やまざきや【山崎屋】演目

道楽にはまったご大家の若旦那。これはもう、円生と彦六で有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若旦那、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若旦那は
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若旦那、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若旦那、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若旦那に、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若旦那に」
と佐兵衛が言うと旦那、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われて旦那、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若旦那、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

旦那、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若旦那が忘れたからと金を届ける。

番頭が、旦那自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされた旦那、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

旦那は徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でしたが、意外にやり手は多く、三代目三遊亭金馬、その孫弟子の桂文朝、談志も持ちネタにしていました。円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。噺中の「道中」は花魁道中のこと。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若旦那が掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

正蔵(彦六)のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、魚市が開かれました。落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのでしょう。

【語の読みと注】
鼈甲 べっこう
花魁 おいらん
掛け取り かけとり:借金の取り立て
新造 しんぞ:見習い遊女
禿 かむろ
二番目物 にばんめもの:芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場

【RIZAP COOK】

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やまおかかくべえ【山岡角兵衛】演目

角兵衛獅子は軽業芸が商売。忠臣蔵物の講談を基にしたもの。

【あらすじ】

浅野内匠頭の松の廊下刃傷事件の後。

赤穂の浪士たちはあらゆる辛苦に耐え、ある者は町人に化けて吉良邸のようすを探り、仇討ちの機会を狙っていたが、その一人の山岡角兵衛がついに志を得ないまま病死した。

その妻のお縫は、女ながらも気丈な者。

なんとか夫に代わって主君の仇を報じたいと、吉良上野介のところにお妾奉公に入り、間者となった。

あと三日で上野介が米沢に出発することを突き止め、すわ一大事とこのことを大石内蔵助に知らせた。

そこで、元禄十五年十二月十四日。

茶会で吉良が在宅しているこの日を最後の機会と、いよいよ四十七士は討ち入りをかける。

その夜。

今井流の達人、美濃部五左衛門は、長屋で寝ていたが、気配に気づき、ひそかに主君上野介を救出しようと、女に化けて修羅場と化した屋敷に入り込んだ。

武林唯七に見とがめられて合言葉を
「一六」
と掛けられ、これはきっと賽の目だと勘づいたものの、あわてていて
「四五一、三二六」
と返事をしてしまう。

見破られて、かくなる上は破れかぶれと、獅子奮迅に暴れまわるうち、お縫が薙刀を持って駆けつけ、五左衛門に斬りかかる。

しかし、そこは女、逆にお縫は斬り下ろされて縁側からまっさかさま。

あわや、と見えたその時、お縫はくるりと一回転して庭にすっくと立ち、横に払った薙刀で五左衛門の足を払って、見事に仕留める。

これを見た大石が
「えらい。よく落ちながらひっくり返った。今宵の働きはお縫が一番」
とほめたが、それもそのはず。

お縫は、角兵衛の女房。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

忠臣蔵講談の翻案  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、忠臣蔵ものの講談を基にしたものです。古い速記では、明治32年(1899)10月、「志士の打入り」と題した二代目三遊亭小円朝(当時初代金馬)のものが残っています。

その没後、息子の三代目小円朝、二代目円歌が高座に掛けましたが、二人の没後、後継者はありません。音源は円歌のものがCD化されています。

三代目小円朝によると、二代目のは、本来は松の廊下のくだりから始まり、討ち入りまでの描写が綿密で長かったとか。

明治32年の速記を見ると、脇筋で、親孝行の将軍綱吉が、実母の桂昌院に従一位の位階をもらって喜ぶくだりが長く、その後、刃傷から討ち入りまでの説明はあっさり流しています。

オチの「角兵衛」は角兵衛獅子で、「ひっくり返った」は角兵衛のアクロバットから。

「角兵衛獅子」と言ったところで、現代ではもう説明なしにはとうていわからなくなりました。角兵衛獅子については、「角兵衛の婚礼」をご参照ください。

武林唯七  【RIZAP COOK】

武林唯七の祖父は中国杭州(旧名は武林)から来た医家の孟二寛。医術と拳法で毛利家や浅野家に仕えました。唯七も拳法に長けていました。

美濃部五左衛門は抜刀居合術の達人ですから、拳法にも長けています。唯七、五左衛門、お縫の取り合わせは、剣の戦いばかりか、拳の戦いをも意味していたのでしょう。そこでお縫が軽業を使うわけですから、その視覚的効果は抜群です。

主人同様、不運な吉良邸  【RIZAP COOK】

吉良上野介屋敷は「北本所一、二の橋通り」「本所一ッ目」「本所無縁寺うしろ」「本所台所町横町」などと記録にあります。俗にいう「本所松坂町二丁目」は、吉良邸が没収され、町家になってからの名称なので誤りです。現在の墨田区両国三丁目、両国小学校の道をはさんで北向かいになります。路地の奥にわずかに上野稲荷として痕跡を留めていましたが、「上野」の二字が嫌われ、同音の「河濯」と碑に刻まれました。

明治5年(1772)に松坂町二丁目が拡張されたとき、その五番地に編入されましたが、長い間買い手がつかなかったといいます。討ち入り事件当時は東西三十間、南北二十間、総建坪五百坪、敷地二千坪。上野介が本所に屋敷替えを命ぜられ、丸の内呉服橋内から、この新開地に移ってきたのは討ち入り三か月前の元禄15年9月2日(1702年10月22日)。

事件当日の12月14日は、新暦では1703年1月30日(火曜日)で、普通言われている1702年は誤りです。旧暦と新暦のずれを考慮に入れないためのミスなのでしょう。当日の即死者十六人中に、むろん美濃部某の名はありません。

【語の読みと注】
浅野内匠頭 あさのたくみのかみ
刃傷 にんじょう
間者 かんじゃ:スパイ
武林唯七:たけばやしただしち
薙刀 なぎなた
角兵衛獅子 かくべえじし

【RIZAP COOK】

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やなぎのばば【柳の馬場】演目

原話は遠く中国にあるそうです。彦六が得意とした噺。

【あらすじ】

按摩の杢市は、ある旗本の殿さまのごひいきに預かり、足げく揉み療治に通っている。

ある日、いつものように療治が終わってからのよもやま話で、目の不自由な人間をいじめる輩への怒りを訴えたところから口が滑って、自分はいささか武道の心得がある、と、ホラを吹いてしまった。

殿さまが感心したのでつい図に乗って、剣術は一刀流免許皆伝、柔術は起倒流免許皆伝、槍術は宝蔵院流免許皆伝、薙刀は静流免許皆伝と、もうこうなると止まらない。

弓術は日置流免許皆伝、そこまで並べたところで殿さまが
「剣や槍はわかるが、的も見えないそちが弓の名手とはちと腑に落ちんぞ」
と文句を言うと、
「そこは心眼で」
とごまかす。

ますます口が滑らかになり、
「ご当家は三河以来の馬術のお家柄なのに、りっぱな馬場がありながら馬がいないというのは惜しい。自分は馬術の免許皆伝もあるので、もし馬がいればどんな荒馬でも乗りこなしてみせるのに残念で」
などと見栄を切ったのが運の尽き。

殿さまが膝を乗り出して
「実はこの間、友人の中根が『当家に馬がないのはご先祖にも申し訳あるまい。拙者が見込んだ馬を連れてきてやろう』と言っていたが、その馬が荒馬で、達人の中根自身も振り落とされてしまった。きさまが免許皆伝であるのは幸い。一鞍責めてくれ」

杢市は青くなったが、もう遅い。

もとより馬のウの字も知らないから、しかたなく、今のは全部うそで、講釈場で「免許皆伝」と流儀の名前だけを仕入れたことを白状。

殿さまは
「身供に術を盗まれるのを心配してさようなことを申すのであろう」
と、全然取りあってくれない。

若侍たちにむりやり抱えられ、鞍の上に乗せられてしまった。

馬場に向かって尻に鞭をピシッと当てられたからたまらず、暴れ馬はいきり立って杢市を振り落とそうとする。

半泣きになりながら必死にぶるさがって、馬場を半周ほどしたところに柳の大木。

この枝にあわてて飛びつくと、馬は杢市を残してどどっと走っていってしまう。

「杢市、しっかとつかまって手を離すでない。その下は谷底じゃ。落ちれば助からん」
「ひえッ、助けてください」
「助けてやろう。明日の昼間までには足場が組めるだろう」

冗談じゃない。もう腕が抜けそうだ。

「長年のよしみ、妻子老母は当屋敷で養ってつかわす。心置きなく、いさぎよく死ね」

耐えきれなくなり
「南無阿弥陀仏」
と手を離すと、地面とかかとがたった三寸。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

円喬伝説、彦六好みのシブーイ噺  【RIZAP COOK】

中国明代の笑話集『応諧録』中の小咄が原型とみられますが、日本での原話は不詳です。

明治期は四代目橘家円喬の名演がいまだに語り草です。幼時に見た六代目円生の思い出では、円喬は座って演じているのに、杢市が枝にぶら下がった足先に、本当に千尋の谷底が黒々と広がって見えたとか。円生は、生涯この噺を手掛けませんでした。

初代三遊亭円左も得意としました。円左は三遊亭円朝門下の俊秀でしたが、目が細かったのであだ名が「按摩」「鍼医」。この噺を何度も演じているのに、本格的に売り物にしようというとき、わざわざ兄弟子の三遊一朝に改めて断りに行ったそうです。明治人の義理がたさでしょう。

その一朝から、八代目林家正蔵(彦六)と二代目三遊亭円歌が直伝で継承しました。両者とも音源を残していますが、特に正蔵のものは、地味ながら滋味あふれる語り口で名品でした。オチは、この後「口は災いのもと」と「ダメを押す」(正蔵)こともありました。主人公の杢市は「富市」で演じることもあります。

彦六の芸談から  【RIZAP COOK】

杢市がぶら下がったとき、下から手を突き上げるようにすると、腕がのび切ったように見えます。(中略)このはなしは先代の(注:八代目)文治さんもやりました。文治さんのは、杢市がしゃべりまくるので、旗本がうるさがってだまっちゃうんです。すると杢市が「殿さま、殿さま、かわやへお立ちになったんですか」「杢市」「ああ、いた」というところが、よかったですね。

彦六にはほかに、主人公の按摩が終始一人称で語る形式の人情噺「あんま」(村上元三・作)がありました。

按摩と座頭  【RIZAP COOK】

しばしば混同されますが、前者は職業名、後者は位階です。視覚障害者の身分差、位階については「松田加賀」をご参照ください。按摩は揉み療治、鍼灸などを業とし、座頭の位がもらえて初めて営業を許されました。按摩には目の不自由な人だけでなく、目が見える者も多く、その場合は座頭の資格ではなく、頭を丸めて医者と名乗っていました。

黙阿弥の世話狂言「加賀鳶」の悪按摩・熊鷹道玄とおさすりお兼はともに視覚に問題はありません。お兼はゆすりに来て、「按摩按摩と番頭さん、あんまり安くお言いでない。マクラ付きの揉み療治、二朱より安い按摩はしませんよ」と居直る通り、ついでにいかがわしいサービスも行っていたわけで、女性にはこういう手合いもいたようです。同狂言では、本郷菊坂にあった目の不自由な人たちの長屋の場があり、当時の風俗の貴重なルポともなっています。

一般に、全身マッサージ(上下=かみしも)の場合は、幕末で四十八文が相場とされ、お兼の言う二朱は四百八十文相当ですから、十倍! いくらなんでも無茶苦茶な「揉み代」です。

【語の読みと注】
按摩 あんま
杢市 もくいち
槍術 そうじゅつ
薙刀 なぎなた
日置流 へきりゅう
鞍 くら
鞭 むち

【RIZAP COOK】

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やすべえぎつね【安兵衛狐】演目

明治期、三代目小さんが上方からもってきた噺です。

別題:墓見 天神山(上方)

【あらすじ】

六軒長屋があり、四軒と二軒に分かれている。

四軒の方は互いに隣同士で仲がよく、二軒の方に住んでいる「偏屈の源兵衛」と「ぐずの安兵衛」、通称グズ安も仲がいい。

ところが、二つのグループは犬猿の仲。

ある日、四軒の方の連中が、亀戸に萩を見に繰り出そうと相談する。

同じ長屋だし、グズ安と源兵衛にも一応声をかけようと誘いにいくが、グズ安は留守で、源兵衛の家へ。

この男、独り者であだ名の通りのへそ曲がり。

人が黒と言えば白。

案の定、
「萩なんぞ見たってつまらねえ。オレはこれから墓見に行く」
と、にべもない。

四人はあきれて行ってしまう。

源兵衛、本当は墓などおもしろくないが、口に出した以上しかたがないと、瓢の酒をぶら下げて、谷中天王寺の墓地までやってきた。

どうせ墓で一杯やるなら女の墓がいいと「安孟養空信女」と戒名が書かれた塔婆の前で、チビリチビリ。

急に塔婆が倒れ、後ろに回ってみると穴があいている。塔婆で突っ付くと、コツンと音がするので、見ると骨。

気の毒になって、何かの縁と、酒をかけて回向してやった。

その晩。

真夜中に
「ごめんくださいまし」
と女の声。

はておかしい、と出てみると、じつにいい女。

実は昼間のコツで、生前酒好きだったので、昼間あなたがお酒をかけてくれて浮かばれたからご恩返しにきました、と言う。

あとはなりゆきで、源兵衛、能天気にもこの世ならぬ者を女房にした。

この幽霊女房、まめに働くが、夜明けとともにスーッと消えてしまう。

さて、グズ安。

ゆうべ源兵衛の家の前を通ったら、女の酌でご機嫌に一杯やっていたので、翌朝、嫌みを言いに行くと、実はこれこれだという。

ノロケを聞かされ、自分も女房を見つけようと、同じように酒を持って天王寺へ。

なかなか手頃な墓が見当たらず、奥まで行くと、猟師が罠で狐をとったところ。

グズ安、皮をむいちまうと聞いて、かわいそうだと無理に頼み、一円出して狐を逃がしてやる。

その帰り、若い娘が声をかけるので、グズ安はびっくり。

聞いてみると、昔なじみのお里という女の忘れ形見で、おコンと名乗る。

実はこれがさっきの狐の化身。

身寄りがないというので、家に連れていき、女房にした。

騒ぎだしたのが、長屋の四人。

最近、偏屈とグズが揃って女房をもらったのはいいが、片方は昼間見たことがない。もう片方は、口がこうとんがって、言葉のしまいに必ず「コン」。

これはどう見ても魔性の者だと、安兵衛が留守の間に家に押しかける。

「まあ、安兵衛は用足しに出かけたんですよ。コン」

やっぱり変。

思い切って
「あなたはいい女だけど、ひょっとして何かの身では」
と、言いも果てず、狐女房、グルグル回って、引き窓から飛んでいってしまった。

こうなると、亭主の安兵衛も狐じゃねえかと疑わしい。

そこで、近所のグズ安の伯父さんに尋ねるが、耳が遠くていっこうにラチがあかない。

思い切り大きな声で
「あのね、安兵衛さんは来ませんかね」
「なに、安兵衛? 安兵衛はコン」
「あ、伯父さんも狐だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

志ん生、極めつけの爆笑編  【RIZAP COOK】

上方落語の切りネタ(大ネタ)「天神山」を、おそらく三代目柳家小さんが、東京に移植したものでしょう。

前半は「野ざらし」にそっくりで、実際、上方の「天神山」は、「骨つり」(野ざらし)に、「葛の葉子別れ」「保名」の芝居噺を即席に付けたものという説(宇井無愁)がありますが、桂米朝はこれを否定しています。

戦後は、五代目古今亭志ん生の極めつけ。志ん生がどこからこの噺を仕込んだのかは不明ですが、三代目小さんの「墓見」と題した明治40年の速記では最後に登場するのが安兵衛の父親となっているほかはほぼ志ん生のものと変わらない演出です。

考えてみると、前半と後半がまったく別の話で、全体としてまとまりを欠く噺ですが、さすがに志ん生。

速いテンポとくすぐりにつぐくすぐりの連続で、いささかもダレさせないみごとな手練です。  

現役では、滝川鯉昇ほかが手掛けていますが、まあ、志ん生を超える気遣いはないでしょう。志ん生が「葛の葉」の題で演じたことがあるという説がありますが、いつごろのことなのかわかりません。

「天神山」はオチが三か所  【RIZAP COOK】

本家・大阪の「天神山」は、桂米朝、門下の枝雀、笑福亭仁鶴を始め、今も多くの演者が手掛けます。

舞台は大坂・天王寺門前の安居の天神と、その向かいの一心寺の墓地。主要キャストの「ヘンチキの源兵衛」の偏屈ぶりは、東京よりはるかに徹底的。頭は半分伸ばして半分坊主、しびんに酒を入れ、おまるに飯を入れるえげつなさ。上方は、そのヘンチキがシャレコウベを持ち帰り、夜中に現れた幽霊と夫婦になる段取りです。

オチは、演者がどの部分で切るかによって三通りに分かれます。

まず、東京同様、長屋の者が押しかけて正体がバレ、狐女房が「もうコンコン」と姿を消す部分。

ついで、こちらは東京にはない部分ですが、女房に去られた保平(東京の安兵衛)が、障子に書き残された「恋しくば尋ねきてみよ南なる天神山の森の中まで」の歌を見て、狂乱して後を追うくだりで切ります。

ここは、浄瑠璃の「蘆屋道満大内鑑」・「保名狂乱」のパロディ仕立ての芝居噺になります。昔は、このくだりで「保名」の振りで立ち踊りする噺家も多かったとか。

オチは地口で、「蘆屋道満」「葛の葉」をもじり、「貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶ほったらかし」。

最後は「安兵衛狐」と同じ、長屋の者と保平の伯父のトンチンカンな会話で「あ、叔父さんも狐や」でオチ。

江戸名所、亀戸の萩  【RIZAP COOK】

亀戸天神は江東区亀戸三丁目にあります。春は梅、藤、秋は萩の名所としてにぎわいました。

狐釣り  【RIZAP COOK】

罠を仕掛けて狐を捕獲するのを狐釣りともいいました。皮をはいで胴服、つまり狐皮の下着用に売るわけですが、西洋だとスポーツなのに対し、こちらはれっきとしたお仕事です。

「狐ェ捕ってどうすんです?」「皮ァむくんだよォ」「狐が痛がるでしょ」という志ん生のやり取りが笑わせました。

志ん生のくすぐりから  【RIZAP COOK】

(長屋の某がグズ安の伯父さんに)
某「あこら、ほんとに聞こえねえんだ。やいじじい、ひとつなぐってやろうか」
伯「ふふーん、ありがとう」
某「あり……おめえみてえなものはね、あの、もうね、くたばっちゃえ」
伯「そう言ってくれんのはおまいばかりだ」
某「あ、しょうがないよこりゃ……自分で死ね」
伯「あは、それもいいや」

【語の読みと注】
塔婆 とうば
回向 えこう
嬶 かか

【RIZAP COOK】

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やくばらい【厄払い】演目

いまはすたれた「お払い」をネタにした噺です。興味津々。

【あらすじ】

頭が年中正月の与太郎。何をやらせてもダメなので、伯父さん夫婦の悩みの種。

当人に働く気がまるでないのだから、しかたがない。

おふくろを泣かしちゃいけないと説教し、
「今夜は大晦日だから、厄払いを言い立てて回って、豆とお銭をもらってこい」
と言う。

小遣いは別にやるから、売り上げはおふくろに渡すよう言い聞かせ、厄落としのセリフを教える。

「あーらめでたいな、めでたいな、今晩今宵のご祝儀に、めでたきことにて払おうなら、まず一夜明ければ元朝の、門に松竹、注連飾り、床に橙鏡餅、蓬莱山に舞い遊ぶ、鶴は千年、亀は万年、東方朔は八千歳、浦島太郎は三千年、三浦の大助百六ツ、この三長年が集まりて、酒盛りをいたす折からに、悪魔外道が飛んで出で、妨げなさんとするところ、この厄払いがかいつかみ、西の海へと思えども、蓬莱山のことなれば、須弥山の方へ、さらありさらり」
というものだが、伯父さんの後について練習しても文句が覚えられないので、紙に書いてもらって出かける。

表通りで
「ええ、こんばんは」
「なんだい」
「厄払いでござんす」
「もう払ったよ」
「もういっぺん払いなさい」
「なにを言やがる!」

別の厄払いに会ったので
「おいらも連れってくれ」
「てめえを連れてっても商売にならねえ」
「おまえが厄ゥ払って、おいらが銭と豆をもらう」

追っ払われて
「えー、厄払いのデコデコにめでたいの」
とがなって歩くと、おもしろい厄払いだと、ある商家に呼び入れられる。

前払いで催促し、おひねりをもらうと、開けてみて
「なんだい、一銭五厘か。やっぱりふところが苦しいか」
「変なこと言っちゃいけない」

もらった豆をポリポリかじり、茶を飲んで
「どうも、さいならッ」
「おまえはなにしに来たんだ」
とあきれられ、ようやく「仕事」を思い出す。

表戸を閉めさせて「原稿」を読み出すが、つっかえつっかえではかどらない。

「あらあらあら、荒布、あらめでたいな。あら、めでたいなく」
「おい、めでたくなくちゃいけない」
「くの字が大きいんだ。鶴は十年」
「鶴は千年だろ」
「鶴の孫」
「それだって千年だ」
「あ、チョンが隠れてた。鶴は千年。亀は……あの、少々うかがいます」
「どなたで?」
「厄払いで」
「まだいやがった。なんだ」
「向こうの酒屋は、なんといいます」
「万屋だよ」
「ええ、亀はよろず年。東方」

ここまで読むと、与太郎、めんどうくさくなって逃げ出した。

「おい、表が静かになった。開けてみな」
「へい。あっ、旦那、厄払いが逃げていきます」
「逃げていく? そういや、いま逃亡(=東方)と言ってた」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「黒門町」の隠れ十八番  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から口演されてきました。東西ともに演じられますが、上方の方はどちらかというとごく軽い扱いで、厄払いのセリフをダジャレでもじるだけのもの。オチは「よっく挟みまひょ」で、「厄払いまひょ」の地口です。

明治34年(1901)の四代目柳亭左楽の速記では、「とうほうさく」のくの字が「く」か「ま」か読めず、「とうほうさま、とうほうさく」とうなっていると、客「弘法さまの厄除けのようだ」、与太郎「百よけいにもらやあ、オレの小遣いになる」とダジャレの連続でオチています。

昭和期では、たまに八代目桂文楽が機嫌よく演じ、これも隠れた十八番の一つでした。文楽没後は、三笑亭夢楽も得意にしました。現在、若手も結構手掛けていますが、音源は文楽、夢楽のほか古くは初代桂春団治のレコードがあり、米朝、小三治もCDに入れています。

一年を五日で暮らす厄払い  【RIZAP COOK】

古くは節分だけの営業でしたが、文化元年(1804)以後は正月六日と十四日、旧暦十一月の冬至、大晦日と、年に計五回、夜に廻ってくるようになりました。この噺では大晦日の設定です。古くは、厄年の者が厄を落すため、個人個人でやるものでしたが、次第に横着になり、代行業が成り立つようになったわけです。

もっとも、個人でする厄落しがまったくなくなったわけではなく、人型に切り抜いた紙で全身をなで、川へ流す、また、大晦日にふんどしに百文をくくり、拾った者に自分の一年分の厄を背負わせるといった奇習もありました。要は、フンドシが包んでいる部分は、体中でもっとも男の厄と業がたまっているから、というわけです。

江戸の厄落しは「おん厄払いましょう、厄落し」と、唄うように町々を流し、それが前口上になっています。文句は京坂と江戸では多少異なり、江戸でも毎年、また節季ごとに変えて工夫しました。厄落しの祝詞は、もとは平安時代に源を発する厄除けの呪文・追儺祭文からきたとか。

前口上で家々の気を引いて、呼び込まれると門付けで縁起のいい七五調の祝詞を並べます。いずれも「あーらめでたいな、めでたいな」で始まり、終わりに「西の海とは思えども、東の海へさらーり」の決まり文句で、厄を江戸湾に捨て流して締めます。祝儀を余計はずむと、役者尽くし、廓尽くしなど、スペシャルバージョンを披露することもありました。

こうなると縁起ものというより、万歳同様、一種の芸能、エンターテイメントでしょう。祝儀は、江戸では十二文、明治では一銭から二銭をおひねりで与え、節分には、それに主人の年の数に一つ加えた煎り豆を、他の節季には餅を添えてやるならわしでした。

『明治商売往来』(仲田定之助、ちくま文庫)」に言及がありますが、1888年(明治21)生まれの仲田でさえ、記憶が定かでないと述べているので、おそらく明治30年代終わりには、もういなくなっていたのでしょう。

こいつぁ春から  【RIZAP COOK】

歌舞伎で、黙阿弥の世話狂言「三人吉三」第二幕大川端の場の「厄落し」のセリフは有名です。夜鷹のおとせが、前夜の客で木屋の手代・十三郎が置き忘れた百両の金包みを持って、大川端をうろうろしているところを、親切ごかしで道を教えた女装の盗賊・お嬢吉三に金を奪われ、川に突き落とされます。ここで七五調の名セリフ。

月もおぼろに白魚の
かがりも霞む春の空冷てえ風もほろ酔いに
心持よくうかうかと浮かれがらすのただ一羽
ねぐらへ帰る川端で棹の雫か濡れ手で粟
思いがけなく手に入る百両

懐の財布を出し、にんまりしたところで、「おん厄払いましょう、厄落し」と、厄払いの口上の声。

ほんに今夜は節分か
西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落し
豆沢山に一文の
銭と違って金包み
こいつぁ春から(音羽屋!)縁起がいいわえ

「西の海」の厄払いの決まり文句、豆と一文銭というご祝儀の習慣がちゃんと読み込まれた、心憎さです。

こんなぐあいですから、歌舞伎の世界ではすらすら流れる名調子を「厄払い」と言っているそうです。

東方朔  【RIZAP COOK】

東方朔(BC154-)は中国・前漢の人。西王母(仙人)の、三千年に一度実る桃を三個も盗み食いし、人類史上ただ一人、不老不死の体になった人。李白の詩でその超人ぶりを称えられ、能「東方朔」では仙人として登場します。漢の武帝に仕え、知略縦横、また万能の天才、漫談の祖としても知られました。BC92年、62歳で死んだと見せ掛け、以後仙人業に専念。2152歳の今も、もちろんまだご健在のはずです。ただし、探し出して桃のありかを吐かせようとしても次に実るのはまだ千年も先ですので、ムダでしょう。

三浦の大助百八つ  【RIZAP COOK】

平安末期の武将、三浦義明(1092-1180)のこと。相模の有力豪族、三浦氏の総帥で、治承2年(1178)、源頼朝の挙兵に応じましたが、石橋山の合戦で頼朝が敗北後、居城の衣笠城に籠城。一族の主力を安房に落とし、自らは敵勢を引き受け、城を枕に壮絶な討死を遂げました。実際には88歳までしか生きませんでしたが、古来まれな長寿者として、誇張して伝承され、「三浦大助」として登場する歌舞伎「石切梶原」では106歳とされています。厄払いでは「みうらのおおすけ」と発音されます。

【語の読みと注】
門 かど
注連飾り しめかざり
東方朔 とうぼうさく
須弥山 しゅみせん
追儺祭文 ついなさいもん

【RIZAP COOK】

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もんざぶろういなり【紋三郎稲荷】演目

紋三郎稲荷とは笠間稲荷のことなんですね。茨城県が落語に登場するとはビックリ。

【あらすじ】

常陸国笠間八万石、牧野越中守の家臣、山崎平馬。

参勤交代で江戸勤番に決まったが、風邪をひき、朋輩より二、三日遅れて国元を出発した。

もう初冬の旧暦十一月で、病み上がりだから、かなり厚着をしての道中。

取手の渡しを渡ると、往来に駕籠屋が二人。

病後でもあり、風も強いので乗ることにし、駕籠屋が八百文欲しいと言うのを、気前よく酒手込みで一貫文はずんだ。

途中、心地よくうとうとしているうち、駕籠屋の後棒が先棒に、この節は値切らなければ乗らない客ばかりなのに、言い値で乗るとはおかしい、お稲荷さまでも乗っけたんじゃねえかと話しているのが、耳に入った。

はて、どういうわけでそう言うのかとよく考えると、寒いので背割羽織の下に、胴服といって狐の毛皮を着込んでいる。

その毛皮の尻尾がはみ出し、駕籠の外に先が出ているから、稲荷の化身の狐と間違われたことに気づく。

洒落気がある平馬、からかってやろうと尻尾を動かすと、駕籠屋は仰天。

そこで、わしは紋三郎(稲荷)の眷属(=親類)だと出まかせを言ったから、駕籠屋はすっかり信じ込む。

その上、途中の立て場でべらべら吹聴するので、ニセ稲荷はすっかり閉口。

松戸の本陣の主人、高橋清左衛門なる者が大変に紋三郎稲荷を信仰しているため、平馬はそこに連れていかれる。

下りて駕籠賃を渡すと駕籠屋、
「木の葉に化けるなんてことは……」
「たわけたことを申せ。それは野狐のすることだ」

主人の清左衛門、駕籠屋から話を聞いて大喜び。

羽織袴で平馬の部屋に現れ
「紋三郎稲荷さまにお宿をいただくのは、冥加に余る次第にございます。中庭にささやかながらお宮をお祭りし、ご夫婦のお狐さまも祠においであそばします」
とあいさつしたから、平馬は
「駕籠屋のやつ、ここの親父にまでしゃべった、どうも弱った」
と思ったが、いっそしばらく化け込もうと決める。

清左衛門が、夕食はおこわに油揚げなどと言いだすので、平馬はあわてて
「そんなものは初心者の狐のもので、わしほどになると何でも食うから、酒のよいのと、ここの名物の鯰鍋、鯉こくもよい」

えらくぜいたくな狐だと思いながら、粗相があってはと、主人みずから給仕する歓待ぶり。

平馬、酔っぱらって調子に乗り、この間は王子稲荷と豊川稲荷の仲裁をしたなどと吹きまくる。

そのうち近所の者が、稲荷さまがお泊りと聞いて大勢「参拝」に押しかけたというので、平馬、
「それは奇特なことである。もし供物、賽銭などあらば申し受けると伝えよ」
「へへー」

喜んだ在所の衆、拝んでは部屋に再選を放り込んでいくので、平馬は片っ端から懐へ。

もうかったので、バレないうちにずらかろうと、縁側から庭に下り、切戸を開けると一目散。

祠の下で見ていた狐の亭主、
「おっかあ」
「なんだい、おまいさん」
「化かすのは、人間にはかなわねえ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

円生十八番、若手が復活  【RIZAP COOK】

原話は、寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「玉」。明治から大正にかけ、「品川の円蔵」こと四代目橘家円蔵が得意にした噺で、これを門下の三遊亭円玉(1866-1921)が受け継ぎ、当時若手の、のちの二代目円歌と六代目円生に伝えました。円歌のレコードも残っていますが、その没(1964年)後は円生の独壇場で、CD「円生百席」収録の音源が現在、唯一のスタンダードとなっています。

その円生も「実は私は師匠のは一度も聞いたことがありません」と述べているので円蔵もめったにやる噺ではなかったのでしょう。円生は、それまで笠間藩主を「牧さま」としていたのを史実通りに改めています。「牧野さま」で。

円生没後、継承者がありませんでした。2003年1月、TBS落語研究会で柳家一琴が演じ、その後、入船亭扇辰ほか、若手がぼつぼつ手掛けるようになりました。

紋三郎稲荷  【RIZAP COOK】

茨城県笠間市の笠間稲荷の通称です。胡桃下の稲荷ともいいます。「紋三郎」の通称の由来は、常陸国笠間藩牧野家初代藩主・牧野貞通(寛延2=1749年没)の一族・牧野紋三郎にちなむものとされます。

祭神は宇迦之御魂神で、創建は白雉年間(650-654)。稲荷神は外来の神で、稲荷社のご神体はどこもだいたいはこの神さまです。「ウカ」は「ウケ」とも通じて、食や豊かさを象徴します。伏見稲荷、豊川稲荷と共に、日本三大稲荷の一つとされています。異説は多いのですがとりあえず。初詣は茨城県内では鹿島神宮を抜いて第1位の動員80万人を数えます。現在も五穀豊穣の祭神として信仰を集めているということですね。坂本九は結婚式を笠間稲荷で挙げました。坂本家は笠間稲荷の信心篤い一家だったのですね。そのかかわりからでしょうか、笠間市内の駅のジングルは「上を向いて歩こう」が流れます。

背割羽織  【RIZAP COOK】

別名「ぶっさき羽織」「ぶっさばき」とも呼びます。武士が乗馬や旅行の際に着用した、背中の中央から下を縫い合わせていない羽織です。

稲荷信仰  【RIZAP COOK】

京都市伏見区の伏見稲荷大社を中心とした信仰。神社は2970社、摂社や末社は32000社を超えるといわれています。しめて35000社。八幡社の20,000社をはるかにしのいでいます。東日本に広く分布しているようです。稲荷神は渡来系の秦氏の氏神のため、もとは外来の神さまなのでしょう。秦氏は中央アジアから韓半島を経て渡ってきたといわれますから、稲荷神の本当の神はそこらへんの神さまなのかもしれません。一般にはウカノミタマノカミ(古事記では宇迦之御魂神、日本書紀では倉稲魂大神)とされています。「ウカ」とか「ウケ」とかという古語は食物や豊かさを意味します。中世には伊勢神宮外宮にまつられるトヨウケビメ(古事記では豊宇気毘売神、日本書紀では不登場)と同じ神とされるようになりました。とはいえ、稲荷神社の祭神がウカノミタマノカミであるというのは室町後期以降です。つまり、この神社の神は何者なのかは本当のところはよくわかりません。日本の神さまはいまだによくわからないのがけっこうあります。稲荷というくらいですから農業神だったようですが、米が流通や商業とも深くかかわることから、商業神、漁業神、福神として平安時代から篤信されてきました。豊かさをつかさどる神さまということで現代まで崇信されてきたのですね。このような稲荷信仰の効用から想像すれば、秦氏は東西の十字路で豊穣と富裕の象徴とされるサマルカンドあたりから移ってきたのかもしれません。

教王護国寺(東寺)の鎮守でもあり、真言宗系とも深く結びついてきました。神仏習合思想における稲荷神は、江戸時代までは仏教における十一面観音や聖観音を本地仏(本来の姿の仏)とされるとともに、江戸時代以降は荼枳尼天(夜叉、護法善神)とも同一視されてきました。伏見稲荷大社の神宮寺(江戸末期までは普通にあった神社付属の寺)である愛染寺でも荼枳尼天が祀られていました。明治元年(1868)の神仏分離後も、稲荷神を荼枳尼天としてまつる寺院があります。その代表例は、豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市、曹洞宗)と最上稲荷妙教寺(岡山市北区、日蓮宗)。最上稲荷では最上位経王大菩薩、八大龍王尊、三面大黒尊天の本地であるとされています。

このように稲荷神は、時代を経るとともに融通無碍にさまざまな神仏と融合合体して信仰を集めてきました。これほどの篤信盛況ぶりは、稲とかかわる神であることで日本人に最も強い結びつきを示す神であったこと、秦氏や東寺といった巨大勢力と結ばれていたこと、下級宗教家によって、稲荷ずし、お狐さま、正一位(稲荷神の神階で最高位)といったわかりやすく布教されていったことが大きいのでしょう。

【語の読みと注】
常陸 ひたち:茨城県
朋輩 ほうばい
取手 とりで
駕籠屋 かごや
洒落気 しゃれけ
胡桃下 くるみした
宇迦之御魂神 うかのみかまのかみ:稲荷の神さま
白雉 はくち

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もといぬ【元犬】演目

江戸期からのスタンダードな噺。前座がよくやっています。

別題:戌の歳 白犬

【あらすじ】

浅草蔵前の八幡さまの境内に、珍しい純白の犬が迷い込んだ。

近所の人が珍しがって、白犬は人間に近いというから、きっとおまえは来世で人間に生まれ変われるというので、犬もその気になって、人間になれますようにと八幡さまに三七、二十一日の願掛け。

祈りが通じたのか、満願の日の朝、一陣の風が吹くと、毛皮が飛んで、気がつくと人間に。

うれしいのはいいが、裸ではしょうがないと、奉納手拭いを腰に巻いた。

人間になったからはどこかに奉公しないと飯が食えないと困っているところへ、向こうから、犬の時分にかわいがってくれた口入れ屋の上総屋吉兵衛。

奉公したいので世話してくれと頼むと、誰だかわからないが、裸でいるのは気の毒だと、家に連れていってくれる。

ところが、なかなか犬の癖が抜けない。

すぐ這って歩こうとするし、足を拭いた雑巾の水は呑んでしまうわ、尻尾があるつもりで尻は振るわ、干物を食わせれば頭からかじるわ。着物も帯の着け方も知らない。

「どこの国の人だい」
と首をかしげた旦那、
「おまえさんはかなり変わっているから、変わった人が好きな変わった人を紹介しよう」
と言って、近所の隠居のところに連れていくことにした。

隠居は色白の若い衆なので気に入り、引き取ることにしたが、やたらに横っ倒しになるので閉口。

ウチは古くからのお元という女中がいるから、仲よくしとくれと念を押すと、根掘り葉掘り、身元調査。

「生まれはどこだ」
と尋ねると、
「乾物屋の裏の掃き溜めで」
という。

「お父っつぁんは酒屋のブチで、お袋は毛並みのいいのについて逃げた。兄弟は三匹で、片方は大八車にひかれ、もう片方は子供に川に放り込まれてあえない最期」

なにか変だと思って、名前はと聞くと
「ただのシロです」

隠居、勘違いして
「ああ、只四郎か。いい名だ。今茶を入れよう。鉄瓶がチンチンいってないか、見ておくれ」
「あたしは、チンチンはやりません」
「いや、チンチンだよ」
「やるんですか」

シロがいきなりチンチンを始めたので、さすがの隠居も驚いた。

「えー、茶でも煎じて入れるから、焙炉をとんな。そこのほいろ、ホイロ」
「うー、ワン」
「気味が悪いな。おーい、お元や、もとはいぬ(=いない)か」
「へえ、今朝ほど人間になりました」

しりたい

志ん生得意のナンセンス噺   【RIZAP COOK】

「ホイロ」の部分の原話は、文化12年(1815)刊『滑稽福笑』中の「焙炉」で、その中では、主人とまぬけな下男の珍問答の形になっています。

大阪でも同じ筋で演じられますが、焙炉のくだりはなく、主人が「椀を持ってこい」と言いつけると「ワン」と吠えるという、単純なダジャレの問答になります。

明治期では三遊亭円朝が「戌の歳」、二代目(禽語楼)柳家小さんが「白狗」と題して速記を残しています。心学から発想された噺なんだそうです。

戦後では八代目春風亭柳枝が得意で、よく高座に掛けました。柳枝では、上総屋の旦那だけ、シロが犬から変身したことを知っている設定でした。

五代目古今亭志ん生も、噺の発想自体の古めかしさや、オチの会話体としての不自然さを補ってあまりある、ナンセンスなくすぐり横溢で十八番に。志ん生没後はあまり演じ手がありませんでしたが、最近、荒唐無稽な発想がかえって新鮮に映るのか、やや復活のきざしがあるようです。

人か獣か、獣か人か  【RIZAP COOK】

オチは陳腐ですが、この噺のユニークさは、「人が犬に」ではなく、逆に、「犬が人に」転生するという、発想の裏をついている点でしょう。その人間に生まれ変わった犬の立場に立って、その心理・行動から噺を組み立てています。こういう視点は、よくある輪廻や因縁ばなしの盲点をつくもので、ありそうであまりありません。

考えてみれば、「ジャータカ物語」で、釈迦は人から獣へ、獣から人へと、無数の転生を繰り返し、ネイテブ・アメリカンはコヨーテやバッファローや馬や犬と人間は渾然一体、いつでも精神的、肉体的に動物に変身できると信じていました。したがって、転生は「可逆的」でなければおかしいのに、なぜか、仏教的な輪廻説話では、人が前世の悪業で畜生に転生させられるという、一方的なものばかりです。

「アラビアン・ナイト」では、魔法でよく人が獣に変身させられますが、一時的に姿が変わっても、主人公はあくまで「人間」です。これは、人間があくまで「万物の霊長」で、それが畜生道に堕ちてロバやオウムになることはあっても、その逆は受け入れられないという意識の表れでしょうか。

とすれば、その意識の壁を破ったこの噺、実は落語史上に残る傑作、なのかも知れません。

蔵前八幡  【RIZAP COOK】

東京都台東区蔵前三丁目。元禄7年(1694)、石清水八幡を勧請したので、石清水正八幡宮の正式名があります。

白犬は人間に近いのか  【RIZAP COOK】

ことわざで、心学の教義、または仏教の転生説話が根拠と思われますが、なぜ特に白犬なのかははっきりしません。

焙炉  【RIZAP COOK】

ほいろ。茶葉を火にかけて乾かす道具です。木枠や籠の底に、和紙を張って作ります。現在ではほとんど姿を消し、骨董屋をあさらないと拝めません。

志ん生のくすぐり  【RIZAP COOK】

(上総屋):「おい、食いついちゃいけないよ。人間が猫に食いつくんじゃありません。おいッ、なんだってそう片足持ちゃげて小便するんだよ。……あとをにおいなんぞ嗅ぐんじゃねえってんだ」

「元人」を信じた詩人  【RIZAP COOK】

プロバンスの桂冠詩人にしてノーベル文学賞受賞作家・フレデリック・ミストラル(1830-1914)は、カトリック信仰の強固な南仏には珍しく、輪廻転生を信じていました。

ある日、ミストラルは突然迷い込んだ犬の目を見たとたん「これは人間の目だ(笑)」。以来、この19世紀最高の知性の一人は、終生、この「パン・ペルデュ」と名付けられた犬が死んだ知人か先祖の生まれ変わりと信じ、文字通りの人間としての「待遇」で養ったとか。別に「人面犬」の都市伝説ではないのでしょうが。

以上は「元犬」ならぬ「元人」の例ですが、人と犬の、古代からの霊的(?)結びつきを象徴する、なかなか不気味な逸話です。ミストラル先生の直感が本当なら、「犬の目」の医者は名医中の名医ということになります。

【語の読みと注】
焙炉 ほいろ:炉にかざして茶などを焙じる道具

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まんびょうえん【万病円】演目

ろくでもない奴の脅しテクニック集ともいえる小咄の連続ものです。

別題:侍の素見 ないもん買い(上方)

【あらすじ】

悪侍の行状記。

その一 湯屋にて

湯船の中で、自分の褌ばかりか、女房の下袴まで堂々と洗濯。

ほかの客から番台に苦情が出て、湯銭をみんな返させられるので、困った親父がおそるおそる抗議すると、
「きさまは番台で男客の○○や××を預かるか」
と逆襲。

「アレは切り離せないから預かれない」
と言うと、
「正物は平気で湯につけているのに、それを包む風呂敷である褌を洗うのが、なぜいけない」
と屁理屈で逆ネジ。

帰りしなに、わざと五両中判を出し、釣りを出せと無理難題。

まんまと湯銭を踏み倒す。

その二 居酒屋にて

肴をいろいろ聞いて、番頭が
「あとは、蟹のようなもの」
と答えると
「じゃ、その『ようなもの』をくれ」

蛸も海老もゆでると赤くなると聞いて
「それじゃ、稲荷の鳥居はゆでたのか」
などとからかった挙げ句、
「どうだ、蟹代あんこう代鱈の四文なりというのは」
と、しゃれでケムにまき、番頭がだまされて承知したのをタテに、支払った代金は三品取って、酒代と合わせてたった八文。

文句を言うと
「値段を決めておいてそれが成らんとあれば主人を出せ。刀の手前、容赦はできん」
とすごんだ上、
「町奉行所に訴え出る」
と脅して、まんまと飲食代を踏み倒す。

その三 菓子屋にて

小僧をつかまえて、
「饅頭の蒸籠の上で褌を干させろ」
と無理難題。

金鍔を猫の糞、餡ころ餠を馬糞などと汚いことを言ってからかい、小僧が、一つ四文の積もりで
「餡ころ餠はいくつ召しても四文で」
と言ったのを、あちこち食い散らして、都合十個食い、
「いくつ食っても、と言ったのだから全部で四文だ」
と強弁。

「一つ四文ならなぜそう申さん。フラチな奴だ。主人を出せ。らちが明かなければ裁判を」
とコワモテ。

まんまと饅頭代を踏み倒す。

その四 古着屋にて

袷の綿入れの値段を聞くと、掛け値なしの三両二分。

これを一分一朱に負けさせようとしたが、失敗。

サンピン、盗ッ人、団子、屁でもかげと、親父の悪態を背に退散。

これで三勝一敗。

その五 神屋にて

例によって疫病神はあるが、疱瘡神はどうだと攻撃をしかけ、風の神は、と聞くと「ございます」

扇を出され、「開かねば 扇も風の 蕾かな」という句で、切り返される。

ここは薬も売っているのに目をつけ、もう一勝負。

万病の薬と張り紙があるので、
「病の数は四百四病と心得るが、万病とは大変に増えているな」
「子供の百日咳を入れると五百四病で」
「算盤を貸せ。五百四病だな」
「殿方の病で疝気を入れると千五百四病」
「なるほど」
「ご婦人の産前産後もあれば、脚気肥満(=四万)もあります」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「居酒屋」と共通の原話も  【RIZAP COOK】

昭和から戦後では、三代目三遊亭金馬、六代目三升家小勝がよく演じましたが、最近はあまり高座に掛けられません。

各部分で原話が異なります。

湯屋と菓子屋のくだりは不明ですが、居酒屋の部分は文化3年(1806)年刊の咄本『噺の見世開』(十返舎一九)中の「酒呑の横着」。この部分は昭和期に、三代目三遊亭金馬が「居酒屋」として独立、改作し、大ヒットを飛ばしました。

次の古着屋くだりは、上方落語「ないもん買い」の踏襲で、原話は安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「通り一遍」、紙屋の方は同2年(1773)刊『千年艸』中の「紙屋」です。このうち、前者の原話では古着屋の代わりに道具屋と竹細工屋がなぶられ、後者の紙屋のオチは「風の神なら、おくりやれさ(=送れ)」と言って踏み倒します。

この噺の核になる、最後の薬屋のくだりは、貞享4年(1687)刊の笑話本『正直咄大鑑』中の「万病錦袋円」が最も古い形です。

これは、下谷・池の端の「くわ(か)んがくや(屋)だいすけ」という江戸名代の薬屋で、「錦袋円(きんたいえん)」なる万病に効く霊薬を売り出したところ、浪人がゆすりにやってくるという設定。

「四百四病」の言いがかりはそのままで、機知のある店の若い者が、「あなたのような御浪人さまにも『臆病』という病はあるはず」と、切り返すところが異なります。

宝暦5年(1755)刊の『口合恵宝袋』中の「万病円」では、京都二条の薬屋で「十三味地黄丸」の看板を見た男が「地黄丸 造血・強精剤)は六味か八味のはず」と、因縁をつけるところから始まり、主人が「あまり売れないので五味(=ゴミ)がかって十三味」と、撃退されます。その後、やはり「万病円」と四百四病の問答から、疝(千)気→腸満(=万)でオチになります。

文化4年(1807)刊『按古於当世』中の「もがりいいの侍」を経て天保15年(1844)刊の『往古噺の魁』中の「ねぢ上戸」では、さらにシャレが豊富になり、「百日咳」「産前産後」「脚気肥満」と、より現行に近くなっています。

いずれにしても、たわいないダジャレの応酬の繰り返し。「一目あがり」同様、だんだん数が増えていくだけのものなので、落語家がそれぞれシャレを工夫して、付け加えていったものなのでしょう。

類話といえる上方の「ないもん買い」が幕末の桂松光の楽屋ネタ帳「風流昔噺」に記載されているところから、この噺も、やはり幕末から明治初期に、最終的にまとめられたと思われます。

オチから古びた噺  【RIZAP COOK】

明治29年(1896)3月、「侍の素見」と題した四代目橘家円喬の速記がありますが、大筋は現行のものと変わりません。オチはいくつかのバージョンがあり、近代のやり方では「一つで腸満(=兆万)」とする方が一般的。ただ、「腸満」という病名そのものが古めかしく、通じなくなっているので、どっちもどっちでしょう。

万病円  【RIZAP COOK】

実在した薬です。解毒剤で、京都室町の御香具所、植村和泉掾が本家発売元。江戸では、浅草茅町と京橋尾張町の虎屋甚右衛門が委託販売していました。

五両中判  【RIZAP COOK】

正しくは天保五両判金といい、天保8年(1837)から安政2年(1855)までの18年間通用しました。大判十両と小判一両の間です。幕府の財政難から、貨幣「お吹き替え」の一環として天保小判と同時に鋳造され、翌年には天保大判も発行されました。これらは粗悪な貨幣で、特に中判は純金の含有割合が少なく、評判が悪かったため、ほとんど流通しないまま終りました。

なぜこんな大金を浪人風情が持っていたのかはわかりません。ゆすった金か、さもなければ、ニセ金かも知れませんね。もし、金に困っていないのなら、この男、純然たる「愉快犯」ということになります。

金馬以後はやり手なし  【RIZAP COOK】

「侍の素見(ひやかし)」と題した、四代目橘家円喬の速記(明治29=1896年)が最古です。短い噺なので円喬は、昔は侍がどれだけいばっていたか、というテーマの小咄を、マクラに二題振っています。オチの「脚気肥満」は、江戸っ子が「ヒ」を「シ」と発音することから、「ヒマン」→「シマン(=四万)」としたダジャレで、円喬の工夫かもしれません。

戦後では三代目三遊亭金馬と六代目三升家小勝が得意とし、速記は両者、音源は金馬のもののみが残ります。金馬は、この噺に居酒屋が登場するため、同題の自身のヒット作との縁で、よくこちらも高座に掛けていました。東京では最近は、ほとんど聞かれません。金馬は、原話の「万病円」や、上方のオチにならって「一つで腸満(=兆万)があります」と、オチていました。

あらすじは、前述、円喬の速記を参考にしましたが、五両判のくだりがあることで、古い型を踏襲していることがわかり、この噺の成立時期がおよそ見当がつきます。

上方噺「ないもん買い」  【RIZAP COOK】

現在でも、笑福亭仁鶴などが得意とするネタです。

東京と異なり、なぶりに来るのは、タチの悪い町人です。最初に古着屋で、三角の布団や袷の蚊帳を出せと無理難題を言ったあと、魚屋で「『めで鯛』をくれ」。けんかになったところで仲裁が入り、「おまえもたいない(=たわいない、大阪弁)やっちゃな」「いや、タイがあったさかいに、こんな目におうた」と、オチになります。古くはこのあと、「万病円」につなげることも。その場合、オチはやはり「たった一つで腸満」でした。

【語の読みと注】
褌 ふんどし
四文なり しもんんなり:「紙代判行代でただの四文なり」という読売瓦版の売り立て
饅頭 まんじゅう
蒸籠 じょうろう
金鍔 きんつば
袷 あわせ
疝気 せんき
脚気肥満 かっけしまん:肥満を四万にかける
腸満 ちょうまん:腹腔内に液体やガスがたまって腹部膨満感を起こす症状

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まんきんたん【万金丹】演目


江戸を食い詰めた梅吉と初五郎が寺に転がり込んで。

別題:戒名万金丹 鳥屋引導(上方)、鳥屋坊主(上方)

【あらすじ】

道中で路銀が底をつき、水ばかり飲んで腹は大シケという、餓死寸前の大ピンチ。

とある古寺に、地獄にホトケとばかり転がり込む。

いざとなればタコの代わりくらいにはなるから、坊主でも食っちまおう、というひどい料簡。

やっと食い物にありついたと思ったら、先代住職の祥月命日とやらで、精進物の赤土と藁入り雑炊を食わされる。

これで左官をのみゃあ、腹ん中に壁ができらァという大騒ぎの末、同情した和尚の勧めで、先の当てもないこともあり、しぶしぶ出家して、この寺に居候同然の身とはなった。

梅坊、初坊と名を変えた二人、ひっきりなしにこき使われ、飲酒も女郎買いも厳禁というひどい境遇に、はや不満たらたら。

その折も折、和尚が京都の本山に出張で一月は帰れないという。

留守番を頼まれた梅と初、さあこの時とばかり、
「それ酒だ」
「網がねえから麻衣で鯉をとってこい」
「金がなきゃァ阿弥陀さまから何から一切合切売っ払っちまえ」
というわけで、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをし始める。

そこへやって来たのが檀家の衆。

近在の大金持ち、万屋の金兵衛が死んだので
「葬式をお願え申してェ」
と言う。

「どうしよう、兄貴、経も読めねえのに」
「なに、かまうこたァねえ。経なんざイロハニホヘトでゴマけて、どさくさに香典かっつァらってずらかっちめェ」

りっぱな坊主があったもので、香典目当てに金兵衛宅に乗り込んだ二人、さっそく怪しげな読経でケムにまく。

「いーろはーにほへと、富士の白雪ャノーエ、おてもやーん、チーン」

なんとかかんとか終わったはいいが、どうぞ戒名をいただきたいと言われて、さあ困った。

「なにか字のあるものは……」
と探すと、和尚の部屋を掃除していて、たまたま見つけた薬の効能書き。

「あー、戒名、官許伊勢朝熊霊法万金丹」
「坊さま、こんな戒名聞いたことがねえ」
「なに、上等だ。ホトケのニンにあってらあな。棺の前で経を読むからカンキョ、生きてるときは威勢がいいが死んだら浅ましくなるから、イセイアサマ、死んだら幽霊になるから霊宝、おまけにホトケが万屋金兵衛だから万金だァ。なに? 屋根から転がり落ちて死んだ? それならゴロゴロゴロゴロ落っこったんの丹だ。…リッパなカイミョウじゃねえか」
「それじゃあ、わきに白湯にて用うべしとあるのは、なんだね」
「このホトケはお茶湯をあげるにゃ及ばねえ」

【しりたい】

原型は『醒睡笑』に  【RIZAP COOK】

直接の原話は延宝3年(1675)刊の笑話本『軽口曲手毬』中の「文盲坊主戒名付る事」ですが、さらに遠い原型は『醒睡笑』(安楽庵策伝、寛永5=1628年稿)巻一の小咄「無智の僧」その六です。

こんな話です。

バクチに負けて取り立て逃れのため、にわか坊主になった男が、葬式で読経させられるハメに。困って、若いころ薬屋に奉公したとき覚えた漢方薬の名をでたらめに並べ立てますが、たまたま列席していた薬屋の主人が勘違いし、「あらありがたや。われわれが売買する薬の名は、すべて法華経の経文にあったのか」と感激、ニセ坊主を伏し拝む。

この話が上方で旅の噺として落語化され、「鳥屋坊主」または「鳥屋引導」として親しまれたものが、幕末か明治初期に東京に移植されたと思われます。

元は「七度狐」の一部にも  【RIZAP COOK】

上方の演出は、長編シリーズ「東の旅」で、清八と喜六の極楽コンビが寺(または尼寺)で狐に化かされる「七度狐」の前半、住職に赤土と藁のベチョタレ雑炊を食わされるシーンの後に、入れ込み噺(別バージョン)として挿入されるのが普通です。

東京のと、やり方はさほど変わりません。「お茶湯」のオチも同じですが、「霊法」のこじつけで、「幽霊になって出んよう、法で押さえてある」とするところが異なります。

頭屋  【RIZAP COOK】

上方の演題「鳥屋坊主」はもとは「頭屋坊主」で、頭屋とは西日本で葬儀を取り仕切る村の長老のこと。旅の噺になり、旅回りの芸人が楽屋で寝泊まりするのを「鳥屋につく」といったのを誤用したのでは、というのが宇井無愁の説です。

金さんは「要解剖?」  【RIZAP COOK】

古くは「戒名万金丹」と題した明治23年(1890)1月の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記があり、さらに孫弟子にあたる三代目蝶花楼馬楽(狂馬楽)が、明治43年(1910)4月の『文藝倶楽部』に速記を載せていて、それ以来ずっと小さん系の噺です。

二代目小さんでは、坊主に化けるのは一人で、江戸を出てすぐの出来事としてあります。

また、「丹」のこじつけでは、二代目や馬楽、四代目小さんあたりまでは単に「落っこったんのタンだ」としていましたが、五代目小さんや現・談志は「痰がからんだんで」「だめだい、屋根から落っこちて死んだ」「だから、落っこちたんさ」と、細かくなっています。

「白湯にて用ゆべし」を、「おぼれ死んだから水には懲りてる」としたり、効能書きに「食物いっさい差し支えなし」と加え、だから「精進には及ばない」とこじつけるオチもあります。

万金丹  【RIZAP COOK】

目まい、癪、下痢、痛みなどの万病に効くとされる常備薬です。「丹」は中国で不老不死の霊薬を指し、丹薬の形状は練り薬ですが、「万金丹」は「仁丹」と共に例外的に丸薬で、わらべ唄などにも唄われ、悪童どもの「鼻くそ丸めて万金丹」という囃し言葉にもなりました。

お茶湯  【RIZAP COOK】

先祖の仏前に供えるお茶のことです。

【語の読みと注】
精進物 しょうじんもの
藁 わら
頭屋 とうや
檀家 だんか
万屋 よろずや

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まつだかが【松田加賀】演目


一見歌舞伎の世話物かと思いきや、やっぱり落語でした。

別題:頓智の藤兵衛

【あらすじ】

本郷も 兼安までは 江戸のうち

その本郷通りの雑踏で、年端もいかない小僧按摩が、同じ盲人に突き当たった。

こういう場合の常で、互いに杖をまさぐり合い、相手は按摩の最高位である検校とわかったから、さあ大変。

相手は、公家や大名とも対等に話ができる身分。

がたがた震えて、「ごめんくださいまし。ご無礼いたしました」という謝罪の言葉が出てこず、ひたすらペコペコ頭を下げるだけ。

こやつ、平の按摩の分際であいさつもしないと、検校は怒って杖で小僧をめった打ち。

これから惣録屋敷に連れていき、「おまえの師匠に掛け合う」と大変な剣幕。

周りは十重二十重の野次馬。

「おい、年寄りの按摩さん。かわいそうじゃねえか。よしなよッ」
「なに、わしはただの按摩ではない。検校だ」
「それなら、家に帰ってボウフラでも食え」
「なんだ?」
「金魚」
「金魚じゃない。けんぎょお」

大変な騒ぎになった。

そこへ通り合わせたのが、神道者で長年このあたりに住む、松田加賀という男。

話を聞いて、自分が一つ口を聞いてやろうと、
「もしもし、そこな検校どの。あなたに突き当たった小僧、年がいかないから度を失って、わびの言葉が出てこない。仲人は時の氏神、と申します。ここは私に任して、まるく納まってはくださいますまいか」
と丁重に持ちかけた。

検校は
「これはこれは、あなたはもののよくおわかりになる。お任せはしましょうが、ご覧の通り、わたくしは晴眼の方とは違います。あなたのお顔、なり形などは皆目わからない。仲人をなさいますあなたさまの、お所お名前ぐらいは承りたい」
と言うので、加賀、
「これは失礼いたしました。私はこの本郷に住んでいる、松田加賀と申します」
と正直に返事をしたが、興奮が冷めない検校、本郷のマツダをマエダと聞き違えて、これはすぐ近くに上屋敷がある、加賀百万石のご太守と勘違い。

「加賀さま……うへえッ」
と、杖を放り捨てて、その場に平伏。

加賀も、もう引っ込みがつかないから、威厳を作って
「いかにも加賀である」
「うへえーッ」
「検校、そちは身分のある者じゃな。下々の者は哀れんでやれ。けんか口論は見苦しいぞ」
「へへー。前田侯のお通り先とも存じませず、ご無礼の段は平にお許しを」

検校がまだ這いつくばっている間に、加賀はさっさと先へ行くと、
「高天原に神留まりまします」
と、門付けの御祓いをやりはじめた。

そうとは知らない検校、
「ええ、以後は決して喧嘩口論はいたしません。ご重役方にも、よろしくお取りなしのほどを」
と、さっきとは大違いで、ひたすらペコペコ。

野次馬連中、喜んでわっと笑った。

検校、膝をたたき
「さすがは百万石のお大名だ、たいしたお供揃え」

出典:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

元は「とんち噺」  【RIZAP COOK】

原話は、安永4年(1775)刊の笑話本『新落ばなし一のもり』中の「乗打」です。

これは、身分の低い盲人の配当が、最高位の検校に乗打、つまり駕籠に乗ったまま挨拶せずに行き過ぎたのをとがめられ、難渋しているのを、通りすがりの神道者が機転をきかせ、大名と偽って助けるというもので、オチは現行と同じです。

これが落語化され、仲裁者を「頓知の藤兵衛」という知恵者にし、藤兵衛が人助けでなく、大名に化けて盲人二人をからかうという、演じ方によってはあざとい内容になりました。

彦六が改題、洗練  【RIZAP COOK】

明治から大正にかけて「頓智の藤兵衛」の題で三代目小さんが得意にしていました。

戦後、しばらくすたれていたのを、八代目林家正蔵(彦六)が原話に近い形に戻した上、人情味を加味して、重厚な内容に仕上げました。演題を「松田加賀」と変えたのも正蔵です。正蔵はこの噺を若き日、私淑した円朝門下の三遊一朝老人(1930年没)に教わっています。

「頓智の藤兵衛」で演じるときは、「前田加賀」との洒落ができないため、当然、演出が大きく変わりますが、現在、このやり方は継承されません。速記、音源とも、残るのは正蔵のもののみです。正蔵の没後、昭和58年(1983)に三遊亭円窓が復活して高座に掛けました。

按摩は杖にも階級  【RIZAP COOK】

平按摩は普通の木の杖、座頭は杖の上端に丸い把手が一つ、匂頭は上端に横木が半分渡してある片撞木、検校になると完全に横木を渡したT字型の撞木の塗杖を用いました。

検校  【RIZAP COOK】

盲人(按摩)の位は、衆分(平按摩)→座頭→匂頭→別当→検校→総検校の順で、検校の位を得るには、千両の金が必要でした。衆分は上納金がまったく払えない者で、市名を名乗り、公式にはもみ療治、鍼医、琵琶法師などの営業を許可されませんでした。

座頭になって初めて最下級の位がもらえ、「一」か「城」の名を付けることができます。したがって、勝新太郎やビートたけしの「座頭市」は厳密には誤り。「座頭一」でなければなりません。検校に出世すると、紫衣を着て撞木杖を持ち、高利貸などを営むことを許されました。

総検校  【RIZAP COOK】

検校の上が総検校です。江戸中期までは、総検校は京都にいましたが、元禄6年(1693)に鍼医の杉山検校和一が五代将軍綱吉の病を治したほうびに、総検校の位と、本所に屋敷を拝領。総検校から平按摩まで、すべての盲人の支配権を握りました。この時が、総録屋敷の始まりです。

官位のための上納金は、「三味線栗毛」にも出てくるように、座頭が十両、匂頭で百両、検校で千両でした。

江戸の総検校→京都の公家・久我家→京都の総検校の順に上納金が渡り、それぞれで中間搾取される仕組みになっていたわけです。神道者については「人形買い」をご参照ください。

兼安  【RIZAP COOK】

本郷は二、三丁目までは江戸御府内、四丁目から先は郡部とされていました。本郷三丁目の四丁目ギリギリにある兼安小間物店は、売り物の赤い歯磨き粉と堀部安兵衛自筆とされる看板で、界隈の名物でした。現在も健在です。

【語の読みと注】
兼安 かねやす
検校 けんぎょう
座頭 ざとう
匂頭 こうとう
片撞木 かたしゅもく
衆分 しゅうぶん
市名 いちな
神道者 しんとうしゃ しんとうじゃ しんどうじゃ

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ほっけながや【法華長屋】演目


ここでいう法華とは日蓮宗のこと。浄土宗と並ぶ庶民の生活を支えていました。

【あらすじ】

宗論は どちらが負けても 釈迦の恥

下谷摩利支天、近くの長屋。

ここは大家の萩原某が法華宗の熱心な信者なので、他宗の者は絶対に店は貸さない。

路地の入り口に「他宗の者一人も入るべからず」という札が張ってあるほどで、法華宗以外は猫の子一匹は入れないという徹底ぶりだ。

今日は店子の金兵衛が大家に、長屋の厠がいっぱいになったので汲み取りを頼みたいと言ってくる。

大家はもちろん、店子全員が、法華以外の宗旨の肥汲みをなりわいとする掃除屋を長屋に入れるのはまっぴらなので、結局、入り口で宗旨を聞いてみて、もし他宗だったらお清めに塩をぶっかけて追い出してしまおうということになった。

こうして、法華長屋を通る掃除屋は十中八九、塩を見舞われる羽目となったので、これが同業者中の評判となり、しまいにはだれも寄りつかなくなってしまった。

ところが物好きな奴はいるもので、
「おらァ、法華じゃねえが、しゃくにさわるからうそォついてくんできてやんべえ」
と、ある男、長屋に入っていく。

酒屋の前に来て
「おらァ、自慢じゃねえが、法華以外の人間から肥を汲んでやったことはねえ。もし法華だなんてうそォついて汲ましゃあがったら、座敷ン中に肥をぶんまける」
と、まくしたてた。

感激した酒屋の亭主、さっそく中に入れて、
「仕事の前に飯を食っていけ」
と言うので、掃除屋、すっかりいい気になって、
「芋の煮っころがしじゃよくねえから、お祖師さまに買ってあげると思えばよかんべえ」
と、うまいことを言って鰻をごちそうさせた上、酒もたらふくのんで、いい機嫌。

「そろそろ、肥を汲んでおくれ」
「もう肥はダミだ」
「どうして」
「マナコがぐらぐらしてきた。あんた汲んでくれろ。お祖師さまのお頼みだと思えば腹も立つめえ」
「冗談言っちゃいけねえ」

不承不承、よろよろしながら立ち上がって肥桶を担いだが、腰がふらついて石にけっつまづいた。

「おっとォ、ナムアミダブツ」
「てめえ法華じゃねえな」
「なーに、法華だ」
「うそォつきやァがれ。いま肥をこぼしたとき念仏を唱えやがったな」
「きたねえから念仏へ片づけた」

【しりたい】

浄土宗対日蓮宗  【RIZAP COOK】

絶えたことのない宗教、宗旨のいがみあいという、普遍的テーマを持った噺です。

それだけに、現代の視点で改作すれば、十分に受ける噺としてよみがえると思うのですが、すたれたままなのは惜しいことです。

速記は、明治27年(1894)7月の四代目橘家円喬を始め、初代三遊亭円右、初代柳家小せん、四代目春風亭柳枝、八代目桂文治と、落語界各派閥を問わずまんべんなく、各時代の大看板のものが残されています。

それも昭和初期までで、戦後は六代目円生がたまに演じたのを最後に、まったく継承者がいません。一般新聞に宗教欄が消えた頃と時期を一致させています。戦前はもちろんそうでしたが、戦後でも昭和30年代までは、一般紙には必ず宗教欄が用意されてあって、各宗派の宗教家がなにやかやと寄稿していました。それがいまの日本では、公の場で宗教を語ることがどこかタブーとなってしまっているのはいびつです。

だんだんよく鳴る法華の太鼓  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、池上本門寺派の勢力が強く、日蓮=法華衆徒の多かった江戸で、古くから口演されてきました。

日蓮宗は「天文法華の乱」や安土宗論で織田信長を悩ませたように、排他的・戦闘的な宗派で知られています。そういう点では浄土宗や浄土真宗と変わりません。浄土宗と日蓮宗(法華宗)がつねに対立宗派として、江戸のさまざまな場面で登場するすることは、江戸を知る上で重要なポイントです。

法華の噺は、ほかにも「堀の内」「甲府い」「清正公酒屋」「鰍沢」「おせつ徳三郎」など、多数あります。

晩年の三遊亭円朝は自作「火中の蓮華」の中に「法華長屋」を挿入しています。明治29年(1896)、妻の勧めもあって円朝は日蓮宗に改宗していたのです。

お祖師さま  【RIZAP COOK】

「堀の内のお祖っさま」で、落語マニアにはおなじみ。本来は、一宗一派の開祖を意味しますが、一般には、日蓮宗(法華)の開祖・日蓮上人を指します。

汲み取り  【RIZAP COOK】

別称「汲み取り屋」で、東京でも昭和50年代前半まで存在しました。水洗が普及する以前、便所の糞尿を汲み取る商売で、多くは農家の副業。汲んだ肥は言うまでもなく農作の肥料になりました。

葛西(江戸川区)の半農半漁の百姓が下町一帯を回りましたが、汲み取りにストライキを起こされるとお手上げなので、「葛西肥汲み」は江戸時代には、相当に大きな勢力と特権を持っていました。

摩利支天  【RIZAP COOK】

まりしてん。オリジナルはインドの神です。バラモン教の聖典「ヴェーダ」に登場する暁の女神・ウシャスが仏教に取り込まれたといわれています。太陽や月光などを神格化したもので、形を見せることなく難を除き、利益を与えるとされ、日本では、中世から武士の守護神となりました。楠木正成が信仰したことはよく知られています。

この噺に摩利支天が登場するわけは、そんな薄っぺらな知識で理解できるものではありません。「髭曼荼羅」を見てもわかるように、日蓮宗は仏教以外の神々をも守護神として奉じています。それが他宗派と大きく異なるところです。きわめて日本的なのかもしれません。摩利支天もその一つで、日蓮を守護する神とされています。「下谷摩利支天」というのは寺の俗称です。正しくは「妙宣山徳大寺」という日蓮宗の寺院。摩利支天をウリにした日蓮宗の寺という意味です。かつては下総の中山法華経寺の末寺でしたが、いまは普通の日蓮宗の寺院です。台東区上野四丁目、アメヤ横丁近くの密集地にあって、山手線からも眺められます。この寺のすごいことは上野の戦争でも震災でも空襲でも焼失しなかったこと。よほど霊験あらたかなのだと篤信されているのです。厄除けの寺として信仰を集めています。つまり、この寺の近所の長屋が舞台だということが、「法華」をテーマにした噺であることを、はじまりから暗喩しているのです。江戸にはそんなものをテーマにしても笑ってくれるだけの、法華の壇越(だんのつ、信者)が多かったということですね。

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ほうちょう【包丁】演目


まぬけなワルを描いた噺。落語のもうひとつの醍醐味です。

別題:えびっちゃま 出前包丁 庖丁間男(上方)

【あらすじ】

居候になっていた先の亭主がぽっくり死んで、うまく後釜に納まった常。

前の亭主が相当の小金をため込んでいたので、それ以来、五円や十円の小遣いには不自由せず、着物までそっくりちょうだいして羽振りよくやっていたが、いざ金ができると色欲の虫が顔を出し、浅草新道の清元の師匠といつしかいい仲になった。

だんだん老けてきた二十四、五になる女房の静と比べ、年は十九、あくぬけて色っぽい師匠に惚れてしまったので、こうなるとお決まりで、女房がじゃまになってくる。

どうにかしてたたき出し、財産全部をふんだくって師匠といっしょになりたいと考えているところに、ひょっこり現れたのが、昔の悪友の寅。

こちらの方はスカンピン。

常は鰻をおごって寅に相談を持ちかけるが、その筋書きというのがものすごい。

亭主の自分がわざと留守している間に、寅が友達だと言ってずうずうしく入り込み、うまくかみさんをたらし込んで、今にも二人がしっぽり濡れるというころあいを見計らって、出刃包丁を持って踏み込み、「間男見つけた、重ねておいて四つにする」と言えば、もうどうにもならないだろう、という計略。

じゃまな女房を離縁の上、「洲崎や吉原に売れば水金引いても二、三百にはなるだろうが、年増なので品川や大千住で手取り八十円だろう。二人で山分けだ」と持ちかけたので、こうなると色と欲との二人連れ。

寅は飛びつく。

当日。

新道で「貸し夜具」をなりわいとする常の家。

予定通り、寅が静をくどこうとするが、この女、聞かばこそで、やたらに頭をポカポカこづくものだから、寅はコブだらけ。

閉口して、あろうことか、悪計の一切合切を白状してしまう。

「まあ、なんて奴だろう。もうあいつには愛想が尽きましたから、寅さん、おまえさん、こんなおばあさんでよければ、あたしを女房にしておくれでないか」
「よーし、そうと決まったら、野郎、表へ引きずり出して」

瓢箪から駒。

寅がすっかり寝返って、二人で今度は本当にしっぽりと差しつ差されつ酒を飲んでいるところへ、台本が差し替えられているとも知らない常さん、
「間男見つけた」
と、威勢よく踏み込んだとたん
「ふん、出ていくのはおまえだよ」

したたかにぶんなぐられ、下着一枚で表に放り出された。

やっと起き上がると
「ひでえことしやがる。さあ、出刃を返せ」
「なんだ、まだいやがった。切るなら切ってみろ」
「横丁の魚屋へ返してくるんだい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

恵比寿さま 鰻でタイを釣りそこね?  【RIZAP COOK】

上方落語「庖丁間男」を明治期に東京に移したもので、移植者は三代目三遊亭円馬とされます。

明治31年(1898)11月の四代目柳亭左楽の速記が残っていて、この年円馬はまだ16歳なので、この説はあやしいものです。

左楽は「出刃包丁」の題で演じていますが、明治期までは東京での演題は「えびっちゃま」。

にやにや笑って相手の言うことをまともに聞かないことを恵比寿のにこやかな笑いに例えた慣用表現ですが、オチにこの語を使ったことからとも言われ、はっきりはわかりません。

左楽の古い速記では、常が寅を鰻屋に誘うとき、「霊岸島の大黒屋、和田、竹葉、神田川、芝の松金、浅草の前川へ行くというわけにはいかないから」と明治30年代の人気店を挙げています。

昭和の両巨匠の競演  【RIZAP COOK】

戦後では六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生の二名人が得意としました。

本来は音曲噺で、円生は橘家橘園という音曲師に習っています。

現在、速記・音源ともほとんど円生のもので、残念ながら志ん生のはありません。

円生からは一門の五代目円楽、円弥、円窓らに継承。志ん生からは長男の十代目金原亭馬生に受け継がれていました。

水金  【RIZAP COOK】

みずがね。元の意味は、文字通り、湯水のように使いきる金のことですが、ここでは、常が「水金引いても…」と言っているので、女の斡旋手数料を意味します。

「水」は「廓の水が染み込んで…」という慣用句があるとおり、今でいう「水商売」のこと。


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ぼうだら【棒鱈】演目


 

「首提灯」「胴取り」と並び、江戸っ子の痛快なタンカが聴きどころ。

あらすじ

江戸っ子の二人連れ。

料理屋の隣座敷で、鮫塚という田舎侍が大騒ぎする声を、苦々しく聞いている。

ついさっきまで
「琉球へおじゃるなら草履ははいておじゃれ」
などというまぬけな歌をがなっていた。

静かになったと思ったら、芸者が来たようすで、隣の会話が筒抜け。

芸者が
「あなたのお好きなものは?」
と聞くと
「おいどんの好きなのは、エボエボ坊主のそっぱ漬け、赤ベロベロの醤油漬けじゃ」

エボエボ坊主がタコの三杯酢で、赤ベロベロがマグロの刺し身ときた。

「おい、聞いたかい。あの野郎の言いぐさをよ。マグロのサムスだとよ。……なに、聞こえたかってかまうもんか。あのバカッ」

大声を出したから、侍が怒るのをなだめて、
「三味線を弾きますから、なにか聞かせてちょうだい」
と言うと、侍は
「モーズがクーツバシ、サーブロヒョーエ、ナーギナタ、サーセヤ、カーラカサ、タヌキノハラツヅミ、ヤッポコポンノポン」
と歌い出す。

「おい、あれが日本の歌かい」
と、あきれかえっていると、今度は
「鳩に鳶に烏のお犬の声、イッポッポピーヒョロカーカー」
「おしょうがちいが、松飾り、にがちいが、テンテコテン」

気短な方が、もうがまんがならなくなって、隣座敷のテンテコテンがどんなツラぁしてるか、ちょいと見てきてやると、相棒が止めるのも聞かずに出かけていく。

廊下からのぞこうとしたが、酔っているからすべって、障子もろとも突っ込んだ。

驚いたのが田舎侍。

「これはなんじゃ。人間が降ってきた」
「なにォ言ってやがるんでえ。てめえだな。さっきからパアパアいってやがんのは。酒がまずくならあ。マグーロのサスム、おしょうがちいがテンテコテンってやがら。ばかァ」
「こやつ、無礼なやつ」
「無礼ってなあ、こういうんだ」
と、いきなり武士の面体に赤ベロベロをぶっかけたから
「そこへ直れ。真っ二つにいたしてくれる」
「しゃれたたこと言いやがる。さ、斬っつくれ。斬って赤くなかったら銭はとらねえ、西瓜野郎ってんだ。さあ、斬りゃあがれッ」
と大げんか。

ちょうど、そこへ料理人が、客のあつらえの鱈もどきができたので、薬味のこしょうを添えて上がろうとしたところへ、けんかの知らせ。

あわててこしょうを持ったまま
「まあ、だんな、どうかお静かに。ま、ま、親方。後でお話いたしますから」
と、間へ入ってもみ合ううちに、こしょうをぶちまけた。

「ベラボウめ、テンテコテンが、ハックション」
「ま、けがをしてはいけませんから、ハックション」
「無礼なやつめ。真っ二つにいたしてくれる。それへ、ハックション」
「まあまあ、みなさん、ハックション」
とやっていると、侍が
「ハックション、皆の者、このけんかはこれまでじゃ」
「そりゃまた、どうして」
「横合いからこしょう(故障=じゃま)が入った」

【RIZAP COOK】

しりたい

爽快な啖呵  【RIZAP COOK】

原話は不詳ですが、生粋の江戸落語で、「首提灯」と並んで、江戸っ子のイキのよさとタンカが売り物の噺です。それだけに、歯切れよく啖呵のきれる演者でないとサマにならず、昨今はあまり口演されません。

昭和34年(1959)9月、ラジオ公開録音中に脳出血で倒れ、翌月亡くなった八代目春風亭柳枝が得意にしていました。

五代目柳家小さんもよく演じ、その門下の小三治やさん喬も持ちネタにしています。若き日のさん喬がラジオで演じた「棒鱈」は実にみごとな出来でした。TBS落語研究会で、橘家円太郎が熱演したこともありました。

棒鱈  【RIZAP COOK】

もとは鱈を三枚におろしたものを日干しにしたものをさします。それを里芋や海老芋などで煮込んだ料理が芋棒です。京都の名物ですね。この噺ではそれを呼んでいるのではありません。俗語として、酔っぱらい、または愚か者、野暮天の意味で使いました。酔っぱらってぐだぐだになっている状態が棒鱈にあたります。この噺では鱈もどき(不詳。棒鱈の煮つけのことか?)という、田舎侍のあつらえた料理とひっかけた題名になっています。ここでは棒鱈は明らかに侍のほうです。

料理とは本来、魚鳥のもののみを指し、野菜などの精進ものが出る場合は「調菜」と呼んで区別していました。

参考:『江戸の料理史』(原田信男著) 

浅黄裏  【RIZAP COOK】

江戸勤番の諸藩士が、着物の裏に質素な浅黄木綿をつけて吉原などに出入りしたのをあざ笑って「浅黄裏」とも呼ばれ、野暮の代名詞でした。

この噺の侍は薩摩藩士と思われますが、落語では特にそれらしくは演じません。ただ、薩摩の芋侍とすると、「首提灯」同様、薩長に対する江戸者の反感がとみに高まっていた幕末の世相を色濃く感じます。

タンカが売り物  【RIZAP COOK】

「浅黄裏」「サンピン」などと江戸っ子に蔑まれた勤番の田舎侍については、「首提灯」「胴取り」などがあります。この噺の侍は薩摩藩士のようですが、落語では、特にそれらしくは演じません。「首提灯」同様、江戸っ子が痛快なタンカで田舎侍を罵倒するイキのよさが眼目の噺です。

幕府瓦解直後の寄席では、そのばかにしていた「薩摩芋」や「長州猿」が天下を取り、憤懣やるかたない江戸っ子の鬱憤晴らしとして、この手の噺は、さぞ受けたことでしょう。

【語の読みと注】
浅黄裏 あさぎうら:田舎侍


落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ふどうぼう【不動坊】演目

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方噺を明治期に東京に。わいわいにぎやか。けっこうえげつない噺です。

別題:不動坊火焔 

【あらすじ】

品行方正で通る、じゃが屋の吉兵衛。

ある日、大家が縁談を持ち込んできた。

相手は相長屋の講釈師・不動坊火焔の女房お滝で、最近亭主が旅回りの途中で急にあの世へ行ったので、女一人で生活が立ちいかないから、どなたかいい人があったら縁づきたいと、大家に相談を持ちかけてきた、という。

ついては、不動坊の残した借金がかなりあるのでそれを結納代わりに肩代わりしてくれるなら、という条件付き。

実は前々からお滝にぞっこんだった吉公、喜んで二つ返事で話に飛びつき、さっそく、今夜祝言と決まった。

さあ、うれしさで気もそぞろの吉公。

あわてて鉄瓶を持ったまま湯屋に飛び込んだが、湯舟の中でお滝との一人二役を演じて大騒ぎ。

『お滝さん、本当にあたしが好きで来たんですか?』
『なんですねえ、今さら水臭い』
『だけどね、長屋には独り者が大勢いますよ。鍛治屋の鉄つぁんなんぞはどうです?』
『まァ、いやですよ。あんな色が真っ黒けで、顔の裏表がはっきりしない』
『チンドン屋の万さんな?』
『あんな河馬みたいな人』
『じゃあ、漉返し屋の徳さんは?』
『ちり紙に目鼻みたいな顔して』

湯の中で、これを聞いた当の徳さんはカンカン。

長屋に帰ると、さっそく真っ黒けと河馬を集め、飛んでもねえ野郎だから、今夜二人がいちゃついているところへ不動坊の幽霊を出し、脅かして明日の朝には夫婦別れをさしちまおうと、ぶっそうな相談がまとまった。

この三人、そろって前からお滝に気があったから、焼き餅も半分。

幽霊役には年寄りで万年前座の噺家を雇い、真夜中に四人連れで吉公の家にやってくる。

屋根に登って、天井の引き窓から幽霊をつり降ろす算段だが、万さんが、人魂用のアルコールを餡コロ餠と間違えて買ってきたりの騒動の後、噺家が
「四十九日も過ぎないのに、嫁入りとはうらめしい」
と脅すと、吉公少しも動ぜず、
「オレはてめえの借金を肩代わりしてやったんだ」
と逆ねじを食わせたから、幽霊は二の句が継げず、すごすご退散。

結局、「手切れ金」に十円せしめただけで、計画はおジャン。

怒った三人が屋根の上から揺さぶったので、幽霊は手足をバタバタ。

「おい、十円もらったのに、まだ浮かばれねえのか」
「いえ、宙にぶら下がってます」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

パクリのパクリ  【RIZAP COOK】

明治初期、二代目林家菊丸(?-1901?)作の上方落語を、三代目柳家小さんが東京に移植しました。

溯れば、原話は、安永2年(1773)刊『再成餅』中の「盗人」とされますが、内容を見るとどこが似ているのか根拠不明で、やはり菊丸のオリジナルでしょう。

菊丸の創作自体、「樟脳玉」の後半(別題「源兵衛人玉」「捻兵衛」)のパクリではという疑惑が持たれていて(宇井無愁説)、そのネタ元がさらに、上方落語「夢八」のいただきではと言われているので、ややこしいかぎりです。

菊丸は創作力に秀でた才人で、この噺のほか、現在も演じられる「後家馬子」「猿廻し」「吉野狐」などをものしたと伝えられますが、晩年は失明し、不遇のうちに没したようです。

本家大阪の演出  【RIZAP COOK】

桂米朝によれば、菊丸のオリジナルはおおざっぱな筋立て以外は、今ではほとんど痕跡をとどめず、現行のやり方やくすぐりは、すべて後世の演者の工夫によるものとか。

登場人物の名前は「登場しない主役」の不動坊火焔と、すき返し屋の徳さん以外はみな東京と異なり、新郎が金貸しの利吉、脅しの一味が徳さんのほか、かもじ洗いのゆうさん、東西屋の新さん。幽霊役が不動坊と同業で講釈師の軽田胴斎となっています。

利吉は、まじめ人間の東京の吉兵衛と異なり、徹底的にアホのキャラクターに描かれるので、上方版は銭湯のシーンを始め、東京のよりにぎやかで、笑いの多いものとなっています。

上方では幽霊の正体が最後にバレますが、そのきっかけは、フンドシをつないだ「命綱」が切れて幽霊が落下、腰を打って思わず「イタッ」と叫ぶ段取りです。

オチに四苦八苦  【RIZAP COOK】

あらすじのオチは、東京に移植された際、三代目小さんが作ったもので、現行の東京のオチはほとんどこちらです。明治42年(1909)10月の「不動坊火焔」と題した小さんの速記では、「てめえは宙に迷ってるのか」「途中にぶら下がって居ります」となっています。

オリジナルの上方のオチは、すべてバレた後、「講釈師が幽霊のマネして銭取ったりするのんか」「へえ、幽霊(=遊芸)稼ぎ人でおます」と、いうもの。

これは明治2年(1869)、新政府から寄席芸人に「遊芸稼ぎ人」という名称の鑑札が下りたことを当て込んだものです。同時に大道芸人は禁止され、この鑑札なしには、芸人は商売ができなくなりました。つまり、この噺が作られたのは明治2年前後ということになります。

この噺はダジャレで出来が悪い上、あくまで時事的なネタなので、時勢に合わなくなると演者はオチに困ります。そこで、上方では幽霊役がさんざん謝った後、新郎の耳に口を寄せ「高砂や……」の祝言の謡で落とすことにしましたが、これもイマイチ。

試行錯誤の末、最近の上方では、米朝以下ほとんどはマクラで「遊芸稼ぎ人」の説明を仕込んだ上でオリジナルの通りにオチています。当然、オチが違えば切る個所も違ってくるわけです。

桂枝雀は、昭和47年(1972)の小米時代に、幽霊役が新郎に25円で消えてくれと言われ、どうしようかこうしようかとぶつぶつ言っているので、「なにをごちゃごちゃ言うとんねん」「へえ、迷うてます」というオチを工夫しましたが、のち東京式の「宙に浮いとりました」に戻していました。

ほかにも、違ったオチに工夫している演者もいますが、どれもあまりしっくりはこないようです。

前座の蛮勇  【RIZAP COOK】

東京では、三代目小さんから四代目、五代目に継承された小さんの家の芸です。

五代目小さんはこの噺を前座の栗之助時分、覚えたてでこともあろうに、神田の立花で延々45分も「熱演」。のちの八代目正蔵(彦六)にこっぴどく叱られたという逸話があります。

九代目桂文治も得意にしていました。現在でも東西で多くの演者が手掛けています。

人魂の正体  【RIZAP COOK】

昔の寄席では、怪談噺の際に焼酎を綿に染み込ませて火を付け、青白い陰火を作りました。

その後、前座の幽霊(ユータ)が客席に現れ、脅かす段取りです。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」の按摩道玄の台詞「掛け焔硝でどろどろと、前座のお化けを見るように」は有名です。

この噺は明治期が舞台なので、焼酎の代わりにハイカラにアルコールと言っています。

古くは「長太郎玉」と呼ばれる樟脳玉も使われ、落語「樟脳玉」の小道具になっています。

引き窓  【RIZAP COOK】

屋根にうがった明かり取りの窓で、引き綱で開閉しました。

歌舞伎や文楽の「双蝶々曲輪日記」の八段目(大詰め)「引窓」で、芝居に重要な役割を果たすと共にその実物を見ることができます。

五代目小さんのくすぐり  【RIZAP COOK】

(吉公が大家に)「……もう、寝ても起きてもお滝さん、はばかりィ入ってもお滝さん……仕事も手につきませんから、なんとかあきらめなくちゃならないと思って、お滝さんは、あれはおれの女房なんだと、不動坊に貸してあるんだと……ええ、あのお滝さんはもともとあっしの女房で……」

不動   【RIZAP COOK】

不動とは不動明王の略です。不動とはどんな存在か。仏像から見ていきましょう。仏像は四種類に分かれています。

如来 真理そのもの
菩薩 真理を人々に説いて救済する仏
明王 如来や菩薩から漏れた人々を救う存在
天 仏法を守る神々

この種類分けは仏像の格付けとイコールです。不動明王はいくつかの種類分けがされています。五大明王とか八大明王とか。ここでは五大明王について記します。

不動明王 中央 大日如来の化身
降三世明王 東 阿閦如来の化身
軍荼利明王 南 宝生如来の化身
大威徳明王 西 阿弥陀如来の化身
金剛夜叉明王 北 不空成就如来の化身

寺院で五大明王の像を配置すると、必ず不動明王がそのセンターに位置します。それだけ高い地位にあるのです。さらには、明王がすべて如来の化身とされています。如来で最高位の大日如来の化身が不動明王になっています。

明王は、如来や菩薩の救いから漏れた人々を救う、敗者復活戦の主催者のような役割を担っています。有象無象を救済するため、怒った顔をしているのです。忿怒の表情というやつで、怖そうな存在です。右手に宝剣、左手に羂索。羂索とは人々を漏れなく救うための縄です。背後には火焔光背という、炎を表現しています。強そう。でも怖そう。そんなイメージです。

不動信仰はおもしろいことに、関西よりも関東地方に篤信の歴史があります。平将門の怨霊を鎮める意味があったと考えられているからです。将門は御霊信仰のひとつ。御霊信仰とは、疫病や天災を、非業の死を遂げた人物などの御霊の祟りとしておそれ、御霊を鎮めることで平穏を回復しようとする信仰をいいます。漏れた人々をも救おうとする不動明王の信仰は、関東で将門の御霊信仰と結びついたのです。

【語の読みと注】
相長屋 あいながや:同じ長屋に住むこと。
相店 あいだな:相長屋に同じ
結納 ゆいのう
漉返し すきがえし:紙すき
東西屋 とうざいや:チンドン屋
加賀鳶 かがとび
双蝶々曲輪日記 ふたつちょうちょうくるわにっき
大日如来 だいにちにょらい
降三世明王 ごうさんぜみょうおう
阿閦如来 あしゅくにょらい
軍荼利明王 ぐんだりみょうおう
宝生如来 ほうしょうにょらい
大威徳明王 だいいとくみょうおう
阿弥陀如来 あみだにょらい
金剛夜叉明王 こんごうやしゃみょうおう
不空成就如来 ふくうじょうじゅにょらい
忿怒 ふんぬ
腱索 けんさく けんじゃく

【RIZAP COOK】