金魚の芸者 きんぎょのげいしゃ 演目

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いやあ、奇妙な噺。鶴の恩返しならぬ、金魚の……。

別題:錦魚のおめみえ

【あらすじ】

本所で金魚屋を営む六左衛門という男。

ある日、金魚の会の道すがら、小石川の武嶋町辺を通りかかると、子供らが池で魚をつかんでいる。

見ると、池から小さな金魚が飛び出してピンピン跳ねた。

丸っ子といって、泳ぎ方が変わっているので珍重される品種。

それを子供が素手でぐいとつかんで持っていこうとするので、あわてて、
「そんなことをしたら手の熱で死んでしまう」
と注意して、浦島よろしく、五銭銀貨一枚やって買い取り、珍品なので、太刀葵と名付け、家の泉水で大切に飼育した。

おかげで大きないい金魚に育ち、品評会でも好評なので気をよくしていると、ある夜、金魚が夢枕に立ち、
「私は武嶋町であなたに助けられましたから、なにか恩返しをと思っていますところへ、あなたが今日、もし私が人間に育って、芸者にでもなったら売れっ子になるだろうとおっしゃるのを聞きました。どうぞ私を芸者にして恩を返させてください。明日の朝、人間の姿で伺いますから、決してお疑いのないよう」
と言ったかと思うと、スーッと消えた。

不思議なこともあるものと、夫婦で話していると、戸口で「ごめんくださいまし」
と女の声。

出てみると、
「私、金魚のお丸でございます」

顔は丸いが、なかなかいい女。

まさかと思って池の中を見ると、金魚がいない。

これは本物と、六左衛門大喜び。

お丸が、今日からでも柳橋から芸者に出たい、柏手を三つ打ってくれれば金魚の姿になるから、手桶に入れて置屋に連れていってくれればよい、というので、試してみると、お丸の言う通り。

柳橋の吉田屋の主人が芸者を一人欲しがっていたので、さっそく連れて行き、また柏手を打つと不思議や、お丸はまた女の姿に。

吉田屋のだんな、一目でお丸が気に入って、
「この人は、おまえさんの娘かい?」
「いえ、実は拾い子で」
「どこで拾いなすった」
「どぶの中で」
「ひどい親があるもんだ。兄弟はありますか?」
「ウジャウジャいますが、黒田さまへ一人、宮さま方にも二、三人」
「どんな物が好きだい?」
「そりゃあボーフラ、もとい、麩が好きなんで。飯粒はいけません。目が飛び出しますから」

変な具合だが、最後に、
「のどを聞かせてほしい」
とだんなが言うので、お丸、三味線を手に取って、器用に清元を一段語った。

「あー、いい声(=鯉)だ」
「いえ、実は金魚です」

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【しりたい】

「鼻の」円遊の新作

明治26年(1893)6月、初代三遊亭円遊が「錦魚のおめみえ」の題で速記を残しています。

同時代の口演記録もなく、これは、夏の季節をあてこんだ、円遊の新作でしょう。

戦後では、五代目古今亭志ん生が、マクラの小咄程度に演じたのみです。

金魚の噺としては、ほかに、昭和初期の田河水泡の「猫と金魚」が目立つくらいです。

金魚は江戸の風物詩

金魚が中国から最初に移植されたのは、文亀2年(1502)のこと。

江戸期にはワキンとリュウキン(中国種)、ランチョウ(朝鮮種)などをかけあわせ、盛んに養殖、品種改良が行われるようになりました。

金魚屋ができたのは、慶安から延宝にかけて(1650-81)とか。

当初は、この噺の六左衛門のように、自宅に池を設けて放し、売っていました。

のち、江戸から昭和初期にかけて夏の風物詩となるボテ振りの金魚屋が登場するのは、それからおよそ一世紀後の安永年間(1772-80)でした。

鳥居清長(1752-1815)が、金魚売りの錦絵を残しています。

容器はギヤマン(=ガラス)製の徳利型が、江戸時代にはもう現れましたが、何といっても高価で、庶民には高根の花。長屋では、用水桶やたらいで泳がすのが普通でした。

犀星、晩年の佳作

詩人で小説家の室生犀星(1889-1962)が晩年の昭和34年(1959)に刊行した小説「蜜のあはれ」は、金魚が、飼い主である画家に恋をするというロマンチックなもの。

小説でも、金魚の擬人化はきわめて珍しいものですが、果たして犀星が、この噺を知っていたかどうか。

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