なかざわどうに【中沢道二】演目 

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全編これ心学しんがく。今はすたれたべたべたのご教訓も落語で聴いてみると味わいあります。

あらすじ

江戸名物に「火事とけんかとちゅうぱら」とあるぐらい、江戸の職人は短気で、縁日などで足を踏んだ踏まれたで始終けんかばかりしている。

これを伝え聞き、少しは気を和らげてやりたいと、中沢道二という心学の先生が、はるばると京から下向してきた。

中橋なかばし寒菊かんぎくという貸席かしせきを道場に借り、「木戸銭、中銭、一切なし」というビラをまいたので、物見高い江戸者のこと、なかには、京都の田楽屋でんがくやが開店祝いにタダで食わせると勘違いする輩もいて、我も我もと押しかける。

下足番の爺さんに
「おまえさんとこの田楽はうまいかい?」
と早くも舌なめずり。

「手前どもの先生は、田楽じゃござんせん。心学でござんす」
「へえ、おい、田楽は売り切れちまって、しぎ焼きになっちまったとよ」

なんでも食えれば、後はそば屋で口直ししようと、二階へ通る。

当然、なにも食わせない。

高座へ上がってきた、頭がピカピカ光って十徳を着込んだ道二先生、ていねいにおじぎをして講義にとりかかる。

金平糖こんぺいとうの壺へ手を突っ込んで抜けなくなり、高価な壺だがしかたがないと割ってみたら、金平糖を手にいっぱい握っていたという話や、手と足が喧嘩して足がぶたれ、
「覚えてろよ。今度湯ィ入ったら、てめえに洗わせる」
という、落とし噺などで雰囲気を和らげ、本来の儒教の道徳を説こうとするが、おもしろくもなんともないので、みんな腹ぺこのまま、ぶうぶう言って帰ってしまう。

一人残された道二先生、
「どうしてこうも江戸っ子は気が短いのか」
と嘆いていると、客席にたった一人もじもじしながら残っている職人がいた。

先生喜んで
「あなたさま、年がお若いのに恐れ入りました。未熟なる私の心学が、おわかりですか」
「てやんでえ、しびれが切れて立てねえんだい」

【RIZAP COOK】

しりたい

中沢道二  【RIZAP COOK】

なかざわどうに。享保10年(1725)-享和3年(1803)、江戸中期、後期に活躍した人です。京都、西陣織元の家の出身。40歳頃に手島堵庵てじまとあんに師事し、石門心学せきもんしんがくを修め、安永8年(1779)、江戸にくだって日本橋塩町に「参前舎さんぜんしゃ」という心学道場を開き、その普及に努めました。手島は石門心学の祖、石田梅岩いしだばいがんの弟子です。ということは、中沢は石田梅岩の孫弟子。

のちに老中松平定信まつだいらさだのぶの後援を受け、全国に道場を建設、わかりやすい表現で天地の自然の理を説きました。心学については「天災」のその項をご参照ください。

実話を基に創作  【RIZAP COOK】

この噺は中沢道二の逸話を基に作ったとみられます。本来は短いマクラ噺で、ここから「二十四孝」や「天災」につなげることが多くなっています。一席にして演じたのは八代目林家正蔵(彦六)くらいでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:むかむか。いらいら
鴫焼き しぎやき:ナスのみそ田楽の別名

【RIZAP COOK】

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あおな【青菜】演目

【RIZAP COOK】

 

柳家の噺。屋敷でだんなから聞きかじった「奥や」を植木職人が家で鸚鵡返し。

別題:弁慶

【RIZAP COOK】

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方の柳影(やなぎかげ)という「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸が出まして、名を九郎判官(くろうほうがん)」
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」、「それならよしとけ=義経」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返し……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ(長官):伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ(次官):副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう(判官):祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん(主典):史、録、属、疏、志、典、目

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い義経はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことで、兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつで、「立ち往生」の意味を利かせています。

今では、『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現在では、説明なしには通じなくなっているかもしれません。

上方では人におごられることを「弁慶」というので、(これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています)このシャレにはその意味も加わっているでしょう。

弁慶は、『吾妻鏡』には「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょう。負け組ですから。それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。ならば、芸談好き、五代目柳家小さんの芸談を聴いてみましょう。弟子の小里んが語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました。

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

【RIZAP COOK】

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がまのあぶら【蝦蟇の油】演目

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ホント、昔はよく縁日で見かけたもんです、こういうの。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇の油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬が入った容器を手に、刀を差して、白袴に鉢巻、タスキ掛けという出て立ち。

「さあさ、お立会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目山越し笠のうち、物の文色(あいろ)と道理がわからぬ……」

さまざまに言い立てて、なつめという容器の蓋をパッと取り、「手前持ち出したるはこれにあるヒキセンソウはがまの油。……手前持ちいだしたるは四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六のがま。このがまの棲める所は、これより、はァるゥか北にあたる筑波山の麓にて、オンバコという露草を食らう。……このがまの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にがまを追い込む。がまはおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間とろーり、とろりと煮詰めたるのがこのがまの油だ。赤いはシンシャヤシイの実、テレメンテエカにマンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔イボ痔、はしり痔ヨコネガンガサ、その他腫れ物一切に効く。いつもはひと貝で百文だが、今日はおひろめのため、小貝を添え、二貝で百文だ」と、怪しげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬の効能を実証するため、刀で白紙を三十六枚に切ってみせた。

「……かほどに斬れる業物でも、差裏差表へがまの油を塗る時は、白紙一枚容易に斬れぬ。さ、このとおり、たたいて……斬れない。引いても斬れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。触ったばかりでこれくらい斬れる。だがお立会い、こんな傷は何の造作もない。がまの油をこうして付ければ、痛みが去って血がピタリと止まる」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くしたがまの油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上。

ロレツが回らないので支離滅裂。それでもどうにか紙を切るところまではきたが、「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ?」

「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通りがまの油をひと付け付ければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二付け付ければ、今度はピタリと……かくなる上はもうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立会い」
「どうした」
「お立会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路に連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は先代(三代目)金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。金馬は、がまの油の口上をそのまま「高田の馬場」の中でも使っています。

昭和期では三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。大阪では、「東の旅」の一部として桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版ではガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「がまの油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚せい剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレビン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

『昭和なつかし博物学』(周達生、平凡社新書)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんな。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ディジー・ガレスピー

米ジャズの伝道師、ディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はキューバをイメージして彼が作ったものですが、「マンテカ」はこの噺の「マンテエカ」と同語源です。ポルトガル語、またはスペイン語でラード、豚の脂、転じて膨れた死体(脂肪の塊)をさします。隠語では大麻を呼ぶときもあります。かつてスペイン人が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来だそうです。この作品は1947年につくられましたが、フリューゲルホルンを頬を膨らませて奏でるガレスピーは曲の合間に「もうジョージアには戻らない」と言っているそうで(私には聞こえませんが)、当時の米国内での黒人差別に仮託しているふしがうかがえます。と同時に、キューバのコンガ奏者(コンゲーロ)チャノ・ポソが編曲。みごとなアフロキューバンジャズのスタンダードにブラッシュアップしています。その後まもなく、ポソは射殺されました。マンテカになってしまいました。こんないわくつきの、楽しくもない、むしろ呪われたような曲ながら、不思議な進行と変化にとんだメロディーラインが脳波を心地よく刺激してくれ、まさに大麻のような習慣性を帯びてるものです。何度も何度も聴きたくなるのです。昭和48年(1973)から昭和60年(1985)まで大阪の朝日放送で放映されていた、お見合いバラエティー番組「プロポーズ大作戦」のメインテーマはキダタローの作曲でしたが、出だしがマンテカとぴったり。パクリですね。これも習慣性を帯びる番組になっていました。総じて、蝦蟇の油の効用と一脈通じていたのかもしれません。

落語好きが「manteca」をたのしむならば、やはり大西順子トリオでしょう

「ガマの油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「がまの油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

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【蝦蟇の油 三遊亭円生】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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いちがんこく【一眼国】演目

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みんなが同じならヘンでもナンでもないんですねえ。

【あらすじ】

諸国をまわり歩く六部が、香具師(やし)の親方のところに一晩の宿を借りた。

香具師はなにか変わった人間でもいれば、いや化物ならなおさらいいが、とにかく捕まえて見世物にし、金もうけの種にしようと八方手を尽くして探している。

翌朝、六部に
「おまえさんは諸国をずいぶんと歩いている間に、ヘソで唄をうたったとか、足がなくって駆けだしたとか、そういう変わった代物を見ているだろう。ひとつ話を聞かせてくれないか」
と持ちかけたが、六部は
「そんな話はとんとない」
という。

一宿の恩をたてにさらにしつこく聞くと、ようやく、
「まァ、つまらないことですが……」
と、六部が思い出した話を披露する。

こちらに来る途中、道に迷って東へ東へと歩いていくと、森に入り、日も暮れかかったので、野宿でもしなければならないかと、ため息をつきながら木の根方に腰を掛け、一服やっていた。

すると、
「おじさん、おじさん」
と呼ぶ声がしたので、振り返って見ると、五つか六つの女の子。

よく眺めると目が一つしかない。

仰天して夢中で駆け出し、ようやく里に出た、というもの。

香具師は喜んで、六部に金を包んで出発させ、さっそくその日のうちに旅支度をして家を出た。

東へ東へと歩いたが、なにも出ない。

そのうちに日も暮れてきて、これは六部のやつに一杯食ったかと悔しがっているうち、四、五丁も歩いたところで森に出た。

話の通り木の根方でプカリプカリと煙草をふかしていると、後ろの方で
「おじさん、おじさん」
という声。

「しめた、こいつだ」
と思って振り返ると、案の定、目が一つ。

これは見世物にすればもうかると欲心に駆られて、ものも言わずに飛びかかってひっ捕まえると、子供を小脇に抱え、森の外に向かって一目散。

子供はキャアッと悲鳴を上げる。

その声を聞きつけたのか、ホラ貝の音が響きわたったかと思うと、鋤鍬担いだ百姓たちが大勢追いかけてくる。

みんな一つ目。

必死で逃げたが、ついに木の根っこにつまずいて
「この人さらいめ」

寄ってたかってふん縛られ、突き出された先がお奉行所。

奉行が
「こりゃ、人さらい。面を上げい」

ひょいと見上げると、お奉行も役人もみんな一つ目。

奉行の方もびっくり。

「やや、こやつ……おのおの方ごらんなされ。こやつ目が二つある。調べは後回しじゃ。見世物に出せ」

【しりたい】

彦六の古風な味

柳家小さん系の噺で、生ッ粋の江戸落語です。

四代目小さんが得意にしていましたが、戦後この噺を磨き上げた彦六の八代目林家正蔵は、円朝門下の最後の生き残り、一朝爺さんこと三遊一朝(昭和5年没)からの直伝で、小さんの型も取り入れたと述べています。

ほかにこの噺をよく演じた五代目志ん生のような面白さはありませんが、正蔵独特の、古風なしっとりとした語りを聞かせました。

志ん生の「一眼国」

六部が珍しい話などないと言うと、それまで、泊まっていけ、飯を食えと愛想を振りまいていたのが一変し、「ああ、お茶なんぞォいれなくったっていいやァもう、うん。ああご飯いいんだよ、もう、帰ってもらやァいいんだからァ」と豹変して脅しにかかるところが、この人独自で笑わせます。

そのほか、行く先が「江戸から東へ三日行った森」(一眼国は小田原あたりか?)だったり、奉行が「なぜ、人の子供を黙ってさらう?」と言ったり(いちいち許可を得てさらうかどわかしはありません)、とにかくハチャメチャなのが、いかにも志ん生です。

見世物

地味な噺なので、正蔵も志ん生も、笑いをとるため、マクラに江戸時代の両国広小路や浅草奥山のインチキ見世物をおもしろおかしく説明します。

これについては「がまの油」や「花見の仇討ち」でも詳しく記しましたが、正蔵は「鬼娘」「目が三つ歯が二本の化物(ゲタ)」「八間の大燈籠(ただ通って表に出されるだけ)」といった向両国・回向院境内の見世物、俗に「モギドリの小屋」について説明していて、今では貴重な証言です。

「モギドリ」は、銭を客からもぎ取ってしまえば、あとはいっさいかまわないということからきています。

香具師

やし。見世物師ですが、「鬼娘」「手なし男」など、身体障害者を「親の因果が子に報い……」の口上で見世物にする悪質な香具師を「因果者師」と呼びました。今ではむりです。

この噺の主人公がそれで、八代目正蔵では「男の子と女の子が背中合わせで生まれたとか、アヒルの首が逆にくっついているなんてえのはねえかい?」と六部に尋ねていますし、志ん生は「足がなくって駆け出すとか、へそでなんか食べるとかね、なんか変わってるものがいいんだがねェ、ないかねェ? 天井裏ィ足の裏くっつけて歩く人とか……」と香具師に言わせています。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『因果小僧』では、主人公の盗賊・六之助の老父・野晒小兵衛が落ちぶれた因果者師の成れの果てという設定です。

六部

ろくぶ。巡礼者で、法華経六十六部を写経し、日本全国六十六か所の霊場に各一部ずつを納めたことにその名が由来します。したがって、正しくは「六十六部」と記します。

全国の国分寺や一の宮を巡礼する行者です。

のちには鉦をたたき、鈴を振って各家を物ごいして歩く者の名称にもなりました。落語には「花見の仇討ち」「山崎屋」「長者番付」などにも登場します。

古郷へ 廻る六部は 気の弱り (俳風柳多留・初)

一眼

ギリシア神話のキュクロプスをはじめ、世界各国に伝説があります。

山の神信仰が元といわれ、山神の原型である天目一箇命(あまのまのひとつのみこと)が隻眼隻足とされていたことから、こうした山にすむ妖怪が考えられたとみられます。

うめみのやかん【梅見の薬缶】演目

【RIZAP COOK】

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「勘違い」がテーマのはなしですね。

別題:癪の合薬 薬缶なめ 茶瓶ねずり(上方)

【あらすじ】

町内の源さんと八つぁん。

髪結床でバカ話をしているうちに、ちょうど向島の花屋敷の臥龍梅が見ごろなので、梅見としゃれこもうと話がまとまり、さっそく舟に乗り込む。

ちょうど相客に、十八くらいのきれいなお嬢さん。

どこか大店の娘らしく、侍女を連れている。

源さん、たちまちでれでれで、よせばいいのにずうずうしく話しかける。

この男、お世辞にもモテるタイプでなく、おまけに四十を過ぎて、もう頭がピカピカ。

それでも口八丁、なんだかだとお世辞を並べて気を引こうとするが、女の方がなにやら、ようすがおかしい。

いやにジロジロと、源さんの顔を見つめてばかり。

そのうち、舟が向こう岸に着き、娘の一行は三囲神社の土手を下りていく。二人がいぶかしがりながら言問橋のたもとまで来ると、後ろから先ほどの侍女が追いかけてきて、源さんに、
「お嬢さんが、いま三囲の茶店で待っているので、ぜひおいで願いたい。お願いしたいことがあります」
と頼んだから、さあ源さんは有頂天。

うまくすると、あのお嬢さんに見初められて入婿にでも、とワクワクし、ぶつぶつ文句をいう八つぁんを五円でなだめて、いそいそと二人で茶屋まで出かけていく。

ところが、案の定というか当然というか、侍女が言い出したことには、お嬢さんがこのごろ癪の持病が出て困っているが、癪には銅をなめるのが一番。

だが、このへんにはなく、難渋していたところ、あなたの頭は見たところ薬缶そっくりで、なめれば銅同様の効き目がありそうだから、ぜひにというわけ。

さあ喜んだのが八。

「どうせそんなこったろうと思った、てめえのツラはどう見ても情夫 まぶ)てえツラじゃねえ」
と、調子に乗って
「その男の頭はたいへんうまいと評判ですから、たっぷりおなめなさい」

源さん、悔しがってももう遅い。

不承不承、頭を差し出すと、お嬢さん、遠慮なくベロベロとナメナメ。

そのうち急に発作が起きたと見え、薬缶頭をガブリ。
「あら、お気の毒さま。どこもお傷がついてはおりませんか」
「なーに、傷はつきましたが、漏ってはいません」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

スキンヘッドは口に苦し?

「金の味」、別題「擬宝珠」では、銅をなめたくなる金属嗜好症がテーマなのですが、この噺は逆に、ある種の病気には銅をなめるのがよい、という俗信に基づくものです。

原話と思われる小咄は三種あります。

最も古いのは万治2年(1659)刊の『百物語』巻下ノ四にある無題のもので、これはある男が意気がって山椒を大量になめ、むせかえって苦し紛れに、山椒でむせたときには銅をなめればよいと、通りがかりの侍の薬缶頭にいきなりかぶりつきます。

無礼者ッと、バッサリ斬られそうになりますが、往来の町衆が栄耀食いでなく、薬食いなのでご勘弁を」と取りなしてくれ、なんとか収まるというお笑い。

宝永7年(1710)刊『軽口都男』中の「薬罐」では、ハゲあたまの大金持ちの屋敷に夜、三人組の盗賊が侵入。おやじが物音で目覚め、賊が外へ盗品を運び出すのを出窓からそっとうかがっていると、月光でアタマが光り輝き、ヤカンと間違えた盗賊は、これもついでに頂こうと、むんずとつかんだので、仰天したおやじが大声でわめきます。

そうなればブッスリやる方が早いのに、賊の方もあわてて、「山椒にむせたので、通りがかりにだんなの頭を見て、やかんと勘違いしてつい、なめようと……」と、わけのわからない言い訳をするもの。

続いて明和9年(1772)刊の『鹿の子餅』中の「盗人」は、これを短くしたもので、盗人が盗品を運び出す穴を土蔵に空け、目覚めた主人が不審に思って、ピカピカ頭を穴から出したのを外にいる一味が勘違い。「あ、ヤカンから先か」というオチです。これは落語「薬缶泥」の直接の原話でもあります。

こうした小咄を、怪談ばなしの始祖でもある初代林屋(家)正蔵(1781-1842)が一席噺にまとめたというのが野村無明庵(戦前の落語研究家)が『落語通談』で述べている説ですが、根拠に乏しく、あまりあてにはなりません。

本家上方の「茶瓶ねずり」

上方落語「茶瓶ねずり」が東京に移されたものが現行の型です。「ねずる」は、しゃぶる、なめるの意。上方のやり方では、女中を連れて野歩きしていた奥方が、へびを見て持病の癪 しゃく)を起こします。

癪は茶瓶(=薬缶)をなめれば治るというので、女中が、通りかかった薬缶頭の武士に決死の覚悟で頼んで、代用に頭をなめさせてもらうというものです。オチは供の下男と侍の会話で、東京と同じです。

あらすじは、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊の速記を参照しましたが、これは今ではちょっと珍しい演出。東京では現在は「薬缶なめ」の演題が普通で、その場合、円遊の前半のお色気をカットした上、癪を起こすのを大家のかみさんとし、あとはほぼ上方通りに演じます。

古いオチの型と演者

オチは、古くは、侍の下男が「あなたが謡をうたって歩くから、狐が化かしたんでしょう」と言うと侍が、「狐か。道理で野干 野狐の古称。やかんと掛けた)を好んだ」とオチていましたが、分かりにくいので円遊が変えたものでしょう。

東京では長く絶えていたのを柳家小三治が復活。ただ、それ以前に、戦後東京に定住し、上方落語を広く東京に紹介した桂小文治が「癪の合薬」の名で演じました。

臥龍梅

江東区亀戸三丁目にあった伊勢屋喜右衛門の別荘「清香庵」は、「梅屋敷」の異称で知らぬ者はなかったほどの梅の名所でした。

中でも、竜がとぐろを巻くように枝がうねっているところから「臥龍梅」と名づけられた白梅は、江戸一番と賞され、シーズンには見物人が絶えなかったとか。

この梅は、吉原の名妓、初代高尾太夫から喜右衛門の先祖が譲り受けたもので、その命名者は徳川光圀でした。水戸黄門で知られた人す。

夏目漱石の有名な「修善寺大患」とともに必ず語られる明治43年(1910)の大水害で惜しくも枯れましたが、幕末に編まれた年代記『武江年表』の寛政4年(1792)の項に、「七月二十一日、亀戸梅屋敷の梅旧根消失するよし、『江戸砂子書入』といふ草書にあり」とあるので、それ以前に少なくとも一度は枯れ、接ぎ木したようです。

【語の読みと注】
臥龍梅 がりょうばい
大店 おおだな
三囲神社 みめぐりじんじゃ
言問橋 ことといばし
癪 しゃく:胃けいれん
擬宝珠 ぎぼし
栄耀食い えようぐい:美食
薬食い くすりぐい:治療食

【RIZAP COOK】

はつてんじん【初天神】演目

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悪ガキの上手をいく、ピンボケな、すれたおやじ、熊五郎の噺です。

あらすじ

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

しりたい

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では柳家小三治、三遊亭円弥、上方では桂米朝でしたが、六代目松鶴から継承した笑福亭仁鶴も得意としていました。オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。みなさん、物故者ばっかりで残念です。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

ふじまいり【富士詣り】演目

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富士信仰を扱っています。今ではあまり聴かない噺です。

別題:六根清浄

【あらすじ】

長屋の連中。

日ごろの煩悩を清めようというわけで、大家を先達にして、ぞろぞろと富士登山に出かけた。

五合目まで来ると、全員くたくた。

そのうちにあたりが暗くなってきた。

「これは、一行の中に五戒を犯した者がいるから、山の神さまのお怒りに触れたんだ。一人一人懺悔をしなくちゃいけねえ」
ということになって、一同、天狗に股裂きにされるのがこわくて、次々と今までの悪事を白状する。

出るわ出るわ。

留さんは湯へ行った時、自分の下駄が一番汚いので、上等なのをかっさらい、ついでに番台から釣り銭をありったけ懐に入れて逃げた、偸盗戒。

八五郎は、屋台で天ぷらを二十一食ったが、親父に「いくつ食った」と聞くと、親父は間違えて「十五だ」と答えたので、差し引き天ぷら六つ偸盗戒。

先達さんがひょいと見ると、貞坊が青くなり震えている。

聞いてみると「粋ごと戒でェ」。要は邪淫戒だとか。それも人のかみさんと。おもしろくなってきた。

貞坊の告白が始まる。

去年の六月ごろから最近までのことだ。

女湯の前を通ったら湯上がりの年増にぞっこん。跡をつけたら二丁目の新道の路地へ。その裏でまごまごしていたら、女が手桶さげてやってきた。

「井戸端の青苔に足をすべらすといけやせんから」
と、代わりに水をくんであげ、その後はお釜を焚きつけ、米を洗って、まるで権助。

そんなこんなで、お茶を飲んだり堅餠をかじったりの仲に。

このおかみさんを口説こうとしたがなかなか「うん」と言わない。

結局、今日まで「うん」と言わない。

先達「なんだ、つまらねえ。いったいどこの女だい」
貞坊「いいのかい」
先達「いいよ、言っちまいな」
貞坊「先達さん、おまえさんのだ」
先達「とんでもねえッ」

元さんも青ざめている。

大便をがまんしているという。

「半紙を五、六枚敷いてその上に用を足して、四隅を持って谷へほうるんだ」
と、先達が勧めるので、念仏を唱えながら用を足し
「もったいない、もったいない」
と、この半紙を袂に入れてしまった。

先達「自分の大便を袂に入れる奴があるか。おめえ、山に酔ったな」
元「へえ、ここが五合目でございッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

なつかしの柳朝節  【RIZAP COOK】

原話は不詳。明治34年(1901)の初代三遊亭円遊の速記が残っています。

昭和初期には七代目三笑亭可楽、戦後では三代目三遊亭小円朝、三笑亭夢楽と、どちらかといば地味な、腕っこきの噺家が好んで演じました。

印象深いのは春風亭柳朝で、独特のぶっきらぼうな口調が、間男(近年では熊五郎)の、神をも恐れぬふてぶてしさを表現して逸品でした。

オチは、現行では「先達つぁん、おまえのだ」で切ることが多く、こちらの方がシャープでしょう。

前半の懺悔の内容は、演者によってまちまちです。

富士講  【RIZAP COOK】

意外な話ですが、享保17年(1732)という年は大飢饉で、翌年には、江戸で初めての打ちこわしが起こったほど。このさなか、江戸の油商、伊藤伊兵衛は、富士登山45回の実績にかんがみて、無為無策の武家政治を批判しました。自らを「食行身禄」と名乗り、世直し実現を祈って富士山七合目で35日間の断食を敢行、入滅しました。目的完遂です。人々はこの偉業をたたえて余光にあずかろうと、19世紀前後になると、富士講がさかんになっていきました。富士講は、先達、講元、世話人の三役で運営されます。

富士は古くから修験道の聖地で、一般人の入山は固く禁じられていました。室町後期から民間でも富士信仰が盛んになり、男子に限り、一定の解禁期間のみ登山を許されるようになりました。富士講の開祖といわれるのは角行という行者です。室町後期から江戸初期の人。

江戸時代には「富士講」と呼ばれる信者の講中が組織され、山開きの旧暦六月一日から七月二十六日まで約二か月間、頂上の富士浅間神社参拝の名目で登山が許可されました。

富士講は、地域などを中心に組織され、有力な富士講は富士山自体を近所に勧請して富士塚を築きました。

あらかじめ三日か七日の精進潔斎を済ませることが前提です。隅田川などで水垢離をするのです。白衣に、首に大数珠をかけて金剛杖を突いて、先達にくっついて「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら登っていきます。

あくまで信仰が目的。命がけの神聖な行事なので、大山参りのような物見遊山半分とはわけが違い、五戒(妄語戒、殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、飲酒戒)を保つのは当然。

したがって、この噺のようなお茶らけた連中は論外で、必ずや神罰がくだったことでしょう。

江戸の富士信仰  【RIZAP COOK】

富士登山は大変な行事で、それこそ一生に何度もないというほど。江戸からは往復十日の日程がかかり、費用もばかになりません。山伏でもない一般市民が、近代的登山装備もなく、富士山頂上に登ろうというのですから、それこそ生還すら保障されません。

そこで、江戸にいながらお手軽に、危険もなく金もヒマも要らず、富士登山の疑似体験をしたいという熱望に応え、こしらえたのがミニ富士山。

富士塚、お富士さんと呼ばれたこの小ピラミッド、高いものでも標高わずか十メートル程度ながら、どうして、形は本格的な「ミニチュア」でした。

頂上には当然、富士浅間神社を勧請。はるばる本物の富士から溶岩を運んで築き、一合目から始まって、つづら折りの「登山道」までこしらえる凝りようでした。

富士開きの旧暦六月一日に同時に解禁。富士講の連中が金欠で本物に登れないとき、富士塚に「代参」で済ませることも多く、登山のしきたりは「女人禁制」を含め、本物とほとんど同じタテマエ。

富士塚  【RIZAP COOK】

最初のニセ富士=富士塚は、安永8年(1779)に築かれた高田富士。現在の早稲田大学構内あたりにあったといいます。水稲荷内です。

次は、千駄ヶ谷村(渋谷区千駄ヶ谷)の鎮守、鳩森八幡の境内に造られた富士塚で、寛政元年(1789)です。都の有形民俗文化財に指定されています。

国指定重要民俗文化財として、以下の三基が現存しています。

坂本富士 文政11年(1829)、台東区下谷二丁目
高松富士 文久2年(1862)、豊島区高松二丁目
江古田富士 天保10年(1839)、練馬区小竹町

次の二基は広重の「江戸名所百景」にも描かれています。

目黒の元富士 文化9年(1812)
新富士 文政2年(1819)

駒込富士権現分社、浅草富士権現分社、深川八幡、神田明神、茅場町薬師、高田水稲荷などの境内に築かれたものが、いまも親しまれています。

高田富士  【RIZAP COOK】

高田稲荷社は、戸塚村の鎮守でした。元禄15年(1702)に境内榎の中から水が湧き出し、これを霊泉として、眼病が治るという評判でした。それで、水稲荷ともいいます。

ここにある高田富士が最古の富士塚とされています。富士の五合目以上を模した高台の全体を富士山の溶岩で覆い、富士山らしく見せ、奥宮、登山道標石、胎内、経ヶ岳題目碑、石尊碑などを設けるという、設置様式がありました。高田富士は高さ五メートルながら、延べ数千人の講者が無償協力(ボランティア)で築造したものです。

朱楽管江が『大抵御覧』で紹介したことで、有名になり、さまざまな理由で実際の富士まいりができない人々が疑似体験するようになりました。これを口火に、江戸府内に多くの富士塚がつくられていきます。

朱楽菅江  【RIZAP COOK】

元文3年(1837)生まれ。狂歌師、戯作者。幕臣。山崎景基(のちに景貫)。市谷二十騎町に住みました。内山椿軒に和歌を学びました。同門には太田南畝がいます。ともに、安永年間あたりから狂歌を始めました。妻女は狂歌作者の節松嫁々です。寛政10年(1798)没。富士塚を取り上げた『大抵御覧』は安永8年(1879)の刊行です。もちろん、「太平御覧」ももじった命名ですね。これは北宋の類書(百科事典)で、983年に成りました。「御覧」と略されます。

そもそもの富士信仰

富士山への信仰は、縄文中期から見いだせます。静岡県富士宮市上条の千居遺跡には、富士山を遥拝したまつりの場所があったといわれています。

日本の神社で、石や岩がご神体というところは、もとは縄文時代からの信仰を引き継ぐ古い形態の信仰やまつりをうかかがれるものといわれています。富士信仰はその典型です。

富士神は浅間神と呼ばれます。富士信仰は浅間神社が取り仕切っています。富士山頂に奥宮を持つ富士山本宮浅間神社は、全国の浅間神社の総本宮で、富士信仰の中心です。

富士宮市にある「人穴ひとあな」は、浅間大菩薩御在所であるとされ、その後、人穴信仰もさかんになっていきました。

浅間の「あさま」は火山の古語といわれます。古代では、富士山も浅間山も火を噴く山として同じものとみていたようです。

食行身禄  【RIZAP COOK】

寛文11年1月17日(1671年2月26日)-享保18年7月13日(1733年8月22日)。本名は伊藤伊兵衛。食行身禄じきぎょうみろくは富士講修行者としての名前です。伊藤食行身禄、伊藤食行などとも呼ばれます。

伊勢国一志郡美杉村川上(三重県津市)出身です。生家には身禄の産湯が残り、子孫によって石碑が建てられているそうです。

元禄元年(1688)、江戸に入って、角行の四世(五世とも)弟子である富士行者月行に弟子入りし、油商を営みながら修行を積みました。「身禄」とは、弥勒菩薩から取ったといわれます。弥勒菩薩は、釈迦が入滅して56億7千万年たってから出現して世直しをするという神です。

もう一方の富士講の指導者、村上光清が私財をなげうって、荒廃していた北口本宮冨士浅間神社を復興させて「大名光清」と呼ばれたのに対して、食行身禄は貧しい庶民に教線を広げ「乞食身禄」と呼ばれました。対照的ですね。

享保18年(1733)6月10日、駒込の自宅を出て富士山七合五勺目(現在は吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定しました。63歳でした。

ここまでの逸話は『食行身禄御由緒伝記』に記されています。板橋の宿で、身禄との別れを惜しむ妻子や弟子との、涙なしでは読めない逸話、縁切り榎の由来の逸話も、この本に載っています。江戸時代には感動ものの一書として読まれました。

身禄が死んだ後、身禄の娘や門人が枝講(派生した講集団)を次々と増やし、「江戸八百八講」と呼ばれるまでになりました。

身禄は開祖角行といっしょに富士講の信者の崇敬を集めました。身禄は救世主、教祖的な存在として、現世に不満を抱く人々から熱狂的に迎え入れられ、新宗教団体としての「富士講」が誕生することになりました。

身禄の教えを受け継いだ各派富士講の一つに、身禄の三女・伊藤一行(お花)の系統を受け継いだ、武蔵国足立郡鳩ヶ谷(埼玉県川口市)の小谷三志の「不二道」があります。教派神道の「実行教」となって今日に至っています。

教派神道十三派中、「扶桑教」「丸山教」には身禄の教えが受け継がれています。

墓所は東京都文京区の海蔵寺。区の指定文化財に指定されています。

身禄は呪術による加持祈祷を否定しました。正直と慈悲をもって勤労に励むことを信仰の原点としたのです。米を菩薩と称し、最も大切にすべきものと説きました。陰陽思想から来る男女の和合、身分差別の現実を認めたうえでの武士、百姓、町人の協調と和合、「世のおふりかわり」という世直しにつながる考え方など、江戸時代を生き抜くための独自の倫理観を説いています。

身禄の教えは、その後の富士講の流行を生みました。庶民が徒党を組むことを嫌った江戸幕府から再三の禁止令を受けましたが、その教えは江戸の人々に静かに広がっていきました。

六根清浄  【RIZAP COOK】

ろっこんしょうじょう。聖なる場所を汚さないよう心身を清浄にして見えないものに接する、という意味が込められています。「六根」とは、仏教で説く、認識作用を起こす六つの器官をさします。眼、耳、鼻、舌、身、意。これを「げん、にー、びー、ぜつ、しん、い」と一気に繰り返し唱えます。富士信仰のような山岳信仰では、山の精霊に告げることばとされています。

富士登山では、「懺悔懺悔、六根清浄、お山は晴天」と唱えます。「懺悔」は「さんげ」と読み、気合の入った掛け声のようなもの。山の霊地で過去の罪障を懺悔する意味であり、実際にそのような行為もあったそうです。自分の罪障をことばに発しなければ、富士山に棲息するという、富士太郎(陀羅尼坊)や小御嶽正真坊といった天狗に身体を八つ裂きにされないよう、「懺悔懺悔、六根罪障、大峰八大おしめにはったい、金剛童子、大山大正不動明王、石尊大権現せきそんだいごんげん、大天狗、小天狗」と唱えます。懺悔の内容は、たいていは、間男したとか、借金踏み倒したとかのようですが。

【語の読みと注】
先達 せんだつ:引率者
懺悔 さんげ
勧請 かんじょう:神仏の分霊を請じ迎えまつること。 
食行身禄 じきぎょうみろく
人穴 ひとあな

【RIZAP COOK】

ねずみあな【鼠穴】演目

金にまつわる壮大かつシリアスな人間ドラマ、と思いきや……。ふざけんな!

【あらすじ】

酒と女に身を持ち崩した百姓の竹次郎。

おやじに譲られた田地田畑もみんな人手に渡った。

しかたなく、江戸へ出て商売で成功している兄のところへ尋ね、奉公させてくれと頼むが、兄はそれより自分で商売してみろと励まし、元手を貸してくれる。

竹次郎は喜び、帰り道で包みを開くと、たったの三文。

馬鹿にしやがってと頭に血が昇ったが、ふと気が変わり、地べたを掘っても三文は出てこないと思い直して、これで藁のさんだらぼっちを買い集め、ほどいて小銭をくくる「さし」をこしらえ、売りさばいた金で空俵を買って草鞋わらじを作る、という具合に一心不乱に働く。

その甲斐あって二年半で十両ため、女房も貰って女の子もでき、ついに十年後には浅草蛤町はまぐりちょうに蔵が三戸前みとまえある立派な店の主人におさまった。

ある風の強い日、番頭に火が出たら必ず蔵の目塗りをするように言いつけ、竹次郎が出かけたのはあの兄の店。

十年前に借りた三文と、別に「利息」として二両を返し、礼を述べると、兄は喜んで酒を出し、
「あの時におまえに五両、十両の金を貸すのはわけなかったが、そうすれば景気付けに酒をのんでしまいかねない。だからわざと三文貸し、それを一分にでもしてきたら、今度は五十両でも貸してやろうと思った」
と、本心を語る。

「さぞ恨んだだろうが勘弁しろ」
と詫びられたので、竹次郎も泣いて感謝する。

店のことが心配になり、帰ろうとすると兄は、
「積もる話をしたいから泊まっていけ。もしおめえの家が焼けたら、自分の身代を全部譲ってやる」
とまで言ってくれたので、竹次郎も言葉に甘えることにした。

深夜半鐘が鳴り、蛤町方向が火事という知らせ。

竹次郎がかけつけるとすでに遅く、蔵の鼠穴から火が入り、店は丸焼け。

わずかに持ち出したかみさんのへそくりを元手に、掛け小屋で商売してみたがうまく行かず、親子三人裏長屋住まいの身となった。

悪いことにはかみさんが心労で寝付き、どうにもならず、娘のお芳を連れて兄に五十両借りにいく。

ところが
「元の身代ならともかく、今のおめえに五十両なんてとんでもねえ」
と、けんもほろろ。

店が焼けたら身代を譲ると言ったとしても、
「それは酒の上の冗談だ」
と突っぱねられる。

「お芳、よく顔を見ておけ、これがおめえのたった一人のおじさんだ。人でねえ、鬼だ。おぼえていなせえッ」

親子でとぼとぼ帰る道すがら、七つのお芳が、
「あたしがお女郎じょろうさんになってお金をこしらえる」
とけなげに言ったので、泣く泣く娘を吉原のかむろに売り、二十両の金を得るが、その帰りに大切な金をすられてしまった。

絶望した竹次郎、首をくくろうと念仏を唱え、乗っていた石をぽんとけると、そのとたんに
「竹、おい、起きろ」

気がつくと兄の家。

酔いつぶれて夢を見ていたらしいとわかり、竹次郎、胸をなでおろす。

「ふんふん、えれえ夢を見やがったな。しかし竹、火事の夢は焼けほこるというから、来年、われの家はでかくなるぞ」
「ありがてえ、おらあ、あんまり鼠穴ァ気にしたで」
「ははは、夢は土蔵どぞう(=五臓ごぞう)の疲れだ」

【しりたい】

夢は五臓の疲れ   【RIZAP COOK】

五臓は心・肝・肺・腎・。陰陽五行説で、万物をすべて木・火・土・こん・水の五性に分類する思想の名残です。「夢は五臓のわずらい」ともいいます。

それにしても、普通、夢の「悪役」(しかも現実には恩人)に面と向かって、馬鹿正直に「あんたが人非人に変わる夢を見ました」なんぞとしゃべりませんわなあ。

なんぞ、含むところがあるのかと思われてもしかたありません。精神科医なら、どう診断するでしょう。

ハッピーエンドの方が、実は夢だった、とでもひっくり返せば、少しはマシな「作品」になるでしょうが。誰か改作しないですかね。

浅草蛤町   【RIZAP COOK】

東京都江東区門前仲町の一部です。三代将軍・家光公に蛤を献上したのが町名の起こりで、樺太探検で名高い間宮林蔵(1775–1844)の終焉の地でもあります。

三戸前   【RIZAP COOK】

「戸前」は、土蔵の入口の戸を立てる場所。そこから、蔵の数を数える数詞になりました。「三戸前みとまえ」は蔵を三つ持つこと。蔵の数は金持ちのバロメーターでした。

さんだらぼっち   【RIZAP COOK】

俵の上下に付いた、ワラで編んだ丸いふた。桟俵さんだわらともいいます。

演者   【RIZAP COOK】

大正から昭和にかけての名人・三代目三遊亭円馬えんばから立川ぜん、六代目三遊亭円生えんしょうと継承されました。円生は昭和28年に初演して以来、ほとんど一手専売にしていましたが、五代目円楽一門に伝わり、立川談志一門もけっこうやっています。十代目柳家小三治もよく演じましたが、田舎ことばは、この人がもっとも愛嬌があって達者でしたね。

あ、それと   【RIZAP COOK】

十代目小三治師匠といえば、昭和14年(1939)12月生まれで都立青山高校卒であることは有名ですが、東宝が、いや、日本が誇るアジアン・ビューティー、若林映子あきこさんも同年12月生まれで青山高校を出ています。お二人は同級生だったそうです。若い頃の小三治師匠に「郡山クン、おつかれさま」とかなんとか言って楽屋に差し入れを持って来てくれてたのでしょうか。勝手に想像しちゃいます。彼女は「不良少女モニカ」とか呼ばれてたんだとか。ベルイマンの、ですかい。

日本の美宝、若林映子さん。これぞ美女の最高峰

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ときそば【時そば】演目

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みんな知ってる「いまなんどき」。名人がやると、がぜん映えますね。

あらすじ

夜鷹そばとも呼ばれた、屋台の二八にはちそば屋。

冬の寒い夜、屋台に飛び込んできた男、
「おうッ、何ができる? 花巻きにしっぽく? しっぽくウ、しとつ、こしらいてくんねえ。寒いなァ」
「今夜はたいへんお寒うございます」
「どうでえ商売は? いけねえか? まあ、アキネエってえぐらいだから、飽きずにやんなきゃいけねえ」
と最初から調子がいい。

待って食う間中、
「看板が当たり矢で縁起がいい、あつらえが早い、割り箸を使っていて清潔だ、いい丼を使っている、鰹節をおごっていてダシがいい、そばは細くて腰があって、ちくわは厚く切ってあって……」
と、歯の浮くような世辞をとうとうと並べ立てる。

食い終わると
「実は脇でまずいそばを食っちゃった。おまえのを口直しにやったんだ。一杯で勘弁しねえ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手ェ出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「九ツで」
「とお、十一、十二……」

すーっと行ってしまった。

これを見ていたのがぼーッとした男。

「あんちきしょう、よくしゃべりやがったな。はなからしまいまで世辞ィ使ってやがら。てやんでえ。値段聞くことねえ。十六文と決まってるんだから。それにしても、変なところで時刻を聞きやがった、あれじゃあ間違えちまう」
と、何回も指を折って
「七つ、八つ、何どきだい、九ツで」
とやった挙げ句
「あ、少なく間違えやがった。何刻だい、九ツで、ここで一文かすりゃあがった。うーん、うめえことやったな」

自分もやってみたくなって、翌日早い時刻にそば屋をつかまえる。

「寒いねえ」
「へえ、今夜はだいぶ暖かで」
「ああ、そうだ。寒いのはゆんべだ。どうでえ商売は? おかげさまで? 逆らうね。的に矢が……当たってねえ。どうでもいいけど、そばが遅いねえ。まあ、オレは気が長えからいいや。おっ、感心に割り箸を……割ってあるね。いい丼だ……まんべんなく欠けてるよ。のこぎりに使えらあ。鰹節をおごって……ぶあっ、塩っからい。湯をうめてくれ。そばは……太いね。ウドンかい、これ。まあ、食いでがあっていいや。ずいぶんグチャグチャしてるね。こなれがよくっていいか。ちくわは厚くって……おめえんとこ、ちくわ使ってあるの? 使ってます? ありゃ、薄いね、これは。丼にひっついていてわからなかったよ。月が透けて見えらあ。オレ、もうよすよ。いくらだい?」
「十六文で」
「小銭は間違えるといけねえ。手を出しねえ。それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」
「四ツで」
「五つ六つ七つ八つ……」

しりたい

夜鷹そば

夜鷹は、本所吉田町や柳原土手やなぎはらどてを縄張りにした、「野天営業」の街娼ですが、その夜鷹がよく食べたことからこの名がつきました。

ですから、本来は夜鷹の営業区域に屋台を出す夜泣きそば屋だけに限った名称だったはずなのです。

夜泣きそば(夜鷹)は一杯16文と相場が決まっていて、異名の二八そばは二八の十六からきたとも、そば粉とつなぎの割合からとも諸説あります。

夜鷹そばの値上げ

種物たねものが充実して、夜鷹そばが盛んになったのは文化ぶんか年間(1804-18)から。

ちなみに、夜鷹の料金は一回24文で、それより8文安かったわけですが、幕末には20文に、さらに24文に値が上がりました。

明治になると、新興の「夜泣きうどん屋」に客を奪われ、すっかり衰退しました。

何どきだい?

冬の夜九ツ刻ここのつどきはおよその刻、午前0-2時。

江戸時代の時刻は明け六ツから、およそ2時間ごとに五四九八七、六五四九八七とくり返します。

後の間抜け男が現れたのは四ツですから、夜の10-0時。

あわてて2時間早く来すぎたばっかりに、都合8文もぼられたわけです。

ひょっとこそば

この噺を得意にしていた三代目桂三木助は、マクラに「ひょっとこそば」の小ばなしを振っています。

客が食べてみるとえらく熱いので、思わずフーフー吹く、「あァたのそのお顔が、ひょっとこでござんす」

これは六代目三遊亭円生もやりました。

蛇足

それまでそばの代金の数え方を「ひいふうみい」とする演者が多かったのを、時刻との整合から、「一つ、二つ」と改めたのは三代目三木助でした。

なるほど、こうでなければそば屋はごまかされません。今ではほとんど三木助通りです。

たしか、先代・春風亭柳橋だったと記憶しますが、「何どきだい?」「へい九ツで」のところで、お囃子のように、二人が間を置かず、「なんどきだーいここのつでー」とやっていたのが、たまらないおかしさでした。

これだと、そば屋も承知でいっしょに遊んでいるようで、本当は変なのですが。

もっとも古い原話

享保きょうほう11年(1726)、京都で刊行された笑話本『軽口初笑かるくちはつわらい』中の「他人は喰より」がもっとも古い形です。

それによると、主人公は中間ちゅうげん(武家屋敷の奉公人)、そば(そばきり)の値段は六文で、「四ツ、五ツ、六ツ……」と失敗します。

享保のころは、まだ物価が安かったということでしょう。

この噺は夜鷹そばの屋台が登場するため、生粋きっすいの江戸の噺と思われがちですが、実は上方落語の「時うどん」を、明治中期に三代目柳家小さんが東京に移したものです。

なんだかんだいっても、弟子の真打ち襲名披露で古今亭志ん朝が本牧亭でやった「時そば」、これはすこぶるの絶品でした。

【時そば 古今亭志ん朝】

どうかん【道灌】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ご隠居と八のやりとり。道灌の故事が題材の前座がよくやる鸚鵡返し型の滑稽噺。

別題:太田道灌(上方)

あらすじ

八五郎が隠居の家に遊びに行った。

地口(駄洒落)を言って遊んでいるうち、妙な張りまぜの屏風絵が目に止まる。

男が椎茸の親方みたいな帽子をかぶり、虎の皮の股引きをはいて突っ立っていて、側で女が何か黄色いものを持ってお辞儀している。

これは大昔の武将で歌詠みとしても知られた太田道灌が、狩の帰りに山中で村雨(にわか雨)に逢い、あばら家に雨具を借りにきた場面。

椎茸帽子ではなく騎射笠で、虎の皮の股引きに見えるのは行縢(むかばき)。

中から出てきた娘が黙って山吹の枝を差し出し引っ込んでしまった。

道灌、意味がわからずに戸惑っていると、家来が畏れながらと
「これは『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という古歌をなぞらえて、『実の』と『蓑』を掛け、雨具はないという断りでございましょう」
と教える。

道灌は
「ああ、余は歌道にくらい」
と嘆き、その後一心不乱に勉強して立派な歌人になった、という隠居の説明。

「カドウ」は「和歌の道」の意。

八五郎、わかったのかわからないのか、とにかくこの「ナナエヤエー」が気に入り、自分でもやってみたくてたまらない。

表に飛び出すと、折から大雨。

長屋に帰ると、いい具合に友達が飛び込んできた。

しめたとばかり
「傘を借りにきたんだろ」
「いや、傘は持ってる。提灯を貸してくんねえかな。これから本所の方に用足しに行くんだが、暗くなると困るんだ」

そんな用心のいい道灌はねえ。

傘を貸してくれって言やあ、提灯を貸してやると言われ、しかたなく「じゃしょうがねえ。傘を貸してくんねえ」
「へっ、来やがったな。てめえが道灌で、オレが女だ。こいつを読んでみな」
「なんだ、ななへやへ、花は咲けどもやまぶしの、みそひとだると、なべとかましき……こりゃ都々逸か?」
「てめえは歌道が暗えな」
「角が暗えから、提灯を借りにきた」

しりたい

前座の悲哀「道灌屋」

「道灌」は前座噺で、たいてい入門すると、このあたりから稽古することが多いようです。

前半は伸縮自在で、演者によってギャグその他、自由につくれるので、後に上がる先輩の都合で引き伸ばしたり、逆に短く切って下りたりしなければならない前座にとっては、まずマスターしておくべき噺なのでしょう。

八代目桂文楽が入門して、初めて教わったのもこの「道灌」。一年間、「道灌」しか教えてくれなかったそうです。

雪の降る寒い夜、牛込の藁店という席に前座で出たとき、お次がまったく来ず、つなぎに立て続けに三度、それしか知らない「道灌」をやらされ、泣きたい思いをしたという、同師の思い出話。

そのとき付いたあだ名が「道灌屋」。

たいして面白くもないエピソードですが、文楽師の人となりが想像できますね。

志ん生や金馬の「道灌」

あらすじの参考にしたのは五代目志ん生の速記ですが、どちらかというと後半の八五郎の「実演」に力を入れ、全体にあっさりと演じています。

かつての大看板でほかによく演じたのが、三代目金馬でした。金馬では、姉川の合戦のいくさ絵から「四天王」談義となり、ついで「太平記」の児島高徳を出し、大田道灌に移っていく段取りです。

太田道灌

太田道灌(1432-86)は、長禄元年(1457)、江戸城を築いたので有名です。

この人、上杉家の重臣なんですね。主人である上杉(扇谷)定正に相模国糟谷で、入浴中に暗殺されました。

歌人としては、文明6年(1474)、江戸城で催した「江戸歌合」で知られています。

七重八重……

『後拾遺集』所載の中務卿・兼明親王の歌です。

行縢

むかばき。狩の装束で、獣皮で作られ、腰に巻いて下半身を保護するためのものです。

【道灌 立川談志】

ももかわ【百川】演目

日本橋の料亭を舞台にした、ちぐはぐなおなはし。実話だそうです。

あらすじ

日本橋浮世小路うきよこうじにあった名代の料亭「百川ももかわ」。

葭町よしちょう桂庵けいあん千束屋ちづかやから、百兵衛ひゃくべえという新規の抱え人が送られてきた。

田舎者で実直そうなので、主人は気に入って、当分洗い方の手伝いを、と言っているときに二階の座敷から手が鳴る。

折悪しく髪結いが来て、女中はみな髪を解いてしまっているので座敷に出せない。

困っただんな、百兵衛に、
「来たばかりで悪いが、おまえが用を伺ってきてくれ」
と頼む。

二階では、祭りが近づいたというのに、隣町に返さなくてはいけない四神剣しじんけんを質入れして遊んでしまい、もめている最中。

そこへ突然、羽織を着た得体の知れない男が
「うひぇッ」
と奇声を発して上がってきたから一同びっくり。

百兵衛が
「わしゃ、このシジンケ(主人家)のカケエニン(抱え人)でごぜえます」
と言ったのを、早のみ込みの初五郎が「シジンケンの掛け合い人」と聞き違え、さては隣町からコワモテが催促に来たかと、大あわて。

ひたすら言い訳を並べ立て、
「決して、あぁたさまの顔はつぶさねえつもりですからどうぞご安心を」と平身低頭。

百兵衛の方は
「こうだなつまんねえ顔だけんどもはァ、つぶさねえように願えてえ」
と「お願いした」つもりが、初五郎の方は一本釘を刺されたと、ますます恐縮。

機嫌をそこねまいと、酒を勧める。

百兵衛が下戸だと断ると、それならと、慈姑くわいのきんとんを差し出し
「ここんところは一つ、ぐっとのみ込んでいただきてえんで」

ばか正直な百兵衛、客に逆らってはと、大きな慈姑のかたまりを脂汗あぶらあせ流して丸のみし、目を白黒させて下りていった。

みんな腹を抱えて笑うのを、初五郎、
「なまじな奴が来て聞いたふうなことを言えばけんかになるから、なにがしという名ある親分が、わざとドジごしらえで芝居をし、最後にこっちの立場を心得たのを見せるため、わざときんとんをのみ込んで笑わしたに違いない」
と一人感心。

一方、百兵衛。

のどをひりつかせていると、二階からまた手が鳴ったので、またなにかのまされるかと、いやいや引き返す。

二階の連中驚いたが、やっと百兵衛がただの抱え人とわかると、
「長谷川町三光新道さんこうじんみち常磐津歌女文字ときわづかめもじという三味線の師匠を呼んでこい」
と言いつける。

名前を忘れたら、三光新道でかの字のつく名高い人だと聞けばわかるから、百川に今朝けさから河岸かしの若い者が四、五人来ていると伝えろと言われ、出かけた百兵衛。

やっぱり名を忘れ、教えられた通りに尋ねると、鴨池かもじという医者の家に連れていかれた。

百兵衛が
「かし(魚河岸)の若い方が、けさ(今朝)がけに四、五人き(来)られやして」
と言ったので、鴨池先生、「袈裟がけに斬られた」と誤解。

「自分が着くまでに、焼酎と白布、鶏卵けいらん二十個を用意するように」
と、百兵衛に言いつける。

この伝言を聞いた若い衆、
「師匠は大酒のみだから、景気づけに焼酎をのみ、白布はさらしにして腹に巻き、卵をのんでいい声を聞かせようって寸法だ」
と、勝手に解釈しているところへ、鴨池先生があたふた駆け込んできた。
「間違えるに事欠いて、医者の先生を呼んできやがって。この抜け作」
「どのくれえ抜けてますか」
「てめえなんざ、みんな抜けてらい」
「そうかね。かめもじ、かもじ、……いやあ、たんとではねえ。たった一字だけだ」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

コマーシャルな落語  【RIZAP COOK】

実在の江戸懐石料理の名店、百川が宣伝のため、実際に店で起こった事件を落語化して流布させたとも、創作させたともいわれます。いずれにしても、こういう成り立ちの噺は、現在これだけでしょう。

ペリーも賞味  【RIZAP COOK】

「百川」は代々日本橋浮世小路に店を構え、「浮世小路」といえばまず、この店を連想するほどの超有名店でした。もともとは卓袱(中華風鍋料理のはしり)料理店で、安永6年(1777)に出版された江戸名物評判記『評判江戸自慢』に「百川 さんとう 唐料理」とあります。創業時期は詳しくはわかりませんが、明治32年(1899)の「文藝倶楽部」に載った二代目古今亭今輔の速記によると、芳町にあった料亭「百尺」の分店だったとか。天明年間(1781-89)には最盛期を迎え、文人墨客が書画会などを催す文化サロンとしても有名になりました。この店の最後の花は、安政元年(1854)にペリー一行が再来日した際、幕命で千両の予算で百川一店のみ饗応を受け持ったことでしょう。そのときのメニューがまだ残っているといいますが、中でも柿にみりんをあしらったデザートは、彼らを喜ばせたとか。明治初年に廃業しました。

日本橋浮世小路  【RIZAP COOK】  

にほんばしうきよこうじ。中央区日本橋室町二丁目の東側を入った横丁で、明和年間以後の江戸後期には飲食店が軒を並べ、「百川」は路地の突き当たり右側にあったといいます。

四神剣  【RIZAP COOK】

しじんけん。祭りに使用した四神旗です。四神は四方の神の意味で、青龍(東)白虎(西)朱雀(南)玄武(北、玄=亀)の図が描かれ、旗竿に鉾がついていたため、この名があります。神田祭、山王祭のような大祭には欠かせないもので、その年の当番の町が一年間預かり、翌年の当番に当たる町に引き継ぎます。五輪旗のようなものですね。

長谷川町三光新道  【RIZAP COOK】

はせがわちょうさんこうじんみち。中央区日本橋堀留二丁目の大通り東側にある路地です。入り口が目抜き通りに面している路地を江戸では新道と呼びました。

円生が「家元」の噺  【RIZAP COOK】

前述した明治32年(1899)の今輔のものを除けば、古い速記は残されていません。古くから三遊派(三遊亭)系統の噺で、この噺を戦後、一手専売にしていた六代目円生は、義父の五代目円生から継承していました。昭和40年代の一時期、若手落語家が競ってこの「百川」をやったことがありましたが、すべて「家元」円生に稽古してもらったもの。

五代目古今亭志ん生も時々演じました。志ん生のオチは、若い衆のリーダーが市兵衛で、「百兵衛に市(=一)兵衛はかなわない」というもの。これは「多勢に無勢はかなわない」をダジャレにした「たへえ(太兵衛)にぶへえ(武兵衛)はかなわない」という「永代橋」のオチを、さらにくずしたものでしょうが、あまり感心しません。

円生没後は、五代目三遊亭円楽、柳家小三治らが次代に伝えていました。古今亭志ん朝のは絶品でした。三遊亭円窓も伝えています。

カモジ先生はえらい人  【RIZAP COOK】

この噺で、とんだとばっちりを被る鴨池先生。実在も実在、本名が清水左近源(みなもとの)元琳宜珍といういかめしさで、後年、江戸市井で開業したとき、改名して鴨池元琳(がんりん)。鴨池は「かもいけ」と読み、「かもじ」は、この噺のゴロ合わせに使えるように、落語家が無断で読み変えただけでしょう。実にどうも、けしからんもんで。

十一代将軍・家斉の御殿医を勤めたほどの、江戸後期の漢方外料(=外科)の名医中の名医。『瘍科撮要』という全三巻の医書を口述しています。したがって、本来なら町人風情が近寄れもしない身分ながら、晩年は官職を辞して市井で貧しい市民の治療に献身したという、まさに「赤ひげ」そのものだったとか。

【語の読みと注】
百川 ももかわ
葭町 よしちょう
桂庵 けいあん
千束屋 ちづかや
四神剣 しじんけん
下戸 げこ
慈姑 くわい
歌女文字 かめもじ
鴨池 かもじ
卓袱 しっぽく
新道 じんみち
太兵衛 たへえ
武兵衛 ぶへえ

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【百川 六代目三遊亭円生】

【RIZAP COOK】

しながわしんじゅう【品川心中】演目

落語の名作です。長いので「上」と「下」に分かれています。たっぷりどうぞ。

あらすじ

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(だます)から、比丘(=魚籠)にされたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

めったに聴けない「下」  【RIZAP COOK】

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。戦後も六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在もよく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬は皮肉に「下」のみ演じていました。八代目桂文楽は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していましたが、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようで、昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿  【RIZAP COOK】

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿)の筆頭です。

吉原の「北国」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。宿場は徒歩新宿、北本宿、南本宿に分かれ、目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

「居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は享保年間(1716-36)ですが、飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは万治2年(1659)でした。宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり
自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん坊主が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって、「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭  【RIZAP COOK】

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

紋日、物日  【RIZAP COOK】

もんび、ものび。五節季や八朔(➡江戸入り)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋  【RIZAP COOK】

江戸時代は一軒構えの本屋はなく、もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、郭や大商店などの得意先を回りました。

幕末太陽傳  【RIZAP COOK】

昭和32年(1957)の映画『幕末太陽傳』(監督川島雄三、日活)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としたころの品川、土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、喜劇映画史上に残る傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で、壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でしたが、「品川心中」の部分では、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る当時29歳の小沢昭一の「あばたの金蔵」が絶品です。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑うこの小沢のあば金を見るだけでも、この映画は一見の価値あり。たいていの落語家はとうてい及びません。

比丘尼される  【RIZAP COOK】

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。よく考えると単純で、「釣る(「だます」の意味あり)」から「魚籠」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(=尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあり、品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

【語の読みと注】
板頭:いたがしら:筆頭女郎
四宿:ししゅく:品川、新宿、板橋、千住の宿場
北国:ほっこく:吉原
徒歩新宿:かちしんしゅく
八朔 はっさく:8月1日
お職:おしょく:吉原での筆頭女郎
労咳 ろうがい:肺結核
魚籠:びく
比丘:びく:僧
比丘尼:びくに:尼僧

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ににんたび【二人旅】演目

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謎かけは落語の代表的なジャンル。謎かけがふんだんの噺です。

別題:煮売屋(上方)

あらすじ

気楽な二人連れの道中。

一人が腹が減って、飯にしようとしつこく言うのを、謎かけで気をそらす。

例えば
「二人で歩いていると掛けて、なんと解く?」
「豚が二匹と犬っころが十匹と解く」
「その心は?」
「豚二ながらキャンとう者(二人ながら関東者)」

そのうち、即興の都々逸になり
「雪のだるまをくどいてみたら、なんにも言わずにすぐ溶けた」
「山の上から海を眺めて桟橋から落ちて、泳ぎ知らずに焼け死んだ」
と、これもひどい代物。

ぼうっとした方が人に道を尋ねると、それが案山子だったりして、さんざんぼやきながらやっととある茶店へ。

行灯に、なにか書いてある。

「一つ、せ、ん、め、し、あ、り、や、な、き、や」
「そうじゃねえ。一ぜんめしあり、やなぎ屋じゃねえか」

茶店の婆さんに酒はあるかと聞くと
「いいのがあるだよ。じきさめ、庭さめ、村さめとあるだ」
「へえっ、変わった銘だな。なんだい、そのじきさめってのは」
「のんだ先からじきに醒めるからじきさめだ」
「それじゃ、庭さめは?」
「庭に出ると醒めるんだ」

村さめは、村外れまで行くうちに醒めるから。

まあ、少しでも保つ方がいいと「村さめ」を注文したが、肴が古いと文句を言いながらのんでみると、えらく水っぽい。

「おい、ばあさん、ひでえな。水で割ってあるんだろう」
「なにを言ってるだ。そんだらもったいないことはしねえ。水に酒を落としますだ」

底本:五代目柳家小さん

しりたい

煮売屋

上方落語「煮売屋にうりや」を四代目柳家小さんが東京に移したもので、東京で演じられるようになったのは、早くても大正後期以後でしょう。「煮売屋」は、長い連作シリーズ「東の旅」のうち、「七度狐」と題されるくだりの一部です。

「七度狐」はさらに細かく題名がついていて、発端が、おなじみ清八と喜六の極楽コンビがお伊勢参りの道中、奈良見物のあと、野辺で尻取り遊びなどしてふざけ合う「野辺歌」から「煮売屋」に続き、このあと、イカの木の芽あえを盗んで捨てたすり鉢が化け狐の頭に当たったことから怒りを買って化かされる「尼寺つぶし」へと入ります。

煮売屋は、ここでは道中ですから、宿外れの立て場酒屋ということになります。

上方では独立して演じられることは少なく、一席にする場合は、侍を出し、煮売屋のおやじとの、このあたりでは夜な夜な白狐が出るというやりとりをコンビが聞きかじり、隣の荒物屋で侍気取りの口調で口真似するという滑稽をあとに付けます。

小さんの工夫

道中のなぞ掛け、都々逸を付けたのは四代目小さんの工夫で、上方の「野辺歌」のくだりを参考にしたと思われます。

ただ、それ以前に、東京の噺家ながら長く大阪に在住して当地で活躍した三代目三遊亭円馬が上方の「七度狐」をそのまま江戸っ子二人組として演じた速記があり、その中で二人が珍俳句をやりとりするくだりがあるので、そのあたりもヒントになっているのでしょう。

四代目の演出は、そのまま五代目小さん、さらにその門下へと受け継がれ、現在もよく口演されます。

都々逸

どどいつ。文政年間(1818-30)に発祥し、流行した俗謡です。前身は「よしこの節」で、その囃し詞「どどいつどんどん」から名が付きました。歌詞は噺に登場する通り、七七七五が普通で、江戸独特の洒落や滑稽を織り交ぜたものです。昭和初期から戦後にかけては、柳家三亀松が「お色気都々逸」で一世を風靡しました。

【語の注】
都々逸 どどいつ
案山子 かかし
行灯 あんどん

ゆやばん【湯屋番】演目

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若だんな勘当の噺。日本橋の湯屋で番頭に。女湯目当ての空騒ぎ模様。よござんす。

あらすじ

道楽の末、勘当中の若だんな、出入りの大工・熊五郎宅の二階に居候の身。

お決まりでかみさんがいい顔をしない。

飯も、お櫃を濡れしゃもじでペタペタたたき、平たくなった上っ面をすっと削ぐから、中ががらんどう。

亭主の熊は、
「ゴロゴロしていてもしかたがないから、奉公してみたらどうです」
と言い出した。

ちょうど友達の鉄五郎が、日本橋槙町で奴湯という銭湯をやっていて、奉公人を募集中だという。

若だんな、とたんに身を乗り出し、
「女湯もあるかい」
「そりゃあります」
「へへ、行こうよ」

紹介状を書いてもらい、湯屋にやってきた若だんな。

いきなり女湯へ飛び込み
「こんちわァ」

度肝を抜かれた主人が、まあ初めは外廻りでもと言うと、札束を懐に温泉廻りする料簡。

木屑拾いとわかると
「色っぽくねえな。汚な車を引いて汚な半纏汚な股引き、歌右衛門のやらねえ役だ」
「それじゃ煙突掃除しかない」
と言うと
「煙突小僧煤之助なんて、海老蔵のやらねえ役だ」
と、これも拒否。

狙いは一つだけ。

強引に頼み込んで、主人が昼飯に行く間、待望の番台へ。

ところが当て外れで女湯はガラガラ。

見たくもない男湯ばかりがウジャウジャいる。

鯨のように湯を吹いているかと思えば、こっちの野郎は汚いケツで、おまけに毛がびっしり。

どれも、いっそ湯船に放り込み、炭酸でゆでたくなるようなのばかり。

戸を釘付けにして、男を入れるのよそう、と番台で、現実逃避の空想にふけりはじめる。

女湯にやってきた、あだな芸者が連れの女中に
「ごらん。ちょいと乙な番頭さんだね」
と話すのが発端。

お世辞に糠袋の一つも出すと
「ぜひ、お遊びに」
とくりゃあ、しめたもの。

家の前を知らずに通ると女中が見つけ、
「姐さん、お湯屋の番頭さんですよ」

呼ぶと女は泳ぐように出てくる。

「お上がりあそばして。今日はお休みなんでしょ」
「へい。釜が損じて早仕舞い」
じゃ色っぽくないから、
「墓参りに」
がいい。

「お若いのに感心なこと。まあいいじゃありませんか」
「いえ困ります」

番台で自分の手を引っ張っている。

盃のやりとりになり、女が
「今のお盃、ゆすいでなかったの」
と、すごいセリフ。

じっとにらむ目の色っぽさ。

「うわーい、弱った」
「おい、あの野郎、てめえのおでこたたいてるよ」

そのうち外はやらずの雨。

女は蚊帳をつらせて
「こっちへお入んなさいな」

ほどよくピカッ、ゴロゴロとくると、女は癪を起こして気を失う。

盃洗の水を口移し。

女がぱっちり目を開いて
「今のはうそ」

ここで芝居がかり。

「雷さまはこわけれど、あたしのためには結ぶの神」
「ヤ、そんなら今のは空癪か」
「うれしゅうござんす、番頭さん」

ここでいきなりポカポカポカ。

「なにがうれしゅうござんすだい。馬鹿、間抜け。おらァけえるんだ。下駄を出せ」

犬でもくわえていったか、下駄がない。

「そっちの本柾のをお履きなさい」
「こりゃ、てめえの下駄か?」
「いえ、中のお客ので」
「よせやい。出てきたら文句ゥ言うだろう」
「いいですよ。順々に履かせて、一番おしまいは裸足で帰します」

しりたい

若だんな勘当系の噺

落語では、若だんなとくれば、「明烏」「千両みかん」のような少数の変わりダネを除いて、おおかた吉原狂い→親父激怒→勘当→居候と、コースは決まっています。

「火事息子」「清正公酒屋」「唐茄子屋政談」「船徳」「へっつい幽霊」「宮戸川」「山崎屋」「五目講釈」「素人車」などなど、懲りないドラ息子の「奮戦記」は多数ありますが、中でもこの「湯屋番」は、その見事なずうずうしさで、勘当若だんな系の噺ではもっともよく知られています。

古くから口演されてきましたが、明治の初代三遊亭円遊がギャグ満載の爆笑噺に改造、ついで三代-五代目柳家小さんが、現行のスタンダードな型をつくりました。

鼻の円遊の「湯屋番」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊の速記では、若だんなが歩きながら、湯屋を乗っ取って美人のお内儀といちゃつく想像を巡らすところが現行の演出と異なります。

最後のオチは、若だんなが湯銭をちょろまかして懐に入れ、美女とごちそうを食べる想像するのを主人が見つけ、「その勘定は誰がする?」「先方の(空想の)女がいたします」としています。

四代目、五代目小さんの「湯屋番」

ここでのあらすじは、五代目小さんの速記を参考にしました。

男湯を見てげんなりするくだり、番台での一人芝居など、ギャグも含めてほとんど四代目小さんが完成した型で、それが五代目小さんにそのまま継承されました。

四代目小さんは、明治44年(1911)の帝劇開場を当て込み、若だんなが豪勢な浴場を建て、朝野の名士がやって来る幻想にひたる改作「帝国浴場」を創作しました。

もちろん、遠い昔のキワモノなので、今はまったく忘れられています。

六代目円生の「湯屋番」

めったにやりませんでしたが、やればまったく手を抜かず、四十分はかかる長講で、今レコードを聴いても一瞬もダレさせない、見事な出来です。(ま、これは編集の妙ではありますが)

かみさんが亭主に文句を言う場面から始まり、若だんなが、湯屋の亭主が近々死ぬ予定を勝手に立て、美人の神さんの入り婿に直る下心で自分から湯屋に行くと言い出すところが、円生演出の特色です。

空想の中で都都逸をうたいすぎてのぼせ、色っぽい年増のかみさんに介抱されて一目ぼれするノロケをえんえんと語る場面は圧巻です。

湯屋の名を、古くは三遊派が「桜湯」、柳派が「奴湯」と決まっていましたが、六代目円生は「浜町の梅の湯」でやっていました。

居候あれこれ

他人の家に食客(しょっかく、いそうろう)として転がり込む迷惑な人種のことですが、別名「かかりうど」「権八」、また、縮めて「イソ」とも呼ばれます。「誰々方に居り候」という、手紙文から出た言葉です。

居候の川柳は多く、有名な「居候三杯目にはそっと出し」ほか、「居候角な座敷を丸く掃き」「居候たばという字をよけてのみ」「出店迷惑さま付けの居候」など、いろいろあります。落語のマクラでは適宜、これらを引用するのが決まりごとです。

最後の句の「出店」は「でだな」で、居候の引き受け先のことです。

風呂屋じゃなくて湯屋

江戸では風呂屋でなく、「湯屋」。これはもう、絶対です。

さらに縮めて「湯」で十分通じます。明治・大正まで、東京の下町では、女子供は「オユーヤ」と呼んでいました。

天正19年(1591)に、伊勢与一という者が、呉服橋御門の前に架かる銭瓶橋のあたりで開業したのが江戸の湯屋の始まりとされます。ただし、当時は上方風の蒸し風呂でした。

日本橋槇町

現在は東京都中央区八重洲二丁目、京橋一丁目。東京駅八重洲口の真向かいです。

南槙町、北槙町に分かれ、付近に材木商が多かったところからついた地名といわれます。北槙町一帯は、元は火除地でした。

【湯屋番 五代目柳家小さん】

おなおし【お直し】演目

廓噺。吉原育ちの男女が切羽詰まって商売を。辛くて悲しいのになぜか大笑い。

あらすじ

盛りを過ぎた花魁と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「蹴転けころ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「蹴転はおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい】

蹴転  【RIZAP COOK】

けころ。吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。「蹴転ばし」の略。「蹴倒し」ともいいました。すぐに寝る意味で、そういう意がこめられたうえでの最下級なのですね。泊まりはなくて百文一切り、所要時間は今の時計で10分程度だったといいます。10分では短すぎるので、たいていの客は改めて延長を希望します。これが「お直し」です。裏路地の棟割り長屋のような粗末な木造の、4尺5間の間口、2尺の戸、2尺5寸の羽目板、3尺の土間、これら全部含めても2畳ほどの狭い部屋で商売をするのです。「切り見世」「局見世」と呼ばれていました。吉原にかぎらず、岡場所にはあったものですが、吉原で蹴転は、お歯黒どぶ(囲いの下水)の岸にあったので、「河岸見世」と呼ばれていました。吉原の蹴転は寛政年間(1789-1801)にはもう絶えたようです。寛政改革では吉原が大打撃をこうむっていますから、そのさなかにつぶされていったのですね。

切り見世は 突き放すように いとまごい

お直しを 食らい素百の さて困り

銭がなけ よしなと路地へ 突き出され

羅生門河岸  【RIZAP COOK】

つまり吉原の京町2丁目南側、「お歯黒どぶ」といわれた真っ黒な溝に沿った一角を本拠にしていました。「羅生門」とは、蹴転が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人・渡辺綱が鬼女の隻腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。「一度つかんだら放さない」というニュアンスが込められているのがミソです。こわごわとしたかんじがしますね。表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、客をすってんてんにひんむいてしまうという、魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ  【RIZAP COOK】

この噺は、五代目古今亭志ん生が復活させ、昭和31年度(1956年)の芸術選奨を受賞しました。志ん生亡き後は、次男の志ん朝がさらに磨きのかかった噺にこさえていました。

【語の読みと注】
蹴転 けころ:最下級の商売女性
一切り ひときり:一段落
切り見世 きりみせ:蹴転がいる場所
局見世 つぼねみせ:蹴転がいる場所
河岸見世 かしみせ:吉原の蹴転がいる場所
素百 すびゃく:百文ぽっきり

【RIZAP COOK】 

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【お直し 古今亭志ん朝】

おびきゅう【帯久】演目

日本橋の商人、和泉屋与兵衛と帯屋久七との金にからむ大岡政談の一編です。

別題:和泉屋与兵衛(上方) 名奉行(上方) 指政談(上方)

あらすじ

享保5年、春のこと。

日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛いずみやよへえという呉服屋があった。

主人は温厚な人柄で、町内の評判もよく、店はたいそうな繁盛ぶり。

本町二丁目にも帯屋という、これも呉服屋があるが、対照的にこちらは、主人久七きゅうしちの性格が一癖あるのに加え、店も陰気な雰囲気で、「売れず屋」という異名がついてしまうぐらい、さっぱりはやらない。

とうとう三月の晦日みそかの決済もできず、久七が和泉屋に二十両の金を借りにきた。

人のいい与兵衛は、「商人は相身互あいみたがい」と、証文、利息もなしで快く用立てた上、ごちそうまでして帰す。

二十日ほどして返しにきたが、これに味をしめたか、たて続けにだんだん高額の金を無心しにくるようになった。

その都度、二十日ほどできちんと返済に来たので、十一月に百両という大金を借りに来た時も、与兵衛はあっさりと貸してしまう。

今度は、一月たっても梨のつぶて。

さすがに気になりだしたころ、大晦日になって、やっと返しにきた。

ところが、座敷に通して久七が金を出し、入帳したところで、番町の旗本から与兵衛に緊急の呼び出し。

大晦日でてんてこ舞いの折から、与兵衛があわただしく出かけると、不用意にも金はそのまま、久七一人座敷に残された。

久七、悪心あくしんが兆し、これ幸いと金を懐に入れ、なに食わぬ顔でさようなら。

帰宅した与兵衛は金がないのに気づき、さてはと思い至ったが、確かな証拠もないので、自分の不注意なのだとあきらめてしまう。

帯屋の方では、百両浮いたのが運のつき始め。

新年早々、景品をつけて大奉仕したので、たちまち大繁盛。

一方、和泉屋はこれがケチのつき始めで、三月に一人娘が、次いで五月にはおかみさんがぽっくりみまかった。

追い打ちをかけるようにその年の暮れ、享保きょうほう六年十二月十日の神田三河町の大火で、蔵に戸前とまえもろとも店は全焼。

あえなく倒産した。

与兵衛は、以前に分家してあった武兵衛という忠義な番頭に引き取られるが、どっと病の床につく。

武兵衛もまた、他人のけ判をしたことから店をつぶし、今はうらぶれて、下谷長者町に裏長屋住まいの身だが、懸命に旧主の介抱をするうち、十年の歳月が流れた。

ようやく全快した与兵衛、自分はもうなんの望みもないが、長年貧しい中、自分を養ってくれた武兵衛に、もう一度店を再興させてやりたいと、武兵衛が止めるのも聞かず、帯屋に金を借りにいく。

相手も昔の義理に感じて善意で報いてくれるだろう、という期待だが、当の帯屋は冷酷無残でけんもほろろ。

「銭もらい」
とののしり、
「びた一文も貸す金はない」
と言い放つ。

思わず、かっとして百両の件を持ちだし、
「人間ではない」
とののしると、
「因縁をつけるのか」
と、久七は煙管で与兵衛の額を打ち、表にたたき出す。

与兵衛は悔しさのあまり、帯屋の裏庭の松の木で首をくくってやろうとふと見ると、不用心にもかんなくずが散らばっているので、いっそ放火して思いを晴らそうと火をつけたが、未遂のうちに取り押さえられる。

事情を聞いた町役人は同情し、もみ消してくれるが、久七は近所の噂から、百両の一件が暴かれるのを恐れ、先手を打って奉行所に訴え出る。

これで与兵衛は火つけの大罪でお召し捕り。

名奉行、大岡越前守さまのお裁きとなる。下調べの結果、帯屋の強悪ぶりがわかり、百両も久七が懐に入れたと目星をつけた。

越前守はお白州で、
「その方、大晦日で間違いが起こらぬものでもないと、親切づくで春ながにでも改めて持参いたそうと持ち帰ったのを忘れておったのではないか」
とカマをかけるが、久七は
「絶対に返しました」
とシラを切る。

そこで、久七に右手を出させ、人指し指と中指を紙で巻いて張り付け、判を押す。

「これはものを思い出す呪いである。破却する時はその方は死罪、家は闕所けっしょ、そのむね心得よ」

久七は、紙が破れれば首が飛ぶというので、飯も食えない。

三日もすると音を上げて青ざめ、出頭して、まだ返していないと白状する。

奉行はその場で元金百両出させた上、十年分の利息百五十両を払うように久七に命じた。

持ち合わせがないとべそをかくと、百両を奉行所で立て替えた上、残金五十両を年賦一両ずつ払うよう、申し渡す。

「……さて、和泉屋与兵衛。火付けの罪は逃れられぬ。火あぶりに行うによって、さよう心得よ」

これを聞いて、久七が喜んだのなんの。

「さすがは名奉行の大岡さま。どうかこんがりと焼いていただきましょう」
「なれど、五十両の年賦金、受け取りし後に刑を行う」

これだと、和泉屋がフライになるまで五十年も待たねばならない。あわてたのは久七。

「恐れながら申し上げます。ただちに五十両払いますので、どうかすぐに和泉屋をお仕置きに」
「だまれッ。かく証文をしたためたるのち、天下の裁判に再審を願うとは不届き千万。その罪軽からず」
「うへえッ、恐れいりました」

奉行、与兵衛に
「その方、まことに不憫ふびんなやつ。何歳にあいなる」
「六十一でございます」
還暦かんれきか。いやさ、本卦ほんけ(=本家)じゃのう」
「今は分家の居候いそうろうでございます」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

大岡政談がネタ本  【RIZAP COOK】

講談の大岡政談ものと、『明和雑記』中の名奉行、曲淵景漸まがりぶちかげつぐ(曲淵甲斐守)の逸話をもとに、上方で落語化されたものです。

曲淵景漸は、隠居年齢ともいえる41歳で大坂西町奉行に就任して甲斐守の受領名を拝名しました。明和6年(1769)には江戸北町奉行に出世して、約18年間その職を務め、江戸の治安統治に尽力しました。その間、田沼意知おきとも刃傷にんじょう事件を裁定し、犯人である佐野政言まさことを取り押さえなかった若年寄や目付などに出仕停止などの処分を下したという人です。

『明和雑記』は和歌や俳諧について見聞したことを記した雑記随筆。作者は尾張藩士で俳人の東条有儘とうじょうゆうじんです。大坂の風聞雑記が中心です。明和元年(1764)、朝鮮通信使が大坂に立ち寄ったところから書き起こされています。

「名奉行」と題して、明治末に『文藝倶楽部』に載った大阪の二代目桂文枝(のち文左衛門)の速記をもとに、六代目三遊亭円生が東京風に改作し、昭和32年(1957)10月、上野・本牧亭での独演会で初演しました。円生没後は三遊亭円窓が復活させて演じています。立川志の輔もまた。

円生は『三遊亭円生全集』(青蛙房)中で、大岡政談では加賀屋四郎右衛門と駿河屋三郎兵衛の対決として、ほとんど同類のネタがあることを紹介しています。

米朝の十八番  【RIZAP COOK】

大阪では古くから演じられ、桂米朝が得意にしていました。大阪のやり方は円生のものとほとんど変わりませんが、和泉屋の所在地が東横堀三丁目、帯屋が同二丁目で、奉行は松平大隅守となっています。

米朝は発端の火事を、宝暦6年(1756)夏の大坂・瓦町の大火(銭亀の火事)としています。

火あぶり  【RIZAP COOK】

江戸中期からは放火のみに科されました。千住小塚原または鈴ヶ森で執行され、財産は没収(闕所)、引回しが付加され、文字通り「こんがり」焼かれた上、男は止め焚(罪人が焼死後再び火をつけ、鼻と陰嚢を焼く)までされました。

焼死体は三日二夜さらされました。火付けの罪科がここまで過酷なのも、いかに幕府が、一夜で江戸の町が灰になってしまう大火を恐れたかのあらわれでしょう。その流れは脈々と生きていて、放火の罪が重いのは現行法でも変わりません。

町火消

本卦  【RIZAP COOK】

本卦返りで、満60歳(数え61)で、生まれたときの干支に返ること。還暦のことです。

陰陽道で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせ、その(10と12)最小公倍数で60年ごとに干支が一回りするため、誕生時と同じ干支が回ってくる、数え61歳を本卦返りとし、赤い着物を贈って祝う風習は今でもありますね。子供に返るという意味で赤い着物なのだそうです。

分家  【RIZAP COOK】

分家は本来は親戚筋の店で、奉公人ののれん分けは「別家」と呼んで区別しますが、この噺の武兵衛のように、忠節で店への功労があった大番頭を、特別に親類扱いで同店名を許し、「分家」と認めることがありました。

つっこみ  【RIZAP COOK】

あらすじでは略しましたが、お白洲で、奉行が最初、利息の返済を「月賦にするか」と久七にただし、年賦がいいというので、「それでは年十両か」「もう少しご猶予を」「では五両か」「もう少しご勘弁を」と値切り、年一両に落ち着くというやり取りがあります。

しかし、これでは、奉行の腹をもし久七が察知して、最初の条件で承諾すれば、数年で与兵衛はフライですから、危ない橋で、噺の盲点といえます。奉行の智略、貫禄で押し切らないと、名裁判にも難癖がつきかねません。

【語の読みと注】
享保5年 きょうほうごねん:1720年
請け判 うけはん:連帯保証人
闕所 けっしょ:お取りつぶし
曲淵景漸 まがりぶちかげつぐ
田沼意知 たぬまおきとも
佐野政言 さのまさこと
東条有儘 とうじょうゆうじん
本卦 ほんけ
本卦返り ほんけがえり:還暦
十干 じっかん
十二支 じゅうにし
陰陽道 おんみょうどう

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

せんきのむし【疝気の虫】演目

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疝気とは泌尿器科全般の病。そこに虫がいて悪さする果てに女体ではどうなる。

あらすじ

ある医者が妙な夢を見る。

おかしな虫がいるので、掌でつぶそうとすると、虫は命乞いをして「自分は疝気の虫といい、人の腹の中で暴れ、筋を引っ張って苦しめるのを職業にしているが、蕎麦そばが大好物で、食べないと力が出ない」と告白する。

苦手なものはトウガラシ。

それに触れると体が腐って死んでしまうため、トウガラシを見ると別荘、つまり男のキンに逃げ込むことにしているとか。

そこで目が覚めると、これはいいことを聞いたと、張り切って往診に行く。

たまたま亭主が疝気せんきで苦しんでいて、何とかしてほしいと頼まれたので、先生、この時とばかり、かみさんが妙な顔をするのもかまわず、そばをあつらえさせ、亭主にその匂いをかがせながら、かみさんにたべてもらう。

疝気の虫は蕎麦の匂いがするので、勇気百倍。すぐ亭主からかみさんの体に乗り移り、腹の中で大暴れするので、今度はかみさんの方が七転八倒。

先生、ここぞとばかり、用意させたトウガラシをかみさんになめさせると、仰天ぎょうてんした虫は急いで逃げ込もうとその場所に向かって一目散いちもくさんに腹を下る。

「別荘はどこだ、別荘……あれ、ないよ」

しりたい

疝気

江戸時代の漢方の病名など大ざっぱですから、要するに男のシモの病全般、尿道炎にょうどうえん胆石たんせき膀胱炎ぼうこうえん睾丸炎こうがんえんなどをひっくるめて疝気と称していました。昔から「疝気の大きんたま」などというのもそのためです。ちょうど女の癪(しゃく)に相当するもので、

悋気りんきは女の慎むところ、 疝気は男の苦しむところ」

というのは落語のマクラの紋切り型。落語に登場の病気では、しゃく、恋わずらいと並んでビッグ3でしょう。「藁人形わらにんぎょう」「万病円まんびょうえん」「にせ金」「夢金ゆめきん」「狸の釜」ほか、あげればキリがありません。

この噺の「療法」はもちろんインチキのナンセンスですが、実は、疝気の正体はフィラリアという寄生虫病という説もあり、あながち虫に縁がなくもありません。

なお、噺の中で疝気の虫が蕎麦が好物というのは、蕎麦は腹が冷えるので、疝気には禁物とされていたのを戯画化したのでしょう。

戦後では、五代目古今亭志ん生の独壇場どくだんじょうで、四代目三遊亭円遊えんゆうも得意でした。

志ん生と「疝気の虫」

昭和24年(1949)の新東宝映画『銀座カンカン娘』で、落語家・桜亭新笑しんしょうに扮した五代目古今亭志ん生(当時59歳)が「疝気の虫」を縁側で稽古けいこする場面をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。

旧満州から帰国後間もなく、まだすっきりと痩せていますが、蕎麦をたぐるしぐさはなかなかあざやかなものです。

志ん生は実演では最後に「別荘……」と言って、キョロキョロあたりを見回す仕草で落としていました。

その他の演者では、バレ(艶笑)の要素を消すため、

「ひょいと表に飛び出した」「畳が敷いてあった」「スポッ」

などとすることもあります。 

疝気のマジメな療法

根岸鎮衛しずもり著『耳嚢みみぶくろ』巻五に、疝気の薬としてブナの木の皮を用いたところ、翌日にはケロリと治ってしまったという逸話が載っています。漢方にはこのような処方はなく、

阿蘭陀オランダ法の書を翻訳 する者有て其(の)説を聞(く)に、 符を号するが如しとかや(よく合致するようだ)」

とあります。同書にはそのほかにも、疝気治療に関するまじないや薬の記述が多く、やれ「マタタビ一匁を酒か砂糖湯に 溶かしてのむ」とか、四国米を毎日4-5粒ずつ食べろとか、著者当人も相当悩まされた末、ワラにもすがったあとがありありです。

【疝気の虫 古今亭志ん生】

あけがらす【明烏】演目

 

 堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生生産された。

うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。もてるもてないはどこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。

(古木優)

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たちきり【立ち切り】演目

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築地の美代吉と新三郎のいきなしんねこ四畳半。もとは上方の人情噺です。

別題:立ち切れ線香(上方)

あらすじ

昔は芸妓の花代を線香の立ち切る(=燃え尽きる)時間で計ったが、そのころの話。

築地の大和屋抱えの芸妓美代吉は、質屋の若だんな新三郎と恋仲。

互いに起請彫りをするほどだが、ある日、湯屋で若い衆が二人の仲を噂しあっているのを聞き、逆上したのが、美代吉に岡惚れの油屋番頭九兵衛、通称あぶく。

この男、おこぜのようなひどいご面相なので、美代吉が嫌がっていると同じ湯船にいるとも知らず、若い衆がさんざん悪口を言ったので、ますます収まらない。

さっそく、大和屋に乗り込んで責めつけると、美代吉は苦し紛れに、お披露目のため新三郎の親父から五十円借金していて、それが返せないのでしかたなく言いなりになっていると、でたらめを言ってごまかした。

自分はわけあって三年間男断ちをしているが、それが明けたらきっとだんなのものになると誓ったので、久兵衛も納得して帰る。

美代吉は困って、新さんに相談しようと手紙を書くが、もう一通、アリバイ工作をしようと、久兵衛にも恋文を書いたのが運の尽き。

動転しているから、二人の宛名を間違え、新三郎に届けるべき手紙を久兵衛の家に届けさせてしまう。

それを見た久兵衛、文面に久兵衛のべらぼう野郎だの、あんな奴に抱かれて寝るのは嫌だのと書いてあるから、さてはとカンカン。

美代吉が新三郎との密会場所に行くために雇った船中に潜み、美代吉の言い訳も聞かばこそ、かわいさ余って憎さが百倍と、匕首で、美代吉をブッスリ。

あわれ、それがこの世の別れ。

さて、美代吉の初七日に、新三郎が仏壇に線香をあげ、念仏を唱えていると、現れたのが美代吉の幽霊。

それも白装束でなく、生前のままの、座敷へ出るなりをしている。

新三郎が仰天すると、地獄でも芸者に出ていて、大変な売れっ子だという。

なににしても久しぶりの逢い引きなので、新三郎の三味線で幽霊が上方唄、いいムードでこれからしっぽり、という時、次の間から
「へい、お迎え火」

あちらでは、芸妓を迎えにくる時の文句と聞いて新三郎
「あんまり早い。今来たばかりじゃないか」
「仏さまをごらんなさい。ちょうど線香がたち切りました」

底本:六代目桂文治

★auひかり★

しりたい

上方人情噺の翻案

京都の初代松富久亭松竹(生没年不詳)作と伝えられる、生っ粋の上方人情噺を、明治中期に東京に移植したもので、移植者は三代目柳家小さんとも、六代目桂文治ともいわれています。

文化3年(1806)刊の笑話本『江戸嬉笑』中の「反魂香」が、さらに溯った原話です。

東京では「入黒子」と題した明治31年(1898)12月の六代目桂文治の速記が最古の記録で、その後三代目春風亭柳枝、八代目三笑亭可楽を経て、柳家小三治が継承しています。あらすじは、古い文治のものを参考にしました。文治は、ねっとりとした上方の情緒あふれる人情噺を、東京風に芝居仕立てで改作しています。

「芸者」は吉原だけ

江戸時代までは、正式に「芸者」と呼ぶのは吉原のみの特権でした。ほかの花街では「酌人」という建前でした。

線香燃え尽き財布もカラッポ

芸者のお座敷も、お女郎の「営業」も原則、線香が立ち切れたところで時間切れでした。線香が燃え尽きると、客が「お直し」と叫び、新たな線香を立てて時間延長するのが普通でしたが、「お直し」のような最下級の魔窟では、客引きの牛太郎の方が勝手に自動延長してしまう図々しさです。明治以後は、時計の普及とともにさすがにすたれましたが、東京でも新橋などの古い花柳界では、かなり後までこの風習が残っていたといいます。

上方噺「立ち切れ線香」

現在でも大阪では、大看板しか演じられない切ネタです。

あらすじは、以下の通り。

若だんなが芸者小糸と恋仲になり、家に戻らないのでお決まりの勘当となるが、番頭の取り成しで百日の間、蔵に閉じ込められる。

その間に小糸の心底を見たうえで、二人をいっしょにさせようと番頭がはかるが、蔵の中から出した若だんなの恋文への返事が、ある日ぷっつり途絶える。

若だんなは蔵から出たあと、このことを知り、しょせんは売り物買い物の芸妓と、その不実をなじりながらも、気になって置屋を訪れると、事情を知らない小糸は捨てられたと思い込み、焦がれ死にに死んだという。航海した若だんなが仏壇に手を合わせていると、どこからか地唄の「ゆき」が聞こえてくる。

「…ほんに、昔の、昔のことよ……」

これは小糸の霊が弾いているのだと若だんなが涙にくれると、ふいに三味線の音がとぎれ、
「それもそのはず、線香が立ち切れた」

【語の読みと注】
花代 はなだい:芸妓や娼妓などへの揚げ代
揚げ代 あげだい:芸妓や娼妓などを揚屋に呼んで遊ぶ代金。=玉代
揚げ屋 あげや:遊里で遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家
遊女屋 ゆうじょや:置き屋
置き屋 おきや:芸妓や娼妓を抱えておく家
芸妓 げいぎ:芸者、芸子
娼妓 しょうぎ:遊女、公娼
起請彫り きしょうぼり:腕に「〇〇命」や親指の付け根に入れ黒子
入れ黒子 いれぼくろ:いれずみ
匕首 あいくち
入黒子 いれぼくろ

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ごにんまわし【五人廻し】演目

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明治の噺。古典落語は関東大震災以前の作品のことなんですね。

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁が一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁。

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にも一向に現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいい方で、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎の喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履の音がする度に今度こそはと身を乗り出しても、哀れ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

喜助にさんざん毒づいた挙げ句、モモンガ-、チンケント-、脚気衝心、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョ、まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうからそう思えと言いたい放題。

ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈、空空寂寂、閨中寂寞とやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウじゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだとまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、何と田舎大尽の杢兵衛だんなの部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれと文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフになるだからっちゅうてオラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせっちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしに一円くれというので、出してやると喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭の様子を今に伝える、貴重な噺です。「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

特に、六代目円生のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題に振舞っていたことがわかります。

廓噺と盲小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本の流れを汲み、かつては数多く作られ演じられましたが、現在では一部の噺を除いてすたれました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、薄幸の天才落語家・初代柳家小せん(1883-1919)です。

歌人の吉井勇にも愛された小せんは、若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。

それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺を伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通、田舎大尽(だいじん=金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫ということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。本サイト「千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れてみました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日(いっか)に解放(注:娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。その他、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管を突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目小さんの古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽が振られた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

【五人廻し 古今亭志ん朝】

やまざきや【山崎屋】演目

道楽にはまってしまったご大家の若旦那。これはもう、三遊亭円生と林家彦六で有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若旦那、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若旦那は
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若旦那、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若旦那、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若旦那に、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若旦那に」
と佐兵衛が言うと旦那、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われて旦那、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若旦那、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

旦那、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若旦那が忘れたからと金を届ける。

番頭が、旦那自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされた旦那、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

旦那は徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でしたが、意外にやり手は多く、三代目三遊亭金馬、その孫弟子の桂文朝、談志も持ちネタにしていました。円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。噺中の「道中」は花魁道中のこと。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若旦那が掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

正蔵(彦六)のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、魚市が開かれました。落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのでしょう。

【語の読みと注】
鼈甲 べっこう
花魁 おいらん
掛け取り かけとり:借金の取り立て
新造 しんぞ:見習い遊女
禿 かむろ
二番目物 にばんめもの:芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

きんしゅばんや【禁酒番屋】演目

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酒の噺。禁令破りのいつわりの果てに、ついには酒を小便と。尾籠に落ちます。

あらすじ

ある藩で、酒の上の刃傷沙汰が起きたというので、藩士一同に禁酒令が出された。

しかし、なかなか禁令が行き届かず、隠れてチビリチビリやる者が続出。

それではと、城門のところに番屋を設け、出入りの商人が持ち込むものまで厳しくチェックされることになり、いつしかそこは、人呼んで「禁酒番屋」。

家中第一ののんべえの近藤という侍、屋敷内ではダメなので、町の酒屋でグイッと一気に三升。

「禁酒令糞くらえ」
で、すっかりいい心持ちになった。

まだのみ足らず、酒屋の亭主に、
「なんとか工夫して番屋をかいくぐり、拙者の小屋まで一升届けてくれ」
と頼む始末。

もとより上得意のことでもあり、亭主も無下には断れないが、見つかれば営業停止を食らうし、第一、番屋を突破する方法が思いつかない。

困っていると、番頭がうまい知恵を出す。

「五合徳利を二本菓子折りに詰め、カステラの進物だと言って通ればよい」
という。

まあやってみようというので、早速店の者が番屋の前に行ってみるが……。

番人もさるもの。

家中屈指のウワバミにカステラの進物とは怪しいと、抗議の声も聞かばこそ、折りを改められて、
「これ、この徳利はなんじゃ」
「えー、それはその、水カステラてえ、新製品で」
「水カステラァ? たわけたことを申すな。そこに控えおれ。中身を改める」

一升すっかりのまれてしまった。

「これっ、町人。けしからん奴。かようなけっこうな……いや、けしからんカステラがあるか。あの、ここな、いつわり者めがっ」

カステラで失敗したので、今度は油だとごまかそうとしたが、これも失敗。

都合二升もただでのまれ、腹の虫が治まらないのが、酒屋の亭主。

そこで若い衆が、
「今度は小便だと言って持ち込み、仇討ちをしてやろう」
と言いだす。

正直に初めから小便だと言うのだから、こちらに弱みはない。

「……ご同役、実にどうもけしからんもので。初めはカステラといつわり、次は油、またまた小便とは……これ、控えておれ。ただ今中身を取り調べる。……今度は熱燗をして参ったと見える。けしからん奴。小便などといつわりおって。かようにけっこう……いやふらちなものを……手前がこうして、この湯のみへついで……ずいぶん泡立っておるな。……ややっ、これは小便。けしからん。かようなものを持参なし……」
「ですから、初めに小便と申し上げました」
「うーん、あの、ここな、正直者めが」

しりたい

これも大阪ダネ

お食事前にはちょっと、という噺。大阪の「禁酒関所」を、三代目柳家小さんが東京に移し、翻案したものです。

今までアップした噺の中でも、小さんが東京に持ってきたものは相当数あります。単に明治・大正の名人というにとどまらず、三代目小さんという人が、いかに東京の落語に豊かな遺産を残したかがわかります。

大阪の「禁酒関所」は、大筋は同じですが、女に小便をさせる場面があったり、オチには大…まで登場し、「裏門へ回れ」「糞(ばば)食わされる」といった、あざとく汚いものになっています。

小さん代々のやり方

五代目柳家小さんの独壇場でした。

三代目、四代目小さんや、「三代目の影法師」と呼ばれた七代目三笑亭可楽から継承した型に、五代目がさまざまな工夫を加えています。

たとえば、最初に関所を通るとき、五代目は、手代が思わず「ドッコイショ」と言ってしまい、菓子折りがそんなに思いはずがないと怪しまれる演出です。

三代目は、禁酒令が出たのを「小石川新坂の安藤という旗本屋敷」とし、殿さま自ら酒乱で、自分が禁酒する代わりに家来にも禁酒を強いる設定でしたが、五代目はこれを某藩の城下町の出来事としていました。

カステラ

16世紀末にポルトガルから長崎に渡来しました。

語源はスペインの地名「カスティーリャ」から。表記は「粕底羅」「家主貞良」などさまざま。上菓子で、町人の口にはまず入りませんでした。

【禁酒番屋 五代目柳家小さん】

さいぎょう【西行】演目

佐藤義清のりきよとは西行のこと。染殿内侍そめどののないしとの逢瀬おうせはほどほどに。ご教訓めいたバレ噺。

あらすじ

遍歴へんれきの歌人として名高い西行法師。

身分が違うから、打ち明けることもできず悶々もんもんとしているうちに、このことが内侍のお耳に達し、気の毒に思しめして、佐藤義清あてに御文おんふみをしたためて、三銭切手を張ってポストに入れてくれた。

西行、もとは佐藤兵衛尉ひょうえのじょう義清という禁裏警護きんりけいご北面武士ほくめんのぶしだった。

染殿内侍が南禅寺にご参詣あそばされた際、菜の花畑に蝶が舞っているのをご覧あって、「蝶(=丁)なれば二つか四つも舞うべきに一つ舞うとはこれは半なり」と詠まれたのに対し、義清が「一羽にて千鳥といへる名もあれば一つ舞うとも蝶は蝶なり」と御返歌ごへんかしたてまつったのがきっかけで、絶世の美女、染殿内侍に恋わずらい。

「佐藤さん、郵便」というので、何事ならんと義清が見ると、夢にまで見た内侍の御文。

喜んで開けてみると、隠し文(暗号)らしく、「この世にては逢はず、あの世にても逢はず、三世過ぎて後、天に花咲き地に実り、人間絶えし後、西方弥陀さいほうみだ浄土じょうどで我を待つべし、あなかしこ」とある。

「はて、この意味は」と思いめぐらしたが、さすがに義清、たちまち謎を解く。

この世にては逢わずというから、今夜は逢われないということ、あの世は明の夜だから明日の晩もダメ。

三世過ぎて後だから四日目の晩、天に花咲きだから、星の出る項。地に実は、草木も露を含んだ深夜。人間絶えし後は丑三うしみ/rt>ツ時。

西方浄土は、西の方角にある阿弥陀堂あみだどうで待っていろということだろう、と気づいた。

ところが義清、待ちくたびれてついまどろんでしまう。

そこへ内侍が現れ「我なればとり鳴くまでも待つべきに思はねばこそまどろみにけり」と詠んで帰ろうとしたとたんに義清、あやうく目を覚まし、「よいは待ち夜中は恨み暁は夢にや見んとしばしまどろむ」と返した。

これで内侍の機嫌が直り、夜明けまで逢瀬を重ねて、翌朝別れる時に義清が、「またの逢瀬は」と尋ねると内侍は「阿漕であろう」と袖を払ってお帰り。

さあ義清、阿漕あこぎという言葉の意味がどうしてもわからない。

歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉がわからないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようと、その場で髪をおろして西行と改名。

諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が、「ハイハイドーッ。さんざん前宿で食らやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねえぞ」。

これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると、「ナニ、この馬でがす。前の宿揚で豆を食らっておきながら、まだ二宿も行かねえのにまた食いたがるだ」

「あ、してみると、二度目の時が阿漕かしらん」

しりたい

阿漕   【RIZAP COOK】

阿漕とは、 

伊勢の海 阿漕ヶ浦に ひく網も 度重なれば 人もこそ知れ

という「古今六帖」の古歌から。

阿漕ヶ浦に網を引くのを何度も繰り返していると他人に知られてしまうことよ、という意味。「阿漕」には当初は「たびかさなる」という意味で使われていました。それが江戸時代に入ると転じて「強欲、あつかましい、際限なくむさぼる」意味に変わりました。

阿漕ヶ浦は、今の三重県津市南部の海岸。伊勢神宮に供える魚を捕るため、一般には禁漁地でした。それを、病気の母を思い、平次なる男が禁断を犯して魚を取ったたまに簀巻きにされたという伝説が残りました。ここから古浄瑠璃『あこぎの平次』、人形浄瑠璃『田村麿鈴鹿合戦』(勢州阿漕浦)などがつくられました。先行作品に能『阿漕』や御伽草子『阿漕の草子』がありますが、これらには「平次」の名はありません。「阿漕」は歌枕として残りました。

染殿内侍   【RIZAP COOK】

内侍は、禁断の恋も、しつこいのはお互いに身の破滅よ、と歌によそえてぴしゃりと言い渡したわけです。

馬子は、だから歌を介して発生した「アコギ=欲深でしつこい」という語意で、馬を罵っているのですが、西行先生、「豆」が女陰の隠語ということだけが頭に浮かんで、「二回もさせたげたのに、未練な男ね」と怒ったのかと、即物的な解釈をしたわけです。

このあたりが落語の機微で、歌をひねくりまわしているうちにいつの間にかエロ噺と化しているのですね。セックスといえども、大らかなウィットの衣で包み込むセンス。なるほど。見習いたいものです。

染殿内侍という女性が実在したのかどうかしらはっきりしません。染殿内侍が登場する『大和物語』や『伊勢物語』から察すれば、在原業平と同時代の人、つまり、9世紀の人ということになるでしょう。

永久6年(=元永元年、1118)生まれの西行とは300歳ほども「年上」となります。南禅寺が出てくるのも奇異でして、この噺はでたらめが過ぎます。西行は12世紀の人、染殿内侍は9世紀の人、南禅寺は13世紀の創建で、ひどくちぐはぐです。落語ですし、バレ噺ですし、「でたらめだ」と目くじら立てるほどのことでもありますまい。

それでも、染殿内侍なんていう女性が取り上げられること、ネットではめったにないようですから、ここではわかる範囲で記しておきましょう。

在原業平には3人の息子がいたとされています。三男滋春の母親が染殿内侍だとされています。これは『伊勢物語』の冷泉家流古注本に記されています。文芸や芸能史の世界では、事実かどうかよりもそういうふうに認識されて後世に伝わっていることのほうが大切なのです。少なくとも、江戸時代の人はこのように認識していたわけですから、ここのところを読み解かなくては、噺の真意には近づけません。

染殿内侍は在原業平と契った女性ということになります。これこそ、染殿内侍がこの噺に登場できることになった前提条件でしょう。

染殿というのは、藤原良房の邸宅をさします。京の都は、「一条大路の南、正親町小路の北、京極大路の西、富小路の東」のあたりにあったそうです。良房は、臣下としては初の太政大臣、摂政となり、藤原北家繁栄のきっかけを作った人です。染殿大臣などと呼ばれていました。その娘の明子は文徳天皇に入内して、のちの清和天皇を生みました。明子は染殿后と呼ばれていました。染殿后は美麗であったそうで、『今昔物語集』には、后の美しさに迷った聖人が天狗(あるいは鬼)となって后を悩ます、という話が載っています。

内侍というのは、宮廷の奥、後宮で天皇に付き従って働く女官のことです。染殿内侍とは、染殿后に付き従った女官をさします。ただ、内侍という職階は、もとは斎宮寮での仕事をつかさどっていたんだそうです。斎宮とは伊勢神宮に奉仕する皇室ゆかりの女性で、天皇名代です。内侍と伊勢神宮とはかかわり深かったようです。

「隠者の歌詠み」として後世に名を残した西行。その大先輩が在原業平といえるでしょう。「むかし男ありけり、その男、身をえうなきものに思ひなし」で始まり、都から遠のいて流浪する男の物語です。業平とおぼしき男が主人公として描かれた『伊勢物語』(10世紀頃)は、『源氏物語』(11世紀初頭)が登場するまで貴族の間では最高の教養文芸でした。業平も染殿内侍も、宮廷人の中ではよく知られた存在だったのですね。流浪する業平は隠者の草分けでもあり、色好みの雄でもありました。聖と俗を両有しているのですね。その業平の思い人の一人が染殿内侍です。これはすごい。業平がジェームス・ボンド役のショーン・コネリーだとしたら、染殿内侍はアーシュラ・アンドレス(「ドクターノオ」の)か、はたまた若林映子あきこさん(「007は二度死ぬ」の)といったところでしょう。あるいは、業平は『古今和歌集』のスーパースターですから、『新古今和歌集』のスーパースター西行とからむには十分な好敵手ともいえるでしょう。

なんと美しい若林映子さま。小三治師匠とは高校で同窓

西行の存在   【RIZAP COOK】

西行は『新古今和歌集』に94首が載っています。残した歌は約2300首。歌人の最高峰です。

江戸時代は百人一首が人々の教養だったのですから、西行も染殿内侍(百人一首には入ってはいませんが)も、江戸の人々にはおなじみさんだったのですね。この噺、時代感覚はでたらめですが、噺の中の歌も同様にでたらめです。みんなが知っている教養を肴に笑う、という趣向だったのでしょう。

西行は、時代を経るごとにその存在感がどんどんスーパースター化していきました。源頼朝から拝領した銀の猫を門外で遊ぶ子供にあげてしまったり(無欲潔癖)、院の女房や江口の遊女と歌を詠み交わしたり(数奇者)といった逸話が書き残されていきます。『西行物語』と『選集抄』がその双璧です。さらに、連歌師の理想像とされ、その精神を引き継いだ芭蕉にいたっては隠者の最高位の認定を与えています。江戸時代の西行評価は、隠者文学の最高峰、わびさび文化の体現者、歌詠みとしては柿本人麿と双璧です。蓑笠をつけた西行の図は多くの文人画や浮世絵の題材となりました。そんな逸話の一つ。西行が伊勢神宮を詣でた際には、仏教者であるため付け鬢姿で、つまり俗人のなりで参宮したといわれています。

なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

存疑の歌といわれています。見えない神さまに接して落涙するというもの。われわれが神社におまいりするときに感じる思いの延長線にあるようです。伊勢では二見浦に庵を結び、地元の神職者荒木田氏と交わったそうです。

と、このように記していって、見えてくるものがありました。西行、伊勢、和歌、女性、浦……。江戸人が抱く西行のイメージ。そのすべてを込めたものがこの噺「西行」なのではないでしょうか。登場する時代も歌もでたらめですが、その自在闊達、融通無碍な雰囲気がいかにも江戸人の西行なのでしょう。

西行は、江戸人どころか、その後の日本人もが理解し得る人と形成されていきました。寺院や宗派を超えて(高野山の真言宗の僧侶ではありましたが)受容され、理解された日本的な仏道者で、日本人の人生観や美意識を表現してくれた人だったのではないでしょうか。

この噺、「柳亭痴楽はイイオトコ」の痴楽がたまに演じていました。いまや、どうでもよいことですね。

参考文献:木戸久二子「染殿内侍をめぐって–『大和』から『伊勢』古注、そして『古今』注へ」(三重大学日本語学文学12号、2001年6月)

【語の読みと注】
染殿内侍 そめどののないし
佐藤義清 さとうのりきよ:西行のこと
阿漕 あこぎ:阿漕ヶ浦
藤原良房 ふじわらのよしふさ
正親町小路 おおぎまちこうじ
染殿大臣 そめどののおとど
明子 あきらけこ、あきらけいこ
入内 じゅだい:嫁ぐ
染殿后 そめどののきさき

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【西行 三代目三遊亭円歌】

あたまやま【あたま山】演目

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花見あとのさくらんぼを食べたら頭から。何度聴いてもはぐらかされる不思議。

別題:頭が池 さくらんぼ 

あらすじ

春は花見の季節

周りはみな趣向をこらして桜の下でのみ放題食い放題のドンチャン騒ぎをやらかすのが常だが、ここに登場のケチ兵衛という男、名前通りのしみったれ。

そんなことに一文も使えないというので、朝から晩までのまず食わずで、ただ花をぼんやり見ながらさまよい歩いているだけ。

しかし、さすがに腹が減ってきた。

地べたをひょいと見ると、ちょうど遅咲きの桜が、もうサクランボになって落ちているのに気づき、「こりゃ、いいものを見つけた」と、泥の付いているのもかまわず、一粒残さずむさぼり食った。

翌朝。どういうわけか頭がひどく痛んできて、はて、おかしいと思っているうちに、昨日泥の付いたサクランボを食ったものだから、頭の上にチェリーの木の芽が吹いた。

さあ大変なことになったと、女房に芽をハサミで切らせたが、時すでに遅く、幹がにょきにょきっと伸び出し、みるみる太くなって、気がついた時は周りが七、八尺もある桜の大木に成長。

さあ、これが世間の大評判になる。

野次馬が大勢押しかけて、ケチ兵衛の頭の上で花見をやらかす。

茶店を出す奴があると思うと、酔っぱらってすべり落ち、耳のところにハシゴを掛けて登ってくる奴もいる。

しまいには、頭の隅に穴を開けて、火を燃やして酒の燗をするのも出てくる始末。

さすがにケチ兵衛、閉口して、「いっそ花を散らしてしまえ」というので、ひとふり頭を振ったからたまらない。

頭の上の連中、一人残らず転がり落ちた。

これから毎年毎年、頭の上で花が咲くたびにこんな騒ぎを起こされた日にはかなわないと、ケチ兵衛、町中の人を頼んで、桜の木をエンヤラヤのドッコイと引っこ抜いた。

ところが、あまり根が深く張っていたため、後にぽっかりと大きな穴が開き、表で夕立ちに逢うと、その穴に満々と水がたまる。

よせばいいのに、この水で行水すれば湯銭が浮くとばかりに、そのままためておいたのがたたって、だんだんこれが腐ってきて、ボウフラがわく、鮒がわく、鯰がわく、鰻がわく、鯉がわく……とうとう、今度は頭の池に養魚場ができあがった。

こうなると釣り師がどっと押しよせ、ケチ兵衛の鼻の穴に針を引っかけるかと思えば、釣り舟まで出て、芸者を連れてのめや歌えの大騒ぎ。

ケチ兵衛、つくづくイヤになり、こんな苦労をするよりは、いっそ一思いに死んでしまおうと、南無阿弥陀仏と唱えて、自分の頭の池にドボーン。

底本:八代目林家正蔵(彦六)

しりたい

昔はケチの小咄だった   【RIZAP COOK】

昔は、ちょっと毛色の変わったケチの小咄程度としか見られず、マクラ噺として扱われていましたが、なかなかどうして、その奇想といい、シュールこの上ないオチの見事さといい、落語屈指の傑作といっていいでしょう。

彦六で亡くなった八代目林家正蔵が、頭池に釣り舟が出るくだりを加えるなどして、一席噺にまとめあげました。その正蔵も、それでもまだ短いので、最初に、河童の子が逆に人間に尻子玉を抜かれ、親が「素人にしちゃ上出来だ」と感心する小咄を振っていました。五代目古今亭志ん生は、「もう半分」のマクラにこの噺を用いています。

「頭の池に身を投げた」というオチは「考えオチ」といい、客をケムに巻くものですが、両巨匠の「解説」は後述します。

ケチ兵衛の投身自殺   【RIZAP COOK】

どうやって自分の頭の池にざんぶり飛び込んだか。彦六、志ん生両師匠の見解は?

●彦六

年寄りに聞くってえと、細長いひもをぬう場合、最初は糸目を上にしてぬって、ぬいあがると物差しをあてがって、一つ宙返りをさせる。すると完全な細ひもになる。理屈はあれと同じで、頭に池があれば、人間がめくれめくれて、みんな池の中にへえっちまう。

●志ん生

おかァさまが、赤ちゃんの付けひもなどをぬうときに、スーッとぬっといて、クルッとこうひっくり返します。煙草入れの筒も、そうなんで、ぬっといて、キュッとやって、クルクルクルッとひっくりかえす。で、まァ、ケチ兵衛さんが、自分で自分で自分の頭の池に身を投げたのは、やっぱりその型でな、グルグルグルグルッと(指先で三つばかり円を描いて)こうなって、えー、そうして、えー、身を投げた。

これでおわかりでしょうか?

ほらふき男爵の冒険    【RIZAP COOK】

泥のついた桜の実を種ごとかじったのが、ケチ兵衛の災厄の始まり。

ところが、世界中には似たような話もあるもの。

ドイツのゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが18世紀にものした「ミュンヒハウゼン物語(ほらふき男爵の冒険)」にこんな話があります。

主人公のミュンヒハウゼン男爵が鹿撃ちに出かけ、猟銃に弾丸とまちがえてサクランボの種をこめて撃ったところ、見事命中。一年後に同じ場所に行ってみると、出会った大鹿の頭に桜の枝が生い茂っていたというホラ話。

ビュルガーはゲッティンゲン派の詩人です。18世紀に勃興した民俗学、口承文芸、神話学、伝説学などの影響を受け、これらを題材にパロディーやホラ話をさかんに創作しました。大学をりっぱに出ながらも、無給、薄給、不倫、重婚など、不遇な人生の繰り返しでした。

【あたま山 林家彦六】

じっとく【十徳】演目

噺の全編、これ駄洒落の全員集合。ばかばかしいだけ。落語のおたのしみです。

あらすじ

ふだん物知り顔な男。

髪結床かみゆいどこで仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、さっそく隠居のところへ聞きに言った。

隠居は「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとくで十徳だ」と教え、「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹かねふきちょうの金座御用の後藤が金を出し合って掛けたから、ゴトとゴトで一石だ」とウンチクをひとくさり。

「さあ、今度は見やがれ」と床屋に引き返したはいいが、着いた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。

「ええと、立てば衣のようだ、座れば羽織のようだ、ヨウだヨウだで、やだ」
「いやならよしにしねえ」
「そうじゃねえ、立てば衣みてえ、座れば羽織みてえ、みてえみてえでむてえ」
「眠たけりゃ寝ちまいな」
「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これはしたり」

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遊び心に富むダジャレ噺  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、安永2年(1773)刊『御伽草おとぎぞうし』中の「十徳のいわれ」で、そっくりそのままです。

江戸にはシャレ小咄が多く、ばかばかしいようで遊び心とウイットに富み、楽しいものです。

落語の「一目上がり」などもそうですが、数でシャレるものがあります。たとえば。

屋島やしまいくさで、平教経たいらののりつねが源義経を見て、勝負をしそうになった。義経は臆して、『よそうよそう』で八艘はっそう飛び」
「西と書いて産前産後と解く。その心は、二四は三前三後」

いろいろあります。

本来、前座噺ですが、大看板では八代目春風亭柳枝りゅうし(1959年没)がよく演じました。

上方ではこの後、「ごとくごとくで十徳やろ」と先回りされ、困って、「いや、たたんでとっとくのや」と落とします。

これはしたり  【RIZAP COOK】

オチに使われていますが、今ではどうでしょう。

「これはしき(=悪い)ことしたり」の真ん中が取れた言葉といわれ、「しまった」と「驚いた」の両義に使われます。

この噺では前者でしょうが、ダジャレなので、あまり詮索しても意味はありません。

仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら」五段目・山崎街道鉄砲渡しの場で、狩人となっている早野勘平はやのかんぺいが、かつての同僚の千崎弥五郎せんざきやごろうに偶然出会い、両人膝をたたいて「これはしたり」と言います。この場合は後者の意味で、歌舞伎ではこのパターンは紋切り型で繰り返し使われます。

十徳  【RIZAP COOK】

脇を縫いつけた、羽織に似た着物です。おもに儒者、絵師、医者らが礼服として用いました。本当の語源は、「直綴じきとつ」からの転訛てんかで、脇をじてある意味でしょう。

鎌倉時代末期に始まるといわれ、古くは武士も着用しました。江戸時代には腰から下にひだを付け、普段着にもなりますが、はかまは履かないのが普通でした。

そもそもは、鎌倉末期に素襖すおうより下級の小素襖こずおうのことです。高貴な人が外出する時に輿こしきやともざむらいが上着の上から掛けて、腰回りを帯で締めて四幅袴よのばかまを履くようになりました。室町時代には上下ともに侍の旅行用衣服に転じ、江戸時代には袴が省略されて、儒者、医師、俳諧師、絵師、茶人など、剃髪ていはつした人の外出着や礼服と変化していきました。黒無紋くろむもん精好せいごうしゃといった布地で仕立て、脇を縫い綴じ、ともれのひらぐけの短い紐を付けて、腰から下にひだをこしらえています。見るからに浮世離れした風流人の上品な風情です。これが変化していって、羽織はおりとなっていきます。

後藤は江戸の「造幣局」  【RIZAP COOK】

金座は勘定奉行に直属です。家康が貨幣制度の整備を企てて日本橋に金座を設け、新両替町しんりょうがえちょう(中央区銀座一~四丁目)に駿府すんぷから銀座を移転。家臣の後藤庄三郎光次に両方を統括させ、金貨・銀貨を鋳造・鑑定させたのが始まりです。

金座の設置は文禄4年(1595)、銀座は慶長17年(1612)とされます。後藤庄三郎は代々世襲で、大判小判を俗に「光次みつつぐ」と呼んだのはそのためです。

金座は当初、日本橋金吹かねふきちょう(「長崎の赤飯こわめし」参照)に設けられ、後藤の配下で、実際に貨幣に金を吹きつける役目の業者を「金吹き」と呼びましたが、元禄8(1695)年にこれを廃止。

新たに鋳造所を本郷に移転・新築しましたが、間もなく火事で全焼し、同11年(1698)、後藤の官宅があった、金吹かねふきちょうのすぐ真向かい、日本橋本石町二丁目の現日銀本店敷地内へ再移転しました。

一石橋  【RIZAP COOK】

もとは「いちこくばし」でしたが、いまは「いっこくばし」と言い慣わしています。中央区日本橋本石町ほんこくちょう一丁目から、同八重洲やえす一丁目までの外堀そとぼり通りを南北に渡し、北詰きたづめに日本銀行本店、その東側に日本橋三越があります。

この橋上から自身と常磐ときわ橋、呉服橋、鍛冶かじ橋、銭亀ぜにかめ橋、日本橋、江戸橋、道三どうさん橋と、隅田川を代表する八つの橋を一望する名所で、別名を「八ツ橋」「八つ見の橋」といったゆえんですが、現在は高速道路の真下です。

噺の中の「ゴトとゴトで一石」は俗説です。このダジャレ説のほか、橋のたもとに米俵を積み上げ、銭一貫文と米一石を交換する業者がいたからとする説も。どちらも信用されていなかったらしく、「屁のような由来一石橋いっこくばしのなり」と、川柳で嘲笑される始末でした。

もう一つの「呉服屋の後藤」は、幕府御用を承る後藤縫之助で、「北は金 南は絹で 橋をかけ」と、これまた川柳に詠まれました。

一石橋の南の呉服橋はこの後藤の官宅に由来し、橋自体、元は「後藤橋」と呼ばれていたとか。一石橋の南詰に安政4年(1857)、迷子札に代わる「まひごのしるべ石」が置かれ、現存しています。

【RIZAP COOK】

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【十徳 八代目春風亭柳枝】

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にんぎょうかい【人形買い】演目

 

初節句のお返しに人形を。いい年した大人が青っぱなのガキにそそのかされて。

あらすじ

長屋の神道者しんとうじゃの赤ん坊が初節句で、ちまきが配られたので、長屋中で祝いに人形を贈ることになった。

月番の甚兵衛が代表で長屋二十軒から二十五銭ずつ、計五円を集め、人形を選んでくることになったが、買い方がわからない。

女房に相談すると、「来月の月番の松つぁんは人間がこすからいから、うまくおだててやってもらいな」と言う。

馬鹿正直な甚兵衛がそれを全部しゃべってので、本人は渋い顔。

行きがかり上、しかたなく同行することになったが、転んでもただで起きない松つぁん、人形を値切り、冷や奴で一杯やる金をひねり出す腹づもり。

人形屋に着くと、店番の若だんなをうまく丸め込み、これは縁つなぎだから、この先なんとでも埋め合わせをつけると、十円の人形を四円に負けさせることに成功。

候補は豊臣秀吉のと神功皇后じんぐうこうごうの二体で、どちらに決めるかは長屋に戻り、うるさ方の易者と講釈師の判断を仰がなければならない。

そこで、さっき甚兵衛が汚い人形と間違えた、青っぱなを垂らした小僧に二体を担がせて店を出る。

ところがこの小僧、とんだおしゃべりで、この人形は実は一昨年の売れ残りで処分に困り、だんなが「店に出しておけばどこかの馬鹿が引っかかって買っていく」と吹っ掛けて値段をつけた代物で、あと二円は値切れたとバラしたから、二人はまんまとだまされたとくやしがる。

その上、若だんなが女中おもよに言い寄るシーンを話し、十銭せしめようとするのでまたまた騒然。

帰って易者に伺いを立てると、早速、卦を立て
「本年お生まれの赤さんは金性。太閤秀吉公は火の性で『火剋金』で相性はよろしからず。神功皇后さまは女体にわたらせられるから、水性。水と金は『金生水』と申して相性がよい。神功皇后になさい」
というご託宣。

二人が喜んで帰ろうとすると、
「見料五十銭置いていきなさい」

これで酒二合が一合に目減り。講釈師のところへ行くと
「そも太閤秀吉という人は、尾州愛知郡百姓竹阿弥弥助のせがれにして幼名を日吉丸……」
と、とうとうと「太閤記」をまくしたてる。

「それで先生、結局どっちがいいんで」
「豊臣家は二代で滅んだから、縁起がよろしくない。神功皇后がよろしかろう」

それだけ聞けば十分と、退散しようとすると
「木戸銭二人前四十銭置いていきなさい」

これで冷や奴だけになったと嘆いていると
「座布団二枚で十銭」

これで余得はなにもなし。

がっかりして、神道者に人形を届けにいくと、甚兵衛が、ちまきは砂糖をかけなくてはならないからかえって高くつくという長屋の衆の陰口を全部しゃべってしまう。

神道者は
「お心にかけられまして、あたくしを神職と見立てて、神宮皇后さまとはなによりもけっこうなお人形でございます。そも神功皇后さまと申したてまつるは、人皇十四代仲哀天皇の御后にて……」
と講釈を並べ立てるから、松つぁんあわてて
「待った待った、講釈料は長屋へのお返しからさっ引いてください」

【RIZAP COOK】

しりたい

三代目円馬が上方から  【RIZAP COOK】

上方落語で、三代目三遊亭円馬が明治末年に東京に移植しました。

隠れた円生の十八番  【RIZAP COOK】

円馬の元の型は、人形屋の主人が親切から負けてくれる演出でした。それを、三代目桂三木助と六代目三遊亭円生が直伝で継承し、それぞれ得意にしていました。円生のでは、長屋から集金せず、辰んべという男が博打で取った金を、前借するという段取りです。現在聞かれる音源は、東京のものは円生の吹き込みのみです。

インチキ祈禱師はいつの世も  【RIZAP COOK】

神道者は、神道系の祈祷師のことで、京都の白河家か吉田家の支配(管理)を受け、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬ姿で鈴を振ってお祓いして回ります。俗に拝み屋、上方では「祓いたまえ屋」とも呼ばれましたが、仏教系の願人坊主同様、かなり胡散臭い手合いでした。読み方はいくつかありますが、江戸では「しんとうじゃ」と読むことが多かったようです。

江戸の人形屋  【RIZAP COOK】

人形屋は、大店は俗に十軒店じっけんだな、現在の日本橋室町三丁目付近に集まっていました。そのほか露店で主に土人形や市松人形を安く売る店がそこここにありましたが、この噺の人形は節句の武者人形で、相当値段が張りますから、十軒店のちゃんとした店でしょう。頭が木彫り、胴体は藁と紙の衣装人形です。

神功皇后  【RIZAP COOK】

仲哀天皇の皇后。熊襲くまそ侵攻に従って筑紫つくしに向かっているさなか急の崩御にも遭い、身重をもいとわず、韓半島の新羅しらぎに出向いて制圧、百済くだら高句麗こうくりも帰服させ、出産した幼帝とともに大和に凱旋、70年以上も摂政につとめた人、と記紀にはそういうことになっていますが、よくわかりません。幼帝は応神天皇です。新羅の王子アメノヒボコの系統ということですから、韓半島とのかかわりは強かったのでしょう。戦前は武内宿禰たけうちのすくねと並んで節句人形の人気キャラでした。武内宿禰たけうちのすくねは高齢の忠臣として、これまた記紀中の人物。両者とも国威発揚にかなった人物でしたが、いまは顧みられません。

【語の読みと注】
神道者 しんとうしゃ しんとうじゃ しんどうじゃ
十軒店 じっけんだな
神功皇后 じんぐうこうごう
武内宿禰 たけうちのすくね

【RIZAP COOK】

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【人形買い 三遊亭円生】

そこつながや【粗忽長屋】演目

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「粗忽」とはあわてん坊の意。行き倒れの主が自分!? 粗忽者はさて、どうする。

あらすじ

長屋住まいの八五郎と熊五郎は似た者同士で、兄弟同様に仲がいい。

八五郎は不精ぶしょうでそそっかしく、熊五郎はチョコチョコしていてそそっかしいという具合で、二人とも粗忽さでは、番付がもしあれば大関を争うほど。

八の方は信心はまめで、毎朝浅草の観音さまにお参りに行く。

ある日、いつもの通り雷門かみなりもんを抜け、広小路ひろこうじにさしかかると、黒山の人だかり。

行き倒れだという。

強引に死体を見せてもらうと、そいつは借りでもあって具合が悪いのか、横を向いて死んでいる。

恐ろしく長っ細い顔だが、こいつはどこかで見たような。

「こいつはおまえさんの兄弟分かい」
「ああ、今朝ね、どうも心持ちが悪くていけねえなんてね。当人はここで死んでるのを忘れてんだよ」
「当人? おまえさん、兄弟分が浅ましい最期さいごをとげたんで、取りのぼせたね。いいかい、しっかりしなさいよ」
「うるせえ。のぼせたもクソもあるもんけえ。うそじゃねえ明かしに、おっ死んだ当人をここへ連れて来らァ」

八五郎、脱兎だっとのごとく長屋へ駆け込むや、熊をたたき起こし、
「てめえ、浅草の広小路で死んだのも知らねえで、よくもそんなにのうのうと寝てられるな」
と息巻く。

「まだ起きたばかりで死んだ心持ちはしねえ」
と熊。

昨夜どうしていたかと聞くと、本所ほんじょの親類のところへ遊びに行き、しこたまのんで、吉原をヒヤカした後、田町でまた五合ばかり。その後ははっきりしないという。

「そーれ見ねえ。つまらねえものをのみ食いしやがるから、田町から虫の息で仲見世なかみせあたりにふらついてきて、それでてめえ、お陀仏だぶつになっちまったんだ」

そう言われると、熊も急に心配になった。

「兄貴、どうしよう」
「どうもこうもねえ。死んじまったものはしょうがねえから、これからてめえの死骸しがいを引き取りにいくんだ」
というわけで、連れ立ってまた広小路へ。

「あらら、また来たよ。あのね、しっかりしなさいよ。しょうがない。本人という人、死骸をよくごらん」

コモをまくると、いやにのっぺりした顔。

当人、止めるのも聞かず、死体をさすって、
「トホホ、これが俺か。なんてまあ浅ましい姿に……こうと知ったらもっとうめえものを食っときゃよかった。でも兄貴、何だかわからなくなっちまった」
「何が」
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」

しりたい

主観長屋?   【RIZAP COOK】

アイデンティティー(本人に間違いないこと)の不確かさを見事に突いた鮮やかなオチです。

立川談志は、主人公の思い込みの原因は「あまりにも強すぎる『主観』にある」という解釈で、「主観長屋」の題で演じましたが、この場合の「主人公」は八五郎の方で、いったん、こうと思い込んだが最後、刀が降ろうが槍が降ろうがお構いなし。1+1は3といったら3なのです。

対照的に相棒の熊は、自我がほぼ完璧に喪失していて、その表れがオチの言葉です。

どちらも誇張されていますが、人間の両極を象徴しています。

四代目柳家小さんは、「死んでいるオレは……」と言ってはならないという教訓を残していますが、なるほど、この兄ィは、自分の生死さえ上の空なのですから当然でしょう。

代々の小さんに受け継がれた噺で、現在では、脳内に霞たなびく熊五郎が抱腹絶倒ほうふくぜっとうの柳家小三治が、その直系のように思えます。

三代目小さんの貴重な音源が残るほか、五代目志ん生、五代目小さん、談志のものが多く出ています。

自身番のこと   【RIZAP COOK】

自身番屋じしんばんやは、町内に必ず一つはあり、防犯・防火に協力する事務所です。

昼間は普通、町役ちょうやく(おもに地主)の代理である差配さはい(大家)が交代で詰め、表通りに地借りの商家から出す店番たなばん1名、事務や雑務いっさいの責任者で、町費で雇う書役しょやく1名と、都合3名で切り盛りします。

行き倒れの死骸の処理は、原則として自身番の役目です。

身元引受人が名乗り出れば確認のうえ引き渡し、そうでなければお上に報告後回向院えこういんなどの無縁墓地に投げ込みで葬る義務がありました。

その場合の費用、死骸の運搬費その他は、すべて町の負担でした。

したがって、自身番にすれば、こういうおめでたい方々が現れてくれれば、かえって渡りに船だったかもしれません。

浅草広小路   【RIZAP COOK】

浅草寺の雷門前のあたりをいいました。雷門広小路とも。台東区浅草一丁目、二丁目。

浅草広小路には、女川菜飯めかわなめしという人気の飯屋がありました。ここの菜飯は、東海道の石部・草津間にある目川めかわ村でつくられる菜飯の風味をまねていたそうです。客寄せから、目川が女川に。値段は1膳12文、菜飯以外に田楽も出したそうです。

【粗忽長屋 立川談志】

ぎがん【義眼】演目

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目がらみの噺。江戸では眼病の男がよほど多かったのでしょう。

別題:入れ目 のぞき医者(上方)

あらすじ

ある男、目の具合がどうもよくないので、医者に相談するが、ますます見えなくなるばかり。


眼科の先生もしまいには面倒くさくなり、えいとばかり悪い方の目をスッポリ抜き取り、代わりに義眼をはめ込んでごまかしてしまった。

「あー、どうです具合は?……そりゃよかった。それから、入れた方の目は夜は必要ないンだから、取りましてね、枕元に水を置いて、浮かべときなさい。そうすりゃ長持ちするから」

入れ歯と間違えているようだが、当人すっかり喜んで、その夜、吉原のなじみの女郎のところへ見せびらかしに行く。

男前が上がったというので、その晩は大変なモテよう。

さて、こちらは隣部屋の客。

反対に相方の女が、まるっきり来ない。

女房とけんかした腹いせのお女郎買いなのに、こっちも完璧に振られ、ヤケ酒ばかり喰らい、クダを巻いている。


「なんでえ、えー、あの女郎は……長えぞオシッコが。牛の年じゃあねえのか?それにしても、隣はうるさいねえ。え、『こないだと顔が変わった』ってやがる。七面鳥のケツじゃあるめえし、え、そんなにツラが変わるかいッ!こんちくしょうめ!」


焼き餠とヤケ酒でのどがかわき、ついでにどんなツラの野郎か見てやろうと隣をのぞくと、枕元に例の義眼を浮かべた水。


色男が寝ついたのを幸いにしのびこんで、酔い覚めの水千両とばかり、ぐいっとのみ干したからたまらない。


翌日からお通じはなくなるわ、熱は出るわで、どうにもしようがなくなって、医者に駆け込んだ。


さて……「あー、奥さん、お宅のご主人のお通じがないのは、肛門の奥の方に、なにかさまたげてるものがありますな」

サルマタを取って、双眼鏡で肛門をのぞくなり、先生、「ぎゃん」と叫んで表へにげだした。

男の女房が後を追いかけてきて、「先生、いったいどうなさったんです」「いやあ驚いた。今、お宅のご主人の尻の穴をのぞいたら、向こうからも誰かにらんでた」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

「いれめ」とも  【RIZAP COOK】

「義眼」と記して、「いれめ」と読んだりもします。

短いけれども、楽しいナンセンスにあふれた展開、オチの秀逸さで、落とし噺としては、最もすぐれたもののひとつといえるでしょう。

五代目古今亭志ん生が時々、心から楽しそうに演じていた噺で、速記を読んだだけで吹き出してしまうほど。

意外にも、初代三遊亭円左えんざが得意にしていました。明治の大看板で人情噺の大家です。それを、柳家三語楼さんごろうがさらにギャグを加え、オチも円左の「尻の穴ににらまれたのは初めてだ」から、よりシュールな現行のものに変えました。三語楼は大正、昭和初期の爆笑王でした。五代目志ん生の最後の師匠でもあります。

三語楼から志ん生、さらに、初代柳家権太楼ごんたろうに継承されました。権太楼も、昭和初期に「猫と金魚」などの爆笑落語で売れた人です。

権太楼のレコードは、尻をメガネでのぞく場面が、なんと効果音入りという凝ったものだったとか。

志ん生の音源発掘!  【RIZAP COOK】

志ん生の、未公表のきわめて貴重な音源・映像・写真を多数含む『講談社DVDBOOK・志ん生復活!落語大全集』(2004-05年)全13巻が発売されました。第5巻に「義眼」が収録されています。カセットテープ版として、日本クラウンから発売されたものを改めて収録したものです。

この巻には長男の馬生とのリレー落語「宿屋の富」(初公開)も収録。志ん生フリークには楽しめる一冊です。

【義眼 古今亭志ん生】

落語の死神

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三遊亭円朝は福池源一郎(桜痴)から西洋の話を聞いて、「死神」という一編をこさえたといわれています。

死神とは、死をつかさどる神、人を死にいざなう神、といわれています。

これはどうも、西洋にはいても、日本には存在しません。仏教にも神道にも。

ましてや、大鎌を振り下げようとする黒い法衣をまとった骸骨顔の死神装束は、どう逆立ちしても異文化もいいところ。

落語の死神は、聴けば、なんだか托鉢僧のように思えますが、その姿格好のほどはよくわかりません。

近松門左衛門が18世紀初頭に「死神」ということばをいくつかの作品に使っています。でも、これは決定打にはなりません。西洋からの、つまりは長崎経由の知識だった可能性もあるのですから。

宝永3年(1706)上演の「心中二枚絵草紙」では、いざ心中という男女を「死神の導く道や……」と描いています。

宝永6年(1709)上演の「心中刃は氷の朔日」では、男と心中しようとした女が「死神の誘う命のはかなさよ」とひとりごちています。死神の存在が男女を心中に至らせるのを言っているのか、心中のようすを死神にたとえているのかが、どうもよくわかりません。「死神」ということばを入れることで命の短さやはかなさを描いているようにも思えます。

享保5年(1720)上演の「心中天網島」に「あるともしらぬ死にがみに、誘われ行くも……」とあります。主人公の紙屋治兵衛から「紙」と「神」をかけいるわけで、死を目前にする人の心を表したものでしょう。「あるともしらぬ死神に」と言っているところを素直に読めば、近松本人が死神の存在をわかっていない可能性もあります。なんともいやはや。

これだけの例で語れるものではありませんが、日本には死神という概念はなかったのではないか、と思われます。

そこで円朝。

幽霊なんかばっかり登場させていた円朝は、明治になったら聴衆に飽きられてしまい、「それでは」と新案として出してきたのが、死神という新キャラクターだったようです。

原話はグリム童話の「死神の名付け親」だとか、ルイージ・リッチ、フェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」だとかいわれていますが、どっちなのか、どっちでもありなのか、そんなことは、とりあえずここではどうでもよい話としておきましょう。

重要なのは、死神が最後に見せるロウソクです。

人の一生をロウソクにたとえるアイデアは西洋独自のもので、明治より前の日本(というか東洋)にはありません。

人の命にはロウソクのように始めから長さが決まっているとして、可視化できる概念は、東洋には、少なくとも日本にはありませんでした。

いまや西洋文物にどっぷり浸かっているわれわれ日本人には、「おふみ」の意味がわからなくても、「死神」のロウソクにたとえられた人の命の長さはずっとわかりやすいのではないでしょうか。とほほ、です。

最後に、「死神」のお楽しみのひとつ、あの呪文のいくつかを列挙してみましょう。演者によって微妙に違いますが、まあ同じと言えば同じでしょうか。

原作者とされる円朝。彼の速記には、呪文がありません。

アジャラカモクレン キューライス テケレッツのパア

アジャレン モクレン キンチャン カーマル セキテイヨロコブ テケレッツのパア

エンヤカヤハヤ エッヘイハー プータゲナー メイホアツー チンチロリン

アジャラカモクレン エベレスト テケレッツのパア

アジャラカモクレン アルジェリア テケレッツのパア

アジャラカモクレン ハイジャック テケレッツのパア

アジャラカモクレン セキグンハ テケレッツのパア

アジャラカモクレン モウタクトウ テケレッツのパア

アジャラカモクレン コウエイヘイ テケレッツのパア

アジャラカモクレン ピーナッツ テケレッツのパア

アジャラカモクレン ダイオキシン テケレッツのパア

チチンブイブイ ダイジョーブイ テケレッツのパア

アジャラカモクレン エヌエイチケ テケレッツのパア

アジャラカモクレン トラノモン テケレッツのパア

アジャラカモクレン テケレッツのパア (柏手)ポンポン

アジャラカモクレン テケレッツのパア 定年後の貯金は二千万

古木優

【死神 柳家喬太郎】

スヴェンソンの増毛ネット

しにがみ【死神】演目

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古典落語の傑作ですが、元ネタはイタリアやドイツにあるそうです。

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」
「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「こわがらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより もうかる 商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには
「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」
という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、もうかり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」
と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」
と教えられた通りにすると、アーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、こうじ町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」
と因果を含めようとしたが、先方はあきらめず、
「助けていただければ一万両差し上げる」
という。

最近愛人に迷って金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」
と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、
「それじゃ、一度だけ機会をやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作登場!

なにしろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう一冊の本になってしまった(『落語「死神」の世界』西本晃二、青蛙房、2002年)ぐらいです。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が洋学者から聞き、落語に翻案したと言われます。

それはともかく、そこの旦那。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。

美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。

日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子きょうかたびらをまとった、やせた老人で、亡者もうじゃの悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死をつかさどる神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀かがとび」で演じた死神は、「頭に薄鼠うすねず色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子にねぎの枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味にヒヒヒヒと笑い、登場人物を入水自殺に誘います。

客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間たいこ」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

「死神」のやり方

円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方でした。

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