数取り かずとり 演目

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たまには趣向を変えて、ムフフな噺を。

【あらすじ】

町内の若い衆が、寄るとさわるとどこそこの誰はどこの娘とデキた、と噂をしあっている。

その前を通っていったのが、むちゃくちゃ色っぽい尼さん。

法衣の裾が、歩く度にチラチラとのぞいて、尼にしておくのはもったいないほどのいい女だが、はて、正体がわからない。

大工の留公が、あれは、実は紀州五十五万石のお姫さまで、さる旗本の若殿さまと許婚だったが、その若殿がポックリお亡くなりになったので世をはかなんで、しみひとつない生娘のまま尼になりなすったのだと、得意になって言いふらすと、そりゃア高嶺の花だと、一同よだれを垂らして、ため息ばかり。

ところが、そこに現れた八公が、
「明日きっとあの尼さんをモノにしてくる」
と大見得を切ってみせる。

翌朝、なにを考えたか、八公、ぼろをまとって顔には梅干しの皮で吹き出物をこしらえ、両手で竹の棒を突いて業病人を装い、尼さんの庵室目指して裏山を登っていく。

「そこにいるのは誰じゃ」

八公、あわれっぽい声で、
「自分はどの医者からも見放された重病人だが、ある夜、阿弥陀さまが枕元に立って『そちの病気は、富貴の家に生まれた若き尼僧にしっかり抱かれ、お念仏を唱えればたちまち治る』とのお告げがあったので、ぜひ、ご庵主さまのお情けを乞いたい」
と、とんでもないうそ八百を並べる。

尼さんも、阿弥陀さまの口添えでは簡単に断れない。

しかたなく、庵室に入れたのが運の尽き。

八公は「しめた」とばかり、だんだんと正体を現し、
「お床を敷いて、その中で抱いてください」
と言い出す。

「とんでもない。そのような淫らな」
「これは庵主さまのお言葉とも思えません。心が修行一筋でありなさるなら、邪心など起こらないはず」

こう言われては、しかたがない。

やがて、八公の手が胸のあたりをモゾモゾ。

「これ、何をしやる」
「修行が足りませんぞ」
「これ、そなたの手が、私の股のところへ」

なにをされても、ご修行が足りないの一点張りで、どうにもならない。

そのうちに、妙なものが、尼さんの腰のあたりで動く。

「こ、これ、この棒はなんじゃ」
「へえ、これは数取り棒でございまして、お念仏の数を取りますので」

そういうものかと、尼さんは一心不乱に
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」

やがて、両方とも、息も絶え絶え。

とうとう、尼さん、
「これ、お念仏はもうよい。数取りだけにしてくりゃれ」

【しりたい】

「オリジナル」では婆さんを

原話は安永2(1773)年刊の笑話本『今歳花時』中の「薬喰い」。

これは物乞いの老婆を犯すという設定で、オチは老婆が「病気が治まったらまたおいで」

古くは被害者(?)が旅の比丘尼であったり、戌の年月日そろった生まれの質屋の娘が、良縁がないのを苦に尼になったという設定もありました。

宇井無愁(上方落語研究家)は、この噺のさらに原型になる類話として、鎌倉時代中期に成立した説話集『古今著聞集』巻十六「興言利口」第二十五話を挙げています。

尼さんは蜜の味?

この「興言利口」では、若い僧が尼さんを見そめ、自ら尼に変装して弟子入りをし、三年間修行しますが、とうとうガマンできなくなり、ある晩、襲ってしまいます。

ヤラれて尼は持仏堂に走り、やたらに鉦を打ち鳴らしたあと、戻ってきて、「続き」をやってくれと迫るので、どうしたことかと鉦のわけをただすと、「あんまり気持ちよかったので、仏におすそ分けしてきた」

もっとも、昔からこの種の噺は各地の民話に流布しているようです。

絶品「いろはにほへと」

噺が噺だけに、演者の名が表ざたになることは少なく、現在ある速記のなかでは、五代目三遊亭円楽の名があるだけです。

特筆されるべきは、桂米朝が円熟の絶頂期に出した艶笑小咄の名盤「いろはにほへと」の続集にこの噺が収録されていることです。

米朝ならではの粋な味わい、冴えた描写力、流麗で不潔さをみじんも感じさせない語り口は、絶品の一言。

数取り

多くの数を勘定するとき、忘れないために用意するもので、この噺の場合は男が、病気平癒の祈願のため、千遍念仏を唱えると言って尼さんをだますため、五十遍ごとに棒を一本「立てて」数を取るのだと、ごまかします。

もっとも、そのたびごとに「いっぺん、スッとこの中へ入れさしてもらいます」(米朝)と、とんでもない行為に及ぶのですが。

数取りには昔は棒に限らず、串を用いたり、オハジキやこよりを用いることもありました。

平安時代には「数差し」といって、歌合せなどの際に、勝った数を数えて数取りの串を数立てに差し、今でいうボードゲームの得点表のように使ったとか。

怪しげな「尼さん」も

尼は比丘尼ともいい、梵語の「ビクシュニー」からきています。

尼寺の始めは、崇峻天皇3年(590)年に百済から帰朝した尼僧の善信らを桜井寺に住まわせた時とされます。

8世紀、聖武天皇が諸国に国分尼寺を建立、京都には尼寺五山が設立されました。

高貴な出身の尼僧が住む寺は比丘尼御所と呼ばれ、尊崇を受けたましたが、大部分の尼寺は単に「庵」と呼ばれ、住職を庵主さまと呼びました。

最下級の尼は諸国を放浪し、売春まがいのことも。これらは、歌比丘尼・熊野比丘尼などと呼ばれました。

角兵衛の婚礼 かくべえのこんれい 演目

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珍妙な噺の一。こんなくだらない。よくもまあ、考えついたものです。

別題:越後屋 越後屋角兵衛 角兵衛 恋わずらい 子返り どんつく

【あらすじ】

長屋の熊五郎。

人間は堅いし、付き合いもよく、店賃は溜めたことがないという、マジメ人間だが、このところ家に引きこもって仕事もせずにボーッとしているので、大家が心配して、ようすを見に来る。

問いただしてみると、なんのことはない恋煩い。

惚れた相手が、近所の豆屋、越後屋の娘。

名は、おししという。

なにしろ熊五郎、娘に会いたいばっかりにこの二年の方、毎日豆屋に通いづめで、溜まった豆が大樽にぎっしり。

一人娘なので婿取りだが、きっと添わしてやるからと、大家は請け負って、豆屋に行って話しをしてみた。

おししは、実は自分には願いごとがあって、それは婚礼の晩に婿の前でしか言えないことなのだが、その願いごとさえ聞いてくれる人なら、どんな男でも文句はない、と言う。

今まで五、六人養子を迎えたが、どの男も願いごとを言うと、あきれてかえってしまうので、いまだに亭主を持つことができない、というわけ。

話を聞いて、熊五郎は大喜び。

先方の両親も異存がないというので、さっそく、婚礼が取り決められ、無事、三三九度も終わった、その晩。

「実は」
と打ち明けた、おししの願いごととは、
「家の先祖が越後で角兵衛獅子をやっていたので、婚礼の晩にそのまねをして踊らなければ、先祖に相済まないから、婿になる人には、自分がピキピキピキーと言ったら、用意の赤い襦袢を着て獅子をかぶり、太鼓を背負ってツクツクドンドンと踊ってほしい」
というもの。

しかも、
「これを一週間続けてもらいたいので、もしおいやなら、ご縁がなかったものと、あきらめてほしい」
と言うから、熊五郎は仰天したが、もとより死ぬほど恋焦れた女のこと。

照れくさいが、しかたがない。

「それ、ピキピキピキピキ」
「ツクドンツクドンツク」
「ピキピキピキ」
「ツクドンツクドン」

世にも変わった儀式が一週間。

めでたく夫婦の契りを交わした。

かくてめでたく婿入りした熊は、角兵衛と改名し、身を粉にして働いたので、みるみる店は繁盛し、その上、おししの腹が大きくなって子供ができたとあって大喜び。

いよいよ予定日になったが、おししが、産婆さんの前で
「あれをやってほしい」
と言いだした。

ピキピキドンドンをやらないと、赤ん坊が出てこないというからどうしようもない。

あっけにとられる産婆さんの前で、
「アイタタ、ウーン、ピキピキピキ」
「ツクドンツクドンツク」
「あなた、たいそううまくなりました。ピキピキピキ」
「ツクドンツク」
「ぴきぴき…オギャー」
「まあ、本当に、玉のような男の子が」
「子がえり(逆子のこと)ですか」
「なあに、洞返り(越後獅子のアクロバット)です」

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【しりたい】

角兵衛

「越後獅子」とも呼ばれ、アクロバットを兼ねた子供の獅子舞で、親方一人に子供二、三人が普通でした。多くは十五、六の年かさの方が囃し方に回り、より身の軽い七、八歳から十歳前後の子供が実演します。

「角兵衛」の語源については、応永年間(1394-1428)に越後国蒲原郡の角兵衛なる者が創始したからとも、獅子頭つくりの名工の名ともいわれます。のちには、大人の獅子舞をもこの名で呼ぶことがありました。

近世以後、非人道的な児童虐待の代名詞として扱われ、事実、「人買い」の同義語として、親が子供を脅かす時に「角兵衛獅子にやってしまう」というのはお決まりでした。大正初期までにはすたれ、姿を消したようです。明治後期以後は親の脅し文句も「曲馬団(=サーカス)に……」と変わりました。

歌舞伎の常磐津所作事として演じられる「角兵衛」(後の月酒宴島台)は、越後国月潟村から出た角兵衛芸人と門付けの女太夫との恋のからみを描いています。

洞返り

螺返りとも書きます。昔のとんぼ返り、今でいう連続バック転ですね。

昭和26年(1951)、美空ひばりが「とんぼ返り道中」(松竹)で角兵衛獅子の少年に扮して歌ったヒット曲「越後獅子の唄」を思い出される方もいるかもしれません。

歌丸が復活

原話や噺の成立ははまったく不明で、明治24年(1891)3月、初代三遊亭(鼻の)円遊が雑誌「百花園」に載せた速記が、最古で唯一のものです。

この中で円遊は「まだ寄席で一遍も高座へ掛けた事が御坐いません」で、「初めて速記に致して出します」と断っていて、自分の創作または改作であることをにおわせていますが、この噺、「越後屋」「越後屋角兵衛」「角兵衛」「子返り」「どんつく」「恋わずらい」と、やたらに別題が多いところをみると、当時はけっこう多くの演者が手掛けていたのでしょう。

円遊没後は、昭和初期に七代目春風亭柳枝が「恋わずらい」として前半のみを演じ、SPレコードにも吹き込みました。

戦後はほとんど忘れられていたところを、桂歌丸が「越後屋」と題してオムニバスの一編ながら復活させました。

【語の読みと注】
螺返り ほらがえり

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お若伊之助 おわかいのすけ 演目

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円朝全集に載ってる晩期の作品。じつはなんてことない、因果な噺です。

別題:一名因果塚の由来 離魂病

【あらすじ】

日本橋横山町三丁目に、栄屋という生薬屋があった。

だんなはもう亡くなって、お内儀さん一人で店を切り盛りしているが、そこの娘はお若といって、年は十八、近所でも評判の美人。

この娘がある日、一中節を稽古したいと、母親にねだる。

習わせてやりたいが、年ごろの娘だから問題があってはならないとお内儀さんは思案して、に組の初五郎という、店に出入りの鳶頭に相談する。

ちょうど、初五郎が弟同様に世話している、元侍の菅野伊之助というのが、年は若いが人間も堅くて、芸もしっかりしているということなので、それならと鳶頭の世話で、伊之助が毎日稽古に通ってくることになった。

話は決めたものの、そこは母親の本能。

だんだん心配になってくる。

なにしろ堅いといっても芸人で、しかも年は二十六、男っぷりはよし、それが十八の娘と毎日さし向かいでは、猫に鰹節。

ある日、お若の部屋でぷっつり三味線の音が途切れたものだから、お内儀さん、胸騒ぎがしてそっとのぞくと、案の定。

これは放っておけないと、今のうちに仲を割くことにして、すぐに鳶頭を迎えにやり、三十両の手切れ金で伊之助はお払い箱。

それでもまだ心配で、結局、お若は根岸で町道場を開いている、伯父の長尾一角という侍の家に預けられる身となった。

さあ、お若は生木を割かれて、伊之助への思い詰め、とうとう恋煩いになってしまった。

ある日、
「伊之さんにこれきり会えないくらいなら、いっそ死んで……」
と庭に出ようとすると、垣根の向こうに男の影。

ひょっとしたら、と駆け寄ると、まごうことなき恋しい伊之助。

再び、狂恋の火は燃えて、それから毎晩、監視の目を盗んで二人は忍び会う。

そのうち、お若の腹がボテレンになったので、これでは、いやでもバレる。

一角は、ある夜、現場を見つけ、いっそこの場でたたっ斬って、と思ったが、間に鳶頭が入っていることもあり、一応話をと、翌日、初五郎を呼びつける。

話を聞いて初五郎は仰天。

「手切れ金を渡してある以上、二人が忍び会っては妹に義理が立たん、伊之助の素っ首を引っこ抜いて参れ」
とねじこまれ、おっとり刀で家に戻る。

「野郎、さあ、首を出せっ。てめえ、昨夜も行ってたってえじゃねえか。え、はらましちまって、いってえどうするんだ」
「なに言ってるんです。昨夜は鳶頭と吉原じゃないですか」

言われてみれば、確かに覚えがある。

道場に戻って、
「昨夜はどこにいたかはわかってる。なにかの間違いでしょう」
と言ったが、一角、
「おまえを酔いつぶさせておけば、密会するのはわけもない」
と受け付けない。

結局、二人で張り込んでラチを開けることになった。

その夜更け、東叡山寛永寺で打ち出す四ツの鐘がゴーンと響くと、お若の部屋で、なにやら怪しい影が浮かぶ。

いつの間にか、お若がきれいに化粧し、うれしそうに男に寄り添っている。

一角、やにわに種子島に弾丸をこめると、伊之助の胸元めがけてズドーン。

男はその場へ音を立てて倒れる。

お若は気絶した。

駆け寄ってみると、なんとそこには、針のようにびっしりと毛の生えた大狸の死骸。

さてはこいつがお若をたぶらかしていた、と知れたが、気になるのはお若の腹。

月満ちて産んだのが狸の双子で、これを殺して根岸のお行の松の根方に葬ったという、因果塚由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

円朝作なのか

別題を「一名因果塚の由来」といい、「円朝全集」(春陽堂)に速記が掲載されていることから、三遊亭円朝作の長編人情噺の発端とみなされてきました。

でも、結末が作品として荒唐無稽すぎて不出来なことと、円朝作と断定できるほかの速記がないことで、誰かが円朝の名を語った偽作ではないかという疑いが、昔からもたれています。六代目三遊亭円生も、「円生全集」の解題で、「私ァどうかと思いますね」と述べています。

しかし、そんなこと言ったら、「円朝作」と伝えられるものには、たとえば「鰍沢」のように、じつは河竹黙阿弥がつくったものとか、条野採菊がこっそりつくった噺を「円朝作」として条野自身が経営する「やまと新聞」に連載した作品とか、いくつもあります。明治期とはいえ、今の時代と違って、作家としての個人がまだ確立していない頃の話です。岩波版の「円朝全集」第11巻には「離魂病」の名で「お若伊之助」が収載されています。白といえなくても、黒ともいえない、なにがしか円朝の脳裏を通過した作品という判断で載っているのでしょう。灰色です。いまのところは、そんなところで肯ずるしか、ありますまい。

それはともかく、この噺には、このあと続編があって、お若と伊之助が神奈川宿に駆け落ちし、生まれた岩松という男児と、お若が狸に犯されて生んだ男女の双子(原作では殺さず、養子に出したことになっている)のからむ因果噺となります。

ただ、この続編は筋立てとしては残るものの、実際は口演記録は明治以来、まったくありません。

前半は名人連が競演

実際に高座で演じられる前半は、サスペンスに富んで演者の力量しだいで、結構おもしろく聴かせることができるので、円朝の口演記録こそないものの、三代目春風亭柳枝、八代目桂文治、五代目三遊亭円生、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生と、明治から昭和、戦後の大看板が手掛けています。

なかでも、五代目円生はこの噺を十八番にし、戦後は六代目円生が継承して磨きをかけ、第一人者でした。

いろいろなやり方

前半の噺のディテール、人名、筋の設定は演者によってかなり異なります。

例えば、古く三代目春風亭柳枝のものは、男嫌いのお若が縁談を苦にしてうつ病になり、それを紛らすために伊之助が雇われることになっています。

お若が預けられた先は実の伯父であるところも、現在演じられる円生のやり方と異なっています。

円朝の速記では、二人が引き離されたくだりから始めています。

六代目円生は、お若の腰がほっそりしているという描写に「幽霊尻の幻尻、ああいうお尻から出るおならはどんな匂いがするか、かいでみようと一週間後をつけた男がいたな」などのくすぐりを用いて、因果噺の古色蒼然とした印象を弱めるよう工夫していました。

根岸、お行の松

根岸、時雨が岡(しぐれがおか=現・台東区根岸四丁目)にあった名松で、そのため別称を「しぐれの松」ともいいます。

「お行(おぎょう)」の名の由来は、上野寛永寺の僧が、この松の下で行(=勤行)をしたことによるようです。

全盛期には周囲が4m、高さが13m余というお化け松で、大正15年(1926)に東京市の天然記念物に指定されましたが、惜しくも二年後の昭和3年(1928)に枯死。戦後の昭和31年(1956)に新たに植樹されました。

現在も健在で、現存は三代目といいます。文化3年(1820)に建立された福生院不動堂の境内にあり、松の隣には、正岡子規(1867-1902)の「薄緑 お行の松は 霞みけり」の句碑があります。

【お若伊之助 古今亭志ん朝

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泳ぎの医者 およぎのいしゃ 演目

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藪医者の処方で娘が死んでしまい。うらまれた医者はなにを思ったか。

別題:畳水練

【あらすじ】

ある村の大農、作右衛門が留守の間に、娘の具合が悪くなったので、作男の太助が、隣に越してきたばかりの山井養仙という医者を呼んできた。

ところがこの先生、腕の方は怪しげだというので、女房は気が進まない。

太助が名人だからと勧めるので、それでは取りあえず診てもらうことにし、病間を通すと、養仙先生、おもむろに脈をとり、薬籠から煎じ薬を取り出して調合すると、
「また翌朝来る」
と言って帰っていく。

さっそく、薬を病人に飲ませると、一服目は気のせいか、効いたように思ったが、二服目でたちまち舌がつり、唇の色が変わって、ブルブルっと震えたのが、この世の名残り。

哀れ、はかなく息は絶えにけり。

あの医者に殺されたと大騒ぎの最中に、ちょうど江戸から主人の作右衛門が戻ってきた。

太助と女房からいきさつを聞いて、さあ怒るまいことか。

見ると、熱のあるところへ劇薬を飲ませたとみえて、娘の体は焼けただれて斑になっている。

「あの医者が娘を焼き殺したんだから、水責めにしてくれべえ」
といきり立ち、太助に娘は全快しましたので、主人から一言お礼を申したい、とだまして連れてくるように言いつける。

なにも知らずに、礼金の勘定をホクホク顔で現れた養仙。

変わり果てた死体を見せられて、びっくり仰天。

そこを作右衛門が胸ぐらつかんで締め上げ、
「こら、よくもハァ、おらの娘おっ殺したな。太助、ぶっぱたけ」

主人の仇とばかり、太助がポカポカポカ。

「荒縄でグルグル巻きにして、川ん中ぶっぽり込めェ」

氷が張った川の中に放り込まれた。

もがいているうち、ブツリと縄が切れたが、あいにく、先生泳ぎを知らない。

溺れながらようやく向こう岸にたどりつくと、先回りした二十人ほどに、またポカポカポカ。

自業自得とはいえ、コブだらけ泥まみれでようやく、ほうほうのていで家にたどりつく。

「こ、これ、せがれ」
「どうなさいました」
「なんでもよろしい。所帯道具を持って早く逃げろ。コレ、なにをしておる」
「はい、名医になりたいと思って、医学を学んでおります」
「なに、医者になるには、泳ぎを先に習え」

底本:初代三遊亭円左

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【しりたい】

元ネタは中国笑話

原話は、中国明代の笑話集『笑府』巻四、方術部の「学游水」です。

「方術部」は、藪医者やエセ易者などを徹底的にやっつけた小咄を集めたもので、毒が効いていて、なかなか笑えるものが多いのですが、「学游水」は、文字通り「泳ぎのけいこ」の意味。

短い小咄ですが、落語の後半とほぼ一致していて、患者を「医療過誤」で殺した藪医者が、怒った遺族に縛られますが、夜中にそっと脱出、川を泳ぎ渡って逃げ帰ります。帰ると、息子が「脈訣」という医書を読んでいたので、「これ、せがれ、医者は読書より、泳ぎの稽古だ」。

読み比べておわかりのとおり、落語は、これにくすぐりを入れ、肉付けしただけです。

円朝「畳水練」

落語への翻案時期などはいっさい不明ですが、「畳水練」の題で、三遊亭円朝が速記を残していて、春陽堂版「円朝全集」(1928年刊)にも掲載されています。もちろん、岩波書店版にも。

演題の「畳水練」は、実際にはまったく役立たない、ムダな練習や勉学の意。

この場合、医者にとって必須のはずの医書の勉強はヤブにとってはむしろまったくの「畳水練」で、医者の見過ぎ世過ぎのためには、非常脱出用の水泳の練習の方がよっぽど実利的だ、という、なんとも逆説的で、痛烈な皮肉を含んでいるわけです。

なにやら、現代の医者にも当てはまりそうなので、シャレになりません。

円朝「雨夜の引窓」

円朝は、この「畳水練」を、「雨夜の引窓」という噺とともに師匠の二代目三遊亭円生(1806-62)から伝えられたと書き残しているので、この噺は創作をよくした、二代目円生の手になる可能性があります。

今回のあらすじは、円朝から直伝で継承した初代三遊亭円左の、「泅(およぎ)の医師」と改題した明治33年(1900)の速記を参照しましたが、両者にほとんど違いはありません。明治33年は円朝の没年でもあります。円左も、その後ほとんど演じたことはなかったようです。

それきり消えると思いきや、大正初期に初代柳家小せんが発掘して演じ、以来、再び埋もれていたものを円窓が「再」復活しました。

山井養仙

やまいようせん。「甘井羊羹」とともに、典型的な落語世界の藪医者名です。むろんダジャレで、「病よう治せん」なので、上方からきたものでしょう。「甘井羊羹」の方は、藪医者のさじ加減が羊羹のように甘いこととあまりにお呼びがかからないので、往診用の黒の羽織が、タンス焼けして羊羹色に変色している、という嘲笑を掛けたものです。

江戸時代は、事実上、インチキ医者は野放し状態。もちろん、免許や資格などはなく、当人が医者を名乗れば、それで通ってしまう、ものすごさでした。医師が数年の猶予期間の後、免許制になったのはやっと明治9年(1876)1月のことです。

ヤブの反対に、明治を代表する名医には、初代陸軍軍医総監に任命された松本順を始め、近代日本の衛生学の草分け、長與専斎、大隈重信の右足切断手術で知られる佐藤進、多くの政府高官や、明治の両名優、団菊の侍医を務めた橋本綱常(1909年没)などが挙げられます。円左の速記中には佐藤、橋本の名があり、いかにも時代を感じさせます。

円左のくすぐり

●冒頭で、お百姓が寄ってたかって「江戸の名医」の噂

「先だってほかいが難産で、こう赤子が手エ出した。すると肩がつかえて、どうしても出ねえ。その医者どんが、袂から銭ィ出して、赤子に握らしたア…すると、赤子が手エ引っ込まして、子返り(=逆子)して産まれただ。出てくると、先生の前に手をついてお辞儀ィしただ」

江戸の小咄でも医者を風刺したものはそれこそ掃いて捨てるほどあります。医者は信用ならない職業だったようです。

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親の無筆 おやのむひつ 演目

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「無筆」とは「読み書きのできなこと」という意味です。

別題:清書無筆 無筆の親(上方)

【あらすじ】

明治の初め、まだ無筆の人がざらにいたころの話。

ようやく学制が整い、子供たちが学校に通い出すと、覚え立ての難しい言葉を使って、無筆の親をへこますヤカラが出てくる。

そうなると、親父はおもしろくない。

「てめえは学校へ行ってから行儀が悪くなった、親をばかにしゃあがる」
と、小言を言い、
「習字を見せてみろ」
と見栄を張る。

「おとっつぁん、字が読めるの?」
「てめえより先に生まれてるんだ。読めなくってどうするものか」

よせばいいのに大きく出て、案の定シドロモドロ。

「中」の字を見せればオデンと読んでしまい、昔は仲間が煮込みのオデンを食ったからだとごまかし、木を二つ並べた字はなんだと聞かれて、
「ひょうしぎ」
と読んだあげく、
「祭りバヤシでカチカチと打つから昔は拍子木といった」
と、強弁する始末。

「じゃあ、おとっつぁん、このごろ、疫病よけに方々で仁加保金四郎宿と表に張ってあるのに、家にはないのは、なぜ?」
「忙しいからよ」
「書けないんだろう」

「とっとと外で遊んでこい」
と追い払ったものの、親の権威丸つぶれ。

癪でならない親父、かみさんに、
「しかたがないから近所のをひっぺがしてきて、子供が帰るまでに張っておけ」
と言われ、隣から失敬してくる。

今度こそはとばかり、
「表へ行って見てこい。おとっつぁんが書いて張っといたから」
「おとっつぁん、貸家と書いてあるよ」
「そう張っときゃあ、空き家と思って、疫病神も入ってこねえ」

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【しりたい】

原型はケチ+粗忽噺

原話は、最古のものが元禄14年(1701)、かの浅野刃傷の年に京都で刊行された、露の五郎兵衛『新はなし』中の「まじなひの札」。

ついで、そのほぼ半世紀後の宝暦3年(1753)、これも上方で刊行の笑話本『軽口福徳利』中の「疫神の守」があります。

「まじなひ…」の方は、ケチでそそっかしい男が、家々の戸口に張ってある、判読不能の厄病除けのまじない札を見て、自分も欲しくなりますが、買うのは代金が惜しいので、夜中にこっそりある家から盗み出します。

それを、よせばいいのに自慢げに隣人に見せると「これは貸家札だよ」と言われ、へらず口で「それは問題ない。疫病も空家と思って、入ってこないから」。

ここでは、男が札の文字を本当に読めなかったのか、それとも、風雨にさらされて読み取れなくなっていたのを勘違いしただけなのか、どちらとも解釈できますが、噺のおかしみの重点は、むしろ男のしみったれぶりとそそっかしさ、負け惜しみに置かれています。

後発の「疫神の守」は「まじなひ……」のコピーとみられ、ほとんどそっくりですが、やはり主人公は「しはき(=ケチな)」男となっていて字が読めないというニュアンスはあまり感じません。

実際に「空き家」と張って、疫病神をごまかす方法もよく見られたらしいので、オチはその事実を前提にし、利用しただけとも考えられ、なおさら、これらの主人公が無筆文盲だったのかどうか疑問符がつくわけです。

もともとはケチ、または粗忽噺の要素が強かったはずが、落語化された段階で、いつの間にか無筆の噺にすりかえられたわけです。

読む人間にとって、筋は同じでもさまざまな「解釈」ができるという典型でしょう。

明治の無筆もの

もともと江戸(東京)では「清書無筆」、上方で「無筆の親」として知られていた噺を、明治維新後、学制発布による無筆追放の機運を当て込んで、細部を改作したものと思われますが、はっきりしません。

明治28年(1895)の二代目(禽語楼)小さん、29年(1896)の三代目小さん師弟の、ほとんど同時期の速記が残り、それより前、明治27年(1894)には二代目小さんによる類話「無筆の女房」の速記も見られることから、この時期、落語界ではちょっとした「無筆ブーム」だったのかもしれません。

無筆を題材にした噺では、古くは「按七」「三人無筆」「無筆の医者」「手紙無筆」「犬の無筆」があり、明治以後につくられたと思われる噺に、「無筆の女房」「無筆の下女」などがあります。

江戸末期には、都市では寺子屋教育が定着、浸透し、すでに識字率はかなり高かったはずですが、実際には階層によっては、明治になっても依然として無筆の者は多かったのでしょう。

三代目金馬の改作

三代目三遊亭金馬は、昭和初期にこの噺を「勉強」と改題して改作し、張り紙は「防火週間火の用心」に変え、しかも、おやじが盗んできたものには「ダンサー募集」とあったというオチにしました。いかにもその時代らしいモダン風俗を取り込んでいましたね。

豪傑の名前で厄病退治

二代目小さんの速記が「百花園」に掲載された明治28年は日清戦争終結と同時に、東京でコレラ大流行の年でした。

もっともこの年ばかりではなく、維新後は明治10、15、19、23、28年と、ほとんど五年置きに猛威を振るっています。

さすがに安政のコロリ騒動のころよりは衛生教育が浸透してきたためか、年間の死者が百人を超える年はなかったものの、市民の疫病への観念は江戸時代同様、いぜん迷信的で、この噺のような厄除け札を戸口に張ることを始め、梅干し療法、祈祷などがまだまだ行われていました。

「仁加保金四郎」については詳細は未詳ですが、疫病神を退治したとされる豪傑の名です。

三代目小さんでは「三株金太郎」、時代が下って三代目三遊亭金馬の改作では「鎮西八郎為朝」としていました。

幕末のころは、嵯峨天皇の御製「いかでかは御裳濯川の流れ汲む人に頼らん疫病の神」を書いて張ったこともあったとか。

くすぐり

二代目小さん

おやじがくやしまぎれに「こりゃなんだ。赤犬と黒犬がかみあっているところなんぞ書いて」(犬の字が赤筆で直してある)  

三代目小さん

「おとっつぁん、百の足と書いてムカデと読むね」
「そうよ。五十の足ならゲジゲジ、八本がタコで、二本がズボン。一本なら傘のバケモノだ」                       

【語の読みと注】
仲間 ちゅうげん
癪 しゃく
御裳濯川 みもすそかわ

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

親子茶屋 おやこぢゃや 演目

【RIZAP COOK】

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親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

【あらすじ】

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父 おやじ)はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江ノ島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江ノ島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳
「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

【RIZAP COOK】

おもと違い おもとちがい 演目

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鶍の嘴の食い違い。同音異義が鍵です。たわいもないすじですが、大いに笑えます。

【あらすじ】

ある大工の棟梁。

兄貴分に盆栽の万年青(おもと)を預かったが、金の入り用に迫られ、ついそれを、これも万年青好きの質屋にぶち殺し(=質入れ)て洞穴を埋めた(=金の手当てをした)ので、面目なくて兄貴に顔出しできないと、知人の家でこぼしていく。

それを隣の部屋で、酔っぱらって夢うつつで聞いていた男。

奉公先のだんなの姪で、年ごろで悪い虫がついたようなので、用心のためしばらく、堅いと評判の棟梁の家に預けられていた娘の名がたまたま、「おもと」といったからさあ大変。

「おもとがあろうことか、棟梁の野郎にぶち殺されて洞窟に埋められた」と早合点し、さっそく、だんなにご注進する。

聞いただんな、
「おもとからはたった今、手紙が着いたばかりなので、なにかの間違いだろう」
と半信半疑だが、男が、
「それはきっと偽装工作で、かみさんにでも書かしたものに違いない」
と言い張るので、棟梁もだんだん心配になる。

かと言って、出入りの棟梁だから、家から縄付きを出して世間に恥をさらしたくないので、
「それじゃおまえ、棟梁の兄貴を知っているんだから、兄貴からことの白黒をつけてもらえ」
と言いつけられる。

兄貴も、いきさつを聞いてびっくり。

さっそく、棟梁を呼びにやり、
「てめえはあろうことかあるめえことか、恩人から預かったものをぶち殺すとは何事だ」
と責めたてるが、当人は質入れのことがバレたと思い込んでいるから、話がかみあわない。

「召し連れ訴えされるのがイヤなら自首しろ」
とネジ込むと、
「三日のうちに必ず返すから待ってくれ」
と平身低頭。

とどのつまり、棟梁が川上という質屋に万年青を放り込んだと白状。

押し入れに隠れていた男、やにわに飛び出して、
「あんた、その川上へ放り込んだのはいつのこってす」
「そうさなあ、九か月ほど前のこった」
「それじゃもう、とうに流れたんべえ」
「なに、利上げしてある」

底本:初代三遊亭円左

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【しりたい】

初代円左が創作か

初代三遊亭円左が速記(明治32年)中、マクラで、この噺は自分の専売ということを言っていますが、この人は明治後期から末年にかけ、自作自演を始め、益田太郎冠者の新作なども多く手掛けたこともあるので、おそらくはこれも円左の当時の創作でしょう。

昭和初期から戦後にかけ、八代目桂文治がよく演じ、ついで五代目古今亭志ん生がレパートリーにしました。

志ん生のは、ごく短く演じてだんなは登場せず、おもとを質入れしたのは棟梁の義弟辰公で、質屋の隠居の方が、おもとの見事なのに感嘆して、枯らさないから、自分の店に質入れしてくれろと頼んでくる設定になっています。

万年青ブーム

万年青はゆり科の、葉の厚い常緑多年草です。

江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから盛んに栽培されました。江戸時代を通して、はやりすたりを繰り返したようで、文政期(1818-30)には江戸最後のブームで、品種60種以上を数えたとか。その後、明治20-30年代にも、つまり円左の速記の前後にも再びはやりだし、盛んに品評会が催されました。この噺も、そうしたブームを当て込んで、作られたものでしょう。

現在知られている品種は、約200種もあり、主に葉を鑑賞するもので、栽培には手間がかかります。

通は、葉の広がり方、表面のつや、葉に斑点があるなしなどにうるさく、この噺の棟梁が、預かった万年青を「墨流しといって一番高い」ものだと言っていますが、これは墨流し染めのように葉の表面に波紋がある品種のこと。

万年青の茎は、漢方で強心剤・利尿剤として用いられます。

利上げ

質入れ品の期限が来た時に、利息だけを払ってその期限をさらに延ばすこと。または、その利息をも意味します。利揚げとも。

質屋蔵」でも触れましたが、質流れの期限は天保年間(1830-44)以後は8か月で、利上げは、それ以前に借り主が利息を入れて、質流れを防ぐ処置です。

五代目志ん生は、オチをわかりやすく「心配すんな、利息が入れてあるから」と言い換えていました。

ぶち殺す

江戸のスラングで、「死地(=質)に入れる」の洒落かと思われますが、語源は不明確です。

同義語に「曲げる」があり、こちらは、質=同音の七で、七の字は十の字の尻を右に「曲げる」ことから。

江戸には職人言葉からきた「物騒な」言い回しがかなりあり、たとえば、山芋を完全にとろろに下ろさず、かけらを半分残したものを、「半殺し」と呼んでいました。

噺のアラを補う工夫

この噺、鉢植えの「万年青」と人名の「おもと」の食い違いだけのかなりたわいない噺ですが、 両者の「オモト」は、アクセントからしてモトモト違う語なので、よけい無理が目立ちます。そこで、初代円左から志ん生まで、このアラをなるべく目立たせないため、けっこう苦心していたようです。円左や八代目文治では、なるべく「オモト」という言葉を使わない、噺をスピーディーに運んで、客にアラを気づかせないなどの工夫がみられます。

噺の重心を「ぶち殺した」をめぐっての、権助を加えた登場人物三人の、話の食い違いによるチンプンカンなやりとりにおくことで、それぞれの話芸によって笑いを誘ったと思われます。

円左では、棟梁が問い詰められて「三日でカタをつけます」と言うところがちょっとおかしく、志ん生では、権助の「殺すのはいいぜェ、洞穴ィ埋めるとァなんだい」というセリフが、ちょっとアナーキーで笑えます。

この噺、オチで、質屋の名と実際の川が混同されているわけなので、誰が演じても質屋の名は「川上」でなければならないはず。当然ながら、江戸時代を舞台にしてはできないわけです。

【語の読みと注】
棟梁 とうりゅう
万年青 おもと

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お祭り佐七 おまつりさしち 演目

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古くから江戸に伝わる「お祭り佐七伝説」「小糸佐七情話」を踏まえた人情噺。

【あらすじ】

元久留米藩士の飯島佐七郎という浪人。

生まれついての美男子で、武芸は天神真揚流柔術の免許皆伝。

その上、頭がよく如才ないときているから、家中の女たちがほおっておかず、あまりのもて方に嫉妬を買って讒言を受け、藩は追放、親父には勘当されて、今は、芝神明、め組の鳶頭、清五郎の家に転がり込んで、居候の身。

もともと火事が飯より好きで、どうせ侍として二君に仕える気はないから、火消しになろうと清五郎にたびたびせがむが、そこは元侍。

「あっしが手づるをこしらえてあげるから、ちゃんと仕官なさい」
と言うばかりで、いっこうに色よい返事がもらえない。

ある日、鳶の若い衆と品川遊廓に乗り込んだ佐七郎。

もとより金がないので仲間を帰し、居残りをし、退屈まぎれに見よう見まねで雑巾掛けをしながら、身についた早業で、そのままツーッと裸足で脱走、雑巾一本手土産に芝まで帰ってきたと得意気に話すので、清五郎は、め組の顔にかかわると渋い顔。

め組の連中は、この間、二十五人力と自慢するならず者の四紋龍という男を、この若さまが牛若丸のような軽業で翻弄し、手もなくやっつけたのを見て、そのきっぷと力にぞっこん。

「ぜひとも鳶にしてやっておくんなせえ」
と、頭にせっつく始末。

あれやこれやで、今はもう一日も早くめ組の纏を持ってみたい一心の佐七郎だが、相変わらず清五郎は煮え切らない。

火事でもあって一手柄立てれば、頭もその気になってくれるだろうと、一日千秋の思いで江戸中が火の海になるのを待ちわびているが、あいにくその年は火の用心が行き届き過ぎているのか、九月十月になっても、半鐘はジャンともドンとも鳴らない。

そんなある日、退屈まぎれに仲間とガラッポンと博打をしている最中、ジャンジャンジャン、鳴った鳴った鳴った。

神田の三河町あたりで大火事だという。

久しぶりの働き場なので、め組の連中は殺気だち、佐七郎ももみくちゃにされて、いつしか褌一つの素っ裸。

それでも、チャンス到来とばかり飛び出そうとするが、清五郎はガンとして許さない。

「そんなに火事が好きなら、今度、昼間の一軒焼けかなにかの、煙が真っ直ぐ立って座敷から見物できるようなのがあったら見せるが、今夜のはお成り火事といって、玄人でも用意に近づけるような代物でないのに、素人が裸で行こうなどとはとんでもない」
という。

そう意見されてもガマンしきれず、たった一人取り残されて二階でウロウロしながら外をのぞいていた佐七郎、なんとか脱出して、とあせるうち、いい具合に窓格子が緩んでいたのかそっくり外れたので、これを幸い、屋根に出た。

ところが下は芋を洗うような騒ぎで飛び下りられない。

しかたなく、猫のような早業でするすると屋根から屋根へと飛び移り、一番激しく燃え盛っている龍閑町の鰌屋まで来た。

ここはちょうど、め組の持ち場。

奉行以下総出役で、まるで戦場だ。

さすがに煙と火の粉にあおられ、真っ黒になった佐七郎だが、屋根にしがみついて頑張り通すうちにようやく火が消え、め組の消し口を取ることになった。

事情を聞いて、清五郎は渋い顔。

奉行は
「武士の帯刀を捨て、鳶になっての感心な働き。感服いたした」
「へえ、今度は火をのんでみせます」

めでたく奉行の取り持ちで清五郎の子分となり、後に「お祭り佐七」として名をとどろかせた、という一席。

底本:二代目柳家小さん

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【しりたい】

長編のダイジェスト版か

江戸に古くから伝わる「お祭り佐七伝説」「小糸佐七情話」を踏まえた人情噺です。原話や作者は不明ですが、講釈種とも推測されます。

佐七は果たして実在したか、実録などはまったくわかりませんが、江戸前のいなせでいい男の典型として語り継がれました。

本編のあらすじは、明治23年(1890)の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記を基にしました。

小さんの噺は、おそらく、講談や伝説を踏まえた長編人情噺の切り取りと考えられます。

そのためか、佐七ものに付き物の芸者小糸との恋のくだりはなく、この前後に小糸との色模様があったのでしょうが、伝わっていません。

速記のマクラで、小さんは、佐七の異名「お祭り」は、彼が火事師(=鳶)で木遣りをよくしたことから、方々の祭りに招かれるうち、ついたものではないかと述べています。

劇化された佐七伝説

人形浄瑠璃では安永6年(1777)初演「絲桜本町育」が初めての本格的な佐七もので、ここでは、実は侍の佐七が、主家の重宝・小倉の色紙詮議のため幇間に身をやつしているという設定。

ついで、四世鶴屋南北が文化7年(1810)正月、市村座に書き下ろした「心謎解色糸」、時代は飛んで明治31年(1898)5月、歌舞伎座初演の三世河竹新七作「江戸育於祭佐七」が、佐七ものの劇化しては双璧で、現在でもときどき上演されます。

前者は無頼漢の鳶の者佐七と深川芸者小糸の破滅的な恋が中心。

後者は、小糸と佐七の悲恋を、江戸前の意気といなせで洗い上げた歌舞伎生世話物の傑作ですが、落語の筋とは直接かかわりはありません。

六代目円生が復活

戦後、六代目三遊亭円生が復活して演じました。

円生は、四紋龍との喧嘩のくだりまでで切り、四紋龍が投げられて砂糖まみれになったのを、「相手が乱暴者だから、砂糖漬けにしたのは精糖(=正当)防衛だ」と地口でオチていました。

二代目小さんのは、人情噺だけに、オチはついていません。

「雪とん」は別の噺

同題で別名「雪とん」と呼ばれる噺があります。

これは佐野の大尽、兵右衛門と小糸と佐七の三角関係を中心にした情話です。小糸と佐七の名を借りただけで、これは全くの別話です。

【語の読みと注】
鳶 とび
木遣り きやり
心謎解色糸 こころのなぞとけたいろいと

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ならい【東北風】ことば

スヴェンソンの増毛ネット

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東北地方から伊勢志摩あたりまでの海沿いに吹く、冬の寒くて強い風 。

あーた、船頭になるってかんたんにおっしゃいますけどねぇ。沖へ出てならいでもくらってごらんなさい。驚くから。

船徳

スヴェンソンの増毛ネット

志ん生とオリンピックとはどんな関係か?

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NHK大河ドラマ「いだてん」では志ん生が裏の主人公のような役回りをしています。どう考えても志ん生とオリンピックは関係なさそうなのに、宮藤官九郎の手になると、まるで志ん生が東京五輪を推進していたかのような錯覚に陥るものです。落語好きには、それはそれでおもしろいドラマになっていますね。

神木隆之介演じる古今亭五りんという落語家は架空の人物です。

もともと日本には宮本武蔵の『五輪書』という剣の奥義書があります。オリンピックの和訳語としての「五輪」は読売新聞記者だった川本信正の造語でした。川本の発想では『五輪書』を踏まえていたそうです。その五輪とは、地の巻、水の巻、火の巻、風の巻、空の巻をさすそうです。まあ、それはともかく。

昭和11年(1936)7月25日付の読売の見出しに「五輪」が登場したのが初めてのことでした。登場したばっかりの頃は「五厘に通じて安っぽく感じる」という意見もあったそうです。

そうなんです。「五厘」とは、明治の落語界ではつねに問題をはらんでいた寄席ブローカーの連中をさします。席亭(寄席の社長)と芸人の間で出演を仲介する人(ブローカー)のことです。割のうち、五厘を天引きしたために、そう呼ばれました。一銭にもならない安っぽい連中という意味合いも込められていて、おしなべて芸人世界の嫌われ者でした。円朝たち重鎮が五厘の一掃に苦心していたのが、明治演芸の一貫した道程だったのです。

「五厘」のイメージをとうに忘れてしまっていた昭和になって、オリンピックの五大陸を輪でむすぶという発想からオリンピックの精神を、川本は「五輪」と訳したわけです。川本は織田幹雄の弟子筋の人ですから、その身はしがない読売の記者とはいえ、並みの記者ではありませんでした。発信力が違います。まもなく、朝日も中外商業日報(日経)も「五輪」を使うようになって、あっというまに日本中に定着しました。

その五輪と五厘を掛けているところが、クドカンの凄味だなあと、私(古木優)は感心しています。

五輪の五色とは、旗の左側から青、黄、黒、緑、赤。輪を重ねて連結した形です。ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアの五大陸とその相互の結合と連帯を意味しているそうです。

五りんは想像の人物でも、隣にいつもいる、むかし家今松(荒川良々)はのちの古今亭円菊のこと。本名は藤原淑。昭和4年(1929)、静岡県島田市生まれ。地元の工場労働に見切りをつけて上京、志ん生に弟子入りしました。とちるしかむし覚えは悪いしで、悲惨な弟子でした。それでも、倒れた志ん生を背負って、銭湯に行ったり寄席に行ったり。苦労して真打ちになります。当時の周囲は「おんぶ真打ち」などとさげすんでいましたが、いずれは独特のアクションを伴った「円菊落語」を創造していくのです。手話やレフェリーのかたわら、アクションに磨きをかけていきました。

小泉今日子が演じるのは美濃部美津子。志ん生の長女で、大正14年(1925)生まれで、四人の子供の中で唯一のご存命。志ん生を脇から後ろから眺めてきたマネジャー役でした。こんな人がいらっしゃるのはファンとしては心強いかぎりです。著作も多く、すべてがすばらしい。

その昔、お宅にうかがってしばし志ん生師匠の思い出話を拝聴したことがありました。いい年したおばさんが志ん生師を「おとうさん」と呼んでいたのが印象的でした。この人の心の中には今でも志ん生=美濃孝蔵=おとうさんが生きているんだなあ、と。心のあったかさがしみじみ伝わる人でした。

古木優

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ちのみち 【血の道】 ことば

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女性特有の病気の総称。

身体的には男女を問わず血管をさしますが、芝居や落語では、広く血行障害に起因する女性特有の病気の総称のこと。

主に、産褥時や生理時、また、更年期障害の一症状として血行不良が起こり、その結果生じる、頭痛、目まい、精神不安定などの症状を、すべてこう呼びました。

これは、漢方医学では、到底病因や疾病の特定が不可能なため、致し方なく、なんでも「血の道の病」とされていたからでしょう。男の「疝気」や「腎虚」と同じようなものです。

「東海道四谷怪談」(四世鶴屋南北)で、出産直後のお岩が悩まされるのがこれでした。

伊藤喜兵衛(高師直の家臣)が、田宮伊右衛門(お岩の夫)を、孫娘お梅と添わせたいばかりに、じゃまになるお岩を「血の道の妙薬」と称した毒薬で殺そうとしたのが、すべての悲劇の発端となります。

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てっか 【鉄火】 ことば

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もとは文字通り、鍛冶屋が用いる、真っ赤に熱した鉄のこと。そこから、さまざまなことばが派生しました。

人間の気質でいえば、カッカとなりやすく、始終けんか腰の勇み肌を鉄火肌と呼びます。

火事場のように命がけの勝負をする博打場を鉄火場とも。

落語に登場する「鉄火」は、もっぱらこうした博打場、または博打打ちです。

博打打ちだった三代目桂三木助の十八番に「竃幽霊」がありますが、その後半で、かまどに隠した三百円の金に気が残って化けて出る左官の長五郎の幽霊。その自己紹介で、「あっしゃあ、シャバにいたときには、表向きは左官屋だったんですが、本当を言うと向こうぶちなんです。白無垢鉄火なんですよ」

ここで言う白無垢とは、素人、かたぎのこと。つまり、表向きは善良な職人でも、裏の顔は鉄火、今でいう「反社」ということですね。

【語の読みと注】
竃幽霊 へっついゆうれい
白無垢鉄火 しろむくでっか

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どざえもん 【土左衛門】 ことば

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水死人。川や海などでの溺死者。

大川(隅田川)から、南無阿弥陀仏、ドカンボコンとはでにダイビングし、あえなくなった人々が以後、改名してこう呼ばれます。江戸では、吾妻橋がそちらの方の「名所」で、落語「唐茄子屋政談」の若だんなも、あやうくここから三途の川に直行するところでした。

語源としては、享保9年(1724)6月、深川八幡の相撲で前頭上位にいた、成瀬川(一説に黒船)土左衛門という力士が、超アンコ型でぶくぶく肥大していたのを、水ぶくれの水死人にたとえたのが初めと言われますが(『近世奇跡考』)、そのほかにも、水に飛び込む音「ドブン」を擬人化したなど、諸説あります。

芝居では、河竹黙阿弥の代表的世話狂言「三人吉三」で、主役の一人、和尚吉三の父親が「土左衛門爺伝吉」と呼ばれます。

三人吉三

この異名の由来は、女房が生まれたばかりの赤子を抱えて、川へ身投げをしたのをはかなみ、罪業消滅のために大川端へ流れ着いた水死体を引き揚げては葬っていたことから。実際に、こうした奉仕をしていた人々が、多くいたのでしょう。

【噺例 佃祭】

舟を断ってよかった。行きゃあ、俺だって一緒に土左衛門になってらあ。

【語の読みと注】
三途の川  さんずのかわ
成瀬川土左衛門 なるせがわどざえもん
三人吉三 さんにんきちさ
土左衛門爺伝吉 どざえもんじいでんきち

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お盆 おぼん 演目

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明治期につくられた珍品です。

別題:巣鴨の狐

【あらすじ】

目白の近くの鼠山という、人跡まれな山中。

怪しげな祈祷で人をたぶらかすのをなりわいにしている、法印と呼ばれる行者が、飯炊きの権助と二人で住んでいた。

ある日、王子に使いに出した権助が夕方にやっと帰ってきて、狐の子でも捕まえて狐汁にでもしてくってやろうと、遅くまで見張っていたと言い訳する。

「法印の家来が王子権現のお使いの狐を殺してどうする」
と説教しているところへ、商人風の男が尋ねてくる。

「実は、自分は、巣鴨の傾城が窪の商家の者だが、主人の娘が狐憑きになって困っているので、ぜひ行者さまに祈祷で狐を退散させてほしい」
という頼み。

このところ客足が鈍って懐がピイピイなので、渡りに船と喜んだ法印、
「自分が引き受けるからには立ちどころに追い払ってやる」
と大見得。

「ウチのだんなは字が読めねえから祈祷なんかできねえ」
と余計なことを言いだす権助を必死で黙らせ、七両二分で手を打った。

前金一両を盆に乗せて、しかつめらしく受け取ろうとするが、持っていないのでぼろぼろの膳の蓋で代用。

男は喜んで帰っていく。

さて、どうゴマかそうかと考えた法印、先ほどの狐汁の話を思い出し、一計を思いついた。

権助に狐を一匹捕まえ、後から背負ってこさせる。

自分が線香をたいて、ムニャムニャと唱え始め、座敷中煙で真っ暗になった時分に、合図で権助がそっと忍び込み、風呂敷をほどいて狐を出し、そいつを追っぱなして生け捕るか、ぶち殺して差し出せばいいというわけ。

飯炊き以外の超過労働はしたくねえ、お使いの狐を殺しちゃなんねえ、といったのは誰だとごねる権助を、一両やるからと、ようやく言い含め、準備を整えて、いよいよ巣鴨に乗り込んだ法印。

線香を百本用意させ、さあこれからという時に、権助が狐を入れた箱をさげて座敷に押し入ってきたので大あわて。

まだ早いと小言を言いながら、
「マカハンニャハラミッタシンギョウ、カンジーザイボーサツ、ギョウジン」
これ一つしか知らない般若心経を、もっともらしくうなりだす。

「そろそろ出すか」
「ばか野郎、声が大きい。フーショウフーメツフクーフージョウ……そろそろ出せ」
「ムーゲンニービーゼツシン……死んでもいいから出せ」
「よし台所へ行って、お盆を借りてこよう」

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【しりたい】

江戸のインチキ霊能者

法印とは、本来は「まともな」山伏修験者をいいますが、この噺に登場するのは、江戸末期にはびこったインチキ行者で、怪しげな加持祈祷を行い、金銭をだまし取る手合いです。

山伏は役小角を祖とし、過酷な修行を通して真言密教の奥義に達し、超人的な法力を会得した者が少なくないと言われます。その「破邪の法」は、歌舞伎十八番「勧進帳」で弁慶が再現していますが、臨兵闘者皆陳列在前という九字の真言を唱え、歯を三十六度叩き、さらに「急急如律令」と唱えるのが定法です。

それさえ知らず、般若心経でゴマかしているところにこの主人公のインチキ振りがうかがえます。天保改革の際、こうした輩を郊外に追放したという記事が『武江年表』に見え、目白の鼠山もその配流地の一つでした。

黙阿弥の「三人吉三」の発端で、法印と浪人がグルになって狂言のケンカをやらかし、法印が不動金縛りの術を見せるというので見物人が集まったところを、その隙に、一味のスリが、全員の財布を失敬してしまうという場面がありますが、現在ではカットされます。

明治の新作落語か

この噺、別題を「巣鴨の狐」といい、明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残っています。同時代では二代目三遊亭小円朝もよく演じたらしく、続いて大正から昭和初期までは五代目三升家小勝(1939年没)が一手専売にしましたが、それ以後、現在までやり手はありません。

円橘は、円朝門下の「四天王」の一人として明治後期まで重きをなした人で、人情噺、落とし噺ともに優れていました。明治39年(1906)7月11日、谷中全生庵での師円朝の七回忌法要の席で、本堂での読経中に倒れ、そのまま亡くなったという因縁めいた最期で知られます。

この速記のマクラで、円橘は「当世風には参りませぬが、何か斬新 おあたら)しい落語を」と述べていて、この噺が自身の新作であることを匂わせていますが、詳細ははっきりしません。

傾城が窪

傾城が窪は鶏声が窪とも書き、元の文京区駒込曙町、現在の同区本駒込一、二丁目にあたります。

下総古河八万石、土井大炊頭の下屋敷の南西部一帯で、地名の起こりは、土井屋敷で毎晩、怪しい鶏の鳴き声がするので、その声のあたりを掘ってみると、金銀でつくられた鶏が出てきたため、その故事にちなんだといわれます。

したがって、鶏声が窪が古い表記とみられます。「傾城」は遊女の古称ですが、同音の転化でしょう。 

鼠山

鼠山は、現在のJR目白駅西側一帯の台地。

かなり範囲は広く、豊島区目白四丁目付近から西武池袋線・椎名町駅を越え、同区長崎四丁目あたりまで広がっていたようです。

古くは子ツミ山、また櫟の大木があったことから櫟山ともいいました。

享保12年(1727)、幕府直轄地になり、将軍家調馬場、お狩場となりました。「大江戸の尻尾のあたり鼠山」という雑俳が残りますが、文字通り、江戸の尻尾、最西端でした。

まずかった! 狐汁

寛永年間(1624-44)に書かれた、料理書の先駆け「料理物語」にも、鹿・狸・かわうそ・犬などの調理法はあるものの、狐はなし。よほど、まずかったのでしょうね。

【語の読みと注】
鼠山 ねずみやま

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すみかえ 【住み替え】 ことば

芸妓、遊女、奉公人などが勤め先(=あるじ)を替えること。

一般的には引っ越しの意味で使うのでしょうが、落語ではこれ以外では使いません。

ひょっとしたらその女は、品川から吉原へ住み替えてきた女じゃねえか。

三枚起請

志ん生と孫 高田裕史

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「中央公論」1964年の新年特大号。

「うちの三代目」というグラビア特集で、志ん生が三人の孫娘に囲まれ、いかにも幸福そうにニコニコ笑っている写真があります。

いずれも長男十代目馬生の娘たちで、キャプションには当人の弁として「志津子は八つ、由起子は五つ、寿美子は三つである……名前は私と(馬生が)相談してつけた。……今が可愛いね。もう手がかからなくて一番いい頃。朝にはかならず飛び込むようにして私に会いに来る。おじいちゃん、おじいちゃんと言われると、全くたまらないね」という、孫のろけ。

志ん生は当時、病魔をやっと克服して、寄席に復帰したばかり。

その年の秋には紫綬褒章を受章します。

自伝(らしい)『びんぼう自慢』で紹介している通り、志ん生夫妻には「清のところに三人、喜美子のところに二人」で、後に次男志ん朝にも二人誕生して、都合七人の孫。

『びんぼう自慢』の巻頭には、昭和38年ごろの、その五人の孫を含む一家三代の集合写真も掲載されていました。

ところで、「志ん生の孫」でいちばん有名なのは女優の池波志乃。中尾彬夫人で、おしどり夫婦として知られていますね。

十代目馬生の長女で、本名は志津子。その志津子がずっと後、「文藝春秋」1989年9月号誌上に、祖父の回想を寄せています。

そのタイトルはかなり辛辣で「貧乏したのは家族だけだった『勝手な人』」。

で、彼女いわく、「私は初孫ですし、珍しいもんだから、おもちゃみたいに可愛がるんです。でも、元来子供の好きな人ではないので孫と遊ぶのは私であきてしまい、もう子供はうっとうしいと思ったのか、二人の妹のことは全くかまいませんでした」

そういえば、末っ子の志ん朝以外は、馬生を含む上の三人にはほとんどかまいつけず、そもそも、一年中ほとんど家にいなかったというワイルドな親父だった志ん生が、いくら功成り名遂げて金もできたところで、そう簡単に子供好きになるはずもなく、前記の、いかにも孫たちが目に入れても痛くないという風なコメントも、多分に外面の営業用に思えてきます。

「もう手がかからなくて」一番いい、というのは、当時の年齢からして、志津子だけのことでだったのでしょう。

そのほか、彼女の祖父批判は留まるところを知らず、家族がほとんど餓死寸前の極貧生活で、祖母りん夫人の内職だけで辛うじて食いつないでいるのに、祖父志ん生はどこ吹く風、毎日、酒だバクチだお女郎買いだと「別の次元にいるようだった」と、実に手厳しいものです。よほど、幼時に父や祖母から、散々愚痴や恨みつらみを聞かされていたのでしょうね。

この手記でおもしろいのは、批判が祖父だけではなく、後年貞女の鏡、聖女のように讃えられた祖母りんにまで及んでいること。

後年、テレビの志ん生貧乏譚の再現ドラマで、その祖母を演じていましたし、「いだてん」でも同様に演じていたほど、若い頃のりん刀自に瓜二つな池波志乃ですが、いわく「おじいちゃんが売れっ子になって生活がよくなってきたら、かつての貧乏生活の反動か、祖母の金の遣い方が派手になりました」。

祝儀の切り方も手当りた次第、千疋屋から高級メロンをあつらえると、使いの者にまで祝儀の大盤振る舞い。

若い頃はおじいちゃんがすっからかんすっからかんに使い、年取ってからは祖母が浪費して最後には何も残らず、だったよし。

まあ、それだけ長年貧窮を見てきた人だから、そのくらいは、とも思いますが、とかく女の子の家族を見る目というのはシビアなもの。

というより、そういう客観的で怜悧な観察力を、幼時から持ち合わせていたことが、池波志乃の女優としての類まれな資質で、これもまた、りっぱな「名人の系統」なのでしょうね。

高田裕史

【RIZAP COOK】

落語の死神 古木優

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

三遊亭円朝は福池源一郎(桜痴)から西洋の話を聞いて、「死神」という一編をこさえたといわれています。

死神とは、死をつかさどる神、人を死にいざなう神、といわれています。

これはどうも、西洋にはいても、日本には存在しません。仏教にも神道にも。

ましてや、大鎌を振り下げようとする黒い法衣をまとった骸骨顔の死神装束は、どう逆立ちしても異文化もいいところ。

落語の死神は、聴けば、なんだか托鉢僧のように思えますが、その姿格好のほどはよくわかりません。

近松門左衛門が18世紀初頭に「死神」ということばをいくつかの作品に使っています。でも、これは決定打にはなりません。西洋からの、つまりは長崎経由の知識だった可能性もあるのですから。

宝永3年(1706)上演の「心中二枚絵草紙」では、いざ心中という男女を「死神の導く道や……」と描いています。

宝永6年(1709)上演の「心中刃は氷の朔日」では、男と心中しようとした女が「死神の誘う命のはかなさよ」とひとりごちています。死神の存在が男女を心中に至らせるのを言っているのか、心中のようすを死神にたとえているのかが、どうもよくわかりません。「死神」ということばを入れることで命の短さやはかなさを描いているようにも思えます。

享保5年(1720)上演の「心中天網島」に「あるともしらぬ死にがみに、誘われ行くも……」とあります。主人公の紙屋治兵衛から「紙」と「神」をかけいるわけで、死を目前にする人の心を表したものでしょう。「あるともしらぬ死神に」と言っているところを素直に読めば、近松本人が死神の存在をわかっていない可能性もあります。なんともいやはや。

これだけの例で語れるものではありませんが、日本には死神という概念はなかったのではないか、と思われます。

そこで円朝。

幽霊なんかばっかり登場させていた円朝は、明治になったら聴衆に飽きられてしまい、「それでは」と新案として出してきたのが、死神という新キャラクターだったようです。

原話はグリム童話の「死神の名付け親」だとか、ルイージ・リッチ、フェデリコ・リッチ兄弟のオペレッタ「クリスピーノと死神」だとかいわれていますが、どっちなのか、どっちでもありなのか、そんなことは、とりあえずここではどうでもよい話としておきましょう。

重要なのは、死神が最後に見せるロウソクです。

人の一生をロウソクにたとえるアイデアは西洋独自のもので、明治より前の日本(というか東洋)にはありません。

人の命にはロウソクのように始めから長さが決まっているとして、可視化できる概念は、東洋には、少なくとも日本にはありませんでした。

いまや西洋文物にどっぷり浸かっているわれわれ日本人には、「おふみ」の意味がわからなくても、「死神」のロウソクにたとえられた人の命の長さはずっとわかりやすいのではないでしょうか。とほほ、です。

最後に、「死神」のお楽しみのひとつ、あの呪文のいくつかを列挙してみましょう。演者によって微妙に違いますが、まあ同じと言えば同じでしょうか。

原作者とされる円朝。彼の速記には、呪文がありません。

アジャラカモクレン キューライス テケレッツのパア

アジャレン モクレン キンチャン カーマル セキテイヨロコブ テケレッツのパア

エンヤカヤハヤ エッヘイハー プータゲナー メイホアツー チンチロリン

アジャラカモクレン エベレスト テケレッツのパア

アジャラカモクレン アルジェリア テケレッツのパア

アジャラカモクレン ハイジャック テケレッツのパア

アジャラカモクレン セキグンハ テケレッツのパア

アジャラカモクレン モウタクトウ テケレッツのパア

アジャラカモクレン コウエイヘイ テケレッツのパア

アジャラカモクレン ピーナッツ テケレッツのパア

アジャラカモクレン ダイオキシン テケレッツのパア

チチンブイブイ ダイジョーブイ テケレッツのパア

アジャラカモクレン エヌエイチケ テケレッツのパア

アジャラカモクレン トラノモン テケレッツのパア

アジャラカモクレン テケレッツのパア (柏手)ポンポン

アジャラカモクレン テケレッツのパア 定年後の貯金は二千万

古木優

【死神 柳家喬太郎】

スヴェンソンの増毛ネット

おふみ 演目

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高座ではあまりかからない、珍しい噺です。

別題:お文さん(上方) 万両(上方)

【あらすじ】

日本橋あたりの酒屋のだんな。

愛人のいることがおかみさんにばれ、今後、決して女の家には近寄らないと誓わされた。

ある日、赤ん坊を懐に抱いた男が、店に酒を買いにくる。

ついでに祝い物を届けたいから、先方に誰かいっしょについてきてほしいと言うので、店では小僧の定吉をお供につけた。

ある路地裏まで来ると、男は定吉に、
「少し用事ができたから、しばらく赤ん坊を預かってほしい」
と頼み、小遣いに二十銭くれたので、子供好きの定吉は大喜び。

懸命にあやしながら待っていたが、待てど暮らせど男は現れない。

定吉が困ってベソになったところへ、番頭がなぜかおあつらえ向きに路地裏へ現れて、定吉と赤ん坊を店に連れて帰る。

さては捨て子だというので、店では大騒ぎ。

案の定、男が買った樽に、
「どうか育ててほしい」
という置き手紙がはさんであった。

おかみさんは、もう子供はできないだろうとあきらめかけていた折なのですっかり喜び、家の子にすると言って聞かない。

だんなも承知し、
「育てるからには乳母を置かなくてはならない」
と、さっそく、蔵前の桂庵まで出かけていった。

ところが、だんなが足を向けたのは、なんと、切れたはずの例の女の家。

所は柳橋同朋町。

実は、これはだんなの大掛かりな狂言。

愛人のおふみに子供ができてしまったので始末に困り、おふみの伯父さんを使って捨て子に見せ掛け、おかみさんをだまして合法的に(?)赤ん坊を家に入れてしまおう、という魂胆だった。

その上、おふみを乳母に化けさせて住み込ませよう、という図々しさ。

もちろん、番頭もグル。

こうして、うまうまと母子とも家に引き取ってしまう。

奥方はすっかりだまされ、毎日赤ん坊に夢中。

そのせいか、日ごろの焼き餅焼きも忘れて「乳母」のおふみまで気に入ってしまう。

一方、だんなはその間、最後の工作。

問題は定吉で、これも、ふだん、だんなに買収され、愛人工作にかかわっていたため、妾宅にも出入りし、もちろんおふみの顔を知っている。

で、魚心あれば水心。

「口をつぐめば小遣いをやる」
と約束して、こちらも落着。

だが、定吉はふだんからおふみに慣れているから、ついおふみを「さま」付けで呼んでしまうので、あぶなっかしい。

「いいか、乳母に『さま』なんぞつける奴はねえ。うっかり口をすべらして『さま』付けなんぞしてみろ、ハダカで追い出すからそう思え」

数日は無事に過ぎたが、ある日、おかみさんがひょっと気づくと、だんながいない。

「ちょいと、定吉や。だんなはどこにおいでだね」
「ちょいとその、おふみさ、もとい、おふみを土蔵によんでいらっしゃいます」

昼日中から乳母と二人で土蔵とは怪しいと、おかみさん、忘れていた嫉妬が急によみがえり、鬼のような形相で土蔵へ駆け込む。

ガラリと戸を開けると、早くも気配を察しただんな、
「我先や人や先、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、今日とも知らず明日とも知らず、遅れ先立つ人は本の雫」

おかみさんは面食らって、
「ちょいと定吉、どういうことだい。おふみじゃないじゃあないか。だんなさまが読んでいるのは、一向宗の『おふみさま』だよ」
「でも、『さま』をつけると、ハダカで追い出されます」

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【しりたい】

「権助魚」とのかかわり

原話は不詳で、上方落語で「万両」または「お文さん」と呼ばれる切りねたが東京に移植されたもの。移植者、時期などは不明ですが、明治32年(1899)、40年(1907)の二代目三遊亭小円朝の速記が残っています。この小円朝は、五代目古今亭志ん生の最初の師匠です。「いだてん」にも出ていました。

上方の「万両」の演題は、舞台である大坂船場の酒屋の名からとったものです。上方版では、下女がだんなとおふみの濡れ場を目撃、ご寮人さんに告げ口して、ことがバレる演出になっています。

この噺にはもともと、現在は「権助魚」「熊野の牛王」として独立して演じられる「発端」がついていて、明治23年(1890)、二代目古今亭今輔が「おふみ」の題でこの発端部分を演じた速記が残っています。後半との筋のつながりはなく、いかにもとって付けたようで、本当にもともと一つの噺だったかどうかさえ怪しいものです。

おふみさま

浄土真宗東本願寺派(大谷派)で、本願寺八世蓮如上人が真宗(一向宗)の教義を民衆向きにやさしく述べた書簡文154編を総称していうものです。門徒は経典のように暗記し唱えます。

ここでは、だんなの女の名が同じ「おふみ」であることがミソです。これが当然伏線になっていますが、ストーリーに起伏があって、なかなかおもしろい噺なのに、現在演じ手がいないのは、特定の宗派の教義に基づくオチが、一般にはわかりにくくなっているせいでしょう。場所の設定が 柳橋同朋町 であることも念仏系宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)とのかかわりをにおわせていますね。

かんぐれば、この噺は、本願寺の熱烈な門徒により教派の布教宣伝用に作られたのではと、思えないではありません。げんにその手のはなしはいくらでもあります。それもはなしの成り立ちのひとつととらえられます。

落語世界の登場人物で、浄土真宗の熱烈な信者といえば「後生鰻」の隠居、「宗論」のオヤジが双璧です。

桂庵

けいあん。慶庵、口入れ屋とも。就職斡旋所です。

男女の奉公人の斡旋、雇われる側の職業紹介を兼ね、縁談の斡旋までしたとか。人の出入りが激しいためか、花街、遊廓の近くに集まっていました。

江戸で最も有名なのは「百川」に登場する葭町の千束屋ですが、岡本綺堂(劇作家)は、この店の所在地を麻布霞町といっています(『風俗江戸物語』による)。おそらく支店なのでしょう。

「おふみ」では、蔵前第六天社の「雀屋」に設定することが多くなっています。

【語の読みと注】
桂庵 けいあん:就職斡旋所。慶庵、口入れ屋とも
形相 ぎょうそう
切りねた きりねた:真打しか演じられない大ネタ
ご寮人さん ごりょんさん:若奥さん。上方中流以上の商家で

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おおみせ 【大見世】 ことば

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吉原で、尤も格式の高い遊女屋。おおまがき、大籬。

「籬」とは格子戸。その高さで、大籬や半籬などと店の格式を区分していました。

【噺例 文七元結】

吉原で佐野槌と呼ばれりゃ大見世だ。

佐野槌、角海老、三浦屋などは大見世の代表格です。大見世の下には、中見世、小見世などあって、最下位は蹴転というのも。「お直し」ですね。

【語の読みと注】
佐野槌 さのづち
角海老 かどえび
三浦屋 みうらや
中見世 なかみせ
小見世 こみせ
蹴転 けころ

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まび 【間日】 ことば

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暇な日。仕事の合間の日。

間日というのか、ざこ一匹かからん。

野ざらし

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おおだな 【大店】 ことば

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

規模の大きな店。手広くやっている商店。

日本橋あたりの呉服屋のイメージです。

大店を かぶって 橋の手拭や

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お釣りの間男 おつりのまおとこ 演目

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間男をネタにしたバレ噺。主人公はあの与太郎。どうなりますやら。

別題:七両二分 二分つり

【あらすじ】

町内の与太郎。

女房が昼間中から間男を引き込んで、堂々と家でいちゃついているのにも、いっこうに気づかない。

知らぬは亭主ばかりなりで、髪結床ではもう、おあつらえ向きの笑い話となっている。

悪友連中、火のあるところにさらに煙をたきつけてやろうと、通りかかった与太郎に
「てめえがおめでてえから、留守に女房が粋な野郎を引きずり込んで間男をやらかしてるんだ。友達の面汚しだから、帰って暴れ込んでこい」
とたきつける。

悪い奴もあるもので
「今ごろ酒でものんでチンチンカモカモやっている時分だから、出し抜けに飛び込んで『間男見つけた、重ねておいて四つにするとも八つにするともオレの勝手だ。そこ一寸も動くな』と芝居がかりで脅かしてやれ」
と、ごていねいにも出刃まで用意してけしかけたから、人間のボーッとした与太郎、団十郎のマネができると大喜び。

その上、間男の相場は七両二分だから、脅せば金が取れると吹き込まれ、喜び勇んで出かけていく。

乗り込んでみると、案の定、女房と間男がさしつさされつ堂々とお楽しみ中。

「間男見つけた。重ねておいて」
「なにを言ってるんだねえ。どこでそんなことを仕込まれてきたんだい」
「文ちゃん、源さん、八つァんに、七公に、髪結床で教わった」
「あきれたもんだねえ」
「さあ、八つになるのがイヤなら、七両二分出せ」
「今あげるからお待ち」

金でまぬけ亭主を追い出せるなら安いものと、こちらも願ったりかなったり。

八円で手を打った。

「一枚二枚三枚……八枚。毎度あり」
「さあ、この女ァ、オレが連れていくぜ」
「ちょっと待っておくれ」
「まだ文句があるのか」
「八円だから、五十銭のお釣りです」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

原話「七両二分」

原話は寛政6年(1794)刊『喜美談話』中の「七両二分」。「竹里作」とある、この小咄は……。

どうも女房がフリンしているらしいので亭主、遠出すると見せかけてかみさんを油断させた上、隣家に頼んで、朝早くから張り込ませてもらい、壁越しにようすをうかがっていると、果たして間男が忍んできたようす。さあ重ねておいて四つ切りだと、勇んで踏み込んでみると、なんと、枕屏風の外に小判で八両。亭主、これを見るとすごすごと引き返し、隣のかみさんに、「ちょっと二分貸してくれ」。

八両から間男の示談金の「七両二分」を引いて、二分の釣りというわけですが、思えばこの「竹里」なるペンネーム、どう考えても「乳繰り」をもじったもので、怪しげなこと、この上なしです。

初代円遊のバレ噺

この噺、別題「二分つり」「七両二分」ともいい、上方でも江戸でも、しょせん、ある種の会やお座敷でしか演じられなかった代物です。

むしろ江戸時代よりさらに弾圧がきびしくなった明治になって大胆不敵にも、これを堂々と何度も寄席でやってのけた上、速記 明治26年)にまで残したのが、鼻の円遊こと、初代三遊亭円遊でした。

よくもまあ、検閲をすり抜けたものだと感心しますが、さすがにお上の目は節穴でなく、それ以後の口演記録はありません。

現在でも、さすがにこういう噺を寄席で一席うかがう猛者はいませんが、この噺を短くしたものや、類話の間男噺で、与太郎が間男の噂を当の亭主にばらしてしまい、「誰にも言うなよ」というオチがつく小噺がよく「紙入れ」などのマクラにも用いられます。

間男代金・七両二分の由来については、「紙入れ」をご覧ください。

間男の川柳、名セリフ

間男の類語は「不義」「密通」「姦通」、今でいう「不倫」。武家社会の「不義」は、間男のみならず、恋愛一般の同義語でした。つまり、当事者が奥方でも娘でもお妾でも女中さんでも、色恋ざたは、見つかり次第なます斬りがご定法だったわけで。間男の川柳は数々あります。

主に、噺のマクラに用いられるものです。

町内で 知らぬは亭主 ばかりなり

間男と 亭主抜き身と 抜き身なり

据えられて 七両二分の 膳を食い

天明期に「賠償金」の額が下落すると、こんなのがつくられました。

生けてお く奴ではないと 五両とり

女房は ゆるく縛って 五両とり

女房の 損料亭主 五両とり

亭主が現場を押さえた時の口上は、この噺にもある通り、出刃包丁を突きつけ「間男めっけた。重ねておいて四つにするとも八つにするともオレが勝手だ。そこ一寸も動くな」が通り相場。

「団十郎のマネができる」と、与太郎が喜ぶことでもわかるように、このセリフは芝居からきています。歌舞伎でも生世話物がすたれつつある今日、このセリフを歌舞伎座で聞くことも、あまりなくなりました。

【語の読みと注】
竹里 ちくり
乳繰り ちちくり

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お茶汲み おちゃくみ 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

遊郭を舞台にした艶っぽい噺。なんだかまぬけなんですがね。

【あらすじ】

吉原から朝帰りの松っあんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから七十銭ポッキリでいいと若い衆が言うので、揚がったのが「安大黒」という小見世。

そこで、額の抜け上がった、目のばかに細い花魁を指名したが、女は松っあんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、紫というその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡の在の者だが、近所の清三郎という男と恋仲になった。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手に清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨の礫。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心をして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季が明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目の縁になすりつけて、その茶殻がくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

原作は狂言

大蔵流狂言「墨塗」が原典です。

これは、主人が国許へ帰るので、太郎冠者を連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬深い愛人のところへ暇乞いに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋になすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里狂いが過ぎて勘当されかかった若だんなが、罰として薩摩の国の親類方に当分預けられるので、なじみの女郎に暇乞いに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶がらに代えた「涙の茶」。これを初代柳家小せんが明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚虚実実のだまし合いをリアルに活写。現行の東京版「お茶くみ」が完成しました。やれやれ、ご苦労さま。

小せんから志ん生へ

廓噺の名手で女遊びが過ぎて失明した上、足が立たなくなったという初代小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生が直伝で継承。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(=二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎としていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の志ん朝のものがCD化されていましたが。桂歌丸、柳家小三治のものが出ています。

本家の「黒玉つぶし」の方は、戦後、上京して上方落語を演じた桂小文治が得意にしていました。

歌舞伎でも

実は、「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平定文(通称・平中)の逸話中にすでにあるといわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜』の「鮨屋」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎以来の音羽屋の型です。

これは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の初代小せんの速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょうが、明治末から大正初期で、大見世では揚げ代のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
梨の礫 なしのつぶて
軽口五色帋 かるくちごしきがみ
田毎 たごと

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おせつ徳三郎 おせつとくさぶろう 演目

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法華の信者ならすぐわかる、オチは「鰍沢」と同じフレーズです。

別題:刀屋(下のみ) 隅田の馴染め(改作) 花見小僧(上のみ)

【あらすじ】

日本橋横山町の大店の娘おせつ。

評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。

だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。

これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつの供をして向島まで花見に行った丁稚の定吉を脅した。

案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。

そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。

なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという情報が流れ、徳三郎はカッときた。

しかも、蔵前辺のお大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにしたという。

「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに、かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。

老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。

徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。

親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えは止めてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思い止まったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。

おせつが婚礼の石から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎のごとく飛び出して、両国橋へ。

お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。

追手が追っていて、せっぱつまった二人。

深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。

ところが、木場だから下は筏が一面にもやってある。

その上に落っこちて、
「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(題目)で助かった」

【しりたい】

なりたちと演者など

もともとは、幕末に活躍した初代春風亭柳枝(?-1868)作の人情噺です。

長い噺なので、古くから上下または上中下に分けて演じられることが多く、小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。

この部分を明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊が「隅田の馴染め」として、くすぐりを付け加えて改作しました。

その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。

それに続いて、徳三郎が伯父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされますが、普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。

後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題してしばしば独立して演じられています。

明治期の古い速記としては、原作にもっとも忠実な三代目柳枝のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)ほか、「上」のみでは二代目(禽語楼)柳家小さん(「恋の仮名文」、明治23年)、初代三遊亭円遊(「隅田の馴染め」、明治22年)、「下」のみでは三遊亭新朝(明治23年)、初代三遊亭円右(不明)のものが残されています。

オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木」は父親のセリフになっていますが、六代目三遊亭円生も「刀屋」でこれを踏襲しました。

「刀屋」で、おやじが、自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型ですが、現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。

戦後は六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生、六代目春風亭柳橋、五代目柳家小さんも得意にし、円生と志ん生は「下」のみを演じました。

その次の世代では、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝、三遊亭円楽のものなどが傑出していました。

現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多く、「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外では、最近はあまり単独口演されません。

村松町の刀屋

この噺のとおり、日本橋村松町と、向かいの久松町(中央区東日本橋一丁目)には刀剣商が軒を並べていました。江戸末期の商人喜多川守貞(1810-?)の『守貞漫稿』に「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」とあります。徳三郎が買おうとしたのは、二分と二百文の脇差です。

深川・木場の川並

木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。

その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。大小の材木問屋が軒を並べたました。掘割に貯材所として常時木材を貯え、それを「川並」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて筏に組んで運んだものです。

法華の信者

「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。

こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず「法華」という呼び名の方が一般的でした。日蓮宗は法華経のみを唯一最高の経典と尊重したからです。浄土宗とは因縁の対立が続いていました。

お七の十 おしちのじゅう 演目

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「お七」に似ているのですが、ぜんぜん違う噺。ばかばかしいだけ。

【あらすじ】

本郷の八百屋の娘お七。

駒込吉祥院の寺小姓吉三といい仲になり、離ればなれになりたくないばっかりに自宅に放火し、鈴が森で火あぶりに。

それを聞いた吉三は悲しみ、生きていてもしかたがないと、吾妻橋から身を投げてお七の後を追い、地獄へ。

そこで巡り合った二人。

「そこにいるのはお七か」
「吉三さん、会いたかった」
と抱き合ったとたんに、ジュウッという音。

お七が火で死んで、吉三が水で死んだから、火に水が掛けられてジュウ。女が七で男が三だから、合わせて十。

そのうちに、お七の亡霊が毎晩鈴が森に出没するというので、世間の評判になった。

たまたま、ある夜、通りかかった侍、いきなり幽霊に出くわして、
「うらめしい」
とやられたので怒り、
「おまえに恨みを受けるいわれはない」
とお七の幽霊の一方の手と一方の足を斬り落とした。

お七が一本足で逃げだすので
「その方、一本足でいずこへ参る」
「片足(あたし)ゃ、本郷へ行くわいな」

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【しりたい】

悲劇のお七伝説 

史実・伝説ともに諸説入り乱れています。

浄瑠璃・歌舞伎などで一般に語られているのは、お七は駒込片町の八百屋久兵衛の娘で、絶世の美女。

数え十六歳の天和元年(1681)、火事で自宅が焼け、駒込吉祥院(文京区本駒込三丁目)に一家で仮住まいしている時、そこの寺小姓吉三郎と恋仲になります。

翌年夏、家の新築が成って吉三郎(吉三)と離れ離れになるのを悲しみ、また家が焼ければ寺に戻れると思い詰め、その年の暮れ、ついに自宅に放火。捕らえられて天和3年(1683)旧暦3月29日、鈴が森で火刑になったというものですが……。

実際は、お七の一家は天和2年(1682)2月の本郷丸山の火事で焼け出され、菩提寺の本郷浄心寺坂(文京区向丘一丁目)の円乗寺に寄宿、そこに、家督相続のごたごたからかくまわれていた、神田お玉ヶ池の旗本のせがれ小堀左門と恋仲になったというのが、そもそもの発端のようです。

「江戸のジャンヌ」はバカ正直

実録の吉三というのは恋人ではなく、寺の湯灌場買い、死人の着物を買う商売。一説に地回りのヤクザともいわれ、火事場泥棒が目的でお七に近づき、放火をそそのかした張本人とされます。

一説には、お七と円乗寺住職その人とのスキャンダルも絡んでいるというので、ことはややこしくなります。

お七の出生年、家のあった場所、父親の名前から恋人の名前、出自まで全て複数の説があり、真相は闇の中。

お七の起こした火事が天和2年(1682)12月28日で、本郷から川向こうの本所一体まで焼いた大火になったため、若年とはいえ、事件当時数え十七、(寛文6=1666年丙午生まれ)、情状酌量の余地なく、火盗改め中山勘解由の裁きで火刑となったというのは確かなようです。

これも風説では勘解由が情けをかけ、白州で「そちは(刑事責任免除の)十四であろうな」と何度も問いただしたのに、頭がクリスマスのお七は意味を察せず、「いいえ、あたいは十五(または十六)です」と言い張ったため、結局かばいきれなくなり、あえなく火あぶりになった、というのですが、年齢も含め、真偽は不明です。

文芸、芸能とお七事件

お七の一件は、年端もゆかない早熟な美少女が恋に陥って放火、丸焼きにされるというセンセーショナルな事件だったため、井原西鶴が「好色五人女」で小説化したのを端緒に、歌舞伎、浄瑠璃、戯作などあらゆるジャンルで取り上げられました。

特に浄瑠璃では、処刑後一世紀近くを経た、安永2年(1773)初演の菅専助作「伊達娘恋緋鹿子」が有名です。

その中の、お七が火の見櫓に登って火事告知の太鼓を打ち、町の木戸を開けさせて吉三に逢いに行くシーンは歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」に脚色され、四代目岩井半四郎が大評判を取りました。

お七の恋の一途さを描いた島村洋子の好短編「八百屋お七異聞」があります。岡本綺堂の怪異掌編「夢のお七」は、上野の戦いで敗れ、落武者となった彰義隊士が、夢にくりかえし現れたお七の霊告によって危うく命を永らえるという奇譚です。

落語では、「お七」「お七の十」ほか「強情灸」「神道の茶碗」「本堂建立」でも取り上げられています。

お七の古跡

舞台の寺もいくつかが本家争いをしており、そのため各地に供養塔が残っています。

代表的なもので、駒込吉祥院の比翼塚、円乗寺の供養塔とお七延命地蔵、処刑の地・鈴が森に近い密巌院(大田区大森三丁目)のお七地蔵などが、今なお残っています。

演者など

落語としての原話は不詳です。戦後、「恋の山手線」で一世を風靡した先代柳亭痴楽が数少ない古典の持ちネタとして得意にしていましたが、残念ながら後継者もありません。

【語の読みと注】
伊達娘恋緋鹿子 だてむすめこいのひがのこ

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お七 おしち 演目

★auひかり★

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あの与太郎も結婚して子供ができたのですが、ここでは八五郎と一騎打ちを。

別題:火の用心 お産見舞い

【あらすじ】

縁起かつぎの与太郎。

今度子供が生まれてめでたいので、どうかして縁起のいいことを聞きたいと考えている。

そこへ現れた兄弟分の八五郎。

来るなり、
「おめえの家は陰気で湯灌場にいるようだ、オレも伯父貴の葬式帰りだから、死人が出たのならいっしょに骨揚げしてやろう」
だのと、縁起の悪いことばかり並べる。

子供が生まれたと聞くと、赤ん坊の顔を見て
「小せえ餓鬼だ。これは今にも息を引き取るな」

「戒名はなんとつけた」
と聞くから、
「お初だ」
と言うと、
「こいつは今に、徳兵衛という仕立屋と心中する」
というご託宣。

「あちらからお初を嫁にもらいたいと言っても、てめえは一人娘だからやりゃしめえ。向こうも一人息子だから婿にはやれない。お互い夫婦になれないならと、『覚悟はよいか』『南無阿弥陀仏』土左衛門が浮き上がる」

言いたい放題言って、帰ってしまう。

シャクでならないのが、おかみさん。

「あいつのおかみさんも来月臨月だから、生まれたら、行って敵討ちをしておやり」
と亭主をけしかける。

さて。

いよいよ八公のところも生まれたと聞いて、与太郎、勇んで乗り込む。

「よく来た。おまえは伯父さんの葬式帰りで、家が陰気で、流しが湯灌場で、末期の水をピシャピシャのんでると言いてえんだろ」

言いたいことを片っ端から言われてしまう。

それでも子供を見て
「これは今に息を」
「引き取った方がいいや。踏みつぶしちまおうかと思ったんだ」
「名前はお初だな」
「うんにゃ、お七だ」

「お初徳兵衛」なら心中とすんなりいくが、「お七徳兵衛」ではなんだか変。

空振りして帰ると、かみさんが、
「お七ならほかにやっつけようがあるから、もう一度行っといで」
と知恵を授ける。

「昔、本郷二丁目の八百屋の娘お七は、小姓の吉三と不義をして、娘心の一筋に、火をつけたらあの人に会えるかと家に放火して、釜屋武兵衛に訴人され、とうとう江戸市中引き廻しの上火あぶりになった。おまえの娘も火刑になる、と言っておやり」

「今度こそ」
と引き返した与太郎、八公に
「昔、本郷で八百屋で火事で、娘がお七だ。お七がアワくって、こしょうをなめて、武兵衛の釜ァ破って逃げ出して、お茶の水へ落っこってオマワリにとっ捕まった」
とやると
「そうじゃあるめえ。昔、本郷二丁目の八百屋お七は、小姓の吉三と不義をして、娘心の一筋に、火をつけたらあの人に会えるかと家に放火して、釜屋武兵衛に訴人され、とうとう江戸市中引き廻しの上火あぶり。おまえの娘に火刑になるてえんだろう」
「うーん、もう女房に聞きやがったな」

底本:初代三遊亭円遊

★auひかり★

【しりたい】

円生の持ちネタ

原話は、寛延4年(1751=宝暦元)刊の笑話本『軽口浮瓢箪』中の「名の仕返し」。

これは、男達の親分の息子の元服式に別のなわばりの親分が祝いに訪れ、息子が庄兵衛と改名すると知ると、「それはいい名だ。昔、獄門になった大泥棒、日本左衛門(本名、浜嶋庄兵衛)にあやかろうというのだな」と、嫌味を言って帰ります。

おやじは腹を立て、「いつか仕返しをしてやろう」と思ううち、その親分に女の子が生まれと聞いて、さっそく出かけていき、名を聞くとお七。「なるほどいい名だが、火の用心をなさいよ」と、嫌味を言い返して引き上げたというお話。

天和3年(1683)、自宅放火のとがで、数え十七(一説に十六)で火刑になった本郷の八百屋の娘お七の伝説を踏まえ、パロディー化したものの一つで、現存する最古の速記は、明治23年(1890)「百花園」に連載された初代三遊亭円遊のものです。

その後、初代柳家小せん、五代目三升家小勝らが大正から昭和初期まで高座に掛け、その後途絶えていたのを、戦後六代目三遊亭円生が復活させました。円生没後は後継者はありません。

円生のオチは、「火をつけたらどうしたというんだ」「だから火の用心に気をつけねえ」というもので、ここから「火の用心」の別題があります。

ほかに「お産見舞い」とも呼ばれますが、別話「お七の十」の別題も「お七」というので、それと区別するためでもあったでしょう。

落語、歌舞伎、お七伝説

お七伝説は、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」に取り入れられるなど、歌舞伎ではポピュラーな題材です。落語でも「強情灸」のオチに使われるほか、マクラ噺で「もぐら泥」「七段目」などにも使われます。「本堂建立」では、托鉢坊主が髪結いで、自分は実はお七の恋人吉三の後身だとヨタ話をします。

釜屋武兵衛

噺の中に出る「釜屋武兵衛」は、芝居や浄瑠璃でお七に横恋慕する人物で、やはりお七伝説をパロディー化した河竹黙阿弥の歌舞伎世話狂言「三人吉三」でも悪役として登場します。

湯灌場

八五郎が嫌がらせを並べ立てる場面に登場する「湯灌場」。現在でも「湯灌」といって、納棺や葬式の前に、遺体を湯で洗い清める風習が広く残っています。江戸時代は、地主や家持ちは自宅で、借家人は納棺して寺に運び、墓地の一隅の湯灌場で行いました。1坪程度の空間でした。地主や家持ちでない者は民家で湯灌することがご法度でした。

湯灌場買い

江戸時代には「湯灌場買い」と呼ばれる業者がいました。湯灌場で死者から脱がせた衣服を買い取る商売です。古着屋です。死者には経帷子を着せる風習でした。

歌舞伎では、黙阿弥作「湯灌場吉三」の主人公がこの湯灌場買いをなりわいにしています。「真景累ケ淵」の「聖天山」に湯灌場が描写され、「ちきり伊勢屋」では若だんなが、生き弔い(生前葬)で湯灌の代わりに風呂に入ります。「こんにゃく問答」でも「湯灌場踊り」の話が出ますが、実態は不明です。

経帷子

経帷子とは、死者に着せる着物をいいます。白麻などでつくり、その白地に真言、名号、題目などを書いて死者を冥土に送るものです。ですから、仏教での葬式で行われるものです。きょうえ、寿衣とも。

縁起かつぎ

この噺では、ゲンかつぎの人間にわざと縁起の悪いことを並べて嫌がらせするくだりが中心ですが、こうしたモチーフは、ほかに「かつぎや」「しの字ぎらい」「けんげしゃ茶屋」(上方)などがあります。

よくある都会のデカダン趣味、偽悪趣味のの一種でしょう。やられる人間もけっこう楽しんでいるわけで、こうしたことにムキになって怒ると、シャレのわからないヤボ天としてよけいばかにされ、いじめられるわけです。

土左衛門

ドゼエムともいいます。水死体のことで、享保年間の関取、成瀬川土左衛門の顔色が悪く、水死人にそっくりだったことからとも、肥った人間を称した「どぶつ」の変化ともいわれます。

お初徳兵衛

近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曾根崎心中」(元禄16=1703年5月、大坂竹本座初演)のカップル。大坂内本町の醤油屋の手代と、北新地「天満屋」抱えの芸妓(芝居では遊女)で、同年4月7日に梅田堤(同・曾根崎の森)で心中したものです。落語でも「船徳」のもととなった同題の人情噺があり、五代目古今亭志ん生が好んで演じました。

【語の読みと注】
湯灌場 ゆかんば
伯父貴 おじき
骨揚げ こつあげ:火葬にした死者の遺骨を拾い上げること。灰よせ、骨拾い
餓鬼 がき
戒名 かいみょう
ご託宣 ごたくせん
土左衛門 どざえもん
小姓 こしょう
釜屋武兵衛 かやまぶへえ
市中引き廻し しじゅうひきまわし
軽口浮瓢箪 かるくちうかれひょうたん
男達 おとこだて:江戸初期の侠客
元服 げんぷく:成人式
獄門 ごくもん
京鹿子娘道成寺 きょうかのこむすめどうじょうじ
河竹黙阿弥 かわたけもくあみ
三人吉三 さんにんきちさ
経帷子 きょうかたびら:死者に着せる着物
湯灌場買い ゆかんばがい:死者の着物を買い取る古着屋
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
生き弔い いきとむらい:生前葬
聖天山 しょうてんやま
成瀬川土左衛門 なるせがわどざえもん
お初徳兵衛 おはつとくべえ
曾根崎心中 そねざきしんじゅう

ちゅうっぱら 【中っ腹】 ことば

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腹が立つ。短気。

江戸っ子が不機嫌なときに使います。

以下は、マクラでよく引き合いに出される江戸名物の、あれ。

「武士、鰹、大名小路、生鰯、茶店、紫、火消し、錦絵、火事にけんかに中っ腹、伊勢屋、稲荷に犬の糞」

江戸市中でよくみかえる名物を列挙した決まり文句です。中っ腹も江戸名物というわけで。年中、怒っていたんですかね。

大名小路は、江戸城の東側外堀一帯に屋敷をかまえていた有力大名の地域全般をさします。

紫は江戸紫。とはいっても、桃屋の海苔佃煮ではなく、染色の、藍みがまさった紫のこと。九鬼周造も「青勝ちの紫」というフレーズで『「いき」の構造』に「いき」の具体例の一つとして載せています。

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あいえんきえん 【合縁奇縁】 ことば

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人の相性、とりわけ男女の仲は不思議な縁によるもので、計り知れないものだ、という意味。

「合縁」には「相縁」「愛縁」、「奇縁」には「機縁」の当て字が使われることもあります。

見た目うまくいきそうなカップルが別れてしまったり、大丈夫かと思われる男女が結婚してしまったり、人の予測をはるかに超えるなにかがあるもの。

≒縁は異なもの味なもの

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臆病源兵衛 おくびょうげんべえ 演目

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その昔「臆病」というものは病気だったのでしょうか? 別題:浄行寺

【あらすじ】

「臆病源兵衛」とあだ名がつく男。

大変なこわがりで、日が暮れては戸を閉ざしてガタガタ一晩中震えているし、自分の家では夜は一人で便所にも行けない、というくらい。

退屈をもてあました近所のご隠居。

洒落心といじめ心があるので、ひとつ、この男をこっぴどく脅かしてやろうと、源兵衛の職人仲間の八五郎を抱き込み、一芝居たくらむ。

源兵衛、根は好色で、しかも独り身なので、まず隠居が嫁さんを世話してやると持ちかけた。

源兵衛が渋るのをむりやりに、夕方、自分の家に連れ込んだ。

幽霊が出そうだと、早くも震え出すのをなんとかなだめ、
「俺がここで見ていてやるから、水を汲んできてくれ」
と台所へ行かせる。

おっかなびっくり水瓶に近づくと、暗がりから八五郎の手がニューッ。

逆手に持った箒で顔をスーッとなでたからたまらず、
「ギャアーッ」

源兵衛、恐怖のあまり八五郎にむしゃぶりつき、金玉をギュッと握ったから、八五郎、目をまわした。

ところが隠居もさるもの。

少しもあわてず、これを利用して続編を考えつく。

化け物だと泣き騒ぐ源兵衛に
「ともあれ、おまえが八公を殺しちまったんだから、お上にバレりゃ、打ち首獄門だ。それがイヤなら死骸をつづらに押し込み、夜更けに高輪あたりの荒れ寺に捨ててこい」
と言う。

臆病も命には代えられない。

源兵衛、泣く泣く提灯を片手、念仏を唱えながら葛籠を背負って芝の古寺の前まで来ると、これ幸いとお荷物を軒下に放り棄て、あとは一目散。

そこへ通りかかった、品川遊廓帰りの三人組。

ふと葛籠に目を止めると、てっきり泥棒の遺留品と思い込み、欲にかられて開けてみると手がニョッキリ。

失神していた八五郎が「ウーン」と息を吹き返す。

三人、驚いたのなんの、悲鳴を上げて逃げ出した。

あたりは真っ暗闇。

八五郎は、すっかり自分が地獄へ来てしまったと思い込み、つづらからようよう這いだすと、幽霊のようにうろうろさまよい始める。

たまたま迷い込んだ寺の庭に蓮池があったので、
「ありがてえ、こりゃ極楽の蓮の花だ、ちょいと乗ってみよう」
と、さんざんに踏み散らかしたから、それを見つけた寺男はカンカン。

棒を持って追いかけてくる。

「ウワー、ありゃ鬼。やっぱり地獄か」

やっと逃げ出して裏道へ駆け込むと、そこにいたのは、なかなかいい女。

「姐さん、ここは地獄かい」
「冗談言っちゃいけないよ。表向きは銘酒屋なんだから」

底本:三代目柳家小さん

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【しりたい】

やり方 その1

原話はまったく不明で、別題は「浄行寺」。これは、源兵衛が死骸を捨てていく、芝寺町の古寺の名から取ったものです。

明治期では三代目柳家小さんと二代目三遊亭金馬(1926年没)が得意にしました。この金馬は俗に「お盆屋の金馬」。往年の爆笑王、柳家金語楼の師匠です。続いて昭和に入ってからは、八代目桂文治(1955年没)が手掛けました。

あらすじでは、明治30年(1897)の小さんの速記を参照しましたが、二代目金馬のやり方は、後半が違っていて、葛籠が置き去りにされるのは浅草寺の境内、開ける二人は赤鬼と青鬼の扮装で脅かして金をせびる物乞いになっています。

逃げ込む先は付近の人家ですが、出てきたのが地獄のショウヅカの婆さんそっくりの奇怪な老婆。八五郎は自分も白装束なので、てっきり死んだと思い込み、「ここは地獄ですか」と聞くと、「いいえ、だんな(娘)のおかげで極楽さ」というオチになります。

やり方 その2

つまり、娘が囲われ者で、母親まで楽をさせてもらっているという食い違いですが、どちらにしても初めに説明しておかないと、現在では通じません。

前半は、「お化け長屋」や「不動坊」のように、臆病者を脅かすおもしろ味がありますが、後半がこのように古色蒼然としているため、八代目文治以後はまったくすたれていたのを、十代目金原亭馬生が復活し、後者のオチで演じていました。

今度こそもう継承者はないだろうと思ったら、桃月庵白酒が2005年11月、落語研究会の高座で熱演。こうした埋もれた噺が、意欲的な若手中堅によって次々に復活されるのは頼もしいかぎりです。

銘酒屋

曖昧屋ともいい、私娼を置いた最下級の売春宿です。ゴマカシのために申し訳程度に酒を置き、女は酌婦。昭和初期まではこの呼び方が残っていたようです。戦後は「青線」と称されました。

これを「地獄宿」、女を「ジゴク」「ジゴクムス」とも呼んだため、そこの女将が勘違いをしたというのがオチです。

小さんのくすぐり

源兵衛が隠居に、事が露見すれば死罪だと脅されて、
「キンタマぁ二つあるから、おまえさんと一つずつ握りつぶしたということに……」                  (三代目柳家小さん)

【語の読みと注】
箒 ほうき
葛籠 つづら
銘酒屋 めいしゅや

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落語芸術協会 らくごげいじゅつきょうかい 古木優

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

公益社団法人です。略称は「芸協」。

葉茶屋と水茶屋は異なります。葉茶屋はお茶を売る店。水茶屋はお茶を飲ませる店。その違いは大きいです。茶舗か飲み屋か、ですから。

山下敬太郎の実家は芝の葉茶屋でした。三遊亭金勝が経営する店でした。敬太郎は金勝の息子でした。この息子、7歳で初高座に。天才少年落語家としてまたたく間に知られていきます。のちの柳家金語楼がその人。

NHKがラジオ放送を始めた頃、席亭はラジオを嫌がりました。席亭に隷従する芸人たちはNHKには出ませんでした。

それが金語楼は率先して出演します。先見の明があったのですが、席亭からは総スカンを食らいます。芸の世界から締め出されるわけです。でも、金語楼の人気はすさまじく。

そこで、この人が活躍する場を確保するために、吉本興行と千葉博己(大正昭和期のフィクサー)が出資して作ったのが、日本芸術協会でした。昭和5年(1930)10月のこと。この名称は昭和52年(1977)まで続きます。当初は会長は六代目春風亭柳橋、副会長が初代柳家金語楼でスタート。実質的には金語楼人気におんぶにだっこだったのですが。

当の金語楼は、昭和17年(1942)に落語家を廃業し、喜劇俳優に転向してしまいます。

昭和59年(1984)、桂米丸が会長のとき、鈴本演芸場と決裂して、以来、芸術協会は鈴本には出ていません。

その頃の芸協は100人にも満たない団体でした。「うちには芸術が入ってる。あっちはない」なんて言って笑わせているつもりの落語家もいました。そうは言っても、10日交代の定席では、「芸協が当番なら行くの、やめよう」という客が出るほどの不入りでした。「古典の協会、新作の芸協」といわれて、本寸法の古典落語を聴きたければ、落協のほうがおもしろい、というのが常識だったのです。

今ではそんな頼りなさからも払拭されて、陣容も200人近く数えます。りっぱなものです。おしむらくは、鈴本で聴けないこと。その分、国立で多めに聴けますが。まあこれも、遠からぬ日解消されることでしょう。

2019年6月に春風亭昇太師が会長に就任しました。

古木優

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