将棋の殿さま しょうぎのとのさま 演目

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主君にはさからえない時代の話。とどのつまりは暇なんですね。

【あらすじ】

ある殿さま、ふとしたことから将棋に懲り、家来を相手に毎日熱中する。

それはいいが、自分が負けそうになると決まって「お取り払い」、つまり、王手の駒を強制的に除かせたり、「お飛び越し」、飛車が金銀を飛び越えて成ってしまったりと、やりたい放題。

文句を言うと、
「主の命に背くか」
と居直るので始末に負えない。

これでは連戦連勝は当たり前で
「うーん、その方たちは弱いのう。鍛えてつかわさんため、今日からは負けたる者は、この鉄扇で頭を打つからさよう心得よ」

始まれば、お取り払いにお飛び越しで、殿さまは負ける気遣いはないから、家来の頭はたちまちコブだらけ。

そこへ現れたのが御意見番の三太夫という、骨のある爺さん。

しばらく病気で出仕しなかったが、お飛び越しの一件を聞くと、これは怪しからんと憤慨し、さっそく殿さまの前へ。

殿さま、子供の頃から育てられているので、三太夫は大の苦手。

いやな爺が来た、と渋い顔をするが、三太夫はいっこうにかまわず
「将棋は畳の上の戦、軍学の修練にもなり、武士の嗜みとしては大いにけっこう。このじいも、年は取ってもまだまだお上のごときナマクラには負け申さん。たちまち、お上のおつむりをコブだらけにしてお目にかけるが、もしお上がお勝ち遊ばし、それがしの白髪頭をお打ちになっても、戦場で鍛えし鋼のごとき頭、ご遠慮は無用」
と挑発した。

それで殿さまも熱くなり、このくそ爺、ほえヅラをかくなと、試合開始。

家臣一同、あのうるさいのがコブだらけになるところを見たいと、ワクワクして見守る中、みるみる殿さまの形勢悪くなり、案の定
「これ、その歩で桂馬を取ってはならん。主命じゃ。控えよ」
「これはけしからん。戦場においては、君臣の区別はござらん。桂馬は侍、歩は雑兵。それが一騎当千の侍を討ち取るときは、末頼もしき奴。帰城の折りは取り立てつかわしたく存じますに、敵の大将がとやかく申したからとて、その言葉に従えましょうや」

理屈でくるから、どうにもならない。

お飛び越しを命じると
「飛車は軍師、その軍師が陣法に従わず、卑怯未練にも道なき所を飛び越して参るとは言語道断。首をはねて梟木に掛けますから、お引き渡しを」と、くる。

とどのつまり、殿さまは実力通り雪隠詰め。

剣の心得のある三太夫に思い切り打たれて、殿さま、涙ポロポロ。

「うーん、一同の者、盤を焼き捨てい。明日より将棋を指す者は、切腹申しつける」

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【うんちく】

上さまの御前で

講談の「大久保彦左衛門将棋の意見」を落語化したものといわれますが、異説には「江戸寄席落語の祖」初代三笑亭可楽(1777-1833)の作で、可楽はこともあろうにこの噺を、十一代将軍家斉の御前で口演したとか。

演る方も命知らずなら、聴く上さまの方もなかなかシャレがわかる……とほめたくなりますが、いくらなんでもこれは伝説でしょう。

ともかく、寄席草創期の化政期からある古い噺で、明治期では二代目(禽語楼)小さんの明治22年(1889)9月付の速記があります。

この二代目小さんは、自身も士族出身だったこともあり、この噺を含めて殿さま噺を得意にしていました。

古い速記では他に、昭和9年(1934)の八代目桂文治のものがあります。

上方では「落語の殿さま」

上方の「大名将棋」では、殿さまが「紀州侯」と特定されているほかは、東京のやり方と変りませんが、この後があります。

将棋に懲りた殿さま、今度はこともあろうに落語に凝りだしたから、一難去ってまた一難。その場が氷河期と化すようなダジャレの連発に一同が凍り付いていると「みなの者笑え」と、例によって無理難題。笑わないとまた鉄扇だと、仕方なく無理にワキの下をくすぐりあって笑うと、殿さま、いい気になって、「鶴がいて亀がいて、鶴は千年亀は万年、東方朔は九千歳……」と、締めのダジャレがいつの間にか厄払い(「厄払い」参照)のセリフに。そこで家来一同「笑いまひょ、笑いまひょ」。

最後はやはり「払いまひょ」の地口で、厄払いでオチます。

大名のサディズム

家来をあらぬ趣味で苦しめる殿さま噺に「そばの殿さま」がありますが、異色なのが三遊亭円朝「華族の医者」です。

医術に凝った元殿さまが、怪しげな薬で家来を虫の息にしてしまい、「それは幸い。今度は解剖じゃ」。明治維新を迎えても、「殿さま、ご乱心」は一向に変わりがなかったようです。もっとも、無茶苦茶の度合は、「幇間腹」の若だんなの方が上を行きますが。

幕府の将棋保護

幕府が寺社奉行管轄下に「将棋所」を設けたのが慶長12年(1607)。大橋宗桂(1555-1634)をその司としました。

禄高は五十石二人扶持で、以来、大橋家は将棋の宗家として代々宗桂を名乗り、明治まで十二代を数えました。

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