あなどろ【穴泥】演目

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 穴ぐらに入ってしまった泥棒のはなし。タイトルそのものです。

別題:穴蔵の泥棒 晦日の三両

あらすじ

三両の金策に走り回っている男。

手当てが付かずに帰宅すると、かみさんに
「豆腐の角に頭をぶっつけて死んでおしまい」
と、ののられる。

癇にさわって家を飛び出した。

どこかで借りるあてはないかと思案しながら歩いていくと、浅草の新堀端あたりの、りっぱな角蔵がある商家の、二階の雨戸がスーッと開き、なにやら怪しの人影。

これは泥棒だから、捕まえてほうびをもらおうと見ていると、その男、屋根から立てかけた大八車をはしご代わり、天水桶から地面へと飛び下りて
「義どん、早く」

なんのことはない。店の若い者が夜間、こっそり吉原へ行っただけ。

男、ふと悪心が兆し、この脱出路を逆にたどって、まんまと二階に潜入した。

三両だけ盗ませてもらい、稼いで金ができたら、煎餅の袋でも下げて返しに来ようという、能天気な料簡。

明かりが射しているので下をのぞくと、祝い事でもあったのか、膳部や銚子が散らかったままだ。

だんだん大胆になってきた、にわか泥棒、残り物を肴に酒をガブガブ。

酔ってきて思わず
「もう少し熱いのを」
と言いかけ、あわてて口を押さえるうち、小さな子どもがチョロチョロ入ってきた。

もともと子煩悩なたちなので、抱いてあやしているうち、角火鉢につまずき、その拍子で土間の穴蔵に落っこちた。

底に水がたまっていて、思わず
「番頭さん、湯がぬるい」
とわめいたので店の者が起き出し、
「泥棒だ」
と、大騒ぎ。

だんなは、祝いの後なので縄つきを出したくないからと、鳶頭の食客のむこうみずの勝つぁんという男を頼み、泥棒を穴ぐらから引きずり出した上、説諭して見逃してやることにした。

この勝つぁん、身体中彫り物だらけでいかにも強そうだが、中の泥棒に
「下りてくりゃ、てめえの踵ィ食らいつく」
と脅されるととたんに尻込み。

だんなが一両やると言うとまた威勢がよくなるが、今度は
「てめえの急所にぶる下がる」
と言われて
「ええだんな、やっぱりお役人の方が」

賞金が二両に上がると下の泥棒に
「一両やるから上がってこい」

「下りてこい。てめえの喉笛ィ食らいつくから」
「だんな、あっしはごめんこうむって」
「困るよ。じゃ、三両あげるから」

これを聞いた泥棒
「えっ、三両ならこっちから上がっていこう」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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しりたい

円遊の明治風物詩  【RIZAP COOK】

現存のもっとも古い原話は、嘉永年間(1848-54)刊の笑話本『今年はなし』中の「どろ棒」ですが、文化年間(1804-18)から口演されている古い泥棒噺です。

もともと「晦日の三両」「穴蔵の泥棒」という演題だったのを、楽屋でネタ帳に省略して記されるうちに、自然に縮まって現題名になったといわれます。

明治期には、あの三遊亭円朝が速記を残しているほか、一門の初代三遊亭円右、初代三遊亭円遊が得意にしました。

円遊の明治24年(1891)の速記を見ると、大晦日で妻子を抱えて、借金でどうにも首がまわらなくなった、根は善良な職人の悲喜劇を鮮やかに描くとともに、女房に金策してこいと追い出された男が、「両国橋の欄干によりかかって河蒸気の走るを見下して(中略)奥山の十二階も銭がないのであがれず、公園を運動して溝を飛損ない向脛を摺りこはしたり、上野公園のぶらんこでゆすぶられて見たりして」と、明治の東京の景物詩を謳いあげたり、酔っ払って、「当時飲んだようのはサ、甘泉、ベルモット、びいるに葡萄酒、ラムネにシャンパン、日本酒、オヤ、牛の乳さアさ」という具合に、いかにも明治らしいハイカラ趣味の俗曲をうなったりと、噺の内容を離れても、当時の世相が目に浮かぶような貴重な「時代の証言」を残しています。

穴泥、昭和の名人たち  【RIZAP COOK】

昭和初期以後では、現在音源はありませんが、八代目桂文楽が、滑稽味より、どん底に生きる貧窮者の悲哀を色濃く出して名品に仕立てたほか、五代目古今亭志ん生、六代目春風亭柳橋、五代目柳家小さんが得意にしました。

あらすじの参考にしたのは八代目林家正蔵(彦六)のもので、同師のは円朝門下の三遊一朝の直伝ですが、四代目柳家小さんと初代柳家三語楼のやり方も取り入れ、向こう見ずの勝のナンセンスな描写は、三語楼の踏襲だと語っています。

ほとんどの演者は大晦日の節季に時期を設定していますが、正蔵は特に断っていません。

志ん生の爆笑編、柳好の悲劇  【RIZAP COOK】

速記、音源とも残る、五代目古今亭志ん生の「穴泥」は、やはり師匠・初代三語楼の影響でしょうが、八代目文楽とは対照的な、くすぐりだくさんの爆笑編です。

中でも、「質屋庫」の熊や「猫と金魚」の虎さんと同じく、いざとなるとからっきしダメな平さん(=勝つぁん)がいばって、尻と背中に三種類の彫り物(ひょっとこ、おかめ、般若)があると自慢したり、男が入り込んだ先で酔っ払い、独り言でかみさんとのなれそめをえんえんとノロけたりする場面は志ん生ならではのおもしろさです。

この噺はもう一つ、戦後、リズミカルで陽気な芸風で人気のあった三代目春風亭柳好の最後の高座でもありました。昭和31年(1956)3月14日水曜日、赤坂のラジオ東京(TBS)で「穴泥」のラジオ録音を済ませた柳好は、その足で上野・鈴本の楽屋入りしましたが、数時間後に脳出血で倒れて意識不明に。同日夜、楽屋で亡くなったものです。享年67。最後に穴に入るこの噺が、文字通り「墓穴」を暗示してしまったわけです。

穴蔵  【RIZAP COOK】

火災時などに貴重品を投げ込む、幅2メートル四方、深さも同じくらいの穴です。縁板をはがして土間に掘りますが、東京の下町は標高が低く、この噺のように、穴の底に浸水していることが多かったのです。江戸で穴蔵が初めて現れたのは、明暦2年(1656)といいますから、名高い明暦の大火(明暦3年3月18日)の前年にあたります。

穴蔵大工という専門の大工職人がいたほど、穴蔵は一般的でした。もちろん、長屋のような借地では望むべくもありませんが、大店や老舗では穴蔵は普及していたといいます。厚い木の板の四角形を穴蔵にすっぽり埋め込む方式、井戸をつくるように内壁を石で固める方式、素掘りで周りが土だらけの方式などがありました。金次第でいかようにもつくれたわけです。

防火用の備えが出てくる噺には、「火事息子」「味噌蔵」「鼠穴」があります。遠くでの火事(遠火)なら、財産を収めた土蔵に用心土で目塗り(火災で土蔵の戸前を塗り塞ぐ)をするのが普通の対策ですが、近火の場合は穴蔵に家財を投げ込み、蓋の上に盛り土や濡れ布団などをかぶせます。火が入り込まないようにするのですね。

新堀端  【RIZAP COOK】

蔵前から浅草三筋町を経て、下谷竜泉寺まで通じていた掘割です。男が侵入する家の所在は、演者により異なります。初代円遊では下谷黒門町、五代目志ん生は特定していません。

【語の読みと注】
癇 かん

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あたごやま【愛宕山】演目

京でだんなが野がけ。かわらけ代わりに小判投げ。見るや幇間が傘で降下。

あらすじ

ころは明治の初年。

だんなのお供で、朋輩の繁八や芸者連中とうちそろって京都見物に出かけた幇間の一八。

負けず嫌いで、なにを聞かれても
「朝飯前でげす」
と安請け合いをするのが悪い癖。

あらかた市内見物も済み、今度は愛宕山に登ろうという時に、だんなに、
「愛宕山は高いから、おまえにゃ無理だろう」
と言われたが、一八は
「冗談言っちゃいけませんよ。あたしだって江戸っ子です。あんな山の一つや二つ、朝飯前でげす」
と見栄を張ったばっかりに、死ぬ思いでヒイヒイ言いながら登る羽目になった。

弟弟子の繁八をなんとか言いくるめて脱走しようとするが、だんなは先刻お見通しで、繁八に見張りを言いつけてあるから、逃がすものではない。

おまけに、途中でだんなに
「早蕨(さわらび)の 握り拳を振り上げて 山の横面 春(=張る)風ぞ吹く」
という歌を自慢げに披露したまではいいが、
「それじゃ、サワラビってえのはなんのことだ」
と逆に聞かれて、シドロモドロ。

おかげで十円の祝儀をもらい損なう。

ようやく山頂にたどり着くと、ここでは、かわらけ投げが名物。

茶屋のばあさんから平たい円盤を買って、頂上からはるか下の的に向かって投げる。

だんなは慣れていて百発百中。

夫婦投げという二枚投げも自由自在だが、一八がまた「朝飯前」と挑戦しても、全くダメ。

そのうちだんな、酔狂にもかわらけの代わりに本物の小判を投げ始めたから、さあ一八は驚いた。

「もったいない」
と止めると、
「おまえには遊びの味がわからない」
と、とうとう三十枚全部放ってしまう。

拾った奴のものだと言うので、欲にかられた一八、だんなが止めるのも聞かばこそ、千尋の谷底目がけ、傘でふわりふわりと落下。血走りまなこで落ちていた三十枚全部かき集めた。

「おーい、金はあったかー」
「ありましたァー」
「全部てめえにやるぞー」
「ありがとうございますゥー」
「どうやって登るゥー」
「あっ、しまった」
「欲張りめ。狼に食われてしまえ」

奴さん、何を考えたか、素っ裸になると着物を残らすビリビリと引き裂き、長い紐をこしらえると、そいつを嵯峨竹に引っかけ、竹の弾力を利用して、反動で空高く舞い上がるや、
「ただいまっ」
「えらいっ、きさまを生涯贔屓(ひいき)にしてやるぞ」
「ありがとう存じますっ」
「金は?」
「あっ、忘れてきた」

【RIZAP COOK】

底本:八代目桂文楽

しりたい

黒門町!  【RIZAP COOK】

三代目円馬からの直伝で「黒門町」こと八代目文楽が継承し、磨きに磨いて、一字一句ゆるがない名人芸に仕上げました。

特に後半の、竹をたわめる場面は体力を要するので、晩年、侍医に止められましたが、文楽は最後まで「愛宕山」に固執したといいます。

ひいさん   【RIZAP COOK】

この噺に出てくるだんなは、文楽のパトロンだったひいさんこと樋口由恵がモデルです。樋口由恵(ひぐちよしえ、1895-1974)は山梨県増穂町(現富士川町)出身の経営者。大正期に上京、昭和初期に川崎陸送を創業し成功させた立志伝中の人です。

桂文楽の話を正岡容が聞き書きしてまとめた『芸談あばらかべっそん』(桂文楽、 青蛙房、1957年→朝日ソノラマ文庫、1967→ちくま文庫、1992年 )。こんなくだりが載っています。以下、ご参考まで。

私を大へんひいきにして下すったお方のひとりに樋口由恵さんとおっしゃるお方がございます。「東京新聞」の須田栄先生をやせさせたような感じの方です。
お家は甲府で、お父さんは樋口半六という県会議員もなすった方で、御本業は運送屋さんで、お邸の中にレールまでしいてあるという、すばらしい御商売振りなんです。
丁ど、大地震のすぐあとでしたネ、各派が一しょになって焼けのこった山の手の席をうっているころのことでした。
私は芝の席がトリでしたが、四谷の喜よしへ向嶋の待合から電話がかかって来ましてネ、
「ぜひ来て下さいよ。来て下さらないと。そのお客さまが大へんなんです」
と、こうなんです。
ところが生憎そのときはカケモチが何軒もあるので、
「折角ですが今晩は伺えません」
そういって断わると、一、二日してまた電話が、今度は幇間(たいこもち)からかかって来て、
「師匠助けるとおもって来て下さいな。でないと我々が困るんです」
と、こういうんです。
「じゃあ伺いましょう。けど、あと三軒歩きますから十一時過ぎになりますが……」
「それでもいいから、とにかく一ぺん来て下さい」
それから席を二、三すませていったから、もう十二時ちかくでしょう。
そのじぶんですから或いは十二時過ぎていたかもしれませんが、
「今晩は……」
と入ってゆくと、その待合じゅうがシーンとしているんです。
女将もでて来なけりゃ、第一、階下でシャダレがふてくされて、二、三人ねそべっている。
ところへさっき電話をかけて来た幇間がでて来て、
「よく来てました。ヒーさんてえお客さまなんですがネ、この間の晩、師匠がおいで頂けなかったでしょう。そうしたら、ヤイてめえンとこじゃ文楽はよべねえのかって、芸者が引叩かれる、つねられる、だもンで今夜もみんなイヤがってアアやって寄付かないんですよ」
いわれて私もいささかコワクなりましたが、ソーッと二階へ上がっていって障子の穴から透き見をしてみると、成程、皿小鉢がこわれて、そのお客さまはうなだれて、
「ウーム……ウーム」
とうなっています。
「今晩は……」
そこで私が低くこういいながら入っていったら、とたんに一と目みて、
「ヨーッ来たな」
そのマー喜びようたらないんです。
「オイオイ師匠がみえたじゃないか。何をしているんだ。早くそこらを片付けろ片付けろ」
って、急いで女中たちに皿小鉢を片付けさせて、ガラッと一ぺんに世界が変わったように明るくなってしまったんです。
「オイ文楽さん、私は前から君のファン(というコトバはまだなかったでしょうが)なんだよ」
といった塩梅で御祝儀を下すって、その晩は泊ってゆけとおっしゃるんですが、私ははじめてのお客の前で不見転を買うのはいやだから御辞退したんだが、先方さんはすぐ妓をよんで下すっていて、
「じゃこの妓じゃ師匠の気に入らないんだろう。面食(めんく)いだネこの人は……」
てんで、次々とかえては三人もよんで、
とうとう女将が私を次の間によんで、
「師匠が泊って下さらないと、またヒーさんがお怒りになりますから」
てんで、それから私も心得てすぐひけ(寝る)てえことにしましたら、
「ハハーあの妓はきに入ったんだな」
てんで、大へんなごきげんでかえっていった。連中みんなはじめてホッとしたそうで、何しろ大へんな荒れようだったんだから、そりゃマーそうでしょうよ。

米朝の「愛宕山」  【RIZAP COOK】

文楽演出を尊重しながらも、いかにも大阪らしい「愛宕山」を演じて、これも十八番、名人芸です。

桂米朝始め上方バージョンでは、東京と異なり、大阪ミナミの幇間の一八と繁八が、京都・室町のだんなのお供で野駆け(のがけ=ピクニック)に出かけ、ついでに愛宕山に参詣を、となります。だんながあまり大阪をくさす(ケチをつける)ので、腹を立てた二人が、だんながかわらけ投げをしているのを、「京の人間はシミったれやさかい、あんなもんしかよう放らん」と、いやみを言い、だんなが怒って小判を投げるという設定です。

同じ取り持ち稼業でも、大阪の幇間は決してイエスマンでなく、反骨精神旺盛だったようですね。

かわらけ投げ  【RIZAP COOK】

江戸でも、王子の飛鳥山、谷中の道灌山でさかんに行われていました。

日ぐらしは 壱文ずつが 飛んでいき
かわらけが 逸れて桜の 花が散り

春の行楽の風物詩でした。「日ぐらし」とは日暮らしの里。現在の荒川区日暮里あたりをさします。

京都の愛宕山  【RIZAP COOK】

京都市右京区上嵯峨北西部にあり、海抜は924m(3049尺)とけっこう高い山です。京都市の北東の比叡山(848m)と並ぶ霊峰です。愛宕山は五つの峰(朝日山、大鷲峰、龍上山、高雄山、鎌倉山)からなる総称をいいます。中国の五台山にならって、「愛宕五峰」「愛宕五坊」などと呼ばれました。

朝日峰の山頂には、本宮にイザナミを、若宮に火産霊神(軻遇突智命)をまつる愛宕神社があります。若宮の神はイザナミの子で、イザナミが出産した際にホトをやけどしてしまい、その傷がもとで死んでしまいます。怒ったイザナギは十拳剣でこの神を刺し殺します。剣から滴り落ちた血から神々が生まれました。

愛宕神社は、神仏習合(神祇信仰と仏教が融合した信仰形態)だった頃は白雲寺と呼ばれていました。明治初期の神仏分離令で廃寺となり、愛宕神社にさまがわりしました。

朝日峰  愛宕権現白雲寺→愛宕神社 変容存続
大鷲峰  月輪寺 存続 天台宗
高雄山  神護寺 存続 真言宗
龍上山  日輪寺 廃寺
鎌倉山  伝法寺 廃寺

ここは修験道の道場でもありました。さらには、塞の神信仰(土地の境界を守る神への信仰)や陰陽道、天狗信仰、勝軍地蔵信仰(軍神)、おまけに火の神を仰ぐところから火除けの信仰も篤く、信仰の百貨店のようなさまでした。

「火迺要慎(ひのようじん)」と記された愛宕神社の火伏せ札は、京都の台所や厨房に張られています。「愛宕の三つ参り」として、三歳までにお詣りすると生涯火災に遭遇することがないと伝えられています。

重要なのは火伏せの神として尊崇されていることです。明治期より前には、火除け、火伏せの神はより多く信仰されていました。一年を通じてにぎわいましたが、特に、陰暦6月24日の愛宕千日詣では有名です。京都の人々には「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕山には月参り」とうたわれました。火の神さまは愛宕神社以外には、秋葉山本宮秋葉神社(浜松市)を頂点とする秋葉神社や野々宮神社(京都市右京区、東京都港区など)でまつられています。

『都名所図会』には、「月ごとの縁日にも老人は皿竹輿をかりてたすけられ、婦人童子のわかちもなく、万仭のけわしきをいとわず、坂路の茶店に休らえば、白雲目の前を横とう。あるいは、土器なげに興じて足の重きを忘れる」とあるほど。

登山の途中で一八がひけらかす「早蕨の……」の狂歌は、当人が知っていたかどうかは定かではありませんが、江戸天明狂歌のパイオニア、蜀山人大田南畝(1749-1823)の作です。

東京の愛宕山は港区愛宕一丁目にありますが、こちらは京の愛宕大権現を慶長8年(1603)に勧請しました。東京支店ですね。

かしくのこぼればなし  【RIZAP COOK】

「私はこれをかしく師匠(引用者注:二代目文の家かしく、のち三代目笑福亭福松。1884-1962)に習ったのですが『愛宕山へいっぺん行って来なあきまへんな』と言うと『行ったらやれんようになるで。この噺嘘ばっかりやさかい』と言われて……」 

『米朝ばなし 上方落語地図』(桂米朝、毎日新聞社→講談社文庫、1981年)

何度も記しますが、古い同題の上方噺を三代目三遊亭円馬が東京風に脚色しました。円馬から八代目桂文楽に伝わる。文楽のおはこでした。

東京の噺家が語る上方を舞台にした噺の一。「三十石船」などほかにもありますが、中国人俳優が日本人役として登場するハリウッド映画のような珍妙ぶり。愛宕山とは、もちろん京都のです。東京のではありません。修験道の聖地。山頂には愛宕神社があります。「堀の内」の上方版「いらちの愛宕まいり」もここが舞台となっています。

茶店の傘  【RIZAP COOK】

この手の茶店には傘が常備されてありました。そこからの発想なのでしょう。借りたら返さなくてはいけないわけで、ということは、その店を再訪しなくてはいけないため、せちがらい現代社会には耐えられず、消えていく風習となっていったのですね。

【語の読みと注】
朋輩 ほうばい
火産霊神 ほむすびのかみ
軻遇突智命 かぐつちのみこと
十拳剣 とつかのつるぎ
皿竹輿 さらかご
万仭 ばんじん

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あおな【青菜】演目

【RIZAP COOK】

 

柳家の噺。屋敷でだんなから聞きかじった「奥や」を植木職人が家で鸚鵡返し。

別題:弁慶

【RIZAP COOK】

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方の柳影(やなぎかげ)という「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸が出まして、名を九郎判官(くろうほうがん)」
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」、「それならよしとけ=義経」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返し……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ(長官):伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ(次官):副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう(判官):祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん(主典):史、録、属、疏、志、典、目

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い義経はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことで、兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつで、「立ち往生」の意味を利かせています。

今では、『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現在では、説明なしには通じなくなっているかもしれません。

上方では人におごられることを「弁慶」というので、(これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています)このシャレにはその意味も加わっているでしょう。

弁慶は、『吾妻鏡』には「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょう。負け組ですから。それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。ならば、芸談好き、五代目柳家小さんの芸談を聴いてみましょう。弟子の小里んが語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました。

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

【RIZAP COOK】

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