ちきりいせや【ちきり伊勢屋】演目

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この噺、珍しく柳家系のものですが、円生や彦六が工夫してやってました。

別題:白井左近

【あらすじ】

旧暦七月の暑い盛り。

麹町五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎が、平河町の易の名人白井左近のところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡でじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天が現れているから、あなたは来年二月十五日九ツに死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門は、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果が子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行を積み、来世の安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛にこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨し続ける。

ある日。

弁慶橋のたもとに来かかると、母娘が今しもぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世のなごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間を残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪の通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸で裏店住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札の辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

原話や類話は山ほど

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井』中の「人相見」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国の説話集『輟耕録』中の「陰徳延寿」。それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記』(青木鷺水、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。さらにその焼き直しが『耳嚢』(根岸鎮衛著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲の渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難を遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が競演

明治27年(1894)1月の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残ります。

小さん代々に伝わる噺ですが、五代目は手掛けていません。三代目小さんの預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生が晩年熱演しましたが、円生は上記二代目小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近

白井左近の実録については不詳です。
二代目小さん以来、左近の易断により、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

弁慶橋

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、「……赤坂の田町へまいりました。(中略) 食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……」とあります。

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが千代田区岩本町二丁目にかつてあった橋。設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。藍染川に架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋とは見当が違うわけです。なぜ、円生は弁慶橋と神田のではなくて赤坂のとして語ったのか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町五丁目にあることから、神田よりも赤坂の方にリアリティーを感じたのでしょう。勘違いとも言いきれません。円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

赤坂の「食い違い」は「喰違御門」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。明治10年(1877)、大久保利通が惨殺された紀尾井坂もちょうどこの付近です。

札の辻

港区芝五丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

【語の読みと注】
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがい:くさび
千木 ちぎ:質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

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たばこのひ【莨の火】演目

【RIZAP COOK】

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もとは上方の噺。それを、彦六が持ってきたんだそうです。

【あらすじ】

柳橋の万八という料理茶屋にあがった、結城ごしらえ、無造作に尻をはしょって甲斐絹の股引き、白足袋に雪駄ばきという、なかなか身なりのいい老人。

欝金木綿の風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋への祝儀二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間を総揚げに。

自分はニコニコ笑って、それを肴にのんでいるだけ。

その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。

「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。

いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋だった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」

包みの中には、小判がぎっしり。

これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花坂爺さんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」

「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂の屋敷前で止まった。

奈良茂ならごひいき筋で、だんなや番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。

不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方はだんなの兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれだんな」。

奇人からついた異名とのこと。

ときどき千両という「ホコリ」が溜まるので、江戸に捨てに来るのだ、という。

事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、糠の代わりに小判で埋めてもらえたんだ」

腰が抜けた喜助、帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車をこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鷹頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。

これでだんなの機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。

ちょうど三日目。

あばたれだんなが現れると、総出でお出迎え。

「ああ、ありがとうありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」

【しりたい】

上方落語を彦六が移植

上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年に八代目林家正蔵(彦六)が二代目桂三木助の直伝で覚え、東京に移植したものです。

正蔵(当時は三遊亭円楽)は、このとき「唖の釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、悟道軒円玉(1865-1940)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。

東京では彦六以後、継承者はいません。

上方版モデルは廻船長者

本家の上方では、初代桂枝太郎(1866-1927)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。

上方の演出では、主人公を、和泉佐野の大物廻船業者で、菱垣廻船の創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。和泉佐野は古く、戦国時代末期から、畿内の廻船業の中心地でした。

飯は屋号を唐金屋といい、元和年間(1615-24)に、江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。

鴻池は新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯のだんなが鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションのようです。

上方の舞台は、大坂北新地の茶屋綿富となっています。

江戸の料理茶屋

宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。

有名な山谷の懐石料理屋八百善は、それ以前の享保年間(1716-36)の創業です。文人墨客の贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。

日本橋浮世小路の百川、向島の葛西太郎、洲崎の升屋などが一流の有名どころでした。

江戸のバンダービルト

奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。初代奈良屋茂左衛門(?-1714)は、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築き、その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門と張り合ったものです。初代の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の三代目茂左衛門源七の代まで栄えました。その後、家運が徐々に衰えましたが、幕末まで一流店として存続しました。

【語の読みと注】
欝金 うこん
駕籠 かご
肴 さかな
奈良茂 ならも
菱垣廻船 ひがきかいせん
百川 ももかわ

【RIZAP COOK】

蛸坊主 たこぼうず 演目

【RIZAP COOK】

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お坊さんが登場する噺。ちょっと珍しいですかね。

【あらすじ】

不忍池の端にある料理屋、景色はよし味はよし、器もサービスも満点で大評判。

ある日、坊さんの四人組が座敷にどっかと上がり込んだ。

「われわれは高野一山の修業僧だが、幼少の折から戒律堅固に過ごしているから、なまぐさものは食らわない、精進料理を出してくれ」
と注文する。

出された料理に舌鼓を打っていた四人、急に主人を呼び出し、料理や器をほめた後、このお碗の汁はおいしいが、出汁はなにを使っているかと、尋ねる。

「はい、世間さまではよく土佐とおっしゃいますが、てまえどもでは親父の代から、薩摩を使っておりますので」
「はあ、そりゃいったい、なんのことで?」
「鰹節の産地でございます」

鰹節とは何で作るのかと重ねて問われて、主人は青ざめたが、もう遅い。

「とんだことで、ご勘弁を願います」
と平謝りし、
「すぐに清めの塩を持ってこさせ、昆布の出汁で作り直させます」
と言い訳しても、坊さん四人はいっかな聞かない。

かえって居丈高になり、
「魚類の出汁を腹の中へ入れてしまっては、口などすすいでも清まるものではない。われわれ四人は戒律堅固に暮らしていたのが、この碗を食したために修業が根こそぎだめになった。もう高野山には帰れないから、この店で一生養ってもらう」
と、無理難題。

新手のゆすりとわかった時には、もう手遅れ。

坊さんは寺社奉行のお掛かりで、町奉行所に訴えてもどうにもならない。

困り果てていると、向こうの座敷で食事をしていた、鶴のように痩せた老僧がこれを聞きつけた。

主人を呼んで、
「愚僧が口を聞いて信ぜよう」
と申し出たので、主人は藁にもすがる思いで頼む。

ほかの座敷の町人連中、
「なにやら坊さんが四枚そろったが、けんかになりそうだから、ドサクサに紛れて勘定を踏み倒しちまおう」
と、ガヤガヤうるさい。

老僧、四人の座敷へおもむくと、
「料理をうまくしたいという真心がかえって仇となったので、刺し身を食らっても豆腐だと思えば修業の妨げにはなりますまい」
と、おだやかに説くが、四人は相手にしない。

老僧、急に改まって
「最初から高野一山の者とおっしゃるが、貴僧たちはこの愚僧の面体をご存じか」

知らないと答えると、大音声で
「あの、ここな、いつわり者めがッ」
(芝居がかりで)「そも高野と申す所は、弘仁七年空海上人の開基したもうところにして、高野山金剛峯寺と名づけたる真言秘密の道場。諸国の雲水一同高野に登りて修業をなさんとする際、この真覚院の印鑑なくして足を止めることができましょうや。高野の名をかたって庶民を苦しめるにせ坊主、いつわり坊主、なまぐさ坊主、蛸坊主」
「これ、蛸坊主と申したな。そのいわれを聞こう」
「そのいわれ聞きたくば」
と、四人が取りついた手を振り払い、怪力で池の中にドボーン。片っ端から放り込んでしまった。

四人とも足を出して、池の中にズブズブズブ。

「そおれ、蛸坊主」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【RIZAP COOK】

【うんちく】

東京では彦六

原話は不詳で、本来は純粋な上方落語です。

明治以来、大阪方が「庇を貸して母屋を乗っ取られた」演目は数多いのですが、この噺ばかりは、東京はほんのおすそ分けという感じです。

桂米朝、露の五郎兵衛、桂文我ほか、レパートリーとしているのは、軒並み西の噺家。

東京では、八代目林家正蔵(彦六)が、かつてこの噺を得意にしていた大阪の二代目桂三木助(1884-1943)に習い、舞台を江戸に移して演じたのみです。正蔵の口演は映像が残されているので、古格の芝居噺の型を、今も偲ぶことができます。

あまりおもしろい噺ではないうえ、後半は鳴り物入りで芝居噺となる古風さも手伝ってか、正蔵没後は東京では今のところ、継承者がいません。

舞台設定はいろいろ

二代目三木助は、大坂茶臼山(大坂の役の古戦場)の「雲水」という普茶料理屋を舞台としていました。これが、上方の古い型だったのでしょう。

正蔵は、ここに紹介したように、上野不忍池のほとりとし、店の名は特定していません。でも、幕末の池之端あたりには、この噺に登場するような大きな料亭が軒を並べていました。

「不忍池にすると、上野(=寛永寺)の宗旨は天台ですから、そこへ真言の僧が来るのはおかしいということになりますが、これはまァ見物にでも来たとすれば、そう無理はないと思います」
という、正蔵の芸談が残ります。

場所一つ設定するのも、いい加減にはできないもののようです。

上方でも、桂米朝は、舞台を生玉神社近くの池のほとり、老僧の名を「修学院」としていました。

雲水

托鉢しながら旅の修行を続ける禅宗系の僧侶をさしますが、ここでは老僧の言葉にあるように、高野聖と呼ばれる諸国修行の真言宗の僧侶です。

【RIZAP COOK】

写真の仇討ち しゃしんのあだうち 演目

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こんなかたき討ちならのんきです。袖にされた怨念は底知れぬもの。

別題:一枚起請 恨みの写真 写真の指傷 指切り

【あらすじ】

信次郎には恋仲の芸者小照がいた。

多額の金を貢いでいたが、裏切られた。

思いつめた信次郎、
「あたしも士族の子。面目にかけても生かしちゃ置けないから、これから女を一突きにし、自分も死ぬから」
と、いとま乞いにやってきたので、伯父さんが意見をする。

「昔、晋国の智伯という人が趙襄子に殺され、その家来の予譲は主人の仇を討とうとして捕らえられた。趙襄子は大度量の人だから、そのまま許してくれたが、あきらめずに今度は顔に漆を塗って炭を飲み、人相を変え、物乞いに化けて橋の下で趙襄子を狙った。ところが敵の乗った馬がピタリと動かなくなり気づかれた。『この前、命を助けてやったのに、なぜ何度もわしを狙う。もともとおまえの主人は范氏で、それが智伯に滅ぼされた時に捕虜になって随身したもの。とすれば、わしはおまえの元主人の仇を討ってやったも同じではないか』と責めると『ごもっともだが、智伯には私を引き立ててくれた恩があります。士はおのれを知る者のために死すと申します』と悪びれずに言ったので、趙襄子は感心して『おまえの志にめでて討たれてやりたいが、今わしが死んでは世の中が乱れる。これをわしと思って、ぞんぶんにうらみを晴らせ』と自分の着物の片袖を与えたので、予譲が剣でそれを貫く。突いたところから血がタラタラ。結局、予譲は自害したが、ああ、人の執念は恐ろしいものと趙襄子は衝撃を受け、3年もたたないうちにそれが元で死んだ、という。おまえも相手は商売人で、だまされたのはおまえに軍配が上がるのだから、大切な命をそんな女のためにむだにせず、その女からもらったものを突くなり、切るなりしてうっぷんを晴らすがいい」
と、長い。

そう言われて、信次郎もなるほどと思い、貸してもらった鎧通しで、持っていた女の写真を
「思い知れ」
とばかり、ズブリ。

とたんに写真から血がダラダラ。

「ああ、執念は恐ろしい。写真から血が」
「いえ、あたくしが指ィ切ったんで」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【うんちく】

写真事始

写真の日本伝来は天保12年(1841)、長崎の上野俊之丞常定が、オランダ船で輸入されたダゲレオタイプ・カメラ(水銀蒸気を用いたもの。1837年にフランスのダゲールが発明)を薩摩藩主島津斉興に献上したのが始まりとされますが、確証はありません。

川本幸民(1809-70)が安政元年(1854)に日本最初の写真に関する翻訳書『遠西記述』を刊行。その後、下岡蓮杖(1823-1914)、上野彦馬(1838-1904)の2人が最新のアメリカ式の写真術を会得し、ともに写真館を開業。下岡は風景写真に、上野は肖像写真にと、それぞれの草分けとなりました。

上野彦馬は、「坂本龍馬の写真」を代表作とする伴野朗の連作歴史推理小説集の主人公で探偵役にされています。伴野朗は朝日新聞勤務のかたわらミステリーを執筆するセミプロ作家でしたが、先のない朝日を辞めて映画監督を経験しています。戦前の華北を舞台にした『落陽』(1992年、日活配給)という大作でしたが、おおこけで配給会社の日活は倒産してしまいました。伴野もこれが原因か、朝日からいきなり落葉へと相成りました。伴野をそそのかしたのは藤浦敦。読売新聞記者から日活監督に転職したこの人は、父に富太郎、祖父に周吉(三周)を持つ「大根河岸のだんな」の一族です。「三遊亭円朝」の名跡を握っている家ですね。敦が放談本『日活不良監督伝 だんびら一代 藤浦敦』(藤木TDC構成、洋泉社、2016年)で語っています。まあ、遺言のようなものとして読めば腹も立ちません。観客不在の映画興行を知った気分にもなれますし。

三大おおこけ大作

おおこけ大作というのは、庶民の目から眺めればきわどく痛快なものです。映画館でのヘンなもの見ちゃった気恥ずかしさとシラケた心持ちが交錯していって「なにやってやがる」「ざまあみろ」「ひでえな」「金返せ」「このボケが」といったふうに憤りが増長していくものです。管見(古木)ではありますが、『天国の門』(マイケル・チミノ監督、こけたのはユナイト映画)、『幻の湖』(橋本忍監督、こけたのは橋本)、『落陽』(伴野朗監督、こけたのは日活と伴野)を「三大おおこけ大作」と認定しています。

彦六が復活

昭和初期の八代目桂文楽の速記が残っていますが、戦後は八代目林家正蔵(彦六)が「指切り」の演題でレパートリーとしました。本あらすじは、その正蔵の速記をテキストにしています。正蔵は、二代目三遊亭小円朝門下で、やはりこの噺を得意としていた三遊亭円流の口演を聴いて覚えたと語っていました。「私の若いころ『写真を突くときは下へ置け。下へ置かなきゃ指までじゃ来ない』と教えてくれた先輩がありました」とは彦六の弁。二代目三遊亭円歌も演じました。

長編人情噺を落語化

別題は「恨みの写真」「指切り」「写真の指傷」「一枚起請」とさまざまです。明治17年(1884)に刊行された二代目五明楼玉輔の口演本『開化奇談写真の仇討』を落語化したものです。

原作は、アメリカから帰朝した医学士の青年が父親を毒殺した男に復讐しようと狙ったものの明治政府の仇討禁止令で果たせず、写真を刺して孝道を貫くという筋立ての長編人情噺です。この趣向を、古くからあった「一枚起請」という噺と結びつけたものと見られます。

「一枚起請」は、現行の「写真の仇討ち」と筋はほとんど同じですが、男が突くものがお女郎の起請文であるところが異なります。

予譲と趙襄子の故事

出典は『史記』「刺客伝」によるもの。司馬遷です。

【語の読みと注】
晋 しん
智伯 ちはく
趙襄子 ちょうじょうし
予譲 よじょう
范氏 はんし
随身 ずいじん
鎧通し よろいどおし:日本刀の一種。鎧の隙間から刺す短刀

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死ぬなら今 しぬならいま 演目

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死は人生最大の難問。でも、落語にかかれば、どうってことない。

【あらすじ】

しわいやのケチ兵衛という男。

爪に灯をともすようにして金を貯め込んできたが、いよいよ年貢の納め時が来た。

せがれを枕元に呼び、寿命というものはどうにもならない。

「わたしも、突き飛ばしておいて転がった人の上にずかずか乗るような醜いことまでして、これだけの財産をこしらえたが、もう長くないので、おまえに一つ頼みがある」
と言う。

「どうだろう、早桶ン中に三百両、小判で入れてもらえないか」

地獄の沙汰も金次第。

「わたしのような者は必ず地獄におちるだろうが、金をばらまけばひょっとして極楽へ行けるかもしれない」
というわけ。

せがれが承知すると安心したか、ごろっと痰がからまったと思うと、キュウとそのままになってしまった。

いわゆる、ゴロキュウ往生。

湯灌も済み、白い着物を着せた。

せがれが遺言通りに頭陀袋の中に三百両の小判を入れているところを親類の者が見て
「いくら遺言だからといって、そんなばかなことをしてはいけない」
と、知り合いの芝居の道具方に頼み、譲ってもらった大道具の小判とそっくり入れ替えてしまった。

こちらはケチ兵衛。

いつの間にか買収資金がニセ金に替わっているともつゆ知らず、閻魔の庁まで来ると、さっそく呼び出される。

浄玻璃の鏡にかけられると、今までの悪事がこれでもかこれでもかと映るわ映るわ。

「うーん、不届きなやつ」

閻魔大王が閻魔のような顔になったので、さあ、この時と、袖口に百両をそっと忍ばせると、その重みで大王の体がグラリ。

「あー、しかしながらあ、一代においてこれほどの財産をなすというのも、そちの働き、あっぱれである」

がらっと変わったから、鬼どもがぶつくさ不満タラタラ。

それではと、そいつらの袖の下にも等分に小判を忍ばせたので、ケチ兵衛、無事に天上し、極楽へスーッ。

ケチ兵衛のまいたワイロで、地獄は時ならぬ好景気。

赤鬼も青鬼も仕事などやめて、のめや歌えの大騒ぎ。

その金が回り回って、極楽へ来た。

ニセ小判であることはすぐに知れたから、極楽から貨幣偽造及び収賄容疑で逮捕状が出た。

武装警官がトラックに便乗して閻魔の庁を襲う。

閻魔大王以下、馬頭牛頭、見る目嗅ぐ鼻、冥界十王、赤鬼青鬼、ショウヅカの婆さんまで、残らずひっくくられて、刑務所へ。

地獄は空っぽ。

だから、「死ぬなら今」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【うんちく】

彦六の残した珍品

民話、民間伝承を基にしたと思われますが、原話は不明です。もともとは上方落語です。八代目林家正蔵(彦六)と六代目三遊亭円生が大阪の二代目桂三木助から直伝されましたが、円生は手掛けず、彦六が事実上の東京移植者になりました。彦六の後は孫弟子の春風亭小朝が継承。

本家の大阪では、三代目桂文我から桂春之輔に伝わっています。音源は、残念ながら正蔵のものはなく、上方の桂文我のCDが出ています。いずれにせよ、東西とも継承者の少ない、珍品中の珍品といえるでしょう。

「倒叙型」演出も

推理小説では、犯人が当初から明らかにされる倒叙型という手法がありますが、八代目林家正蔵(彦六)は、たまにこの噺でオチを最初に言う演出をとることがありました。

今回のあらすじで参考にした『林家正蔵集』上巻(青蛙房、1974年)の速記では言っていないため、実際に高座で演ずる場合に客の反応や客ダネを見て判断していたものと思われます。オチが考えオチなので、客に対する配慮でもあったのでしょう。

こうした演出を採る噺は数少なく、東京落語ではほかには、やはり正蔵が手掛けた「蛸坊主」があるくらい。上方落語では「苫ケ島」「後家馬子」があります。

牛頭馬頭

ごずめず。地獄の常連です。劇画「子連れ狼」の道中陣ですっかりおなじみになりましたが、牛頭人身と馬頭人身の地獄の獄卒を合わせてこう呼んだものです。

見る目嗅ぐ鼻

みるめかぐはな。こちらも地獄の常連。閻魔の庁の裁判官で、先に小旗を付けた矛の上に、人の生首が突き刺さっているグロテスクな姿として描かれます。亡者の善悪をすべて見通すと伝えられています。

冥界十王

めいかいじゅうおう。閻魔大王を最高位とする、地獄の十人の幹部です。以下の通り。

閻魔大王
泰広王
初江王
宗帝王
五官王
変成王
太山王
平等王
都市王
五道転輪王

中央に閻魔が座り、左右にこのお歴々が着席することになっています。

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紫檀楼古木 したんろうふるき 演目 

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

渋い噺。古木の爺さんが妙にカッコいいですね。

【あらすじ】

ある冬の夕暮れ、薬研堀のさる家。

なかなかおつな年増で、芸事ならばなんでもいけるというご新造が、お女中一人と住んでいる。

「らおやーァ、きせるー」
と売り声がしたので出てみると、ボロボロの半纏の袖口が水っぱなでピカピカ光っている、汚いじいさん。

ちょうどご新造の煙管が詰まっていたので、女中が羅宇の交換を頼む。

いやに高慢ちきな態度で、専門家の目で見ると趣味の悪い代物なのに、金がかかっていることを自慢たらたら。

じいさんは嫌な気がしたが、仕事なのでしかたがない。

じいさん、玄関先で煙管をすげ替えていると、ご新造がそれを窓から見て、
「あんな汚らしいじじいを煙管に触れさせるのはイヤだ」
と文句を言う。

二人の、汚い汚いという言葉が聞こえてきたので、爺さんはむっとして、代金を受け取る時、
「これをご新造に取り次いでほしい」
と、なにか書いてある紙切れを渡した。

ご新造がそれを読んでみると
「牛若の ご子孫なるか ご新造の 吾れを汚穢(むさ)し(=武蔵坊)と 思いたまひて」
という皮肉な狂歌。

だんなが狂歌をやるので、自分も少しはたしなみがあるご新造。

「ふーん」
と感心して、矢立てでさらさらと
「弁慶と 見たはひが目か すげ替えの 鋸もあり 才槌もあり」
と返歌をしたためて届けさせる。

それをじいさんが見て、またも、
「弁慶の 腕にあらねど 万力は 煙管の首を 抜くばかりなり 古木」
と、今度は署名入りの返歌をよこした。

その署名を見て、ご新造は仰天。

紫檀楼古木といえば、だんなの狂歌の先生の、そのまた先生という、狂歌界の大名人。

元蔵前の大きな羅宇問屋の主人だったが、番頭にだまされて店をつぶされ、今は裏店に住んで、市中を羅宇のすげ替えに歩く身。

ご新造は、さっそく無礼を詫びて家に招き入れた。

とりあえず、お風邪でも召しては、と綿入れの羽織を差し出す。

古木、断って
「ご親切はありがたいが、私はこのこの荷物をこう担げば、はおりゃー、着てるゥー(らおやー、きせるー)」

★auひかり★

【うんちく】

現行は短縮版

原話は不詳で、文化年間(1804-17)に作られた、古い狂歌噺です。

最古の速記は、明治28年(1895)6月、雑誌『百花園』に掲載の二代目柳家小さんのものですが、小さんは当時既に引退していて隠居名「禽語楼」を名乗っています。

その小さんのバージョンは、現行よりかなり長く、この前に、零落した古木が女房に別れてくれと迫られ、「いかのぼり 長きいとまに さるやらば 切れて子供の 泣きやあかさん」と詠んで、女房が思いとどまるくだり、子供が、自身番の前でいたずらをし、町役になぐられて泣いて帰ってきたので、「折檻を 頂戴いたす お蔭には せがれ面目 なく(無く=泣く)ばかりなり」と詠んで、町役を謝らせる逸話を付けています。

円生、彦六の演出

戦後は八代目林家正蔵(彦六)と六代目三遊亭円生という、同世代で犬猿の仲といわれた両巨匠が、競うように演じました。二人は共に、円朝直門の最後の一人、三遊一朝(1847-1930)に習ったもの。

やり方では、円生の方が、ご新造と女中のやりとりなど、細かくなっています。

正蔵は、ご新造の返歌の「すげ替えの」を、「背に負いし」としていますが、こうした演者による細かい異同は、昔からあったようです。

オチ近くでご女中がご新造にたしなめられ、ペコペコしながらもつい「今は落ちぶれて」だの、「これは私がいただいて、私のボロ半纏をこのじじいに」などと口にしてしまうくだりが、円生演出にありましたが、これは二代目小さんからの踏襲でした。

正蔵は、取り次ぎの女中が最後までなにがなにやらわからず、つっけんどんのまま終わるやり方でした。

狂歌

滑稽味を骨子とする、和歌のジャンルとしては平安時代からありましたが、歌壇をはばかり「言いすて」として、記録されることはほとんどありませんでした。

近世に入って江戸初期、松永貞徳(1571-1653)の指導で、大坂で盛んになりました。

初期には石田未得の『吾吟我集』のような古歌のパロディーが主流でした。

江戸では、海の向こうでナポレオンが生まれた明和6年(1769)、唐衣橘洲が自宅で狂歌会を催したのがきっかけで、同好の大田南畝らと盛んに会を開くうち、これが江戸中の評判に。

天明年間(1781-89)になると、狂歌の大ブーム、黄金時代を迎えました。その時期の狂歌は、自由な機知と笑いが溢れ、「天明ぶり」とうたわれています。その後、文化年間(1804-18)になると低俗化し、次第に活力を失います。

狂歌師の中でも蜀山人は偶像的存在で、落語にも、その逸話や狂歌を紹介するだけの多くの「狂歌噺」が生まれましたが、今ではこの「紫壇楼古木」を除いてすたれています。それすら、円生、正蔵没後は、ほとんど後継者がいません。

噺家兼業の狂歌名人

紫壇楼古木は、この噺で語られる通り元は大きな羅宇屋の主人でした。

朱楽管江に師事した寛政から文化年間にかけての狂歌後期の名匠です。

同時に落語家でもあって、狂歌噺を専門にしていたため、その創始者ともいわれます。本名は藤島古吉。辞世は、「六道の 辻駕籠に 身はのり(乗り=法)の 道ねぶつ(念仏)申して 極楽へ行く」

【語の読みと注】
新造 しんぞう:下級武士や上級町人の妻女
煙管 きせる
羅宇 らお
裏店 うらだな
唐衣橘洲 からごろもきっしゅう:1743-1802
大田南畝 おおたなんぽ:蜀山人、1749-1823
紫壇楼古木 したんろうふるき:1777-1832
朱楽管江 あけらかんこう:1740-1800

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ざこ八 ざこはち 演目

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お、聴かせるな、と思いきや、オチはやっぱり落語でした。

【あらすじ】

眼鏡屋の二男坊の鶴吉。

年は二十二になるが、近所でも評判の男前で、そのうえ働き者で人柄がいいときている。

そこで、これも町内の小町娘で、金持ちの雑穀商ざこ八の一人娘のお絹との縁談がまとまり、鶴吉は店の婿養子に迎えられることになった。

ところが、その婚礼の当日、当の鶴吉がふっと姿を消してしまう。

それというのも、貧乏な眼鏡屋のせがれが玉の輿にのるのをやっかんだ連中が、小糠三合あれば養子に行かないというのに、おめえはざこ八の身上に惚れたか、などといやがらせを言うので、急に嫌気がさしたから。

それから十年。

上方に行って一心に働き、二百両という金をためた鶴吉が、久しぶりに江戸に戻ってきた。

十年前の仲人だった桝屋新兵衛方を訪ね、ようすを聞いてみると、とうの昔に店はつぶれ、ざこ八もこの世の人ではないという。

あれから改めてお絹に、葛西の豪農の二男坊を養子にとったが、そいつが身持ちが悪く、道楽三昧の末財産をすべて使い果たし、おまけにお絹に梅毒まで移して死んだ。

ざこ八夫婦も嘆きのあまり相次いで亡くなり、お絹は今では髪も抜け落ち、二目と見られない姿になって、物乞い以下の暮らしをしているという。

「お絹を今の境遇に追いやったのは、ほかならぬおまえさんだ」
と新兵衛に言われて、返す言葉もない。

せめてもの罪滅ぼしと、鶴吉は改めて、今では誰も傍に寄りたがらないお絹の婿となり、ざこ八の店を再興しようと一心に働く。

上方でためた二百両の金を米相場に投資すると、幸運の波に乗ったか、金は二倍、四倍と増え、たちまち昔以上の大金持ちになった。

お絹も鶴吉の懸命の介抱の甲斐あってか、元通りの体に。

ある日、出入りの魚屋の勝つぁんが、生きのいい大鯛を持ってきた。

ところがお絹は、今日は大事な先の仏(前の亭主)の命日で、精進日だからいらない、と断る。

さあ、これが鶴吉の気にさわる。

いかに前夫とはいえ、お絹を不幸のどん底へ落とし、店をつぶした張本人。

それを言っても、お絹はいっこうに聞く耳を持たない。

夫婦げんかとなり、勝つぁんが見かねて止めに入る。

「おかみさんが先の仏、先の仏ってえから今の仏さまが怒っちまった」

夫婦の冷戦は続き、鶴吉が板前を大勢呼んで生臭物のごちそうを店の者にふるまえば、お絹はお絹で意地のように精進料理をあつらえ始める。

一同大喜びで、両方をたっぷり腹に詰め込んだので、腹一杯でもう食えない。

満腹で下も向けなくなり、やっとの思い出店先に出ると、物乞いがうずくまっている。

「なに、腹が減ってる ああうらやましい」

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【しりたい】

ご存じ、三木助十八番

もともとは上方落語の切りネタ(大ネタ)で、東京では戦後、二代目桂三木助直伝で三代目三木助、八代目林家正蔵(彦六)が、東京風のやり方で売り物にしました。

特に、三木助がこの噺を好み、十八番として、しばしば演じています。

本家の上方では、六代目笑福亭松鶴が得意にし、東京でも、二代目桂小南が、上方風で演じました。

あまり出来がいいともいえない噺なので、現在は、東京ではあまり演じ手がいません。

三木助門下だった入船亭扇橋が継承していたくらいでしょう。

上方では「ざこ八」の名は、「ざこく(=雑穀)屋八兵衛」が、縮まったものと説明されます。

前後半で異なる原話

前半の、「今の仏様が怒った」までの原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「二度添」、同3年(1774)刊『軽口五色帋』中の「入婿の立腹」です。

「二度添い」では、亭主が、何かにつけ後妻に難癖をつけ、「もとの仏(=先妻)がいたら」と、ぐちるのでけんかに。

隣の太郎平が仲裁に入り、「今の仏も悪い人でもない」と、オチになります。

その翌年に京都で出た「入婿の立腹」では、あらすじ、オチともほぼ現行通りになっていて、明らかに、その間に改作されたものでしょう。

東京の正蔵は。「先の仏」と題し、前半で切っていました。

もうひとつ。

上下二つに分ける場合、上方では後半部は「二度のご馳走」と題されることもあります。

後半の原型は、遠く寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻三「自堕落 九」と思われ、オチの物乞いの部分は、明和9年(1772)刊「楽牽頭」中の「大食」が原話です。

「醒睡笑」の方は、食いすぎて、数珠を落としてもうつむいて拾うことさえできない男が、バチあたりにも足指で数珠をはさみながら「じゅず(=重々)ごめんあれ」とシャレる噺です。

大阪の六代目松鶴は、オチを、「ごちそうしたのが腹帯の祝い。そう聞いただけでも腹が大きなる」と、していました。

妊婦の腹と、ごちそうで腹が膨れるのを掛けたものです。

こぬか三合

正確には「こぬか三合持つならば入婿になるな」で、つい最近まで使われていた諺です。

「こぬか三合あったら婿に行くな」とも。

こぬか三合は、わずかな財産の例えで、ほんの少額でも金があるなら、割に合わない婿になど入るな、という戒めです。

長子相続が徹底していた江戸時代、特に武士の次男、三男は、家の厄介者で、婿養子にでも行かなければ、まともな結婚など夢の夢。

婿入りしたならしたで、養父母にはいびられ、家付き娘の女房はわがまま放題。男権社会なのに、四六時中気苦労が絶えないという、経験者の実感がこもっています。

「養子に行くか、茨の藪を裸で行くか」など、似たニュアンスの格言はたくさんあります。

精進料理

盆、法事、彼岸、祥月命日などに、魚鳥その他の生臭物を断ち、野菜料理を食する習慣が古くからありました。

こうした戒律はキリスト教やイスラム教にもあるので、ここに日本文化を見いだすことはナンセンスです。

これが終わるのを精進明け、精進落ちといい、逆に精進に入る前に、名残にたらふく魚肉を食らうのを精進固めといいました。

もちろん、願掛けなどで、一定期間精進するならわしは明治初期までは普通に行われていました。

悲劇的な「後日談」

「女ごころといえばそれに違いもあるまいが、これが原因で夫婦生活に破錠をきたし、お絹が家出をして二年目に、葛西の荒れ果てた堂の中で死んでいた。行年三十。その時お絹の着ていた薄い綿入れの着物に雨が当たって、やわやわとした草が生えた。大正年代まで夜店でよくみかけた絹糸草だが、夫婦仲の悪くなるという縁起をかついで、この頃ではもう下町でもあまり見掛けないようである」     『落語国・紳士録』(安藤鶴夫)

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とどのつまり【とどのつまり】ことば

【RIZAP COOK】

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「とど」というのは、ボラ(魚)の成魚のこと。

ボラはいわゆる出世魚で、オボコ、イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと名が変わり、トドが最後の「留め名」です。

噺家でいえば円生、役者なら團十郎というところ。つまり、人間にとっては、太ってもっとも食べごろになった状態です。そこから派生して、それ以上はない、ぎりぎり、限度という意味が付きました。

「つまり」も同義語で、「最終的に」「結局は」という意味ですから、「とどのつまり」は言葉の重複、というより、「とど」が「つまり」をより強調した形になります。別の語源説では「とど」は「到頭(とうとう)」が短縮されたものとも言います。

「とど」単独では、主に歌舞伎台本で、セリフの応酬から場面が転換する切れ目に、締めくくりをつけて新たな展開を準備するため、地で説明する部分がよくあります。それが「ト書き」で、「ト」は「トド」の略。

古くは日常でも「結局」の意味で使われ、芝居の影響で人情噺、芝居噺でもよく用いられましたが、昭和57年(1982)に亡くなった八代目林家正蔵(彦六)を最後に、もう高座でも死語と化したようです。

【RIZAP COOK】

風の神送り かぜのかみおくり 演目

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なあんだ、だじゃれが言いたくて作った噺、かな。

【あらすじ】

町内に悪い風邪が流行したので、まじないに「風(=風邪)の神送り」をすることになった。

奉加帳を回し、その夜、町内総出でにぎやかに掛け声。

鳴り物に合わせて
「そーれ、かーぜのかーみ、送れ、どんどん送れ」
「送れ、送れ、かあぜのかあみ送れ」
という具合に、一人一人順番に送りながら最後の人間で風の神を川に放り込むという趣向。

ところが、
「かーぜのかーみー、おくれ」
と言うと、
「おなごりィ、おーしい」
と誰かが引き止めてしまったから、みんなカンカン。

寄ってたかって引きずり出すと、覆面をしているので、むしり取ったら薬屋の若だんな。

「とんでもねえ野郎だ」

やっとこ、若だんなが改心して、ようやく風の神を川の中へ。

ちょうどその時、大川で夜網をしている二人が大物を釣り上げた。

引き上げると人間。

「おい、てめえは何だ」
「オレは風の神だ」
「あァ、夜網(=弱み)につけ込んだな」

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【しりたい】

原話は藪医者ばなし

安永5年(1776)、大坂で刊行の落語本『夕涼新話集』中の「風の神」が原話です。

あらすじは、以下の通り。

新春早々患者が寄り付かず、食うや食わずで悲鳴をあげている藪医者が、風邪が流行りだしたと聞いて大喜び。これで借金とおさらばできると、同じ境遇の藪仲間二、三人と陽気にお祝いをしていると、外で鉦や太鼓の音。聞いてみると、「これは風の神送り(=追放)の行事です」と言うので藪医者はくやしがり「ええ、いらんことを。無益な殺生だ」

米朝、彦六が復活

本来、上方落語としてポピュラーな噺でしたが、上方では長くすたれていたのを、桂米朝が昭和42年(1967)に復活。

東京では、二代目桂三木助の直伝で八代目林家正蔵(彦六)が専売特許としました。

それ以前にも、前半の薬屋の若だんなまでのくだりは、小咄程度の軽い噺として、明治期に二代目談洲楼燕枝、三代目蝶花楼馬楽などが演じていました。

オチについては、正蔵(彦六)が、昔は「風の神が弱みにつけこむ」といった俚言があり、それを踏まえたのではないかと述べていますが、出典ははっきりしません。

風の神

風の神は風邪をはやらせる疫病神です。

江戸の頃、悪性のインフルエンザによる死亡率は、特に幼児や老人といった抵抗力の弱い者にとって、コレラ、赤痢、ジフテリアに劣らぬ高さだったでした。個々人による祈祷や魔除けのまじないのほかに、この噺のような町内単位の行事が行われたのは、無理もないところでした。

『武江年表』で「風邪」を検索すれば、幕末の嘉永3年(1850)、4年(1851)、安政元年(1854)、4年(1857)、万延元年(1860)、慶応3年(1867)と、立て続けに流行の記事が見えます。この際、幕府から「お助け米」が出ています。

風の神送れ

「風の神送り」のならわしは、本来は物乞いを雇って、灰墨を顔に塗って風の神に見立てたり、鬼や人形を作って町中で練り歩き、鉦太鼓でにぎやかに「風の神送れ」(上方では「送ろ」)と隣の町内に追い払うもの。

そうして、順送りにし、最後は川に流してしまうわけです。

江戸末期になると、しだいに簡略化され、明治初期には完全にすたれたといいます。

音曲噺「風の神」

風の神の新入りが義太夫語りの家に忍び込み、失敗するという音曲噺「風の神」がありましたが、現在は演じ手がありません。

【語の読みと注】
奉加帳 ほうがちょう
藪医者 やぶいしゃ
鉦 かね
談洲楼燕枝 だんしゅうろうえんし
蝶花楼馬楽 ちょうかろうばらく

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大どこの犬 おおどこのいぬ 演目

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動物が主人公の上方噺。大富豪に飼われていた犬の物語です。

別題:鴻池の犬(上方)

【あらすじ】

日本橋石町の、さる乾物屋で、朝、表戸を開けようとすると、なにかが引っ掛かっているのか、開かない。

小僧が裏口から回って見てみると、戸袋のところに箱が置いてあり、中には白と黒とぶちの犬の赤ん坊。

川の中に放り込んでも寝覚めが悪いから、飼ってやることにしたが、そのうち、黒いのを小僧が大変かわいがり、兄弟同然にして育てた。

ある日、商人風の男が尋ねてきて、主人にお宅の黒犬を譲ってほしいと、五両差し出す。

飼い主の小僧は品川に使いに行って留守なので、一日返事を待ってもらったが、翌日の昼、男がやってきても小僧はまだ戻らない。

これ以上引き延ばすことはできないので、事情によっては独断で決めようと主人がわけを尋ねた。

男は大坂鴻池の、東京の出店の者。

主人の坊ちゃんがかわいがっていた黒犬が死んだので代わりを探しているが、その犬は熊そっくりに喉に月の輪型の差し毛があり、そっくりなのがなかなか見つからずに困っていたところ、たまたま、ご当家の犬が同じ所に同じ形の月の輪があるのを見てお願いにあがった、決して殺して生き血を取るというような料簡はなく、大坂へ連れて帰って坊ちゃんの遊び相手をするだけだから、ぜひ譲ってほしいと事を分けて頼むので、主人も、鴻池のような大家にもらわれれば、クロもぜいたくができ、出世だからと、その場で承知して犬を引き渡す。

大坂にもらわれたクロは、下にも置かず大切にされ、エサがいいせいか、毛もつやつやとして、体もずんずん大きくなった。

いつしか近所の犬どものボスになり、「鴻池のクロ」といえば知らぬ者はないぐらいのはぶり。

ある日、クロが門前で日向ぼっこをしていると、見慣れない、みすぼらしい灰色の犬がよたよたと現れる。

おっそろしく汚いので
「てめえは何者だ」
「へえ、このへんに鴻池のクロさんてえ方が」
「クロはオレだ」
「あっ、兄さん、お懐かしゅうございます」

よく見ると、犬は末の弟のシロ。

兄弟感激して対面をして、わけを尋ねると、自分がもらわれた後、それを知った小僧が大変に怒って、腹いせにシロと中の弟のブチは家を追いだされた、という。

二匹で食うや食わず、掃き溜めでゴミあさりをしていた。

突然、野犬狩りの太い棒が飛んできて、ブチは
「キャーン」
と言ったのが、この世の別れ。

シロは一匹になって、上の兄貴を頼ろうと艱難辛苦の末、ボロボロになって大坂にたどり着いたとやら。

聞いたクロ、
「オレに任せておけばもう心配いらねえ。エサはゲップが出るほどもらえるし、オレの犬小屋は人間サマが寝られるくらい広いから、二、三匹来たって驚きゃしねえ、大船に乗った気でいろ」
と請け合い、
「クーロ、クロクロクロクロ」
と呼ばれるたびに、鯛だのカステラだのを、弟に持ってきてやる。

シロは食べたことのないものばかりで、目をシロクロ。

また
「クーロ、クロクロ」
と兄貴が呼ばれたから、今度はどんなものを持ってくるかと期待して待っていると、今度はしおしおと手ぶらで、
「坊ちゃんのオシッコだった」

【しりたい】

上方落語の逆輸入版

原話は、安永2年(1773)刊の笑話本『聞上手』中の「犬のとくゐ」。 

これは、オチを含む後半部分の原型で、黒とブチ、二匹の犬の会話になっています。「黒こいこい」と呼ぶ声がするので、何かエサでももらえるのだろうとブチに促されて黒が行ってみると、「子供の小便だった」というたわいないもので、これは、上方で子供に小便させる時の「クロクロクロ」(またはシーコイコイ)を利かせたものです。

この原話を含む笑話本は、江戸のものですが、落語としては上方で、「鴻池の犬」として磨かれました。

桂米朝は「題名を明かさずに演じた方が、初めの捨て子のくだりがおもしろい」と述べています。オチは、今では「クロクロ」がわかりにくいので、米朝は「コイコイコイ」とやっています。

東京版は「彦六十八番」

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明治30年(1897)ごろ、初代三遊亭円左が東京に「逆輸入」しました。円左は大阪のものをそのままやっていましたが、のちに三代目三遊亭円馬が「大どこの犬」と改題して東京風に演じ直し、鴻池を岩崎、犬が最初に拾われる場所を、大坂南本町から江戸日本橋石町と変えました。

円馬の芸の愛弟子だった八代目桂文楽は手掛けることなく、東京では戦後、上方の桂文次郎直伝のものを八代目林家正蔵(彦六)が再構成し、十八番にしました。

正蔵は、もらわれ先を再び大坂鴻池に戻し、犬がはるばると東海道を下っていくことにして、噺に奥行きとスケールを出していました。その没後は、三遊亭円窓が継承して演じるほか、最近は、地味ながらアットホームな一種の人情譚として若手の高座にも取り上げられているようです。

鴻池善右衛門

鴻池の始祖新六は、講談で名高い山中鹿之助の次男と伝えられます。

その子、初代善右衛門が、摂津鴻池村で造り酒屋を営んだことから家名がつき、初代は海運業に進出する傍ら、明暦2年(1656)、大坂内久宝寺町に両替屋を開き、延宝2年(1674)、現在の大阪市東区今橋2丁目に本拠を移しました。

以来、大名貸しや新田開発などで巨富を築き、「今橋の鴻池」といえば、全国どこでも富豪の代名詞で通るほどになりました。

上方落語では「三十石」「莨の火」「占い八百屋」などに数多くその名が出ていて、明治までで十代を数えます。

十代目善右衛門(1841-1920)は、明治10年(1877)に第十三国立銀行を設立するなど、明治大正の関西財界に君臨しました。

黒犬の生き血

難病治療に効果があると信じられました。ヨーロッパでも黒犬は魔力を持つものと見なされ、黒ミサや呪術でしばしば生贄とされていました。

大どこ

東京版のタイトルですが、大金持ちの意味です。「オオドコロ(大所)」が略されたものでしょう。「犬になるとも大どこ(所)の犬になれ」という諺があり、意味は「寄らば大樹の陰」と同じです。

【語の読みと注】
石町 こくちょう
鴻池 こうのいけ

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田舎芝居 いなかしばい 演目

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町じゃ端役なのに田舎だと名代なんていうのは、ありそうなはなしですね。

【あらすじ】

田舎の鎮守の祭礼に、村芝居を出すことになった。

やり方を教えてくれるお師匠番が必要だが、一流の役者や振付師を頼むと千両ふんだくられると聞いた。

世話人がぶったまげ、
「それなら一番安くて悪い先生を頼もう」
と、捜し当てたのが江戸、下谷北稲荷町に住む本名、柴田与三郎。芸名、中村福寿という下回り役者だ。

この男、昼間は芝居で馬の足、夜は噺家になるという掛け持ち稼業。

江戸でこそ、昼馬、夜鹿(噺家=しか)で合わせて「ばか」だが、田舎に来ると、芝居の神さま扱い。

庄屋杢左衛門の家に招かれて、下にも置かぬ大歓迎。

すっかりいい気持ちになり、
「だしものはなんです」
と尋ねると、
「なんでも、よくわからねえべが、幕を取ると向けえにお鎮守さまが祭ってござって、その傍にお天神さまがえらくいて、黄色い頭の天神さまに青いお天神、黒い爺さまの天神さん、土地べたイ座って箱の中から戦する時かぶる笠のようなものを」
と、シドロモドエオで説明するので、どうやら「仮名手本忠臣蔵」大序兜改めの場と、知れた。

そこで、なんとか衣装をあり合わせでそろえ、セリフも付けたが、田舎言葉なのでなんともしまらない。

稽古の時に衣装を外に干しておいたので、その間に蜂が烏帽子に入ったのも知らずに師直役の農民が
「だまらっしゃい、若狭どん。義貞討死した時大わらわ、死げえの前に落ち取った兜の数四十七、どれがどれとはわからねえのを奉納したその後で、アタタ」

蜂の出所がないから、あっと言う間にコブだらけ。

頭がふくれ上がったから、見物
「どこの国に師直とデコスケの早変わりがあるだ」
と怒り出す。

次は、四段目判官切腹。

花道から出るはずの諸士が出てこない。

福寿があわてて
「ショシ、ショシ」
と呼んだのを、次の幕の山崎街道の場に出る猪役がシシと聞き間違え、飛び出したので芝居はメチャクチャ。

見物が
「判官さまが腹切るに、猪が出るちゅうことがあるか」
「それがさ、五万三千石の殿さまが腹切るから、領内の獣が暇乞いに来ただんべ」

底本: 六代目桂文治

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【しりたい】

おらが村の大歌舞伎

原型は文化4年(1807)刊の『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九作の滑稽本『田舎草紙』と思われます。

これは丹波国 現・兵庫県)氷上郡の農村を舞台にし、村芝居で忠臣蔵七、九、十段目を農閑期の農民が土地のなまりそのままで演じていくおかしさを趣向にしたものです。

七段目で主人公、大星由良之助に、敵役の斧九太夫が芝居中に酔ってからみ、取っ組み合いの大ゲンカになったり、遊女おかる役の馬喰が転んで金玉を強打、悶絶したりと、さまざまなくすぐりを織り交ぜていますが、現行の落語の筋とは違っており、一九の趣向をヒントに、落語家が自由に、いろいろなくすぐりを創作してできたものでしょう。

この『田舎草紙』でちょっとおもしろいのは、村芝居を演じたり見物する百姓たちが、落語の中で揶揄されているのと異なり、決して本場の歌舞伎に無知ではなく、ある者は「去年江戸で見てきた」と言っているように、特に「忠臣蔵」の筋や登場人物くらいはほとんどの者がよく知っていることでしょう。

「近頃はいづくのうらでも、素人芝居はやりて、田舎も、まち場には、損料にて芝居の衣装、貸す所あり」と記されていて、江戸も末期になると、封建社会の農村にも、すでに「文化の波」が押し寄せてきていたことがわかります。

仮名手本忠臣蔵

人形浄瑠璃としては寛延元年(1748)8月大坂竹本座、歌舞伎は同年12月大坂嵐座初演。竹田出雲ほか三名の合作です。

「黄色い頭の天神さま」は大序「鶴岡八幡宮境内・兜改めの場」で、足利直義公が黄色の立烏帽子を被っているのを言ったもの。「青いお天神」は同じく桃井若狭助が青の長烏帽子、敵役の高師直が黒の長烏帽子を着用していることを指します。

「だまらっしゃい」は、反乱を起こし戦死した新田義貞の兜を八幡宮に奉納するという時、師直が文句を付けるのを若狭助がいさめたのに対し、師直が「だまれ若狭。出頭第一の師直に向かい、卒爾とはなにが卒爾。義貞討死のみぎりは大わらわ。死骸のそばにうち散りし、兜の数が四十七。どれがどうとも見知らぬ兜。奉納をしたその後で、そうでなければ大きな恥。生若輩のなりをして、お尋ねもなき評議。ええ、引っ込んでおいやれェ」と罵倒するセリフです。

さまざまなやり方

明治期、芝居噺を得意とした六代目桂文治の速記では、忠臣蔵の大序から五段目「山崎街道」までを通しで、その段ごとに村人の失敗を描く長講でした。文治は上下に分けていて、現行は上の部分です。

オチは、江戸の役者(この噺では福寿)がコブだらけになる演出があり、その場合は「さすがは江戸の役者。師直と福助の早替わりだ」と落とします。これは、顔が腫れてフクスケ人形そっくりになることと、江戸で有名な役者の中村福助を掛けたものですが、現在はわかりにくく、戦後は八代目林家正蔵(彦六)が手がけたほか、演じ手がありません。

四代目橘家円蔵は「四段目」「五段目」を中心にして「五段目」の題で演じ、この型が「五段目」として、現在になんとか伝わっています。同じ円喬が「素人芝居」と題した別の速記では、「五段目」の部分と「蛙茶番」を続けて演じるなど、長い噺なので、切り取り方に演者の工夫がありました。

【語の読みと注】
下谷北稲荷町 したやきたいなりちょう
庄屋杢左衛門 しょうやもくざえもん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ
敵役 かたきやく
斧九太夫 おのくだゆう
馬喰 ばくろう
損料 そんりょう
桃井若狭助 ももいわかさのすけ
長烏帽子 ながえぼし
高師直 こうのものなお
卒爾 そつじ
揶揄 やゆ

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藁人形 わらにんぎょう 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

陰々滅々な。怪談噺でもなく人情噺でもなさそうな。落とし噺ですか。

別題:丑の刻参り

【あらすじ】

神田竜閑町 の糠屋の娘おくまは、ぐれて男と駆け落ちをし、上方に流れていった。

久しぶりに江戸に舞い戻ってみると、すでに両親は死に、店も人手に渡っていた。

どうにもならないので千住小塚っ原の若松屋という女郎屋に身を売り、今は苦界の身である。

同じく千住の裏長屋に住む、西念という願人坊主。

元は「か」組の鳶の者だったが、けんかざたで人を殺し、出家して、家々の前で鉦を叩いてなにがしかの布施をもらう、物乞い同然の身に落ちぶれている。歳は、もう六十に手が届こうかという老人。

その西念が若松屋に出入りするようになり、おくまの親父に顔がそっくりだということもあって、二人は親しい仲になった。

ある梅雨の一日。

いつものように西念がおくまの部屋を訪れると、おくまは上機嫌で、
「近々上方のだんなに身請けされ、駒形に絵草紙屋を持たせてもらうから、そうなったら西念さん、おまえを引き取り、父親同然に世話をするよ」
と言ってくれる。

数日後にまた行ってみると、この前とうって変わって、やけ酒。

絵草紙屋を買う金が二十両足りないと、いう。

西念、思案をして、
「実は昔出家する時、二十両の金を鳶頭にもらったが、使わずにずっと台所の土間に埋めてあるから、それを用立てよう」
と申し出る。

西念が金を取ってきて渡すと、おくまは大喜び。

「きっとすぐに迎えに行くから」
と約束した。

それから七日ほど夏風邪で寝ていた西念。

久しぶりに若松屋に行っておくまに会い、あのことはどうなったと尋ねると、意外にも女はせせら笑って
「ふん、おまえが金を持っているという噂だから、だまして取ってやったのさ。何べんも泊めてやったんだ。揚げ代代わりと思いな」

西念はだまされたと知って、憤怒の形相すさまじく
「覚えていろ」
と叫んでみてもどうしようもなく、外につまみ出された。

二十日後。

甥の陣吉が西念を尋ねてくる。

大家に聞くと、もう二十日も戸を締め切って、閉じこもったままだという。

この陣吉、やくざ者で、けんかのために入牢していたが、釈放されたのを機にカタギとなり、伯父を引き取るつもり。

陣吉に会って、そのことを聞いた西念は喜んで、祝いにそばを頼み方々、久しぶりに外の風に当たってくると、杖を突いて出ていったが、行きしなに
「鍋の中を覗いてくれるな」
と、言い残す。

そう言われれば見たくなるのが人情で、留守に陣吉がひょいと仲をのぞくと、呪いの藁人形が油でぐつぐつ煮え立っている。

帰ってきた西念、
「見たか。これで俺の念力もおしまいだ。くやしい」

泣き崩れるので、事情を聞いてみると、これこれしかじか。

「やめねえ伯父さん、藁人形なら釘を打たなきゃ」
「だめだ。おくまは糠屋の娘だ」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【しりたい】

オチは諺から

オチの部分の原話は安永2年(1773)刊の笑話本、『坐笑産』中の「神木」で、これはある神社で丑の時参りの呪詛をしている者がご神木にかけた藁人形に灸をすえているのを神主が見つけて、「これこれ、なぜ釘を打たぬのか?」と尋ねると、「もうなにを隠しましょう。私が呪う男は、糠屋さ」というものです。 

どちらにせよ、オチが「のれんに腕押し」と同義の「ぬかに釘」を踏まえていて、ぬらりくらりで釘を打っても効果がないほどしたたかな女、ということと掛けてあるわけです。もう一つ、「糠釘」と呼ぶ、屋根のこけら葺きに用いる小さな釘があるので、縁語としても効いているのでしょう。

願人坊主

その姿は、歌舞伎舞踊「浮かれ坊主」や世話狂言「法界坊」に活写されていますが、ボロボロの衣らしきものをまとっただけの、ほとんど裸同然で町々をさまよい、物乞いをしたり、時には代参や代垢離を請け負ったりします。

もっとも、願人坊主といってもピンからキリまでで、「黄金餅」やこの「藁人形」に登場の西念は、それ相応の小金も溜め込み、第一裏店とはいえちゃんとした長屋に住んでいるのですから、身分は人別帳(=戸籍)にも載っている普通民です。

もともと願人坊主の語源は、上野の寛永寺の支配下で、出家を願って僧籍の欠員があるのを待っている者という説があります。西念は身を持ち崩してもまだ身内も住居もあり、いわゆる「はっち坊主」と呼ばれる乞食坊主にまでは落ちぶれていないということでしょう。落語ではほかに「らくだ」にも登場します。

西念の名の由来

西念は、五代目古今亭志ん生の十八番「黄金餅」にも、アンコロ餅といっしょに金をのみ込んで悶死する守銭奴として登場しますが、西念の名は、四谷・鮫ヶ橋谷町(現・新宿区若葉二丁目)の西念寺(現存)から採ったものと思われます。

ここは旧幕時代には江戸有数のスラム街で、願人坊主が特に多く住みついていました。

西念寺は、家康の懐刀で伊賀忍者の棟梁、初代服部半蔵正成が、晩年の文禄年間(1592-96)に剃髪して西念と号した際、自らの菩提のために開基したもので、寺名はその法号にちなみます。

千住小塚っ原

千住宿は四宿(ほかに新宿、板橋、品川)の一で、奥州・日光街道の親宿 (起点)ですが、大きく千住大橋をはさんで上宿と下宿に分けられました。橋の北側の上宿に本陣がありましたが、南詰めの下宿には小塚原、中村町の二つの遊郭があり、千住の仕置場(=処刑場)が近いことから通称「コツ(=骨)」または「コヅカッパラ」と呼ばれました。

全盛期には旅籠14軒を数えたといいます。上宿にももちろん飯盛女(=女郎)がいましたが、どちらかというと南の「コツ」の方は一般の旅人を始め、船頭・農民などの遊ぶごく安っぽい岡場所でした。

落語には「今戸の狐」に「コツの女郎」が登場するほか、五代目志ん生の「お直し」でも、主人公の吉原の若い衆がこっそり遊びに行く場所として説明されています。

小塚原遊郭は荒川区南千住五丁目から六丁目、回向院から素盞鳴神社に向かう辺りで、細い路地(コツ通り)の両側に遊女屋が並んでいました。ただし、五代目志ん生は、下宿のコツではなく、上宿(本宿)で演じました。

か組

町火消は享保5年(1720)に町奉行、大岡越前の献策で発足したものです。西念の前身が「か組」の鳶の者だったという設定ですが、町火消はいろは四十八組に分けられ、か組は神田佐久間町、旅籠町、湯島天神前辺を分担していました。佐久間町は火事が多く、悪魔町と呼ばれたとか。

彦六から歌丸へ

明治期には、初代三遊亭円右が得意にしていました。円朝門下で円右の「叔父分」に当たる三遊一朝の直伝で、八代目林家正蔵(彦六)、五代目古今亭今輔が戦後十八番とし、円右に傾倒していた五代目古今亭志ん生も好んで演じました。

別題を「丑の刻参り」というように、元来は陰気で怪奇性が強い噺でしたが、今輔の方はどちらかというと、従来通り凄みを利かせて演じ、正蔵は人情噺の要素を多くして、西念の哀れさや甚吉の誠実な生きざまを描写することで後味のよい佳品に仕上げました。

両師の没後、継承者がなくすたれていましたが、桂歌丸が1980年代に復活し、正蔵のやり方を多く取り入れて演じていました。

神田竜閑町

現在の千代田区内神田二丁目、首都高速神田橋ランプの東側です。かつては南側の神田堀入り口に竜閑橋が架かり、付近には白旗稲荷神社があって、にぎわいました。地名の由来は、井上立閑という者がこのあたりを開発したことにちなみます。

【語の読みと注】
神田龍閑町 かんだりゅうかんちょう
糠屋 ぬかや
千住小塚っ原 せんじゅこづかっぱら
若松屋 わかまつや
鳶 とび
坐笑産 ざしょうみやげ
糠釘 ぬかっくぎ
人別帳 にんべつちょう
素盞鳴神社 すさのおじんじゃ
井上立閑 いのうえりゅうかん

【藁人形 桂歌丸】

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本膳 ほんぜん 演目

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【RIZAP COOK】

今も悩ますテーブルマナー。フレンチばかりか和食にだって昔から。

【あらすじ】

ある村のむらおさ(庄屋)の家で嫁取りをした。

村の衆が婚礼の際に祝物を贈った返礼に、今夜、村のおもだった者三十六人が招待され、ごちそうになることになったが、誰も本膳の作法や礼式を知らない。

恥をかきたくないので、江戸者の手習いのお師匠さんに頼んで、泥縄で教えてもらうことにした。

相談された師匠、
「今夜ではとても一人ずつ稽古する時間はないから、上中下どこの席についても、自分のすることをまねするように」
と言い、
「羽織りだけは着ていくように」
と注意する。

「それなら間違えがねえ」
と一同安心して、いよいよ宴席。

主人があいさつし、盃が回された後、いよいよ本膳。

師匠が汁碗の蓋を取ると、一同同じように蓋を取る。

師匠が一口吸うと、隣の男が次席の者に
「これ、二口吸うでねえぞ。礼式に外れるだ。一口だぞ。一口一口」

これを順番に同じ文句で隣の人間に伝えていくのだから、末席まで伝わるのにえらく時間がかかる。

今度はご飯を一口食うと、同じように
「たんと食ってはダミだぞ」
と伝達が回る。

師匠、おかしくなってクスリと笑うと、とたんに鼻先に飯粒が二粒くっついた。

一同、さあ、食うだけでは礼式を違えると、一斉に飯粒を鼻へ。

間違って五粒くっつけてしまった男が、あわてて三粒食ってしまう騒ぎ。

平碗が出て、中身は悪いことに里芋の煮っころがし。しかも箸が塗り箸だから、ヌルヌルしてはさめない。

師匠、不覚にもつるっと箸がすべって、膳の上に芋が転がり出た。

仕方なく箸で突っ付いていると、さっそくあちらでもこちらでも芋をコロコロコロ。箸でコツンコツンやるから、膳は傷だらけ。

先生、
「今のは違う違う」
といくら注意しても聞こえないから、隣の脇腹を拳固で突いた。

「あいてッ、今度の礼式はいてえぞ」
とまた、その隣をドン。それがまた隣をドン。

「いてえ、あにするだ」
「本膳の礼式だ。受け取ったら次へまわせ」
「さあ、この野郎」
「そっとやれ」
「そっとはやれねえ。覚悟スろ。ひのふのみ」
「いててッ」

最後の三十六人目が思いきり突いてやろうと隣を見ても誰もいない。

「先生さまぁ、この礼式はどこへやるだ?」

底本:八代目林家正蔵(彦六) 三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

大昔から変わりなく

後漢(25-220)の笑話集『笑林』中の「-人欲相共只喪」が最古の原話とされます。

これは、葬列で足を踏まれた人が怒って「バカ」と罵ったのを後ろの者が追悼の儀礼と勘違いし、一同まねして「バカ」と叫んだというお話。 

日本の笑話では、元和年間(1615-24)刊の『戯言養気集』中の無題の小咄で、信濃国深志の連中が伊勢参宮して御師(=伊勢神宮の神職)に膳をふるまわれ、先達の坊さんが山椒にむせて顔をしかめ、水をのんだのを全員まねする、というお笑い。万治2年(1659)刊の『百物語』にも、にゅう麺の薬味の山椒にむせてクシャミをし、四つんばいで退出するのをまた一同まねする小咄があります。

各地の民話に類話があるようで、現代の結婚式風景などを見ても、テーブルマナーなるものが古今東西、いかに人を悩ませてきたかが伺われます。

本膳

日本料理の正式の膳立てで、ふつうは三の膳まであります。最初に出る一の膳を本来「本膳」と呼びますが、三の膳までひっくるめてそう呼ぶ場合もあります。

正式なマナーとしては、和え物と煮物に続けて箸をつけない、菜と汁をいっしょに食べない、迷い箸をしない、おかわりの時は飯碗を受け取ったら必ず一度膳に置く、などがあります。いやはや、うるさいことです。本膳では、一の膳に飯がつくのがふつうです。

彦六、小さんが得意に

三代目柳家小さんから四代目を経て、五代目小さんに受け継がれていたほか、三代目小さんの養子だった二代目柳家つばめに教わって、八代目林家正蔵(彦六)もよく演じました。地味で笑いも少なく、ウケにくい噺なので、現在は若手ではほとんど手掛ける者がなく、CDも出ているのは五代目小さんのもののみです。

正蔵のものは、小さん系のやり方とほとんど変わりありませんが、招待されるきっかけが違っています。三代目小さんの大正3年(1914)の速記では名主の家へ江戸者の婿が来る披露で、庄屋以下が出かける設定です。江戸の人間に村の恥を見せたくないという見栄が、師匠に作法を習いに行く動機になっているわけです。

正蔵ではこの要素を省き、村長の招待で村民一同が出かけることにしてあります。これで、名主と庄屋は同じであるのに、同じ地方の一つの村に同時にいるのはおかしいという矛盾を解消しています。

オチは、五代目小さんは「この拳はどこへやるだ?」としていました。

村長

むらおさ。庄屋、名主に同じです。藩主(天領の場合は幕府→代官)の任命で、地頭(代官)の下で年貢そのほか、村の事務を司りました。関東以北で名主、関西で庄屋と呼びました。

講談にも類話

講談「荒茶の湯」では、福島正則以下の無骨な侍が、茶の席で上座の加藤清正を逐一まねして失敗します。

【RIZAP COOK】

中村仲蔵 なかむらなかぞう 演目

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役者が主人公の噺。法華信仰が見える噺でもあります。芝居と信仰の濃い関係。

別題:蛇の目傘

【あらすじ】

明和3年(1766)のこと。

苦労の末、名題に昇進にした中村仲蔵は、「忠臣蔵」五段目の斧定九郎役をふられた。

あまりいい役ではない。

五万三千石の家老職、斧九太夫のせがれ定九郎が、縞の平袖、丸ぐけの帯を締め、山刀を差し、ひもつきの股引をはいて五枚草鞋。山岡頭巾をかぶって出てくるので、どう見たって山賊の風体。

これでは、だれも見てくれない。

そこで仲蔵、
「こしらえに工夫ができますように」
と、柳島の妙見さまに日参した。

満願の日。

参詣後、雨に降られて法恩寺橋あたりのそば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできた。

年のころは三十二、三。月代が森のように生えており、黒羽二重の袷の裏をとったもの、これに茶献上(献上博多)の帯。

艶消し大小を落とし差しに尻はしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰にはさみ、破れた蛇の目をポーンとそこへほうりだす。

月代をぐっと手で押さえると、たらたらとしずくが流れるさま。

この姿に案を得た仲蔵は、拝領の着物が古くなった感じを出すべく、黒羽二重を羊羹色にし、帯は茶ではなく白献上、大小は艶消しではなく舞台映えするように朱鞘、山崎街道に出る泥棒が雪駄ではおかしいので福草履に変えて、こしらえが完成。

初日は、出番になる直前に手桶で水を頭からかけ、水のたれるなりで見得を切った。

初日の客は、あまりの出来にわれを忘れ、ただ息をのむばかり。

場内は水を打ったような静けさ。

これを悪落ちしたと勘違いした仲蔵は葭町の家に戻り、「もう江戸にはいられない。上方に行くぜ」と女房のおきしに旅支度をととのえさせる始末。

そこへ、師匠の中村伝九郎から呼ばれる。

行ってみると、師匠は仲蔵の工夫をほめたばかりか、仲蔵の定九郎の評判で客をさばくのに表方がてんてこまいしたとのこと。

これをきっかけに芸道精進した中村仲蔵は、名優として後世に名を残したという話。めでたし、めでたし。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

初代中村仲蔵

1736-90年。江戸中期の名優です。屋号は栄屋、俳号は秀鶴。長唄の太夫、中山小十郎の女房に認められて養子に。器量がよかったので、役者の中村伝九郎の弟子になり、三味線弾きの六代目杵屋喜三郎の娘おきしと結婚。努力の末、四代目市川団十郎に認められ、厳しい梨園の身分制度、門閥の壁を乗り越えて名題となりました。実録では、立作者の金井三笑に憎まれたのが定九郎役を振られた原因とか。

初代中村仲蔵

定九郎の扮装

定九郎の、扮装を含む演出は、仲蔵の刷新によって一変したわけではありません。仲蔵以後、かなりの期間、旧来のものが並行して演じられていたようです。特に、定九郎の出で、与一兵衛の後ろのかけ藁に隠れていて白刃を突き出し、無言で惨殺するやり方は、明らかにずっと後世のもので、それまでは後ろから「オーイオーイ」と呼びながら現れる従来の演出がずっと残っていたわけです。その切り替わりの時期、誰が工夫したのか、仲蔵の工夫は本当に噺通りだったのかは諸説あります。

タネ本

国立劇場編『名優芸談集』所収の「東の花勝見」(文化12=1815年11月刊、永下堂波静編)に、ほとんど同じ逸話が、仲蔵本人から西川鈍通(伝未詳)への直話として書かれています。つまり、仲蔵が鈍通に語った話をそのまま、予(=永下堂)が直接聞いた通りに記した、とあります。

参詣した場所に関しては王子稲荷、浪人を見た場所は、その帰りの道灌山下通り稲荷森(とうかもり)とあります。仲蔵本人の直話とあれば、記憶違いや伝聞に伴う誤記でなければ、こちらが正しいのでしょう。

衣装の工夫については、今日の演者が誰でも説明する通り、大縞の木綿広袖に丸ぐけ帯、狩人のかぶる麻苧の山岡頭巾に脚絆草鞋の従来の形から、「今は誰にても黒小袖に傘となりしは、此時より始る」とあるので、少なくともこの出で立ちに関しては文化年間にはもう定着していたようです。

仲蔵のこの逸話については、落語以外にもさまざまにあることないこと脚色され、まことしやかに書かれています。

戸板康二の短編小説「夕立と浪人」は、小説の形を取りながら、当時の劇壇の事情やヒエラルキー、仲蔵の出自や幼時の虐待の回想、初代菊五郎や五世團十郎との人間関係などを織り交ぜ、ただの芸道苦心譚には終わらない優れた人間ドラマとなっています。

この中では、定九郎役を仲蔵に振るように、親友の団十郎がボスの菊五郎に使嗾する設定で、浪人への遭遇はやはり柳島妙見願掛け満願の帰り、地内のそば屋のできごととしてあります。

芝居者のいじめ

以下は、前掲「夕立と浪人」の中で、初代中村仲蔵が後輩に語る、自らが幼時に受けたすさまじいいじめの実状です。もちろんフィクションの形ですが、なかなか真に迫っています。以下、引用です。

子役の時によくやられたのは、長持を背負わされる折檻だ。小道具の刀だの鏡だのがらくたをみんなが面白そうに入れて、うんと重くなったやつを、連尺で背負わされ、ここから向うに飛べと、板の間の板を、あいだ八枚はずして、いうのだ。

(飛べなければ)あいだに長持を背負ったまま、落っこちるのだ。(中略)義経の八艘飛びというのだ。

十五の声がわりになってからのでは、編笠責めというのがある。三階の連中の草履をからげて、頭にかぶらせるのだ。それから撞木責めというのがある。梁に吊り下げられて、みず(ぞ)おちを小づかれるんだ。こっちが釣鐘になっているんだ。

人間、いつの時代もトラウマと恨みつらみを背負って、駆け上がっていくのでしょうか。

手前味噌

この噺は、江戸末期-明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809-85)の自伝的随筆『手前味噌』の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものでしょう。

悟道軒円玉の「名人中村仲蔵」と」題する速記も残っていて、落語と同内容ですが、仲蔵の伝記がさらに詳しくなっています。円玉は明治の講釈師で速記講談のパイオニアでもある人物です。

近年では、松井今朝子の伝記小説『仲蔵狂乱』(講談社刊)が、仲蔵の苦悩の半生を描くとともに、当時の歌舞伎社会のいじめや差別、被差別のすさまじさ、役者の売色の生々しい実態などをリアルに活写した好著です。

役者の身分

当時の役者は、下立役(稲荷町=いなりちょうと通称)、中通り、相中(あいちゅう)、相中上分(あいちゅうかみぶん)、名題下、名題と、かなり細かく身分が分かれ、家柄のない者は、才能や実力にかかわらず、相中に上がれれば御の字。名題はおろか、並び大名役がせいぜいの名題下にすらまず一生なれないのが普通でした。

五段目

「仮名手本忠臣蔵」五段目、通称「鉄砲渡し」の場の後半で、元塩冶判官(浅野内匠頭)家来で今は駆け落ちした妻・お軽の在所・山崎で猟師をしている早野勘平が、山崎街道で猪と間違え、斧定九郎を射殺する有名な場面です。

定九郎の懐には、前の場でお軽の父・与市兵衛を殺して奪った五十両が入っており、それは、婿の勘平に主君の仇討ち本懐を遂げさせるためお軽が祇園に身を売って作った金。何も知らない勘平はその金を死骸から奪い……。

というわけで、次幕・六段目、勘平切腹の悲劇の伏線になりますが、噺の中で説明される通り、かってはダレ場で、客は芝居を見ずに昼食をとるところから「弁当幕」と呼ばれていたほど軽い幕でした。

柳島の妙見さま

日蓮宗の寺院、法性寺の別称。墨田区業平にあります。役者・芸者など、芸能者や浮き草稼業の者の信仰が厚いことで知られました。妙見は北極星の化身とされます。

正蔵と円生

戦後では、八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生という江戸人情噺の二大巨匠がともに得意としました。

円生は、役者の身分制度などをマクラで細かく、緻密に説明し、芝居噺の「家元」でもあった正蔵は、滋味溢れる語り口で、芝居場面を忠実に再現しました。

最近では、五街道雲助のが光ります。

正蔵のオチ

もともと、この噺は人情噺なのでオチはありません。ただ、正蔵の付けたものがあります。

師匠からたばこ入れをもらって帰宅した仲蔵に女房おきしが、「なんだね、おまえさん。いやですねえ。あたしを拝んだりして。けむに巻かれるよう」と言うと仲蔵が「けむに巻かれる? ……ああ、もらったのァ、たばこ入れだった」

【語の読み】
名題 なだい
定九郎 さだくろう
釜九太夫 おのくだゆう
縞の平袖 しまのどてら
丸ぐけの帯
山刀 やまがたな
股引 ももひき
草鞋 わらじ
山岡頭巾 やまおかずきん
風体 ふうてい
法恩寺橋 ほうおんじばし
月代 さかやき
黒羽二重 くろはぶたえ
袷 あわせ
茶献上 ちゃけんじょう
雪駄 せった
蛇の目 じゃのめ
拝領 はいりょう
羊羹色 ようかんいろ
朱鞘 しゅざや
山崎街道 やまざきかいどう
福草履 ふくぞうり
手桶 ておけ
見得 みえ
悪落ち あくおち
葭町 よしちょう
中村伝九郎 なかむらでんくろう
稲荷森 とうかもり

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】

おかめ団子 おかめだんご 演目

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【RIZAP COOK】

麻布名物「おかめ団子」を舞台にした地味でつつましい人情噺。 志ん生のお得意。

【あらすじ】

麻布飯倉片町に、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早仕舞いをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田に緋縮緬の長襦袢、 鴇(とき)色縮緬の扱帯(しごき)を胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、三代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

【しりたい】

実在した団子屋

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅亀は団子で名は高し」と川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人で、釣り好きでしたが、あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。

それを亀団子といいましたが、二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉をまぶした団子で、一皿十六文と記録にありますが、明治の三代目麗々亭柳橋の速記には五十文とあり、これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生、八代目林家正蔵(彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、麗々亭柳橋の速記では「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱(あさぎ=薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」といいますから、当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。今でこそハイブローな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。志ん朝の「黄金餅」でも必ず触れていました。

【RIZAP COOK】

強情灸 ごうじょうきゅう 演目

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筋よりも表情や仕方が命。演技力が問われる、なかなかの噺です。 

別題:やいと丁稚(上方)

【あらすじ】

ある男が友達に、灸をすえに行った時の自慢話をしている。

大勢の先客が、さぞ熱いだろうと尻込みする中で、自分の番がきたので、すーッと入っていくと、
「この人ァ、がまんできますかな」
「まあ、無理でしょう」
と、ひそひそ話。

癪にさわった強情者、
「たかが灸じゃねえか、ベラボウめ、背中で焚き火をするわけじゃああるめえ」
と、先生が止めるも聞かばこそ、一つでも熱くて飛び上がるものを、両側で三十二もいっぺんに火をつけさせて、びくともしなかったと得意顔。

それだけならいいが、順番を譲ってくれたちょっといい女がニッコリ笑って、心で「まあ……この人はなんて男らしい……こんな人をわが夫に」なんて思っているに違いないなどと、自慢話が色気づいてくるものだから、聞いているほうは、さあ面目ない。

「やい、豆粒みてえな灸をすえやがって、熱いの熱くねえのって、笑わせるんじゃねえや。てめえ一人が灸をすえるんじゃねえ。オレの灸のすえ方をよっく見ろっ」

よせばいいのに、左腕にモグサをてんこ盛り。

「なんでえ、こんな灸なんぞ……石川五右衛門てえ人は、油の煮えたぎってる釜ん中へ飛び込んで、辞世を詠んでらあ。八百屋お七ィ見ろい。火あぶりだ。なんだってんだ……これっぽっちの灸……トホホホホ、八百屋お七……火あぶりィ……石川五右衛門……お七……五右衛門……お七……五右衛門……」
「石川五右衛門がどうした」
「ウーン、五右衛門も、熱かったろう」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

「やいと丁稚」と「強情灸」

江戸っ子の熱湯好きと強情のカリカチュアなので純粋な江戸落語という印象がもたれますが、実は、上方落語「やいと丁稚」が東京に移植されたものです。両者を比べると、かなりのニュアンスの相違、東西の気質の違いが明白です。

「やいと丁稚」は、商家の主人が丁稚にやいと(灸)をすえ、泣き叫ぶので自分ですえてみせますが、あまりに熱いので「辛抱でけんかったら、こうやって払い落としたらええのや」とポンポンとはたく仕種でオチになるもので、子供の手前強がってみせるだけで結局がまんもなにもしませんから、強情噺でもなんでもありません。古い商家の日常の一コマを笑い飛ばしたに過ぎないはなしでしょう。

その点、東京の「強情灸」のほうは、かなりの落語的誇張があるとはいえやせがまんという、いかにも「武士は食わねど…」の町らしい江戸っ子気質が前面に出ていますから、いわば本歌取りでまったく新しい噺を作ったに等しいといえます。

だいいち、プラグマティストの大阪人から見れば、こんなたわいなく子供じみたガマンくらべなど、ただのアホとしか見えないのではないでしょうか。

志ん生、小さんの強情くらべ

五代目古今亭志ん生、ついで五代目柳家小さんの十八番で、どちらを聴いても四、五十年前までは生き残っていた爺さん連、銭湯で水をうめようとするとどなりつけたという下町気質の人々を思い起こさせます。

いずれにしても「見る」要素の強い噺で、だんだん表情が変わり、顔が真っ赤になっていくところが見せ場です。

短いので、マクラ噺として、熱湯に入った男が強情を張り、「あー、ぬるい、トホホホ、あんまりぬるいんで気が遠くなっちゃった」「うん、ぬるくて、足に湯が食いつくね」「ぬるいってのに、あー、なんだ、こっちを向くな。動くんじゃねえっ」(志ん生)という次第になる小咄を入れます。

有痕灸と無痕灸があり、有痕灸の方は皮膚に直接モグサを乗せるので熱く、わざと火傷を作ってその強烈な刺激で、血液中に免疫物質を作り出して治す、というのが一応の能書きです。

無痕灸はずっと穏やかで、皮膚にショウガ、ニンニク、ニラ、杏の種、味噌、塩などを塗り、その上にモグサを乗せるので、痕も残らず苦痛もありません。

当然、この噺の灸は前者の有痕灸で、これは普通の人間で一回に米粒大のを一つ、それを五回程度といいますから一度に三十二すえたときの熱さがどれほどのものか。やるほうもやるほう、やらせるほうもやらせるほうで、これは焼身自殺に近い、狂騒曲のさまです。

モグサ

ヨモギを乾燥させて精製したもので、伊吹山の麓が本場です。

モグサ売りの口上は、「江州伊吹山のほとり柏原、本家亀屋左京、薬もぐさよろし」というもので、節を付けて売り歩きました。

初代亀屋左京は江戸に出て、吉原のお女郎さんに頼んでこの宣伝歌を広めてもらった、というのが桂米朝師匠の説。

彦六の強情話

強情で「トンガリ」の異名があった、八代目林家正蔵(彦六)は熱湯好きで、弟子を引き連れて湯に行ってもうめさせず、尻込みしていると「てめえたちゃあ、へえらねえと破門だぞ」と脅したという、弟子の林家木久扇演じる「彦六伝」の一節。

志ん生のSP

戦時中の昭和18年(1943)6月、「がまん灸」と題してテイチクからリリースしています。志ん生の戦前のレコードはこれが最後で、金原亭馬生時代の昭和10年(1935)2月に発売された「氏子中」以来、14種出されています。

蔵前駕籠 くらまえかご 演目

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維新間際、駕籠客狙う追い剥ぎの一党が。荒んだ世情も落語にかかれば、ほら。

【あらすじ】

ご維新の騒ぎで世情混乱を極めているさなか。

神田・日本橋方面と吉原を結ぶ蔵前通りに、夜な夜な追い剥ぎが出没した。

それも十何人という徒党を組み、吉原通いの、金を持っていそうな駕籠客を襲って、氷のような刃を突きつけ
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるので、その方に所望いたす。命が惜しくば、身ぐるみ脱いで置いてゆけ」
と相手を素っ裸にむくと
「武士の情け。ふんどしだけは勘弁してやる」
「へえ、ありがとうございます」

こんなわけで、茅町の江戸勘のような名のある駕籠屋は、評判にかかわるので暮れ六ツの鐘を合図に、それ以後は一切営業停止。

ある商家のだんな。

吉原の花魁から、ぜひ今夜来てほしいとの手紙を受け取ったため、意地づくでも行かねばならない。

そこで、渋る駕籠屋に掛け合って、
「追いはぎが出たらおっぽり出してその場で逃げてくれていい、まさか駕籠ぐるみぶら下げてさらっていくことはないだろうから、翌朝入れ物だけ取りに来ればいい」
と、そば屋にあつらえるようなことを言い、駕籠賃は倍増し、酒手は一人一分ずつという条件もつけてようやく承知させる。

こっちも支度があるからと、何を思ったかだんな、くるくるとふんどし一つを残して着物を全部脱いでしまった。

それをたたむと、煙草入れや紙入れを間に突っ込み、駕籠の座ぶとんの下に敷いてどっかと座り、
「さあ、やれ」

駕籠屋が
「だんな、これから風ェ切って行きますから寒いでしょう」
とからかうと、
「向こうに着きゃ暖め手がある」
と変なノロケを言いながら、いよいよ問題の蔵前通りに差しかかる。

天王橋を渡り、前方に榧寺門前の空地を臨むと、なにやら怪しい影。

「だんな、もう出やがったあ。お約束ですから、駕籠をおっぽりますよっ」
と言い終わるか終わらないかのうちに、ばらばらっと取り囲む十二、三人の黒覆面。

駕籠屋はとっくに逃げている。

ぎらりと氷の刃を抜くと、
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるのでその方に所望いたす。命が惜しくば……これ、中におるのは武家か町人か」

刀の切っ先で駕籠のすだれをぐいと上げると、素っ裸の男が腕組み。

「うーん、もう済んだか」

【しりたい】

江戸の駕籠屋

蔵前茅町の江戸勘、日本橋本町の赤岩、芝神明の初音屋を、江戸三駕籠屋と称しました。

江戸勘と赤岩は吉原通い、初音屋は品川通いの客が多く利用したものです。

これを宿駕籠といい、個人営業の辻駕籠とは駕籠そのものも駕籠かきも、むろん料金も格段に違いました。

駕籠にもランクがあり、宝仙寺、あんぽつ、四ツ手と分かれていましたが、もっとも安い四ツ手は垂れ駕籠(むしろのすだれを下ろす)、あんぽつになると引き戸でした。

ルーツは『今昔物語』に

いかにも八代目正蔵(彦六)が得意にしていた噺らしい、地味で小味な一編ですが、原話は古く、平安末期成立の説話集『今昔物語』巻二十八中の「阿蘇の史、盗人にあひて謀りて逃げし語」です。

時代がくだって安永4年(1775)刊の笑話集『浮世はなし鳥』中の「追剥」では、駕籠屋の方が気を利かせてあらかじめ客を裸にし、大男の追い剥ぎが出るや「アイ、これはもふ済みました」と、すでに「蔵前駕籠」と同じオチになっています。

榧寺門前

榧寺は現在の東京都台東区蔵前三丁目、池中山正覚寺のことです。浄土宗で芝の増上寺に属します。

昔、境内に榧の大木があったので、この名が付いたといわれますが、その榧の木は、秋葉山の天狗が住職と賭け碁をして勝ち、そのかたに実を全部持って行ったために枯れ、その枯れ木で天狗の木像を刻んで本尊としたという伝説があります。

江戸時代は水戸街道に面し、表門から本堂までかなり長かったといいます。

はつねのつづみ【初音の鼓】演目 

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歌舞伎『義経千本桜』中、有名な「狐忠信」のパロディー です。

別題:ぽんこん

【あらすじ】

骨董好きの殿さまのところに、出入りの道具屋・金兵衛が怪しげな鼓を売り込みに来る。

側用人の三太夫に、これは下駄の歯入れ屋のじいさんが雨乞いに使っていた鼓で、通称「初音の鼓」という。

じいさんが
「今度娘夫婦に引き取られて廃業するので形見にもらった」
と説明。

これを殿さまに百両でお買い上げ願いたいと言うから、三太夫はあきれた。

なにしろこの男、この間も真っ黒けの天ぷら屋の看板を、慶長ごろの額と称して、三十両で売りつけたという「実績」の持ち主。

金兵衛、殿さまの身になれば、「狐忠信」の芝居で名高い「初音の鼓」が百両で手に入れば安いもので、一度買って蔵にしまってしまえば、生涯本物で通ると平然。

「もし殿が、本物の証拠があるかと言われたら、どうする」
「この鼓を殿さまがお調べになりますと、その音を慕って狐がお側の方に必ず乗り移り、泣き声を発します、とこう申し上げます」
「乗り移るかい」
「殿さまがそこでポンとやったら、あなたがコンと鳴きゃ造作もないことで」

三太夫、
「仮にも武士に狐の鳴きまねをさせようとは」
と怒ったが、結局、一鳴き一両で買収工作がまとまる。

殿さまポンの、三太夫コンで一両。

ポンポンのコンコンで二両というわけ。

早速、金兵衛を御前に召し連れる。

話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。

「これこれ、そちはただ今こんと申したが、いかがいたした」
「はあ、前後忘却を致しまして、一向にわきまえません」

「ポンポン」
「コンコン」
「また鳴いたぞ」
「前後忘却つかまつりまして、いっこうに」
「ポンポンポン」
「コンコンコン」
「ポンポン」
「コンコンコンコン」
「これ、鼓はとうにやめておる」
「はずみがつきました」

「次の間で休息せよ」
というので、二人が対策会議。

いくつ鳴いたか忘れたので、結局、折半の五十両ずつに決めたが、三太夫、鳴き疲れて眠ってしまい、ゆすっても起きない。

そこへ殿さまのお呼び出し。

一人で御前へ通ると、殿さまが
「今度はそちが調べてみい」

さあ困ったが、今さらどうしようもない。

どうなるものかと金兵衛が「ポン」とたたくと、殿さまが「コン」。

「殿さま、ただ今お鳴きに」
「何であるか、前後忘却して覚えがない」
「ありがとうさまで。ポンポンポン、スコポンポン」
「コンコンコン、スココンコン」
「ポンポン」
「コンコン……。ああ、もうよい。本物に相違ない。金子をとらすぞ」「へい、ありがとうさまで」

金包みを手に取ると、えらく軽い。

「心配するな。三太夫の五十両と、今、身が鳴いたのをさっ引いてある」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

歌舞伎のパロディー

古風な噺で、歌舞伎や文楽のファンにはなじみ深い「義経千本桜」の「狐忠信」のくだりのパロディーです。

「初音の鼓」はその前の場「吉野山」で、落ち行く義経が愛妾の静御前に形見に与える狐革の鼓をさします。

親狐の皮でつくったその鼓を慕う子狐が、家来の佐藤忠信に化けて静に同行し、鼓を奪おうとするが、見破られ、静の打つ鼓の音で正体を現すのです。

「初音」の意味は、その浄瑠璃の詞章に「狐は陰の獣ゆえ、雲を起こして降る雨の、民百姓が喜びの声を初めてあげしより」に由来します。

噺の中で下駄屋の爺さんが雨乞いをしたのは、天気だと皆わらじばかり履き、下駄の歯がすりきれないから。

林家彦六がよく演じましたが、立川談志も持ちネタにしていました。

殿さま、金兵衛、三太夫みんな仲良しで、誰もがうそを承知で遊び戯れているような、ほのぼのと捨てがたい味わいが。

別話の「継信」も、別題が「初音の鼓」なので、区別してこの噺は「ぽんこん」とも呼ばれています。

【初音の鼓 三遊亭円生】