おそかりしゆらのすけ【遅かりし由良之助】むだぐち ことば

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「由良之助か、遅かったァ」という絶句のしゃれ。それだけ。遅刻をたしなめることばとして、歌舞伎ファンでなくてもたまに使われています。

戦前までの東京では、生活の至るところに歌舞伎のにおいがあったようです。日常会話の端々に芝居の名セリフや、そのもじりがごく普通に使われていたわけです。なかでも『仮名手本忠臣蔵』となると、どんなワキのセリフでも、骨の髄までしゃぶり尽くされていました。これもその一つ。「四段目」、塩冶判官が腹に九寸五分を突き立てたところで、花道から家老の大星由良之助がバタバタ。そこで「由良之助か、遅かったァ」となるわけです。

もっともこれは実際の判官のセリフではなく、客席の嘆きの声なのですが。これが遅刻をたしなめることばとして定着。といっても本気ではなく、相手をからかうしゃれことばとなったものです。逆に、遅刻した側のわびごとは、その前の「三段目」喧嘩場での判官のセリフ「遅なわりしは拙者の不調法」。

エロ版小咄では、由良之助が髪を下ろした瑤泉院にお慰みに張り形(女性用婬具)を献上。そのサイズが合わず「細かりし由良之助」。

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つくばい 【蹲】 ことば

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原義は犬猫が前足を地面に突いてしゃがむ意味のようで、だから「突く+這う」というわけです。

「犬つくばい」という複合語も古くはありました。

今はカットされることが多いですが、『仮名手本忠臣蔵』二段目「建長寺の場」で、高師直(=吉良上野介)にはずかしめを受けた桃井若狭助が、明日は殿中で師直を討ち果たすと息巻くので、お家には変えられないと、師直にこっそり賄賂を届ける決心をした家老、加古川本蔵。主人に「もし相手が、犬つくばいになってわびたら斬るのを思いとどまるか」とカマをかけます。今で言う土下座で、絶対権力者である師直がそんな恥知らずなマネをするはずもないのですが、実際は次の三段目「喧嘩場」前半で、本蔵の賄賂が功を奏して師直が、なんと本当に犬つくばいになってご機嫌取りをしたので、若狭助が呆れて斬るのを思いとどまるという場があります。この語は派生語も多く、動詞で「つくなむ」、「つくばる」とも。転じて庭の手水鉢のある場所、また手水鉢そのものを「蹲(つくばい)」と呼びました。

古い江戸語で「因果のつくばい」という慣用句がありましたが、これは「運の尽き」を意味する強調表現で、「突く=尽く」という、単なるダジャレ。しかし、いかに円生、彦六といえど、いくらなんでもこんな古い言葉は知らなかったでしょうね。

田舎芝居 いなかしばい 演目

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町じゃ端役なのに田舎だと名代なんていうのは、ありそうなはなしですね。

【あらすじ】

田舎の鎮守の祭礼に、村芝居を出すことになった。

やり方を教えてくれるお師匠番が必要だが、一流の役者や振付師を頼むと千両ふんだくられると聞いた。

世話人がぶったまげ、
「それなら一番安くて悪い先生を頼もう」
と、捜し当てたのが江戸、下谷北稲荷町に住む本名、柴田与三郎。芸名、中村福寿という下回り役者だ。

この男、昼間は芝居で馬の足、夜は噺家になるという掛け持ち稼業。

江戸でこそ、昼馬、夜鹿(噺家=しか)で合わせて「ばか」だが、田舎に来ると、芝居の神さま扱い。

庄屋杢左衛門の家に招かれて、下にも置かぬ大歓迎。

すっかりいい気持ちになり、
「だしものはなんです」
と尋ねると、
「なんでも、よくわからねえべが、幕を取ると向けえにお鎮守さまが祭ってござって、その傍にお天神さまがえらくいて、黄色い頭の天神さまに青いお天神、黒い爺さまの天神さん、土地べたイ座って箱の中から戦する時かぶる笠のようなものを」
と、シドロモドエオで説明するので、どうやら「仮名手本忠臣蔵」大序兜改めの場と、知れた。

そこで、なんとか衣装をあり合わせでそろえ、セリフも付けたが、田舎言葉なのでなんともしまらない。

稽古の時に衣装を外に干しておいたので、その間に蜂が烏帽子に入ったのも知らずに師直役の農民が
「だまらっしゃい、若狭どん。義貞討死した時大わらわ、死げえの前に落ち取った兜の数四十七、どれがどれとはわからねえのを奉納したその後で、アタタ」

蜂の出所がないから、あっと言う間にコブだらけ。

頭がふくれ上がったから、見物
「どこの国に師直とデコスケの早変わりがあるだ」
と怒り出す。

次は、四段目判官切腹。

花道から出るはずの諸士が出てこない。

福寿があわてて
「ショシ、ショシ」
と呼んだのを、次の幕の山崎街道の場に出る猪役がシシと聞き間違え、飛び出したので芝居はメチャクチャ。

見物が
「判官さまが腹切るに、猪が出るちゅうことがあるか」
「それがさ、五万三千石の殿さまが腹切るから、領内の獣が暇乞いに来ただんべ」

底本: 六代目桂文治

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【しりたい】

おらが村の大歌舞伎

原型は文化4年(1807)刊の『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九作の滑稽本『田舎草紙』と思われます。

これは丹波国 現・兵庫県)氷上郡の農村を舞台にし、村芝居で忠臣蔵七、九、十段目を農閑期の農民が土地のなまりそのままで演じていくおかしさを趣向にしたものです。

七段目で主人公、大星由良之助に、敵役の斧九太夫が芝居中に酔ってからみ、取っ組み合いの大ゲンカになったり、遊女おかる役の馬喰が転んで金玉を強打、悶絶したりと、さまざまなくすぐりを織り交ぜていますが、現行の落語の筋とは違っており、一九の趣向をヒントに、落語家が自由に、いろいろなくすぐりを創作してできたものでしょう。

この『田舎草紙』でちょっとおもしろいのは、村芝居を演じたり見物する百姓たちが、落語の中で揶揄されているのと異なり、決して本場の歌舞伎に無知ではなく、ある者は「去年江戸で見てきた」と言っているように、特に「忠臣蔵」の筋や登場人物くらいはほとんどの者がよく知っていることでしょう。

「近頃はいづくのうらでも、素人芝居はやりて、田舎も、まち場には、損料にて芝居の衣装、貸す所あり」と記されていて、江戸も末期になると、封建社会の農村にも、すでに「文化の波」が押し寄せてきていたことがわかります。

仮名手本忠臣蔵

人形浄瑠璃としては寛延元年(1748)8月大坂竹本座、歌舞伎は同年12月大坂嵐座初演。竹田出雲ほか三名の合作です。

「黄色い頭の天神さま」は大序「鶴岡八幡宮境内・兜改めの場」で、足利直義公が黄色の立烏帽子を被っているのを言ったもの。「青いお天神」は同じく桃井若狭助が青の長烏帽子、敵役の高師直が黒の長烏帽子を着用していることを指します。

「だまらっしゃい」は、反乱を起こし戦死した新田義貞の兜を八幡宮に奉納するという時、師直が文句を付けるのを若狭助がいさめたのに対し、師直が「だまれ若狭。出頭第一の師直に向かい、卒爾とはなにが卒爾。義貞討死のみぎりは大わらわ。死骸のそばにうち散りし、兜の数が四十七。どれがどうとも見知らぬ兜。奉納をしたその後で、そうでなければ大きな恥。生若輩のなりをして、お尋ねもなき評議。ええ、引っ込んでおいやれェ」と罵倒するセリフです。

さまざまなやり方

明治期、芝居噺を得意とした六代目桂文治の速記では、忠臣蔵の大序から五段目「山崎街道」までを通しで、その段ごとに村人の失敗を描く長講でした。文治は上下に分けていて、現行は上の部分です。

オチは、江戸の役者(この噺では福寿)がコブだらけになる演出があり、その場合は「さすがは江戸の役者。師直と福助の早替わりだ」と落とします。これは、顔が腫れてフクスケ人形そっくりになることと、江戸で有名な役者の中村福助を掛けたものですが、現在はわかりにくく、戦後は八代目林家正蔵(彦六)が手がけたほか、演じ手がありません。

四代目橘家円蔵は「四段目」「五段目」を中心にして「五段目」の題で演じ、この型が「五段目」として、現在になんとか伝わっています。同じ円喬が「素人芝居」と題した別の速記では、「五段目」の部分と「蛙茶番」を続けて演じるなど、長い噺なので、切り取り方に演者の工夫がありました。

【語の読みと注】
下谷北稲荷町 したやきたいなりちょう
庄屋杢左衛門 しょうやもくざえもん
大星由良之助 おおぼしゆらのすけ
敵役 かたきやく
斧九太夫 おのくだゆう
馬喰 ばくろう
損料 そんりょう
桃井若狭助 ももいわかさのすけ
長烏帽子 ながえぼし
高師直 こうのものなお
卒爾 そつじ
揶揄 やゆ

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中村仲蔵 なかむらなかぞう 演目

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役者が主人公の噺。法華信仰が見える噺でもあります。芝居と信仰の濃い関係。

別題:蛇の目傘

【あらすじ】

明和3年(1766)のこと。

苦労の末、名題に昇進にした中村仲蔵は、「忠臣蔵」五段目の斧定九郎役をふられた。

あまりいい役ではない。

五万三千石の家老職、斧九太夫のせがれ定九郎が、縞の平袖、丸ぐけの帯を締め、山刀を差し、ひもつきの股引をはいて五枚草鞋。山岡頭巾をかぶって出てくるので、どう見たって山賊の風体。

これでは、だれも見てくれない。

そこで仲蔵、
「こしらえに工夫ができますように」
と、柳島の妙見さまに日参した。

満願の日。

参詣後、雨に降られて法恩寺橋あたりのそば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできた。

年のころは三十二、三。月代が森のように生えており、黒羽二重の袷の裏をとったもの、これに茶献上(献上博多)の帯。

艶消し大小を落とし差しに尻はしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰にはさみ、破れた蛇の目をポーンとそこへほうりだす。

月代をぐっと手で押さえると、たらたらとしずくが流れるさま。

この姿に案を得た仲蔵は、拝領の着物が古くなった感じを出すべく、黒羽二重を羊羹色にし、帯は茶ではなく白献上、大小は艶消しではなく舞台映えするように朱鞘、山崎街道に出る泥棒が雪駄ではおかしいので福草履に変えて、こしらえが完成。

初日は、出番になる直前に手桶で水を頭からかけ、水のたれるなりで見得を切った。

初日の客は、あまりの出来にわれを忘れ、ただ息をのむばかり。

場内は水を打ったような静けさ。

これを悪落ちしたと勘違いした仲蔵は葭町の家に戻り、「もう江戸にはいられない。上方に行くぜ」と女房のおきしに旅支度をととのえさせる始末。

そこへ、師匠の中村伝九郎から呼ばれる。

行ってみると、師匠は仲蔵の工夫をほめたばかりか、仲蔵の定九郎の評判で客をさばくのに表方がてんてこまいしたとのこと。

これをきっかけに芸道精進した中村仲蔵は、名優として後世に名を残したという話。めでたし、めでたし。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

初代中村仲蔵

1736-90年。江戸中期の名優です。屋号は栄屋、俳号は秀鶴。長唄の太夫、中山小十郎の女房に認められて養子に。器量がよかったので、役者の中村伝九郎の弟子になり、三味線弾きの六代目杵屋喜三郎の娘おきしと結婚。努力の末、四代目市川団十郎に認められ、厳しい梨園の身分制度、門閥の壁を乗り越えて名題となりました。実録では、立作者の金井三笑に憎まれたのが定九郎役を振られた原因とか。

初代中村仲蔵

定九郎の扮装

定九郎の、扮装を含む演出は、仲蔵の刷新によって一変したわけではありません。仲蔵以後、かなりの期間、旧来のものが並行して演じられていたようです。特に、定九郎の出で、与一兵衛の後ろのかけ藁に隠れていて白刃を突き出し、無言で惨殺するやり方は、明らかにずっと後世のもので、それまでは後ろから「オーイオーイ」と呼びながら現れる従来の演出がずっと残っていたわけです。その切り替わりの時期、誰が工夫したのか、仲蔵の工夫は本当に噺通りだったのかは諸説あります。

タネ本

国立劇場編『名優芸談集』所収の「東の花勝見」(文化12=1815年11月刊、永下堂波静編)に、ほとんど同じ逸話が、仲蔵本人から西川鈍通(伝未詳)への直話として書かれています。つまり、仲蔵が鈍通に語った話をそのまま、予(=永下堂)が直接聞いた通りに記した、とあります。

参詣した場所に関しては王子稲荷、浪人を見た場所は、その帰りの道灌山下通り稲荷森(とうかもり)とあります。仲蔵本人の直話とあれば、記憶違いや伝聞に伴う誤記でなければ、こちらが正しいのでしょう。

衣装の工夫については、今日の演者が誰でも説明する通り、大縞の木綿広袖に丸ぐけ帯、狩人のかぶる麻苧の山岡頭巾に脚絆草鞋の従来の形から、「今は誰にても黒小袖に傘となりしは、此時より始る」とあるので、少なくともこの出で立ちに関しては文化年間にはもう定着していたようです。

仲蔵のこの逸話については、落語以外にもさまざまにあることないこと脚色され、まことしやかに書かれています。

戸板康二の短編小説「夕立と浪人」は、小説の形を取りながら、当時の劇壇の事情やヒエラルキー、仲蔵の出自や幼時の虐待の回想、初代菊五郎や五世團十郎との人間関係などを織り交ぜ、ただの芸道苦心譚には終わらない優れた人間ドラマとなっています。

この中では、定九郎役を仲蔵に振るように、親友の団十郎がボスの菊五郎に使嗾する設定で、浪人への遭遇はやはり柳島妙見願掛け満願の帰り、地内のそば屋のできごととしてあります。

芝居者のいじめ

以下は、前掲「夕立と浪人」の中で、初代中村仲蔵が後輩に語る、自らが幼時に受けたすさまじいいじめの実状です。もちろんフィクションの形ですが、なかなか真に迫っています。以下、引用です。

子役の時によくやられたのは、長持を背負わされる折檻だ。小道具の刀だの鏡だのがらくたをみんなが面白そうに入れて、うんと重くなったやつを、連尺で背負わされ、ここから向うに飛べと、板の間の板を、あいだ八枚はずして、いうのだ。

(飛べなければ)あいだに長持を背負ったまま、落っこちるのだ。(中略)義経の八艘飛びというのだ。

十五の声がわりになってからのでは、編笠責めというのがある。三階の連中の草履をからげて、頭にかぶらせるのだ。それから撞木責めというのがある。梁に吊り下げられて、みず(ぞ)おちを小づかれるんだ。こっちが釣鐘になっているんだ。

人間、いつの時代もトラウマと恨みつらみを背負って、駆け上がっていくのでしょうか。

手前味噌

この噺は、江戸末期-明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809-85)の自伝的随筆『手前味噌』の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものでしょう。

悟道軒円玉の「名人中村仲蔵」と」題する速記も残っていて、落語と同内容ですが、仲蔵の伝記がさらに詳しくなっています。円玉は明治の講釈師で速記講談のパイオニアでもある人物です。

近年では、松井今朝子の伝記小説『仲蔵狂乱』(講談社刊)が、仲蔵の苦悩の半生を描くとともに、当時の歌舞伎社会のいじめや差別、被差別のすさまじさ、役者の売色の生々しい実態などをリアルに活写した好著です。

役者の身分

当時の役者は、下立役(稲荷町=いなりちょうと通称)、中通り、相中(あいちゅう)、相中上分(あいちゅうかみぶん)、名題下、名題と、かなり細かく身分が分かれ、家柄のない者は、才能や実力にかかわらず、相中に上がれれば御の字。名題はおろか、並び大名役がせいぜいの名題下にすらまず一生なれないのが普通でした。

五段目

「仮名手本忠臣蔵」五段目、通称「鉄砲渡し」の場の後半で、元塩冶判官(浅野内匠頭)家来で今は駆け落ちした妻・お軽の在所・山崎で猟師をしている早野勘平が、山崎街道で猪と間違え、斧定九郎を射殺する有名な場面です。

定九郎の懐には、前の場でお軽の父・与市兵衛を殺して奪った五十両が入っており、それは、婿の勘平に主君の仇討ち本懐を遂げさせるためお軽が祇園に身を売って作った金。何も知らない勘平はその金を死骸から奪い……。

というわけで、次幕・六段目、勘平切腹の悲劇の伏線になりますが、噺の中で説明される通り、かってはダレ場で、客は芝居を見ずに昼食をとるところから「弁当幕」と呼ばれていたほど軽い幕でした。

柳島の妙見さま

日蓮宗の寺院、法性寺の別称。墨田区業平にあります。役者・芸者など、芸能者や浮き草稼業の者の信仰が厚いことで知られました。妙見は北極星の化身とされます。

正蔵と円生

戦後では、八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生という江戸人情噺の二大巨匠がともに得意としました。

円生は、役者の身分制度などをマクラで細かく、緻密に説明し、芝居噺の「家元」でもあった正蔵は、滋味溢れる語り口で、芝居場面を忠実に再現しました。

最近では、五街道雲助のが光ります。

正蔵のオチ

もともと、この噺は人情噺なのでオチはありません。ただ、正蔵の付けたものがあります。

師匠からたばこ入れをもらって帰宅した仲蔵に女房おきしが、「なんだね、おまえさん。いやですねえ。あたしを拝んだりして。けむに巻かれるよう」と言うと仲蔵が「けむに巻かれる? ……ああ、もらったのァ、たばこ入れだった」

【語の読み】
名題 なだい
定九郎 さだくろう
釜九太夫 おのくだゆう
縞の平袖 しまのどてら
丸ぐけの帯
山刀 やまがたな
股引 ももひき
草鞋 わらじ
山岡頭巾 やまおかずきん
風体 ふうてい
法恩寺橋 ほうおんじばし
月代 さかやき
黒羽二重 くろはぶたえ
袷 あわせ
茶献上 ちゃけんじょう
雪駄 せった
蛇の目 じゃのめ
拝領 はいりょう
羊羹色 ようかんいろ
朱鞘 しゅざや
山崎街道 やまざきかいどう
福草履 ふくぞうり
手桶 ておけ
見得 みえ
悪落ち あくおち
葭町 よしちょう
中村伝九郎 なかむらでんくろう
稲荷森 とうかもり

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】