べらぼう【便乱坊、可坊、箆棒】ことば

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ばかな、異常な。

定説となっている語源は、寛文年間(1661-73)に大評判になった見世物から。当時の随筆『本朝世事談綺』に「寛文十二年の春、大坂道頓堀に、異形の人を見す。其貌醜き事たとふべきもなし。頭するどくとがり、眼まん丸にあかく、おとがひ猿のごとし」とあるように、後世に伝えられるほどのインパクトだったのでしょう。

井原西鶴も、その十六年後の貞享5=元禄元年(1688)出版の『日本永代蔵』巻四の三で「ある年は形のおかしげなるを便乱坊と名付、毎日銭の山をなして」と書いています。

ごく普通の人間にこうした粉飾を施したインチキだった可能性は十分ありますが。この「人物」、全身真っ黒で、愚鈍なしぐさを見せて客の笑いを取ったことから、後年、江戸で「阿呆、愚か者」という意味の普通名詞として定着。「あたりまえ」と語呂合わせで結びついて「あたぼう」という造語も生まれました。「べらんめえ」も、「べらぼうめ」が崩れた形です。

その他、形容動詞化して(悪い意味の)「はなはだしい」「むやみな」「法外な」という意味が加わりました。

「箆棒」と書くのは、ペラペラの箆で穀(ごく=雑穀)を押しつぶすような愚か者の意味であと付けしたもので、「ごくつぶし」と同義語です。「やんま久次」で、胸のすくようなオチに使われていますね。

俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ。                  

やんま久次

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あたぼう【あた坊】ことば

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あたりまえだ、当然だ。

悪態やタンカによく使われる、「当たり前だ」「当然だ」を意味する江戸語ですが、これ、高座の噺家始め一般の解釈では「当たり前(あたりめえ)だ、べらぼうめ」が縮まった形とよく言われます。

「べらぼう」は別項の通り、寛文年間(1661-73)に評判になった見世物に由来し、「ばか」の意味ですから、「当たり前」の後に江戸下町の職人特有の、罵言の形の強調表現が付いた形。この説明にはいささか、補足が必要です。言葉の変化としては以下の順番になります。

「当たり前」→「あたりき」→「あた」
とどんどん縮まり、もっとも短くなった「あた」に、擬人化の接尾語「坊」が付いた形ですね。

「坊」は親しみをこめた表現で、「あわてん坊」などと同じです。

これは文政2年(1819)にものされた随筆『ききのまにまに』に「当り前といふ俗言を、あた坊と云ことはやり」とありますから、そう古い造語ではなさそうです。

本来「べらぼう」とは別語源なので、誤解されやすいのですが、「坊」という語尾が同じなので、語呂合わせでいつの間にか結びついたのでしょう。

原型の「当たり前」は労働報酬、それこそもらってアタリメエ、という分け前のこと。

「あたりき」は、少し乱暴な職人言葉で、「あたりきしゃりき」とも。これは、擂粉木の意味の「あたりぎ(当たり木)」と掛けて洒落たものです。

蛇足ですが、江戸初期に兵法家にして新当流槍術の達人、阿多棒庵(あた ぼうあん)なる者あり、この人は剣豪・柳生兵庫助利厳に槍術の印可を授けた、いわば師匠ですが、この名を最初に耳にしたとき、これはてっきり「あたぼうあんが強えのは、あったぼうだべら棒め」という洒落が語源ではないかと思い、ほうぼう調べてはみたものの、残念ながらいまだ、そんな資料は探し出せていません。

「八百ぐれえあたぼうてんだ」
「なんだい、あたぼうてえなあ」
「江戸っ子でえ。あたりめえだ、べらぼうめなんかいってりゃあ、日のみじけえ時分にゃあ日が暮れちまうぜ。だから、つめてあたぼうでえ」

                              大工調べ

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唐茶屋 からぢゃや 演目

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ガリバーのような稀有壮大な作り話です。

【あらすじ】

お調子者の総兵衛が隠居の家で「朝比奈島巡り」という絵草子を見せられる。

小人国、大人国、一つ目の国など、珍しい国が数ある中で、女島というのは、女ばかり産まれて男は一人もいないというので、総兵衛にわかに身を乗り出し
「でも、男と女が蒸さなけりゃ、子ができないでしょう」
「それができる。女島の女は朝、浜辺に立って『日本の男風日本の男風』と三べん招くと東風が吹いてきて、それが女の前に入って子ができる。子供は風の子といって」

からかわれているようだが、総兵衛、それでも女島に行ってみたくてたまらなくなり、つてを頼って外国船に乗せてもらい、密航同然に航海に出発。

途中、小人国で殿さまをつまみ上げてからかったり、大人国では逆につまみ上げられて宿屋に着くとそこの子供にキーホルダーにされかかったりしながら、着いたところが、唐人の国。

向こうから髭を生やした人が来るので、聞いてみると、日本人だという。

十年前、嵐でここに漂流してきて、今では商人となっているとやら。

同国人は懐かしいと大歓迎し、なんと吉原に連れていってくれた。

大門から仲の町から全部あって、案内されたのが碧妙館という引手茶屋。

芸者を呼ぶが、中国語なので言葉が通じない。

男に通訳してもらいながら、いよいよお陽気に騒ごうということになり、お座付きに端唄に三下がり、幇間が
「チューチューペイウンホンチョイベー」
と踊る。

そのうち芸者が酔っぱらいだし、総兵衛が河東節をうなりだすと、女はみんな逃げた。

「それもそのはすだ。トラは河東(=加藤清正)が天敵だから」

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【しりたい】

長編冒険活劇の後半

後半の唐人国の部分が、本来の「唐茶屋」で、上方落語の長編スペクタクル「万国島めぐり」の後半です。「世界一周」参照。

あらすじは、六代目桂文治の明治30年(1897)9月の速記を基にしていますが、大人(巨人)国までは「島めぐり」そのものです。

「島めぐり」をひっくるめての原話は、小人国と大人国の部分が延宝8年(1680)刊『噺物語』中の「大風に逢し舟の咄し」で安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「島」も類話です。

それ以前にも、室町時代の『お伽草子』に「御曹司島わたり」のような島めぐりものが広く存在しました。

このテーマで、平賀源内(=風来山人)が辻講釈師が女護が島へ渡る「風流志道軒伝」(宝暦13年=1763)を執筆。

これも原話の一つと見られます。

実録・朝比奈

ここにいう朝比奈は、朝比奈義秀(生没年不詳)がモデルです。

義秀は鎌倉期の武将で、和田義盛の四男。豪遊をもって知られ、建暦3年(1213)、父にしたがって反乱(和田合戦)に従軍。

獅子奮迅の働きを見せたあと、行方知れずになりました。一説には朝鮮に渡ったともいいます。

豪傑の典型として、狂言「朝比奈」のほか、歌舞伎(「寿曽我対面」ほか)や浄瑠璃などにその架空の冒険が描かれました。

トラと加藤

加藤清正の虎退治伝説をオチにしたものです。清正は神(清正公=セイショウコウ)に祀られ、江戸時代には最も親しまれた英雄でした。「清正公酒屋」参照。

清正は豊臣恩顧の武将で、徳川幕府にとっては目の上のタンコブだったはず。事実、その死後、嫡男忠広の代、寛永9年(1632)に加藤家は肥後五十二万石からなんと出羽庄内一万石に飛ばされ、事実上のお取りつぶしです。清正自身は最後まで表面上は家康に忠実で、関が原役にも東軍として参戦の事実がありますから、幕府もその神格化を黙認するほかなかったのでしょう。

清正公信仰

清正は母親の影響で日蓮宗の熱心な信者でした。高輪の清正公さま=禅林寺も日蓮宗の寺院です。日蓮宗の寺院で加藤清正を祀っていたりしていました。祀るということは、加藤清正を神さまにして祈ることです。明治の神仏分離令で、日蓮宗の宗旨と加藤清正を神さまにあがめることとは分けなくてはならなくなりました。寺院と加藤神社に分けたのです。

そうはいっても、日蓮宗寺院でも清正公信仰は連綿と生きています。

浜町の清正公寺。ここも日蓮宗の寺です。ここは、熊本細川藩の下屋敷跡で、熊本本妙寺の別院です。文久元年(1861)に、細川藩主細川斎護が熊本本妙寺に安置する加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建、清正公を祀っていましたが、維新後には一時加藤神社と称したとのことです。明治18年(1885)には仏式に戻して清正公堂と改称、管理を熊本本妙寺(日蓮宗)に委託して本妙寺別院となりました。

トージン

江戸時代にはヨーロッパ人も中国人も韓人も日本人以外はひっくるめてすべて唐人。これは当時、「唐、天竺」が外国のすべてを象徴していたのと同じ理屈です。唐人のケツで「空っケツ」という下らない洒落も残っています。

映画『幕末太陽伝』(日活、1957年)で、品川遊郭へエロ本のセールスに来た貸本屋の金蔵(小沢昭一)が「今度は唐人のアレをね」と、いやらしそうな笑みを浮かべていたのが印象的です。

東西の演者

東京の「唐茶屋」は昭和初期に八代目桂文治と三代目三遊亭金馬が演じ、それぞれSPレコードに吹き込んでいます。上方の方は、「島巡り」と題した桂文紅が唯一CD化されました。艶笑落語のオムニバスの一編として、小咄的に女護島のくだりを演じた程度です。

朝比奈島めぐり

「実録・朝比奈」と前後してしまいましたが、総兵衛の憧れをかきたてる「朝比奈島巡り」とは、滝沢(曲亭)馬琴(1767-1848)作の読本「朝夷奈巡島記」のことです。

文化12年(1815)から文政10年(1827)まで、12年かけて刊行されました。未完に終わったのを、のちに松亭金水が書き継いで完成させましたが、結局題名とは裏腹に島めぐりの場面まで書かれずに終わっています。

これの種本は古浄瑠璃の「あさいなしまめぐり」。島めぐりのくだりがないのに、この噺で女護島や航海の場面があるのは変ですが、ナニ、落語なんぞ元からいい加減なものです。

あるいは、隠居はこの種本を含め、そういう場面がある浄瑠璃本を見せたのかも知れません。

まさか、「ガリバー」を読んだわけではないでしょうが。

【語の読みと注】
朝夷奈巡島記 あさいなしまめぐりのき

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