権助提灯 ごんすけぢょうちん 演目

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短い噺。マクラに振る噺家もいますね。素っ気ないほどにおかしみが。

【あらすじ】

さるご大家(たいけ)のだんな。

おめかけさんを囲っているが、おかみさんがいたってものわかりがよく、またおめかけさんの方も本妻を立てるので、家内は円満、だんなは本宅と妾宅に交互にお泊まりという、大変にうらやましい境涯。

ある夜、だんなが本宅に帰ると、おかみさんが、
「今夜は火のもとが心配だから、あちらに行っておやりなさい」
と言うので、だんなはその言葉に甘えて、飯炊きの権助に提灯を付けさせて供をさせ、妾宅に引き返した。

するとおめかけさんの方でも、本妻に義理を立てて、
「おかみさんに済まないから、今夜はお帰りください」
と言う。

またも本宅へ引き返すと、おかみさんが承知せず、こうして何度も本宅と妾宅を行ったり来たりするうち、提灯の火が消えた。

「おい、権助、提灯に火を入れな」
「それには及ばねえ。もう夜が明けちまっただ」

底本:三代目柳家小さん、三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

権助

もともと、個人名というより、地方出身ながら商家の使用人、特に飯炊き専門に雇われた男の総称。職業名を示す普通名詞です。

権七とも呼ばれましたが、落語では「権助芝居」「権助魚」「かつぎや」「王子の幇間」ほか、多数の噺に狂言回しとして登場、笑いをふりまきます。

時に「清蔵」「久蔵」「百兵衛」など、実名で呼ばれることもありますが、みな同じで、「ゴンスケの○兵衛」というのが正確なところです。

上方では久三といいますが、落語にはほとんど登場せず、代わりに「おもよ」という、大和言葉らしい田舎言葉を使う女中が「貝野村」その他に登場します。こちらはよくある名前というだけで、個人名です。

どんな呼び方をされても落語における「権助」の条件は、田舎言葉を使うことです。

落語世界の田舎言葉

権助のお国なまりは、六代目三遊亭円生によると下総(しもうさ、千葉県北部)なまりに近いということですが、やはり落語独特の架空のものです。

このなまりは、権助のほかに「お見立て」や「五人回し」に登場する田舎大尽(だいじん=大金持ち)の杢兵衛(もくべえ)も使います。

江戸を支えた権助の群れ

19世紀初頭の文化・文政年間以後、江戸では越後を始め、地方から出てきた人々が急増。

わけあり水呑の次・三男が大多数でしたが、庄屋や本百姓の子息で、江戸遊学で来ていた人々もけっこういたようです。

逃散(ちょうさん)などにおける幕府の禁令がゆるんだこともありますが、これも、そんなことを言っていられない時代の流れで、江戸っ子がいくら「椋鳥(むくどり)」などと小ばかにしても、実際にはこうした労働力なしには、すでに江戸の経済は成り立ちませんでした。これは当然、大坂も同じです。

もっとも、寛政元年(1789)刊の『廻し枕』に、「今宵の旦那も明朝には忽(たちま)ち権七さんになる」とありますから、飯炊き男や下男のすべてが田舎者ではなかったはずです。

職業としてのおめかけさん

享保年間(1716-36)から、江戸でも武士、町人、僧侶など、階層を問わず富裕な者はおめかけさんを持つことが一般化しました。

安政大地震(1855)以後、下級武士や町家の娘が、生活の助けにおめかけさんとして身を売るケースが増え、今で言う契約愛人がドライな「商売」として成り立つようになったのです。

複数のだんなと、別個に契約を結ぶおめかけさんも現れ、共同妾宅に二、三人で住むこともありました。

安囲いと半囲い

「安囲い」という、おめかけさんの商売がありました。一月または二月契約で、月2-5両の手当の者は、だんなが通ってくる日数まで契約で決まっていたとか。

「半囲い」と呼ばれる形態は、商家の番頭や僧侶がパトロンとなって、女に船宿、茶屋などの店を出させるものです。作家の永井荷風もこの「半囲い」をやっていました。

小便組

明和年間(1764-72)から文化年間(1804-18)にかけ、「小便組」と呼ばれる詐欺が横行しました。これは、美女をおめかけさん業に斡旋し、初夜にその女性が寝小便して、わざと追い出されるよう仕組みます。支度金(契約金)をだまし取る手口でした。

権助魚 ごんすけざかな 演目

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愛人通いのだんな、口止めに権助を買収したはずが。権助は制度の批判者です。

【あらすじ】

だんながこのところ外に愛人を作っているらしいと嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬で黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助を呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路あたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんの所へ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれるだんななので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、作戦を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若。

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くならだんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

「駒止で田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺から植半でひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものは鰹の片身に伊勢海老、目刺しにかまぼこ。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川にカマボコが泳いでるんだね」
「ハア、道理で網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように頭の弱い者として見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

「権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、昭和40年代に藤子不二雄氏がヒットさせたギャグSF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(前名・初代三遊亭金馬で、五代目古今亭志ん生の最初の師匠)や二代目古今亭今輔が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残していますが、前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王(ごおう=護符)」の別題で演じられたこともありましたが、この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれましたが、明治21年ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び、評判になったと山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』にあります。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪らつな算段なのですが……。

いや、けっこう笑えます。お後はどうなりますやら。

転宅 てんたく 演目

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泥棒より数枚上手な女の話。この泥棒のお人よしぶりには口あんぐり。

【あらすじ】

おめかけさんが「権妻(ごんさい)」と呼ばれていた明治のころ。

船板塀に見越しの松の妾宅に、だんなが五十円届けて帰った後、これを聞きつけて忍び込んだのが間抜けな泥棒。

お膳の残りものをムシャムシャ食っているところをおめかけさんのお梅に見つかり、
「さあ、ダンツクが置いてった五十円、蛇が見込んだ雨蛙。四の五の言わずに出せばよし、いやだ応だと抜かしゃがると、伊達には差さねえこの大だんびら、うぬがどてっ腹へズブリズブリとお見舞い申すぞ」
と居直ったが、このおめかけさん、いっこうに動じないばかりか、
「あたしも実は元はご同業で、とうにだんなには愛想が尽きているから、あたしみたいな女でよかったら、連れて逃げておくれ」
と言いだしたから、泥棒は仰天。

「五十円はおろか、この家にはあたしの蓄えも入れて千円あるから、この金を持って駆け落ちし、世界一周した後、おまえさんに芸者屋でもやってもらう」
と色仕掛けで迫る。

泥棒、でれでれになって、とうとう、めおとの約束を。

「そう決まったら今夜は泊まっていく」
と泥棒がずうずうしく言い出すと、
「あら、今夜はいけないよ。二階にはだんなの友達でえらく強いのが、酔っぱらって寝てるんだから」

明日の朝に忍んでいく約束をしたが、
「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」
と稼いだなけなしの二十円を巻き上げられる始末。

で、その翌朝。

うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんや、もぬけのカラ。

あわてて隣の煙草屋のおやじに聞くと、
「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑いつづけなんです」

女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。方々で遊んできた人だから、人間がすれている。間抜け野郎の泥棒を口先でコロッとだまし、あの後、だんなをすぐに呼びにやったところ、あとでなにか不都合があるといけないというので、泥棒から巻き上げた金は警察に届け、明け方のうちに急に転宅(引っ越し)した、とか。

「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられ(だまされ)た」

【しりたい】

たちのぼる明治の匂い

「権妻」「転宅」ともに明治初期から使われた漢語。まぎれもなく明治の新時代につくられた噺です。

明治の爆笑王、鼻の円遊こと初代三遊亭円遊が得意にしました。

円遊は、文明開化の新風俗を当て込み、鉄道馬車を登場させたり、オチも「あそこにシャボンが出ています」と変えるなどとしていました。

同時代で音曲の弾き語りや声色などで人気のあった二代目古今亭今輔は、女が「目印にタライを置いておく」と言い、オチは「転宅(=洗濯)なさいましたか。道理でタライが出ています」としています。

やはり、ひとつの時代の風俗に密着しているだけに、いつまでも生き残るには難しい噺かもしれません。

権妻

本妻に対しての愛人(妾、おめかけさん)をいいます。
「権」を「けん」ではなく「ごん」と読む場合は、「権大納言」「権禰宜」と言うように「次なる方」という敬称で、愛人に対してわざとしゃれて使ったものです。

船板塀に見越しの松

「黒板塀に……」ともいいます。当時の典型的な妾宅の象徴として、三世瀬川如皐作の代表的な歌舞伎世話狂言『源氏店』(お富与三郎)にも使われました。

船板塀は、廃船となった船底板をはめた塀で、ふつう「忍び返し」という、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。

見越しの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。

「ドウスル!」女義太夫

「娘義太夫」「タレギダ」ともいいます。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。

今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどは、木下杢太郎(1885-1945)の詩「街頭初夏」(明治43年)にも。

濃いお納戸の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田(しった)もすずしげに

この噺のおめかけさんのように旅回りの女芸人となると、泥水もさんざんのみ、売春まがいのこともするような、かなり凄絶な境遇だったのでしょう。そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。