めぐろのさんま【目黒のさんま】演目

おなじみのお噺ですが、ここでは少々古い型を紹介します。

あらすじ】

雲州松江十八万石の第八代城主、松平出羽守斉恒(なりつね)は、月潭(げったん)公とも呼ばれ、文武両道に秀でた名君だけあり、在府中は馬の遠乗りを欠かさない。

ある日、早朝から、目黒不動尊参詣を名目に、二十騎ほどを供に従え、赤坂御門内の上屋敷から目黒まで早駆けした。

参詣を終えたが、昼時には間があるので、あちらこちらと散歩。

いつしか目黒不動の地内を出て、上目黒辺の景色のいい田舎道にかかった時、殿さま、戦場の訓練に息の続くまで駆け、自分を追い抜いた者は褒美を取らすと宣言。

自分から走り出したので、家来どもも慌てて後を追いかける。

ところが、腰に大小と馬杓を差したままだから、なかなかスピードが上がらない。

結局、ついて来れたのは三人だけ。

雲州公、松の切り株に腰を下ろして一息つき、遅れて着いた者に小言を言ううち、にわかに腹がグウと鳴った。

陽射しを見ると、もう八ツ(午後二時)過ぎらしい。

その時、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきた。

殿さまのこと、下魚のサンマなどは見たこともない。

家来に、「あれは何の匂いじゃ」とご下問になる。

「おそれながら、下様でさんまと申し、丈は一尺ほどで、細く光る魚でございます。近所の農家で焼いておると存じます」
「うむ、しからば、それを求めてまいれ」
「それは相かないません。下様の下人どもが食します魚、俗に下魚と称しますもの。高位の君の召し上がるものでは」
「そのほうは、治にいて乱を忘れずの心がけがない。もし戦場で敗走し、何も食うものがないとき、下様のものとて食わずに餓死するか。大名も下々も同じ人。下々が食するものを大名が食せんということはない。求めてまいれ」

家来はしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、あばら家で農民の爺さんが五、六本串に刺して焼いている。

これこれで、高貴なお方が食したいとの仰せだから、譲ってくれと頼むと、爺さん、たちまち機嫌が悪くなり、「人にものを頼むのに笠をかぶったまま突っ立っているのは、礼儀を知らないニセ侍だから、そんな者に意地でもやれねえ」と突っぱねる。

殿さまが名君だけに分別のわかった侍だから、改めて無礼を詫び、やっと譲ってもらって御前へ。

松江公、空腹だからうまいのうまくないの。

これ以来病み付きになり、屋敷内に四六時中もうもうと煙が立ち込めるありさま。

しまいには江戸中のさんまを買い上げた。

それでは飽き足らず、朋輩の諸大名に、事あるごとにさんまの講釈を並べ立てるから、面白くないのは黒田候。

負けじと各地の網元に手をまわして買いあさったが、重臣どもが「このように脂の多いものを差し上げては」と余計な気をまわし、塩気と脂を残らず抜いて調理させたから、パサパサでまずいことこの上ない。

怒った黒田候、江戸城で雲州公をつかまえ、あんなまずいものはないと文句を言う。

「して貴殿、いずれからお取り寄せになりました」
「家来に申しつけ、房州の網元から」
「ああ、房州だからまずい。さんまは目黒に限る」

【しりたい】

元サムライの殿さまばなし

古くからよく知られた噺です。

「サンマは目黒に限る」というオチは、落語をご存知ない方でも、一度は耳にされたことがおありでは? もちろん、現在でも前座から大看板まで、頻繁に口演されます。

今回は、明治中期まで活躍した二代目柳家(禽語楼)小さん(1850-98)の、明治24年(1891)の速記を元にあらすじを構成しました。

小さんは延岡の内藤藩士という、れっきとしたサムライでした。

それだけに、「目黒のさんま」を始め、「将棋の殿様」「そばの殿様」など殿様ばなしなら、右に出る者はいなかったとか。

この噺も、小さんが原型を作ったと言ってよく、大筋の演出は現行とそうは違いません。

ただ、オチで小さんが「房州の網元から」としているのを、現在では「日本橋の魚河岸」となるなど、細部はかなり変わっています。

殿さまの正体

演者によってもっとも大きく分かれるのが、殿様のモデルです。

二代目小さんのように雲州公とする場合と、三代将軍・家光公とする場合があります。

たとえば、八代目林家正蔵(彦六)は家光公で演じ、六代目三遊亭円生や、門下の現円楽は殿様を特定していません。

目黒一帯は将軍家のお狩場だったところで、家光公が鷹狩りの途中、偶然立ち寄ってサンマを食し、たいへん気に入ったという伝説があります。

雲州公で演ずる場合、二代目小さんは第八代松江藩主・松平斉恒としていますが、以後は現在まで、その父で茶人・食通として名高く、出雲にそばを移植したので有名な、不昧公・治郷(はるさと、1751-1818)とされています。

演出によっては、家来が爺さんともめているところへ、殿さまがニコニコして現れ、「許せよ」と丁重に頼むので、爺さんが機嫌を直すやり方もあります。

もっとも、これは「ただの殿さま」の雲州公だからよいので、将軍家が来てこんなにゴネればハリツケものでしょう。

目黒不動とサンマのこと

「目黒のお不動さま」は、現在の東京都目黒区下目黒三丁目の瀧泉寺境内にあります。江戸の五色不動の一つで、境内では富くじの抽選が催され、湯島天神、谷中天満宮とともに江戸三大突き富といわれました。

この噺の爺さんがいた「爺が茶屋」がどこにあったのかは、諸説あって不明です。

サンマはその短刀に似た形から、通称九寸五分。江戸に入荷するのは、九十九里沖で獲れたものがほとんどでした。輸送の関係で生のものはなかなか出回らず、干物で売られることが多かったのです。

この噺でも、重臣たちが心配するように脂が多いものなので、労働量の多い農民や、町人でも、馬喰などの肉体労働者に好まれました。

また築山を見ようか

以下は榎本滋民の『殺し文句の研究』から。

十代目金原亭馬生が好演した「目黒のさんま」をはじめとして、落語に登場する殿さまは、わがままで下情に暗く苦労知らずと、相場はきまっているが、単純に偏向した戯画化ばかりではないのが、さすがにエスプリのきいた話芸である。最高級魚の鯛など、食べあきていて、ひと箸ほどしかつけないから、勝手元不如意の節、不経済な残りを出さないように、御膳番は仕入れを少なくしている。ところが、たまには御意に召すことがあり、ひと箸つけただけで、「代わりをもて」と命じる。そんなときに限って、あいにく一匹の余分もない。近習がさそくの機転で、築山の美景の鑑賞を促し、殿さまが目をやったすきに、皿の鯛を裏返して、お代わりをと言上する。またひと箸つけた殿さま、さらに御意に召してか、また「代わりをもて」。さあ、もうあとがない。近習が苦悶していると、殿さまは涼やかに、「いかがいたした。また築山を見ようか」。ちゃんと下情をお見通しだったのである。ときには、知らないふりをしなければならないのも、統率者のたしなみの一つだし、部下の手抜きの指摘に当たっては、微笑をたたえたおうようさが好もしい。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

これは、志ん生の長男、馬生のエスプリでした。さすがですなあ。

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とみきゅう【富久】演目

すべてが崖っぷちの久蔵。富くじ当たって、土俵際でうっちゃった佳話。

【あらすじ

浅草安部川町の長屋に住む幇間の久蔵は、人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。

酒の上での失敗であっちのだんな、こっちのだんなとしくじり、仕事にあぶれている。

ある年の暮れ深川八幡の富くじを、義理もあってなけなしの一分で買った。

札は「松の百十番」。

一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。

久蔵、大神宮さまのお宮(神棚)に札をしまい、
「二番富でけっこうですから当たりますように」
と祈る。
「そうしたら堅気になり、二百三十両で売りに出ている小間物屋の店を買って、岡ぼれしている料亭「万梅」の仲居・お松っつあんを嫁にもらって」
と楽しい空想にふけりながら、一升酒をあおってそのまま高いびき。

夜中にすきま風で目を覚ますと、半鐘の音。

火事は芝金杉見当だという。

しくじった田丸屋のだんなの店はその方角だ。

久蔵、ご機嫌を取り結ぶのはこの時とばかり、押っ取り刀で火事見舞いに駆けつけると、幸い火は回っていない。

期待通りだんなが喜んで、出入りを許されたので久蔵は大喜び。

さっそく、火事見舞い客の張付けに大奮闘するが、ご本家から届けられた酒を見ると、もう舌なめずりで上の空。

だんなが苦笑して
「のむのはいいがな、おまえは酒でしくじったんだから、たんとのむなよ」
と言ってくれたので、大喜びで冷酒をあおっているうち、またもへべれけで寝入ってしまう。

夜更けに、また半鐘の音。

今度は久蔵の家がある浅草鳥越方向というので、だんなは急いで久蔵を起こすと、
「万一のことがあれば必ず店に戻ってこい」
と、ろうそくを持たせて帰す。

とんだ火事の掛け持ち。

久蔵、冬の夜空を急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。

しかたなく田丸屋に引き返すと、だんなは親切に店に置いてくれたので、久蔵は田丸屋の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。

「ああ、そう言えばおれも一枚買ったっけ」
と思い出したが、
「どうもあの札も火事で焼けちまった」
と、あきらめめ半分で見ていると
「一番、松の百十番」
の声。

「あ、当たったッ」

久蔵、卒倒した。

今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。
八百両あれば御の字だ。

「札をお出し」
「札は……焼けちまってないッ」
「当たり札がなければダメだ」
と言われ、
「よくも首っくくりの足を引っ張るようなまねをしやがったな、覚えてやがれ、俺は先ィ死んでてめえをとり殺す」
と、世話人にすごんでみても、ダメなものはダメ。

あきらめきれずに泣く泣く帰る途中、相長屋の鳶頭にばったり。
「火事だってえのに何処へ行ってたんだ。布団と釜は出しといてやった。それにしても、さすがに芸人だ。りっぱな大神宮さまのお宮だな。あれも家にあるよ」
「ど、泥棒ッ。大神宮さまを出せッ」
と半狂乱で喉首を締め上げたから、鳶頭は目を白黒。

やっと事情を聞いて
「なるほど、千両富の当たり札とは、狂うのも無理はねえ。運のいい男だなァ。おまえが正直者だから、正直の頭に神宿るだ」
「へえ、これも大神宮さまのおかげです。近所にお払いをいたします」

底本:八代目桂文楽

しりたい

八代目文楽の名人芸

江戸時代の実話をもとに、円朝が創作したといわれる噺ですが、速記もなく、詳しいことはわかりません。というか、円朝作というのはうそでしょう。

それよりも、この噺の演者は、なんといっても八代目桂文楽が代表格です。文楽はすぐれた描写力で、冬の夜の寒さ、だんなと幇間の人間関係まで見事に浮き彫りにし、押しも押されぬ十八番に練り上げました。ここでのあらすじも文楽版をテキストにしていますが、強いていえば、人物の性格描写が時に類型的できれいごとに過ぎるのが、この師匠の難点だったでしょう。

そんなことはありませんよ」

文楽の「富久」について、榎本滋民が気のきいた一文を残しています。

駆け出そうとする久蔵を、旦那が呼び止めて、類焼した場合には、遠慮なくうちを頼ってこいといってやるのだが、絶品とうたわれた八代目桂文楽の演出では、その前置きに、「そんなことはないよ」と、打ち消して見せる。念頭に浮かびがちな、いまわしい状況を、まず断定的に否認してやることによって、相手の不安の軽減を計る。さらに、「そんなことはない」とくり返してから、柔らかに逆転の「けど」をそえ、「もしものことがあったら、よそへ行くな。うちへ帰ってきておくれよ」という主文に接続させる。窮迫した者に、援助を確約しながら、その表明に、恩着せがましさをもたせまいとつとめるデリカシーが、この簡潔な否定の前置きに、十分働いている。表記の上では、なんの綾も曲もない否定文にしかすぎないものが、練達のいい回しによって、真情あふれる、味わい深いことばになるのも、話芸なればこそである。

榎本滋民『殺し文句の研究 PARTⅡ』(読売新聞社、1987年)から

なるほど。鋭く豊かな視点に脱帽です。

志ん生の「媚びない久蔵」

五代目古今亭志ん生の「富久」も、文楽のそれとはまったく行き方の違う名品でした。

文楽が久蔵の実直さ、気の弱さを全面に出すのに対し、志ん生は酒乱と貧乏ゆえの居直り、ふてぶてしさを強調しました。志ん生の久蔵は、決してだんなに媚びてはいません。

ながらく貧乏していた志ん生は、久蔵の不安、やるせなさ、絶望感、それを酒に逃避する弱さを、自らの貧乏体験からはじき出して放埓に演じ、それが観客を勘違いさせて感動に結び付けていました。評論家諸氏は、「志ん生は貧乏のどん底だった」といったりしますが、どうでしょう。どこか楽しんでいたふしもあり、本人は「貧困」「貧窮」とは少々異次元の生活だったように思えます。

火事で家に急ぐ場面でも、文楽は「しょい、しょい、しょいこらしょっ」と様式的。志ん生は「寒い寒い、寒いよォ」と嘘も飾りもない裸の人間そのまま。両者の違いがはっきり出ています。

浅草阿部川町

東京都台東区元浅草三、四丁目から寿一、二丁目。町名主が駿河・阿部川から移住してきたことから、この名があります。

もともと寺社地だったところが町屋になったためか、今でもこのあたりは寺ばかりです。江戸の頃は、裏長屋や同心などの御家人の住居が多く、正徳3年(1713)、町奉行所の直轄御支配地になっています。

大神宮さまのお宮

伊勢神宮を祭る神棚で、浅草の歳の市などで売っていました。当時、伊勢参宮はできても生涯一度のもので、大半の市民にとっては夢のまた夢。せめても、江戸にいながら参拝ができるようにと、伊勢神宮が代用品に売り出していたものです。

そうはいっても高価なので、買うのは芸者や幇間など、花柳界の者が中心。芸人の見栄で、無理しても豪華なものを買う習わしでした。

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かえんだいこ【火焔太鼓】演目

道具屋の噺。古い太鼓がお大名に三百両で売れた。夫婦はびっくりにんまり。

あらすじ

道具屋の甚兵衛は、女房と少し頭の弱い甥の定吉の三人暮らしだが、お人好しで気が小さいので、商売はまるでダメ。

おまけに恐妻家で、しっかり者のかみさんに、毎日尻をたたかれ通し。

今日もかみさんに、市で汚い太鼓を買ってきたというので小言を食っている。

なにせ甚兵衛の仕入れの「実績」が、清盛のしびんだの、清少納言のおまるだの「立派」な代物ばかりだから、かみさんの怒るのも無理はない。

それでも、買ってきちまったものは仕方がないと、定吉にハタキをかけさせてみると、ホコリが出るわ出るわ、出尽くしたら太鼓がなくなってしまいそうなほど。

調子に乗って定吉がドンドコドンドコやると、やたらと大きな音がする。

それを聞きつけたか、赤井御門守(あかいごもんのかみ)の家臣らしい身なりのいい侍が「コレ、太鼓を打ったのはその方の宅か」。

「今、殿さまがお駕籠でお通りになって、太鼓の音がお耳に入り、ぜひ見たいと仰せられるから、すぐに屋敷に持参いたせ」

最初はどんなお咎めがあるかとビビっていた甚兵衛、お買い上げになるらしいとわかってにわかに得意満面。

ところがかみさんに
「ふん。そんな太鼓が売れると思うのかい。こんなに汚いのを持ってってごらん。お大名は気が短いから、『かようなむさいものを持って参った道具屋。当分帰すな』てんで、庭の松の木へでも縛られちゃうよ」
と脅かされ、どうせそんな太鼓はほかに売れっこないんだから、元値の一分で押しつけてこいと家を追い出される。

さすがに心配になった甚兵衛、震えながらお屋敷に着くと、さっきの侍が出てきて
「太鼓を殿にお目にかけるから、暫時そこで控えておれ」

今にも侍が出てきて「かようなむさい太鼓を」ときたら、風のようにさっと逃げだそうと、びくびくしながら身構えていると、意外や意外、殿様がえらくお気に召して、三百両の値がついた。

聞けば「あれは火焔太鼓といい、国宝級の品」というからまたびっくり。

甚兵衛感激のあまり、百五十両まで数えると泣きだしてしまう。

興奮して家に飛んで帰ると、さっそく、かみさんに五十両ずつたたきつける。

「それ二百五十両だ」
「あァらま、お前さん商売がうまい」
「うそつきゃあがれ、こんちくしょうめ。それ、三百両だ」
「あァら、ちょいと水一ぱい」
「ざまあみゃあがれ。オレもそこで水をのんだ」
「まあ、おまえさん、たいへんに儲かるねェ」
「うん、音のするもんに限ラァ。おらァこんだ半鐘(はんしょう)を買ってくる」
「半鐘? いけないよ。おジャンになるから」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい

おジャン  【RIZAP COOK】

オチの「おジャン」は江戸ことばで「フイになる」こと。江戸名物の火事の際、鎮火するとゆるく「ジャン、ジャン」と二度打って知らせたことから、「終わり」の意味がついたものです。

戦後この噺を専売にしていた五代目古今亭志ん生が前座時分、神田の白梅で聞き覚えた初代三遊亭遊三の演出では、実際に半鐘を買ってしまい、小僧に叩かせたので、近所の者が店に乱入、道具はメチャメチャで儲けが本当におジャンという「悲劇」に終わっています。

この噺は随所にギャグ満載で、「本物の火焔太鼓は高さ3mを超える化け太鼓だから、とても持ち運びなどできない」という真っ当な批判など、鼻で吹き飛ばすようなおもしろさがあります。

実際、長男の先代馬生がそのことを言うと、志ん生は「だからてめえの噺はダメなんだ!」としかったといいます。

二男の志ん朝は、甚兵衛の人間描写・心理も掘り下げ、軽快さと登場人物の存在感では親父まさりの「火焔太鼓」に仕上げて、後世に残しました。

火焔太鼓の急所  【RIZAP COOK】

最後の、甚兵衛がこれでもかと金をたたきつけ、神さんが逆にひっくり返るところがクライマックスでしょう。

志ん生独自の掛け合いのおもしろさ。「それ百両だ」「あーら、ちょいと」「それ百五十両だ」「あーら、ま」

畳み掛けるイキは無類。志ん朝だと序幕でかみさんの横暴ぶりを十分に強調してありますから、この場は、何年も耐えに耐えてきた甚兵衛のうっぷんが一気に爆発するようなカタルシスがあります。

火焔太鼓のこばなし  【RIZAP COOK】

まだまだ無数にあります。まずは一度聞いてみてください。

その1

(太兵衛=甚兵衛)「金は、フンドシにくるんで」

(侍)「天下の通用金を褌にくるむやつがあるか」

(太)「どっちも金です」

                        (遊三)

その2

(甚兵衛)「この目を見なさい。馬鹿な目でしょう。これはバカメといって、おつけの実にしかならない」


(志ん生)

その3

(甚兵衛)「顔をごらんなさい。ばかな顔してるでしょ。あれはバカガオといって、夏ンなると咲いたりなんかすンですよ」


(志ん朝)

その4

(かみさん)「おまいさんはね、人間があんにゃもんにゃなんだから、自分てえものを考えなくちゃいけないよ。血のめぐりが悪いんだから、人間が少し足りないんだからって」

                         (志ん生) 

   
世に二つ  【RIZAP COOK】

実際は、「(せいぜい)世に(一つか)二つ(しかない)という名器」ということですね。志ん生も含め、明治生まれの古い江戸っ子は、コトバの上でも気が短く、ダラダラと説明するのを嫌い、つい表現をはしょってしまうため、現代のわれわれにはよく通じないことが、ままあります。

これを「世に二つとない」と補って解釈することも可能でしょうが、それではいくらなんでも意味が百八十度ひっくり返ってしまうので、やはり前者程度の「解読」が無難でしょう。

もっとしりたい

五代目古今亭志ん生が、神田白梅亭で初代三遊亭遊三のやった「火焔太鼓」を聞いたのは、明治40年(1907)ごろのこと。前座なりたてのころだったらしい。

それから約30年後、志ん生はじっくり練り直した「火焔太鼓」を演じる。世評を喝采させて不朽の名作に仕立て上げてしまった。

とはいえ、全編にくすぐりをてんこ盛りにした噺にすぎない。噺の大筋は遊三のと変わっていないのだが。

海賀変哲は、この噺を「全く以ってくだらないお笑いです」と評している。遊三の専売だったそうだ。

遊三のは、太鼓でもうけたあとに半鐘を買ってきて小僧がジャンジャン鳴らしたら、近所の人が火事と間違えて店に乱入。飾ってあった道具はめちゃくちゃに。「ドンと占めた太鼓のもうけが半鐘でおジャンになった」というオチになっている。

五代目桂文楽は、火事のくだりで、懐からおもちゃのまといを取り出して振るという所作をしていたそうだ。大正のころのこと。うーん、こんな芸で受けたのだろうか。

志ん生のは、金を差し出してかみさんを驚き喜ばせるくだりで笑いがピークに達したところで、すーっと落とす筋の運び。見事に洗練されている。

遊三のでは、甚兵衛ではなく銀座の太兵衛だ。お殿さまは赤井御門守、侍は平平平平(ひらたいらへっぺい)。落語世界ではお決まりの面々である。

それを、志ん生は甚兵衛以外名なしで通した。おそらく、筋をしっかり聞いてほしいというたくらみからだったのだろう。

リアリティーなどどうでもいいのだ、この噺には。

火焔太鼓とは、舞楽に使うもの。太鼓の周りが火焔の文様で施されている。一般に、面の直径は6尺3寸(約2m)という。まあ、庶民には縁のなさそうな代物だ。

志ん生の長男・金原亭馬生が「火焔太鼓ってのは風呂敷で持っていけるようなものじゃないよ、おとっつぁん」と詰め寄ったという逸話は、既出の手垢のついた話題だ。

遊三の「火焔太鼓」でも、太兵衛は風呂敷でお屋敷に持参している。志ん生は遊三をなぞっているわけだから、当然だ。考証や詮索にうつつを抜かしすぎると、野暮になるのが落語というもの。

リアリティーを出すために太鼓を大八車に載せては、それこそおジャンだ。この噺の眼目は、別のところにあるのだろうから。

(古木優)

【RIZAP COOK】

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【RIZAP COOK】

おなおし【お直し】演目

廓噺。吉原育ちの男女が切羽詰まって商売を。辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「ケコロ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「ケコロはおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

しりたい】

ケコロ  【RIZAP COOK】

ケコロというのは、もともと吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。ただし、吉原のケコロは、江戸の寛政年間(1789-1801)にはもう絶えていたようです。

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町2丁目南側、お歯黒どぶといわれた真っ黒な溝に沿った一角を「本拠」にしていました。「羅生門」とは、ケコロの女が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人・渡辺綱が鬼女の片腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。なんだか、こわごわとしたかんじがしますね。表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、素っ裸にむいてしまうというオソロシい魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生が復活させ、昭和31年度(1956年)の芸術祭賞を受賞しました。志ん生亡き後は、次男の志ん朝のものだったでしょう。

【RIZAP COOK】 

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【お直し 古今亭志ん朝】

さいぎょう【西行】演目

佐藤義清とは西行のこと。染殿内侍との逢瀬はほどほどに。ご教訓めいたバレ噺。

あらすじ

遍歴の歌人として名高い西行法師。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々としているうちに、このことが内侍のお耳に達し、気の毒に思しめして、佐藤義清あてに御文をしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。

西行、もとは佐藤兵衛尉義清という禁裏警護の北面の武士だった。

染殿内侍が南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」と詠まれたのに対し、義清が「一羽にて千鳥といへる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」と御返歌したてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。

「佐藤さん、郵便」というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。

喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀の浄土で我を待つべし、あなかしこ」とある。

「はて、この意味は」と思い巡らしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。

この世にては逢わずというから、今夜は逢われないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。

三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。地に実は、草木も露を含んだ深夜。人間絶えし後は丑三ツ時。

西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂で待っていろということだろう、と気づいた。

ところが義清、待ちくたびれてついまどろんでしまう。

そこへ内侍が現れ「我なれば鶏鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみにけり」と詠んで帰ろうとした途端に義清、危うく目を覚まし、「宵は待ち夜中は恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返した。

これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねて、翌朝別れる時に義清が、「またの逢瀬は」と尋ねると内侍は「阿漕であろう」と袖を払ってお帰り。

さあ義清、阿漕という言葉の意味がどうしてもわからない。

歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。

諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が、「ハイハイドーッ。さんざん前宿で食らやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」。

これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」

「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

しりたい

阿漕   【RIZAP COOK】

阿漕とは、 

伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ

という「古今六帖」の古歌から。

阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。「阿漕」には当初は「たびかさなる」という意味で使われていました。それが江戸時代に入ると転じて「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」意味に変わりました。

阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸。伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。それを、病気の母を思い、平次なる男が禁断を犯して魚を取ったたまに簀巻きにされたという伝説が残りました。ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』(勢州阿漕浦)などがつくられました。先行作品に能『阿漕』や御伽草子『阿漕の草子』がありますが、これらには「平次」の名はありません。「阿漕」は歌枕として残りました。

染殿内侍   【RIZAP COOK】

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえてぴしゃりと言い渡したわけです。

馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのですが、西行先生、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、「二回もさせたげたのに、未練な男ね」と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。

このあたりが落語の機微で、歌をひねくりまわしているうちにいつの間にかエロ噺と化しているのですね。セックスといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。なるほど。見習いたいものです。

染殿内侍という女性が実在したのかどうかしらはっきりしません。染殿内侍が登場する『大和物語』や『伊勢物語』から察すれば、在原業平と同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。

永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。

それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。

在原業平には3人の息子がいたとされています。三男滋春の母親が染殿内侍だとされています。これは『伊勢物語』の冷泉家流古注本に記されています。文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりもそういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが大切なのです。少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。

染殿内侍は在原業平と契った女性ということになります。これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。

染殿というのは、藤原良房の邸宅をさします。京の都は、「一条大路の南、正親町小路の北、京極大路の西、富小路の東」のあたりにあったそうです。良房は、臣下としては初の太政大臣、摂政となり、藤原北家繁栄のきっかけを作った人です。染殿大臣などと呼ばれていました。その娘の明子は文徳天皇に入内して、のちの清和天皇を生みました。明子は染殿后と呼ばれていました。染殿后は美麗であったそうで、『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。

内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のことです。染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮での仕事をつかさどっていたんだそうです。斎宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇名代です。内侍と伊勢神宮とはかかわり深かったようです。

「隠者の歌詠み」として後世に名を残した西行。その大先輩が在原業平といえるでしょう。「むかし男ありけり、その男、身をえうなきものに思ひなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで貴族の間では最高の教養文芸でした。業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。流浪する業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。聖と俗を両有しているのですね。その業平の思い人の一人が染殿内侍です。これはすごい。業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(ドクターノオの)か、はたまた若林映子(007は二度死ぬの)といったところでしょう。あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。

西行の存在   【RIZAP COOK】

西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。残した歌は約2300首。歌人の最高峰です。

江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。みんなが知っている教養を肴に笑う、という趣向だったのでしょう。

西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。『西行物語』と『選集抄』がその双璧です。さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麿と双璧です。蓑笠をつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。そんな逸話の一つ。西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付け鬢姿で、つまり俗人のなりで参宮したといわれています。

なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

存疑の歌といわれています。見えない神さまに接して落涙するというもの。われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。伊勢では二見浦に庵を結び、地元の神職者荒木田氏と交わったそうです。

と、このように記していって、見えてくるものがありました。西行、伊勢、和歌、女性、浦……。江戸人が抱く西行のイメージ。そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達、融通無碍な雰囲気がいかにも江戸人の西行なのでしょう。

西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人と形成されていきました。寺院や宗派を超えて(高野山の真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。

この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の痴楽がたまに演じていました。いまや、どうでもよいことですね。

参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって–『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)

【語の読みと注】
染殿内侍 そめどののないし
佐藤義清 さとうのりきよ:西行のこと
阿漕 あこぎ:阿漕ヶ浦
藤原良房 ふじわらのよしふさ
正親町小路 おおぎまちこうじ
染殿大臣 そめどののおとど
明子 あきらけこ、あきらけいこ
入内 じゅだい:嫁ぐ
染殿后 そめどののきさき

【RIZAP COOK】

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【西行 三代目三遊亭円歌】

はつねのつづみ【初音の鼓】演目 

歌舞伎『義経千本桜』中、有名な「狐忠信」のパロディー です。

別題:ぽんこん

【あらすじ】

骨董好きの殿さまのところに、出入りの道具屋・金兵衛が怪しげな鼓を売り込みに来る。

側用人の三太夫に、これは下駄の歯入れ屋のじいさんが雨乞いに使っていた鼓で、通称「初音の鼓」という。

「じいさんが今度娘夫婦に引き取られて廃業するので形見にもらった」と説明。

これを殿さまに百両でお買い上げ願いたいと言うから、三太夫はあきれた。

なにしろこの金兵衛、先日も真っ黒けの天ぷら屋の看板を、慶長ごろの額と称して、三十両で売りつけた「実績」の持ち主。

金兵衛、殿さまの身になれば、「狐忠信」の芝居で名高い「初音の鼓」が百両で手に入れば安いもので、一度買って蔵にしまってしまえば、生涯本物で通ると平然。

「もし殿が、本物の証拠があるかと言われたら、どうする」
「この鼓を殿さまがお調べになりますと、その音を慕って狐がお側の方に必ず乗り移り、泣き声を発します、とこう申し上げます」
「乗り移るかい」
「殿さまがそこでポンとやったら、あなたがコンと鳴きゃ造作もないことで」

三太夫、
「仮にも武士に狐の鳴きまねをさせようとは」
と怒ったが、結局、一鳴き一両で買収工作がまとまる。

殿さまポンの三太夫コンで一両。

ポンポンのコンコンで二両、というわけ。

早速、金兵衛を御前に召し連れる。

話を聞いた殿さまが鼓を手にとって「ポン」とたたくと、側で三太夫が「コン」。

「これこれ、そちはただ今こんと申したが、いかがいたした」
「はあ、前後忘却を致しまして、いっこうにわきまえません」

「ポンポン」
「コンコン」
「また鳴いたぞ」
「前後忘却つかまつりまして、いっこうに」
「ポンポンポン」
「コンコンコン」
「ポンポン」
「コンコンコンコン」
「これ、鼓はとうにやめておる」
「はずみがつきました」

「次の間で休息せよ」
というので、二人が対策会議。

いくつ鳴いたか忘れたので、結局、折半の五十両ずつに決めたが、三太夫、鳴き疲れて眠ってしまい、ゆすっても起きない。

そこへ殿さまのお呼び出し。

一人で御前へ通ると、殿さまが
「今度はそちが調べてみい」

さあ困ったが、今さらどうしようもない。

どうなるものかと金兵衛が「ポン」とたたくと、殿さまが「コン」。

「殿さま、ただ今お鳴きに」
「何であるか、前後忘却して覚えがない」
「ありがとうさまで。ポンポンポン、スコポンポン」
「コンコンコン、スココンコン」
「ポンポン」
「コンコン……。ああ、もうよい。本物に相違ない。金子をとらすぞ」

「へい、ありがとうさまで」

金包みを手に取ると、えらく軽い。

「心配するな。三太夫の五十両と、今、身が鳴いたのをさっ引いてある」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

歌舞伎のパロディー 【RIZAP COOK】

古風な噺で、歌舞伎や文楽のファンにはなじみ深い『義経千本桜』の「狐忠信」のくだりのパロディーです。「初音の鼓」はその前の場「吉野山」で、落ち行く義経が愛妾の静御前に形見に与える狐革の鼓をさします。

義経は、逃避行に足手まといとなるだろうろ、静御前を吉野の山中に置き去りにします。その際、初音の銘のある鼓を形見の品として静に与えました。紫檀の胴に羊の皮を張った中国渡来の名器です。とは、『義経記』に載っています。

狐忠信とのかかわり   【RIZAP COOK】

『義経記』記載から転じて『義経千本桜』では、鼠退治に功労あった狐の皮でつくったその鼓を、親への愛惜の情を抱く子狐が、義経の忠臣、佐藤忠信に化けて静(初音の鼓を所持している)を守りながらにお供をするという筋立てに変えています。鼓を奪おうとしますが、見破られ、静の打つ鼓の音で正体を現すのです。子狐が涙ながらに述懐するくだりこそ、「狐忠信」の通称で知られる名場面でしょう。

「初音」の意味は、その浄瑠璃の詞章に「狐は陰の獣ゆえ、雲を起こして降る雨の、民百姓が喜びの声を初めてあげしより」に由来します。噺の中で下駄屋の爺さんが雨乞いをしたのは、天気だと皆わらじばかり履き、下駄の歯がすりきれないから。

林家彦六がよく演じましたが、立川談志も持ちネタにしていました。殿さま、金兵衛、三太夫みんな仲良しで、誰もがうそを承知で遊び戯れているような、ほのぼのと捨てがたい味わいが。別話の「継信」も、別題が「初音の鼓」なので、区別してこの噺は「ぽんこん」とも呼ばれています。

さらに猫忠も   【RIZAP COOK】

「初音の鼓」はここまでの筋立てですが、三味線に張った皮の猫の子と変えたのが「猫の忠信」(猫忠)となります。酒を「ただ飲む」猫の忠信、駿河屋の次郎吉で駿河次郎、亀屋の六兵衛で亀井六兵衛、弁慶橋に住む吉野屋の常兄いで義経、常磐津文字静で静御前というふうに、登場人物も「義経記」や「義経千本桜」に沿ってあります。

猫忠

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【初音の鼓 三遊亭円生】

ひけしやしき【火消屋敷】ことば 江戸覗き

この項では、武家地を対象とした火消の組織について記します。武家から町人へ。消防の軸足は次第に移っていったことがわかります。

江戸の防火   【RIZAP COOK】

防火対策は江戸の諸政策の要でした。明暦3年(1657)の大火、いわゆる「明暦大火」の後には、大名屋敷の移転、火除け土手や火除け空き地の設置、隅田川東岸の本所や向島の開発など、大江戸を見据えた防火対策が図られていきました。

18世紀初頭の享保改革では、土蔵造り、塗屋造り、瓦葺きによる「燃えない町家」が進められました。それでも、火事はやまず、大きな対策にはなりませんでした。

大名火消   【RIZAP COOK】

消防組織は初期の頃から始まっています。寛永16年(1639)、紅葉山霊廟の火消が生まれました。その後、要所要所だけを守る火消が生まれていきました。江戸城の各所、幕府とかかわり深い寺院、隅田川の架橋などが対象となりました。

寛永20年(1643)には、6万石以下の大名16家を4隊に分けて、10日交代で消防に当たらせる大名火消が設置されました。明暦大火後には、桜田、山手、下谷の3隊に分けた方角火消も生まれました。これも大名火消の中の組織です。

定火消   【RIZAP COOK】

明暦大火の翌年、つまり万治元年(1658)には定火消(江戸中定火之番)が生まれました。これは江戸城を主とする建前ながらも、江戸全体、つまり都市防災を視野に入れた本格的な消防組織でした。

4人の旗本に役宅を与えました。これが火消屋敷と呼ばれたものです。おのおのの役屋敷には造営費銀100貫を与えて整備させました。役宅にはそれぞれ与力6騎、同心30人が付きました。火消人足、つまり臥煙を抱える経費として300人扶持が与えられ、消防器具も与えられました。臥煙は「火事息子」でおなじみですね。目塗りです。

火消屋敷の配置と変遷   【RIZAP COOK】

火消屋敷は、万治元年(1658)には、御茶の水、飯田町、半蔵門外、伝通院前に置かれました。翌2年(1659)には、半蔵口、駿河台、3年(1660)には、代官町に置かれていきました。これを見てわかるように、江戸城の北西側に置かれました。冬の北西風による延焼対策こそが江戸城を守る最優先と考えたようです。

ただし、万治3年(1660)には八代洲河岸を手始めに、元禄8年(1695)には溜池の上、幸橋門外、日本橋浜町にも置かれていきました。つまり、江戸城から江戸全体へと視点を変えていったのです。

とはいえ、日本橋浜町の火消屋敷はその後、宝永元年(1704)に廃止されました。10年とありませんでした。幸橋門外の火消屋敷も、宝永7年(1711)には木挽町に移り、享保9年(1724)には表六番町に移転しました。理由は、幕府の財政難によるものとされています。八王子千人同心に不足分を負わせましたが、これもまもなく廃されました。この頃には町火消が整い出して、武家中心の消防から町人中心の消防へ軸足が移っていったのです。

火消屋敷の機能   【RIZAP COOK】

定火消を勤める旗本は役宅の火消屋敷に、家族で居住しました。たとえば、こんな具合です。八代洲河岸の火消屋敷の例。

敷地には、火消屋敷を中心に取り囲むようにさまざまな建物がありました。北側には与力の組屋敷、役中間部屋、道具置所、長屋、厩などが並び、反対側には同心長屋があります。

臥煙は役中間部屋にいました。よく言われるのは、太い丸太ん棒を枕に寝ていて、いざ火事となると、不寝番が丸太の端っこを木槌叩いて起こしたということ。火消屋敷には火之見櫓が建っており、江戸市中の住所の目安にもなっていました。

参考文献:黒木喬『明暦の大火』(講談社現代新書、1977年)、波多野純『江戸城2』(至文堂、1999年)、黒木喬『江戸の火事』(同成社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
塗屋造り ぬりやづくり
瓦葺き かわらぶき
江戸中定火之番 えどじゅうじょうひのばん
八代洲河岸 やよすかし
目塗り めぬり:火事の際、蔵などに火が入らないように戸などの合わせ目を粘土で塗ってふさぐこと。

町火消 火事息子

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こがねもち【黄金餅】演目

円朝作。逝った西念を弔うため下谷から麻布、桐ヶ谷まで。異色の長屋噺。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

黄金餅いろいろ 【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。立川談志の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡(おんぼう)と呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけたもんだった。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは、円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。藤浦はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしい。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。山崎町はみんな貧乏だったんだから。円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治・大正の新聞・雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だったのだ。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」と貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

(古木優)

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【黄金餅 古今亭志ん生】

まちびけし【町火消】ことば 江戸覗き

江戸市中の消防組織には、武家地旗本屋敷の定火消、武家地大名屋敷の大名火消などがありましたが、この項では町火消について記します。町火消は主に町人地を受け持つ火消です。

成立と変遷  【RIZAP COOK】

町火消とは、都市住民による自営的な消防組織をさします。実際には江戸でのそれをさすことがほとんどです。享保3年(1718)から、江戸の消防制度が一変しました。享保改革の一つです。町人自身による防火・消火体制の組織作り。南町奉行大岡忠相が進めました。享保5年(1720)には隅田川以西を20か町に分けて47組に編成しました。これが町火消で、「いろは四十七組」といわれるものです。語感の悪い「へ」「ひ」「ら」「ん」を避けて、代わりに「百」「千」「万」を入れました。川向こうの本所と深川は16組に分けられました。享保15年(1721)には、47組が一番から十番までの「大組」に大分類されました。このように大岡忠相は、三度にわたって町火消の編成に挑み、完成形に導きました。

火事の際、火元となった組の中で、風下の町は飛び火に備えて自町の防火に対応し、大組の中で風上や風脇の町から火消人足を出火元に派遣させる体制をつくりました。これで、1か町に30人と限定されていた火消人足は15人に減らされてしまいましたが。なんだか、けちくさいのですが、人が動くと金がかかるのですね。

火消人足は最初は住民が務めていたのですが、江戸の消防は破壊消防が主で、総じて素人には無理な作業でした。各町はこういうのが得意な鳶人足を雇うようになっていきました。消防の「傭兵」です。皮肉なもので、建設的作業者が非常時には破壊的作業者に変身しました。

天明7年(1787)以降は町火消といったら鳶人足が主流となりました。それでも、住民が行う初期消火活動の「店火消」も続いていました。ここらへんが江戸の粋なのかもしれません。

活動の範囲  【RIZAP COOK】

享保7年(1722)からは、武家地への消火対象範囲が2町(218m)以内までと定められました。それまでは隣接屋敷に限った消火でよかったのですが、範囲が拡大されたのです。享保17年(1722)には浅草御蔵の防火も義務付けられました。

延享4年(1747)、江戸城二の丸での火災で、大名火消や定火消とともに町火消も城内に入って活動しました。これ以降、天保9年(1838)の西の丸出火、天保15年の本丸出火などでも城内に入って消火に貢献しました。町火消のほまれがいやましたのです。

その実態  【RIZAP COOK】

火消同士の対立や衝突はひんぱんに生じました。破壊消防、家屋を壊すことが仕事だからです。そういう意味では武士と同じです。生産をせず消費(破壊)ばかりが本務なのです。がさつで暴力的で。これを粋とかいさみとかほめそやす江戸の文化もたかが知れた浅底のものだったのかもしれません。

町火消は鳶人足ですから、破壊消防を派手にやれば、後日、自分たちに実入りが来るのはわかりきっています。火事で壊した家屋の跡地に新築を施工するわけですから。破壊と復興を同一人物が受け持つのです。奇妙なからくりです。少し頭をひねると、必要以上に家屋をぶっ壊して、もうけのたねをつくれるようになるのです。日頃祝儀などをくれている富裕の商家の一軒前あたりで鎮火させたりすれば、旦那は礼金をはずんでくれます。商家だけに消火です。かたや、しょっぱい家には「呼び火」や「継ぎ火」で類焼させて半焼も全焼もお手のもの。この局面では鳶人足の独壇場。日頃の鬱憤をはらすのです。こんな心持ちが助長されていくと、屋根瓦を壊して類焼を導いたりもするのです。要は、火事というものはいったん始まるとある程度は火消の意のままに扱えるものだったのです。破壊消防を旨とするからです。ちなみに、「火事息子」の臥煙は町火消とは無縁です。定火消での話となります。

歌川広重『名所江戸百景』より「馬喰町初音の馬場」

参考文献:南和男『幕末都市社会の研究』(塙書房、1999年)、鈴木淳『町火消の近代』(吉川弘文館、1999年)、黒木喬『江戸の火事』(同成社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、深谷克己、須田努編『近世人の事典』(東京堂出版、2014年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
店火消 たなびけし
浅草御蔵 あさくさおくら:幕府の米蔵

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ひつけとうぞくあらため【火付盗賊改】ことば 江戸覗き

現代では町奉行よりも有名になった火付盗賊改。池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズでは「火盗改」とも略されています。この項では、火付盗賊改の実際について記します。落語には出てきませんが、江戸を覗くということでおつきあいください。

江戸の治安  【RIZAP COOK】

町奉行」や「与力、同心」の項目で記したように、江戸の町方は南北の与力、同心を合わせても300人にも満たない数で100万都市の治安と行政を受け持っていたのですから、行き届きませんでした。それを補う警察組織として、放火犯や盗賊団を取り締まる凶悪犯罪専門を受け持つのが火付盗賊改でした。

池波は小説では長谷川平蔵を「長官」と記したりしていますが、こんなことばは当時はあるわけもなく、「おかしら」「かしら」と呼ばれていたことでしょう。旗本から任命される「御先手頭」の中から火付盗賊改を別に任命していたのです。

御先手組  【RIZAP COOK】

若年寄の支配(管轄)に属し、江戸城本丸の各門の警備、将軍が城外出かける際の警固(警護)を任務と「御先手組」の長を「御先手頭」といいました。「先手物頭」とも。このような職務を江戸時代には「御先手」と呼んでいました。わりと小禄の旗本から成っています。この人たちは戦時では歩兵大隊として最前線で白兵戦の働きをするはずなのですが、平和な時代には使いようもなく、一部は犯罪捜査を受け持ったわけです。自衛隊が災害救助しているようなものでしょうか。御先手組は先手弓組と先手鉄砲組の二分構成でしたが、それとは別に「火付盗賊改」のグループがあり、江戸市中の重犯罪取り締まりに当たっていました。

成り立ちと変遷  【RIZAP COOK】

はじまりは寛文5年(1665)で、幕府が先手頭の水野守正に関東の各地にはびこる強盗一味の捕縛を命じたことからです。

天和3年(1683)、火付改が新設され、先手頭の中山勘解由が兼務を命じられました。元禄12年(1699)には火付改も盗賊改も廃止となりましたが、3年後の元禄15年(1702)、火付改が、翌16年(1703)には盗賊改がまたも設けられました。

宝永6年(1709)には、両改方が統合されて、火付盗賊改が生まれました。享保3年(1718)には博奕改も兼職となり、こうして、火付盗賊改は火付、盗賊、博奕の犯罪をまとめて取り締まることになりました。これでうまくいくかと思いきや、享保10年(1725)には博奕犯は町奉行の管轄となり、火付盗賊改はまたも火付と盗賊だけを管轄することになりました。この組織は、慶応2年(1866)に廃止となるまで江戸の治安を受け持ちました。

実際の活動  【RIZAP COOK】

火付盗賊改は、与力10騎、同心50人ほどで構成されていました。その下に岡引きと下引きが組み込まれているのは町奉行と同じです。幕末には、岡引きは400人、下引きは1000人いたそうです。岡引きと下引きは親分子分の関係です。犯罪捜査は彼らに支えられていましたが、無給の彼らは博奕場を開いたり、商家に難癖をつけて金銭を出させたりと、ろくでもないのが常でした。奉行所は捕り物に差しさわりがないないよう甘い監視でした。

火付盗賊改は町奉行所に比べると、安手で粗いのが特徴です。町奉行の役宅は天保期までありませんでした。それまでは自邸が役宅を兼ねていたといいます。その取り締まりも荒っぽくて、江戸の人々は恐れていました。町奉行所とも権限が交差するため、衝突や対立がひんぱんに起こりました。

たとえば、江戸近在で盗まれて物が江戸で換金されることが増えたため、火付盗賊改の活動範囲は江戸周辺にまで及びました。文化期以降には、関東取締出役(八州廻り)が無宿や浪人の取り締まりをするようになったため、火付盗賊改と係争するケースが増えました。火付盗賊改は町奉行所や関東取締出役と対立することが多くなりました。職務の縄張り争いです。ここでいう「関東」とは、上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)、上総(千葉県)、下総(千葉県、茨城県)、安房(千葉県)、武蔵(神奈川県、東京都、埼玉県)、相模(神奈川県)をさします。関八州ともいいます。今の関東地方ですね。

中山勘解由  【RIZAP COOK】

中山勘解由直守といいます。鬼勘解由と呼ばれるほど、犯罪捜査には凄腕だったそうです。中山家は武蔵七党の一、丹党加治氏の流れをくみます。飯能周辺を領有し、秩父鉄を工夫して武士団を構成しました。小田原北条氏の配下となり、小田原征伐では中山家範とその息子、照守と信吉は八王子城に籠城して死守しましたが、やがて敗北。家範は討ち死に。享年43。残った2人の息子は、その勇猛ぶりを徳川家康に評価され、徳川家臣団に組み入れられました。直参旗本となったのです。

関ヶ原の戦いや大坂の陣などで紆余曲折はありましたが、馬術を得意とした兄の照守は秀忠の指南役を務めるなどして、家は3500石の大身旗本に収まりました。子孫からは町奉行や火付盗賊改の頭などが現れ、武勇家系の評価が受け継がれたのです。直守は照守の孫です。

一方、弟の信吉は水戸藩の附家老(幕府直属の家老)となり、代々は水戸藩領内の松岡領(茨城県高萩市全域、日立市、北茨城市の一部)を有し、立藩をうかがっていましたが、独立できたのは明治2年(1869)でした。松岡藩2万5000石、藩庁は陣屋です。

参考文献:平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社、1988年)、服藤弘司『火附盗賊改の研究史料編』(創文社、1998年)、高橋義夫『火付盗賊改』(中公新書、2019年)、高萩市『高萩市史』(高萩市、1969年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
御先手頭 おさきてがしら
勘解由 かげゆ
附家老 つけがろう:幕府直属の家老
関東取締出役 かんとうとりしまりしゅつやく:八州廻り

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がちぎょうじ【月行事】ことば 江戸覗き

この項では、主に長屋の大家さん(家主、家守、差配)がどんな仕事をしていたのか、町方の組織の中でどんな立場だったのかについて記します。

月行事が生まれるまで  【RIZAP COOK】

1600年代中頃から1700年代にかけて、江戸では富裕商家による町屋敷の集積が進展していき、不在地主が所有する町屋敷がたくさん出てきました。

1600年代を通して、町方行政の組織や機構が整備されていき、町のすべき業務が多様化してくると、家持はその役割分担を嫌がるようになりました。町の運営は家持の代理人である家主(家守、差配)に委託されていきました。

この家主こそが、落語におなじみの「大家さん」です。地主そのものではなく、地主の代行者だったのです。

やがて、家主たちが同業者を集めて五人組を構成し、五人組の中から毎月交代で町用、公用のを務める人を出すようにしました。これを月行事といいます。

ただ、月行事を五人組以外から雇うようなこともあって、しばしば問題が生じていました。寛文6年(1666)10月27日、「雇月行事」が禁止されました。

月行事の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

月行事の仕事とは。そのいろいろを列挙してみましょう。

名主からの町触の町内への伝達
町内訴訟、願届への加判、町奉行所への付き添い
検視見分の立ち会い
囚人の保留
名主の指揮下での火消人足の差配
火の番
夜廻り
上下水道の普請
井戸の修理
町内道路の修繕
木戸番、自身番の修復
喧嘩公論の仲裁
捨て子や行き倒れの世話
切支丹宗門の取り締まり
浪人の取り締まり

月行事も名主同様、町内にかかわるすべての町用、公用をこなしました。

自身番  【RIZAP COOK】

月行事はこれらのことがらを町内の自身番に詰めて行いました。自身番には月行事の補助役として書役がいました。自身番は町内につくられた交番のようなものです。

月行事の任期中は五人組の責務についてはほかの組員に代行してもらっていたようです。

自身番は犯罪者を拘留する場でもありました。こんな川柳があります。

月行事 しらみの喰ふを かいてやり

縛られている犯人がしらみに食われてかゆいので、月行事が代わりにかいてやるという風景です。なんだか、ほほえましいですね。

月行事持  【RIZAP COOK】

町並地(町奉行・代官両支配地)では複数の五人組の代表として「年寄」を置くところもあったようです。名主のいない町では月行事が名主の代行をしたそうです。家数が少なくて名主役料も負担できない、寺社門前町家、拝領町屋敷などでは月行事持でした。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
家持 いえもち
家主 いえぬし:大家さん。差配、家守
家守 やもり:大家さんのこと
公役 くやく
町並地 まちなみち

町年寄 名主

【RIZAP COOK】

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なぬし【名主】ことば 江戸覗き

この項では、町年寄の下で江戸の住民に寄った代表者として双方の間を取り持つ役割を果たしていた名主について記します。

名主の分類  【RIZAP COOK】

名主は、以下のような分類がなされています。

江戸の町の本来の構成員は家持=町人で、名主はその町の代表者です。江戸では家持層が早くから不在となる場合が多く、17世紀末には町名主は姿を消してしまいます。町名主に代わって、家守の代表である月行事が町を代表するようになっていきます。

江戸の町名主には、町が町奉行支配(管理)の区域である「御町中」になった時代によって、以下の4つの分類があったといわれています。

草創名主
慶長年間の町割で町となった地、天正以前からあった村が「御町中」に編入された場合での名主。家康の江戸入り以来の由緒を持ちます。元文年間(1736-41)に29人(のち24人に)いました。

古町名主
寛永年間(1624-44)までに成立した古町を支配(管轄)した名主。文化年間(1804-18)には79人いました。代官支配から町奉行支配になった町の名主です。

平名主
正徳3年(1713)以降に代官支配から町奉行支配になった新市街地の名主。それ以前の町と区別するため「新町」と呼びました。町奉行と代官の両方の支配を受ける土地を「町並地」といいますが、平名主はまさにここが対象となります。

門前名主
寺社奉行から町奉行へ支配が移った町の名主。

正徳3年(1713)とはどんな年か。その年の閏5月15日に、代官支配だった、本所、深川、浅草、小石川、牛込、市谷、四谷、赤坂、麻布などの近郊市街地259町が町奉行支配となったのです。この年こそは、江戸のなりたちを考える上でエポックメイクな年といえるでしょう。

名主の仕事  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。

名主の仕事はいろいろあります。ざっと並べると以下のとおりです。

町触の伝達
人別改
忠孝奇特者の取り調べ
火の元の取り締まり
火事場での火消人足の差配
町奉行や町年寄からの指示による取り調べ
町奉行所への訴状や届書への奥印
沽券状その他の諸証文の検閲や奥印
支配町内紛議の調停
失行者への説諭
町入用の監査
祭礼の監督と執行

このように見ると、名主は管轄町内のすべて町用と公用にかかわっていたのですね。

名主というのは落語には出てきません。落語を聴いているかぎりでは見落としがちなのですが、当該町と町年寄の中間に位置して、町民の生活に根づいた課題に対処していたのですね。江戸を知る上ではかなり重要な存在といえるでしょう。

名主組合  【RIZAP COOK】

町奉行支配地が拡大していくと、正徳年間(1711-16)には地域ごとに、日本橋北組合、日本橋中組合、日本橋南組合、霊巌島組合、芝組合、神田組合、浅草組合といった名主組合が生まれました。

享保7年(1722)には、これらが再編成されて一番から十七番までの組合に生まれ変わりました。

各番組ごとに年番を決めました。とりわけ、日本橋北の一、二番組と日本橋南の四番組の年番を「南北小口年番」といって、町触などの急なお達しなどを各番組に伝達させるようなネットワークが形成されていきました。番名主はさらに、その頃問題化していた名主のサボりや不正の監督にもあたりました。この番組制は、十八番組から二十一番組まで生まれ、番外の吉原と品川ができて、合計23組となりました。

名主の数は、享保7年(1722)に17組264人いましたが、天保2年(1831)には23組246人へと少し減りました。一人の名主が支配する町の数は平均6、7町でした。

そもそも名主は兼業が禁じられていたため、支配町内から役料を徴収することが許されていました。この金額は、幕末では、平均60両ほどを手にしていたいいます。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、幸田成友『江戸と大坂』(冨山房百科文庫、1995年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
草創名主 くさわけなぬし
古町名主 こちょうなぬし
平名主 ひらなぬし
町並地 まちなみち
町触 まちぶれ
人別改 にんべつあらため
店借人 たながりにん
地借人 じがりにん
家持 いえもち
家主 いえぬし
大家 おおや
家守 やもり
町入用 ちょうにゅうよう

町年寄 月行事

【RIZAP COOK】

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まちどしより【町年寄】ことば 江戸覗き

この項では、幕府と町人の間にあってさまざまな行政を受け持たされた町年寄の3家について記しました。

3家が世襲  【RIZAP COOK】

江戸の都市行政を管理する町奉行所の下には、3人の町年寄がいました。世襲です。正月3日には、江戸城に年頭挨拶に登城していました。特別な町人といえるでしょう。

樽屋 藤左衛門(与左衛門)を代々名乗る
奈良屋 市右衛門を代々名乗る
喜多村 彦右衛門を代々名乗る

伝達の順序  【RIZAP COOK】

町奉行→町年寄→年番名主→名主→家持(大家が代行)→地借人(または店借人)、といった伝達順序です。年番名主はのちに名主肝煎、世話掛名主になっていきます。家主、地借人、店借人は家持ではないので町費負担はありませんでした。町人としては認められていませんでした。

職務の中身  【RIZAP COOK】

町年寄はどんなことをするのかといえば、以下のようなことです。

町触の名主への伝達
新開地の地割りと受け渡し
人別の集計
商人や職人の統制
公役、冥加、運上の徴収事務
町奉行の諮問に対する調査と答申
町人の願出に関する調査
民事関係の訴訟の調停

町年寄の居宅は、町人からは役所と見られていました。

樽屋 日本橋本町一丁目に居宅
奈良屋 日本橋本町二丁目に居宅
喜多村 日本橋本町三丁目に居宅

こんなぐあいで、日本橋本町に集中していました。

地割役  【RIZAP COOK】

さらに、町年寄に準ずる職務を受け持つ「地割役」がいました。町触伝達には関係しません。地面の区画調査、屋敷の受け取りや受け渡し、消火後に行う出火元の跡見分などを受け持っていました。火事や地震が頻繁に生じて住まいの強制移転が起こる江戸では重要な役職となりました。

開府直後は木原家が任されましたが、正徳2年(1712)以降は樽屋三右衛門家が世襲するようになりました。樽屋右衛門家は町年寄の樽屋藤左衛門家と親戚です。

町人とは  【RIZAP COOK】

ここで、町人について記しておきます。

町人とは家持のことです。町人=家持。町人の社会的役割のひとつに賃貸しの長屋を持って、わずかな店賃で店子に貸す慣習がありました。

町人は大家を雇います。大家には、店子からの家賃の取り立てやさまざまな問題のめんどうなど長屋の管理運営を任せます。その対価として店賃の免除などの優遇をしていました。

江戸をはじめとした大都市(大坂、京、長崎)には、富裕町人や下層町人のほか、没落した都市下層民をはじめとするさまざまな階層の人々が生活するようになります。

長屋の住人である熊五郎、八五郎、糊屋のばあさんなどは借家人ですから、町人ではありません。

町年寄の収入  【RIZAP COOK】

幕府から拝領した土地から上がる地代が、町年寄の収入となります。600両ほどの利益です。

これとは別に、樽屋は枡の独占販売の収益がありました。毎年200両ほどが入ってきたので、奈良屋、喜多村よりも豊かでした。

枡座という江戸と京都で枡を専売した機関が枡座です。東日本33か国で使われる枡は樽屋が扱っていました。西日本33か国で使われる枡は京都の福井作左衛門が作る枡でした。公許となる両者の枡は焼き印が押されて認証されていました。

樽屋は別格  【RIZAP COOK】

明和2年(1765)以降、町年寄が幕府公用金の江戸町人への貸付を委託されました。とくに樽屋は枡座のかかわりもあってのことか、経済・金融政策に特異な能力を発揮したことで知られます。

寛政改革で、樽屋与左衛門は棄捐令で手腕を発揮したといいます。棄捐令は旗本・御家人の借財整理です。文化期には町人からの御用金の徴収や貸付にもかかわりました。

参考文献:吉原健一郎『江戸の町役人』(吉川弘文館、1980年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
地割役 じわりやく
木原家 きはらけ
樽屋三右衛門家 たるやさんえもんけ
跡見分 あとけんぶん
家持 いえもち
家守 やもり:大家さん。名主の代理人。差配人
月行事 がちぎょうじ
店子 たなこ
店賃 たなちん
地借人 じがりにん
店借人 たながりにん

名主 月行事

【RIZAP COOK】

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よりき、どうしん【与力、同心】ことば 江戸覗き

この項では、町方の与力と同心が下級武士でありながら、幅広い行政権限と大きな実権、さらには副収入もあってなかなか羽振りがよかったことについて記します。

江戸の与力  【RIZAP COOK】

江戸の町方与力は、両町奉行所ごとに25騎、計50騎。与力は騎馬が許されていたため、員数の単位は「騎」だったのです。町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたりました。

与力には、2種類ありました。町奉行その人から俸禄を受ける与力、つまりは町奉行である殿さまの家臣です。これは「内与力」と呼ばれました。それと、将軍から俸禄を受けて奉行所に所属する役人である普通の「与力」です。

内与力は陪臣です。奉行に就いている殿さまの用人ですね。普通の与力よりは格下で禄高も低かったのですが、奉行の側近ですから、その実権は侮れないほど大きいものでした。

与力は配下となる「同心」を指揮・監督する管理職です。と同時に、警察権でいうならば警察署長、司法権でいうならば民事と刑事の双方の裁判も審議したので、今日の裁判官や検察官のような役割も果たしました。

与力は「役宅」として八丁堀に250-350坪の組屋敷が与えられていました。まあまあ広いですね。問題や紛争が起こればなにかと便宜を図ってくれるよう、常日頃は大名や富裕町家からの付け届けがひんぱんにあり、わりと裕福な家も多かったといわれます。

それともうひとつ。今から見れば不思議な特権としか映りませんが、与力は毎朝湯屋の女風呂に入ることができました。八丁堀の湯屋は混雑していたことに加え、その頃の女性には朝湯の習慣がなかったので、朝の女湯は空いており、男湯でささやかれる噂話や密談を盗み聴きするのにもよかったようなのです。八丁堀の女湯に刀掛けが置かれてあることは、「八丁堀の七不思議」に数えられていました。

与力は、屋敷に回ってくる流しの髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕しました。粋な身なりで人気があったのです。与力、力士、火消の頭は「江戸の三男」ともてはやされたそうです。

町与力組頭クラスは150-200石を給付されていましたから、下級旗本の待遇の上をいっていました。とはいえ仕事柄、罪人を扱うことから「不浄役人」とみなされ、将軍謁見や登城は許されませんでした。御目見がかなわないので、身分上は御家人です。御家人の中では上位の俸禄でありましたが。

与力は、建前上は騎兵なので、袴を着用します。徒歩(歩兵)扱いの同心は将軍の御成先でも着流しでの「御成先御免」が許されましたが、与力には「御成先御免」はありませんでした。

同心=足軽  【RIZAP COOK】

開府当初、徳川家直参の足軽は全員「同心」と扱われました。伊賀同心、甲賀同心、鉄砲組の百人同心など、いろいろありました。最初に同心となった人は「譜代」と呼ばれ、役職がなくても俸禄をもらうことができ、代々子孫にこれを受け継がせることができました。幕府の同心=足軽ですから、幕臣ではあっても旗本ではなく御家人でしたが。

江戸の同心  【RIZAP COOK】

両町奉行所には与力が各25騎、同心が各120人配置されました。警察業務を執行する「廻り方同心」は南北町合わせても30人にも満たず、100万都市の治安を維持することは無理というものです。そこで同心は個人的に「岡っ引き」と呼ばれる手先を雇っていました。

廻り方同心は、雪駄に着流しスタイルという、なんだか奇妙な身なりで人気がありました。これでお役人なのですから、なんともいやはや。町民になじみがあったのは「定町廻り同心」です。決められた地区を担当して、巡回しながら治安維持にあたりました。

並みの同心の俸禄は30俵2人扶持。将軍家直参と比べても少なくはありません。実際は諸大名家や町屋からの付け届けなどでその数倍の実収入があった人が多く、岡っ引きも雇えたし、宿舎に相当する屋敷を拝領して、しばしばその屋敷は同心の代名詞とされていました。なぜ諸国の大名家が付け届けをするのか。江戸屋敷の家来たちの中には不祥事を起こす者もでるわけで、そんな非常時に備えた保険のようなものです。岡っ引きは基本的には無給なのですが、こちらもこちらでいろいろもらえて役得だったといわれています。

同心の屋敷は約100坪でした。与力の三分の一。拝領した広い屋敷を貸して家賃収入を得る人もいるほど。これはだいたいの同心がなりわいにしていたようです。医者、儒者、絵師といった階層の連中が対象でした。こういう副業はは役人でも許されていたのですね。ラフというか、なんというか。組屋敷は八丁堀に置かれていましたから、「八丁堀」が彼らをさす通称となります。これは有名ですね。

罪人を扱う汚れ仕事だったため、与力同様「不浄役人」と見下されました。世襲とはせずに、代替わりの際には新規召し抱えとなりました。

治安維持という任務上、その職務に精通していることがなにより必須であるため、事実上世襲が行われていました。おかしな話です。

江戸中期以降では、建前上は養子入りすることで実質上は金銭で「株」を買うことで町人が武士の身分を得る例が見られました。町方同心の場合はその職務に通じている必要があり、同心株を売るほど困窮した者も多くはなかったため、事例はあまりありませんでした。樋口一葉の父はその珍しい例だったのかもしれません。

職務の変遷  【RIZAP COOK】

与力と同心の職務は、おおざっぱに享保以前と享保以後とに分かれます。

享保以前は、年番、町廻り、牢屋見廻りの三つでした。年番は、町奉行所の財政、人事などを扱う職務で、ベテランが受け持ちました。町廻りは市中の見廻りのことで、主に同心の仕事でした。牢屋見廻りは小伝馬町の牢屋の見廻りです。

寛政年間には、隠密廻り、定廻り、臨時廻りの三廻り制となりました。なかでも筆頭格は隠密廻りで、市中の風聞を察知して町奉行に通報するのが仕事でした。定廻りはこれまでの町廻りと同じで、市中の見廻りです。臨時廻りはあくまでも臨時であって、重点的に各所を見廻るものでした。

享保改革では、出火之節人足改、養生所見廻り、本所見廻りなどが新たに設けられました。出火之節人足改とは、火事の現場に規定数の町火消人足が出ているかを確認するもので、消火活動の指揮監督も兼ねることもありました。養生所見廻りは小石川養生所への入所者の確認です。本所見廻りは、享保4年(1719)4月まであった本所奉行所がなくなって、本所、深川までもが町奉行所の管轄になったために生まれた職務でした。この地域の橋や道の普請、用浚いなどを受け持ちました。

寛政改革では、窮民救済を目的に設置された町会所での事務処理を行う町会所掛、寛政2年(1790)にできた人足寄場を管轄する人足寄場掛が新設されました。

天保改革では、市中取締諸色調掛が新設されました。諸色とは物価のことです。この任務は、南町奉行となった鳥居耀蔵の指揮下で、質素倹約の市中取り締まり、物価の引き下げに奔走するものです。いやあ、任務の増やし過ぎ。おまけに幕末には、外国掛、海陸御備向御用取扱掛などという役目も増えて、与力も同心もてんてこ舞いでした。そして、倒壊していくのです。

【語の読みと注】
年番 ねんばん
町廻り まちまわり
牢屋見廻り ろうやみまわり
隠密廻り おんみつまわり
定廻り じょうまわり
臨時廻り りんじまわり
出火之節人足改 しゅっかのせつにんそくあらため
養生所見廻り ようじょうしょみまわり
本所見廻り ほんじょみまわり
町会所掛 まちかいしょかかり
市中取締諸色調掛 しちゅうとりしまりしょしきしらべかかり
海陸御備向御用取扱掛 かいりくおそなえむきごようとりあつかいかかり

町奉行

参考文献:史談会『旧事諮問禄』(青蛙房、1971年)、佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』(新版、東洋書院、2000年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【RIZAP COOK】

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まちぶぎょう【町奉行】ことば 江戸覗き

この項では、江戸町奉行の職務が、じつは犯罪者の逮捕ばかりではないことを記します。

職務  【RIZAP COOK】

町奉行は江戸の都市行政全般を担当していました。最高裁判所長官、警視庁総監、東京都庁知事の役目を一手に引き受けていました。今日からみれば奇妙な役職です。

なんといっても町奉行は、幕府の最高意思決定機関とされる評定所一座の一員です。これは、老中、若年寄、寺社奉行、町奉行、勘定奉行などから構成されているもので、重要な裁判、国政の重大問題を審議し決定する機関です。重職のひとつとされました。

町奉行は2人ずつ選ばれました。北町奉行と南町奉行です。

北町奉行所は、常盤橋御門内に置かれましたが、のちに呉服橋御門内に移されました。

南町奉行所は、呉服橋御門内に置かれましたが、のちに鍜治橋御門内、さらには数寄屋橋御門内に移されました。

元禄15年(1702)には中町奉行所が呉服橋御門内の南側に置かれまして三人制となったのですが、中町奉行の坪内定鑑が亡くなってからは終わってしまいました。享保4年(1719)4月14日に短い幕を閉じました。

こうして、幕末の一時期を除き、南北の二人制が続きました。

町奉行は奉行所に住みました。それで、奉行所を「役宅」と呼んだりしていました。

町奉行は、毎日四ツ(午前10時)に登城します。退出後は役宅で訴訟の処理や判決の申し渡しなどを繰り返します。

「月番」といって、ひと月交代で二人の奉行が職務を行いましたが、非番の月でも、月番の間に受理した訴訟などは処理しなければなりませんでした。

2人の町奉行は、月番の役宅で、「内寄合」と称して月3回、事務処理について話し合いました。

江戸時代は管轄や担当を「支配」と呼びましたが、町奉行の支配地は最初の頃は、江戸城周辺の「古町」と呼ばれる300町ほどでした。それが、江戸が膨張するに伴って広がりました。維新直前には、1678町にも及びました。808町の2倍以上です。

こうしてみると、町奉行は激務です。高い能力と人格が求められました。よって、小禄の旗本からも選任されることもありした。いきなり町奉行になることは少なく、だいたいは、勘定奉行→京都町奉行→大坂町奉行などで経験を積んだ旗本のあがり職とされていました。それだけキャリアを積み上げないと勤めあげられない職務だったのでしょう。

在職年数は5-6年が一般的でしたが、まれに1年未満で解任された例もあれば、19年間務めた大岡忠相の例もありました。要は能力次第でした。それには、与力と同心との協調がきわめて重要だったようです。

与力と同心を使う  【RIZAP COOK】

両町奉行には、与力が25騎ずつ、同心が120人ずつ、都合、50騎の与力と240人の同心がいたことになります。

町奉行は、与力・同心をどう操縦するかが腕の見せ所だったようです。彼らに見放されると、町奉行は職務を全うできなかったのです。

与力、同心

参考文献:西山松之助編『江戸町人の研究』四(吉川弘文館、1977年)、佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』(新版、東洋書院、2000年)、加藤貴編『江戸を知る事典』(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
評定所一座 ひょうじょうしょいちざ

【RIZAP COOK】

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しょうぐんせんげ【将軍宣下】ことば 江戸覗き


この項では、関ヶ原の戦いで勝った家康が、幕府を開くまでに、なぜ3年近くもの時間がかかったのかについて記します。

開幕まで  【RIZAP COOK】

関ヶ原の戦いから開府までの時系列です。

慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の戦いで家康方(東軍)が勝利
慶長6年(1601)8月 上杉景勝が上洛、臣従
慶長7年(1602)8月 島津家久が上洛、臣従
慶長8年(1603)2月12日 家康が征夷大将軍に任官、開府

上杉と島津が上洛して天皇に臣従を誓うまでに時間を要したことが、開府のもたもたとなったということです。

将軍の宣下  【RIZAP COOK】

家康の将軍宣下は伏見城で行われました。

朝廷では大納言広橋兼勝が上卿を務めて陣儀を行い、内大臣徳川家康の将軍任官と右大臣転任を決めました。

すぐに伏見城に勅使が出されました。その数200人以上だったそうです。

伏見城には、前もって武家昵近衆が祗候し、家康は上段中央に南面して座っていました。

勅使がお祝いを述べて着座。上卿らが家康に進み出ると、南庭で副使が二拝し「ご昇進、ご昇進」と大声を出します。

上卿が着座すると、将軍任官の宣旨が官務の壬生高亮から高家大沢基宿に渡され、大沢が家康の前に置きました。家康はこれを一覧し、宣旨の入っていた蓋に長井右近が砂金袋を入れて、壬生に返します。

局務の押小路師生が右大臣の宣旨を渡し、同様の手順で行われました。その後も、同じ手順で、源氏長者、淳和奨学院別当、牛車兵仗の宣旨が渡されました。儀式はこれで終わり。

参列した公家には役割ごとに金が渡され、武家昵近衆には夕餐がふるまわれました。

以上が、慶長8年(1603)2月12日の儀式のあらましです。

御礼の参内  【RIZAP COOK】

3月25日、家康は参内します。任官返礼と新年の挨拶が目的でした。

ときの天皇(後陽成)に銀子1000枚をはじめ、下級女官にまで、なにがしかの銀子を贈っています。

参内行列は九番編制で、譜代家臣、そのとき上洛していた諸国の大名をかき集めて構成したそうです。誰が見ても家康を超える実力者のいないこの時点では、どのようなにわか仕立てでも通用したのでしょう。

その後、二代秀忠の任官・宣下では、伏見城で受けはしましたが、返礼の参内では、八番編制の行列で、上杉景勝、伊達政宗、島津家久、前だ利光などの有力大名を率いて、華美で麗々しい行列だったとのことです。三代家光も伏見城で受けましたが、返礼の参内はさらに仰々しくて、三日間にわたって二条城で猿楽を催しました。

四代家綱以降は江戸城でこれらの儀式は行われ、十四代家茂まで踏襲されました。この場合、勅使はじめ多数の公家や門跡が仰々しく江戸に下向したわけで、そのたびに上方のみやびで風流な文物が江戸に伝わりました。

将軍の上洛は家光からプツンと切れて、家綱以降の江戸での将軍宣下の儀式も多分に形骸化していきました。江戸では返礼参内はなくなるわけで、将軍より上の地位の者がいないことで、将軍の実質的な絶対化現象もここらへんから生まれてきました。逆に言えば、家康の頃には、朝廷の権力も権威もまだ生きていたことになります。

江戸城での将軍宣下  【RIZAP COOK】

江戸城での将軍宣下の際、公家や門跡へのもてなしは、江戸城大広間の南庭に能楽堂を設定して、能楽を催しました。

諸国の大名ばかりか、江戸の町人も、一町に二人まで見物を許可されました。武家の祝いを江戸の町人も共有したことは重要でした。継飛脚で将軍任官を全国に伝達しました。きわめて合理的かつ簡素化したわけです。

これらの式次第は微に入り細をうがちながら、江戸時代の繁栄とともに後世語り伝えられていき、権現神話の一節と醸成されていきました。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、市岡正一『徳川盛世録』(平凡社東洋文化、1989年)、笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』(思文閣出版、2000年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、山本博文『徳川将軍と天皇』(中央公論新社、1999年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
宣下 せんげ:宣旨を伝える儀式
宣旨 せんじ:天皇が臣下に伝えた文書
上卿 しょうけい:陣儀の主催者
陣儀 じんぎ:公家たちが国政を審議する
武家昵近衆 ぶけじっきんしゅう:武家と交渉する公家
祗候 しこう:つつしんでおそばで奉仕する官務 かんむ
壬生高亮 みぶたかすけ
大沢基宿 おおさわもといえ
局務 きょくむ
押小路師生 おしこうじもろお
門跡 もんぜき:皇族や公家が住持となった特別な寺院

【RIZAP COOK】

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えどいり【江戸入り】ことば 江戸覗き

この項では、徳川家康が江戸城に入ったのは8月1日(八朔)だったというのは実はうそだった、という話について記します。

関東入部  【RIZAP COOK】

史実は以下の通り。天正18年(1590)のことです。

7月5日 北条氏直が豊臣秀吉に降伏、小田原城が落城。
7月13日 秀吉が家康の関東転封を発表。
7月19日 秀吉と家康がが江戸城に入る。秀吉が家康に江戸城普請を命じる。その後、秀吉は宇都宮に移動。
7月中 家康配下の有力武将の知行割が行われる。

このように見ると、家康の江戸城に入城したのは8月1日以前だったことがわかります。

八朔  【RIZAP COOK】

中世の農村で「憑の節句」と呼ばれたもので、物品を贈答する予祝儀礼のひとつです。室町幕府がこれを儀礼に確立しました。織豊時代には中絶しましたが、家康が天皇に太刀と馬を献上して復活へ。江戸幕府は八朔を正月三が日と同等の重要な年中行事として、参賀儀礼に定めました。

八朔の当日(8月1日)は、大名や三千石以上の旗本が登城し、太刀目録と馬代目録を将軍に献上しました。ほかには、大名の嫡子や隠居、幕府の主な役人、医師、金座の後藤、本阿弥、御用絵師の狩野、猿楽師といった諸職人、それと町方の代表者(樽屋、奈良屋、喜多村)の参賀と献上がありました。

関連項目:品川心中

権現神話  【RIZAP COOK】

よく言われるのは、家康が入部する以前の江戸は荒野であり寒村であり、というイメージです。

でも、実際の天正年間の江戸は港町として栄え、東海から関東に荷発着する重要な拠点だったのです。北条氏がすでに開発、開拓していたのです。江戸を「なにもない土地」のイメージに語るのは、家康を大都市に様変わりさせていった功労者とたたえる意図があったのでしょう。

都市建設のこのようなイメージ作りを「葦原伝説」と名づけていますが、家康の江戸はまさにそれにぴったりの地だったわけですね。
それこそが二百六十年にわたる「お江戸」の「権現神話」の始まりだったといえるでしょう。毛沢東や金日成の創成神話に通ずるものです。

ちなみに、「権現」とは、仏や菩薩(悟った人)が衆生(人々)を救うためにいろいろな姿になって仮の姿になって現れること。これを権現といいます。権化とも。本地垂迹説では、仏が化身して日本の神さまになって現れることをさします。ここでいう権現は「東照権現」という名の徳川家康のこと。つまり、家康は権現になった仏だった、ということです。江戸時代に「権現さま」と言ったら、神君家康公、つまりは徳川家康のことです。浄土宗の信者で通っていた家康はじつは神さまになったつもりであいましたが、そのじつは仏だったということです。

参考文献:『新編千代田区史』通史編(東京都千代田区、1998年)、岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』(教育出版、1999年)、竹内誠他『東京都の歴史』(山川出版社、1997年)、藤田覚、大岡聡編『街道の日本史 江戸』(吉川弘文館、2003年)、加藤貴編『江戸を知る事典(東京堂出版、2004年)、大濱徹也、吉原健一郎編『江戸東京年表』(小学館、1993年)、『新装普及版 江戸文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)

【語の読みと注】
権現 ごんげん:仏の仮の姿

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きんめいちく【金明竹】演目

骨董を題材にした噺。小気味いい言い立てが聴きどころの前座噺です。

【あらすじ】

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまってそれっきり。

おじさんは
「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置へ放り込んであると断るんだ」
と叱った。

すると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使いものになりませんから、焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、そそうがあってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

おじさんがそう教える。

おじさんに目利きを頼んできた客に、与太郎は、
「家にも旦那が一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのかさっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、旦那はんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わての旦那の檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。
おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、終いにずん胴斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか」
「たしかか、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

【しりたい】

ネタ本は狂言  【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作「臍くり金」中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(「古今秀句落し噺」に収録)なのでどちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林屋正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)刊の自作落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)刊の落語ネタ帳『滑稽集』(喜久亭寿曉)に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治時代になったからと思われます。

「骨皮」のあらすじ  【RIZAP COOK】

シテが新発意でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」と叱る。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による乱馬)したと断れ」今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

「夕立」のあらすじ  【RIZAP COOK】

主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りに来たのにそれを言い、どこの国に疝気で動けない火鉢があると、また隠居が叱ると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入  【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。明治になってそれがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。円喬は特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛けました。なかでも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。CDは、三巨匠それぞれ残っていて、現役では柳家小三治のがありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗  【RIZAP COOK】

後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。光乗はその曾孫(1529-1620)で、やはり名工として織田信長に仕えました。

長船  【RIZAP COOK】

長船は鎌倉時代の備前国の刀工・長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉  【RIZAP COOK】

横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹  【RIZAP COOK】

中国福建省原産の黄金色の名竹です。福建省の黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管の羅宇などの細工に用います。隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントに?  【RIZAP COOK】

『吾輩は猫である』の中で、二絃琴の師匠の飼い猫・三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという説(半藤一利氏)がありますが、落語にはこの手のくすぐりはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
新発意 しんぼち:出家して間もない僧
疝気 せんき
石井宗淑 いしいそうしゅく
後藤祐乗 ごとうゆうじょう
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
長船 おさふね
横谷宗珉 よこやそうみん
小柄 こづか
黄檗山 おうばくさん
隠元 いんげん
煙管 きせる
羅宇 らお
天璋院 てんしょういん

【RIZAP COOK】

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ばけものつかい【化け物つかい】演目

使いの荒い男の噺。権助ばかりか化け物までこき使って。

【あらすじ】

田舎者で意地っ張りの権助。

日本橋葭町の桂庵から紹介された奉公人の口が、人使いが荒くて三日ともたないと評判の本所の隠居の家。

その分、給金はいいので、権助は
「天狗に使われるんじゃあるめえし」
と、強情を張って、その家に住み込むことに。

行ってみると、さすがの権助も度肝を抜かれた。

今日はゆっくり骨休みしてくれと言うので、
「なんだ、噂ほどじゃねえな」
と思っていると、その骨休みというのが、薪を十把割り、炭を切り、どぶをさらい、草をむしり、品川へ使いに行って、
「その足でついでに千住に回ってきてくれ。帰ったら目黒へ行って、サンマを買ってこい」
というのだから。

しかも、
「今日一日は骨休みだから、飯は食わせない」
ときた。

それでも辛抱して三年奉公したが、隠居が今度、幽霊が出るという評判の家を安く買いたたき、今までの家を高く売って間もなく幽霊屋敷に引っ越すと聞かされ、権助の我慢も限界に。

化け物に取り殺されるのだけはまっぴらと、隠居に掛け合って三年分の給金をもらい、
「おまえさま、人はすりこぎではねえんだから、その人使え(い)を改めねえと、もう奉公人は来ねえだぞ」

毒づいて、暇を取って故郷に帰ってしまった。

化け物屋敷に納まった隠居、権助がいないので急に寂しくなり、いっそ早く化け物でも現れればいいと思いながら、昼間の疲れかいつの間にか居眠りしていたが、ふと気がつくと真夜中。

ぞくぞくっと寒気がしたと思うと、障子がひとりでに開き、現れたのは、かわいい一つ目小僧。

隠居は、奉公人がタダで雇えたと大喜び。

皿洗い、水汲み、床敷き、肩たたきとこき使い、おまけに、明日は昼間から出てこいと命じたから、小僧はふらふらになって、消えていった。

さて翌日。

やはり寒気とともに現れたのはのっぺらぼうの女。

これは使えると、洗濯と縫い物をどっさり。

三日目には、、やけにでかいのが出たと思えば、三つ目入道。

脅かすとブルブル震える。こいつに力仕事と、屋根の上の草むしり。

これもすぐ消えてしまったので、隠居、少々物足りない。

四日目。

化け物がなかなか出ないので、隠居がいらいらしていると、障子の外に誰かいる。

ガラっと開けると、大きな狸が涙ぐんでいる。

「てめえだな、一つ目や三つ目に化けていたのは。まあいい、こってい入れ」
「とんでもねえ。今夜かぎりお暇をいただきます」
「なんで」
「あなたっくらい化け物つかいの荒い人はいない」

    
底本:七代目立川談志

【しりたい】

明治末の新作  【RIZAP COOK】

明治末から大正期にかけての新作と思われます。原話は、安永2年(1773)刊『御伽草』中の「ばけ物やしき」や、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「化物屋敷」などとされていますが、興津要は、『武道伝来記』(井原西鶴、貞享4=1687年刊)巻三「按摩とらする化物屋敷」としています。

桂庵  【RIZAP COOK】

江戸時代における、奉公や縁談の斡旋業で、現在のハローワークと結婚相談所を兼ね、口入れ屋とも呼びました。日本橋葭町には、男子専門の千束屋、大坂屋、東屋、大黒屋、藤屋、女子専門の越前屋などがありました。

名の由来は、承応年間(1652-55)の医師・大和桂庵が、縁談の斡旋をよくしたことからついたとか。慶庵、軽庵、慶安とも。転じて、「桂庵口」とは、双方に良いように言いつくろう慣用語となりました。

名人連も手掛けた噺  【RIZAP COOK】

昭和後期でこの噺を得意にした七代目立川談志は、八代目林家正蔵(彦六)から習ったといいます。その彦六は同時代の四代目柳家小さんから移してもらったとか。いずれにしても、柳派系統の噺だったのでしょう。昭和では七代目三笑亭可楽、三代目桂三木助、五代目古今亭志ん生、三代目古今亭志ん朝も演じました。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや

【RIZAP COOK】

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りんきのひのたま【悋気の火の玉】演目

「悋気」は「ねたみ」。「吝嗇」は「けち」。頻出落語用語ですね。

【あらすじ】

浅草は花川戸の、鼻緒問屋の主人。

堅物を画に描いたような人間で、女房のほかは一人として女を知らなかった。

ある時、つきあいで強引に吉原へ誘われ、一度遊んでみると、遊びを知らない者の常ですっかりのめり込んでしまった。

とどのつまりは、いい仲になった花魁を身請けして妾宅に囲うことになる。

本妻の方は、このごろ旦那がひんぱんに外泊するからどうもあやしいと気づいて調べてみると、やっぱり根岸の方にオンナがいることがわかったから、さあ頭に血がのぼる。

本妻はちくりちくりといやみを言い、旦那が飯を食いたいといっても
「あたしのお給仕なんかじゃおいしくございますまい、ふん」
という調子でふてくされるので、亭主の方も自分に責任があることはわかっていても、おもしろくない。

次第に本宅から足が遠のき、月の大半は根岸泊まりとなる。

そうなると、ますます収まらない本妻。

あの女さえ亡き者にしてしまえば、と物騒にも、愛人を祈り殺すために「丑の時参り」を始めた。

藁人形に五寸釘、恨みを込めて打ちつける。

その噂が根岸にも聞こえ、今度は花魁だった愛人の方が頭にくる。

「よーし、それなら見といで」
とばかり、こちらは六寸釘でカチーン。

それがまた知れると、本妻が負けじと七寸釘。

八寸、九寸と、エスカレートするうち、呪いが相殺して、二人とも同日同時刻にぽっくり死んでしまった。

自業自得とはいえ、ばかを見たのは旦那で、葬式をいっぺんに二つ出す羽目になり、泣くに泣けない。

それからまもなく、また怪奇な噂が近所で立った。

鼻緒屋の本宅から恐ろしく大きな火の玉が上がって、根岸の方角に猛スピードですっ飛んで行き、根岸の方からも同じような火の玉が花川戸へまっしぐら。

ちょうど、中間の大音寺門前でこの二つがぶつかり、火花を散らして死闘を演じる、というのだ。

これを聞くと旦那、このままでは店の信用にかかわると、番頭を連れて大音寺前まで出かけていく。

ちょうど時刻は丑三ツ時。

番頭と話しているうちに根岸の方角から突然火の玉が上がったと思うと、フンワリフンワリこちらへ飛んできて、三べん回ると、ピタリと着地。

「いや、よく来てくれた。いやね、おまえの気持ちもわかるが、そこは、おまえは苦労人なんだから、なんとかうまく下手に出て……時に、ちょっと煙草の火をつけさしとくれ」
と、火の玉の火を借りて、スパスパ。

まもなく、今度は花川戸の方から本妻の火の玉が、ロケット弾のような猛スピードで飛んでくる。

「いや、待ってました。いやね、こいつもわびているんで、おまえもなんとか穏便に……時に、ちょいと煙草の火……」
「あたしの火じゃ、おいしくございますまい、ふん」

【しりたい】

これも文楽十八番  【RIZAP COOK】

安永年間(1772-81)に、吉原の大見世の主人の身に起きた実話をもとにしていると言われます。原話は笑話本『延命養談数』中の「火の玉」です。これは天保4年(1833)刊、桜川慈悲成(さくらがわ・じひなり、1762-1833)作によるもの。

現行は、この小咄のほとんどそのままの踏襲で、オチも同じ。わずかに異なるのが、落語では、オチの伏線になる本妻の、「あたしのお給仕なんかじゃ…」というセリフを加えるなど、前半のの筋に肉付けしてあるのと、原話では、幽霊鎮めに最初、道心坊(乞食坊主)を頼んで効果がなく、その坊さんの忠告でしぶしぶ旦那一人で出かけることくらいです。

この噺を十八番の一つとした八代目桂文楽は、仲介者を麻布絶口木蓮寺の和尚にして復活させていました。文楽は、旦那が妾と本妻にそれぞれ白髪と黒髪を一本ずつ抜かれ、往復するうちに丸坊主、というマクラを振っていました。

その没後は三遊亭円楽がよく演じ、現在でも高座に掛けましたが、音源は文楽のみです。

ケチと悋気はご親類?  【RIZAP COOK】

悋と吝は同訓で、悋には吝嗇つまりケチと嫉妬(悋気)の二重の意味があります。一つの漢語でこの二つを同時に表す「吝嫉」という言葉もあるため、ケチとヤキモチは裏腹の関係、ご親類という解釈だったのでしょう。

こじつけめきますが、よく考えれば原点はどちらも独占欲で、他人が得ていて自分にない(または足りない)ものへの執着。それが物質面にのみ集中し、内向すればケチに、広く他人の金、愛情、地位などに向かえば嫉妬。悋気は嫉妬の中で、当事者が女、対象が性欲と、限定された現れなのでしょう。

焼き餅は遠火で焼け  【RIZAP COOK】

「ヤキモチは 遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず 味わいもよし、なんてえことを申します」
「疝気は男の苦しむところ、悋気は女の慎むところ」
というのは、落語の悋気噺のマクラの紋切り型です。別に、「チンチン」「岡チン」「岡焼き」などともいいます。「チンチン」の段階では、まだこんろの火が少し熾きかけた程度ですが、焼き網が焦げ出すと要注意、という、なかなか味わい深いたとえです。

花川戸  【RIZAP COOK】

花川戸は、現在の台東区花川戸一、二丁目。西は浅草、東は大川(隅田川)、北は山の宿で、奥州街道が町を貫き、繁華街・浅草と接している場所柄、古くから開けた土地でした。芝居では、なんと言っても花川戸助六と幡随院長兵衛の二大侠客の地元で名高いところです。

花川戸から北の山の宿(現在は台東区花川戸に統合)にかけて、戦前まではこの噺の通り、下駄や雪駄の鼻緒問屋が軒を並べていました。今は靴などの製造卸業が多く並びます。

そういえば、舞台で助六が髭の意休の頭に下駄を乗せますが、まさか、スポンサーの要請では……。

大音寺  【RIZAP COOK】

台東区竜泉一丁目で、浄土宗の正覚山大音寺をさします。向かいは、樋口一葉ゆかりの旧下谷竜泉寺町です。箕輪の浄閑寺、新鳥越橋詰の西方寺とともに、吉原の女郎の投げ込み寺でもありました。

「蔵前駕籠」にも登場しますが、大音寺門前は夜は人通りが少なく、物取り強盗や辻斬りが出没した物騒なところで、幽霊など、まだかわいい方です。

【語の読みと注】
悋気 りんき
吝嗇 りんしょく
悋嫉 りんしつ

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もぐらどろ【もぐら泥】演目

明治の初め頃を舞台にした噺。円生がやってました。

別題:おごろもち盗人(上方)

【あらすじ】

大晦日だというのに、女房がむだ遣いしてしまい、やりくりに困っている旦那。

ぶつくさ言いながら帳簿をつけていると、縁の下で、なにやらゴソゴソ。

いわゆる「もぐら」という泥棒で、昼間のうち、物乞いに化けて偵察しておき、夜になると、雨戸の敷居の下を掘りはじめる。

ところが、昼間印をつけた桟までの寸法が合わず、悪戦苦闘。

旦那が
「ええと、この金をこう融通してと、ああ、もう少しなんだがなあ」
とこぼしていると、下でも
「もう少しなんだがなあ」

「わずかばかりで勘定が追っつかねえってのは、おもしろくねえなあ」
「わずかばかりで届かねえってのは、おもしろくねえなあ」

これが聞こえて、かみさんはなにも言っていないというので、おかしいとヒョイと土間をのぞくと、そこから手がにゅっと出ている。

ははあ、こいつは泥棒で、桟を弾いて入ろうってんだと気づいたから、
「とんでもねえ野郎だ。こっちが泥棒に入りたいくらいなんだ」

捕まえて警察に突き出し、あわよくば褒賞金で穴埋めしようと、旦那は考えた。

旦那、そっと女房に細引きを持ってこさせると、やにわに手をふん縛ってしまった。

泥棒、しまったと思ってももう遅く、どんなに泣き落としをかけてもかんべんしてくれない。

おまけにもぐり込んできた犬に小便をかけられ、縁の下で泣きっ面に蜂。

そこへ通りかかったのが廓帰りの男で、行きつけの女郎屋に三円の借金があるのでお履き物を食わされた(追い出された)ところ。

おまけに兄貴分に、明日ぱっと遊ぶんだから、それまでに五円都合しとけと命令されているので、金でも落ちてないかと、下ばかり見て歩いている。

「おい、おい」
「ひえッ、誰だい。脅かすねえ」
「大きな声出すな。下、下」

見ると、縁の下に誰か寝ている。

酔っぱらいかと思うと、
「ちょっとおまえ、しゃごんで(しゃがんで)くれねえか。実は、オレは泥棒なんだ」

一杯おごるから、腹掛けの襷の中からがま口を出し、その中のナイフをオレに持たしてくれ、と頼まれる。

男は
「どこんとこだい。……あ、あったあった。こん中に入ってんのか。へえ、だいぶ景気がいいんだな」
「いくらもねえ。五十銭銀貨が六つ、二円札が二枚、みんなで五円っかねえんだ」

五円と聞いて男、これはしめたと、がま口ごと持ってスタスタ。

「あッ、ちくしょう、泥棒ーう」

【しりたい】

古きよき時代とともに  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、上方では「おごろもち盗人」といいます。「おごろもち」は、関西でもぐらのこと。

昭和初期に五代目(俗に「デブの」)三遊亭円生がよく演じ、六代目円生もたまにやりましたが、速記が残るのは先代(六代目)蝶花楼馬楽くらい。東西とも、現在ではあまり演じられません。

オチは皮肉がきいていて、なかなかいいので、すたれるには惜しい噺なのですが。

「第十七捕虜収容所」泥は時代遅れ  【RIZAP COOK】

こうした、軒下に穴を掘って侵入する手口を文字通り「もぐら」と称しました。

もちろん「泥」にかぎらず、戦争映画などでよく見る通り、捕虜収容所や刑務所からの脱走も、穴を掘って鉄条網の向こうに出る「もぐら」方式がもっとも確実だったのですが……。特に都会で、軒下というものがほとんど姿を消し、、穴を掘ろうにも土の地面そのものがなくなった現代、こうしたクラシックな泥棒とともに、この噺も姿を消す運命にあったのは、当然でしょう。

「ギザ」の使いみちは?  【RIZAP COOK】

五十銭銀貨は、明治4年(1871)、表がドラゴン、裏に太陽を刻印したものが大小二種類発行されたのが最初です。俗に「旭日龍」と呼ばれました。

明治39年(1906)のリニューアルで表の龍が消え、通称は「旭日」に。ついで大正11年(1922)、従来より小型で銀の含有量の少ない「鳳凰」デザインのものに統一。これは「ギザ」「イノシシ」とも呼ばれ、昭和13年(1938)、戦時経済統制で銀貨が姿を消すまで、事実上、流布した最高額の補助貨幣でした。

どんなに使いでがあったかを、大正11年前後の商品価格で調べてみると、五十銭銀貨1枚で釣りがきたものは……。寿司・並二人前、鰻重、天丼・並各1人前、もりそば5-6枚、卵8個、トンカツ3皿、二級酒4合、ビール大瓶1本、ゴールデンバット10本入り8個、炭5kg。湯銭大人1人10日分。

お履き物  【RIZAP COOK】

廓で、長く居続ける客を早く帰すため、履き物に灸をすえるまじないがあったことから、女郎屋を追い立てられる、または出入り差し止めになることを「お履き物を食わされる」といいました。

五代目古今亭志ん生は、たんに「おはきもん」と言っていました。

くすぐりから  【RIZAP COOK】

かみさんが、あとで泥棒仲間に仕返しで火でもつけられたら困るから、逃がしてしまえと旦那に言う。

泥「(調子にのって)ほんとだい、ほんとだい。仲間が大勢いて無鉄砲だから、お宅に火を つけちゃ申し訳ねえ」
亭「つけるんならつけてみろい。どうせオレの家じゃねえや」

……ごもっともで。             

                                       六代目蝶花楼馬楽

【RIZAP COOK】

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らいおん【ライオン】演目

明治40年(1907)の上方噺「動物園」が原型。いまや新作とも言いがたい代物に。

別題:動物園(上方)

【あらすじ】

失業中の男。

ヤケになって、このところほとんど家にも帰らない。

いよいよ切羽詰まり、知人の家へ相談に行くと、月に二百円(明治の終わりの!)稼げるいい商売があるから、やってみないかと誘われた。

その職場というのが、今度新しくできた動物園。

「へえ、聞いてますが、世にも珍しい白いライオンがいるとかいう」
「実は、そのライオンになってもらいたい」

要するに、これはインチキ。

そんなライオンがいるわけがないから、ぬいぐるみでこしらえたが、実によくできていて、本物のライオンみたいだ。

そこで、その中に人間を入れ、ノッシノッシと歩かせて、客をたぶらかし、呼び物にしてたんまり稼ごうという魂胆。

「勤務」は朝の9時から午後4時までで、うまくいけばボーナス3千円も出るし、ライオンのエサ用に客が買った牛肉も、全部おまえのものになる、という。

もちろん、お上に聞こえれば手が後ろに回るから、女房子供にも絶対に秘密。

こういうヤバい商売でなければ、そんな大金をくれるわけがない。

「ナニ、要領を覚えりゃ簡単さ。ライオンてえのは、猛獣だから落ち着いて歩かなくちゃいけない。胴を左右にひねって、少し右肩を下げて……」

ともかく、歩き方を教わると、イチかバチかやってみる気になり、開場当日の朝、行ってみると、満員の盛況。

この動物園はサーカスと同じ興行方式で、あやしげな弁士が登場。

「ここにご覧に入れまするは、当館の呼び物、世にも珍しい真っ白いライオン……」

口上を述べると、楽隊もろとも緞帳が上がる。

ぬいぐるみの中の先生、次第に興奮してきて、「月200円ならいい商売だ。生涯ライオンで暮らそうか」などと、勝手なことを思いながら、大熱演。

すると、また例の弁士が現れた。

「ええー、こちらにご覧に入れまするは、東洋の猛獣の王、虎でござーい。本来は黒と黄のブチでございますが、ここにおります虎は珍しい黒白のブチでございます」

口上が終わると、「ウオウー」と、ものすごいうなり声。

「えー。今日は特別余興といたしまして、ライオンと虎の戦いをご覧に入れます」

柵を取り外したから、驚いたのはライオン。

虎がノソリノソリと入ってくる。

「うわーッ、話がうますぎると思った」

これがこの世の見納めと、
「南無阿弥陀仏ッ」
と唱えると、虎が耳元で
「心配するな。オレも200円でやとわれた」

【しりたい】

上方の創作落語  【RIZAP COOK】

大阪の二代目桂文之助(1859-1930)が、明治40年ごろ「動物園」と題して自作自演。

ただし、元ネタは英国の笑話とか。オリジナルでは、反対に主人公が虎になります。

どちらにせよ、着想が奇抜でオチも意外性に富むので、古くから人気があり、東京でも八代目春風亭柳枝、七代目雷門助六、六代目春風亭柳橋などが好んで演じました。

現在でも主流は上方落語です。桂米朝一門が若手に至るまで、多くの落語家のレパートリーです。

東京では、七代目助六が「ライオンの見世物」、八代目柳枝と柳橋はオリジナル通り「動物園」。三遊亭金馬は「ライオン」で演じます。

動物園事始  【RIZAP COOK】

動物の見世物は、江戸時代にはおもに両国橋西詰の仮設見世物小屋で公開されました。

大型動物では、虎、豹、象、狒狒、鯨などさまざまありましたが、「唐獅子」として古くから存在を知られていたはずのライオンは旧幕時代の記録はなく、明治以後の輸入です。

虎は江戸初期から公開され、慶安元年(1648)の記録があります。

明治4年(1871)に湯島聖堂で最初の博覧会が催され、サンショウウオと亀を公開。さらに翌々年(1873)、ウィーン万国博出品のため、国内の珍獣が集められ、一般公開されました。

こうしたイベントのたびに、徐々に動物が増え、博覧会場が手狭になった関係で、明治15年3月、日本初の西洋式動物園が上野に開園。

ライオンの上野動物園への初輸入は明治35年(1902)。その後、キリン、カバなども続々お目見えしました。入場料は開園当初、大人1銭、子供5厘。

次いで、明治36年(1903)4月に京都市動物園(岡崎公園内)、大正4年(1915)元旦に大阪・天王寺動物園が、それぞれ開園しています。

【語の読みと注】
弁士 べんし:無声映画などで内容の説明する人

【RIZAP COOK】

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よどごろう【淀五郎】演目

実話が基になっています。「四段目」「中村仲蔵」と並ぶ、忠臣蔵がらみの芝居噺。

【あらすじ】

ある年の暮れ。

「渋団」といわれた名人、市川団蔵を座頭に、市村座で「仮名手本忠臣蔵」を上演することになった。

由良之助と師直の二役は座頭役で決まりだが、塩屋判官役の沢村宗十郎が病気で倒れ、代役を立てなければならない。

団蔵、鶴の一声で「紀伊国屋(宗十郎)の弟子の淀五郎にさせねえ」

その沢村淀五郎は芝居茶屋の息子で、相中といわれる下回り役者。

判官の大役をさせられる身分ではない。そこで急遽、当人を名題に抜擢する。

淀五郎、降って沸いた幸運に大張りきり。

いよいよ初日。

三段目のけんか場までなんとか無事に済み、見せ場の四段目・判官切腹の場になった。

淀五郎扮する判官が浅黄の裃、白の死装束で切腹の場へ。

本来なら判官が、小姓の力弥に
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりません」
「存生の対面せで、残念なと伝えよ」
と、悲壮なセリフと共に、九寸五分を腹に突き立て、それを合図に花道からバタバタと、団蔵扮する城代家老・大星由良之助が現れ、舞台中央に来て
「御前」
「由良之助か、待ちかねた」
となるはずだが、団蔵は
「なっちゃいないね。役者も長くやってると、こういう下手くその相手をしなきゃならねえ。嫌だ嫌だ」
と、そのまま花道で動かない。

幕が閉まってから、おそるおそる団蔵に尋ねると
「あれじゃ、行きたいが行かれないね。あの腹の切り方はなんだい」
「どういうふうに切りましたらよろしいんで」
「そうさな、本当に切ってもらおうかね」
「死んじまいますが」
「下手な役者ァ、死んでもらった方がいい」

帰宅して工夫したが、翌日も同じ。

こうなると淀五郎、つくづく嫌になり
「そうだ、本当に腹ァ切れというんだから、切ってやろう。その代わり、皮肉な三河屋(団蔵)も生かしちゃおかねえ」

物騒な決心をして、隣の中村座の前を通ると、日ごろ世話になっている、これも当時名人の中村仲蔵の評判で持ちきり。

どうせ明日は死ぬ身だから、舞鶴屋(仲蔵)の親方にもあいさつしておこうと、その足で仲蔵を訪ねる。

仲蔵、淀五郎の顔が真っ青で、おまけに芝居がまだ二日目というのに
「明日から西の旅に出ます」
などと妙なことを言うので、問いただすとかくかくしかじか。

悪いところを直してやろうと、その場で切腹の型をやらせ、
「あたしが三河屋でも、これでは側に行かないよ」
と、苦笑。

「おまえさんの判官は、認められたいという淀五郎自身の欲が出ていて、五万三千石の大名の無念さが伝わらない。判官が刀を腹に当てるとき、膝頭から手を下ろすと品がない」
などと、心、型の両面から親切に助言し、励まして帰す。

翌日。

三段目が済むと団蔵が驚いた。

「あの野郎。どうして急にああもよくなったか。おらァ、本当に斬られるかと思った」

こうなると四段目が楽しみになる。出になって、花道から見ると
「うーん、いい。こりゃあ、淀五郎だけの知恵じゃねえな。あ、秀鶴(仲蔵)に聞いたか」

ツツツと近寄って
「御前」

淀五郎、花道を見るといないから、今日は出てもこないかと、がっかり。

それでも声がしたようだが、と見回すと、傍に来ている。
「おお、待ちかねたァ」

【しりたい】

円生、正蔵、志ん生と百花繚乱  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、実話を基にしたといわれます。明治の四代目橘家円喬以来、基本的な演出は変わっていません。

オチがあるので、厳密には人情噺とは言えませんが、芸道ものの大ネタです。

戦後では八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が競演。円生では、仲蔵が淀五郎に注意する場面が、微に入り細をうがって詳しいのが特色です。

正蔵の速記では省かれていますが、円生にならって判官の唇に青黛を塗り、瀕死の形相を出すようにと注意を入れる演者が多くなっています。

オチの後、正蔵は「こりゃ本当に待ちかねました」とダメを押しましたが、円生はムダとして省いています。

志ん生も円生のやり方とほぼ同じでしたが、詳細すぎる説明をカットし、人情噺のエキスを保ちながら、軽快なテンポで十八番の一つとしました。

その下の世代でも、円楽、志ん朝などが掛けていました。今でも、小朝らベテランから中堅、若手に至るまで多くの演者に高座に掛けられています。

八代目正蔵のやり方は、門下の八光亭春輔がもっとも忠実に継承しています。

イジワル団蔵は何代目か  【RIZAP COOK】

「渋団」と噺の中で説明されますが、歴代の団蔵でこの異名で呼ばれたのは五代目(1788-1845)です。

芸がいぶし銀のように渋かったことからで、六代目三遊亭円生は「目黒団蔵」と説明していますが、これは四代目団蔵(1745-1808)で、「渋団」の先代です。

噺に登場する初代仲蔵と同時代なら、この団蔵は四代目が正しいことになるのですが。

実録・淀五郎  【RIZAP COOK】

実在の沢村淀五郎は、初代から三代目まで数えられますが、三代目は、前記四代目団蔵が没した1か月後に襲名しているので、もし四代目団蔵、初代仲蔵と同時代なら明和3(1766)年に襲名した二代目ということになります。

忠臣蔵評判記『古今いろは談林』の「安永8年(=1779年)森田座」の項に「塩冶判官 沢村淀五郎 大星由良之助 市川団蔵」という記録があります。

三代目までのどの淀五郎にも、芝居茶屋のせがれという記録はなく、これはフィクションでしょう。

仲蔵は東西に二人  【RIZAP COOK】

同題の芸道噺に主役で登場します。詳しくは「中村仲蔵」をご参照ください。初代仲蔵の生涯について興味のある方には、松井今朝子の小説『仲蔵狂乱』(講談社文庫)にビビッドに描かれていてます。

同時代に同名の中村仲蔵がもう一人、大坂にいて、やはり初代を名乗っていました。この人は屋号「姫路屋」で通称「白万」。実事を得意とし、寛政9年(1797)に没しています。

以来、江戸東京と上方にそれぞれ四代目までの仲蔵が並立し、最後の「大阪仲蔵」が死去したのは明治14年(1881)でした。一般に、江戸の初代、三代、大坂の初代、四代が名高いと語り草です。

現在、仲蔵の名跡は空き名跡です。勘五郎から平成元年(1989)4月に襲名した五代目が、平成4年(1992)12月に没して以来、名乗りはいません。

「仮名手本忠臣蔵」については、「四段目」「中村仲蔵」をご参照ください。

江戸三座  【RIZAP COOK】

市村座、中村座、森田座の江戸三座は天保の改革で、天保13年(1842)、猿若町(台東区浅草六丁目)に強制移転。天保の改革の一環ででした。町名もその時に付けられました。

【語の読みと注】
相中 あいちゅう

【RIZAP COOK】

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よいよいそば【よいよい蕎麦】演目

地方から出てきた二人連れ。そばの食べ方がわからず四苦八苦。そうかもしれません。

別題:江戸見物

【あらすじ】

江戸名物は、火事にけんかに中っ腹というが、中っ腹は気短なこと、なにかというと、悪態をつく。

田舎者の二人連れ、一生一度の東京見物に来たのはいいが、慣れないこととて、やることなすこと悪戦苦闘。

そば屋に入っても、生まれて初めてなので、食い方がわからない。

もりがくると、あんまり長いから、これではハシを持ったまま天井までハシゴをかけて上がらなければ食えないというので、一工夫。

片方がまず寝ころんで、相棒に食べさせ、今度はもう一人が、という塩梅(あんばい)で、なかなかはかどらない。

そこへ威勢よく飛び込んできたのが、言わずと知れた江戸っ子のお兄さん。

もりを注文すると、例によって粋につるつるっとたぐり出したが、そばの中から釘が出てきたから、さあ収まらない。

「おい若い衆、そばの中に釘ィ入れて売るわけでもあるめえ。危ねえじゃねえぁ。よく気ィつけろいっ。このヨイヨイめ」

謝罪の言葉も聞かばこそ、悪態をついて、あっという間に出ていってしまった。

まるで暴風雨。

田舎者の二人、それを見てすっかり度肝を抜かれ、あの食い方の早えの早くねえの、あれはそば食いの大名人だんべえと、ひどく感心したが、終わりのヨイヨイというのが、なんだか、よくわからない。

そこでそば屋の親父に尋ねるが、親父もまさか親切ていねいに「翻訳」するわけにもいかず「あれはその、近頃東京ではやっているほめ言葉で、手前でものそばがいいというんで、よい、よいとほめたんです」と、ゴマかす。

二人はすっかり真に受けて、一度これを使ってみたいと思いながら、今度は芝居見物へ。

見ているうちに、いい場面になった。

東京の歌舞伎では、役者がいいと声をかけてほめると聞いたので、ここぞとばかり「ようよう、ええだぞ、ヨイヨイ」

怒ったのが贔屓の衆。

「天下の成田屋をつかめえて、ヨイヨイたあ何だ。てめえたちの方がヨイヨイだ」「ハァ、太郎作、喜べ。おらたちまでほめられた」

【しりたい】

二通りのバージョン  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、明治31年(1898)4月、「百花園」に掲載された六代目桂文治の速記では「江戸見物」と題しています。

これはオチは同じですが、後半途中から芝居噺仕立てになり、そば屋の場面はありません。江戸っ子に突き当たられた後そのまま芝居小屋での失敗談に移ります。

あらすじの「よいよい蕎麦」の方は、明治期では初代三遊亭円右が得意にしたもので、こちらが本元だろうと思われます。本来、ていねいに演じると、そば屋の場面の前に食物と間違え、炭団を買ってかじる滑稽が付きます。

元祖「ボヤキ落語」で知られた、同時代の五代目三升家小勝(1859-1939)や二代目三遊亭金馬を経て、戦後は三代目三遊亭小円朝が時々演じました。小円朝は速記が残っています。青蛙房刊『三遊亭小円朝集』(青蛙房→ちくま文庫)。音源はなく、初代円右のSP復刻版だけが、いま聴ける唯一の貴重な音源です。小円朝以後の継承者は、今のところいない模様です。

親ばかちゃんりん蕎麦屋の風鈴  【RIZAP COOK】

けんどんそば切り(今でいうかけそば)が一杯八文で売り出されたのは寛文4年(1664)のこと。その後、貞享年間(1684-88)に蒸し蕎麦が流行。同時に江戸市中に、多くのそば屋が出現。頼まれれば、天秤のかついで出前もしました。別名「二八蕎麦」と呼ばれる、屋台のそば屋が現れたのは享保年間(1716-36)といわれます。

それ以前、貞享3年(1686)にすでに、「温飩(うどん)、蕎麦切、其他何ニ寄らず、火を持あるき商売仕り候儀、一切無用に仕るべく候」というお触れが出ているので、かなり長い間、長屋の食うや食わずの連中が、アルバイトに特に夜間、怪しげな煮売り屋を屋台で営業していたわけです。お上では「食品衛生法違反容疑」よりむしろ火の元が危なくてしかたないので、禁止したということでしょう。

よいよい  【RIZAP COOK】

元は、幼児のよちよち歩きをさしましたが、のちに中風病み、マヌケ、酔っ払い、みすぼらしい服装の人間などをののしる言葉になりました。寛政年間(1789-1801)の戯作、洒落本などにこれらの例が出そろっているので、およそこのあたりが起源なのでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:太っ腹の対語。短気
塩梅 あんばい

【RIZAP COOK】

ゆめのさけ【夢の酒】演目

文楽が昭和10年ごろに磨き上げた、珠玉の噺。オチが有名ですね。

【あらすじ】

大黒屋の若旦那が夢を見てニタニタ。

かみさんが気になって起こし、どんな夢かしつこく聞くと「おまえ、怒るといけないから」

怒らないならと約束して、やっと聞き出した話が次の通り。

(夢の中で)若旦那が向島に用足しで出かけると、夕立に遭った。

さる家の軒下を借りて雨宿りをしていると、女中が見つけ
「あら、ご新造さん、あなたが終始お噂の、大黒屋の若旦那がいらっしゃいましたよッ」
「そうかい」
と、泳ぐように出てきたのが、歳のころ二十五、六、色白のいい女。

「まあ、よくいらっしゃいました。そこでは飛沫がかかります。どうぞこちらへ」

遠慮も果てず、中へ押し上げられ、世話話をしているとお膳が出て酒が出る。

盃をさされたので
「家の親父は三度の飯より酒好きですが、あたしは一滴も頂けません」
と断っても、女はすすめ上手。

「まんざら毒も入ってないんですから」
と言われると、ついその気でお銚子三本。

そのうちご新造が三味線で小唄に都々逸。

「これほど思うにもし添われずば、わたしゃ出雲へ暴れ込む……」

顔をじっと覗きこむ、そのあだっぽさに、頭がくらくら。

「まあ、どうしましょう。お竹や」
と、離れに床をとって介抱してくれる。落ち着いたので礼を言うと
「今度はあたしの方が頭が痛くなりました。いいえ、かまわないんですよ。あなたの裾の方へ入らしていただければ」
と、燃えるような長襦袢の女がスーッと……というところで、かみさん、嫉妬に乱れ、金きり声で泣き出した。

聞きつけた親父が
「昼日中から何てざまだ。奉公人の手前面目ない」
と若夫婦をしかると、かみさんが泣きながら訴える。

「ふん、ふん、……こりゃ、お花の怒るのももっともだ。せがれッ。なんてえ、そうおまえはふしだらな男」
と、カンカン。

「お父つぁん、冗談言っちゃいけません。これは夢の話です」
「え、なに、夢? なんてこったい。夢ならそうおまえ、泣いて騒ぐこともないだろう」

親父があきれると、かみさん、日ごろからそうしたいと思っているから夢に出るんですと、引き下がらない。挙げ句の果てに、親父に、その向島の家に行って
「なぜ、せがれにふしだらなまねをした
と、女に文句を言ってきてくれ」と頼む。

淡島さまの上の句を詠みあげて寝れば、人の夢の中に入れるというからと譲らず、その場で親父は寝かされてしまった。

(夢で)「ご新造さーん、大黒屋の旦那がお見えですよ」

女が出てきて
「あらまあ、どうぞお上がりを」
「せがれが先刻はお世話に」
というわけで、上がり込む。

「ばかだね。お茶を持ってくるやつがありますか。さっき若旦那が『親父は三度の飯より酒が好きだ』と、おっしゃったじゃないか。早く燗をつけて……え? 火を落として……早くおこして持っといで。じきにお燗がつきますから、どうぞご辛抱なすって。その間、冷酒で召し上がったら」
「いや、冷酒はあたし、いただきません。冷酒でしくじりましてな。へへ、お燗はまだでしょうか」
と言っているところで、起こされた。

「うーん、惜しいことをしたな」
「お小言をおっしゃろうというところを、お起こし申しましたか」
「いや、ヒヤでもよかった」

【しりたい】

改作の改作の改作  【RIZAP COOK】

古くからあった人情噺「雪の瀬川」(松葉屋瀬川)が、元の「橋場の雪」(別題「夢の瀬川」)として落とし噺化され、それを初代(鼻の)三遊亭円遊が現行のオチに直し、「隅田の夕立」「夢の後家」の二通りに改作。後者は、明治24年(1891)12月、「百花園」掲載の速記があります。

このうち「隅田の夕立」の方は円遊が、夢の舞台を向島の雪から大川の雨に代え、より笑いを多くしたものと見られます。

元の「橋場の雪」は三代目柳家小さんの、明治29年(1896)の速記がありますが、円遊の時点で「改作の改作の改作」。ややっこしいかぎりです。

決定版「文楽十八番」  【RIZAP COOK】

もう一つの「改作の改作の改作」の「夢の後家」の方を、八代目桂文楽が昭和10年(1935)前後に手を加え、「夢の酒」として磨き上げました。つまり、文楽で「改作の改作の改作の改作」。

文楽はそれまで、「夢の瀬川(橋場の雪)」をやっていましたが、自らのオリジナルで得意の女の色気を十分に出し、情緒あふれる名品に仕立て、終生の十八番としました。

円遊は導入部に「権助提灯」を短くしたものを入れましたが、文楽はそれをカットしています。

オチの部分の原話は中国明代の笑話集『笑府』中の「好飲」で、本邦では安永3年(1774)刊『落噺笑種蒔』中の「上酒」、同5年(1776)刊の『夕涼新話集』中の「夢の有合」に翻案されました。どちらもオチは現行通りのものです。

夢を女房が嫉妬するくだりは、安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「ゆめ」に原型があります。

「夢の後家」  【RIZAP COOK】

「夢の後家」の方は、「夢の酒」と大筋は変わりませんが、夢で女に会うのが大磯の海水浴場、それから汽車で横須賀から横浜を見物し、東京に戻って女の家で一杯、と、いかにも円遊らしい明治新風俗を織り込んだ設定です。

「橋場の雪」のあらすじ  【RIZAP COOK】

少し長くなりますが、「橋場の雪」のあらすじを。

若旦那が雪見酒をやっているうちに眠りこけ、夢の中で幇間の一八(次郎八)が、瀬川花魁が向島の料亭で呼んでいるというので、橋場の渡しまで行くと雪に降られ、傘をさしかけてくれたのがあだな年増。

結局瀬川に逢えず、小僧の定吉(捨松)に船を漕がせて引き返し、その女のところでしっぽりというところで起こされ、女房と親父に詰問される。

夢と釈明して許されるが、定吉に肩をたたかせているうち二人ともまた寝てしまう。女中が「若旦那はまた女のところへ」とご注進すると、かみさん「ここで寝ているじゃないか」「でも、定どんが船を漕いでます」とオチ。

三代目小さんは、主人公を旦那で演じました。上方では「夢の悋気」と題し、あらすじ、オチは同じです。

本家本元「雪の瀬川」  【RIZAP COOK】

原話、作者は不明です。「明烏」の主人公よろしく、引きこもりで本ばかり読んでいる若旦那の善次郎。番頭が心配して、気を利かせて無理に吉原へ連れ出し、金に糸目をつけず、今全盛の瀬川花魁を取り持ちます。

ところが薬が効きすぎ、若旦那はたちまちぐずぐずになってあっという間に八百両の金を蕩尽。結局勘当の身に。

世をはかなんで永代橋から身投げしようとするのを、元奉公人で屑屋の忠蔵夫婦に助けられ、そのまま忠蔵の長屋に居候となります。

落剥しても、瀬川のことが片時も忘れられない善次郎、恋文と金の無心に吉原まで使いをやると、ちょうど花魁も善次郎に恋煩いで寝たきり。そこへ手紙が来たので瀬川は喜んで、病もあっという間に消し飛びます。

ある夜、瀬川はとうとう廓を抜け、しんしんと雪の降る夜、恋しい若旦那のもとへ……。結局、それほど好きあっているのならと、親元に噺をして身請けし、めでたく善次郎の勘当も解けて晴れて夫婦に、というハッピーエンドです。

夢の場面はなく、こちらは、三遊本流の本格の人情噺。別題「松葉屋瀬川」で、六代目三遊亭円生が、ノーカットでしっとり演じました。

淡島さまと淡島信仰  【RIZAP COOK】

淡島さまの総本社は和歌山市加太の淡嶋神社です。ご神体は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)です。大己貴命は大国主命と同じとされています。少彦名命は蘆船でやってきた外来神で、大国主命と協力して国造りをなし遂げた後、帰っていきました。息長足姫命は神功皇后のことです。仲哀天皇の皇后で、韓半島に行って三韓征伐をしたという伝説で、明治期から昭和戦前期までは日本人の誰もが知っている人でした。後の応神天皇をおなかに抱えたまま船で韓半島に向かった勇ましい人です。このように見ると、淡嶋神社は出雲系でしょう。しかも、水と女性に深いかかわりのある神社のようです。

江戸では浅草寺と、北沢の森厳寺(世田谷区代沢三丁目)が有名でした。ともに、境内に淡島堂が建っています。江戸時代には淡島願人なる淡島信仰専門の願人坊主が江戸市中を回って、婦人病や腰痛に効能がある旨を触れて回りました。

浅草寺境内の淡島神社は、仲見世を背にすると左側に六角のお堂が建っていますが、そこのあたりにありました。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失しましたが、六角堂は残りました。これを淡島堂と呼んでいます。

森厳寺は、腰痛に悩んでいた開山(慶長12=1607年)の清誉上人が、出身地である加太の淡島明神に願を掛けたところ、霊夢によって淡島神から治療法を教えられたので、上人はそのお通りにやってみたら完治。弟子たちにも療法を教え、ここはまるで外科医院のように。上人は淡島神の威徳を感じて、この地に勧請(分霊)しました。それが淡島堂。森厳寺は浄土宗の寺院です。浄土宗は願人坊主をうまく宣伝に使いました。と同時に、森厳寺は北沢八幡の別当でもありました。明治時代以前には神仏習合が一般的で、寺と神社が混在合体していることがありました。北沢八幡と森厳寺とはいっしょだったのです。

噺中の「淡島さまの上の句」云々は「われ頼む 人の悩みの なごめずば 世に淡島の 神といはれじ」という歌。淡島願人が唱えて回った祭文の一部でした。人の夢に入り込めないのなら神さまじゃないと言っています。淡島信仰と夢のかかわりは森厳寺の清誉上人の霊夢に発するものでした。それをうまく利用して、願人が淡島神の霊験を説いて回ったのでした。

淡島さまの信仰は各地にあります。淡島神社、淡嶋神社、粟島神社。みんな淡島信仰の神社です。全国に約1000社あるそうです。花街、遊郭、妾宅の多かった地区に祀られていることが多いようです。たとえば、日本橋浜町。ここは、明治期には妾宅の街として名をとどろかします。艶福家の渋沢栄一もこの地に妾宅を構えて、68歳で子をなしました。すごい。この町内にも淡島さまがありました。今はありませんが、明治期には清正公寺(日蓮宗)の境内にしっかりあったといいます。

水と女性にかかわる信仰は、生命の根源を象徴する水からのイメージで、性と生殖をも結び付けます。淡島神は縁結びの神でもあるし、付会だそうですが、淡島神は住吉神の女房神とされてもいますから、男女の夢を結ぶ、男女が航海する(ともに人生を歩む)という意味合いも生まれていきます。

和歌山市加太の淡嶋神社からの勧請(分霊、霊のおすそ分け)で、全国に広まっています。淡嶋神社では小さな赤い紙の人形を女性のお守りとして配布しています。

おおざっぱには、淡島信仰は、元禄期から始まります。淡島願人といわれる願人坊主の一種が多く出回りました。願人坊主ですから、祭文を唱えて歩き、全国に広まりました。

街でぼろをまとってのそのそ歩いている人などを見て、昔の人(昭和ヒトケタ生まれ以前の人)は「淡島さまのようだ」などと言いました。決してからかったり馬鹿にしたりするのではないようなのです。こんな襤褸のなりは仮の姿であることを先刻承知しているかのようなまなざしで。『古事記』で、イザナギとイザナミが最初に子をなすのはアワシマ。次がヒルゴ。ともに失敗と感じて蘆船に乗せて海に流します。淡島神の発祥はここからで、不完全で醜いイメージがついて回ります。「淡」にはよくない意味あいも含まれているんだそうです。なおかつ、女性を守る神さまですから、淡島信仰では針供養などもさかんに行われまして、布に何本も針を刺すと布がぼろぼろになります。これを人々は「淡島さまのようだ」と感じたようなのです。ここから、蘆船に乗ってきて、体が小さくてことばが通じない少彦名命、でも、ものすごい潜在能力をもっていた少彦名命のイメージを重ねたのでしょう。見た目では侮れない存在として。

【RIZAP COOK】

やんまきゅうじ【やんま久次】演目

円朝門の三遊一朝から彦六へ。空白期を経て雲助が復活。

別題:大べらぼう

【あらすじ】

番町御廐谷の旗本の二男、青木久次郎。

兄貴がいるので家督は継げず、他家に養子にも行けずに無為の日々を送るうち、やけになって道楽に身を持ち崩し、家を飛び出して本所辺の博打場でトグロを巻いている。

背中一面に大やんまのトンボの刺青を彫ったので、人呼んで「やんま久次」。

今日も博打で負けてすってんてんになり、悪友の入れ知恵で女物の着物、尻をはしょって手拭いで頬かぶりというひどいなりで、番町の屋敷へ金をせびりにやってくる。

例によって用人の伴内に悪態をつき、凶状持ちになったので旅に出なくてはならないから、旅費をよこせと無理難題。

どっかと座敷に座り込み、酒を持ってこいとどなり散らす。

ちょうど来合わせたのが、兄弟に幼いころ剣術を教えた、浜町で道場を営む大竹大助という先生。

久次がお錠口でどなっているのを聞きつけ、家名に傷がつくから、今日という今日は、あ奴に切腹させるよう、兄の久之進に勧める。

老母が久次をかわいがっているので、自分の手に掛けることもできず、今まではつい金をやって追い払っていた兄貴も、もうこれまでと決心し、有無を言わせず弟の首をつかんで引きずり、一間にほうり込むと、そこには鬼のような顔の先生。

「これ久次郎。きさまのようなやくざ者を生けおいては、当家の名折れになる。きさまも武士の子、ここにおいて潔く腹を切れ」

さすがの久次も青くなり、泣いて詫びるが大助は許さない。

そこへ母親が現れ、
「今度だけは」
と命乞いをしたので、やっと
「老母の手前、今回はさし許すが、二度とゆすりに来るようなことがあれば、必ずその首打ち落とす」
と、大助に釘をさされて放免された。

いっしょに帰る道すがら。

大助は、
「実はさっきのはきさまを改心させるための芝居だった」
と明かし、三両手渡して、
「これで身支度を整え、どこになりと侍奉公して、必ず老母を安心させるように」と、さとす。

久次も泣いて、きっと真人間になると誓ったので、大助は安心して別れていく。

その後ろ姿に
「おめっちの道楽といやあ、金魚の子をふやかしたり、朝顔にどぶ泥をひっかけたり、三道楽煩悩のどれ一つ、てめえは楽しんだことはあるめえ。俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ」

【しりたい】

江戸の創作落語  【RIZAP COOK】

伝・初代古今亭志ん生(1809-56)作。元の題は「大べらぼう」。三遊亭円朝の人情噺「緑林門松竹」の原話となったものに、芝居噺「下谷五人盗賊」があります。その中の「またかのお関」のくだりに、やんま久次郎が端役で登場しています。五人という人数合わせのための作為で、筋との関連はなく、のちに削除されています。

円朝門下の三遊一朝老人から、八代目林家正蔵(彦六)に直伝され、戦後は正蔵の一手専売でした。彦六は昭和57年(1982)に逝きました。その後は手掛ける者がありませんでしたが、平成6年(1995)に五街道雲助が復活させました。

彦六懐古談  【RIZAP COOK】

この噺、前述のようにもとは長編人情噺でした。この続きがあったと思われますが、不明です。

「このはなしを一朝おじいさんがやって、円朝師匠にほめられたそうです。『私はおまえみたいに、ゆすりはうまくやれないよ』といって……(中略)最後は『おおべらぼうめー』といって、昔は寄席の花道へ引っ込んだものです。『湯屋番』でこの手を遣った人がいましたね。『おまえさんみたいな人はいらないから出ていっとくれ』『そうかい、おれもこんなおもしろくねえところにはいたかねえ』といって、花道を引き上げるんです」(八代目林家正蔵談)

「やんま」は遊び人のしるし  【RIZAP COOK】

やんまは「馬大頭」と書きます。やんまには隠語で「女郎」の意味があり、女郎遊びを「やんまい」「んやまい」などとも称しました。久次郎のやんまの刺青は、それを踏まえた、自嘲の意味合いもあったのでしょう。

怪人「べらぼう」  【RIZAP COOK】

江戸っ子のタンカで連発される「ベラボーメ」。ベラボーは、「ばか野郎」と「無粋者(野暮天)」の両方を兼ねた言葉です。万治から寛文年間(1658-72)にかけて、江戸や大坂で、全身真っ黒けの怪人が見世物に出され、大評判になりましたが、それを「へらぼう」「べらぼう」と呼んだことが始まりとか。言い逃れ、インチキのことを「へらを遣う」と呼んだので、その意味も含んでいるのでしょう。

三道楽煩悩  【RIZAP COOK】

飲む、打つ、買うの三道楽。「さんどら」の「どら」は「のら」(怠け者)からの転訛です。「ドラ息子」の語源でもあります。

お錠口  【RIZAP COOK】

武家屋敷の表と奥を仕切る出入り口です。杉戸を立て、門限以後は錠を下ろすのが慣わしでした。

御厩谷  【RIZAP COOK】

東京都千代田区三番町、大妻学院前バス停付近の坂下をいいました。近接の靖国神社北側一帯が幕府の騎射馬場御用地であったことにちなみます。付近はすべて旗本屋敷でしたが、「青木」という家名はむろん架空です。

【語の読みと注】
御廐谷 おんまやだに
三道楽煩悩 さんどらぼんのう
緑林門松竹 みどりのはやしかどのまつたけ

【RIZAP COOK】

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やまざきや【山崎屋】演目

道楽にはまったご大家の若旦那。これはもう、円生と彦六で有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若旦那、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若旦那は
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若旦那、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若旦那、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若旦那に、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若旦那に」
と佐兵衛が言うと旦那、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われて旦那、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若旦那、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

旦那、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若旦那が忘れたからと金を届ける。

番頭が、旦那自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされた旦那、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

旦那は徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でしたが、意外にやり手は多く、三代目三遊亭金馬、その孫弟子の桂文朝、談志も持ちネタにしていました。円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。噺中の「道中」は花魁道中のこと。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若旦那が掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

正蔵(彦六)のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、魚市が開かれました。落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのでしょう。

【語の読みと注】
鼈甲 べっこう
花魁 おいらん
掛け取り かけとり:借金の取り立て
新造 しんぞ:見習い遊女
禿 かむろ
二番目物 にばんめもの:芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場

【RIZAP COOK】

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やまおかかくべえ【山岡角兵衛】演目

角兵衛獅子は軽業芸が商売。忠臣蔵物の講談を基にしたもの。

【あらすじ】

浅野内匠頭の松の廊下刃傷事件の後。

赤穂の浪士たちはあらゆる辛苦に耐え、ある者は町人に化けて吉良邸のようすを探り、仇討ちの機会を狙っていたが、その一人の山岡角兵衛がついに志を得ないまま病死した。

その妻のお縫は、女ながらも気丈な者。

なんとか夫に代わって主君の仇を報じたいと、吉良上野介のところにお妾奉公に入り、間者となった。

あと三日で上野介が米沢に出発することを突き止め、すわ一大事とこのことを大石内蔵助に知らせた。

そこで、元禄十五年十二月十四日。

茶会で吉良が在宅しているこの日を最後の機会と、いよいよ四十七士は討ち入りをかける。

その夜。

今井流の達人、美濃部五左衛門は、長屋で寝ていたが、気配に気づき、ひそかに主君上野介を救出しようと、女に化けて修羅場と化した屋敷に入り込んだ。

武林唯七に見とがめられて合言葉を
「一六」
と掛けられ、これはきっと賽の目だと勘づいたものの、あわてていて
「四五一、三二六」
と返事をしてしまう。

見破られて、かくなる上は破れかぶれと、獅子奮迅に暴れまわるうち、お縫が薙刀を持って駆けつけ、五左衛門に斬りかかる。

しかし、そこは女、逆にお縫は斬り下ろされて縁側からまっさかさま。

あわや、と見えたその時、お縫はくるりと一回転して庭にすっくと立ち、横に払った薙刀で五左衛門の足を払って、見事に仕留める。

これを見た大石が
「えらい。よく落ちながらひっくり返った。今宵の働きはお縫が一番」
とほめたが、それもそのはず。

お縫は、角兵衛の女房。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

忠臣蔵講談の翻案  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、忠臣蔵ものの講談を基にしたものです。古い速記では、明治32年(1899)10月、「志士の打入り」と題した二代目三遊亭小円朝(当時初代金馬)のものが残っています。

その没後、息子の三代目小円朝、二代目円歌が高座に掛けましたが、二人の没後、後継者はありません。音源は円歌のものがCD化されています。

三代目小円朝によると、二代目のは、本来は松の廊下のくだりから始まり、討ち入りまでの描写が綿密で長かったとか。

明治32年の速記を見ると、脇筋で、親孝行の将軍綱吉が、実母の桂昌院に従一位の位階をもらって喜ぶくだりが長く、その後、刃傷から討ち入りまでの説明はあっさり流しています。

オチの「角兵衛」は角兵衛獅子で、「ひっくり返った」は角兵衛のアクロバットから。

「角兵衛獅子」と言ったところで、現代ではもう説明なしにはとうていわからなくなりました。角兵衛獅子については、「角兵衛の婚礼」をご参照ください。

武林唯七  【RIZAP COOK】

武林唯七の祖父は中国杭州(旧名は武林)から来た医家の孟二寛。医術と拳法で毛利家や浅野家に仕えました。唯七も拳法に長けていました。

美濃部五左衛門は抜刀居合術の達人ですから、拳法にも長けています。唯七、五左衛門、お縫の取り合わせは、剣の戦いばかりか、拳の戦いをも意味していたのでしょう。そこでお縫が軽業を使うわけですから、その視覚的効果は抜群です。

主人同様、不運な吉良邸  【RIZAP COOK】

吉良上野介屋敷は「北本所一、二の橋通り」「本所一ッ目」「本所無縁寺うしろ」「本所台所町横町」などと記録にあります。俗にいう「本所松坂町二丁目」は、吉良邸が没収され、町家になってからの名称なので誤りです。現在の墨田区両国三丁目、両国小学校の道をはさんで北向かいになります。路地の奥にわずかに上野稲荷として痕跡を留めていましたが、「上野」の二字が嫌われ、同音の「河濯」と碑に刻まれました。

明治5年(1772)に松坂町二丁目が拡張されたとき、その五番地に編入されましたが、長い間買い手がつかなかったといいます。討ち入り事件当時は東西三十間、南北二十間、総建坪五百坪、敷地二千坪。上野介が本所に屋敷替えを命ぜられ、丸の内呉服橋内から、この新開地に移ってきたのは討ち入り三か月前の元禄15年9月2日(1702年10月22日)。

事件当日の12月14日は、新暦では1703年1月30日(火曜日)で、普通言われている1702年は誤りです。旧暦と新暦のずれを考慮に入れないためのミスなのでしょう。当日の即死者十六人中に、むろん美濃部某の名はありません。

【語の読みと注】
浅野内匠頭 あさのたくみのかみ
刃傷 にんじょう
間者 かんじゃ:スパイ
武林唯七:たけばやしただしち
薙刀 なぎなた
角兵衛獅子 かくべえじし

【RIZAP COOK】

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やなぎのばば【柳の馬場】演目

原話は遠く中国にあるそうです。彦六が得意とした噺。

【あらすじ】

按摩の杢市は、ある旗本の殿さまのごひいきに預かり、足げく揉み療治に通っている。

ある日、いつものように療治が終わってからのよもやま話で、目の不自由な人間をいじめる輩への怒りを訴えたところから口が滑って、自分はいささか武道の心得がある、と、ホラを吹いてしまった。

殿さまが感心したのでつい図に乗って、剣術は一刀流免許皆伝、柔術は起倒流免許皆伝、槍術は宝蔵院流免許皆伝、薙刀は静流免許皆伝と、もうこうなると止まらない。

弓術は日置流免許皆伝、そこまで並べたところで殿さまが
「剣や槍はわかるが、的も見えないそちが弓の名手とはちと腑に落ちんぞ」
と文句を言うと、
「そこは心眼で」
とごまかす。

ますます口が滑らかになり、
「ご当家は三河以来の馬術のお家柄なのに、りっぱな馬場がありながら馬がいないというのは惜しい。自分は馬術の免許皆伝もあるので、もし馬がいればどんな荒馬でも乗りこなしてみせるのに残念で」
などと見栄を切ったのが運の尽き。

殿さまが膝を乗り出して
「実はこの間、友人の中根が『当家に馬がないのはご先祖にも申し訳あるまい。拙者が見込んだ馬を連れてきてやろう』と言っていたが、その馬が荒馬で、達人の中根自身も振り落とされてしまった。きさまが免許皆伝であるのは幸い。一鞍責めてくれ」

杢市は青くなったが、もう遅い。

もとより馬のウの字も知らないから、しかたなく、今のは全部うそで、講釈場で「免許皆伝」と流儀の名前だけを仕入れたことを白状。

殿さまは
「身供に術を盗まれるのを心配してさようなことを申すのであろう」
と、全然取りあってくれない。

若侍たちにむりやり抱えられ、鞍の上に乗せられてしまった。

馬場に向かって尻に鞭をピシッと当てられたからたまらず、暴れ馬はいきり立って杢市を振り落とそうとする。

半泣きになりながら必死にぶるさがって、馬場を半周ほどしたところに柳の大木。

この枝にあわてて飛びつくと、馬は杢市を残してどどっと走っていってしまう。

「杢市、しっかとつかまって手を離すでない。その下は谷底じゃ。落ちれば助からん」
「ひえッ、助けてください」
「助けてやろう。明日の昼間までには足場が組めるだろう」

冗談じゃない。もう腕が抜けそうだ。

「長年のよしみ、妻子老母は当屋敷で養ってつかわす。心置きなく、いさぎよく死ね」

耐えきれなくなり
「南無阿弥陀仏」
と手を離すと、地面とかかとがたった三寸。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

円喬伝説、彦六好みのシブーイ噺  【RIZAP COOK】

中国明代の笑話集『応諧録』中の小咄が原型とみられますが、日本での原話は不詳です。

明治期は四代目橘家円喬の名演がいまだに語り草です。幼時に見た六代目円生の思い出では、円喬は座って演じているのに、杢市が枝にぶら下がった足先に、本当に千尋の谷底が黒々と広がって見えたとか。円生は、生涯この噺を手掛けませんでした。

初代三遊亭円左も得意としました。円左は三遊亭円朝門下の俊秀でしたが、目が細かったのであだ名が「按摩」「鍼医」。この噺を何度も演じているのに、本格的に売り物にしようというとき、わざわざ兄弟子の三遊一朝に改めて断りに行ったそうです。明治人の義理がたさでしょう。

その一朝から、八代目林家正蔵(彦六)と二代目三遊亭円歌が直伝で継承しました。両者とも音源を残していますが、特に正蔵のものは、地味ながら滋味あふれる語り口で名品でした。オチは、この後「口は災いのもと」と「ダメを押す」(正蔵)こともありました。主人公の杢市は「富市」で演じることもあります。

彦六の芸談から  【RIZAP COOK】

杢市がぶら下がったとき、下から手を突き上げるようにすると、腕がのび切ったように見えます。(中略)このはなしは先代の(注:八代目)文治さんもやりました。文治さんのは、杢市がしゃべりまくるので、旗本がうるさがってだまっちゃうんです。すると杢市が「殿さま、殿さま、かわやへお立ちになったんですか」「杢市」「ああ、いた」というところが、よかったですね。

彦六にはほかに、主人公の按摩が終始一人称で語る形式の人情噺「あんま」(村上元三・作)がありました。

按摩と座頭  【RIZAP COOK】

しばしば混同されますが、前者は職業名、後者は位階です。視覚障害者の身分差、位階については「松田加賀」をご参照ください。按摩は揉み療治、鍼灸などを業とし、座頭の位がもらえて初めて営業を許されました。按摩には目の不自由な人だけでなく、目が見える者も多く、その場合は座頭の資格ではなく、頭を丸めて医者と名乗っていました。

黙阿弥の世話狂言「加賀鳶」の悪按摩・熊鷹道玄とおさすりお兼はともに視覚に問題はありません。お兼はゆすりに来て、「按摩按摩と番頭さん、あんまり安くお言いでない。マクラ付きの揉み療治、二朱より安い按摩はしませんよ」と居直る通り、ついでにいかがわしいサービスも行っていたわけで、女性にはこういう手合いもいたようです。同狂言では、本郷菊坂にあった目の不自由な人たちの長屋の場があり、当時の風俗の貴重なルポともなっています。

一般に、全身マッサージ(上下=かみしも)の場合は、幕末で四十八文が相場とされ、お兼の言う二朱は四百八十文相当ですから、十倍! いくらなんでも無茶苦茶な「揉み代」です。

【語の読みと注】
按摩 あんま
杢市 もくいち
槍術 そうじゅつ
薙刀 なぎなた
日置流 へきりゅう
鞍 くら
鞭 むち

【RIZAP COOK】

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やすべえぎつね【安兵衛狐】演目

明治期、三代目小さんが上方からもってきた噺です。

別題:墓見 天神山(上方)

【あらすじ】

六軒長屋があり、四軒と二軒に分かれている。

四軒の方は互いに隣同士で仲がよく、二軒の方に住んでいる「偏屈の源兵衛」と「ぐずの安兵衛」、通称グズ安も仲がいい。

ところが、二つのグループは犬猿の仲。

ある日、四軒の方の連中が、亀戸に萩を見に繰り出そうと相談する。

同じ長屋だし、グズ安と源兵衛にも一応声をかけようと誘いにいくが、グズ安は留守で、源兵衛の家へ。

この男、独り者であだ名の通りのへそ曲がり。

人が黒と言えば白。

案の定、
「萩なんぞ見たってつまらねえ。オレはこれから墓見に行く」
と、にべもない。

四人はあきれて行ってしまう。

源兵衛、本当は墓などおもしろくないが、口に出した以上しかたがないと、瓢の酒をぶら下げて、谷中天王寺の墓地までやってきた。

どうせ墓で一杯やるなら女の墓がいいと「安孟養空信女」と戒名が書かれた塔婆の前で、チビリチビリ。

急に塔婆が倒れ、後ろに回ってみると穴があいている。塔婆で突っ付くと、コツンと音がするので、見ると骨。

気の毒になって、何かの縁と、酒をかけて回向してやった。

その晩。

真夜中に
「ごめんくださいまし」
と女の声。

はておかしい、と出てみると、じつにいい女。

実は昼間のコツで、生前酒好きだったので、昼間あなたがお酒をかけてくれて浮かばれたからご恩返しにきました、と言う。

あとはなりゆきで、源兵衛、能天気にもこの世ならぬ者を女房にした。

この幽霊女房、まめに働くが、夜明けとともにスーッと消えてしまう。

さて、グズ安。

ゆうべ源兵衛の家の前を通ったら、女の酌でご機嫌に一杯やっていたので、翌朝、嫌みを言いに行くと、実はこれこれだという。

ノロケを聞かされ、自分も女房を見つけようと、同じように酒を持って天王寺へ。

なかなか手頃な墓が見当たらず、奥まで行くと、猟師が罠で狐をとったところ。

グズ安、皮をむいちまうと聞いて、かわいそうだと無理に頼み、一円出して狐を逃がしてやる。

その帰り、若い娘が声をかけるので、グズ安はびっくり。

聞いてみると、昔なじみのお里という女の忘れ形見で、おコンと名乗る。

実はこれがさっきの狐の化身。

身寄りがないというので、家に連れていき、女房にした。

騒ぎだしたのが、長屋の四人。

最近、偏屈とグズが揃って女房をもらったのはいいが、片方は昼間見たことがない。もう片方は、口がこうとんがって、言葉のしまいに必ず「コン」。

これはどう見ても魔性の者だと、安兵衛が留守の間に家に押しかける。

「まあ、安兵衛は用足しに出かけたんですよ。コン」

やっぱり変。

思い切って
「あなたはいい女だけど、ひょっとして何かの身では」
と、言いも果てず、狐女房、グルグル回って、引き窓から飛んでいってしまった。

こうなると、亭主の安兵衛も狐じゃねえかと疑わしい。

そこで、近所のグズ安の伯父さんに尋ねるが、耳が遠くていっこうにラチがあかない。

思い切り大きな声で
「あのね、安兵衛さんは来ませんかね」
「なに、安兵衛? 安兵衛はコン」
「あ、伯父さんも狐だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

志ん生、極めつけの爆笑編  【RIZAP COOK】

上方落語の切りネタ(大ネタ)「天神山」を、おそらく三代目柳家小さんが、東京に移植したものでしょう。

前半は「野ざらし」にそっくりで、実際、上方の「天神山」は、「骨つり」(野ざらし)に、「葛の葉子別れ」「保名」の芝居噺を即席に付けたものという説(宇井無愁)がありますが、桂米朝はこれを否定しています。

戦後は、五代目古今亭志ん生の極めつけ。志ん生がどこからこの噺を仕込んだのかは不明ですが、三代目小さんの「墓見」と題した明治40年の速記では最後に登場するのが安兵衛の父親となっているほかはほぼ志ん生のものと変わらない演出です。

考えてみると、前半と後半がまったく別の話で、全体としてまとまりを欠く噺ですが、さすがに志ん生。

速いテンポとくすぐりにつぐくすぐりの連続で、いささかもダレさせないみごとな手練です。  

現役では、滝川鯉昇ほかが手掛けていますが、まあ、志ん生を超える気遣いはないでしょう。志ん生が「葛の葉」の題で演じたことがあるという説がありますが、いつごろのことなのかわかりません。

「天神山」はオチが三か所  【RIZAP COOK】

本家・大阪の「天神山」は、桂米朝、門下の枝雀、笑福亭仁鶴を始め、今も多くの演者が手掛けます。

舞台は大坂・天王寺門前の安居の天神と、その向かいの一心寺の墓地。主要キャストの「ヘンチキの源兵衛」の偏屈ぶりは、東京よりはるかに徹底的。頭は半分伸ばして半分坊主、しびんに酒を入れ、おまるに飯を入れるえげつなさ。上方は、そのヘンチキがシャレコウベを持ち帰り、夜中に現れた幽霊と夫婦になる段取りです。

オチは、演者がどの部分で切るかによって三通りに分かれます。

まず、東京同様、長屋の者が押しかけて正体がバレ、狐女房が「もうコンコン」と姿を消す部分。

ついで、こちらは東京にはない部分ですが、女房に去られた保平(東京の安兵衛)が、障子に書き残された「恋しくば尋ねきてみよ南なる天神山の森の中まで」の歌を見て、狂乱して後を追うくだりで切ります。

ここは、浄瑠璃の「蘆屋道満大内鑑」・「保名狂乱」のパロディ仕立ての芝居噺になります。昔は、このくだりで「保名」の振りで立ち踊りする噺家も多かったとか。

オチは地口で、「蘆屋道満」「葛の葉」をもじり、「貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶ほったらかし」。

最後は「安兵衛狐」と同じ、長屋の者と保平の伯父のトンチンカンな会話で「あ、叔父さんも狐や」でオチ。

江戸名所、亀戸の萩  【RIZAP COOK】

亀戸天神は江東区亀戸三丁目にあります。春は梅、藤、秋は萩の名所としてにぎわいました。

狐釣り  【RIZAP COOK】

罠を仕掛けて狐を捕獲するのを狐釣りともいいました。皮をはいで胴服、つまり狐皮の下着用に売るわけですが、西洋だとスポーツなのに対し、こちらはれっきとしたお仕事です。

「狐ェ捕ってどうすんです?」「皮ァむくんだよォ」「狐が痛がるでしょ」という志ん生のやり取りが笑わせました。

志ん生のくすぐりから  【RIZAP COOK】

(長屋の某がグズ安の伯父さんに)
某「あこら、ほんとに聞こえねえんだ。やいじじい、ひとつなぐってやろうか」
伯「ふふーん、ありがとう」
某「あり……おめえみてえなものはね、あの、もうね、くたばっちゃえ」
伯「そう言ってくれんのはおまいばかりだ」
某「あ、しょうがないよこりゃ……自分で死ね」
伯「あは、それもいいや」

【語の読みと注】
塔婆 とうば
回向 えこう
嬶 かか

【RIZAP COOK】

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