よどごろう【淀五郎】演目

実話が基になっています。「四段目」「中村仲蔵」と並ぶ、忠臣蔵がらみの芝居噺。

【あらすじ】

ある年の暮れ。

「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。

由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、代役を立てなければならない。

団蔵、鶴の一声で「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」

その沢村淀五郎は芝居茶屋の息子で、相中といわれる下回り役者。

判官の大役をさせられる身分ではない。そこで急遽、当人を名題に抜擢する。

淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。

いよいよ初日。

三段目のけんか場までなんとか無事に済み、見せ場の四段目・判官切腹の場になった。

淀五郎扮する判官が浅黄の裃、白の死装束で切腹の場へ。

本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、それを合図に花道からバタバタと、団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、舞台中央に来て
「御前」
「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵は
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。

幕が閉まってから、おそるおそる団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」

帰宅して工夫したが、翌日も同じ。

こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」

物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。

どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、その足で仲蔵を訪ねる。

仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。

悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。

「おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、五万三千石の大名の無念さが伝わらない。判官が刀を腹に当てるとき、膝頭から手を下ろすと品がない」
などと、心、型の両面から親切に助言し、励まして帰す。

翌日。

三段目が済むと団蔵が驚いた。

「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。おらァ、本当に斬られるかと思った」

こうなると四段目が楽しみになる。出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」

ツツツと近寄って
「御前」

淀五郎、花道を見るといないから、今日は出てもこないかと、がっかり。

それでも声がしたようだが、と見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」

【しりたい】

円生、正蔵、志ん生と百花繚乱  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は変わっていません。

オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが、芸道ものの大ネタです。

戦後では八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、微に入り細をうがって詳しいのが特色です。

正蔵の速記では省かれていますが、円生にならって判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと注意を入れる演者が多くなっています。

オチの後、正蔵は「こりゃ本当に待ちかねました」とダメを押しましたが、円生はムダとして省いています。

志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、詳細すぎる説明をカットし、人情噺のエキスを保ちながら、軽快なテンポで十八番の一つとしました。

その下の世代でも、円楽、志ん朝などが掛けていました。今でも、小朝らベテランから中堅、若手に至るまで多くの演者に高座に掛けられています。

八代目正蔵のやり方は、門下の八光亭春輔がもっとも忠実に継承しています。

イジワル団蔵は何代目か  【RIZAP COOK】

「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵でこの異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)です。

芸がいぶし銀のように渋かったことからで、六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが、これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。

噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は四代目が正しいことになるのですが。

実録・淀五郎  【RIZAP COOK】

実在の沢村淀五郎は、初代から三代目まで数えられますが、三代目は、前記四代目団蔵が没した1か月後に襲名しているので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。

忠臣蔵評判記『古今いろは談林』の「安永8年(=1779年)森田座」の項に「塩冶判官 沢村淀五郎 大星由良之助 市川団蔵」という記録があります。

三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという記録はなく、これはフィクションでしょう。

仲蔵は東西に二人  【RIZAP COOK】

同題の芸道噺に主役で登場します。詳しくは「中村仲蔵」をご参照ください。初代仲蔵の生涯について興味のある方には、松井今朝子の小説『仲蔵狂乱』(講談社文庫)にビビッドに描かれていてます。

同時代に同名の中村仲蔵がもう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗っていました。この人は屋号「姫路屋」で通称「白万」。実事を得意とし、寛政9年(1797)に没しています。

以来、江戸東京と上方にそれぞれ四代目までの仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは明治14年(1881)でした。一般に、江戸の初代、三代、大坂の初代、四代が名高いと語り草です。

現在、仲蔵の名跡は空き名跡です。勘五郎から平成元年(1989)4月に襲名した五代目が、平成4年(1992)12月に没して以来、名乗りはいません。

「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」「中村仲蔵」をご参照ください。

江戸三座  【RIZAP COOK】

市村座、中村座、森田座の江戸三座は天保の改革で、天保13年(1842)、猿若町(台東区浅草六丁目)に強制移転。天保の改革の一環ででした。町名もその時に付けられました。

【語の読みと注】
相中 あいちゅう

【RIZAP COOK】

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おそかりしゆらのすけ【遅かりし由良之助】むだぐち ことば

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「由良之助か、遅かったァ」という絶句のしゃれ。それだけ。遅刻をたしなめることばとして、歌舞伎ファンでなくてもたまに使われています。

戦前までの東京では、生活の至るところに歌舞伎のにおいがあったようです。日常会話の端々に芝居の名セリフや、そのもじりがごく普通に使われていたわけです。なかでも『仮名手本忠臣蔵』となると、どんなワキのセリフでも、骨の髄までしゃぶり尽くされていました。これもその一つ。「四段目」、塩冶判官が腹に九寸五分を突き立てたところで、花道から家老の大星由良之助がバタバタ。そこで「由良之助か、遅かったァ」となるわけです。

もっともこれは実際の判官のセリフではなく、客席の嘆きの声なのですが。これが遅刻をたしなめることばとして定着。といっても本気ではなく、相手をからかうしゃれことばとなったものです。逆に、遅刻した側のわびごとは、その前の「三段目」喧嘩場での判官のセリフ「遅なわりしは拙者の不調法」。

エロ版小咄では、由良之助が髪を下ろした瑤泉院にお慰みに張り形(女性用婬具)を献上。そのサイズが合わず「細かりし由良之助」。

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つくばい【蹲】ことば

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原義は犬猫が前足を地面に突いてしゃがむ意味のようで、だから「突く+這う」というわけです。

「犬つくばい」という複合語も古くはありました。

今はカットされることが多いですが、『仮名手本忠臣蔵』二段目「建長寺の場」で、高師直(=吉良上野介)にはずかしめを受けた桃井若狭助が、明日は殿中で師直を討ち果たすと息巻くので、お家には変えられないと、師直にこっそり賄賂を届ける決心をした家老、加古川本蔵。主人に「もし相手が、犬つくばいになってわびたら斬るのを思いとどまるか」とカマをかけます。今で言う土下座で、絶対権力者である師直がそんな恥知らずなマネをするはずもないのですが、実際は次の三段目「喧嘩場」前半で、本蔵の賄賂が功を奏して師直が、なんと本当に犬つくばいになってご機嫌取りをしたので、若狭助が呆れて斬るのを思いとどまるという場があります。この語は派生語も多く、動詞で「つくなむ」、「つくばる」とも。転じて庭の手水鉢のある場所、また手水鉢そのものを「蹲(つくばい)」と呼びました。

古い江戸語で「因果のつくばい」という慣用句がありましたが、これは「運の尽き」を意味する強調表現で、「突く=尽く」という、単なるダジャレ。しかし、いかに円生、彦六といえど、いくらなんでもこんな古い言葉は知らなかったでしょうね。

いなかしばい【田舎芝居】演目

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町じゃ端役なのに田舎だと名代なんていうのは、ありそうなはなしですね。

【あらすじ】

田舎の鎮守の祭礼に、村芝居を出すことになった。

やり方を教えてくれるお師匠番が必要だが、一流の役者や振付師を頼むと千両ふんだくられると聞いた。

世話人がぶったまげ、
「それなら一番安くて悪い先生を頼もう」
と、捜し当てたのが江戸、下谷北稲荷町に住む本名、柴田与三郎。芸名、中村福寿という下回り役者だ。

この男、昼間は芝居で馬の足、夜は噺家になるという掛け持ち稼業。

江戸でこそ、昼馬、夜鹿(噺家=しか)で合わせて「ばか」だが、田舎に来ると、芝居の神さま扱い。

庄屋杢左衛門の家に招かれて、下にも置かぬ大歓迎。

すっかりいい気持ちになり、
「だしものはなんです」
と尋ねると、
「なんでも、よくわからねえべが、幕を取ると向けえにお鎮守さまが祭ってござって、その傍にお天神さまがえらくいて、黄色い頭の天神さまに青いお天神、黒い爺さまの天神さん、土地べたイ座って箱の中から戦する時かぶる笠のようなものを」
と、シドロモドエオで説明するので、どうやら「仮名手本忠臣蔵」大序兜改めの場と、知れた。

そこで、なんとか衣装をあり合わせでそろえ、セリフも付けたが、田舎言葉なのでなんともしまらない。

稽古の時に衣装を外に干しておいたので、その間に蜂が烏帽子に入ったのも知らずに師直役の農民が
「だまらっしゃい、若狭どん。義貞討死した時大わらわ、死げえの前に落ち取った兜の数四十七、どれがどれとはわからねえのを奉納したその後で、アタタ」

蜂の出所がないから、あっと言う間にコブだらけ。

頭がふくれ上がったから、見物
「どこの国に師直とデコスケの早変わりがあるだ」
と怒り出す。

次は、四段目判官切腹。

花道から出るはずの諸士が出てこない。

福寿があわてて
「ショシ、ショシ」
と呼んだのを、次の幕の山崎街道の場に出る猪役がシシと聞き間違え、飛び出したので芝居はメチャクチャ。

見物が
「判官さまが腹切るに、猪が出るちゅうことがあるか」
「それがさ、五万三千石の殿さまが腹切るから、領内の獣が暇乞いに来ただんべ」

底本: 六代目桂文治

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【しりたい】

おらが村の大歌舞伎

原型は文化4年(1807)刊の『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九作の滑稽本『田舎草紙』と思われます。

これは丹波国 現・兵庫県)氷上郡の農村を舞台にし、村芝居で忠臣蔵七、九、十段目を農閑期の農民が土地のなまりそのままで演じていくおかしさを趣向にしたものです。

七段目で主人公、大星由良之助に、敵役の斧九太夫が芝居中に酔ってからみ、取っ組み合いの大ゲンカになったり、遊女おかる役の馬喰が転んで金玉を強打、悶絶したりと、さまざまなくすぐりを織り交ぜていますが、現行の落語の筋とは違っており、一九の趣向をヒントに、落語家が自由に、いろいろなくすぐりを創作してできたものでしょう。

この『田舎草紙』でちょっとおもしろいのは、村芝居を演じたり見物する百姓たちが、落語の中で揶揄されているのと異なり、決して本場の歌舞伎に無知ではなく、ある者は「去年江戸で見てきた」と言っているように、特に「忠臣蔵」の筋や登場人物くらいはほとんどの者がよく知っていることでしょう。

「近頃はいづくのうらでも、素人芝居はやりて、田舎も、まち場には、損料にて芝居の衣装、貸す所あり」と記されていて、江戸も末期になると、封建社会の農村にも、すでに「文化の波」が押し寄せてきていたことがわかります。

仮名手本忠臣蔵

人形浄瑠璃としては寛延元年(1748)8月大坂竹本座、歌舞伎は同年12月大坂嵐座初演。竹田出雲ほか三名の合作です。

「黄色い頭の天神さま」は大序「鶴岡八幡宮境内・兜改めの場」で、足利直義公が黄色の立烏帽子を被っているのを言ったもの。「青いお天神」は同じく桃井若狭助が青の長烏帽子、敵役の高師直が黒の長烏帽子を着用していることを指します。

「だまらっしゃい」は、反乱を起こし戦死した新田義貞の兜を八幡宮に奉納するという時、師直が文句を付けるのを若狭助がいさめたのに対し、師直が「だまれ若狭。出頭第一の師直に向かい、卒爾とはなにが卒爾。義貞討死のみぎりは大わらわ。死骸のそばにうち散りし、兜の数が四十七。どれがどうとも見知らぬ兜。奉納をしたその後で、そうでなければ大きな恥。生若輩のなりをして、お尋ねもなき評議。ええ、引っ込んでおいやれェ」と罵倒するセリフです。

さまざまなやり方

明治期、芝居噺を得意とした六代目桂文治の速記では、忠臣蔵の大序から五段目「山崎街道」までを通しで、その段ごとに村人の失敗を描く長講でした。文治は上下に分けていて、現行は上の部分です。

オチは、江戸の役者(この噺では福寿)がコブだらけになる演出があり、その場合は「さすがは江戸の役者。師直と福助の早替わりだ」と落とします。これは、顔が腫れてフクスケ人形そっくりになることと、江戸で有名な役者の中村福助を掛けたものですが、現在はわかりにくく、戦後は八代目林家正蔵(彦六)が手がけたほか、演じ手がありません。

四代目橘家円蔵は「四段目」「五段目」を中心にして「五段目」の題で演じ、この型が「五段目」として、現在になんとか伝わっています。同じ円喬が「素人芝居」と題した別の速記では、「五段目」の部分と「蛙茶番」を続けて演じるなど、長い噺なので、切り取り方に演者の工夫がありました。

【語の読みと注】
下谷北稲荷町 したやきたいなりちょう
庄屋杢左衛門 しょうやもくざえもん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ
敵役 かたきやく
斧九太夫 おのくだゆう
馬喰 ばくろう
損料 そんりょう
桃井若狭助 ももいわかさのすけ
長烏帽子 ながえぼし
高師直 こうのものなお
卒爾 そつじ
揶揄 やゆ

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なかむらなかぞう【中村仲蔵】演目

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役者が主人公の噺。法華信仰が見える噺でもあります。芝居と信仰の濃い関係。

別題:蛇の目傘

【あらすじ】

明和3年(1766)のこと。

苦労の末、名題に昇進にした中村仲蔵は、「忠臣蔵」五段目の斧定九郎役をふられた。

あまりいい役ではない。

五万三千石の家老職、斧九太夫のせがれ定九郎が、縞の平袖、丸ぐけの帯を締め、山刀を差し、ひもつきの股引をはいて五枚草鞋。山岡頭巾をかぶって出てくるので、どう見たって山賊の風体。

これでは、だれも見てくれない。

そこで仲蔵、
「こしらえに工夫ができますように」
と、柳島の妙見さまに日参した。

満願の日。

参詣後、雨に降られて法恩寺橋あたりのそば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできた。

年のころは三十二、三。月代が森のように生えており、黒羽二重の袷の裏をとったもの、これに茶献上(献上博多)の帯。

艶消し大小を落とし差しに尻はしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰にはさみ、破れた蛇の目をポーンとそこへほうりだす。

月代をぐっと手で押さえると、たらたらとしずくが流れるさま。

この姿に案を得た仲蔵は、拝領の着物が古くなった感じを出すべく、黒羽二重を羊羹色にし、帯は茶ではなく白献上、大小は艶消しではなく舞台映えするように朱鞘、山崎街道に出る泥棒が雪駄ではおかしいので福草履に変えて、こしらえが完成。

初日は、出番になる直前に手桶で水を頭からかけ、水のたれるなりで見得を切った。

初日の客は、あまりの出来にわれを忘れ、ただ息をのむばかり。

場内は水を打ったような静けさ。

これを悪落ちしたと勘違いした仲蔵は葭町の家に戻り、「もう江戸にはいられない。上方に行くぜ」と女房のおきしに旅支度をととのえさせる始末。

そこへ、師匠の中村伝九郎から呼ばれる。

行ってみると、師匠は仲蔵の工夫をほめたばかりか、仲蔵の定九郎の評判で客をさばくのに表方がてんてこまいしたとのこと。

これをきっかけに芸道精進した中村仲蔵は、名優として後世に名を残したという話。めでたし、めでたし。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

初代中村仲蔵

1736-90年。江戸中期の名優です。屋号は栄屋、俳号は秀鶴。長唄の太夫、中山小十郎の女房に認められて養子に。器量がよかったので、役者の中村伝九郎の弟子になり、三味線弾きの六代目杵屋喜三郎の娘おきしと結婚。努力の末、四代目市川団十郎に認められ、厳しい梨園の身分制度、門閥の壁を乗り越えて名題となりました。実録では、立作者の金井三笑に憎まれたのが定九郎役を振られた原因とか。

初代中村仲蔵

定九郎の扮装

定九郎の、扮装を含む演出は、仲蔵の刷新によって一変したわけではありません。仲蔵以後、かなりの期間、旧来のものが並行して演じられていたようです。特に、定九郎の出で、与一兵衛の後ろのかけ藁に隠れていて白刃を突き出し、無言で惨殺するやり方は、明らかにずっと後世のもので、それまでは後ろから「オーイオーイ」と呼びながら現れる従来の演出がずっと残っていたわけです。その切り替わりの時期、誰が工夫したのか、仲蔵の工夫は本当に噺通りだったのかは諸説あります。

タネ本

国立劇場編『名優芸談集』所収の「東の花勝見」(文化12=1815年11月刊、永下堂波静編)に、ほとんど同じ逸話が、仲蔵本人から西川鈍通(伝未詳)への直話として書かれています。つまり、仲蔵が鈍通に語った話をそのまま、予(=永下堂)が直接聞いた通りに記した、とあります。

参詣した場所に関しては王子稲荷、浪人を見た場所は、その帰りの道灌山下通り稲荷森(とうかもり)とあります。仲蔵本人の直話とあれば、記憶違いや伝聞に伴う誤記でなければ、こちらが正しいのでしょう。

衣装の工夫については、今日の演者が誰でも説明する通り、大縞の木綿広袖に丸ぐけ帯、狩人のかぶる麻苧の山岡頭巾に脚絆草鞋の従来の形から、「今は誰にても黒小袖に傘となりしは、此時より始る」とあるので、少なくともこの出で立ちに関しては文化年間にはもう定着していたようです。

仲蔵のこの逸話については、落語以外にもさまざまにあることないこと脚色され、まことしやかに書かれています。

戸板康二の短編小説「夕立と浪人」は、小説の形を取りながら、当時の劇壇の事情やヒエラルキー、仲蔵の出自や幼時の虐待の回想、初代菊五郎や五世團十郎との人間関係などを織り交ぜ、ただの芸道苦心譚には終わらない優れた人間ドラマとなっています。

この中では、定九郎役を仲蔵に振るように、親友の団十郎がボスの菊五郎に使嗾する設定で、浪人への遭遇はやはり柳島妙見願掛け満願の帰り、地内のそば屋のできごととしてあります。

芝居者のいじめ

以下は、前掲「夕立と浪人」の中で、初代中村仲蔵が後輩に語る、自らが幼時に受けたすさまじいいじめの実状です。もちろんフィクションの形ですが、なかなか真に迫っています。以下、引用です。

子役の時によくやられたのは、長持を背負わされる折檻だ。小道具の刀だの鏡だのがらくたをみんなが面白そうに入れて、うんと重くなったやつを、連尺で背負わされ、ここから向うに飛べと、板の間の板を、あいだ八枚はずして、いうのだ。

(飛べなければ)あいだに長持を背負ったまま、落っこちるのだ。(中略)義経の八艘飛びというのだ。

十五の声がわりになってからのでは、編笠責めというのがある。三階の連中の草履をからげて、頭にかぶらせるのだ。それから撞木責めというのがある。梁に吊り下げられて、みず(ぞ)おちを小づかれるんだ。こっちが釣鐘になっているんだ。

人間、いつの時代もトラウマと恨みつらみを背負って、駆け上がっていくのでしょうか。

手前味噌

この噺は、江戸末期-明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809-85)の自伝的随筆『手前味噌』の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものでしょう。

悟道軒円玉の「名人中村仲蔵」と」題する速記も残っていて、落語と同内容ですが、仲蔵の伝記がさらに詳しくなっています。円玉は明治の講釈師で速記講談のパイオニアでもある人物です。

近年では、松井今朝子の伝記小説『仲蔵狂乱』(講談社刊)が、仲蔵の苦悩の半生を描くとともに、当時の歌舞伎社会のいじめや差別、被差別のすさまじさ、役者の売色の生々しい実態などをリアルに活写した好著です。

役者の身分

当時の役者は、下立役(稲荷町=いなりちょうと通称)、中通り、相中(あいちゅう)、相中上分(あいちゅうかみぶん)、名題下、名題と、かなり細かく身分が分かれ、家柄のない者は、才能や実力にかかわらず、相中に上がれれば御の字。名題はおろか、並び大名役がせいぜいの名題下にすらまず一生なれないのが普通でした。

五段目

「仮名手本忠臣蔵」五段目、通称「鉄砲渡し」の場の後半で、元塩冶判官(浅野内匠頭)家来で今は駆け落ちした妻・お軽の在所・山崎で猟師をしている早野勘平が、山崎街道で猪と間違え、斧定九郎を射殺する有名な場面です。

定九郎の懐には、前の場でお軽の父・与市兵衛を殺して奪った五十両が入っており、それは、婿の勘平に主君の仇討ち本懐を遂げさせるためお軽が祇園に身を売って作った金。何も知らない勘平はその金を死骸から奪い……。

というわけで、次幕・六段目、勘平切腹の悲劇の伏線になりますが、噺の中で説明される通り、かってはダレ場で、客は芝居を見ずに昼食をとるところから「弁当幕」と呼ばれていたほど軽い幕でした。

柳島の妙見さま

日蓮宗の寺院、法性寺の別称。墨田区業平にあります。役者・芸者など、芸能者や浮き草稼業の者の信仰が厚いことで知られました。妙見は北極星の化身とされます。

正蔵と円生

戦後では、八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生という江戸人情噺の二大巨匠がともに得意としました。

円生は、役者の身分制度などをマクラで細かく、緻密に説明し、芝居噺の「家元」でもあった正蔵は、滋味溢れる語り口で、芝居場面を忠実に再現しました。

最近では、五街道雲助のが光ります。

正蔵のオチ

もともと、この噺は人情噺なのでオチはありません。ただ、正蔵の付けたものがあります。

師匠からたばこ入れをもらって帰宅した仲蔵に女房おきしが、「なんだね、おまえさん。いやですねえ。あたしを拝んだりして。けむに巻かれるよう」と言うと仲蔵が「けむに巻かれる? ……ああ、もらったのァ、たばこ入れだった」

【語の読み】
名題 なだい
定九郎 さだくろう
釜九太夫 おのくだゆう
縞の平袖 しまのどてら
丸ぐけの帯
山刀 やまがたな
股引 ももひき
草鞋 わらじ
山岡頭巾 やまおかずきん
風体 ふうてい
法恩寺橋 ほうおんじばし
月代 さかやき
黒羽二重 くろはぶたえ
袷 あわせ
茶献上 ちゃけんじょう
雪駄 せった
蛇の目 じゃのめ
拝領 はいりょう
羊羹色 ようかんいろ
朱鞘 しゅざや
山崎街道 やまざきかいどう
福草履 ふくぞうり
手桶 ておけ
見得 みえ
悪落ち あくおち
葭町 よしちょう
中村伝九郎 なかむらでんくろう
稲荷森 とうかもり

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】