25騎、同心が各120人配置されました。警察業務を執行する「廻り方同心」は南北町合わせても30人にも満たず、100万都市の治安を維持することは無理というものです。そこで同心は個人的に「岡っ引き」と呼ばれる手先を雇っていました。

廻り方同心は、雪駄に着流しスタイルという、なんだか奇妙な身なりで人気がありました。これでお役人なのですから、なんともいやはや。町民になじみがあったのは「定町廻り同心」です。決められた地区を担当して、巡回しながら治安維持にあたりました。

並みの同心の俸禄は30俵2人扶持。将軍家直参と比べても少なくはありません。実際は諸大名家や町屋からの付け届けなどでその数倍の実収入があった人が多く、岡っ引きも雇えたし、宿舎に相当する屋敷を拝領して、しばしばその屋敷は同心の代名詞とされていました。なぜ諸国の大名家が付け届けをするのか。江戸屋敷の家来たちの中には不祥事を起こす者もでるわけで、そんな非常時に備えた保険のようなものです。岡っ引きは基本的には無給なのですが、こちらもこちらでいろいろもらえて役得だったといわれています。

同心の屋敷は約100坪でした。与力の三分の一。拝領した広い屋敷を貸して家賃収入を得る人もいるほど。これはだいたいの同心がなりわいにしていたようです。医者、儒者、絵師といった階層の連中が対象でした。こういう副業はは役人でも許されていたのですね。ラフというか、なんというか。組屋敷は八丁堀に置かれていましたから、「八丁堀」が彼らをさす通称となります。これは有名ですね。

罪人を扱う汚れ仕事だったため、与力同様「不浄役人」と見下されました。世襲とはせずに、代替わりの際には新規召し抱えとなりました。

治安維持という任務上、その職務に精通していることがなにより必須であるため、事実上世襲が行われていました。おかしな話です。

江戸中期以降では、建前上は養子入りすることで実質上は金銭で「株」を買うことで町人が武士の身分を得る例が見られました。町方同心の場合はその職務に通じている必要があり、同心株を売るほど困窮した者も多くはなかったため、事例はあまりありませんでした。樋口一葉の父はその珍しい例だったのかもしれません。

職務の変遷  【RIZAP COOK】

与力と同心の職務は、おおざっぱに享保以前と享保以後とに分かれます。

享保以前は、年番、町廻り、牢屋見廻りの三つでした。年番は、町奉行所の財政、人事などを扱う職務で、ベテランが受け持ちました。町廻りは市中の見廻りのことで、主に同心の仕事でした。牢屋見廻りは小伝馬町の牢屋の見廻りです。

寛政年間には、隠密廻り、定廻り、臨時廻りの三廻り制となりました。なかでも筆頭格は隠密廻りで、市中の風聞を察知して町奉行に通報するのが仕事でした。定廻りはこれまでの町廻りと同じで、市中の見廻りです。臨時廻りはあくまでも臨時であって、重点的に各所を見廻るものでした。

享保改革では、出火之節人足改、養生所見廻り、本所見廻りなどが新たに設けられました。出火之節人足改とは、火事の現場に規定数の町火消人足が出ているかを確認するもので、消火活動の指揮監督も兼ねることもありました。養生所見廻りは小石川養生所への入所者の確認です。本所見廻りは、享保4年(1719)4月まであった本所奉行所がなくなって、本所、深川までもが町奉行所の管轄になったために生まれた職務でした。この地域の橋や道の普請、用浚いなどを受け持ちました。

寛政改革では、窮民救済を目的に設置された町会所での事務処理を行う町会所掛、寛政2年(1790)にできた人足寄場を管轄する人足寄場掛が新設されました。

天保改革では、市中取締諸色調掛が新設されました。諸色とは物価のことです。この任務は、南町奉行となった鳥居耀蔵の指揮下で、質素倹約の市中取り締まり、物価の引き下げに奔走するものです。いやあ、任務の増やし過ぎ。おまけに幕末には、外国掛、海陸御備向御用取扱掛などという役目も増えて、与力も同心もてんてこ舞いでした。そして、倒壊していくのです。

【語の読みと注】
年番 ねんばん
町廻り まちまわり
牢屋見廻り ろうやみまわり
隠密廻り おんみつまわり
定廻り じょうまわり
臨時廻り りんじまわり
出火之節人足改 しゅっかのせつにんそくあらため
養生所見廻り ようじょうしょみまわり
本所見廻り ほんじょみまわり
町会所掛 まちかいしょかかり
市中取締諸色調掛 しちゅうとりしまりしょしきしらべかかり
海陸御備向御用取扱掛 かいりくおそなえむきごようとりあつかいかかり

町奉行

参考文献:史談会『旧事諮問禄』(青蛙房、1971年)、佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』(新版、東洋書院、2000年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【RIZAP COOK】

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まちぶぎょう【町奉行】ことば 江戸覗き

時代劇で「お奉行さま」といえば江戸町奉行の職務が思い起こされます。実際にはどんなことをする人だったのでしょうか。知りたくなりました。犯罪者の逮捕ばかりではないようです。そんなことをここでは記します。

職務  【RIZAP COOK】

町奉行は江戸の都市行政全般を担当していました。最高裁判所長官、警視庁総監、東京都庁知事の役目を一手に引き受けていました。今日からみれば奇妙な役職です。

なんといっても町奉行は、幕府の最高意思決定機関とされる評定所一座の一員です。これは、老中、若年寄、寺社奉行、町奉行、勘定奉行などから構成されているもので、重要な裁判、国政の重大問題を審議し決定する機関です。重職のひとつとされました。

町奉行は2人ずつ選ばれました。北町奉行と南町奉行です。

北町奉行所は、常盤橋御門内に置かれましたが、のちに呉服橋御門内に移されました。

南町奉行所は、呉服橋御門内に置かれましたが、のちに鍜治橋御門内、さらには数寄屋橋御門内に移されました。

元禄15年(1702)には中町奉行所が呉服橋御門内の南側に置かれまして三人制となったのですが、中町奉行の坪内定鑑が亡くなってからは終わってしまいました。享保4年(1719)4月14日に短い幕を閉じました。

こうして、幕末の一時期を除き、南北の二人制が続きました。

町奉行は奉行所に住みました。それで、奉行所を「役宅」と呼んだりしていました。

町奉行は、毎日四ツ(午前10時)に登城します。退出後は役宅で訴訟の処理や判決の申し渡しなどを繰り返します。

「月番」といって、ひと月交代で二人の奉行が職務を行いましたが、非番の月でも、月番の間に受理した訴訟などは処理しなければなりませんでした。

2人の町奉行は、月番の役宅で、「内寄合」と称して月3回、事務処理について話し合いました。

江戸時代は管轄や担当を「支配」と呼びましたが、町奉行の支配地は最初の頃は、江戸城周辺の「古町」と呼ばれる300町ほどでした。それが、江戸が膨張するに伴って広がりました。維新直前には、1678町にも及びました。808町の2倍以上です。

こうしてみると、町奉行は激務です。高い能力と人格が求められました。よって、小禄の旗本からも選任されることもありした。いきなり町奉行になることは少なく、だいたいは、勘定奉行→京都町奉行→大坂町奉行などで経験を積んだ旗本のあがり職とされていました。それだけキャリアを積み上げないと勤めあげられない職務だったのでしょう。

在職年数は5-6年が一般的でしたが、まれに1年未満で解任された例もあれば、19年間務めた大岡忠相の例もありました。要は能力次第でした。それには、与力と同心との協調がきわめて重要だったようです。

与力と同心を使う  【RIZAP COOK】

両町奉行には、与力が25騎ずつ、同心が120人ずつ、都合、50騎の与力と240人の同心がいたことになります。

町奉行は、与力・同心をどう操縦するかが腕の見せ所だったようです。彼らに見放されると、町奉行は職務を全うできなかったのです。

与力、同心

参考文献:西山松之助編『江戸町人の研究』四(吉川弘文館、1977年)、佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』(新版、東洋書院、2000年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
評定所一座 ひょうじょうしょいちざ

【RIZAP COOK】

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しょうぐんせんげ【将軍宣下】ことば 江戸覗き


徳川家康は関ヶ原の戦いで勝ったわけですが、その後3年かけて幕府を開くにいたります。でも、どうして3年近くもかかったのでしょうか。知りたくなりました。ここでは、そこらへんを記します。

開幕まで  【RIZAP COOK】

そもそも「幕府」という言葉は明治時代につくられました。歴史学者がつくってみた用語なのだそうです。では、400年前の当時はなんていっていたのでしょうか。「柳営」という言葉があったそうですが、ピンときませんね。とくに定まった言葉があったわけでもなさそうなのです。意外です。

ま、それはともかく。まずは、関ヶ原の戦いから開府までの時系列を記します。

慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の戦いで家康方(東軍)が勝利
慶長6年(1601)8月 上杉景勝が上洛、臣従
慶長7年(1602)8月 島津家久が上洛、臣従
慶長8年(1603)2月12日 家康が征夷大将軍に任官、開府

上杉と島津が上洛して天皇に臣従を誓うまでに時間を要したことが、開府のもたもたとなったということです。

将軍の宣下  【RIZAP COOK】

家康の将軍宣下は伏見城で行われました。

朝廷では大納言広橋兼勝が上卿を務めて陣儀を行い、内大臣徳川家康の将軍任官と右大臣転任を決めました。

すぐに伏見城に勅使が出されました。その数200人以上だったそうです。

伏見城には、前もって武家昵近衆が祗候し、家康は上段中央に南面して座っていました。

勅使がお祝いを述べて着座。上卿らが家康に進み出ると、南庭で副使が二拝し「ご昇進、ご昇進」と大声を出します。

上卿が着座すると、将軍任官の宣旨が官務の壬生高亮から高家大沢基宿に渡され、大沢が家康の前に置きました。家康はこれを一覧し、宣旨の入っていた蓋に長井右近が砂金袋を入れて、壬生に返します。

局務の押小路師生が右大臣の宣旨を渡し、同様の手順で行われました。その後も、同じ手順で、源氏長者、淳和奨学院別当、牛車兵仗の宣旨が渡されました。儀式はこれで終わり。

参列した公家には役割ごとに金が渡され、武家昵近衆には夕餐がふるまわれました。

以上が、慶長8年(1603)2月12日の儀式のあらましです。

御礼の参内  【RIZAP COOK】

3月25日、家康は参内します。任官返礼と新年の挨拶が目的でした。

ときの天皇(後陽成)に銀子1000枚をはじめ、下級女官にまで、なにがしかの銀子を贈っています。

参内行列は九番編制で、譜代家臣、そのとき上洛していた諸国の大名をかき集めて構成したそうです。誰が見ても家康を超える実力者のいないこの時点では、どのようなにわか仕立てでも通用したのでしょう。

その後、二代秀忠の任官・宣下では、伏見城で受けはしましたが、返礼の参内では、八番編制の行列で、上杉景勝、伊達政宗、島津家久、前だ利光などの有力大名を率いて、華美で麗々しい行列だったとのことです。三代家光も伏見城で受けましたが、返礼の参内はさらに仰々しくて、三日間にわたって二条城で猿楽を催しました。

四代家綱以降は江戸城でこれらの儀式は行われ、十四代家茂まで踏襲されました。この場合、勅使はじめ多数の公家や門跡が仰々しく江戸に下向したわけで、そのたびに上方のみやびで風流な文物が江戸に伝わりました。

将軍の上洛は家光からプツンと切れて、家綱以降の江戸での将軍宣下の儀式も多分に形骸化していきました。江戸では返礼参内はなくなるわけで、将軍より上の地位の者がいないことで、将軍の実質的な絶対化現象もここらへんから生まれてきました。逆に言えば、家康の頃には、朝廷の権力も権威もまだ生きていたことになります。

江戸城での将軍宣下  【RIZAP COOK】

江戸城での将軍宣下の際、公家や門跡へのもてなしは、江戸城大広間の南庭に能楽堂を設定して、能楽を催しました。

諸国の大名ばかりか、江戸の町人も、一町に二人まで見物を許可されました。武家の祝いを江戸の町人も共有したことは重要でした。継飛脚で将軍任官を全国に伝達しました。きわめて合理的かつ簡素化したわけです。

これらの式次第は微に入り細をうがちながら、江戸時代の繁栄とともに後世語り伝えられていき、権現神話の一節と醸成されていきました。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、市岡正一『徳川盛世録』(平凡社東洋文化、1989年)、笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版、2000年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、山本博文『徳川将軍と天皇』(中央公論新社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
宣下 せんげ:宣旨を伝える儀式
宣旨 せんじ:天皇が臣下に伝えた文書
上卿 しょうけい:陣儀の主催者
陣儀 じんぎ:公家たちが国政を審議する
武家昵近衆 ぶけじっきんしゅう:武家と交渉する公家
祗候 しこう:つつしんでおそばで奉仕する官務 かんむ
壬生高亮 みぶたかすけ
大沢基宿 おおさわもといえ
局務 きょくむ
押小路師生 おしこうじもろお
門跡 もんぜき:皇族や公家が住持となった特別な寺院

【RIZAP COOK】

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えどいり【江戸入り】ことば 江戸覗き

ここでは、徳川家康が江戸城に入ったのは8月1日(八朔)だったというのは実はうそだった、という話について記します。

関東入部  【RIZAP COOK】

史実は以下の通り。天正18年(1590)のことです。

7月5日 北条氏直が豊臣秀吉に降伏、小田原城が落城。
7月13日 秀吉が家康の関東転封を発表。
7月19日 秀吉と家康がが江戸城に入る。秀吉が家康に江戸城普請を命じる。その後、秀吉は宇都宮に移動。
7月中 家康配下の有力武将の知行割が行われる。

このように見ると、家康の江戸城に入城したのは8月1日以前だったことがわかります。

八朔  【RIZAP COOK】

中世の農村で「憑の節句」と呼ばれたもので、物品を贈答する予祝儀礼のひとつです。室町幕府がこれを儀礼に確立しました。織豊時代には中絶しましたが、家康が天皇に太刀と馬を献上して復活へ。江戸幕府は八朔を正月三が日と同等の重要な年中行事として、参賀儀礼に定めました。

八朔の当日(8月1日)は、大名や三千石以上の旗本が登城し、太刀目録と馬代目録を将軍に献上しました。ほかには、大名の嫡子や隠居、幕府の主な役人、医師、金座の後藤、本阿弥、御用絵師の狩野、猿楽師といった諸職人、それと町方の代表者(樽屋、奈良屋、喜多村)の参賀と献上がありました。

関連項目:品川心中

権現神話  【RIZAP COOK】

よく言われるのは、家康が入部する以前の江戸は荒野であり寒村であり、というイメージです。

でも、実際の天正年間の江戸は港町として栄え、東海から関東に荷発着する重要な拠点だったのです。北条氏がすでに開発、開拓していたのです。江戸を「なにもない土地」のイメージに語るのは、家康を大都市に様変わりさせていった功労者とたたえる意図があったのでしょう。

都市建設のこのようなイメージ作りを「葦原伝説」と名づけていますが、家康の江戸はまさにそれにぴったりの地だったわけですね。
それこそが二百六十年にわたる「お江戸」の「権現神話」の始まりだったといえるでしょう。毛沢東や金日成の創成神話に通ずるものです。

ちなみに、「権現」とは、仏や菩薩(悟った人)が衆生(人々)を救うためにいろいろな姿になって仮の姿になって現れること。これを権現といいます。権化とも。本地垂迹説では、仏が化身して日本の神さまになって現れることをさします。ここでいう権現は「東照権現」という名の徳川家康のこと。つまり、家康は権現になった仏だった、ということです。江戸時代に「権現さま」と言ったら、神君家康公、つまりは徳川家康のことです。浄土宗の信者で通っていた家康はじつは神さまになったつもりであいましたが、そのじつは仏だったということです。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』(教育出版、1999年)、竹内誠他『東京都の歴史』(山川出版社、1997年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
権現 ごんげん:仏の仮の姿

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きんめいちく【金明竹】演目

骨董を題材にした前座噺。小気味いい言い立てが聴きどころです。耳に楽しいですね。こういうのも落語のおもしろいところです。

【あらすじ】

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまってそれっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置へ放り込んであると断るんだ」
と叱った。

すると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、そそうがあってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利きを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、終いにずん胴斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(「古今秀句落し噺」に収録)なのでどちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治時代になったからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛けました。なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは、三巨匠それぞれ残っていて、現役では柳家小三治のがありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。光乗はその曾孫(1529-1620)で、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船は鎌倉時代の備前国の刀工・長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省原産の黄金色の名竹です。福建省の黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管の羅宇などの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴の師匠の飼い猫・三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利氏)がありますが、落語にはこの手のくすぐりはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
新発意 しんぼち:出家して間もない僧
疝気 せんき
石井宗淑 いしいそうしゅく
後藤祐乗 ごとうゆうじょう
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
長船 おさふね
横谷宗珉 よこやそうみん
小柄 こづか
黄檗山 おうばくさん
隠元 いんげん
煙管 きせる
羅宇 らお
天璋院 てんしょういん

【RIZAP COOK】

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