今戸焼 いまどやき 演目

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これは短い。千字どころか百字ほどの短いはなしです。

【あらすじ】

役者大好きのかみさんが、今日も芝居に出かけて帰ってこない。

その留守に戻った亭主、おもしろくないので、七輪に火を起こして仰ぎながらブツクサ。

そこへ女房が帰って来て、あれがよかったこれがよかったと芝居と役者の噂ばかりするから
「亭主のオレと役者とどっちが大切だ。さてはてめえ、役者とあやしいな」
と、大げんかになる。

「亭主の帰る時間がわからなくてどうする。でえいち、てめえの言いぐさが気に入らねえ。建具屋の吉っつぁんは音羽屋似だの、源兵衛さんは宗十郎そっくりだのと抜かす前に、少しは自分の亭主をほめろ」
「あら、おまえさん、福助によく似てるよ」
「役者のか?」
「今戸焼の」

底本:五代目三升家小勝

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【しりたい】

「留さん」得意のシブイ噺

残念ながら、原話はまったく不明です。

戦後は、八代目三笑亭可楽、五代目三升屋小勝、「留さん」こと九代目桂文治など、ややマイナーな玄人好みの落語家がよく演じました。

文治は、いい男の例に長谷川一夫やマーロン・ブランドを出し、「おっかあ、今日は誰の命日だと聞いたら、『佐田啓二さんの』ってやがる」と、くすぐりでオチていました。中井貴一の父である往年の二枚目俳優佐田啓二の事故死は「いだてん」東京オリンピック直前の昭和39年(1964)8月のことでした。

古い速記では、演者名があるものとしては昭和12年(1937)に出版された五代目三升家小勝著『小勝特選落語集』に「福助くらべ」と題して収録されたものが唯一。

福助

本来は、福を招くとされる人形で、七福神の一である福禄寿を写したものでしょう。裃を着て、頭が大きく、ずんぐりした形が特徴。絵にもよく描かれます。叶福助ともいい、寛政年間(1789-1800)に初めて作られました。ただしここでは、その福助の形に似せた今戸焼の火鉢のことです。

今戸焼発祥之地

今戸神社(台東区今戸1丁目)の境内には「今戸焼発祥之地」の碑があります。以下、碑文の内容です。適宜読みやすく直しました。

今戸焼は台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類, 土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していました。地元の今戸神社にある狛犬台座には宝暦2年(1752)に奉納した42人の陶工らの名前が刻まれており、数多く軒を並べていたことがうかがえます。今戸焼の起源は定かではないのですが、伝承によれば天正年間(1573-91)に、このへんの有力豪族だった千葉氏の家臣が今戸あたりで焼き物を始めたという話が残っています。あるいは、徳川家康の入府後、三河の陶工が今戸に移ってきたともいわれています。今戸焼の名としては 18世紀末頃から明らかに見られ、18世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われます。その昔、隅田川沿岸は瓦を含めた土製品の生産がさかんだったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていました。「江戸名所図絵」には瓦造りの挿絵がみられ、「隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれています。最近の江戸遺跡の調査によって、施釉土器、土人形や瓦などが多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器や土人形、今戸の地名を印した瓦もみられて、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されています。関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移住し、現在今戸には1軒だけが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されています。(平成13年3月現在、台東区教育委員会の記述を基にしました)

【語の読みと注】
叶福助 かのうふくすけ

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牛の嫁入り うしのよめいり 演目

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今度の与太郎はちょいと知恵が働くんですが、それがまた一騒動の素。

別題:おたおたの太助(上方)

【あらすじ】

小伝馬町の質屋の娘。

年ごろになるが、なかなかの器量よしで、その上、芸事は絵から俳諧、歌はおろか、弓馬、槍剣の道まで心得ているという噂の高い才女。

一人娘なので、そろそろ養子を迎えなければならず、孝行者なので、早くいい婿が見つかって両親を安心させたいと、向島の牛の御前に願掛けをして日参している。

町内の若い衆の噂を聞きつけた、本所松坂町に住む紙くず拾いの与太郎。ほかの与太郎とは少々違って頭が冴えているので、女をなんとかして手に入れてやろうと、牛の御前に先回りし、麻の風呂敷をかぶって頭にお椀を乗っけ、笏代わりにシャモジを手に持って、娘が来るのを待った。

なにも知らない娘、いつものように社前に立ち、賽銭をあげて柏手を打つ。

「なにとぞ私によい御養子をお授けください」
と熱心に祈る。

そこへ与太郎が賽銭箱の間からスクッと立ち上がり
「ああ、これ、我こそは牛の御前なり。その方は親孝行なるに感じ、利益によって養子を一人授けるなり」

娘は仰天。

願いがかなえられたと大喜びで
「ありがたいことでございます。そのご養子はどこのお方でしょう」
「本所松坂町紙くず拾いの与太郎と申す者なり。この者は粋でりっぱでちゃんとして、東男のぬしさんに惚れたが無理かションがいな、あーら疑いあるべからず」

たちまち娘は、このまだ見ぬ男に恋わずらい。

親には恥ずかしくて言いだせないから、悶々としたまま床につき、食事も喉へは通らない。

心配しただんな、乳母をやってようやく聞き出すと、かわいい娘のためと、さっそく番頭の久蔵を呼び、その「本所松坂町の古紙回収業の与太郎さんは粋で立派でちゃんとして、東男の主さんに惚れたが無理かションがいな、あーら疑うべからず」という寿限無並みに長い名前の男に会ってこいと命じる。

久蔵が見ると、えらく汚い男なのでがっかりしたが、当人がそうだというのだから間違いはなかろうと、帰ってだんなに報告した。

だんな、それは身なりでなく人柄がいいのだろうと、「あーら疑うべからず」を婿にすることに決めたが、娘の体がまだよくないから、車では揺れてだめだと、長持ちに空気穴を空けて、夜具一式と一緒に娘を入れ、大勢だと評判になるから、善兵衛と喜助の二人に担がせて、松坂町に送り届けることにした。

二人が途中の牛屋で一杯やっている間に、本所の牛方が子牛をひいて通る。

牛屋の前に下ろしてある長持ちの中からうめき声がするので、のぞくと娘っ子が入っている。

これは人さらいだと早合点して、娘を引っ張り出すと、身代わりに子牛を入れ、娘を連れて行ってしまった。

すっかりできあがった二人。

長持ちを与太郎の家に届けると、すぐ帰ってしまったので、与太郎はゾクゾクしながら中をまさぐる。

えらく臭くて太った娘だと思って別の所を触ると、そこが子牛の尻尾。

「ウーン、大変に長い髪だ。大方下げ髪で来たんだろう」

底本: 初代三遊亭円遊

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【しりたい】

民話の落語化か

東京ヴァージョンのこの「牛の嫁入り」は、明治23年(1890)の「鼻の」円遊こと初代三遊亭円遊の速記が残るのみの、今はすたれた噺です。

もともと上方落語の「おたおたの太助」を東京に移したものといわれますが、この元ネタ自体、オチが円遊版と同じという以外、今では詳細がまったく分からなくなっています。

したがって、原話も、東京に伝わった経緯・時期も不明ですが、ただ、民話に同じ題名のものがあるため、上方のものも含め、ルーツはやはり民話や昔話にあると思われます。

類話「お玉牛」

娘と牛が寝床ですりかわるという後半の筋と似ているのが、現在でも上方で口演される「お玉牛」です。

これは、武士の娘お玉が、父親が悪人に陥れられたため父娘で都落ちし、紀州と大和の国境の堀越村へ流れ着きますが、土地の乱暴者あばばの茂平に強引に言い寄られ、今夜にも夜這いをかけられるハメに。お玉の訴えを聴いた世話人の与次兵衛が機転で、その夜、お玉の寝床に牛を寝かせておいたので、何も知らず、舌なめずりで忍んできた茂平は牛に抱きつき、肝をつぶして逃げ出します。オチは「どや、お玉をうんと言わしたか」「いや、モーと言わした」というものですが、これも民話ダネとみられるので、「おたおたの太助」や「牛の嫁入り」とルーツは同じでしょう。

こちらは、古くは東京でも同題で後半のみを、上方通りに演じたこともあったようです。

違ったやり方も

現在は東京では演じられず、また、円遊以後の演者についてもはっきりしませんが、古いやり方としては、娘ではなく父親が願掛けして与太郎の化けた神の「御託宣」を開くやり方もあったといいます。また、驚いた与太郎が大家の家に逃げ込み、「暗闇から牛を引っ張り出しました」とするオチや、舞台を亀戸天神(与太郎も天神に化ける)にしていた演者も。

牛の御前

正式には牛島神社で、墨田区向島一丁目の隅田公園内に移されています。関東大震災の焼失前は、向島五丁目の墨堤常夜灯下にありました。牛の御前は祭神のスサノオノミコトのことです。

小伝馬町

中央区日本橋小伝馬町。時代劇でもよく知られた小伝馬町大牢のあった町ですね。

【語の読みと注】
牛の御前 うしのごぜん:牛島神社
笏 しゃく
賽銭 さいせん

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