素人占い しろうとうらない 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

勘当された若だんな。「お天道さまと米の飯は」とまぬけでのんき。

【あらすじ】

紀伊国屋という綿屋の若だんな。

略して紀綿さんと呼ばれているが、大変な道楽者で、吉原の花魁に入れ揚げてとどのつまりは、勘当。

「お天道さまと米の飯はどこでも付いて回る」
と「唐茄子屋政談」の若だんなとちょうど同じことを言って、家を飛び出し、花魁の所へ転がり込むが、金の切れ目が縁の切れ目、ていよく追い出され、結局、見世に出入りの印判屋の喜兵衛の家で居候を決め込む身とはなった。

若だんながあんまりにも怠け者でずうずうしいから、案の定、かみさんが怒り出す。

喜兵衛は板挟みで、若だんなに
「なにか商売を」
と勧めると、今度の若だんなは
「易者になりたい」
と言い出す。

みかん箱を一つ借り、白布を掛けて見台、魚串が筮竹。

家の半分を借りて「人相手相墨色判断」と看板を書いてもらい、名も平安時代の陰陽師安倍晴明をもじって「今晴明」というごたいそうなのを付けた。

最初に来たのは女で、三味線のお師匠さん。

母親に琴も教えたらどうかと言われ、やった方がいいか見てもらいたいと言うので、無理はコトだからおやめなさいとくだらない駄じゃれでごまかし、三味線だけに心を太棹に持って辛抱が肝心と、落語家のようなことを言って帰す始末。

次は鳶頭の娘。縁談があるが、うまくいくか見てほしいと頼む。

娘が違うと言うのに、強引に娘は火性、先方の男は水性ということにしてしまって、
「だんなは水性だから、鰻と同じ穴っぱいり(浮気)の好きな質、おまえさんは火だから、カッカと焼くので、釣り合わないからおやめなさい。それよりいっそ、芸者にでも出て」
と、めちゃくちゃを言うので、娘は怒って帰ってしまう。

あとから若い者が押しかけ
「この野郎、てめえが易者か。家の姉御をおつゥまぜっ返しゃあがったな」

ポカポカポカと殴られ、コブだらけにされた若だんな。

自業自得とはいえ、すっかり易者に懲り、今度は医者をやると言い出す。

また看板を書き換え、今度は
「施しに五銭で診察する」
と宣伝したので、さっそく客が来る。

女が腰がつると言うと、にわか医者
「それは疝気」
「疝気は男の」
「女だって疝気だ。橙の粉にマタタビをなめなさい」

喜兵衛に女は寸白と教えられ
「おまえさんは医者をやったことがあるね」
「やらなくたってわかります」

そこへ蔵前の万屋という茶問屋から、
「奥方が風邪をこじらせたのでみてくれ」
と言ってくる。

金になりそうだからさっそく出かけて、かっこうをつけるため、お茶を所望。

「これはけっこうで。ご主人はどういうご流儀で?」
「千家でございます」
「それでわかった。奥さまは寸白でしょう」

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【うんちく】

後継者のいない噺

大正4年(1915)9月刊『三遊連柳連名人落語十八番』に、六代目金原亭馬生の速記が掲載されています。

この馬生は、後年、四代目古今亭志ん生を襲名。五代目志ん生の二人目の師匠です。

歯切れのいい江戸前の芸風で人気がありましたが、襲名後わずか一年あまりの大正15年(1926)1月、48歳の若さで亡くなりました。

戦後では、初代林家三平や八代目橘家円蔵の師匠で、七代目橘家円蔵(あのねの円蔵)がたまに演じましたが、彼の没後、東京ではほとんどやり手はいません。

ならぬ勘当するが勘当

とうの昔に死語と化しましたが、勘当には二通りありました。

ほとんどの場合、こらしめのため、家に出入りを禁ずるという形をとり、落語の居候の若だんなはみなこれです。

ただ、どうにも手がつけられず、犯罪などで親族に累を及ぼす場合は、親類同意の上で除籍します。

これで、勘当された者は無籍、つまり無宿人となります。その名を記載したのが久離勘当帳、または言上帳ともいいました。「久離を切って勘当する」というのは、親父の脅しの常套文句でした。

これは町名主が管理し、復籍する際はそこから名前を消します。ついでに、これが「帳消し」の語の起こりです。

懲りない若だんな

毎度おなじみ、懲りない若だんな。

今回は易者志望で、また一騒動。原話は不詳ですが、民話がルーツともいわれます。前半は「湯屋番」「素人車」などと同じく、勘当→居候という一連のパターンなので、誰かがバリエーションを変えて改作したのかもしれません。

「きめんさん」で演じることがあるのは、主人公が紀伊国屋という綿屋の息子だからで、上方ではこの題で演じられます。医者の息子という設定もあります。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
居候 いそうろう
筮竹 ぜいちく
太棹 ふとざお
鳶頭 とびのかしら
姉御 あねご
疝気 せんき
寸白 すばこ:女の生理病
久離 きゅうり

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汲み立て くみたて 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

八笑人からの構成。町内の連中のすったもんだ噺。少々匂い立ちますが。

【あらすじ】

町内の連中が、美人の常磐津のおっ師匠さん目当てに、張り合って稽古に通っている。

なぁに、常磐津などはどうでもいいので、気に入られていいことがしたい、ただそれだけ。

それだけに嫉妬が渦巻き、ライバルに対する警戒は相当なもの。

「野郎が四度稽古してもらったのになんでオレはまだ二度なんだ」
とか、
「膝と膝を突き合わせて、間違えたらツネツネしてもらえるから、唄より三味線を習おう」
とかいうような、不心得者も出る。

ところが、留さんが、
「師匠はどうやら建具屋の半公とできてるらしい」
という噂を持ってきたので、一同、顔色が変わる。

なんでも、師匠の部屋へ通ってみると、半公が主人然として、師匠と火鉢越しのさし向かい。

火鉢が真ん中。

半公向こうの師匠こっち、師匠こっち半公向こう。

やがて半公がすっと立つと、師匠もスッ。

ぴたっと障子を閉めて、中でコチョコチョと二人じゃれついていたというから、穏やかではない。

そこで、今、師匠の家に手伝いに行っている与太郎を捕まえて聞きただすと、案の定、このごろ、半公がちょくちょく泊まりに来る、という。

ある日、二人が大げんかして、半公が師匠の髪をつかんでポカポカなぐったが、その後、師匠が
「いやな奴に優しくされるより、好きな人にぶたれた方がいい」
と抜かしたそうな。

そういえば、与太郎、今日はいつになくいい身なりをしているので、聞いてみると、
「師匠と半公のお供で柳橋から船で夕涼みだ」
という。

「おっ師匠さんが『あの有象無象どもが来ると、せっかくの気分が台なしだから、ないしょにしておおき』って言ってた」
「なんだ、その有象無象ってえなあ」
「うん、おまえが有象で、こっち全部無象」
「こんちくしょうめっ」

「あんまり人をばかにしてやがるから、これから皆で押しかけて、逢瀬をぶちこわしてやろうじゃねえか」
と、すぐ相談がまとまった。

「半公の野郎が船の上で、師匠の三味線で自慢のノドをきかすに違いないから、こっちも隣に船を寄せて、鳴り物をそろえてドンチャカドンチャカ、ばか囃子でじゃましてやろう」
というわけ。

「逃げたらどこまでも追いかけていって、半公がなにかぬかしたら、かまわないから袋だたきにしちまおう」
という算段。

さて数刻後、船の中。

半公がいよいよ端唄をうなり出すと、待ってましたとばかり隣からピーヒャラドンドン。

そのうるさいこと。

「やあ、お師匠さん、見てごらん。有象無象が真っ赤になって太鼓をたたいてら」
「うるせえ、てめえじゃ分からねえ。半公を出せ」
「なんだ、なんだ。師匠とどういう仲になろうと、てめえたちの指図は受けねえ。糞でもくらやあがれ」
「おもしれえ。くってやるから持ってこい」

やりあっていると、間に肥船がスーッ。

「汲み立てだが、一杯あがるけえ?」

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【しりたい】

「八笑人」の懲りない面々

オチの部分の原話は、滝亭鯉丈(1777-1841)作の滑稽本『花暦八笑人』三編下(文政6年刊=1823)です。

「八笑人」は落語「花見の仇討ち」のネタ本でもあり、いわばこれは、その続編の一部。

あの能天気な連中が、また懲りずに、妙ちくりんな趣向を思いつきます。

これはその一人卒八が考えた納涼の趣向で、両国橋ぎわに小船と屋根舟を出し、仲間が両方に分かれてののしりあう、というもの。

卒八「サア両方でくそをくらえ、イヤうぬ(=おまえ)くらえ、われくらえと、いいつのっている中へ、おれが、こえ船をたのんで、うわのりをして、グツと中へのり込で、サア汲たてあがらんかあがらんかというが、おちだがどうだろう」

というわけで、オチがついた馴れ合い狂言を仕組むのですが、あまりに下品というのでこれは中止。改めて、両国橋から身投げのふりで飛び込むという人騒がせをやらかすことになります。

『花暦八笑人』と滝亭鯉丈については「花見の仇討ち」をお読みください。

六代目円生の極めつけ

明治から大正にかけ、俗に品川の円蔵と呼ばれた四代目橘家円蔵が高座にかけました。記録は明治30年(1897)の円蔵の速記が最古で、その没後は、門下の五代目三遊亭円生、孫弟子の六代目円生へと継承されました。

もっとも、円蔵もあまり演じなかったので、円生は、初代三遊亭円右の速記などで覚えたと語っています。戦後は、円生の独壇場で、極めつけの十八番でした。

常磐津の素養がないとできない噺なので、円生没後は弟子の五代目円楽がたまにやるくらいでしたが、近年では三遊亭小遊三や五街道雲助などが手掛けています。

蚊弟子

常磐津のお師匠さんは、「百川」始め、落語にはちょくちょく登場します。

「オシサン」または「オッショサン」と発音しますが、落語で師匠というと、美人でおつな年増ときまっています。そこで、我こそは師匠としっぽりと……と、よからぬ下心で経師屋連がわいわい押しかけ、騒動を起こすわけです。

なかには「蚊弟子」といって、暑いので、涼みがてら夏のうちだけ稽古にくる手合いもあったとか。

江戸末期には、各町内に一人は遊芸の師匠がいたもので、清元、常磐津、長唄、歌沢などさまざまでした。なんでもござれ教える師匠も中にはいて、それを俗に五目(寿司の五目から)の師匠と呼んだものです。

肥船

葛飾や市川など江戸湾の在から肥を仲買いし、取り仕切る渡世人の組織は、香具師、博打などと並んで一種の治外法権を持ち、なかでも葛西の肥汲みは、江戸の裏社会に隠然たる勢力を持っていました。

彼らが立往生(ストライキ)をすれば、大名から長屋の町人に至るまで、肥の引き取り手がなく、たちまちに往生することになるわけです。

集めた肥を船で運ぶようになったのは、永代橋が落下する大惨事(文化4=1807年)のあと、橋を荷車が通れなくなったからだといいます。

船は出ませんが、肥汲みが登場する落語には、ほかに「法華長屋」があります。

【語の読みと注】
常磐津 ときわづ
有象無象 うぞうむぞう
逢瀬 おうせ
端唄 はうた
経師屋連 きょうじやれん:師匠を張り合う意味

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お血脈 おけちみゃく 演目

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会話がほとんどなく、噺家が語り進めていく地噺です。 

別題:血脈 骨寄せ(上方) 善光寺骨寄せ(上方)

【あらすじ】

信濃の善光寺で、お血脈の御印というのを売り出した。

これは、百文出して額(ひたい)に印を押してもらえば、どんな罪を犯しても極楽往生間違いなしという、ありがたい代物。

なにしろ、たった百文出せば、人を何万人絞め殺そうが罪業消滅というのだから、世界中から人が押しかけ、ハンコ一つで一人残らず極楽へ行ってしまい、しまいには地獄へ来るものが一人もなくなった。

おかげで地獄では不景気風が吹き荒れ、浄玻璃(じょうはり)の鏡などの貴重品はおろか、鬼の金棒に至るまですべて供出させ、シャバの骨董屋に売っぱらってしまうありさま。

赤鬼も青鬼も栄養失調で餓生(?)寸前。

虎の皮のフンドシまで売りとばし、前を隠してフラフラと血の池をさまよっている。

元締めの閻魔大王も、このままでは失脚必至とあって、幹部を集めて対策会議。

部下の見目嗅鼻(みるめかぐはな)が、こうなれば誰か腕のいい大泥棒を雇い、元凶の、例のお血脈を盗み出すほかないと提案し、全会一致でそれに決まった。

問題は泥棒の人選で、ありとあらゆる大泥棒のリストをあさったが、いずれも帯に短したすきに長しで、結局、最後は人格力量抜群のご存じ、石川五右衛門と決定。

さて五右衛門、地獄の釜の中で都々逸を三十六曲歌ってのぼせているところ。

大王からのお召しとあって、シャバにいたころそのままに、黒の三枚小袖、朱鞘の大小、素網を着て、重ね草鞋(わらじ)、月代(さかやき)を森のごとくに生やし、六方を踏みながらノソリノソリと御前へ。

「……これこれしかじかだが、血脈の印を盗み出せるのはその方以外になし。やってのけたら重役にしてやる」
「ハハー、いとやすきことにござりまする」

というわけで、久しぶりにシャバに舞戻った五右衛門、さすがに手慣れたもので、昼間は善光寺へ参詣するように見せかけて入り込み、ようすを探った上で、夜中に奥殿に忍び入って血脈を探したが、なかなか見当たらない。

そのうち立派な箱が見つかったので、中を改めるとまさしくお血脈の印。

見つかったらさっさと地獄へ持って帰ればいいものを、この泥棒、芝居気があるから、
「ありがてえ、かっちけねえ。まんまと首尾よく善光寺の、奥殿へ忍び込み奪い取ったるお血脈の印。これせえあれば大願成就」
と押しいただいて、そのままスーッと極楽へ。

底本:四代目橘家円蔵、六代目三遊亭円生

【しりたい】

善光寺の伝承に由来

はっきりした原話は不明ですが、信濃・善光寺にまつわる縁起・伝承が起源とみられます。

四代目橘家円蔵の明治44年(1911)の速記が残ります。その円蔵の演出を踏襲して、戦後は六代目三遊亭円生が得意にしました。

円蔵、円生ともにマクラに釈迦の逸話と善光寺の由来を滑稽化して入れています。

上方では、芝居の「骨寄せの岩藤」の趣向を取り入れ、五右衛門のバラバラになった骨を集めて蘇生させるというやり方なので「善光寺骨寄せ」「骨寄せ」の題で演じます。

お血脈

おけちみゃく。六代目円生が生前、善光寺に参詣していただいてきたと語っていましたが、それによると、上書きに「信州善光寺、融通念仏血脈譜、別当大勧進」とあり、裏は中央に「浄業者」、脇に「念佛弟子、日課、百遍」、紙包みの中には半紙一枚に、中央に「良忍上人直授元祖聖應大師」、以下、多数の大僧正、上人、阿闍梨(あじゃり)の名が書きつらねてあるよし。

もともと「血脈」とは、仏教で師匠から弟子に伝えられる戒律や系譜書です。それを伝えることを「血脈相承」といい、在家の信者にその儀式を省略して護符のように分け与えたのが「お血脈」の始まりとか。

のちに札になりましたが、かつては額に直接押印していました。ただしタダではなく、浄財百疋(一疋=二十五文)が必要で、ローマ法王庁の免罪符と同様の代物です。たった二分ちょっとで極楽往生できれば、安いものです。

善光寺

長野市元善光寺町にあります。無宗派の単立寺院。天台宗と浄土宗とで運営管理されています。

本尊は三国伝来一光三尊阿弥陀如来。天竺(=インド)から閻浮檀金(えんぶだごん)という身の丈一寸八分の阿弥陀像が渡来、それを「仏敵」の物部守屋(もののべのもりや)が難波ヶ池に簀巻きにして放り込み、「処刑」。

それを見つけた本多善光が、仏像を信州に勧請して寺ができた、というのが沿革です。

石川五右衛門

伝説上の人物として、長く小説、芝居、落語などさまざまなジャンルで取り上げられてきました。

当人が主人公として直接登場するものは意外に少なく、落語ではこの「お血脈」、歌舞伎では「絶景かな……」で有名な「楼門の場」を含む「釜渕双級巴(かまがふちふたつどもえ)」、小説では古くは司馬遼太郎の「梟の城」、平成になってからは赤木駿介の「石川五右衛門」、劇画ではケン月影の「秀吉に挑んだ男石川五右衛門」などが主なところでしょうか。

地噺

じばなし。セリフがほとんどなく、演者の地の語りを中心に進めます。その意味では講談に近いわけですが、あれほどエクセントリックではなく、淡々と語ります。「あたま山」「西行」「紀州」など、歴史上の人物の逸話や民間伝承、寺社縁起などを題材にしたものが多く、江戸前落語特有のジャンルです。

短くても笑いが少なく、地味なものが多いので、飽きずに聴かせるには円熟した話芸が必要で、生半可な噺家には到底こなせません。そういう意味では、いまどきははやらないでしょう。

八代目林家正蔵(彦六)などは、滋味あふれる地噺の名手で、その語り口は、晩年にはさながら高僧の説教のような趣があったものです。いささか眠くなりますが。

ねこときんぎょ【猫と金魚】演目

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ああ言えばこう言う相手も、落語にかかれば、こんな具合に。

【あらすじ】

ある商家の番頭。

ああ言えばこう言うで、素直に言うことを聞かないばかりか、かなりピントがずれているので、だんなの悩みのタネ。

金魚の大きいのが二匹いなくなったので問いただせば「あたしは食べません」

「誰が、おまえが食べた、と言った。隣の猫が庭続きだから、縁側に上がって食べるんだから、どこか高いところへ上げておけ」と言いつけると「それじゃ、湯屋の煙突の上へ」

「あたしが眺められない」と文句を付けると「望遠鏡で見れば」と始末に終えない。

ようよう金魚鉢を湯殿の棚の上に置かせて一安心、と思ったら「金魚はどこへ上げましょう」

「金魚鉢と金魚を放したら、金魚は死んじまう、あたしゃ金魚の干物を見たいんじゃない」と叱りつけて、しばらくすると、番頭が悠々と報告に来た。

「実はその、棚へ上げましたらァ、お隣の物干しとつながってるもんですから、猫が入ってまいりまして……」

金魚鉢の中に手を突っ込んで食べてるというから、だんなは大あわて。

猫の衿っ首を捕まえてひっぱたいてやれと命じても、あたしはネズミ年だから、そばに寄ったら食われちまうといやがる。

こんな奴に任せておいたら、いくら買っても一匹残らず猫の栄養になってしまうと頭を抱えて、思い出したのが、横丁の鳶頭の虎さん。

力はあるし、背中に刺青を彫っているし、尻にたくさんの毛が生えているから猫もびっくりするだろうというので、早速呼びにやる。

常日ごろ、だんなのためなら命はいらねえ、たとえ火の中水の中……と豪語している鳶頭だから、何とかしてくれるだろうと思って「おまえさん、猫は恐くないかい」「猫ォ? あたしゃあ名前が虎で、寅年ですよ。世の中に恐いものなんか一つもない。で、猫は何匹で」

「あたしは猫屋をやろうってんじゃないよ。一匹でいいんだから、金魚鉢ィかき回してる奴を捕まえてなぐっておくれ」
「へえ、そいじゃあ、日を改めて」

なんだか、また雲行きが怪しくなってきた。

ともかく、むりやり湯殿に押し込むと「猫、おらァこの横丁の虎ってもんだぞォ。どうだァ」という、虎さんの大声が聞こえる。

そのうち「きゃあー」という悲鳴と金魚鉢を引っくり返した音。静かになったので戸を開けてみると、虎さんはびしょ濡れで目を回し、猫は棚で悠然と顔を洗っている。

金魚は外でピンピン跳ねているから、だんな驚いて「虎さん、しっかりしとくれ。早く猫ォ捕まえてなぐっとくれ」

「あたしゃあもう猫は恐いからイヤだ」
「恐いって、おまえさん、虎さんじゃないか」
「今はこの通り、濡れネズミです」

【うんちく】

新作落語史上の最高傑作!

「のらくろ」シリーズの作者として一世を風靡した漫画家、田河水泡が、まだ落語作家時代の昭和初期、売り出し中の初代柳家権太楼に書き下ろした「猫」シリーズの第一弾です。

このあと、「猫と電車」「猫とタコ」と続きますが、「金魚」がギャグの連続性と底無しのナンセンスで、もっとも優れています。そのセンスは今聞いても全く古びず、近代新作落語史上、金箔付きの最高傑作と呼んで過言ではないでしょう。

十代目桂文治のが無類におかしく、中でも虎さんの表現が秀逸でした。

橘家円蔵は前半の旦那と番頭のやりとりがテンポよく、軽快に笑わせました。

なお、前半の趣向は「質屋庫」に似ていて、口だけは英雄豪傑の虎さんのキャラクターも「質屋庫」の熊さんと重なるため、何らかのヒントを得ていると思われます。

続編「猫と電車」

校長宅で産まれた六匹目の子猫を、鰹節一本付けて押しつけられた田舎出の用務員が、子猫を風呂敷に隠して満員電車に乗ります。

ところが、いつの間にか帽子の中に入った子猫に小便をかけられ、あわてて降ります。

「車掌さん、今の客、シャッポに猫を隠してた」
「道理で猫をかぶっていた」

「金魚」ほどではありませんが、校長とのやりとりで、

「キミの家にネズミおるかい?」
「校長先生さま、ネズミたべるんでェ?」
「わしのうちに猫がおるよ」
「猫とネズミに相撲をとらせるんでェ?」
「実はァ、子どもが今度、産まれてな」
「お坊ちゃまで?」
「わしの子ではないよ」
「奥様のお子さまで?」
「猫の子じゃよ」
「すると、奥様が猫の子を産んだのでェ?」

こういったトンチンカンなギャグの連続で笑わせます。

【猫と金魚 八代目橘家円蔵】

はんたいぐるま【反対車】演目

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威勢はいいのですが、ここまでそそっかしいのはいかがなものか……。

【あらすじ】

人力車がさかんに走っていた明治の頃。

車屋といえば、金モールの縫い取りの帽子にきりりとしたパッチとくれば速そうに見えるが、さるだんなが声を掛けられた車屋は、枯れた葱の尻尾のようなパッチ、色の褪めた饅頭笠と、どうもあまり冴えない。不運。

「上野の停車場までやってくれ」
「言い値じゃ乗りますまい」
「言い値でいいよ」
「じゃ十五円」

十五円あれば、吉原で一晩豪遊できた時分。

「馬鹿野郎、神田から上野まで十五円で乗る奴がどこにいる」

勝手に値切ってくれと言うから、「三十銭」「ようがしょう」といきなり下げた。

それにしても車の汚いこと。

臭いと思ったら、「昨日まで豚を運搬していて、人を乗せるのはお客さんが始めてだ」と抜かす。

座布団はないわ、梶棒を上げすぎて客を落っことしそうになるわ。

おまけに提灯はお稲荷さまの奉納提灯をかっぱらってきたもの。

どうでもいいが、やけに遅い。

若い車屋ばかりか、年寄りの車にも抜かれる始末。

「あたしは心臓病で、走ると心臓が破裂するって医者に言われてますんで。もし破裂したら、死骸を引き取っておくんなさい」

そう言い出したから、だんなはあきれ返った。

「二十銭やるからここでいい」
「決めだから三十銭おくんなさい」

ずうずうしい。

「まだ万世橋も渡っていないぞ」
「それじゃ上野まで行きますが、明後日の夕方には着くでしょう」

だんなはとうとう降参して、三十銭でお引き取り願う。

次に見つけた車屋は、人間には抜かれたことがないと威勢がいい。

それはいいが、乗らないうちに「アラヨッ」と走りだす。

飛ばしすぎてこっちの首が落っこちそう。

しょっちゅうジャンプするので、生きた心地がない。

走りだしたら止まらないと言うから、観念して目をつぶると、どこかの土手へ出てやっとストップ。

見慣れないので、「どこだ」と聞いたら埼玉県の川口。

「冗談じゃねえ。上野まで行くのに、こんなとこへ来てどうするんだ」

しかたなく引き返させると、また超特急。

腹が減って目がくらむので、川があったら教えてくれと言う。

汽車を追い抜いてようやく止まったので、命拾いしたと、値を聞くと十円。

最初に決めなかったのが悪かったと、渋々出した。

「見慣れない停車場だな」
「へい、川崎で」

また通り越した。

ようやく上野に戻ったら午前三時。

「それじゃ、終列車は出ちまった」
「なあに、一番列車には間に合います」

【しりたい】

人力車あれこれ

1870年(明治3)、和泉要助ら三人が製造の官許を得て、初お目見えしたのは1875年(明治8)でした。

車輪は当初は木製でしたが、後には鉄製、さらにゴム製になりました。

登場間もない明治初年には、運賃は一里につき一朱。

車引きは駕籠屋からの転向組がほとんど。

ただし、雲助のように酒手をせびることは明治政府により禁止されました。明治10年代までは、二人乗りの「相乗車」もあったようです。

落語家も売れっ子や大看板になると、それぞれお抱えの車引きを雇い、人気者だった明治の爆笑王・初代三遊亭円遊の抱え車引きが、あまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードもあります。

全盛時は全国で三万台以上を数え、東南アジアにも「リキシャ」の名で輸出されましたが、1923年(大正12)の関東大震災以後、自動車の時代の到来とともに急激にその姿を消しました。

車屋の談志

この噺の本家は大阪落語の「いらち車」ですが、大正初期には、六代目立川談志(1888-1952)が「反対車」で売れに売れました。

住んでいた駒込辺りで「人力車の……」と言いかければ、すぐ家が知れたほど。

そこで、ついた異名がそのものずばり「車屋の談志」。

その談志も、人力車の衰退後は不遇な晩年だったといいます。

昭和初期には、七代目林家正蔵の十八番でした。

八代目橘家円蔵のも、若い頃の月の家円鏡だった時代から、漫画的なナンセンスで定評がありました。

客が二人目の車屋に連れて行かれる先は、演者によって大森、赤羽などさまざまで、「青森」というのもありました。

人力車の噺いろいろ

人力車は明治の文明開化の象徴。

それを当て込んでか、勘当された若だんなが車引きになる「素人人力」、貧しい車屋さんの悲喜劇を描く「大豆粉のぼた餅」、初代三遊亭円左の古い速記が残る怪談「幽霊車」。

そういった多くの新作がものされましたが、今では「反対車」のほか、すべてすたれました。

【反対車 八代目橘家円蔵】