はつねのつづみ【初音の鼓】演目 

歌舞伎『義経千本桜』中、有名な「狐忠信」のパロディー です。

別題:ぽんこん

【あらすじ】

骨董好きの殿さまのところに、出入りの道具屋・金兵衛が怪しげな鼓を売り込みに来る。

側用人の三太夫に、これは下駄の歯入れ屋のじいさんが雨乞いに使っていた鼓で、通称「初音の鼓」という。

「じいさんが今度娘夫婦に引き取られて廃業するので形見にもらった」と説明。

これを殿さまに百両でお買い上げ願いたいと言うから、三太夫はあきれた。

なにしろこの金兵衛、先日も真っ黒けの天ぷら屋の看板を、慶長ごろの額と称して、三十両で売りつけた「実績」の持ち主。

金兵衛、殿さまの身になれば、「狐忠信」の芝居で名高い「初音の鼓」が百両で手に入れば安いもので、一度買って蔵にしまってしまえば、生涯本物で通ると平然。

「もし殿が、本物の証拠があるかと言われたら、どうする」
「この鼓を殿さまがお調べになりますと、その音を慕って狐がお側の方に必ず乗り移り、泣き声を発します、とこう申し上げます」
「乗り移るかい」
「殿さまがそこでポンとやったら、あなたがコンと鳴きゃ造作もないことで」

三太夫、
「仮にも武士に狐の鳴きまねをさせようとは」
と怒ったが、結局、一鳴き一両で買収工作がまとまる。

殿さまポンの三太夫コンで一両。

ポンポンのコンコンで二両、というわけ。

早速、金兵衛を御前に召し連れる。

話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。

「これこれ、そちはただ今こんと申したが、いかがいたした」
「はあ、前後忘却を致しまして、いっこうにわきまえません」

「ポンポン」
「コンコン」
「また鳴いたぞ」
「前後忘却つかまつりまして、いっこうに」
「ポンポンポン」
「コンコンコン」
「ポンポン」
「コンコンコンコン」
「これ、鼓はとうにやめておる」
「はずみがつきました」

「次の間で休息せよ」
というので、二人が対策会議。

いくつ鳴いたか忘れたので、結局、折半の五十両ずつに決めたが、三太夫、鳴き疲れて眠ってしまい、ゆすっても起きない。

そこへ殿さまのお呼び出し。

一人で御前へ通ると、殿さまが
「今度はそちが調べてみい」

さあ困ったが、今さらどうしようもない。

どうなるものかと金兵衛が「ポン」とたたくと、殿さまが「コン」。

「殿さま、ただ今お鳴きに」
「何であるか、前後忘却して覚えがない」
「ありがとうさまで。ポンポンポン、スコポンポン」
「コンコンコン、スココンコン」
「ポンポン」
「コンコン……。ああ、もうよい。本物に相違ない。金子をとらすぞ」

「へい、ありがとうさまで」

金包みを手に取ると、えらく軽い。

「心配するな。三太夫の五十両と、今、身が鳴いたのをさっ引いてある」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

歌舞伎のパロディー 【RIZAP COOK】

古風な噺で、歌舞伎や文楽のファンにはなじみ深い『義経千本桜』の「狐忠信」のくだりのパロディーです。「初音の鼓」はその前の場「吉野山」で、落ち行く義経が愛妾の静御前に形見に与える狐革の鼓をさします。

義経は、逃避行に足手まといとなるだろうろ、静御前を吉野の山中に置き去りにします。その際、初音の銘のある鼓を形見の品として静に与えました。紫檀の胴に羊の皮を張った中国渡来の名器です。とは、『義経記』に載っています。

狐忠信とのかかわり   【RIZAP COOK】

『義経記』記載から転じて『義経千本桜』では、鼠退治に功労あった狐の皮でつくったその鼓を、親への愛惜の情を抱く子狐が、義経の忠臣、佐藤忠信に化けて静(初音の鼓を所持している)を守りながらにお供をするという筋立てに変えています。鼓を奪おうとしますが、見破られ、静の打つ鼓の音で正体を現すのです。子狐が涙ながらに述懐するくだりこそ、「狐忠信」の通称で知られる名場面でしょう。

「初音」の意味は、その浄瑠璃の詞章に「狐は陰の獣ゆえ、雲を起こして降る雨の、民百姓が喜びの声を初めてあげしより」に由来します。噺の中で下駄屋の爺さんが雨乞いをしたのは、天気だと皆わらじばかり履き、下駄の歯がすりきれないから。

林家彦六がよく演じましたが、立川談志も持ちネタにしていました。殿さま、金兵衛、三太夫みんな仲良しで、誰もがうそを承知で遊び戯れているような、ほのぼのと捨てがたい味わいが。別話の「継信」も、別題が「初音の鼓」なので、区別してこの噺は「ぽんこん」とも呼ばれています。

さらに猫忠も   【RIZAP COOK】

「初音の鼓」はここまでの筋立てですが、三味線に張った皮の猫の子と変えたのが「猫の忠信」(猫忠)となります。酒を「ただ飲む」猫の忠信、駿河屋の次郎吉で駿河次郎、亀屋の六兵衛で亀井六兵衛、弁慶橋に住む吉野屋の常兄いで義経、常磐津文字静で静御前というふうに、登場人物も「義経記」や「義経千本桜」に沿ってあります。

猫忠

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【初音の鼓 三遊亭円生】

ひつけとうぞくあらため【火付盗賊改】ことば 江戸覗き

現代では町奉行よりも有名になった火付盗賊改。池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズでは「火盗改」とも略されています。この項では、火付盗賊改の実際について記します。落語には出てきませんが、江戸を覗くということでおつきあいください。

江戸の治安  【RIZAP COOK】

町奉行」や「与力、同心」の項目で記したように、江戸の町方は南北の与力、同心を合わせても300人にも満たない数で100万都市の治安と行政を受け持っていたのですから、行き届きませんでした。それを補う警察組織として、放火犯や盗賊団を取り締まる凶悪犯罪専門を受け持つのが火付盗賊改でした。

池波は小説では長谷川平蔵を「長官」と記したりしていますが、こんなことばは当時はあるわけもなく、「おかしら」「かしら」と呼ばれていたことでしょう。旗本から任命される「御先手頭」の中から火付盗賊改を別に任命していたのです。

御先手組  【RIZAP COOK】

若年寄の支配(管轄)に属し、江戸城本丸の各門の警備、将軍が城外出かける際の警固(警護)を任務と「御先手組」の長を「御先手頭」といいました。「先手物頭」とも。このような職務を江戸時代には「御先手」と呼んでいました。わりと小禄の旗本から成っています。この人たちは戦時では歩兵大隊として最前線で白兵戦の働きをするはずなのですが、平和な時代には使いようもなく、一部は犯罪捜査を受け持ったわけです。自衛隊が災害救助しているようなものでしょうか。御先手組は先手弓組と先手鉄砲組の二分構成でしたが、それとは別に「火付盗賊改」のグループがあり、江戸市中の重犯罪取り締まりに当たっていました。

成り立ちと変遷  【RIZAP COOK】

はじまりは寛文5年(1665)で、幕府が先手頭の水野守正に関東の各地にはびこる強盗一味の捕縛を命じたことからです。

天和3年(1683)、火付改が新設され、先手頭の中山勘解由が兼務を命じられました。元禄12年(1699)には火付改も盗賊改も廃止となりましたが、3年後の元禄15年(1702)、火付改が、翌16年(1703)には盗賊改がまたも設けられました。

宝永6年(1709)には、両改方が統合されて、火付盗賊改が生まれました。享保3年(1718)には博奕改も兼職となり、こうして、火付盗賊改は火付、盗賊、博奕の犯罪をまとめて取り締まることになりました。これでうまくいくかと思いきや、享保10年(1725)には博奕犯は町奉行の管轄となり、火付盗賊改はまたも火付と盗賊だけを管轄することになりました。この組織は、慶応2年(1866)に廃止となるまで江戸の治安を受け持ちました。

実際の活動  【RIZAP COOK】

火付盗賊改は、与力10騎、同心50人ほどで構成されていました。その下に岡引きと下引きが組み込まれているのは町奉行と同じです。幕末には、岡引きは400人、下引きは1000人いたそうです。岡引きと下引きは親分子分の関係です。犯罪捜査は彼らに支えられていましたが、無給の彼らは博奕場を開いたり、商家に難癖をつけて金銭を出させたりと、ろくでもないのが常でした。奉行所は捕り物に差しさわりがないないよう甘い監視でした。

火付盗賊改は町奉行所に比べると、安手で粗いのが特徴です。町奉行の役宅は天保期までありませんでした。それまでは自邸が役宅を兼ねていたといいます。その取り締まりも荒っぽくて、江戸の人々は恐れていました。町奉行所とも権限が交差するため、衝突や対立がひんぱんに起こりました。

たとえば、江戸近在で盗まれて物が江戸で換金されることが増えたため、火付盗賊改の活動範囲は江戸周辺にまで及びました。文化期以降には、関東取締出役(八州廻り)が無宿や浪人の取り締まりをするようになったため、火付盗賊改と係争するケースが増えました。火付盗賊改は町奉行所や関東取締出役と対立することが多くなりました。職務の縄張り争いです。ここでいう「関東」とは、上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)、上総(千葉県)、下総(千葉県、茨城県)、安房(千葉県)、武蔵(神奈川県、東京都、埼玉県)、相模(神奈川県)をさします。関八州ともいいます。今の関東地方ですね。

中山勘解由  【RIZAP COOK】

中山勘解由直守といいます。鬼勘解由と呼ばれるほど、犯罪捜査には凄腕だったそうです。中山家は武蔵七党の一、丹党加治氏の流れをくみます。飯能周辺を領有し、秩父鉄を工夫して武士団を構成しました。小田原北条氏の配下となり、小田原征伐では中山家範とその息子、照守と信吉は八王子城に籠城して死守しましたが、やがて敗北。家範は討ち死に。享年43。残った2人の息子は、その勇猛ぶりを徳川家康に評価され、徳川家臣団に組み入れられました。直参旗本となったのです。

関ヶ原の戦いや大坂の陣などで紆余曲折はありましたが、馬術を得意とした兄の照守は秀忠の指南役を務めるなどして、家は3500石の大身旗本に収まりました。子孫からは町奉行や火付盗賊改の頭などが現れ、武勇家系の評価が受け継がれたのです。直守は照守の孫です。

一方、弟の信吉は水戸藩の附家老(幕府直属の家老)となり、代々は水戸藩領内の松岡領(茨城県高萩市全域、日立市、北茨城市の一部)を有し、立藩をうかがっていましたが、独立できたのは明治2年(1869)でした。松岡藩2万5000石、藩庁は陣屋です。

参考文献:平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社、1988年)、服藤弘司『火附盗賊改の研究史料編』(創文社、1998年)、高橋義夫『火付盗賊改』(中公新書、2019年)、高萩市『高萩市史』(高萩市、1969年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
御先手頭 おさきてがしら
勘解由 かげゆ
附家老 つけがろう:幕府直属の家老
関東取締出役 かんとうとりしまりしゅつやく:八州廻り

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なぬし【名主】ことば 江戸覗き

名主というのは町年寄の下にあったのですね。ここでは、町年寄の下役として江戸の住民に寄った代表者として、双方の間を取り持つ役割を果たしていた名主について記します。

名主の分類  【RIZAP COOK】

名主は、以下のような分類がなされています。

江戸の町の本来の構成員は家持=町人で、名主はその町の代表者です。江戸では家持層が早くから不在となる場合が多く、17世紀末には町名主は姿を消してしまいます。町名主に代わって、家守の代表である月行事が町を代表するようになっていきます。

江戸の町名主には、町が町奉行支配(管理)の区域である「御町中」になった時代によって、以下の4つの分類があったといわれています。

草創名主
慶長年間の町割で町となった地、天正以前からあった村が「御町中」に編入された場合での名主。家康の江戸入り以来の由緒を持ちます。元文年間(1736-41)に29人(のち24人に)いました。

古町名主
寛永年間(1624-44)までに成立した古町を支配(管轄)した名主。文化年間(1804-18)には79人いました。代官支配から町奉行支配になった町の名主です。

平名主
正徳3年(1713)以降に代官支配から町奉行支配になった新市街地の名主。それ以前の町と区別するため「新町」と呼びました。町奉行と代官の両方の支配を受ける土地を「町並地」といいますが、平名主はまさにここが対象となります。

門前名主
寺社奉行から町奉行へ支配が移った町の名主。

正徳3年(1713)とはどんな年か。その年の閏5月15日に、代官支配だった、本所、深川、浅草、小石川、牛込、市谷、四谷、赤坂、麻布などの近郊市街地259町が町奉行支配となったのです。この年こそは、江戸のなりたちを考える上でエポックメイクな年といえるでしょう。

名主の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

名主の仕事はいろいろあります。ざっと並べると以下のとおりです。

町触の伝達
人別改
忠孝奇特者の取り調べ
火の元の取り締まり
火事場での火消人足の差配
町奉行や町年寄からの指示による取り調べ
町奉行所への訴状や届書への奥印
沽券状その他の諸証文の検閲や奥印
支配町内紛議の調停
失行者への説諭
町入用の監査
祭礼の監督と執行

このように見ると、名主は管轄町内のすべて町用と公用にかかわっていたのですね。

名主というのは落語には出てきません。落語を聴いているかぎりでは見落としがちなのですが、当該町と町年寄の中間に位置して、町民の生活に根づいた課題に対処していたのですね。江戸を知る上ではかなり重要な存在といえるでしょう。

名主組合  【RIZAP COOK】

町奉行支配地が拡大していくと、正徳年間(1711-16)には地域ごとに、日本橋北組合、日本橋中組合、日本橋南組合、霊巌島組合、芝組合、神田組合、浅草組合といった名主組合が生まれました。

享保7年(1722)には、これらが再編成されて一番から十七番までの組合に生まれ変わりました。

各番組ごとに年番を決めました。とりわけ、日本橋北の一、二番組と日本橋南の四番組の年番を「南北小口年番」といって、町触などの急なお達しなどを各番組に伝達させるようなネットワークが形成されていきました。番名主はさらに、その頃問題化していた名主のサボりや不正の監督にもあたりました。この番組制は、十八番組から二十一番組まで生まれ、番外の吉原と品川ができて、合計23組となりました。

名主の数は、享保7年(1722)に17組264人いましたが、天保2年(1831)には23組246人へと少し減りました。一人の名主が支配する町の数は平均6、7町でした。

そもそも名主は兼業が禁じられていたため、支配町内から役料を徴収することが許されていました。この金額は、幕末では、平均60両ほどを手にしていたいいます。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
草創名主 くさわけなぬし
古町名主 こちょうなぬし
平名主 ひらなぬし
町並地 まちなみち
町触 まちぶれ
人別改 にんべつあらため
店借人 たながりにん
地借人 じがりにん
家持 いえもち
家主 いえぬし
大家 おおや
家守 やもり
町入用 ちょうにゅうよう

町年寄 月行事

【RIZAP COOK】

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まちどしより【町年寄】ことば 江戸覗き

江戸時代にいう「年寄」とは、世話役のような意味なのですね。ならば、「町年寄」とは。知りたくなりました。ここでは、幕府と町人の間にあってさまざまな行政を受け持たされた町年寄の3家について記します。

3家が世襲  【RIZAP COOK】

江戸の都市行政を管理する町奉行所の下には、3人の町年寄がいました。世襲です。正月3日には、江戸城に年頭挨拶に登城していました。特別な町人といえるでしょう。

樽屋 藤左衛門(与左衛門)を代々名乗る
奈良屋 市右衛門を代々名乗る
喜多村 彦右衛門を代々名乗る

伝達の順序  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。家主、地借人、店借人は家持ではないので町費負担はありませんでした。町人としては認められていませんでした。

職務の中身  【RIZAP COOK】

町年寄はどんなことをするのかといえば、以下のようなことです。

町触の名主への伝達
新開地の地割りと受け渡し
人別の集計
商人や職人の統制
公役、冥加、運上の徴収事務
町奉行の諮問に対する調査と答申
町人の願出に関する調査
民事関係の訴訟の調停

町年寄の居宅は、町人からは役所と見られていました。

樽屋 日本橋本町一丁目に居宅
奈良屋 日本橋本町二丁目に居宅
喜多村 日本橋本町三丁目に居宅

こんなぐあいで、日本橋本町に集中していました。

地割役  【RIZAP COOK】

さらに、町年寄に準ずる職務を受け持つ「地割役」がいました。町触伝達には関係しません。地面の区画調査、屋敷の受け取りや受け渡し、消火後に行う出火元の跡見分などを受け持っていました。火事や地震が頻繁に生じて住まいの強制移転が起こる江戸では重要な役職となりました。

開府直後は木原家が任されましたが、正徳2年(1712)以降は樽屋三右衛門家が世襲するようになりました。樽屋右衛門家は町年寄の樽屋藤左衛門家と親戚です。

町人とは  【RIZAP COOK】

ここで、町人について記しておきます。

町人とは家持のことです。町人=家持。町人の社会的役割のひとつに賃貸しの長屋を持って、わずかな店賃で店子に貸す慣習がありました。

町人は大家を雇います。大家には、店子からの家賃の取り立てやさまざまな問題のめんどうなど長屋の管理運営を任せます。その対価として店賃の免除などの優遇をしていました。

江戸をはじめとした大都市(大坂、京、長崎)には、富裕町人や下層町人のほか、没落した都市下層民をはじめとするさまざまな階層の人々が生活するようになります。

長屋の住人である熊五郎、八五郎、糊屋のばあさんなどは借家人ですから、町人ではありません。

町年寄の収入  【RIZAP COOK】

幕府から拝領した土地から上がる地代が、町年寄の収入となります。600両ほどの利益です。

これとは別に、樽屋は枡の独占販売の収益がありました。毎年200両ほどが入ってきたので、奈良屋、喜多村よりも豊かでした。

枡座という江戸と京都で枡を専売した機関が枡座です。東日本33か国で使われる枡は樽屋が扱っていました。西日本33か国で使われる枡は京都の福井作左衛門が作る枡でした。公許となる両者の枡は焼き印が押されて認証されていました。

樽屋は別格  【RIZAP COOK】

明和2年(1765)以降、町年寄が幕府公用金の江戸町人への貸付を委託されました。とくに樽屋は枡座のかかわりもあってのことか、経済・金融政策に特異な能力を発揮したことで知られます。

寛政改革で、樽屋与左衛門は棄捐令で手腕を発揮したといいます。棄捐令は旗本・御家人の借財整理です。文化期には町人からの御用金の徴収や貸付にもかかわりました。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
地割役 じわりやく
木原家 きはらけ
樽屋三右衛門家 たるやさんえもんけ
跡見分 あとけんぶん
家持 いえもち
家守 やもり:大家さん。名主の代理人。差配人
月行事 がちぎょうじ
店子 たなこ
店賃 たなちん
地借人 じがりにん
店借人 たながりにん

名主 月行事

【RIZAP COOK】

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まちぶぎょう【町奉行】ことば 江戸覗き

時代劇で「お奉行さま」といえば江戸町奉行の職務が思い起こされます。実際にはどんなことをする人だったのでしょうか。知りたくなりました。犯罪者の逮捕ばかりではないようです。そんなことをここでは記します。

職務  【RIZAP COOK】

町奉行は江戸の都市行政全般を担当していました。最高裁判所長官、警視庁総監、東京都庁知事の役目を一手に引き受けていました。今日からみれば奇妙な役職です。

なんといっても町奉行は、幕府の最高意思決定機関とされる評定所一座の一員です。これは、老中、若年寄、寺社奉行、町奉行、勘定奉行などから構成されているもので、重要な裁判、国政の重大問題を審議し決定する機関です。重職のひとつとされました。

町奉行は2人ずつ選ばれました。北町奉行と南町奉行です。

北町奉行所は、常盤橋御門内に置かれましたが、のちに呉服橋御門内に移されました。

南町奉行所は、呉服橋御門内に置かれましたが、のちに鍜治橋御門内、さらには数寄屋橋御門内に移されました。

元禄15年(1702)には中町奉行所が呉服橋御門内の南側に置かれまして三人制となったのですが、中町奉行の坪内定鑑が亡くなってからは終わってしまいました。享保4年(1719)4月14日に短い幕を閉じました。

こうして、幕末の一時期を除き、南北の二人制が続きました。

町奉行は奉行所に住みました。それで、奉行所を「役宅」と呼んだりしていました。

町奉行は、毎日四ツ(午前10時)に登城します。退出後は役宅で訴訟の処理や判決の申し渡しなどを繰り返します。

「月番」といって、ひと月交代で二人の奉行が職務を行いましたが、非番の月でも、月番の間に受理した訴訟などは処理しなければなりませんでした。

2人の町奉行は、月番の役宅で、「内寄合」と称して月3回、事務処理について話し合いました。

江戸時代は管轄や担当を「支配」と呼びましたが、町奉行の支配地は最初の頃は、江戸城周辺の「古町」と呼ばれる300町ほどでした。それが、江戸が膨張するに伴って広がりました。維新直前には、1678町にも及びました。808町の2倍以上です。

こうしてみると、町奉行は激務です。高い能力と人格が求められました。よって、小禄の旗本からも選任されることもありした。いきなり町奉行になることは少なく、だいたいは、勘定奉行→京都町奉行→大坂町奉行などで経験を積んだ旗本のあがり職とされていました。それだけキャリアを積み上げないと勤めあげられない職務だったのでしょう。

在職年数は5-6年が一般的でしたが、まれに1年未満で解任された例もあれば、19年間務めた大岡忠相の例もありました。要は能力次第でした。それには、与力と同心との協調がきわめて重要だったようです。

与力と同心を使う  【RIZAP COOK】

両町奉行には、与力が25騎ずつ、同心が120人ずつ、都合、50騎の与力と240人の同心がいたことになります。

町奉行は、与力・同心をどう操縦するかが腕の見せ所だったようです。彼らに見放されると、町奉行は職務を全うできなかったのです。

与力、同心

参考文献:西山松之助編『江戸町人の研究』四(吉川弘文館、1977年)、佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』(新版、東洋書院、2000年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
評定所一座 ひょうじょうしょいちざ

【RIZAP COOK】

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しょうぐんせんげ【将軍宣下】ことば 江戸覗き


徳川家康は関ヶ原の戦いで勝ったわけですが、その後3年かけて幕府を開くにいたります。でも、どうして3年近くもかかったのでしょうか。知りたくなりました。ここでは、そこらへんを記します。

開幕まで  【RIZAP COOK】

そもそも「幕府」という言葉は明治時代につくられました。歴史学者がつくってみた用語なのだそうです。では、400年前の当時はなんていっていたのでしょうか。「柳営」という言葉があったそうですが、ピンときませんね。とくに定まった言葉があったわけでもなさそうなのです。意外です。

ま、それはともかく。まずは、関ヶ原の戦いから開府までの時系列を記します。

慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の戦いで家康方(東軍)が勝利
慶長6年(1601)8月 上杉景勝が上洛、臣従
慶長7年(1602)8月 島津家久が上洛、臣従
慶長8年(1603)2月12日 家康が征夷大将軍に任官、開府

上杉と島津が上洛して天皇に臣従を誓うまでに時間を要したことが、開府のもたもたとなったということです。

将軍の宣下  【RIZAP COOK】

家康の将軍宣下は伏見城で行われました。

朝廷では大納言広橋兼勝が上卿を務めて陣儀を行い、内大臣徳川家康の将軍任官と右大臣転任を決めました。

すぐに伏見城に勅使が出されました。その数200人以上だったそうです。

伏見城には、前もって武家昵近衆が祗候し、家康は上段中央に南面して座っていました。

勅使がお祝いを述べて着座。上卿らが家康に進み出ると、南庭で副使が二拝し「ご昇進、ご昇進」と大声を出します。

上卿が着座すると、将軍任官の宣旨が官務の壬生高亮から高家大沢基宿に渡され、大沢が家康の前に置きました。家康はこれを一覧し、宣旨の入っていた蓋に長井右近が砂金袋を入れて、壬生に返します。

局務の押小路師生が右大臣の宣旨を渡し、同様の手順で行われました。その後も、同じ手順で、源氏長者、淳和奨学院別当、牛車兵仗の宣旨が渡されました。儀式はこれで終わり。

参列した公家には役割ごとに金が渡され、武家昵近衆には夕餐がふるまわれました。

以上が、慶長8年(1603)2月12日の儀式のあらましです。

御礼の参内  【RIZAP COOK】

3月25日、家康は参内します。任官返礼と新年の挨拶が目的でした。

ときの天皇(後陽成)に銀子1000枚をはじめ、下級女官にまで、なにがしかの銀子を贈っています。

参内行列は九番編制で、譜代家臣、そのとき上洛していた諸国の大名をかき集めて構成したそうです。誰が見ても家康を超える実力者のいないこの時点では、どのようなにわか仕立てでも通用したのでしょう。

その後、二代秀忠の任官・宣下では、伏見城で受けはしましたが、返礼の参内では、八番編制の行列で、上杉景勝、伊達政宗、島津家久、前だ利光などの有力大名を率いて、華美で麗々しい行列だったとのことです。三代家光も伏見城で受けましたが、返礼の参内はさらに仰々しくて、三日間にわたって二条城で猿楽を催しました。

四代家綱以降は江戸城でこれらの儀式は行われ、十四代家茂まで踏襲されました。この場合、勅使はじめ多数の公家や門跡が仰々しく江戸に下向したわけで、そのたびに上方のみやびで風流な文物が江戸に伝わりました。

将軍の上洛は家光からプツンと切れて、家綱以降の江戸での将軍宣下の儀式も多分に形骸化していきました。江戸では返礼参内はなくなるわけで、将軍より上の地位の者がいないことで、将軍の実質的な絶対化現象もここらへんから生まれてきました。逆に言えば、家康の頃には、朝廷の権力も権威もまだ生きていたことになります。

江戸城での将軍宣下  【RIZAP COOK】

江戸城での将軍宣下の際、公家や門跡へのもてなしは、江戸城大広間の南庭に能楽堂を設定して、能楽を催しました。

諸国の大名ばかりか、江戸の町人も、一町に二人まで見物を許可されました。武家の祝いを江戸の町人も共有したことは重要でした。継飛脚で将軍任官を全国に伝達しました。きわめて合理的かつ簡素化したわけです。

これらの式次第は微に入り細をうがちながら、江戸時代の繁栄とともに後世語り伝えられていき、権現神話の一節と醸成されていきました。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、市岡正一『徳川盛世録』(平凡社東洋文化、1989年)、笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版、2000年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、山本博文『徳川将軍と天皇』(中央公論新社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
宣下 せんげ:宣旨を伝える儀式
宣旨 せんじ:天皇が臣下に伝えた文書
上卿 しょうけい:陣儀の主催者
陣儀 じんぎ:公家たちが国政を審議する
武家昵近衆 ぶけじっきんしゅう:武家と交渉する公家
祗候 しこう:つつしんでおそばで奉仕する官務 かんむ
壬生高亮 みぶたかすけ
大沢基宿 おおさわもといえ
局務 きょくむ
押小路師生 おしこうじもろお
門跡 もんぜき:皇族や公家が住持となった特別な寺院

【RIZAP COOK】

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ねこただ【猫忠】演目

明治中期に上方から。当初は「猫の忠信」でしたが、お得意の縮めた呼称に。

あらすじ

美人の清元の師匠に、下心見え見えで弟子入りしている、次郎吉と六兵衛の二人。

次郎が、師匠と兄貴分の吉野屋常吉がいちゃついているのをのぞき、稽古を辞めると息巻くので、六さん、「常兄ィは堅い人なのにおかしいな」と首をひねり、二人で確かめに行くと、案の定、差し向かいで盃をさしつさされつ。

悔しいから、常吉のかみさんに告げ口して、夫婦げんかをあおってやろうと、相談する。

たまたま、今度のおさらい会で師匠が着る衣装を縫っていたかみさん、二人が「師匠が『お刺身の冷たいのは毒だよ』なんぞと口ん中でペロペロと温かにして、兄貴の口へ……」などと並べるのを聞いて「けんかをしずめてくれるのが情けなのに、わざわざ波風を立てに来るのはどういうつもりだい」と、怒り出す。

亭主は今の今、奥で寝ている、という。

噺を聞きつけて当の常吉がノッソリ現れたから、二人は仰天。

いきさつを聞いた常吉。

そういえば、最近床屋に行くと「やっぱり他人じゃないんで、唄のお仕込が違うんでしょう」などと妙なことを言われるので、オレの姿を借りて、師匠の家に入り込んでいる奴がいるのかもしれないと、思いめぐらす。

二人を連れて現場に駆けつけ、障子の隙間からのぞいてみると、なるほど、自分に瓜二つの男が師匠としっぽり濡れているから、驚いた。

これは狐狸妖怪に違いないと、二人に「先ィ入って、向こうで盃をくれたら、油断を見澄まして野郎の耳を触ってみろ。獣は耳を触られると動くから、そうしたら大声で『ぴょこぴょこッ』とでもどなれ」と、言いつける。

二人がおそるおそる声をかけると、酔っぱらった声で「よう、次郎と六じゃねえか。こっちィ入んねえ」

気のせいか、声の調子が違う。

酒を出されると「ひょっとして、馬の小便じゃねえか」と、二人はびくびく。

ご返盃に相手が手を出したところを押さえつけ、耳を触ると案の定、ぴくぴく動く。

「ぴょこぴょこだッ」
と叫ぶ声で、本物の常吉が飛び込んできたので、師匠は
「あら、常さんが二人」
と、仰天。

「やい、おれ……いや、てめえは化性のもんだな。真の吉野屋常吉、吉常(=義経)が調べる。白状しろ」

妖怪はすっかり恐れ入り、
(芝居がかりで)「はいはい、申します申します。わたくしの親は、あれ、あれあれあれ、あれに掛かりしあの三味線、わたくしはあの三味線の子でございます」

師匠の三味線の革にされた親を慕ってきた、とさめざめ泣く。ヒョイと見ると、正体を現した大きな猫がかしこまっている。

「兄貴、今度のおさらいは『千本桜』の掛け合いだろう。狐忠信てのはあるが、猫がただ酒をのんだから、猫がただのむ(=猫の忠信)だ。あっしが駿河屋次郎吉で駿河の次郎。こいつは亀屋六兵衛で亀井の六郎。兄貴が弁慶橋に住む吉野屋の常さんで吉常(義経)。千本桜ができたね」
「肝心の静御前がいねえ」
「師匠が延静だから静御前」

師匠が「あたしみたいなお多福に、静が似合うものかね」と言うと、側で猫が「にゃあう(似合う)」

【RIZAP COOK】

しりたい

著作権料は誰のもの?  【RIZAP COOK】

もともと古い上方落語で、大阪の笑福亭系の祖とされる、松富久亭松竹の創作といわれてきましたが、実は原話は、文政12年(1829)江戸板の初代林屋(家)正蔵著『たいこの林』中の「千本桜」で、ほとんど現行と同じです。

松竹という人、今もって生没年、経歴、年代不詳で、それどころか、実在自体が確認できない、「落語界の写楽」ともいえる謎の噺家です。

それでいて、松竹の手になるといわれる噺は多く、この「猫忠」のほか、「初天神」「松竹梅」「千両みかん」「たちぎれ」など、ほとんど現在でも、東西でよく演じられる名作、佳作ばかりです。

江戸の正蔵が始祖とすると、噺の伝播は江戸→大坂であって、松竹説は怪しくなるのですがともかく、噺としては上方で確立しており、松竹の年代も不明なため、東西どっちがパクったか、真相は藪の中。

猫又にでも、聞いてくださいな。

東西のやり方  【RIZAP COOK】

芝居噺の名手だった、六代目桂文治が明治中期に上方の型を東京に移植。初めは「猫の忠信」の題で演じられましたが、東京ではのちに縮まって「猫忠」とされ、それが現代では定着しました。

その文治の明治30年(1897)の速記を始め、八代目文治、大阪の五代目・六代目松鶴、六代目三遊亭円生とさまざまな名人の速記が残っています。

東西で大きな異同はありませんが、上方では初めに次郎吉が師匠の家を覗く場面があります。上方は見あらわしに乗り込むとき、最初に常吉ではなく、女房がいっしょに行くところが東京と異なり、大阪では女師匠が義太夫、東京では常磐津か清元である点も違っています。

円生は延静で演じましたが、「延」が付くのは清元の師匠で、家元の延寿太夫の一字を取ったもの。「百川」に登場の歌女文字師匠のように「文字」が付けば常磐津です。

「千本桜」四段目の口の舞踊「道行初音旅」は、義太夫と清元もしくは常磐津の掛け合いになるので、噺にこうした師匠が登場するわけです。

東ではやはり、この人  【RIZAP COOK】

昭和に入って戦後にかけ、東京でのこの噺の第一人者はやはり、六代目三遊亭円生でした。円生は三代目三遊亭円馬から習っています。オチは、円生以外は東西ともほとんど「ニャウニャウ」と二声でしたが、円生は円馬に倣って、すっきりと一声に改めました。東京ではほかに、三代目桂三木助も演じました。

「義経千本桜」のパロディー   【RIZAP COOK】

『義経千本桜』は人形浄瑠璃(文楽)の作品です。全五段の時代浄瑠璃で、通称「千本」とも。『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ三大浄瑠璃の一つとされています。初演は延享4(1747)年11月、大坂・竹本座、作者は『仮名手本忠臣蔵』と同じチームで、竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作です。

この噺は、人物名がすべて「千本桜」の役名のもじり。オチ近くの化け猫のセリフは、四段目の切「河連法眼館」(通称「狐忠信」)のパロディーで、芝居の狐の、「わたくしはあの、鼓の子でござります」のもじりです。詳しくは「初音の鼓」をご参照ください。

5世尾上菊五郎演じる忠信を描いた錦絵/画・豊原国周 、国立国会図書館所蔵

弁慶橋  【RIZAP COOK】

東京都中央区岩本町二丁目のあたり。神田の藍染川に架かっていた橋ですが、幕末にはもうありませんでした。付近には駿河町、亀井町など、源義経の四天王にちなんだ町名が並んでいました。藍染川、駿河町については「三井の大黒」参照。「ちきり伊勢屋」の弁慶橋は同じ千代田区にあるのですが、ここではありません。

初音の鼓 三井の大黒 ちきり伊勢屋

【RIZAP COOK】

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ざこはち【ざこ八】演目

お、聴かせるな、と思いきや、オチはやっぱり落語でした。

あらすじ

眼鏡屋の二男坊の鶴吉。

年は二十二になるが、近所でも評判の男前で、そのうえ働き者で人柄がいいときている。

そこで、これも町内の小町娘で、金持ちの雑穀商ざこ八の一人娘のお絹との縁談がまとまり、鶴吉は店の婿養子に迎えられることになった。

ところが、その婚礼の当日、当の鶴吉がふっと姿を消してしまう。

それというのも、貧乏な眼鏡屋のせがれが玉の輿にのるのをやっかんだ連中が、小糠三合あれば養子に行かないというのに、おめえはざこ八の身上に惚れたか、などといやがらせを言うので、急に嫌気がさしたから。

それから十年。

上方に行って一心に働き、二百両という金をためた鶴吉が、久しぶりに江戸に戻ってきた。

十年前の仲人だった桝屋新兵衛方を訪ね、ようすを聞いてみると、とうの昔に店はつぶれ、ざこ八もこの世の人ではないという。

あれから改めてお絹に、葛西の豪農の二男坊を養子にとったが、そいつが身持ちが悪く、道楽三昧の末財産をすべて使い果たし、おまけにお絹に梅毒まで移して死んだ。

ざこ八夫婦も嘆きのあまり相次いで亡くなり、お絹は今では髪も抜け落ち、二目と見られない姿になって、物乞い以下の暮らしをしているという。

「お絹を今の境遇に追いやったのは、ほかならぬおまえさんだ」
と新兵衛に言われて、返す言葉もない。

せめてもの罪滅ぼしと、鶴吉は改めて、今では誰も傍に寄りたがらないお絹の婿となり、ざこ八の店を再興しようと一心に働く。

上方でためた二百両の金を米相場に投資すると、幸運の波に乗ったか、金は二倍、四倍と増え、たちまち昔以上の大金持ちになった。

お絹も鶴吉の懸命の介抱の甲斐あってか、元通りの体に。

ある日、出入りの魚屋の勝つぁんが、生きのいい大鯛を持ってきた。

ところがお絹は、今日は大事な先の仏(前の亭主)の命日で、精進日だからいらない、と断る。

さあ、これが鶴吉の気にさわる。

いかに前夫とはいえ、お絹を不幸のどん底へ落とし、店をつぶした張本人。

それを言っても、お絹はいっこうに聞く耳を持たない。

夫婦げんかとなり、勝つぁんが見かねて止めに入る。

「おかみさんが先の仏、先の仏ってえから今の仏さまが怒っちまった」

夫婦の冷戦は続き、鶴吉が板前を大勢呼んで生臭物のごちそうを店の者にふるまえば、お絹はお絹で意地のように精進料理をあつらえ始める。

一同大喜びで、両方をたっぷり腹に詰め込んだので、腹一杯でもう食えない。

満腹で下も向けなくなり、やっとの思い出店先に出ると、物乞いがうずくまっている。

「なに、腹が減ってる ああうらやましい」

出典:三代目桂三木助

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三木助の十八番   【RIZAP COOK】

もともとは上方落語の切りネタ(大ネタ)で、東京では戦後、二代目桂三木助直伝で三代目三木助、八代目林家正蔵(彦六)が、東京風のやり方で売り物にしました。特に、三木助がこの噺を好み、十八番として、しばしば演じています。本家の上方では、六代目笑福亭松鶴が得意にし、東京でも、二代目桂小南が、上方風で演じました。

あまり出来がいいともいえない噺なので、現在は、東京ではあまり演じ手がいません。三木助門下だった入船亭扇橋が継承していたくらいでしょう。上方では「ざこ八」の名は、「ざこく(=雑穀)屋八兵衛」が、縮まったものと説明されます。

前後半で異なる原話   【RIZAP COOK】

前半の、「今の仏様が怒った」までの原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「二度添」、同3年(1774)刊『軽口五色帋』中の「入婿の立腹」です。

「二度添い」では、亭主が、何かにつけ後妻に難癖をつけ、「もとの仏(=先妻)がいたら」と、ぐちるのでけんかに。

隣の太郎平が仲裁に入り、「今の仏も悪い人でもない」と、オチになります。

その翌年に京都で出た「入婿の立腹」では、あらすじ、オチともほぼ現行通りになっていて、明らかに、その間に改作されたものでしょう。

東京の正蔵は。「先の仏」と題し、前半で切っていました。

もうひとつ。

上下二つに分ける場合、上方では後半部は「二度のご馳走」と題されることもあります。

後半の原型は、遠く寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻三「自堕落 九」と思われ、オチの物乞いの部分は、明和9年(1772)刊「楽牽頭」中の「大食」が原話です。

「醒睡笑」の方は、食いすぎて、数珠を落としてもうつむいて拾うことさえできない男が、バチあたりにも足指で数珠をはさみながら「じゅず(=重々)ごめんあれ」とシャレる噺です。

大阪の六代目松鶴は、オチを、「ごちそうしたのが腹帯の祝い。そう聞いただけでも腹が大きなる」と、していました。

妊婦の腹と、ごちそうで腹が膨れるのを掛けたものです。

こぬか三合   【RIZAP COOK】

正確には「こぬか三合持つならば入婿になるな」で、つい最近まで使われていた諺です。

「こぬか三合あったら婿に行くな」とも。

「こぬか三合」はわずかな財産の例えで、「ほんの少額でも金があるなら割に合わない婿になど入るな」という戒めです。

長子相続が徹底していた江戸時代、特に武士の次男、三男は、家の厄介者で、婿養子にでも行かなければ、まともな結婚など夢の夢。

婿入りしたならしたで、養父母にはいびられ、家付き娘の女房はわがまま放題。男権社会なのに、四六時中気苦労が絶えないという、経験者の実感がこもっています。

「養子に行くか、茨の藪を裸で行くか」など、似たニュアンスの格言はたくさんあります。

精進料理   【RIZAP COOK】

盆、法事、彼岸、祥月命日などに、魚鳥その他の生臭物を断ち、野菜料理を食する習慣が古くからありました。こうした戒律はキリスト教やイスラム教にもあるので、ここに日本文化を見いだすことはナンセンスです。

これが終わるのを精進明け、精進落ちといい、逆に精進に入る前に、名残にたらふく魚肉を食らうのを精進固めといいました。もちろん、願掛けなどで、一定期間精進するならわしは明治初期までは普通に行われていました。

ざこ八の由来   【RIZAP COOK】

前述の通り、「ざこ八」の「ざこ」は雑穀商の「ざこ」です。「穀屋」とも「ざこく」とも。雑穀商は、米と麦以外の穀物、つまり、稗、粟、黍、豆などを売る店です。「五穀」といえば、米、麦、粟、豆、黍(または稗)をさします。人が基本食とする5種の穀物の意味です。ほかには、蕎麦、胡麻、米ぬか、ふすま、しん粉、かたくり粉、くず粉、干し大根、鰹節、卵など、乾物商と同じような商品をも扱いました。米や麦と同じように、必要不可欠の食品を売るため、どんなに少量でも対応する腰の軽さが喜ばれたといえます。

悲劇的な「後日談」   【RIZAP COOK】

三木助は安藤鶴夫に見込まれた数少ない芸人の一人です。この噺もアンツルの助言で磨かれたわけですが、アンツル自身が夢想してつくりあげた「後日談」が残っています。あくまでもアンツルの、ですが。ご参考まで。

「女ごころといえばそれに違いもあるまいが、これが原因で夫婦生活に破錠をきたし、お絹が家出をして二年目に、葛西の荒れ果てた堂の中で死んでいた。行年三十。その時お絹の着ていた薄い綿入れの着物に雨が当たって、やわやわとした草が生えた。大正年代まで夜店でよくみかけた絹糸草だが、夫婦仲の悪くなるという縁起をかついで、この頃ではもう下町でもあまり見掛けないようである」    

安藤鶴夫『落語国・紳士録』(青蛙房、1959年)

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