志ん生にはどんな弟子がいたのか?

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NHK「いだてん」では、志ん生の弟子は今松と五りんしか出てきません。

今松はのちの古今亭円菊、五りんは架空の人。これはもう、既知のことかと踏んで、お次に進みます。

しかしまあ。

ここまで単純化すると、ストーリーをしっかり追っかけられてわかりやすい、ということなのかもしれません。でも、現実はそんな単純なもんじゃない。

落語ファン、志ん生ファンにはどうにも消化不良でした。だって、昭和30年当時、飛ぶ鳥落とす勢いの志ん生は、弟子たったの二人、なんていうことがあるわけがないのです。

あれは、NHKの策略で、「全国の落語嫌い」または「落語なんてどうーでもよいスポーツばか」のために、極端に矮小化したまでのことです。

ならば、実際には、どれほどの弟子がいたのか。

このサイトをご覧になってるのは、こよなく「落語」を、あるいは「志ん生」を愛する方々でしょうから、しっかりお伝えすることにいたしやしょう。

以下の通りです。ここから先は高田くんの登場です。(以上、古木)

はい、高田です。では、私が、志ん生と弟子について、少々しっかりとお伝えしましょう。

志ん生は『びんぼう自慢』末尾で「弟子もみんなよくなりましてな」と嬉しそうに語り、その後二人の息子(十代目馬生と三代目志ん朝)を除く、直弟子六人、内輪二人(古今亭甚五楼と古今亭志ん好)の名前を挙げています。

その六人とは以下の通りです。

馬の助(初代)
志ん馬(八代目)
円菊(二代目)
朝馬(三代目)
志ん駒(二代目)
高助(のち初代志ん五)

このうち、最後の高助は、正確には志ん朝の弟子ですが、志ん生生前には内「孫」弟子で住み込み、事実上門下扱いでした。

その他、早世した志ん治(鶯春亭梅橋)。

さらには、廃業した四人も。

志ん一(二代目志ん朝)
もう一人の、志ん一
銀助
古今亭馬子(紅一点)

馬子については、おそらく落語界初めての女流落語家でしたが、残念ながら入門時期や経歴は不明。

長女の美濃部美津子さんによれば、「結構頑張ってましたよ。父もかわいがってたんですけど、しばらくして好きな人ができて」、その結果、結婚・廃業したようです。

そんなわけで、直弟子は、惣領弟子で長男の馬生以下、志ん朝を加えて13人。

このうち、廃業して現在消息が知れない面々を除けば、平成29年(2018)1月18日に亡くなった志ん駒を最後に、ついにすべて、志ん生が待つ極楽亭に行ってしまいました。

83歳3か月で大往生した師匠の没年を超えたのは、円菊(2012年10月13日没、84歳6か月)だけで、ほんのわずか足りなかった志ん駒(81歳16日)を除けば、後は順に以下の通り。

梅橋(1955年、享年29、肺結核)
馬の助(1976年、享年47、癌)
朝馬(1978年、享年47、膵臓癌)
馬生(1982年、享年54、食道癌)
志ん馬(1994年、59歳、肝臓癌)
志ん朝(2001年、享年63、肝臓癌)
志ん五(2010年、61歳、上行結腸癌)

ここまで、師匠より先立った志ん治の梅橋を除き、すべて働き盛りでみんな癌。浴びるほど大酒を食らっても胃癌にも肝臓癌にもなるでなし、最後は眠っているうちに楽々と昇天した師匠に比べ、時代とはいえ、不公平なことかぎりなく、まるで志ん生にことごとく、生気を吸い取られたかのようです。

この弟子連、生前はそれぞれ、折に触れて師匠の思い出、逸話を語り残しています。

それを集大成したのが、『志ん生、語る。』(岡本和明編、アスペクト、2007年)。

家族、弟子、同僚や後輩の噺家たちが、知られざる志ん生の思い出を寄せた、貴重な一冊です。弟子では二人の子息初め、志ん馬、志ん駒、志ん五の証言。

それぞれに興味深いですが、志ん馬は、師匠は若い者に稽古をつけるのが好きで、よその弟子でも、来れば細部までていねいに教えていたこと、「落語ってのは、大筋を覚えてればいいんだ。後は自分の創意工夫だ」と。

倒れてから「どうしてみんな稽古に来ないんだろう」と寂しそうに言ったそうです。

総じて、志ん生は弟子にやさしかったようです。飲み屋の払いも、わざと円菊にさせ、まるでせがれに親孝行でおごらせるように、ニコニコと嬉しそうにしていたとか。

ところで、円菊といえば、二つ目のむかし家今松当時、志ん生が病後のもっとも大変な時期に、内弟子でいつも影のように寄り添い、寄席に復帰してからも毎日師匠をおぶって楽屋入りするので、落語は下手だが、稀に見る師匠孝行というので真打ちにしてもらったという噂で「おぶい真打ち」というあだ名まで奉られた人。

その円菊も、『志ん生! 落語ワンダーランド』(読売新聞社編、1993年)中のロングインタビューで、こんなことを述べていました。

稽古については志ん馬同様、あまり細かいことはうるさくなかったと回想しているのです。

おもしろいのは、師匠が前で噺をしゃべってくれても、あまりにおかしくてろくに覚えられず、吹き出してしまうと「木戸銭取るぞ」と怒られたとか。

ここに、ちょっと興味深い音源があります。

題して「古今亭志ん生 表と裏」。

出自はまったく不明ですが、おそらく当時、志ん生が専属だったニッポン放送のラジオドキュメンタリーかと思われます。

志ん生がトリで寄席がハネた後の楽屋風景から、朝の志ん生家の生録音へと移る貴重な記録。時期は推定で、倒れる直前の昭和36年(1961)ごろ。

りん夫人ほか一家総出演で、途中で別棟の馬生が孫の志津子(のち女優の池波志乃、当時6歳)を連れてやってくる場面があって、なかなか愛らしいのですが、その後、当時今松の円菊が「三人旅」を志ん生に稽古してもらうくだりがあります。

「…あのね、旅してありいてんだからね、え、少しからだをね、こウ、いごかしてほしいんだな。(自ら出発風景を演じて見せて)旅というものをしている心持ちじゃなけりゃいけない。(山や海を見ている心で)客を引っ張り込まなきゃいけない」

「紋付きを着て出てえる人間(噺家)が、紋付きがなくなっちゃって、半纏着ている人間がしゃべっているようでなきゃ。…ただ噺をすればいいってもんじゃない。噺を活躍させなきゃいけない」

いかにも実際的で、志ん生が生涯目指していたという正統派の志向が、よくうかがわれます。

ふだんはぶっきらぼうで、弟子がやって見せても真剣そのものの表情で、クスリとも笑ってくれなかった志ん生でも、これほどすべての弟子に愛され、慕われた師匠は、またとなかったでしょうね。(高田裕史)

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菊江の仏壇 きくえのぶつだん 演目

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上方噺の傑作です。東京ではあまり聴きませんが。大ネタです。

別題:白ざつま(上方噺)

【あらすじ】

ある大店のだんな。

奉公人にはろくなものも食わせないほどケチなくせに、信心だけには金を使う。

その反動か、せがれの若だんなは、お花という貞淑な新妻がいるというのに、外に菊江という芸者を囲い、ほとんど家に居つかない。

そのせいか、気を病んだお花は重病になり、実家に帰ってしまった。

そのお花がいよいよ危ないという知らせが来たので、だんなは若だんなを見舞いに行かせようとするが、番頭に、もしお花がその場で死にでもしたら、若だんなが矢面に立たされて責められると意見され、ふしょうぶしょう、自分が出かけていく。

実はこれ、番頭の策略。

ケチなだんながいないうちに、たまには奉公人一同にうまいものでもくわしてやり、気晴らしにぱっと騒ごう、というわけ。

若だんな、親父にまんまと嫌な役を押しつけたので、さっそく、菊江のところに行こうとすると番頭が止める。

「大だんなを嫁の病気の見舞いにやっておいて、若だんなをそのすきに囲い者のところへ行かせたと知れたら、あたしの立場がありません、どうせなら、相手は芸者で三味線のひとつもやれるんだから、家に呼びなさい」
と言う。

それもご趣向だと若だんなも賛成して、店ではのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ丁稚の定吉が菊江を引っ張ってくるが、夕方、髪を洗っている最中に呼びに来られたので、散らし髪に白薩摩の単衣という、幽霊のようなかっこう。

菊江の三味線で場が盛り上がったころ、突然だんなが戻ってきたので、一同大あわて。

取りあえず、菊江を、この間、だんなが二百円という大金を出して作らせた、人の二、三人は入れるというばかでかい仏壇に隠した。

だんな、
「とうとうお花はダメだった」
と言い、かわいそうに、せがれのような不実な奴でも生涯連れ添う夫と思えば、一目会うまでは死に切れずにいたものを、会いに来たのが親父とわかって、にわかにがっくりしてそのままだ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と、番頭がしどろもどろで止めるのも聞かず、例の仏壇の扉をパッと開けたとたん、白薩摩でザンバラ髪の女。

「それを見ろ、言わないこっちゃない。お花や、せがれも私も出家してわびるから、どうか浮かんどくれ、浮かんどくれ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
「私も消えとうございます」

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【しりたい】

源流は男色もの

直接の原話は文化5年(1808)刊『浪花みやげ』中の「ゆうれい」で、すでに現行の落語と筋はほとんど同じです。

これにはさらに原型と思われる笑話があり、享保16年(1731)ごろ刊の『男色山路露』中の「謡による恋」がそれです。これは、出典の書名から見てもわかるとおり、今でいうハードゲイのたぐい。

ある男が野郎(役者で男娼)を自宅に引き込み、よろしくお楽しみの最中、おやじが突然帰宅。あわてて男娼を仏壇に押し込みますが、「風呂敷」よろしく、おやじがその前に居座るので、出るに出られない男娼、そのうち小便がしたくなって……という、あまり趣味のよくないお笑いです。

上方の大ネタ

本家は上方落語で、大阪では桂米朝初め、三代目桂春団治、先代桂文枝など、上方を代表する実力者しかこなせない切りネタ(大ネタ)です。上方の舞台は船場の淀屋小路で、菊江はキタの新地の芸妓という設定になります。

東京版は馬生が復活

東京には明治20年代に初代三遊亭円右が「白ざつま」の演題で東京に移植したといわれます。明治29年(1896)に、円右と同門の円朝門下で、当時上方で活躍していた二代目三遊亭円馬(1918年没)が「白ざつま」の題で口演した速記が残ります。

東京ではその後あまり演じ手はなく、途絶えていたのを十代目金原亭馬生が元の「白ざつま」の題で復活しました。桂歌丸も手掛けていました。

白薩摩

薩摩がすりは本来は琉球(沖縄)産。

薄い木綿織物で、白地のものは夏の浴衣などに用いられます。「佃祭」の次郎兵衛もこれを着ていたのが原因で、幽霊に見違えられました。

死人の経帷子は、普通、絹もしくは麻で作るので材質は違いますが、同じ単衣で白地ということで、その上ザンバラ髪なので、幽霊と間違えるのは無理もありません。

【語の読みと注】
経帷子 きょうかたびら

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