無学者もの。知ったかぶりの噺。苦し紛れのつじつまあわせ。あっぱれです。
【あらすじ】
あるおやじ。
無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。
正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。
その時、在原業平の「千早ふる神代も聞かずたつた川からくれないに水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。
隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。
で、苦し紛れに
「龍田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。
もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。
龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。
酒も女もたばこもやらない。
その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。
その時ちょうど全盛の千早太夫の花魁道中に出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。
さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。
しかたがないので、妹女郎の神代太夫に口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。
つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。
「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」
両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。
龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。
空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。
気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。
思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。
「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。
そのまんまになった。
これがこの歌の解釈。
千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。
「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」
【しりたい】
「ちはやふる……」
「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。
(不思議なことの多かった)神代でさえ、 龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め (=しぼり染め)にされるとは聞いたこともない。
とまあ、おもしろくもおかしくもないもの。隠居の解釈の方が、よほど共感を呼びそうです。
龍田川は、奈良県生駒郡斑鳩町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。
原話とやり手
今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。
「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。
古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。
安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さんの十八番でした。
本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院」がつけられていました。
オチの異同
あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生の速記です。
志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。
普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。
花魁道中
起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町(ふきやちょう)にあった「元吉原」といわれる時代(寛永年間、1624-44)にさかのぼるといわれます。
本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。
廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。
「陽成院」
陽成院の歌、「つくばねのみねより落つる男女(みな)の川恋ぞつもりてふちとなりぬる」の珍解釈。
京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。
男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」
見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持(ふち)をたまわったので、「声(=こい)ぞつもりてふち(扶持=淵)となりぬる」
しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」
というわけです。