第167回落語研究会 寸評 2019年11月26日

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

一目上がり 入船亭小辰 ★★

マクラの間、早口の言葉が粒立たず聞き取れない、大家と隠居は同一人物なのか、など、アラを言えば切りがない。隠居が説明するくだり、ちゃんとしぐさ、目の動きをともなっているのはよい。マクラの、頭がタイムスリップした水道調査員は、まったく老人になっていないが、「え? どっちの三平だ」はけっこうウケた。

駒長 蜃気楼龍玉 ★★★

円朝作品に意欲的に取り組み、師匠(雲助)譲りで語り口にもどっしり貫目が付いてきた。おしむらくは言葉に重複とくどさが目立つ。女房が「丈八」と直前に言っているのに亭主が「深川から丈八という男が」と繰り返したり、「損料」で足りるのを「損料代」と重ねたり。だからか、夫婦の会話を含む前半がダレる。立板に水のベランメエは貴重品だけに、そのへんの整理を切に望みたい。

掛け取り 柳亭市馬 ★★★★★

本日の白眉。この人、噺家には珍しく、地声がよく響くバリトンなので、ネタによってはそれがかえって薄味な印象を与え、実力の割に損をする場合があるのだが、こうした音曲を聴かせる噺になると、まず当代の独壇場。特に義太夫は、変に上方風にしゃがれず、朗々とした江戸前でけっこうなもの。日頃きちんと稽古していなければこうは行かないだろう。全体の演出では、最後に芝居ごっこの掛け合いを入れる円生の型。「掛け取り」なので、万才のくだりはない。けんかで逆に証文を入れさせる抱腹絶倒なくすぐりも円生通りだが、後味の悪さを少しも感じさせず、洒落気分が横溢。シメに古風な歌舞伎の味を堪能させて、いや、バカンマ。ごちそうさまでげした。

将棋の殿さま 三笑亭夢丸 ★★★

殿さまのパワハラぶりがエスカレートするにつれ、要所に新規の過激なくすぐりを交え、楽しめた。「切腹申し渡す」と言葉で言う代わりに、その都度、電光石火のいぐさで示すのはいい工夫に見えた。言葉遣いからして武士が武士にならず、昭和初期の映画に見る、ワンマン社長の前で平蜘蛛のようにはいつくばる社畜リーマンのさまなのは奇異。言葉とがめどこ吹く風の爆笑路線を突っ走るのだろうが、それでも円蔵の域に達するには、もう少したたみかけるリズム感を身に着けてほしいように思った。

火事息子 五街道雲助 ★★★★★

自他ともに任ずる十八番ゆえ、もはやなんの茶々も入れどころなし。しっとりと落ち着いた語り口、風貌まで、近年、師匠(馬生)そっくりになってきた感。古希を超えてもはや円熟の至芸に見えた。だんなの描写は優れ、目塗りのやり方を滾々と言って聞かせるくだりは、確かにこの人物が小僧からたたき上げの苦労人と納得させられる。全体の運びとしては、後半の母親のすっとんきょうぶりで笑いを多く取ることにより、とかくお涙ちょうだいに陥りがちなこの噺に、すっきりとよりよいバランス感を与えている。

高田裕史

★auひかり★

昭和元禄落語心中 しょうわげんろくらくごしんじゅう 古木優

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

言わずと知れた、雲田はるこによる漫画です。

「ITAN」(講談社)2010年零号(創刊号)~16年32号に連載されていました。

第17回2013年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、第38回(2014年度)講談社漫画賞一般部門、2017年第21回手塚治虫文化賞新生賞をそれぞれ受賞しています。名作ですね。

テレビアニメは、第1期が2016年1月~3月に放送され、第2期が17年1月~3月に放送されました。両期とも主題歌は椎名林檎の作品でした。「薄ら氷心中」「今際の死神」。ともに、原作の真意をたっぷり汲み取った楽曲と聴けます。

2018年にはNHKでテレビドラマ化されました。10月12日~12月14日、NHK総合「ドラマ10」。全10回。ドラマに登場した落語の演目を列挙してみましょう。

第1回
死神
たちきり
野ざらし
出来心
鰍沢
第2回
寿限無
たらちね
品川心中
黄金餅
あくび指南
第3回
夢金
第4回
居残り佐平次
死神
第5回
子別れ
野ざらし
第6回
あくび指南
野ざらし
明烏
芝浜
第7回
野ざらし
第8回
錦の袈裟
大工調べ
あくび指南
芝浜
寿限無
第9回
出来心
錦の袈裟
品川心中
たちきり
最終回
明烏
芝浜
死神
寿限無
野ざらし

ざっと見てわかる通り、全10回放送のうち 「野ざらし」が 5回も登場しています。これは、有楽亭助六(山崎育三郎)のおはこということになっているからですが、ドラマの進行と「野ざらし」のあらすじが暗示的に絡み合っているように見えます。それと 「死神」が3回。この物語の通奏低音として「死」が見え隠れしています。

落語と「死」。笑いを求める落語になんで「死」なのか。不思議に思えますが、三遊亭円朝の作品にひとつでも近づけば氷解します。落語の笑いと「死」はいつも背中合わせでいるのです。

背中合わせ。

そう、これは九鬼周造に言わせれば、「いき」のサンプルなのだそうです。男と女が仲良く手をつないでいるのは「いき」ではないのですね。落語は「いき」でなくてはいけません。

「昭和元禄落語心中」が落語と「死」の背中合わせというのなら、これはもうりっぱに「いき」を描いていることになる、と言えるのではないでしょうか。

「いき」には「はかなさ」「むなしさ」が漂うもの。一見はなやかに見えるものの奥には、じつは「死=無」を暗示させる闇の奥が潜んでいるようなのです。

そんなことを無性に感じさせてくれる物語が「昭和元禄落語心中」なのだな、と私は思っています。いくつか生まれた落語がらみの創作の中でもとびきりの傑作です。

古木優

【RIZAP COOK】

大男の毛 おおおとこのけ 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

図抜けたお相撲さんが吉原に行ったらどうなる? きてれつなバレ噺です。

【あらすじ】

ヌッと立つと、乳から上は雲に隠れて見えないというくらいの、大男の関取を連れて、ひいきの石町のだんなが吉原へ。

なにしろ、とてつもなく巨大な代物なので、お茶屋は大騒動。

座敷に通して酒を出すのに、普通の杯では飲み込んでしまうというので、酒樽を猪口代わりに、水瓶であおるというすさまじさ。

その関取、これでも
「ワシは酒が弱い」
と言って、こくりこくりと居眠りを始めた。

部屋の中に山ができたようなもので、じゃまでしようがないので、どこかへ片づけてしまえと、襖をぶち抜いて一六五畳敷きの広間をこしらえ、そこに寝かせることにしたが、それがまた一大事。

布団は蔵からあるだけ運んで、座敷中、片っ端から並べ、枕は長持ちを三つ分くくり付けた代用品。

寝間に担ぎ込むのに十人がかりで
「頭はどこだ」
「巽の方角だ」
「磁石を持ってこい」
と大騒ぎ。

掛け蒲団も山のように盛り上げて、まるで熊野浦に鯨が揚がったよう。

ようやく作業が完了したところで、今度は花魁の出番。

年増ではダメだから、せいぜい若いのをというだんなの指示で、年は十七だが、そこはプロ。

泰然自若として、心臓に毛が生えている。

ところが、この大山にはさすがに仰天。

無理もない。関取がいびきをかくごとに、魔術のように火鉢が中空へ。

下りると、また噴き上げられる。

寝返りを打つと家鳴りがして、まるで地震か噴火。

「驚いたねえ。ちょいと、関取の懐はどこだい」
「へえ、向こうが五重の塔になりますから、三の輪見当でしょう」

それでも花魁、関取の腹にヒョイとまたがった。

「おそろしく高いねえ。江戸中が見渡せるよ。わちきの家があそこに見える。おや、段々坂になった。ここは穴蔵かしらん」
「これ、ワシのへその穴をくすぐるな」

そのうちに、段々坂から花魁がすべり落ちて、コロコロ転がる拍子に、薪ざっぽうのようなものにぶつかった。

妙な勘違いをして
「不思議なこと。大男に大きな○○はないというけど、関取、おまはんのは、体に似合わず小粒だねえ」
「ばかァ言え。そりゃ毛だ」

底本:四代目橘家円喬

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【しりたい】

円喬の艶笑落語

原話は天明6年(1786)刊の絵入笑話本『腹受想』中の「大物」。

この噺のようなバレ噺(艶笑落語)で、実名で速記や上演記録が残ることはまずありません。今回、あらすじの参考にしたのは明治28年(1895)4月の「百花園」に掲載された、四代目橘家円喬の速記ですが、名前入りでしかも当時の大看板の口演記録が残るのは、きわめて珍しい例です。

艶笑がかっているのは、オチの部分だけで、前半はただ、関取の巨人ぶりの極端な誇張による笑いと、右往左往する宿の連中の滑稽だけです。

これと対照的なのが、「小粒」「鍬潟」といった小物力士の噺ですが、どちらも艶笑噺の要素はありません。この噺の前半と似て、力士の巨体を誇張する噺に「半分垢」があります。

巨人ランキング

相撲取りで歴代随一の巨人は、土俵入り専門の看板力士だった生月鯨太左衛門(1827-50)にとどめをさすでしょう。記録によると、二十歳で身長233cmといわれますが、一説には243cmあったとも。それに次ぐのが、大関、釈迦ケ獄雲右衛門(1749-75、227cm)、文政期の看板力士、龍門好五郎(1807-33、226cm)、同じく大空武右衛門(1796-1832、228cm)という面々。明治以後では、関脇、不動岩三男(1924-64、212cm)が現在に至るまでの記録保持者です。

外国人力士も多くなり、身長、体重の平均値は昔とは比較にならないほどの現在の相撲界でも、210cmを超えるとなると、そうザラには出ないということでしょう。

大男に大きな……というのはまったく当てにならないらしく、相撲界に巨根伝説は数多いのですが、その反対の話はついぞ聞きません。これは普通人のやっかみ、負け惜しみと思った方がいいでしょう。

【語の読みと注】
猪口 ちょこ
襖 ふすま
巽 たつみ:東南の方角
花魁 おいらん
年増 としま
腹受想 ふくじゅそう
生月鯨太左衛門 いけづきげいたざえもん

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落語協会 らくごきょうかい 古木優

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ   分裂騒動にも耐えられるカラダ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

1923年9月の関東大震災以後、東京で、落語家が大同団結して落語協会を結成しました。

五代目柳亭左楽が会長となりましたが、翌年5月、協会が分裂し、なんと、会長の五代目を含む多くが脱退して「睦会」(震災前にもあった)を再興しました。

その3年後、今度は落語協会が分裂しまして、人気の頂点にあった初代柳家三語楼が一門ごと退会して、全く同名の「落語協会」を設立しました。

話がややこしくなるので、これ以後、旧来の落語協会を「東京落語協会」、三語楼一門の協会を「三語楼協会」と俗称するようになりました。

その後、1978年5月にはまたまた大きな脱退騒動が起こりましたが、これについては、いずれ記します。

要は、この団体というか、落語家という人たちは、なかなか一筋縄にはいかなくて、細胞分裂を繰り返すのが定めのようです。すべては芸のため、とは名ばかりで、金、名声、好悪によるものです。

それでも落語協会は、現在、国内に存在する落語家5団体のうちでは最大手です。他はまったく相手になりません。現在の会長は山口那津男、いやまちがえた、柳亭市馬師です。

しかし、そんなものも全部ひっくるめて、彼らのなりふりすべては人間臭くて憎めなくて、落語の世界そのものではありませんか。たまりません。

古木優

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近江八景 おうみはっけい 演目

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

うんちく垂れ流しのはなし。ちょいとオチが苦しいですが、けっこう笑えます。

【あらすじ】

ある男。

ゆうべ吉原に繰り込んだ兄弟分に、その同じ店の、自分のなじみのお女郎のようすを根堀り葉掘り、しつこく聞いてくる。

その女とは年期が明ければ夫婦になると口約束はしてあるものの、そこはお女郎のこと、自分が行かない時になにをしているか、気になってたまらないわけ。

案の定、別に色男がいるらしいと聞いて、兄さん、カンカン。

しかもその色男、白雪姫ではないが、色白で髪黒々と、目がぱっちりとして男振りもよく、背が高くもなく低くもなく、という、まあ、ライバルとしては最悪。

なお悪いことに、女はもっか、この男に血道をあげ、牛を馬に乗り換えて夫婦約束まで取り交わしている、ということまで知れた。

「おまえのツラじゃあ血道は上がらないわ。女の血道があばら骨で止まるね。おまえのは道普請ヅラ、市区改正ヅラ」

兄弟分にまで言われ放題。

「男は顔じゃねえ」
と強がってみても、内心はカリカリなので、女の本心を、横丁の占いの名人に見立ててもらうことにした。

易者の先生、おもむろに算木筮竹をチャラチャラさせ、
「えー、出ました。易は沢火革。革は改めるということだから、おまえさんのところにこの女が来年の春には来るね」

さあ、男は大喜び。

「聞いたか、オタンチンめ。アッタカクだ。アッタカクってえのは、女房来ればお粥を炊いて暖まるってこった。ざまあみろ」

ところが、まだ続きがあった。

「ああ、お待ち。沢火革を変更すると水火既済となる。つまりだ、来るには来ても、ほかに夫婦約束をした者がいるから、しまいには出ていくから、まあ、おあきらめなさい」
「ベラボウめ。なにが名人だい。せっかく暖めといて、勝手に変更されてたまるか。だいいち、そのスイカキセイってのが気に入らねえ。てめえ、八卦見だってんなら、近江八景で見てくれ。さもなきゃ道具をたたっこわすぞ」
と、女から来た
「あんたを一目三井寺から、心は矢橋にはやれども」
という、近江八景尽くしの恋文を突きつける。

脅されて先生、しかたなく
「それではこの易を近江八景で見ようなれば、女が顔に比良の暮雪ほどお白粉を付けているのを、おまえは一目三井寺より、わがものにしようと心は矢橋にはやるゆえ、滋賀唐崎の夜雨と惚れかかっても、先の女が夜の月。文の便りも堅田より、気がそわそわと浮御堂、根が道落雁の強い女だから、どう瀬田いはまわしかねる。これは粟津に晴嵐がよかろう、おい待った、帰るなら見料を、おアシを置いておいで」
「近江八景には膳所(=金)はねえ」

底本:六代目三遊亭円生

★auひかり★

【しりたい】

上方の発祥

原話は不詳で、同題の上方落語を東京に移植したものです。上方落語研究家の故・宇井無愁は、この噺の類話として、安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「鞜の懸」を挙げています。

これは、鞜(=靴)屋の手代が、さる公家のところへ盆前の掛け取りに行くと、公家が、手代が持参した主人の書付を見て、「書き出す十三匁 鞜の代 内二百文 七月に取る」と、和歌になっていたので喜び、さっそく、「近江路や 鞜の浦舟 かぢもなく 膳所の松原 まはるまで待て」。要するに、「ゼゼができるまで待て」と返歌したという能天気な話ですが、「膳所」と「ゼゼ」の駄ジャレということ以外、「近江八景」との関連性ははっきりしません。

上方のやり方では、松島遊廓の紅梅という女に惚れた男が、大道易者に見立ててもらう筋です。艶書になっている近江八景づくしも、東京の易者のより名文で、「恋しき君のおもかげを、しばしがほどは見い(=三井)もせで、文の矢ばせの通い路や、心かただ(=堅田)の雁ならで、われからさき(=唐崎)に夜(=寄る)の雨……」といった名調子です。

風流すぎて、継承者なし

東京では、明治の四代目春風亭柳枝が手掛け、移植したのはこの人では、とも見られますが、不明です。

次いで古いところでは、六代目林家正蔵(今西の正蔵、1929年没)の、おそらく大正初期の吹き込みによるレコードが残されていますが、これは珍品、骨董品の部類。

昭和以後では、六代目三遊亭円生が得意にし、「円生百席」にも録音している通り、いかにも円生好みの粋できれいな噺です。三代目三遊亭金馬、五代目三升家小勝もたまに演じ、金馬のレコードもありますが、あまりに風流すぎ、今では手を出す人はいない、と言いたいところですが、じつは古今亭志ん朝がやっていました。

近江八景

近江八景を整理します。

三井寺の晩鐘
石山の秋月
堅田の落雁
粟津の晴嵐
矢橋の帰帆
比良の暮雪
唐崎の夜雨
瀬田の夕照

「堅田の落雁」は「浮御堂」と変わることがあります。初代安藤広重の続絵が有名です。

洒落のうち、「心が矢橋(やばせ)」は、「心だけがあせって矢のように(相手の所に)走る(=馳せる)」を掛けたもの。

「唐崎の夜雨と惚れかかる」は「雨が降りかかる」の駄ジャレ。「粟津に晴嵐」は「逢わずに添わん」の地口。

「膳所」は、もちろん銭の幼児語と掛けてあるわけですが、膳所(滋賀県膳所市)が近江八景に入っていないので、このオチが成立するわけです。

「瀬田いは廻しかねる」は、「世帯が回しかねる」、つまり家計がピンチということですが、「瀬田が唐橋(=世帯が空走り。金欠のこと)」とする場合もありました。

円生好みの粋な味わい

この噺、易の名人が登場する人情噺「ちきり伊勢屋」の冒頭によく似ているので、六代目円生は『円生全集別巻』の補説で、あるいはこの噺は「ちきり伊勢屋」の前半を独立させた上、近江八景の部分を後から付けたものではないか、と述べています。

ところで、円生の「掛取り万歳」には、芝居好きの酒屋に近江八景づくしで借金の言い訳をする場面があります。

その項と重複しますが、以下、そのやり取りをノーカットで。

主「その言い訳はこれなる扇面」
酒「なに、扇をもって言い訳とな……『雪はるる、比良の高嶺の夕まぐれ、花の盛りを過ぎし頃かな』……こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって、言い訳とは」
主「心やばせと商売に、浮御堂(=憂き身を)やつす甲斐もなく、膳所(=ゼゼ)はなし城は落ち、堅田に落つる雁(かりがね=借り金)の、貴殿に顔を粟津(=合わす)のも、比良の暮雪の雪ならで、消ゆる思いを推量なし、今しばし唐崎の」
酒「松で(=待って)くれろというなぞか。シテ、その頃は?」
主「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
酒「九月…下旬か」
主「三井寺の鐘を合図に」
酒「きっと勘定いたすと申すか」
主「まず、それまではお掛取りさま」
酒「この家のあるじ八五郎」
主「来春お目に」
両人「かかるであろう」

明らかにこの入れごとは「近江八景」の趣向を取り入れたものでしょう。

パクリ文化

「〇〇八景」は、もともと10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルです。これに影響を受けて、広く東アジア一帯に「八景」文化が残っています。

たとえば、茨城県高萩市には「松岡八景」というのがあります。江戸時代、当時の領主中山信敬が儒者亀里亀章に選ばせたものだそうですが、元ネタがあるのでそれに見合った場所を選定するだけの労力で済みます。

竜子の晴嵐
二本松の秋月
関根の夕照
永田の落雁
能仁寺の晩鐘
天南堂の暮雪
荒崎の夜雨
高戸の帰帆

元祖「瀟湘八景」のパクリです。こんなが日本中いたるところにあり、今では饅頭や最中なんかが販売されています。経済と交通の発達で18世紀に開花した地方文化のあらわれとして、お国自慢と中国の風流文化とがむすびついた結果といえます。

念のため、「瀟湘八景」を載せておきます。瀟湘とは、洞庭湖から流れ出る瀟水と湘江の合流するあたりをいいます。古くから風光明媚で豊かな水郷地帯として知られています。湖南省長沙市のあたりです。

瀟湘夜雨 しょうしょうやう:瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁 へいさらくがん:秋の雁が鍵状に干潟に舞い降りる風景
煙寺晩鐘 えんじばんしょう:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞く夜
山市晴嵐 さんしせいらん:山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪 こうてんぼせつ:日暮れの河の上に降る雪の風景
漁村夕照 ぎょそんせきしょう:夕焼けに染まるうら寂しい漁村風景
洞庭秋月 どうていしゅうげつ:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
遠浦帰帆 えんぽきはん:帆かけ舟が夕暮れに遠くから戻る風景

「近江八景」も「松岡八景」も出元は同じ、というわけです。

【語の読みと注】
算木 さんぎ:易で使う四角の棒。約9cm、6本でセット
筮竹 ぜいちく:易で使う竹ひご状の棒。35cm~55cm、50本でセット
沢火革 たくかかく:易の結果で、衝突から変化が起きる状態
水火既済 すいかきせい:易の結果で、小さい願い事はかなう状態
膳所 ぜぜ
鞜の懸 くつのかけ
浮御堂 うきみどう
矢橋 やばせ
瀟湘八景 しょうしょうはっけい

【古今亭志ん朝 近江八景】

★auひかり★

王子の幇間 おうじのたいこ 演目

【RIZAP COOK】

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踏んだり蹴ったりの狐、ではなく、野幇間が登場。野幇間のうんちくも。

別題:太鼓の平助

【あらすじ】

野幇間の平助。

だんなを取り巻いて東京中をウロつき、とうとう王子にまで来てしまった。

結局、なにもくわせてもらえずに、空腹で目を回したという「武勇伝」を売り物にしているところから、「王子の幇間」と異名までついた。

平助、相当にしたたかな男で、花柳界はもちろん、芝居や寄席の楽屋にまで、呼ばれもしないのに出入りして、かなり顔が売れている。

特に例のだんなの家には、三日にあげず物欲しそうにやってくる。

そればかりか、使用人すべての出自やスキャンダルをしっかり押さえていて、本人の前でそれをネチネチと言うので、鼻つまみになっている。

お内儀さんも腹を立て、
「平助入るべからず」
という魔除けの札を門口に張ったが、いっこうに効果がない。

今日も懲りずに現れた平助。

さっそく、鳶の頭に乙にからんで二、三回ポカポカ。

飯炊きの権助には、悪魔野郎、終身懲役ヅラめと罵られて、またポカポカ。

出てきたお内儀さんには、
「今日は陽気に、店先でポカポカいい音がしたね」
と、逆に嫌味を言われる始末。

実は、さきほど夫婦で示し合わせ、だんなは留守だと言ってこの悪魔野郎を油断させ、悪口を言わせてから、当人がぬっと現れて、こっぴどく痛めつけようという趣向。

平助が出入りして以来、この家で次から次へと物がなくなるので、だんなもそろそろ追っ払い時だと考えている。

そうとは知らない平助。

敵が不在だと聞くと、調子に乗って言いたい放題。

実はだんな、外神田の芸者に入れ揚げててお内儀さんを追い出す算段中だの、はては強盗だのとまくし立てた上、例の王子の話を持ち出し、
「あたしはだんなに殺されそこなった」
とお内儀さんの気を引く算段。

だまされたふりで
「そうかい。そんな不実な人とは知らなかった。もう愛想が尽きたから、おまえ、私と逃げておくれでないか」
と誘うと、瓢箪から駒、平助は大喜び。

その上
「このツヅラの中にはダイヤモンドに株券、珊瑚珠の五分珠、金ののべ棒が入っているから背負っとくれ」
とでたらめを並べると、色と欲との二人連れ。

「金目の物は残らずお乗せなさい」
と、ヤカンや火鉢まで担ぎ、手がふさがったところで頭をポカリ。

それを合図に、奥からだんながノッソリ。

「この野郎、オレが家にいねえと思って、飛んでもねえことを言やがった。やい、このツヅラにはな、七輪が四つだ。ざまあ見やがれ欲張り野郎。ヤカンと七輪を背負ってどこへ行こうてんだ」
「へえ、ご近所が火事で手伝いに」
「ばか野郎。火事なんざどこにある」
「今度あるまで背負ってます」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

野幇間

のだいこ。特定の遊里に所属しないフリーの幇間を指します。その意味で、セミプロともいえるでしょう。落語に出てくる幇間は「つるつる」や「愛宕山」を除いて、ほとんどがこれ。芸や、客を取り巻く技術にかけては、それ相応に道楽をした末に幇間になった連中であるため、正統の「プロ」に負けない自負があったようです。

式亭三馬の滑稽本「浮世風呂」に登場する野だいこは「野幇間などと申すけれど、野幇間でも勤めぬけることは難うごぜへます」と胸を張っています。

落語には、「九州吹きもどし」「山号寺号」「ちきり伊勢屋」など、こんな川柳が引き合いにされています。

たいこもち 揚げての末の 幇間もち

このパターンで、野幇間と化した連中が無数に現れます。落語家で野幇間に転身、また落語界に復帰した例も、三代目、四代目三遊亭円遊、先代橘家円蔵など、けっこうあります。

お幇間医者

変わり種に「お幇間医者」というのがあります。医者とは名ばかり、旗本屋敷に始終出入りしてはご機嫌を取り持っていた手合いのこと。事実上の野幇間です。「牡丹灯籠」の山本志丈、「紺屋高尾」の竹内蘭石などがそれです。

「坊っちゃん」の「野だ」も

初代三遊亭円遊(鼻の円遊)は野幇間の表現にすぐれていました。

円遊のファンだった夏目漱石がそれを「坊っちゃん」の「野だ」(野幇間)に写した、というのが『漱石と落語』の水川隆夫説。この説は複数の研究者に支持されており、間違いないようです。ただ、落語の野幇間が、どことなく憎めない役どころなのに対し、漱石の野だは、「全く唾棄すべき人物として描かれ」、「自尊心が強く、阿諛追従を極度に嫌った漱石にとっては、落語の野幇間は、全く軽蔑すべき人物に過ぎなかったのであろうか」と水川は述べています。

石川啄木が野幇間に

劇画『不機嫌亭漱石』(関川夏央、谷口ジロー)で、修善寺で吐血のため生死の境をさまよう漱石の夢想中で、石川啄木が「野幇間」に擬せられて登場。ゲス言葉を使うあたりは、なかなかユニークでした。

文楽の十八番

戦後は八代目桂文楽の十八番でした。文楽のは、初代円遊の演出に比べ、くすぐりやくすぐりを抑え、どんなに嫌がられようが、ただのべつまくなしにヨイショを並べ立てるしかない幇間の業を色濃く出していて、その分平助の悪党ぶりは弱まっています。これは、「つるつる」「鰻の幇間」など、幇間の登場する噺を得意とした文楽演出に共通しています。

オチもだんなを出さず、平助が「こんないいお内儀さんを出して、だんなが花魁を後妻に直そうとは神も仏もない」と泣いてみせると、お内儀さんが「泣いてくれるのはうれしいけど、目んとこィお茶殻がついてるよ」。「あたしは悲しくなるとお茶殻が出るン」という、「お茶汲み」を思わせる問答で切り、「お馴染みの『王子の幇間』でございます」と、地で締めくくっていました。八代目文楽は、戦前には「太鼓の平助」という題でも演じていました。

王子製紙工場でブームに

この噺は、初代円遊の創作とみられます。あらすじの参考にした円遊の速記は明治22年(1889)のものなので、多分そのころの作でしょう。明治20年(1887)、王子製紙が当地に第二工場を建てたところから、新名所ということで「王子ブーム」が起こりました。タイトルに「王子の…」と付けたのは、そのブームを当て込んでのことかもしれません。

【語の読みと注】
野幇間 のだいこ
三日にあげず みっかにあげず
お内儀さん おかみさん
鳶の頭 とびのかしら
乙 おつ
権助 ごんすけ
阿諛追従 あゆついしょう

【王子の幇間 八代目桂文楽】

【RIZAP COOK】

梅若礼三郎 うめわかれいざぶろう 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

珍しいはなし。お能の世界を描いています。

【あらすじ】

梅若礼三郎という能役者。

ある時、老女の役がついたが、どうしても歩き方の工夫が付かない。

神田明神に願掛けをして十二日目、ふと見かけた老婆の足取りからコツがつかめたので、喜んで礼を言うと
「手本を当てにしているようでは、いい役者になれない」
とさとされ、
「ああ、しょせん、オレは素質がない」
と悟る。

それならいっそ太く短くと、心を入替えて大泥棒として再出発。

金持ちから奪い、貧乏人に恵むという義賊として名を上げた。

神田鍋町の背負い小間物屋の利兵衛。

三年以前から腰が抜けて商売にも出られず、女房のおかのは、内職をしながら看病を続けていた。

女の細腕で暮らしは支えきれず、亭主には願掛けと偽って、心ならずも鎌倉河岸で物乞いを。

北風の吹く寒い晩。

もらいが少なく、これでは亭主に粥をすすらせることもできないと、途方に暮れていると、黒羅紗の頭巾、黒羽二重の対服に、四分一ごしらえの大小という立派な身なりの侍が現れ、ずっしりと重い金包みを手渡すと、そのまま行ってしまった。

数えてみると、小粒で九両二分。

貧乏人には夢のような大金。

おかのは観音さまの思し召しと大喜びしたが、みだらなことをして得た金と疑われてはならないと、亭主には言わず、一両だけ小出しにし、残りは亭主の病気が治って商売を始める時の元手にと、大切に仏壇の引き出しに隠す。

それをのぞき見していたのが、隣長屋に住む遊び人の魚屋栄吉という男。

「こいつはしまっておくのはもったいねえ、オレが使わせてもらう」
と、夜中に忍び込み、八両二分の金をまんまと盗み出して、そのまま吉原は羅生門河岸の池田屋というなじみの女郎屋で大散財。

ところが、ふだんに似合わず太吉の金遣いがあらいので、不審に思った見世の若い衆の喜助が主人に報告。

調べてみると、一分金に山型に三の刻印。

これは、芝伊皿子台町の金持ち三右衛門方から盗まれた六百七十両の一部で、お上から布礼が回っていた金と知れた。

翌朝。

いい気分で見世を出たとたん、たちまち太吉はお召し捕り。

すぐに利兵衛方から盗んだと白状に及んだので、利兵衛の家に獲り方が踏み込む。

しかし、病人なのですぐにはしょっぴかず、たまたま湯に行って留守だったおかのを急いで呼びにやり、大家立ち会いの上でおかのから事情聴取すると、侍から恵まれたとは言うものの、恩を受けた義理から、頑として人相風体を隠し通したので、おかのはお召し捕り。

長屋の衆は、おかのの苦労を知っているだけに、早くお解き放ちになるよう水垢離 ごり)を取って祈るが、おかげで体が冷えきって、一杯やって温まろうと居酒屋に入って、お上は血も涙もねえと憤っている話を、たまたま衝立一つ隔てて聞いていたのが、三右衛門方に押し入り、おかのに金を恵んだ張本人の礼三郎。

善意でしたことが、かえって迷惑を及ぼしたことを悔やみ、これより南町奉行・島田出雲守に名乗り出て、貞女おかのの疑いを晴らす。

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

円生十八番はタンカが売り物

「しじみ売り」と同じく、盗賊ものの人情噺で、講釈ダネと思われますが、原話は不明です。

梅若礼三は、実在の記録はないので、あくまで架空の人物ですが、梅若が自首した町奉行島田出雲守守政は実在しました。

ただし、記録では北町奉行で、寛文7年(1667)-延宝9年(=天和元、1681)までの在任。その時代の話という設定なのでしょう。

「磯の白波」と題した、明治23年(1890)4月の七代目土橋亭里う馬(1848-1920)の速記が残り、同時代の四代目橘家円喬、三代目三遊亭円馬も演じました。

里う馬、円喬の速記を基に、戦後、六代目三遊亭円生が磨き上げたもので、昭和32年(1957)初演。

上中下三部に分かれ、発端から、魚屋太吉逮捕までが上、おかの逮捕までが中。以下、幕切れで礼三が自首するため、切れ目はいずれもお召し捕りの場面となっています。円生の工夫でしょう。

円生は芸談で、取り調べの八丁堀の切れのいい「べらんめえ」を、安藤鶴夫(評論家、作家)にほめられたと自慢しています。

ライバルだった八代目林家正蔵(彦六)も演じましたが、円生在世中はほとんど同人の専売で、没後は門下の三遊亭円窓が継承しています。

博徒が魚屋とは

「猫定」にも登場しますが、遊び人はバクチ打ちで、初めから博徒と知れればどこの大家も店を貸してくれないので、表向きは魚屋と名乗っているわけです。

梅若

梅若家は能楽・観世流の流れをくむ名家です。本家は梅若六郎を代々名乗り、昭和54年(1979)に没した五十五代目は芸術院会員でした。その祖父、梅若万三郎(1868-1946)が大正9年(1920)に独立して「梅若流」を起こしましたが、それまではずっと観世流の一支流でした。

昭和32年(1957)、梅若宗家の若だんなが大映の映画俳優「梅若正二」を名乗り、「赤胴鈴之助」シリーズで人気を博したことがあります。

刻印

こっくい。大判・小判、一分金などには偽造防止と、出所がわかるように、各家の紋所の焼印が押されていました。これが刻印で、江戸ことばで「こっくい」と発音されます。盗賊は刻印のため足がつくので、強奪した金をすぐには使えず、何年も隠して「寝かせて」おかなければなりませんでした。

鍋町、鎌倉河岸、伊皿子台町

利兵衛・おかのが住む鍋町は千代田区神田鍛冶町一、二丁目。鋳物師が多く住んでいました。

おかのが袖乞いをしていた鎌倉河岸は、千代田区内神田二丁目、旧鎌倉町の外堀沿いの河岸で、幕府草創期に、江戸城改装のための石材を、鎌倉から船で運び、ここから荷揚げしたことからついた地名です。

梅若が六百七十両盗んだ芝伊皿子台町は、港区高輪一、二丁目です。

四分一ごしらえ

刀の装飾の金具に、朧銀、つまり銀一・銅三の合金が使われているものです。

実在した、梅若礼三郎

といっても、こちらは昭和の時代劇俳優。昭和初期には阪妻プロの主役級で、昭和2年(1927)から32年(1957)ごろまで、50本以上の映画に出演しました。前身が梅若流の能役者の出なのか、この噺から芸名を付けたのかはわかりません。「梅若礼三郎」が「梅若礼三郎」を演じていればおもしろかったのですが、残念ながらそうした映画の記録はありません。

【語の読みと注】
黒羅紗 くろらしゃ
黒羽二重 くろはぶたえ
刻印 こっくい
水垢離 みずごり

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王子の狐 おうじのきつね 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

狐が人に化かされてひどい目にあった、という江戸前のはなしです。

別題:乙女狐(上方)、高倉狐(上方)

【あらすじ】

神田あたりに住む経師屋の由さん。

王子稲荷に参詣の途中、道灌山の原っぱに来かかると、なんと、大きな狐が昼寝中。

「ははーん、狐は人を化かすというが、こう正体を現しているなら、俺が逆にこうつをたぶらかしてやろう」
といたずら心を起こし、狐に
「もし、姐さん、こんな所で寝ていちゃ、風邪ひくよ」

起こされた狐は、出し抜けに姐さんと呼ばれたから、あわててビョンと飛び上がり、十八、九の美人にたちまち化けた。

正体がバレたとも知らず、これはいいカモだと、
「私は日本橋あたりの者で、乳母を連れて王子稲荷に参りましたが、はぐれてしまい、難渋しております。あなたはどなた?」

由さん、笑をかみ殺し、
「自分は神田の者だが、日本橋はすぐそばなので送ってあげたい、ただ空腹なので、途中、なにかごちそうしたい」
と持ちかけた。

狐は成功疑いなしと、ワナとも知らず、喜んでエサに食いつく。

連れ立って稲荷を参拝した後、土地の海老屋という料理屋の二階に上がる。

盃のやりとりをするうち、狐はすっかり油断して、酒をのみ放題。

ぐでんぐでんになると、いい心持ちで寝入ってしまう。

由さん、しめたとばかり喜んで、土産物をたんまり持ち、帳場に、
「二階の連れは疲れて寝込んでいるから、そのままにしてやってくれ、起きたら勘定はあっちが持つから」
と言い置くと、風を食らってドロン。

さて、料理屋の方では、そろそろ勘定をというので、二階に仲居が上がってみると、狐は酔いつぶれてすっかり化けの皮がはがれ、頭は狐、体はまだ女、足は毛むくじゃらで大きな尻尾を出すという、まさに化物。

仲居の悲鳴で駆けつけた男どもが
「やや、こりゃ狐。さては先刻帰った男も、うむ、太いやつだ」
と寄ってたかってさんざんに打ちのめしたから、狐はたまらず、命からがら逃げだした。

一方、由さん。

かえってこの自慢話をすると、年寄りに
「狐は稲荷の使い。そんなイタズラをすれば必ずたたるから、ボタ餠でも持ってわびに行け」
とさとされて、道灌山へ戻ると、子狐が遊んでいる。

聞けば、おっ母さんが人間に化かされたあげく、全身打撲と骨折の重傷とか。

由さん、さてはと合点して平謝り。

餠を子狐に渡すと、ほうほうの体で逃げ帰った。

子狐は、ウンウンうなっている母狐に、
「おっかさん、人間のオジサンがボタ餠を持ってあやまりに来たよ。たべようよ」
「お待ち。たべちゃいけないよ。馬の糞かもしれない」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原話は江戸

正徳2年(1712)刊の笑話本『新話笑眉』中の「初心な狐」が原話です。

これは、狐が、亀戸の藤を見物に行く男を化かそうとして、美貌の若衆に変身し、道連れになります。

男はとっくに正体を見破っていますが、そ知らぬ顔でだまされたふりをし、狐の若衆に料理屋でたっぷりとおごってやります。

別れた後、男がこっそりと跡をつけると、案の定、若衆は狐の穴へ。

狐が一杯機嫌で、得意そうに親狐に報告すると、親狐は渋い顔で、「このばか野郎。てめえが食わされたなあ、馬糞だわ」

「高倉狐」

この原話は江戸のものですが、落語としては上方で磨かれ、「高倉狐」として口演されました。

こちらは、東京のものと大筋は同じですが、舞台が大坂高津の高倉稲荷境内、狐を連れ込む先が、黒焼きと並んで高津の名物の湯豆腐屋の二階となっています。

東京には、明治16年(1883)、真打に昇進直後で、当時23歳の初代三遊亭円右が逆移入したものです。

古い速記では、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊のものが残ります。

戦後では、八代目春風亭柳枝の十八番として知られ、五代目古今亭志ん生、八代目三笑亭可楽も得意でした。

志ん朝や五代目円楽を経て、現在も多くの演者に継承されています。

類話「乙女狐」

上方には、「高倉狐」「王子の狐」と筋はほとんど同じながら、舞台が大坂の桜の宮で、二人の男との化かしあいに負けた狐が、「眉に唾をつけておけばよかった」、または「今の素人には油断がならん」というオチの「乙女狐」があります。「高倉狐」は、この噺の改作ではないかともいわれます。

狐の悪行は世界共通

狐の出てくる噺は多いものです。

「稲荷車」
「稲荷の土産」
「今戸の狐」
「王子の狐」
「王子の白狐」
「お盆」
「蛙の子」
「狐つき」
「狐と馬」
「木の葉狐」
「九尾の狐」
「けつね」
「七度狐」
「初音の鼓」
「紋三郎稲荷」
「安兵衛狐」
「吉野狐」

思いついただけでも、ざっとこんなに。

狐は「稲荷の使い」として特別な呪力を持つものと、日本では古くから見なされてきましたが、ずるい動物という認識は東西同じなのか、フランスの「狐物語」、ドイツの「ライネッケ狐」など、手に負えない狐の話は世界中に流布伝承されています。

王子稲荷

東京都北区岸町一丁目。
稲荷の本体は倉稲魂、または御食津神で、どちらにしても穀物神。五穀豊穣を司ります。王子稲荷社は、関東の稲荷の総社です。

大晦日に関東一帯の狐がご機嫌伺いに集まるので、狐火が連なって松明のようになると伝えられてきました。

歌川広重が「名所江戸百景」の内で、「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」。王子稲荷の怪異「狐松明」を描いています。狐が顔の近くに狐火を浮かべているのが見えます。

歌川広重「名所江戸百景」の内「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

志ん生流、捧腹絶倒

料理屋の二階で、狐と人間が、互いに相手を化かそうと虚々実々の腹の探りあいを演じるおかしさが、この噺の一番の聞かせどころです。

そのあたりは、江戸の昔から変わらない、政財界の妖怪同士による、料亭談合のカリカチュアの趣ですね。

五代目古今亭志ん生の「扇屋二階の場」は抱腹絶倒です。

前半の二人(一匹と一人)のやりとりでは、男が「油揚げでも……」と口走って、あわてて口を押さえたり、疑わしげに「これ、お酒だろうねェ?」と確かめたあと、まだ眉唾で、肥溜めでないかと畳のケバをむしってみたりするおかしさ。

「第二場」では、だまされたと知って茫然自失の狐が、思わず「化けてるやつがふァーッと、半分出てきたン」で、帯の間から太い尻尾がニュー、耳が口まで裂けて……とか、狐退治に二階に押し上げられた源さんが、内心びくびくで、「狐けェ? オロチじゃねえのか。俺ァ天狗があぐらァけえていやがんのかと」と、強がりを言うシーンなど。

筋は同じでも、ここらの天衣無縫のくすぐりのつけ方が、まさに志ん生ならではです。同時に、狐を悪獣として憎むのではなく、むしろ隣人として、いたずらっ子を見るまなざしで、どこかで愛し、いとおしんできた江戸人の血の流れが、志ん生の「王子の狐」を聴き、速記を読むと、確かに伝わります。

海老屋と扇屋

男が狐同伴で揚がりこむ料理屋は、古くは海老屋、現行ではほとんど、扇屋で演じます。海老屋は、扇屋と並ぶ土地の代表的な大店で、扇屋は武家屋敷、海老屋は商家や町人筋がおもな顧客でした。

したがって、町人の登場するこの噺には、海老屋の方がふさわしかったのですが、残念ながら明治初年に廃業したので、昭和以後では、現存の扇屋に設定することが多くなったのでしょう。

扇屋の方は、慶安年間(1648-52)の創業で、釜焼きの厚焼き卵の元祖として名高い老舗です。

【語の読みと注】
経師屋 きょうじや
道灌山 どうかんやま
倉稲魂 うかのみたま
御食津神 みけつかみ

【RIZAP COOK】

江戸っ子 えどっこ 演目

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江戸っ子は意地っ張りの権化。見た目だけの威勢が身上ですね。

【あらすじ】

江戸っ子気質は、律儀と強情。

それを絵に書いたような老人が、江戸から明治にかけては山ほどいた。

日本橋槙町の駄菓子屋「野村」の隠居、稲造も、その一人。

若いころから茶道具に凝り、また、音曲なら河東節であれ一中節であれ、なんでも玄人はだしという粋人だが、せがれに店を譲って楽隠居した今も、いったん言い出したことはテコでも譲らず、いっこうに丸くならない。

ある日、隠居が昔から目をかけている道具屋の竹屋六兵衛が、いい茶碗が入ったというので訪ねてくる。

この男、目利きは一流だが、強情では稲造にまさるるとも劣らない。

そこでひと騒動。

稲造が茶碗を気に入って、問題は値段に。

六兵衛の言い値が十五両。

ところがご隠居、事もなげに
「ああそうか。じゃ、十両でいいね」

耳が遠いふり。

こう当然のように値切られると、いくら日ごろ世話になっている相手でも、簡単に負けては六さん、男と江戸っ子が立たない。

「いえ、負かりません」
「いいじゃねえか。出し掛けたもんだから、十両にしときな」
「いいえ、いけません。高いと思いなさるなら、こちらへお返しを」
「誰が返すと言った」
「だから、十五両掛け値なしです」

負けろ、負けないの水掛け問答で、こうなれば二人とも意地づく。一歩も引かない。

そのうち隠居が、昔のことをネチネチと持ち出し、おまえには無利息で金を貸してやったと言うと、六兵衛も、利息はあなたが受け取らないので、その代わりに大黒屋の切手(=商品券)を付けた、と応酬。

険悪なムードになったところで、大声を聞きつけてせがれの当主、権次郎が登場。

事情を聞き、なんとか調停しようとするが、まるでダメ。

困って六兵衛に、私が差額の五両を出すから、親父の顔を立てて、表向きは負けると言ってくれと頼み、ようよう承知させた。

隠居、勝利(?)で、とたんにご機嫌。

「いや、よく負けてくれた。負け賃に五両出そう」

いや、ごりっぱ。

六兵衛、ありがたく受け取って権次郎に、
「これは若だんなにお返しします」
「どうして?」
「今度のケンカまでお預けしときます」

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【しりたい】

二大絶滅種「恐竜と……」

「江戸っ子」の純粋種とともに、今では滅び去った噺。

四代目橘家円喬の、明治30年代の新作と見られます。明治39年(1906)の「文藝倶楽部」に掲載された円喬の速記が、今残るこの噺の唯一の「化石」です。江戸っ子の常軌を逸した強情をカリカチュアした「意地くらべ」(岡鬼太郎)の先行作品ともみられます。

円喬の速記の題名表記は「江戸子」ですが、読みは「えどっこ」。「文七元結」の別題も同名ですが、むろん別話です。

江戸っ子の源流

古くは「江戸者」「江戸びと」「江戸根生い」などと呼びました。「江戸っ子」という言葉が現れたのは意外に新しく、明和年間 1764-771)あたりといわれるので、よく時代劇で赤穂浪士の討ち入り 1702)の背景に登場する江戸町人が「コチトラエドッコデイベラボーメ」などとタンカをきるのはまったくの嘘っぱちということになります。

有名な川柳「江戸っ子の生まれぞこない金をため」は、安永2年 1773)刊の「川柳評万句合」に登場しますが、、同5年刊「俳風柳多留」第十一篇にはまだ「江戸もの」とあります。家康の江戸入府から百七十年あまり、ようやく江戸気質というものがはっきり成熟してきたのがこの時代。

したがって、金銭を卑しむ風潮、この噺や「強情灸」などに見られる強情者、意地っぱりといった気質が、このあたりから「江戸っ子」のイメージの代表として定着し始めるわけです。

江戸っ子の条件とは? 

「江戸っ子」の定義にはさまざまある。
-山王権現・神田明神の氏子であること
-芝口から筋違御門までの範囲で生まれた者
※これを「古町」と呼び、行政区画としての江戸の範囲である「御朱引内」よりなお狭い。
-親子三代続いて下町に住んだ者
※四谷・牛込などの山の手は厳密には「江戸」ではない。牛込(新宿区)生まれの夏目漱石も「江戸っ子」ではない、ということになる
-職人であること※商人は他国者が多く、江戸っ子ではない
などが挙げられています。

こうした希少価値の「純粋な江戸っ子」は、かえって正面切って「江戸っ子」というのを恥じらい、「江戸者」「東京びと」と自らを呼んだようです。

七代続きの江戸人である池波正太郎の小説に、「江戸っ子」という名称は使われていません。

商人も、江戸者のガサツさを嫌い、下町育ちでも「江戸っ子」と呼ばれるのを嫌ったとか。

大黒屋の切手

大黒屋は尾張町(中央区銀座五丁目)にあった鰹節問屋「大黒屋重兵衛」のこと。

切手と呼ばれる商品券は、贈答用に鮨屋、菓子屋、鰹節屋などの大店が発行したもので、現存する老舗「にんべん」の切手も有名でした。

【語の読みと注】
日本橋槙町 にほんばしまきちょう
音曲 おんぎょく
河東節 かとうぶし
一中節 いっちゅうぶし
江戸根生い えどねおい

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永代橋 えいたいばし 演目

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実際にあった永代橋崩落の事故に材をとったくだらない噺です。

別題:多勢に無勢

【あらすじ】

下谷車坂町に住む露店古着商の太兵衛と、同居人の小間物屋、武兵衛。

兄弟同様のつきあいだが、そろって粗忽者。

今日は深川八幡の祭礼の日。

武兵衛はこのところ実入りがいいので、久しぶりに散財しようと、太兵衛夫婦に留守番を頼み、いそいそと出かけていく。

太兵衛が、自分のことは棚に上げて、おまえはそそっかしいから気をつけろと言っても、うわの空。

永代橋に来かかると大変な人込み。

押すな押すなで、身動きができずにいると、突然、胸にどんとぶつかってきた者がいる。

「いてっ、この野郎、気をつけろいっ」

胸をさすりながらふと懐に手を入れると、金がたんまり入った紙入れが、きれいにすられている。

追いかけようときょろきょろしても、後の祭り。

いまいましいが帰るほかなく、とぼとぼ引き返す途中、ぱったり会ったのが贔屓のだんな。

今度、両国米沢町に待合を開いたので、ぜひ寄ってほしいという。

だんなの家でしこたま酔っぱらい、すっかりご機嫌になったころ、表で何やら人の叫ぶ声。

女中を聞きにやると、たった今、永代橋が人の重みで落ち、たいそう人が溺れ死んで大騒ぎだという。

あのままスリにやられなかったらオレも今ごろはと、さすがに能天気な武兵衛も真っ青。

話変わって、こちらは太兵衛。

武兵衛が帰らないので心配していると、永代橋が落ちたという知らせ。

さてはと、翌朝探しに出ようとする矢先、番所から、武兵衛が橋から落ちて溺れ死んだので、死骸を引き取りにこいとのお達し。

あわてて家を飛び出したとたんに、一杯機嫌の武兵衛とぱったり。

「言わねえこっちゃねえ。おめえは昨夜溺れ死んだんだから、今すぐ一緒に死骸を引き取りに行くんだ」
「こりゃ大変だ」

どっちもどっち。

連れ立って番所に乗り込んだから、話がトンチンカンになる。

武兵衛が死骸を見て、
「これはあたしじゃない」
と言い出したので、太兵衛はいらいらして、武兵衛の背中をポカリ。

もめていると役人が見かねて、これに見覚えがあるかと出したのが昨夜すられた紙入れ。

どうやらスリが身代わりに溺れたのを、武兵衛の書きつけから、お上で本人と勘違いしたらしい。

「それ見ろ。オレでもないものを早合点して、背中をぶちやがって、腹の虫が納まらねえ。お役人さま、どっちが悪いか、お裁きをねがいます」
「うーん、いくら言ってもおまえは勝てん」
「なぜ」
「太兵衛(多勢)に武兵衛(無勢)はかなわない」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

永代橋崩落

文化4年8月19日(1807年9月20日)。数日来の長雨がやっと止み、江戸の空はからりと晴れ、蒸し暑い朝でした。

この日は、天明5年(1785)以来22年ぶりに、社殿修復記念を兼ねた深川八幡祭礼が行われるというので、前景気は過熱。そのうえ身延山が便乗イベントで、深川霊巌寺で出開帳を催したので、朝から江戸中の人出は永代橋を目ざし、一時に深川に集まっていました。

午前10時過ぎ、橋向こうに一番山車が見えたので、雨で四日間、祭りが順延してイライラが募っていた数十万の群集が、橋に向かって殺到。たちまち東の橋詰から十二間余りが墜落、あとは地獄絵図が展開。

死者は行方不明者を含めると、1500人を超えたといわれる、大惨事になりました。

深川の 底は八幡 地獄にて 落ちて永代 浮ぶ瀬もなし
永代と 架けたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

惨事には付きもので、不吉な予兆があったこと、偶然助かった者のエピソードなどが残っています。

東西橋詰の死体置場では、死骸の着物で絹の部、木綿の部に分け、年齢からも老人、中年、子供と分類して、引き取り人に捜させたとか。当時、両国橋を除いて、永代も吾妻も仮普請で橋幅も狭く、惨事が起こらない方が不思議な状態でした。

珍しい実録噺

「佃祭」と同様、実際に起こったカタストロフィーを題材にしたもので、落語では数少ない実録ものです。成立の詳細は不明ですが、実際に祭礼に行く途中で二両二分掏られたため、偶然命が助かった本郷の麹屋の体験を脚色したともいわれます。

根岸鎮衛の『耳嚢』巻六の「陰徳危難を遁れし事」という「佃祭り」の原話も、何らかの下敷きとなっていると思われます。

古くは、「多勢に無勢」と題した明治33年(1900)の初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の速記が残ります。戦後は、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が高座にかけ、特に正蔵は得意にしていました五代目三遊亭円楽も好んで演じていました。

このオチを利用した「梅の春」という音曲噺が、後年作られました。

梅の春

もとは清元で、天明のころ(1781-89)、長州藩の分家、長門府中藩主の毛利元義が途中まで造り、後を狂歌の王様、大田蜀山人が付けて、清元名人の太兵衛が節付けしたものです。

その冒頭の詞章は、

四方にめぐる
あふぎ巴や文車の
ゆるしの色もきのふけふ
心ばかりははる霞
引くもはづかし爪じるし

というもので、この後、「わかめ刈るてふ春景色」までこしらえ、元義が行き詰ったのを、蜀山人が受けて、「浮いて- かもめ)のひい、ふう、みい、よう……」 と付けたというエピソードがあります。

これを基にに作られた同題の音曲噺は、清元「梅の春」の語り初めの会に招かれた絵師の喜多武清が、名人の太兵衛に「お天道様」と声が掛かるのを嫉妬して、「自分はいくら努力してもお天道さまとは呼ばれない。もう絵を描くのが嫌になった」と愚痴ると弟子が、「太兵衛 =多勢)に武清(=無勢)はかないません」と、「永代橋」と同じオチになるものです。

永代橋

現在の橋は、江東区深川永代一丁目から中央区新川二丁目の間に架けられていますが、もともとは、その一町(約109m)上流の、佐賀一丁目から、日本橋箱崎町三丁目にわたって架橋されていました。

架橋は元禄11年(1698)とされ、それ以前は「深川大渡し」と呼ばれた渡し場がありました。

享保4年(1719)に洪水で破損し、そのまま取り壊されるところを付近の町人の誓願で、経費はすべて町の負担、さらに橋銭二文を通行人から徴収し、維持費に当てる条件で補修・存続が決まりました。この橋銭は、文化4年の崩落事件後、廃止されています。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
贔屓 ひいき
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:町奉行、『耳嚢』著者 1747-1815
耳嚢 みみぶくろ
遁れし のがれし
喜多武清 きたぶせい
四方 よも
文車 ふぐるま

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落語家 らくごか 古木優

スヴェンソンの増毛ネット

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先日、五反田のとあるビルで、落語を聴きました。

立川半四楼立川談慶の、です。

半四楼は45歳の前座だというのがウリでした。

しかも。

東大出て、間組、三菱商事で海外駐在経験あって、スペイン語ができるんだそうです。なんだか、すごいです。

前座ですから、噺そのものはうまいわけではありませんでした。

でも、一生懸命やってて、なんの噺か忘れましたが、頭から湯気が出てる雰囲気でした。

その気迫というか一途な熱演に、近頃見ない風景に心動かされました。

落語家はたんにはなしの巧拙ばかりではなくて、このような「余芸」も芸の内で、これをも含めたすべたが落語家なのでしょう。

明治から、そんな落語家はうじゃうじゃいました。

会では、談慶師が「文七元結」を熱演したのですが、私はよく覚えておらず、この45歳の前座さんに強烈な印象を受けた次第。

談慶師も慶應義塾大学経済学部を出た元ワコールですから、これはこれでお見事です。

「お互い学歴の無駄遣いをしているね、と楽屋なんかよく言うんです」とは、談慶師の弁。自慢ですかね。落語会の土産話となりました。

立川半四楼、前座、45歳、東大卒。

このかましかたは、船出としてはとりあえず大成功かもしれません。

ところで、現在、日本には落語家と称する人たちは何人いるのでしょうか。数えてみました。

落語協会   305人
落語芸術協会 180人
三遊一門会  58人
落語立川流  58人
上方落語協会 280人
総計  881人 2019年11月23日現在

ざっと900人弱、というところですね。日本相撲協会所属のお相撲さんは900人弱だそうですから、いい勝負です。

東京の落語家がざっと600人、関西の落語家がざっと300人、という具合です。ほかに、名古屋、仙台、金沢もの若干名いるそうですが、「ざっと900人」の中に入れ込める人数です。

ただいま、落語家は900人、です。すごいなあ。

古木優

スヴェンソンの増毛ネット

落語 らくご 古木優

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

人の心を動かす話芸、とでもいうのでしょうか。

「小説」の始まりは『荘子』内編が初出だというのを、駒田信二から聞いたことがあります。

ある村に三本足の烏がいた。

これだけでもう小説なのだ、という例で、話してくれました。

これを聴いたり読んだりすると、人は「え!」と驚くわけです。そんな烏はいないに決まっているからです。

人の心が動く。

それが小説なんだ、ということです。

ならば、落語だって同じでしょう。

小説の読者は作家の目の前にはいませんから、紙面を通しての交流というか伝達でしょうが、落語のような話芸は、客は目の前にいるわけです。

この人たちの心を動かすのは、笑いと涙にもっていかせたほうが手っ取り早いに決まっています。

涙よりも笑いのほうがにぎやかで儲かりそうだから、というようなわけで、落語は笑い中心の芸になっていったのでしょう。

おおざっぱですが、正解はこんなところにあるのだと思うのです。

ごちゃごちゃ考証してもおもしろいのですが、それでも、とどのつまりはここに行きつくものです。

もとより「落語」ということばは、そんなに古くありません。

ことばそのものは江戸期には生まれていましたが、定着したのは明治に入ってから、というかんじですね。

明治初期の寄席では「はなし」「むかしばなし」などと番付に記しています。

噺家の芸を、なんと称して当局に届け出ていいのか迷ったほどなのですから。

なんとも、こころもとない芸であり、職業です。

でも、それが落語なのでしょう。私はそこが好きです。

「落語」は「おとしばなし」から来た漢語表現ですし、つづめて言うのを好む日本人には「らくご」の語感が向いていたでしょうから、こちらが定着した、ということですね。

「オチ」があるのが落語、とかいわれていますが、別に、落語ばかりの専売特許でもありません。

小説にだって、映画にだって、オチがあるものです。ときに、どんでんがえしのなんていう、ものすごいオチもありますが。

『荘子』での「小説」の意味は「とるにたりない話」ということだそうですから、落語と同じくくりですね。

ということは、「三本足の烏」は小説でも落語でも使えるわけで、出元は同じといえるでしょう。

今では、高座でかかるもの全般、つまり、怪談、人情噺、滑稽噺などをひっくるめて、「落語」と呼んでいますね。

明治初期の、つまり、三遊亭円朝(1839-1900)がいたころの人たちには福音のことばだったんじゃないですかね。いちいち区別している向きもあったようです。

円朝なんか、番付には「新作」と記されています。今となっては笑える表記です。

落語といっても、始まりはなにも特別なものではなくて、われわれの心の中から湧き出てきた思いやおもしろさ、日常生活の中から長い時間をかけて生まれてきたもの、といえるのではないでしょうか。

古木優

【語の読みと注】
荘子 そうじ:荘周が編んだ道家のテキスト。内編は荘周、外編と雑編は偽書
駒田信二 こまだしんじ:中国文学者、作家。1914-1994

【RIZAP COOK】

浦島屋 うらしまや 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

浦島太郎のパロディー。きてれつ千万、すこぶるのんきな噺です。

別題:水中の球 小倉船(上方)

【あらすじ】

横浜の弁天通りで鼈甲屋を営む、浦島多左衛門のせがれ、太郎。 この若だんな、ハイカラ好きで、人がやらないことをやってみたいと、いつも考えている。 「いっそ、親父を女郎に売って、おふくろを兵隊にしてしまおうか」 などと考えている矢先、ご機嫌伺いに現れたのが、幇間の桜川船八。 この男の悲運はここが始め。 若だんなは、 「今度こそ極めつけの大きなことをやってみようと思っている」 「へえ、なんでゲス」 「水中旅行さ」 大きなガラス球の潜水艇があるからそれに乗って行く、という。 なんでも、金魚鉢の親玉のような代物で、大きさは二畳敷。 最近、有名な理学士の先生が発明したのを、安く借りられる手はずだとか。 郵船会社に頼んで、船で上からぶら下げてもらえば、管が付いていて息もできるし、ゆうゆうと海底探検が楽しめるというので、船八、ぜひお供をと飛びついた。 そういう次第で、若だんなは万事手配りし、両親にいとま乞いすると、船八ともども汽笛一声新橋を、はや、わが汽車は離れたり。 あっという間に、安芸の宮島までやって来た。 さっそく海中に潜り、いろいろな珍しい魚を見物して喜んでいると、向こうから金ピカの着物を着た男が近づいて「われは竜神なり」とあいさつ。 なんでも、龍宮の乙姫が、日本から美男子両人が海底旅行に来るとの話を伝え聞き、ぜひお連れせよとの命令だという。 案内されて着いてみると、近ごろは龍宮も文明開化で開け、市区改正なども行って、メインストリートは酒屋に汁粉屋に寺に洋館と、なんでもあって、なかなかにぎやか。 人力車は車海老が引いている。 宮殿に着くと下にも置かない大歓迎。 乙姫さまは当たり前だが絶世の美女で、そのほか腰元も美人ぞろいなので、二人が鼻の下を伸ばしていると、乙姫は玉手箱を贈り物にくれる。 命令一下で、数寄屋橋を始め東京中の橋という橋があいさつに来たりで、のめや歌えの大騒ぎ。 そのうち、若だんなはシャバが恋しくなりだし、船八と相談して、二人で玉手箱を持ち、蓬莱の亀にまたがってトンズラ。 「それ、浦島が脱走した」 と追手がかかったので、あわてた拍子に玉手箱を落として壊してしまった。 たちまち二人はハゲ頭に総白髪。 それでもようやく横浜の店にたどり着くと、だいぶようすが変わっていて、中から鉦をたたく音。 二人が入って行くと、腰の曲がった爺さんと婆さんが現れ、見るなり「幽霊だっ」と騒ぐ。 よくよく話を聞けば、二人が行方不明になってからはや半世紀。 親父は九十、おふくろは八十五。 ちょうど若だんなの五十回忌法要の最中で、生まれたばかりだったせがれはもう五十。 後を継いで子供、若だんなには孫までいる。 これでめでたく三夫婦そろい。 船八、 「だんな、あちらからお戻りになったのはまったく年の功でしたね」 「いや、亀の甲で帰った」

底本:初代三遊亭円遊

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

色あせた「円遊流」

原話は延享4年(1747)刊の笑話本『軽口花咲顔』中の「水いらず」です。この小咄の筋は以下の通り。 若だんなの言いつけで、海底に沈んだ難破船の黄金を探すために、ガラス玉に入って水中に潜った男が、見つけた金銀を早く取れとせかされ、「あっ、手が出ない」とオチになります。 この原話をほぼ踏襲した形で、従来同題で演じられていた噺を、大坂の林家系の祖といわれる林屋蘭丸(生没年不詳、文化文政期か)が上方落語「小倉船」としてまとめたものともいわれますが、この人の実在自体がはっきりせず、真偽は不明のままです。 初代三遊亭円遊が明治中期に東京にこの話を移すとともに、時代に合わせて改作したものと見られます。円遊の速記は「水中の球」と題した、明治25年(1892)のものが残っています。 「体内旅行」などと同じく、明治維新後、急激に流れ込んだ科学的知識を、いかにも聞きかじりで中途半端に取り入れ、発想自体は古めかしいままだったので、現実の世の中の進歩に取り残されたこの種の噺は、短期間で飽きられ、すたれました。この噺も円遊以後は口演速記がありません。

「小倉船」

本家上方の「小倉船」のあらすじは、以下の通り。 九州小倉と大坂を往復する船に乗り込んだ男が、三十両の大金を海に落としたので、あわてて大きなガラスのフラスコに入り、潜って探すうちにフラスコが割れ、海底に沈むとそこが龍宮。乙姫がこの男を浦島と間違えて歓迎したので、いい気になって楽しんでいると、本物の浦島が亀に乗って現れたので逃げようと駕籠に乗るが、駕籠かきが猩猩で「駕籠賃は少々(猩猩)だが、酒手が高い」とオチるものです。 この噺は上方落語では、連作シリーズの「西の旅」の一部で、厳密には金を海に落とすところまでが「小倉船」、そのあと、フラスコで金を探しに海中にもぐるくだりになり、この部分は「フラスコ」または「水中の黄金」「天国旅行」とも呼ばれます。結びの竜宮のくだりは、上方の別題は「竜宮界竜の都」です。 東京の改作「浦島屋」が、時流に便乗しようとしてかえって早く消えたのに対し、「小倉船」の方は、古風な演出をそのまま残したためか「希少価値」で、現在も演じられます。 桂米朝の速記が『桂米朝コレクション』(ちくま文庫)第二集に収録されています。現在では「フラスコ」「竜宮界」をひっくるめて「小倉船」で演じるのが一般的です。戦後、東京に在住して上方落語をオリジナルで演じた桂小文治が得意にし、そのため東京でも、今では「小倉船」の方がよく知られています。

郵船会社事始

維新後、明治政府は海運業を発展させるため、郵船業、海運業を一手に三菱に独占させました。その後明治14年(1881)の北海道官有物払い下げ事件で政府と三菱への攻撃が高まり、翌年、三井系の共同運輸会社が設立されましたが、政府は三菱汽船と合併させ、明治19年(1886)に日本郵船が発足、財閥による郵船事業の独占体制が固まりました。

市区改正

明治2年(1869)、明治政府による「朱引き」が行われ、東京の市街地の境界が定められました。これは、幕府の行政区画であった「御朱引内」を踏襲したものですが、明治4年(1871)、さらに市内を六大区・九十七小区に分け、6年(1873)には朱引内(旧江戸市街)六大区、朱引外五大区に改編。明治11年(1878)には、朱引内が十五区に再編成され、ほぼ大筋が固まりました。 【語の読みと注】 鼈甲屋 べっこうや 鉦 かね 駕籠かき かごかき 猩猩 しょうじょう:中国の想像上の怪獣。オランウータンみたいな 酒手 さかて:①酒の代金。②心づけの金銭 自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

梅見の薬缶 うめみのやかん 演目

【RIZAP COOK】

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「勘違い」がテーマのはなしですね。

別題:癪の合薬 薬缶なめ 茶瓶ねずり(上方)

【あらすじ】

町内の源さんと八つぁん。

髪結床でバカ話をしているうちに、ちょうど向島の花屋敷の臥龍梅が見ごろなので、梅見としゃれこもうと話がまとまり、さっそく舟に乗り込む。

ちょうど相客に、十八くらいのきれいなお嬢さん。

どこか大店の娘らしく、侍女を連れている。

源さん、たちまちでれでれで、よせばいいのにずうずうしく話しかける。

この男、お世辞にもモテるタイプでなく、おまけに四十を過ぎて、もう頭がピカピカ。

それでも口八丁、なんだかだとお世辞を並べて気を引こうとするが、女の方がなにやら、ようすがおかしい。

いやにジロジロと、源さんの顔を見つめてばかり。

そのうち、舟が向こう岸に着き、娘の一行は三囲神社の土手を下りていく。二人がいぶかしがりながら言問橋のたもとまで来ると、後ろから先ほどの侍女が追いかけてきて、源さんに、
「お嬢さんが、いま三囲の茶店で待っているので、ぜひおいで願いたい。お願いしたいことがあります」
と頼んだから、さあ源さんは有頂天。

うまくすると、あのお嬢さんに見初められて入婿にでも、とワクワクし、ぶつぶつ文句をいう八つぁんを五円でなだめて、いそいそと二人で茶屋まで出かけていく。

ところが、案の定というか当然というか、侍女が言い出したことには、お嬢さんがこのごろ癪の持病が出て困っているが、癪には銅をなめるのが一番。

だが、このへんにはなく、難渋していたところ、あなたの頭は見たところ薬缶そっくりで、なめれば銅同様の効き目がありそうだから、ぜひにというわけ。

さあ喜んだのが八。

「どうせそんなこったろうと思った、てめえのツラはどう見ても情夫 まぶ)てえツラじゃねえ」
と、調子に乗って
「その男の頭はたいへんうまいと評判ですから、たっぷりおなめなさい」

源さん、悔しがってももう遅い。

不承不承、頭を差し出すと、お嬢さん、遠慮なくベロベロとナメナメ。

そのうち急に発作が起きたと見え、薬缶頭をガブリ。
「あら、お気の毒さま。どこもお傷がついてはおりませんか」
「なーに、傷はつきましたが、漏ってはいません」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

スキンヘッドは口に苦し?

「金の味」、別題「擬宝珠」では、銅をなめたくなる金属嗜好症がテーマなのですが、この噺は逆に、ある種の病気には銅をなめるのがよい、という俗信に基づくものです。

原話と思われる小咄は三種あります。

最も古いのは万治2年(1659)刊の『百物語』巻下ノ四にある無題のもので、これはある男が意気がって山椒を大量になめ、むせかえって苦し紛れに、山椒でむせたときには銅をなめればよいと、通りがかりの侍の薬缶頭にいきなりかぶりつきます。

無礼者ッと、バッサリ斬られそうになりますが、往来の町衆が栄耀食いでなく、薬食いなのでご勘弁を」と取りなしてくれ、なんとか収まるというお笑い。

宝永7年(1710)刊『軽口都男』中の「薬罐」では、ハゲあたまの大金持ちの屋敷に夜、三人組の盗賊が侵入。おやじが物音で目覚め、賊が外へ盗品を運び出すのを出窓からそっとうかがっていると、月光でアタマが光り輝き、ヤカンと間違えた盗賊は、これもついでに頂こうと、むんずとつかんだので、仰天したおやじが大声でわめきます。

そうなればブッスリやる方が早いのに、賊の方もあわてて、「山椒にむせたので、通りがかりにだんなの頭を見て、やかんと勘違いしてつい、なめようと……」と、わけのわからない言い訳をするもの。

続いて明和9年(1772)刊の『鹿の子餅』中の「盗人」は、これを短くしたもので、盗人が盗品を運び出す穴を土蔵に空け、目覚めた主人が不審に思って、ピカピカ頭を穴から出したのを外にいる一味が勘違い。「あ、ヤカンから先か」というオチです。これは落語「薬缶泥」の直接の原話でもあります。

こうした小咄を、怪談ばなしの始祖でもある初代林屋(家)正蔵(1781-1842)が一席噺にまとめたというのが野村無明庵(戦前の落語研究家)が『落語通談』で述べている説ですが、根拠に乏しく、あまりあてにはなりません。

本家上方の「茶瓶ねずり」

上方落語「茶瓶ねずり」が東京に移されたものが現行の型です。「ねずる」は、しゃぶる、なめるの意。上方のやり方では、女中を連れて野歩きしていた奥方が、へびを見て持病の癪 しゃく)を起こします。

癪は茶瓶(=薬缶)をなめれば治るというので、女中が、通りかかった薬缶頭の武士に決死の覚悟で頼んで、代用に頭をなめさせてもらうというものです。オチは供の下男と侍の会話で、東京と同じです。

あらすじは、明治26年(1893)の初代三遊亭円遊の速記を参照しましたが、これは今ではちょっと珍しい演出。東京では現在は「薬缶なめ」の演題が普通で、その場合、円遊の前半のお色気をカットした上、癪を起こすのを大家のかみさんとし、あとはほぼ上方通りに演じます。

古いオチの型と演者

オチは、古くは、侍の下男が「あなたが謡をうたって歩くから、狐が化かしたんでしょう」と言うと侍が、「狐か。道理で野干 野狐の古称。やかんと掛けた)を好んだ」とオチていましたが、分かりにくいので円遊が変えたものでしょう。

東京では長く絶えていたのを柳家小三治が復活。ただ、それ以前に、戦後東京に定住し、上方落語を広く東京に紹介した桂小文治が「癪の合薬」の名で演じました。

臥龍梅

江東区亀戸三丁目にあった伊勢屋喜右衛門の別荘「清香庵」は、「梅屋敷」の異称で知らぬ者はなかったほどの梅の名所でした。

中でも、竜がとぐろを巻くように枝がうねっているところから「臥龍梅」と名づけられた白梅は、江戸一番と賞され、シーズンには見物人が絶えなかったとか。

この梅は、吉原の名妓、初代高尾太夫から喜右衛門の先祖が譲り受けたもので、その命名者は徳川光圀でした。水戸黄門で知られた人す。

夏目漱石の有名な「修善寺大患」とともに必ず語られる明治43年(1910)の大水害で惜しくも枯れましたが、幕末に編まれた年代記『武江年表』の寛政4年(1792)の項に、「七月二十一日、亀戸梅屋敷の梅旧根消失するよし、『江戸砂子書入』といふ草書にあり」とあるので、それ以前に少なくとも一度は枯れ、接ぎ木したようです。

【語の読みと注】
臥龍梅 がりょうばい
大店 おおだな
三囲神社 みめぐりじんじゃ
言問橋 ことといばし
癪 しゃく:胃けいれん
擬宝珠 ぎぼし
栄耀食い えようぐい:美食
薬食い くすりぐい:治療食

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嘘つき村 うそつきむら 演目

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村人全員が「うそつき」という壮大な噺です。

別題:鉄砲勇助(上方)

【あらすじ】

「神田の千三ツ」と異名を取る、うそつき男。

だんなの家に久しぶりに現れ、
「信州の方へ行ってきたが、あんまり寒いので湖で鴨の足に氷が張って飛び立てなくなっているのを幸い、鎌で足だけ残してかたっぱしから刈り取った」
とか、
「そのあとに芽が出たのでカモメだ」
とか、さっそく並べ放題。

ところが、だんな、
「向島の先に、うそつき村というのがあり、そこのやつらは一人残らずうそをつくが、その中でも、鉄砲の弥八という男は、おまえよりずっと上手だ」
と言うので、千三ツ、名誉にかけてそいつを負かしてみせると、勇躍、うそつき村に乗り込んだ。

さっそく、村人に弥八の家を聞いたが、さすがにうそつきぞろい。

向かい側の引っ込んだ家だの、松の木の裏だのとでたらめばかりで、いっこうに見当がつかない。

子供なら少しはましかと、遊んでいた男の子に聞くと、
「弥八はオレのおとっつあんだ」
と言う。

そこで
「おまえんとこの親父は、見込みがありそうだと聞いたんで、弟子にしてやろうと江戸から来たんだ」
と、ハッタリをかますと、子供をさるもの、
「親父は富士山が倒れそうになったのでつっかい棒に行って留守だし、おっかさんは近江の琵琶湖まで洗濯に行った」
と、なかなかの強敵。

その上、
「薪が五把あったけど、三つ食べたから、おじさん、残りをおあがり。炭団はどうだい」
ときたから、子供がこれなら親父はもっとすごいだろうから、とてもかなわないと、千三ツは尻尾を巻いて退却。

「おじさん、そっち行くとウワバミが出るよ」
「なにを言ってやがる」

そこへ親父が帰ってきたので、せがれはこれこれと報告し
「おとっつあん、どこへ行ってたんだい」
「オレか。世界がすっぽり入る大きな桶を見てきた」
「おいらも、大きな竹を見たよ。山の上から筍が出て、それがどんどん伸びて、雲の中に隠れちまった」
「うん、それで?」
「少したつと、上の方から竹が下りてきて、それが地面につくと、またそれから根が生えて、雲まで伸びて、また上から」
「そんな竹がないと、世界が入る桶のたがが作れない」

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【しりたい】

鉄砲勇助

文化年間から口演される古い噺ですが、特定の原話は未詳です。『聴耳草紙』ほかに見られる、各地のホラ吹き民話などを基にしたものと思われます。いずれにしても、この種のホラ話は世界中に、それこそ無数に分布していて、うそつきや大風呂敷は人類普遍の病だという証です。

本来は上方落語「鉄砲勇助」で、これが東京に移植され、「弥次郎」と「うそつき村」の二つに分かれたという説があります。

上方では、「花の頓狂島ヤタケタ(でたらめ)郡うそつき村」という珍妙な名の村の、鉄砲勇助というホラ吹き名人に、大坂の嘘自慢男が挑戦しに来る設定ですが、各演者の独自の工夫を除けば、東西ともくすぐりやホラの大筋、オチなどは変わりません。

上方の演題「鉄砲勇助」は、「テンポ(うそ)を言う」という上方言葉からのシャレで、江戸(東京)の主人公弥八の異名「鉄砲」も、ここからきています。「弥八」の「八」は、もとより「うそっパチ」の「八」でしょう。

千三ツ

「せんみつ」ともいい、うそつきの代名詞。千のうち三つしか真実を言わない者の意味ですが、この表現は東京独自のものです。古くは「万八、千三ツ」と対語で使われました。

明和から安永(1764-81)にかけ、「万八」が流行語になり、「万八講釈」などという派生語も生まれました。

「千三ツ」の方はその語呂合わせとして考えられたようですが、本家の万八は早くすたれ、「千三ツ」だけが明治維新以後まで生き残りました。いずれにしても「万ナシ」「千ゼロ」でないところに極悪人ではないという、シャレのセンスがうかがえますね。

意外な大看板も

「弥次郎」は現在もさかんに高座に掛かりますが、「村」の方は、東京では一席噺としてはあまり聴かれません。

前座噺やマクラ噺扱いの軽い噺ですが、大看板では、上方では六代目笑福亭松鶴、東京では三代目三遊亭小円朝、三代目三遊亭金馬も演じました。

セルビアのひげなし男

セルビアでは、ひげなし男はうそつきで腹黒いと、古くから考えられていたようです。ヴーク・カラジッチの編纂したセルビア民話集に「うそつき村」とちょうど同パターンで、子供と水車小屋の粉ひき男が大ボラ比べをする話がありますが、その男がひげなしです。この一戦、やはり悪ガキの圧勝。独壇場で、セルビア弥八は手も足も出ません。

そのホラ話の内容は以下の通り。

○巣箱のミツバチが一匹いなくなったので、雄鶏に鞍をおいて探しに出ると、ある人がミツバチに犂をひかせ、畑を耕していた。

○取り返して家に帰ると、ちょうど父親が生まれたところ。

○洗礼用の聖水をもらおうと、天までのびたキビの茎を登って天国へ。

○天国からまっさかさまに墜落、腰まで地面にめり込んで抜けないので、仕方なく家に飛んで帰り、鍬を取ってきて自分を掘り起こした。 

○家で飼っている雌馬は、体長二日、馬幅一日。

○井戸に水汲みに行くと、水が凍っていたので、自分の頭を引き抜き、頭で氷を叩き割る。

いやあ、いくらでも出てきます。ホラにも宗教や民族性の違いが、よく表れています。世界ホラ吹き選手権をやったら、ちょっとおもしろいかも。

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氏子中 うじこじゅう 演目

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短いバレ噺です。むふふ、ですね。類話に「町内の若い衆」があります。

【あらすじ】

与太郎が越後に商用に出かけ、帰ってきてみると、かみさんのお美津の腹がポンポコリンのポテレン。

いかに頭に春霞たなびいている与太郎もこれには怒って
「やい、いくらオレのが長いからといって、越後から江戸まで届きゃあしねえ。男の名を言え」
と問い詰めても、お美津はシャアシャアと、
「これは、あたしを思うおまえさんの一念が通じて身ごもったんだ」
とか、果ては
「神田明神へ日参して『どうぞ子が授かりますように』とお願いして授かったんだから、いうなれば氏神さまの子だ」
とか、言い抜けをしてなかなか口を割らない。

そこで、親分に相談すると
「てめえの留守中に町内の若い奴らが入れ代わり立ち代りお美津さんのところに出入りするようすなんで、注意はしていたが、四六時中番はできねえ。実は代わりの嫁さんはオレが用意していて、二十三、四で年増だが、実にいい女だ。子供が生まれた時、荒神さまのお神酒で胞衣を洗うと、必ずその胞衣に相手の情夫の紋が浮き出る。祝いの席で客の羽織の紋と照らし合わせりゃ、たちまち親父が知れるから、その場でお美津と赤ん坊をそいつに熨斗を付けてくれてやって、おまえは新しいかみさんとしっぽり。この野郎、運が向いてきやがった」

さて、月満ちて出産、お七夜になって、いよいよ親分の言葉通り、間男の容疑者一同の前で胞衣を洗うことになった。

お美津は平気の平左。

シャクにさわった与太郎が胞衣を見ると、浮き出た文字が「神田明神」。
「そーれ、ごらんな」
「待て、まだ後に字がある」
というので、もう一度見ると
「氏子中」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

原話のコピーがざっくざく

現存最古の原話は正徳2年(1712)、江戸で刊行された笑話集『新話笑眉』中の「水中のためし」。

これは、不義の妊娠・出産をしたのが下女、胞衣を洗うのがたらいの水というディテールの違いだけで、ほぼ現行の型ができています。結果は字ではなく、紋がウジャウジャ現れ、「是はしたり(なんだ、こりゃァ!)、紋づくしじゃ」とオチています。

その後、半世紀たった宝暦12年(1762)刊の『軽口東方朔』巻二「一人娘懐妊」では、浮かぶのが「若者中」という文字になって、より現行に近くなりました。

「若者中」というのは神社の氏子の若者組、つまり青年部のこと。

以後、安永3年(1774)刊『豆談語』中の「氏子」、文政4年(1821)起筆の松浦静山の随筆集『甲子夜話』、天保年間刊『大寄噺尻馬二編』中の「どうらく娘」と続々コピーが現れ、バリエーションとしては文政2年(1819)刊『落噺恵方棚』中の「生れ子」もあります。これは、連名で寄付を募る奉加帳にひっかけ、産まれた赤子が「ホーガ、ホーガ」と産声をあげるという「考えオチ」。いずれにしても、これだけコピーがやたら流布するということは、古今東西、みなさんよろしくやってるという証。類話ははるか昔から、それも世界中に散らばっていることでしょう。

もめる筈 胞衣は狩場の 絵図のやう
                   (俳風柳多留四編、明和6=1769年刊)

荒神さまのお神酒

荒神様は竈の守り神で、転じて家の守護神。そのお神酒を掛ければ、というのは、家の平安を乱す女房の不倫を裁断するという意味ともとれます。別に、女房が荒神様を粗末にすれば下の病にかかるという俗説も。胞衣の定紋の俗信は古くからあります。

神田明神

千代田区外神田二丁目。江戸の総鎮守ですが、祭神はオオナムチノミコトと平将門です。オオナムチノミコトは五穀豊穣を司る神なので、当然元を正せば荒神様とご親類。明神は慶長8年(1603)、神田橋御門内の芝崎村から駿河台に移転、さらに元和2年(1616)、家康が没したその年に、現在の地に移されました。

噺が噺だけに

明治26年(1893)の初代三遊亭遊三の速記の後、さすがに速記はあっても演者の名がほとんど現れません。類話の「町内の若い衆」の方が現在もよく演じられるのに対し、胞衣の俗信がわかりにくくなったためか、ほとんど口演されていませんが、五代目古今亭志ん生、十代目金原亭馬生は「氏子中」の題で「町内の若い衆」を演じていました。

【語の読みと注】
荒神さま こうじんさま
お神酒 おみき
胞衣 えな:胎児を包む膜
情夫 いろ
熨斗 のし
竈 へっつい:かまど

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今戸焼 いまどやき 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

これは短い。千字どころか百字ほどの短いはなしです。

【あらすじ】

役者大好きのかみさんが、今日も芝居に出かけて帰ってこない。

その留守に戻った亭主、おもしろくないので、七輪に火を起こして仰ぎながらブツクサ。

そこへ女房が帰って来て、あれがよかったこれがよかったと芝居と役者の噂ばかりするから
「亭主のオレと役者とどっちが大切だ。さてはてめえ、役者とあやしいな」
と、大げんかになる。

「亭主の帰る時間がわからなくてどうする。でえいち、てめえの言いぐさが気に入らねえ。建具屋の吉っつぁんは音羽屋似だの、源兵衛さんは宗十郎そっくりだのと抜かす前に、少しは自分の亭主をほめろ」
「あら、おまえさん、福助によく似てるよ」
「役者のか?」
「今戸焼の」

底本:五代目三升家小勝

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【しりたい】

「留さん」得意のシブイ噺

残念ながら、原話はまったく不明です。

戦後は、八代目三笑亭可楽、五代目三升屋小勝、「留さん」こと九代目桂文治など、ややマイナーな玄人好みの落語家がよく演じました。

文治は、いい男の例に長谷川一夫やマーロン・ブランドを出し、「おっかあ、今日は誰の命日だと聞いたら、『佐田啓二さんの』ってやがる」と、くすぐりでオチていました。中井貴一の父である往年の二枚目俳優佐田啓二の事故死は「いだてん」東京オリンピック直前の昭和39年(1964)8月のことでした。

古い速記では、演者名があるものとしては昭和12年(1937)に出版された五代目三升家小勝著『小勝特選落語集』に「福助くらべ」と題して収録されたものが唯一。

福助

本来は、福を招くとされる人形で、七福神の一である福禄寿を写したものでしょう。裃を着て、頭が大きく、ずんぐりした形が特徴。絵にもよく描かれます。叶福助ともいい、寛政年間(1789-1800)に初めて作られました。ただしここでは、その福助の形に似せた今戸焼の火鉢のことです。

今戸焼発祥之地

今戸神社(台東区今戸1丁目)の境内には「今戸焼発祥之地」の碑があります。以下、碑文の内容です。適宜読みやすく直しました。

今戸焼は台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類, 土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していました。地元の今戸神社にある狛犬台座には宝暦2年(1752)に奉納した42人の陶工らの名前が刻まれており、数多く軒を並べていたことがうかがえます。今戸焼の起源は定かではないのですが、伝承によれば天正年間(1573-91)に、このへんの有力豪族だった千葉氏の家臣が今戸あたりで焼き物を始めたという話が残っています。あるいは、徳川家康の入府後、三河の陶工が今戸に移ってきたともいわれています。今戸焼の名としては 18世紀末頃から明らかに見られ、18世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われます。その昔、隅田川沿岸は瓦を含めた土製品の生産がさかんだったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていました。「江戸名所図絵」には瓦造りの挿絵がみられ、「隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれています。最近の江戸遺跡の調査によって、施釉土器、土人形や瓦などが多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器や土人形、今戸の地名を印した瓦もみられて、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されています。関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移住し、現在今戸には1軒だけが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されています。(平成13年3月現在、台東区教育委員会の記述を基にしました)

【語の読みと注】
叶福助 かのうふくすけ

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牛の嫁入り うしのよめいり 演目

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今度の与太郎はちょいと知恵が働くんですが、それがまた一騒動の素。

別題:おたおたの太助(上方)

【あらすじ】

小伝馬町の質屋の娘。

年ごろになるが、なかなかの器量よしで、その上、芸事は絵から俳諧、歌はおろか、弓馬、槍剣の道まで心得ているという噂の高い才女。

一人娘なので、そろそろ養子を迎えなければならず、孝行者なので、早くいい婿が見つかって両親を安心させたいと、向島の牛の御前に願掛けをして日参している。

町内の若い衆の噂を聞きつけた、本所松坂町に住む紙くず拾いの与太郎。ほかの与太郎とは少々違って頭が冴えているので、女をなんとかして手に入れてやろうと、牛の御前に先回りし、麻の風呂敷をかぶって頭にお椀を乗っけ、笏代わりにシャモジを手に持って、娘が来るのを待った。

なにも知らない娘、いつものように社前に立ち、賽銭をあげて柏手を打つ。

「なにとぞ私によい御養子をお授けください」
と熱心に祈る。

そこへ与太郎が賽銭箱の間からスクッと立ち上がり
「ああ、これ、我こそは牛の御前なり。その方は親孝行なるに感じ、利益によって養子を一人授けるなり」

娘は仰天。

願いがかなえられたと大喜びで
「ありがたいことでございます。そのご養子はどこのお方でしょう」
「本所松坂町紙くず拾いの与太郎と申す者なり。この者は粋でりっぱでちゃんとして、東男のぬしさんに惚れたが無理かションがいな、あーら疑いあるべからず」

たちまち娘は、このまだ見ぬ男に恋わずらい。

親には恥ずかしくて言いだせないから、悶々としたまま床につき、食事も喉へは通らない。

心配しただんな、乳母をやってようやく聞き出すと、かわいい娘のためと、さっそく番頭の久蔵を呼び、その「本所松坂町の古紙回収業の与太郎さんは粋で立派でちゃんとして、東男の主さんに惚れたが無理かションがいな、あーら疑うべからず」という寿限無並みに長い名前の男に会ってこいと命じる。

久蔵が見ると、えらく汚い男なのでがっかりしたが、当人がそうだというのだから間違いはなかろうと、帰ってだんなに報告した。

だんな、それは身なりでなく人柄がいいのだろうと、「あーら疑うべからず」を婿にすることに決めたが、娘の体がまだよくないから、車では揺れてだめだと、長持ちに空気穴を空けて、夜具一式と一緒に娘を入れ、大勢だと評判になるから、善兵衛と喜助の二人に担がせて、松坂町に送り届けることにした。

二人が途中の牛屋で一杯やっている間に、本所の牛方が子牛をひいて通る。

牛屋の前に下ろしてある長持ちの中からうめき声がするので、のぞくと娘っ子が入っている。

これは人さらいだと早合点して、娘を引っ張り出すと、身代わりに子牛を入れ、娘を連れて行ってしまった。

すっかりできあがった二人。

長持ちを与太郎の家に届けると、すぐ帰ってしまったので、与太郎はゾクゾクしながら中をまさぐる。

えらく臭くて太った娘だと思って別の所を触ると、そこが子牛の尻尾。

「ウーン、大変に長い髪だ。大方下げ髪で来たんだろう」

底本: 初代三遊亭円遊

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【しりたい】

民話の落語化か

東京ヴァージョンのこの「牛の嫁入り」は、明治23年(1890)の「鼻の」円遊こと初代三遊亭円遊の速記が残るのみの、今はすたれた噺です。

もともと上方落語の「おたおたの太助」を東京に移したものといわれますが、この元ネタ自体、オチが円遊版と同じという以外、今では詳細がまったく分からなくなっています。

したがって、原話も、東京に伝わった経緯・時期も不明ですが、ただ、民話に同じ題名のものがあるため、上方のものも含め、ルーツはやはり民話や昔話にあると思われます。

類話「お玉牛」

娘と牛が寝床ですりかわるという後半の筋と似ているのが、現在でも上方で口演される「お玉牛」です。

これは、武士の娘お玉が、父親が悪人に陥れられたため父娘で都落ちし、紀州と大和の国境の堀越村へ流れ着きますが、土地の乱暴者あばばの茂平に強引に言い寄られ、今夜にも夜這いをかけられるハメに。お玉の訴えを聴いた世話人の与次兵衛が機転で、その夜、お玉の寝床に牛を寝かせておいたので、何も知らず、舌なめずりで忍んできた茂平は牛に抱きつき、肝をつぶして逃げ出します。オチは「どや、お玉をうんと言わしたか」「いや、モーと言わした」というものですが、これも民話ダネとみられるので、「おたおたの太助」や「牛の嫁入り」とルーツは同じでしょう。

こちらは、古くは東京でも同題で後半のみを、上方通りに演じたこともあったようです。

違ったやり方も

現在は東京では演じられず、また、円遊以後の演者についてもはっきりしませんが、古いやり方としては、娘ではなく父親が願掛けして与太郎の化けた神の「御託宣」を開くやり方もあったといいます。また、驚いた与太郎が大家の家に逃げ込み、「暗闇から牛を引っ張り出しました」とするオチや、舞台を亀戸天神(与太郎も天神に化ける)にしていた演者も。

牛の御前

正式には牛島神社で、墨田区向島一丁目の隅田公園内に移されています。関東大震災の焼失前は、向島五丁目の墨堤常夜灯下にありました。牛の御前は祭神のスサノオノミコトのことです。

小伝馬町

中央区日本橋小伝馬町。時代劇でもよく知られた小伝馬町大牢のあった町ですね。

【語の読みと注】
牛の御前 うしのごぜん:牛島神社
笏 しゃく
賽銭 さいせん

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ちょこざい 猪口才 ことば

★auひかり★

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漢字の「猪口」は当て字で、元々は小型の酒器の「ちょく」「ちょこ」から転じて「小さい子供」または小柄な者をそう呼んだ俗語。

したがって、「ちょこっと(わずかな)」才があるだけで、それを鼻にかけて生意気な奴、というふうに使われるようになった、いわばダジャレです。

いかにも、怜悧な才気煥発な人間を、理詰めで言い負かされる腹いせに「生意気だ」の一言で排除することが多かった、江戸期以来の日本社会の通弊が伺えます。

主に武士階級に使われたとされますが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも「ちょこざいぬかさずと、はよう銭おこせやい」などとある通り、芝居や浄瑠璃、戯作などを通じて町人の間にも広く普及していました。

上方では「ちょこい」とも。次第に形容動詞「ちょこざいな」に特化して、明治大正はもちろん、戦後まで主に老人語として残っていましたが、今は死語となっています。

名優、初代中村吉右衛門(1886-1954)のふだんの口癖でもありましたが、昭和20年代から30年代にかけ、ラジオドラマやテレビ漫画で人気を博した『赤胴鈴之助』の主題歌の冒頭、「ちょこざいな小僧め、名を、名を名乗れ」というセリフを思い出される向きも多いかもしれません。

★auひかり★

牛の丸薬 うしのがんやく 演目

スヴェンソンの増毛ネット

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短い噺です。でも、けっこう複雑。

別題:牛の丸子(上方)

【あらすじ】

大和炬燵の古くなったのをいじっているうちに、これで丸薬を作ってひともうけしてやろうと思いついた甚兵衛。

炬燵に水を加えて土団子をこしらえ、仲間の喜六と二人で田舎に売りに行く。

牛の流行病の特効薬だと、甚兵衛が農民を言いくるめていくうちに、喜六が煙管で胡椒の粉を牛にかがせ、くしゃみを連発するとすかさず「丸薬」を飲ませた上、水を浴びせて胡椒を洗い流し、治してみせる。

トリックにひっかかった百姓、まんまとだまされてあたりに触れ回ったため、我も我もと殺到して、みごとに売り切れる。

思惑が当たった甚兵衛と喜六、笑が止まらない。

「全部売れた。ハハハハハ」
「あんまり笑うな。バレる」
「ハハハハ」
「笑うなってのに」
「しかし甚兵衛さん、懐が暖まったもんだね」
「当たり前だ。もとはコタツなんだから」

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

上方落語を東京に移植

上方落語「牛の丸子」を、八代目桂文治が東京に移したものです。おそらく、昭和に入ってからでしょう。

戦後、大阪から東京に出て活躍した二代目桂小文治がオリジナル版を初めて紹介。その後、九代目文治が、ここに示したような純粋な「べらんめえ版」で演じましたが、現在、東京ではやり手がありません。

「がんじ」は今でいう錠剤のことですが、わかりにくいので、現在はこの題名は使われていません。

米朝説、民話のにおい

「壷算」などと同様、一種の詐欺噺で、民話がルーツと思われますが、原話は不明です。

ちくま文庫版『桂米朝コレクション4』に、現在唯一、この噺の古格を伝えている桂米朝の速記及び解説があります。その中で同師は、「私はなんとなく民話とのつながりを感じます。(中略)大昔は、悪賢い狡い人間は、ある意味で尊敬されていたのではないか。時代とともに、古い昔がたりに教訓的なものが付加されてゆき、すべて勧善懲悪的なはなしになっていったのかと思われるのです」と、述べています。

上方版二つの流れ

米朝は五代目笑福亭松鶴(1950年没)と四代目桂文団治(1962年没)両巨匠のものを聞き覚えしたとのことですが、この噺は実際、大阪では笑福亭系統と桂派、二通りのやり方の流れがあったようです。

再び米朝師の前掲書を引用すると、「五世松鶴型の演出が文団治型と大きく違うところは、キセルにこしょうを詰めて牛の鼻に吹き込むことを、その村にかかるまで一切言わずに、土の丸薬をいったいどうするのか、聴客にもその時まで知らさないやり方」ということで、ご自身はこちらで演じているとのことです。

この噺の後継者は、米朝門下の桂枝雀と、五代目松鶴の孫弟子にあたる仁鶴。

大和炬燵

黒土の素焼で、小型のアンカです。上部が丸く、布が張ってあり、中は火鉢になっていて、たどんを入れて暖めたもの。昭和初期まで、関西では使われていました。

【語の読みと注】
大和炬燵 やまとごたつ:土製の小型の四角いあんか
煙管 きせる
胡椒 こしょう
丸子 がんじ:丸薬、錠剤

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お見立て おみたて 演目

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志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺です。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁。

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸が走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽に会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗で」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
「養空食傷信士、天保八年酉年」

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
「天垂童子、安政二年卯年」
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしませんが、武藤禎夫(落語研究家)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』中の「手くだの裏」とのこと。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺ですが、現存でもっとも古い「墓違い」と題した明治28年(1895)の柳家禽語楼(二代目禽語楼小さん)の速記では、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。林家彦いちなんかもそうやっていました。現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。戦後は、六代目春風亭柳橋はじめ、多くの大看板が手掛けました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼を選ぶことと掛けたものです。「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町の全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽伝』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽伝』(1958年、川島雄三監督、日活)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

【語の読みと注】
喜瀬川 きせがわ
花魁 おいらん
杢兵衛 もくべえ
大尽 だいじん
虫酸が走る むしずがはしる
惚れる ほれる
廓 くるわ
敵娼 あいかた

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鴬のほろ酔い うぐいすのほろよい 演目

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スター気取りの鴬が登場する、明治の頃につくられたはなしです。

【あらすじ】

ある男が人語を話す、世にも珍しい鴬を飼っている。

それは世間に秘密だが、鳴き声は評判になり、
「聴かせてほしい」
という人が大勢いるので、
「それでは」と、自宅に人を集めて披露することになった。

書画骨董、鴬宿梅の掛け軸などを用意して、いよいよ鴬に
「いい声で鳴けよ」
と言いつけると
「ここ二、三日夜寒がきつかったので、喉の具合が悪く、それに冬のような心持ちがして、気が浮き立たないから鳴けません」
と鴬が言うので、困る。

そこで景気付けに、鴬に一杯飲ませ、ほろ酔いかげんで鳴かせようとすると、
「酒で喉がかわいたからお茶を一杯くれ」
とも言う。

茶は冷めてしまったからと、酒の燗をした湯を飲ませると
「アチチ、こりゃ熱湯。舌をやけどした」

鴬が縁側の手水鉢の方へフラフラ飛んで行くから、驚いた主人、
「これこれ、どこへ行く」
「はい、あんまり熱いので埋め(=梅)に行きます」

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【しりたい】

風雅な明治のマクラ

この噺、原話はまったく不詳です。鴬の擬人化が珍しいだけで、オチも地口(湯を埋め=梅→鴬の連想)で平凡なので、今ではまったくすたれ、演じ手はありません。

資料としても、本格的芝居噺の名手だった六代目桂文治が明治33年(1900)3月、「百花園」に載せた速記があるのみで、文治(明治44年没)以後、口演されたかどうかもわからないほどなのですが、その速記を読んで感心させられるのは、噺そのものよりも、そのマクラにみる風雅さ、故事や古典への造詣の深さです。いささかキザなひけらかしが目立ったと言われる文治ですが、

鶉鶉(うつらうつら)と世を暮らし、心鶺鴒(こころせく)やる瀬なき、胸の孔雀がさし込んで、くすり雲雀も日に千度、はや隼に身を堅め、それ鳳凰(相応)な商売して、二人仲よう鴛鴦と、君の心は白鷺で……

という洒落た鳥尽くしの色文(ラブレター)から始まり、鳥の鳴き声を聞き分けたという中国の公冶長の逸話をひとくさり、蜀の皇帝が死んでホトトギスに生まれ変わったという「蜀魂」の故事、有名な古今集の紀貫之の序から、「人来鳥」「経よみ鳥」「月日星」などの鴬の別称を並べ、という風に、いかにも粋に典雅に、さりげなく本題に入ります。

おそらく、穏やかで、流麗な語り口だったでしょう。寄席が浮世学問のみならず、大切な教養の源だった古きよき明治の御世がうかがえます。

鴬宿梅の故事

11世紀に成立した歴史物語『大鏡』の中で、村上天皇の命で家の庭の梅の木を運び去られた紀貫之の娘が天皇に託す、

勅なれば いともかしこし 鴬の 宿はと問はば いかが答へん
(天皇のご命令なので、たいへん名誉なことですが、もし庭の鴬が「私の家である梅の木はどこへ行ったのでしょう」と尋ねたら、どう答えればよろしいのでしょう)

という歌から採ったもので、昔から梅と鴬は付きものとして、掛け軸の画賛によく用いられる題材です。

もちろん、これがオチの伏線になっています。

【語の読みと注】
鴬宿梅 おうしゅくばい
鶉 うずら
鶺鴒 せきれい
孔雀 くじゃく
雲雀 ひばり
千度 ちたび
隼 はやぶさ
鳳凰 ほうおう
鴛鴦 おしどり
白鷺 しらさぎ
大鏡 おおかがみ
勅 ちょく:天皇の命令

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棒鱈 ぼうだら 演目

【RIZAP COOK】

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江戸っ子と田舎侍の違いまざまざ。明治文化ってこんなかんじ?

【あらすじ】

江戸っ子の二人連れ。

料理屋の隣座敷で、鮫塚という田舎侍が大騒ぎする声を、苦々しく聞いている。

ついさっきまで
「琉球へおじゃるなら草履ははいておじゃれ」
などというまぬけな歌をがなっていた。

静かになったと思ったら、芸者が来たようすで、隣の会話が筒抜け。

芸者が
「あなたのお好きなものは?」
と聞くと
「おいどんの好きなのは、エボエボ坊主のそっぱ漬け、赤ベロベロの醤油漬けじゃ」

エボエボ坊主がタコの三杯酢で、赤ベロベロがマグロの刺し身ときた。

「おい、聞いたかい。あの野郎の言いぐさをよ。マグロのサムスだとよ。……なに、聞こえたかってかまうもんか。あのバカッ」

大声を出したから、侍が怒るのをなだめて、
「三味線を弾きますから、なにか聞かせてちょうだい」
と言うと、侍は
「モーズがクーツバシ、サーブロヒョーエ、ナーギナタ、サーセヤ、カーラカサ、タヌキノハラツヅミ、ヤッポコポンノポン」
と歌い出す。

「おい、あれが日本の歌かい」
と、あきれかえっていると、今度は
「鳩に鳶に烏のお犬の声、イッポッポピーヒョロカーカー」
「おしょうがちいが、松飾り、にがちいが、テンテコテン」

気短な方が、もうがまんがならなくなって、隣座敷のテンテコテンがどんなツラぁしてるか、ちょいと見てきてやると、相棒が止めるのも聞かずに出かけていく。

廊下からのぞこうとしたが、酔っているからすべって、障子もろとも突っ込んだ。

驚いたのが田舎侍。

「これはなんじゃ。人間が降ってきた」
「なにォ言ってやがるんでえ。てめえだな。さっきからパアパアいってやがんのは。酒がまずくならあ。マグーロのサスム、おしょうがちいがテンテコテンってやがら。ばかァ」
「こやつ、無礼なやつ」
「無礼ってなあ、こういうんだ」
と、いきなり武士の面体に赤ベロベロをぶっかけたから
「そこへ直れ。真っ二つにいたしてくれる」
「しゃれたたこと言いやがる。さ、斬っつくれ。斬って赤くなかったら銭はとらねえ、西瓜野郎ってんだ。さあ、斬りゃあがれッ」
と大げんか。

ちょうど、そこへ料理人が、客のあつらえの鱈もどきができたので、薬味のこしょうを添えて上がろうとしたところへ、けんかの知らせ。

あわててこしょうを持ったまま
「まあ、だんな、どうかお静かに。ま、ま、親方。後でお話いたしますから」
と、間へ入ってもみ合ううちに、こしょうをぶちまけた。

「ベラボウめ、テンテコテンが、ハックション」
「ま、けがをしてはいけませんから、ハックション」
「無礼なやつめ。真っ二つにいたしてくれる。それへ、ハックション」
「まあまあ、みなさん、ハックション」
とやっていると、侍が
「ハックション、皆の者、このけんかはこれまでじゃ」
「そりゃまた、どうして」
「横合いからこしょう(故障=じゃま)が入った」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

爽快な啖呵

原話は不詳ですが、生粋の江戸落語で、「首提灯」と並んで、江戸っ子のイキのよさとタンカが売り物の噺です。

それだけに、歯切れよく啖呵のきれる演者でないとサマにならず、昨今はあまり口演されません。

昭和34年(1959)9月、ラジオ公開録音中に脳出血で倒れ、翌月亡くなった八代目春風亭柳枝が得意にしていました。

五代目柳家小さんもよく演じ、その門下の小三治やさん喬も持ちネタにしています。若き日のさん喬がラジオで演じた「棒鱈」は実にみごとな出来でした。TBS落語研究会で、橘家圓太郎が熱演したこともありました。

棒鱈

もともとは鱈の三枚におろしたものを指しますが、俗語で、酔っぱらい、または阿保、野暮天の意味。この噺では鱈もどき(不詳。棒鱈の煮つけのことか?)という、田舎侍のあつらえた料理とひっかけた題名になっています。

浅黄裏

江戸勤番の諸藩士が、着物の裏に質素な浅黄木綿をつけて吉原などに出入りしたのをあざ笑って「浅黄裏」とも呼ばれ、野暮の代名詞でした。

この噺の侍は薩摩藩士と思われますが、落語では特にそれらしくは演じません。ただ、薩摩のイモ侍とすると、「首提灯」同様、薩長に対する江戸者の反感がとみに高まっていた幕末の世相を色濃く感じます。

【語の読みと注】
浅黄裏 あさぎうら:田舎侍

【RIZAP COOK】

いもりの間違い いもりのまちがい 演目

【RIZAP COOK】

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ほれ薬が話題。ホントに、こんなのがあればねえ。

別題:薬違い

【あらすじ】

呉服商伊勢屋の娘に恋患いした、源治。

伊勢屋は長屋の家主でもある。

ところが、当人は一度もその娘を見たことがない。

夢の中でさらしのふんどしを一本買いに行ったところ、娘が出てきて、
「あの方は家の長屋にいる人だから、おアシを取っちゃいけないよ」
と言いながらこっちを横目で見た時、思わずブルブルっと震えがきた。

(引き続き夢で)それから湯に行って、出て来ると外に娘が立っている。

「おまえさんの家が、どこだかわからなかった」
「さあ、お家に行きましょう」
と言って、一緒に帰ってくると、さっそく娘が
「おかみさんは? お独り身でございますか」
と聞くなり、上がり込み、それから二人で差し向かい、茶を飲んで焼き芋をつまんだところで目が覚めたという、「見ぬ恋に焦れる」といういじらしさ。

見舞いに来た友達が、
「そういうのに一番効き目があるのが、いもりの黒焼きだ」
という。

つまり、惚れた相手の身につけるものに振りまけば、たちまち恋がかなうという惚れ薬。

これを、少しおめでたい六兵衛に買ってこさせ、機会をうかがうと、伊勢屋の物干しに娘の襦袢が干してあったので、これ幸いと屋根伝いに潜入し、襦袢にいもりの粉をたっぷりと振りかけて帰った。

二、三日待ったが、娘からなんの音沙汰もない。

焦れていると、やっと待望の手紙が来た。

無筆なので、友達に代わって読んでもらう。

父親は墓参で留守、母親は耳が遠いから、私から源治さんに直接お話ししたいからちょっと来てほしい、とのこと。

「なんだかわからねえが、定めて薬が効いてきたのだろう」
と、喜んで行ってみると、予想に反して娘は意外に年増。

「まあ、年増も悪くない」
と源治がほくそ笑むと、娘が切り出したのは、なんと家賃の催促。

「あなたは八か月もためているので、あと三日以内に払えなければ店を空けて出て行ってほしい」
という、恐ろしく冷酷な宣言。

それだけ。

がっかりして帰った源治、また病がぶり返し、六兵衛を呼びつけて、
「おめえ、たしかにいもりを買ったのか」
と念を押すと
「あ、しまった。ヤモリ(家守=家主)の黒焼きだった」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

昔も今も同じ、男の願望

原話は安永10年(1781=天明元)刊の笑話本『民和新繁』中の「ほれ薬」です。昔も今も男の考えることは、いっこうに変わらないようです。

上方には別話の「いもりの黒焼き」があり、惚れた女にいもりの粉をかけようとした男が、間違って米俵にかけてしまい、俵が追いかけてくるため「苦しい、苦しい」と言いながら逃げるドタバタ劇。友達が「なにが苦しいねん?」と聞くと「飯米に追われ(生活が苦しい意)てます」というオチになります。

こちらは、桂米朝が復活して演じましたが、民話の「惚れ薬」をそのままいただいたもので、こうした話は全国各地に伝わっているようなのです。本編「いもりの間違い」の方も、おそらく類似の民話が原型なのでしょう。

三代目小さんの速記

三代目柳家小さんの明治29年(1896)の速記では「いもりの間違ひ」と題しています。本サイトでもそれにならっています。

薬違い

「薬違い」の題で演じられる時はオチが少し違っていて、「あっ、しまった。薬違いだ」としていました。「道理で家賃の催促をされた」となる場合もあります。戦後は七代目雷門助六の速記が残っていますが、現在では演じ手はいません。

いもりの黒焼き

原料は伊吹山産のいもりのつがい。交尾中のものを黒焼きにすると媚薬になると伝えられてきましたが、効果の方はかなり怪しいもの。

黒焼きは「霜」とも呼び、漢方薬に「伯州散」という、黒焼きを用いたものがあるほか、猿の脳味噌、蛇、オケラ、孫太郎虫などのゲテモノを黒焼きにして薬用にしました。また、動物だけでなく、草の根を用いたものもあります。

大坂高津宮南側(大阪市南区瓦屋町)の黒焼き屋は、天正年間が創始という老舗で有名でしたが、昭和54年(1979)に廃業。井原西鶴(1642-93)作の「好色五人女」(貞享3=1686年刊)に登場するほか、各種の洒落本などにも見えます。

江戸でも元禄年間(1688-1703)からはやり始め、下谷黒門町(台東区上野1-3丁目)や山下御成街道に「元祖黒焼き」の看板を揚げた店が軒を並べました。

東京にも戦前まで残っていて、桂米朝は「東京・上野の鈴本(演芸場)の近くに、二軒の黒焼き屋が並んでいて、片方が『本家いもりの黒焼き』と看板を上げていて、おかしかったのを、覚えています」と著書の『米朝ばなし 上方落語地図』の中で語っています。

【語の読みと注】
襦袢 じゅばん
店 たな
霜 そう
洒落本 しゃれぼん:遊郭を舞台にした艶本

【RIZAP COOK】

おどしゃ お土砂 ことば

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

真言密教で加持祈祷に使われた、霊力を持った砂です。

『沙石集』(鎌倉期の仏教説話集)に「この土砂を墓所に散し、死骸に散らせば、土砂より光を放ち、霊魂を救て、極楽に送る」とあります。『江戸文学俗信辞典』(石川一郎編、東京堂出版)に「渓流の土砂を洗い清め、護摩加持をして、その砂を硬直した死体の上にまけば、功力によって柔軟となり、諸罪を滅して福報を得しめるもので、土砂の一粒を死者の口中に入れたものであろうが、硬直した屍体はまだ冥福を得られないものとして、やがて身体に振りかけるようになったものであろう」とあって、江戸の歌舞伎や戯作でもよく使われる風習でした。

『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)では、京見物で方広寺の大仏殿の柱の穴くぐりをしようとした弥次郎兵衛が、道中脇差の鍔がつかえて出られなくなり、周りの見物衆が、身体を柔らかくして引っ張り出すのに、お土砂をかけろと言ったりする騒動が持ち上がります。

歌舞伎では、「松竹梅雪曙」という八百屋お七ものの序幕に、たまに「お土砂の場」という滑稽な場面が出ることがあります。この場は、昭和43年(1968)1月歌舞伎座の先代勘三郎以来、しばらく絶えていたのを、昭和61年(1986)1月に、最晩年の先代松緑が復活してから、かなりよく上演されるようになり、平成31年(2019)1月にも市川猿之助が歌舞伎座で演じています。紅屋長兵衛、通称紅長というまぬけな男が、早桶の中に亡者姿で入っているのを見て、釜屋武兵衛がお土砂をかけると、紅長がぐんにゃり。その後、それで「復活」した紅長が、周りの連中全員にお土砂を掛けまくると、一同すべてぐにゃりとなって下手に入るという、他愛もないくすぐりです。

【語の読みと注】
松竹梅雪曙 しょうちくばいゆきのあけぼの
紅長 べんちょう

位牌屋 いはいや 演目

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すさまじいケチんぼうのはなし。ブラック噺の極北です。オチがきいてます。

別題:位牌丁稚

【あらすじ】

ケチでは人後に落ちないだんな。

子どもが生まれ、番頭の久兵衛が祝いに来ても、
「経費がかかるのに何がめでたい」
と小言を言う。

なにしろ、この家では奉公人に魚などくわせたことはなく、三年前に一人、目を悪くしたとき、まじないにメダカを三匹呑ませただけなのだから、とても赤飯に尾頭付きどころの騒ぎではない。

八百屋が摘まみ菜を売りに来ると、八貫五百の値段を、
「八貫を負けて五百で売れ」
と言って怒らせ、帰ると、こぼれた菜を小僧に拾わせて味噌漉しいっぱいにしてしまう。

今朝の、芋屋との会話。

五厘だけ買った。

だんな「小僧を使いにやったが、まだ帰らないから、ちょいと煙草を貸しとくれ」
芋屋「おあがんなさい」
だんな「いい煙草だ。いくらだい? 一銭五厘? 商人がこんな高い煙草のんじゃいけない。家はどこだい?」
芋屋「神田堅大工町です」
だんな「家内多か?」
芋屋「女房とせがれが一人で」
だんな「買い出しはどこでしなさる」
芋屋「多町でします」
だんな「弁当なぞはどうしている?」
芋屋「出先の飯屋で食います」
だんな「そりゃもったいない。梅干しの一つも入れて弁当を持って出なさい。茶とタクアンぐらいはあげるから、ウチの台所でおあがり。いや、うまかった。食うのがもったいないから置き物にしたいぐらいだ。時に、これを一本負けておきな」

この会話をそっくり繰り返す。

三回目に「家はどこだい」と始めたところで、芋屋は悪態をついて帰ってしまう。

嫌がられても五厘で二回負けさせ、たばこをタダで二服。

そのだんな、小僧の定吉に、注文しておいた位牌を取りに仏師屋へやる。

それも裸足で行かせ、
「向こうにいい下駄があったら履いて帰ってこい」
と言いつけるものすごさ。

定吉と仏師屋の親父の会話。

定吉「小僧を使いにやったが、まだ帰らないから、ちょいとたばこを貸しとくれ」
親父「てめえが小僧じゃねえか」
定吉「商人がこんな高いたばこをのんじゃいけねえ。家はどこだい?」
親父「ここじゃねえか」
定吉「家内多か?」

全部まねして、今度は位牌をほめる。

「いい位牌だ。食べるのはもったいないから、置き物にしたいくらいだ。形がいい。時に、これ一本負けときな」
「おい、持ってっちゃいけねえ」

ちゃっかり位牌を懐に入れ、オマケの小さな位牌もぶんどって、一目散に店へ。

「下駄は履いてきたか」
「あ、あわてたから片っぽだけ」
「しょうがねえ。そりゃなんだ」
「位牌です」
「同じオマケなら、なぜ大きいのをぶんどってこない」

だんなが小言を言うと、定吉は
「なーに、生まれた坊ちゃんのになさい」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

吉四六話が原話

後半の、位牌を買いに行くくだりの原話は、文政7年(1824)、江戸で刊行された『新作咄土産』中の「律義者」で、現行とオチまでまったく同じですが、前半のケチ噺は、宇井無愁によると、豊前地方の代表的なとんち民話、吉四六話を二編ほどアレンジしたものということです。

上方落語「位牌丁稚」が東京に移されたものとみられますが、詳細は不明です。昭和以後では、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭小円朝などが、時折「逃げ噺」の一つとして演じました。

位牌屋

仏師屋ともいいます。「仏師」は仏像を彫刻する人、もしくは描く人で、それぞれ木仏師、絵仏師と呼びました。後世、それらが衰退し、江戸時代に入ると、死者の霊を祭る位牌が一般に普及したため、位牌を作って売る者を仏師屋と呼ぶようになったわけです。人間は死ねば仏になるから、位牌も仏像も同じ感覚で扱われたため、この名称が転化したものと考えられます。

ブラック噺

かなりすごいオチで、これゆえにこそ、この噺は凡百のケチ噺と区別され、ブラック落語として異彩を放っているわけです。

世の善男善女の非難をかわすため、この「生まれた坊ちゃんのになさい」という最後っ屁につき、「たんなるあほうな小僧の、無知による勘違い」と言い繕う向きもありますが、どうしてどうして、確信犯です。かなりの悪意と嫉妬と呪詛が渦を巻いていると解釈する方が自然でしょう。それをナマで表してしまえばシャレにならず、さりげなく、袖の下にヨロイをチラチラと見せつけるのが芸の力というものでしょうね。

【語の読みと注】
吉四六 きっちょむ
宇井無愁 ういむしゅう:上方落語研究家
豊前 ぶぜん:大分県

芋俵 いもだわら 演目

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芋食って屁をこいて……。落語にはよくあることです。

別題:芋屁(上方)

【あらすじ】

泥棒三人組。

ある警戒厳重な店へ押し入るため、一計を案じる。

まず、一人が芋俵の中に入り、仲間二人が
「少しの間、店の前に置かせてください」
と頼み込む。

店の方ではいつまでたっても取りにこないから、迷惑して俵を店の中に入れる。

夜が更けてから、中の一人が俵を破って外に出て、心張り棒を外し、待機していたあとの二人を導き入れる。

とまあ、こんなふうにいけばよかったが、いかない。

小僧が俵を中に入れる時、逆さに立ててしまったから、俵の中の泥棒、身動きが取れず四苦八苦。

しかし、声は立てられない。

そのうち小僧と女中が、俵の芋をちょいと失敬して、蒸かして食べよう、どうせ二つや三つならわからないと示し合わせ、小僧が俵に手を突っ込む。

逆さだから、上の方が股ぐらあたり。

そこをまさぐられたから、泥棒、くすぐったくてがまんできなくなり、思わず
「ブッ」
と一発。

小僧、
「おやおや、気の早いお芋だ」

底本:五代目柳家小さん

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【しりたい】

狂言がルーツ

狂言「柑子俵」を基にしたといわれます。笑話としては、明和4年(1767)刊『友達ばなし』中の「赤子」、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「いもや」などが原話として挙げられます。

後者では、だんなと芋売りの会話になっていて、だんなが、芋一升24文を18文に値切っているところへ、隣の男が出てきて、「いくらでお買いですか」と言いながら、屁をプッとひったので、芋売りが「モシ、だんな、商売のじゃまは困ります」と言う、わかったようなわからないような小咄です。

上方落語でも、まったく同じ筋で、題だけがそのものずばり「芋屁」といいます。

芋俵

焼き芋屋、神田多町の市場で川越芋を俵でまとめて買ったものです。焼き芋は、寛政5年(1793)の暮れに、本郷四丁目の番屋で、番太郎が内職がてらに焙烙で焼いたものを売り出したのが起源とか。

小さん系の滑稽噺

代々の柳家小さんに受け継がれた噺で、五代目小さんも得意にしていました。軽く、罪のない、たわいない噺なので、よく高座に掛けられます。戦後のやり手は、五代目柳家小さんと六代目蝶花楼馬楽、五代目古今亭志ん生。小さんと馬楽は四代目柳家小さんから伝えられたわけです。六代目柳亭小燕枝、柳亭小袁治、四代目柳亭市馬などがやります。

タネ本「柑子俵」

大蔵流の集狂言(主人公やテーマで分類しにくい雑多なジャンル)の一つで、そのあらすじは、以下の通りです。

●年の暮れ、山に住む柑子 みかんの原生種)売りが、季節のものであるので、都で売りさばいて安楽に年を越そうと、柑子を俵に詰めて担ぎ、とある里にさしかかった。ところが、ちょうど日が暮れたので、その里の知人に俵を一晩預け、翌朝取りに来ると言って立ち去る。その家の子供が俵を見つけ、中身の柑子を全部食べてしまう。見つかれば叱られるので、始末に困った子供は、一計を案じて鬼の面をかぶり、柑子の代わりに俵の中に入って一夜を過ごす。さて、夜が明け、柑子売りが戻ってきて、主人に礼を言い、荷を受け取って出発するが、どうも昨日より重い。不審に思って俵を下ろし、中をのぞいたとたん、恐ろしい面をかぶった子供が飛び出し、「さあ、取って食うぞ」と脅したので、柑子売りは肝をつぶし、悲鳴をあげて舞台袖に逃げ出す。「やるまいぞ、やるまいぞ……」で幕。

いつごろから、柑子が芋にすり替わったのかは、よくわかりません。

【語の読みと注】
柑子俵 こうじだわら
神田多町 かんだたちょう

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市助酒 いちすけざけ 演目

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寒い夜は熱燗をぐうーっと、てなかんじの噺ですね。

【あらすじ】

親父の跡を継ぎ、町内の番小屋で火の番兼走り使いをしている市助という男。

まじめな男だが、酒好きなのが玉に瑕。

ある夜も酔っぱらって火の用心とでかい声を張り上げ、夜回りに歩いていると、質屋の伊勢屋の店から灯が漏れているので、戸をドンドンたたき
「火の用心、ええ火の用心、火の用心」
と、しつこく叫んで、番頭の藤兵衛に追い払われる。

だんなはこれを聞くと、
「飲んべえでも、ちゃんと役目を果たしているのだし、本来なら町内の各表店で火の番に人を出さなければならないお定めなのを、市助を雇ってやらせている、寒い夜の見回りで、酒でものまなければわずらってしまう稼業なのだから、もっとねぎらってやらなければいけない」
と諭す。

藤兵衛は反省して、
「明日の晩市助が来たら酒をおごってやろう」
と待っていたが、どういうわけかなかなか現れない。

市助の方でも、伊勢屋をしくじったと思ったから、なるべく店の前を避けて回っていたが、とうとう見つかった。

藤兵衛はさっそく店に呼び入れて、恐縮するのを無理にのませると、酒が回ってだんだん気が大きくなった市助、
「番頭さんは実に親切でいい方だ。お店の台所まで指図して火の用心を心掛けなさるし、犬にまで情け深く、煙管も銀のいいのをお使いだ」
とおべんちゃらを並べたあげく、
「もう一杯、もう一杯」
とねだって、かれこれ五合。

すっかりいい機嫌で帰る。

番小屋に戻るとそのまま寝てしまったが、見回りの時刻だと若い衆にたたき起こされ、寝ぼけ眼で酔いも醒めないまま、また回り始めた。

藤兵衛が見つけて、
「あの後またどこかで飲りやがったのだろう、また戸をたたかれて、小言の種をまかないうち、こっちからあいさつしてやろう」

「市助さん、あー、ご苦労。あたしのとこはしっかり気をつけてるよ」
「なあに、お宅は焼けたって、ようございます」

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【しりたい】

原話

原話は元禄14年(1701)刊の上方笑話本『百登瓢箪』中の「番太郎」、安永2年(1773)刊の『再成餅(ふたたびもち)』」中の「火の用心」。

原話二話のうち、後者はごく短いもので、番太郎が裏長屋を火の番で回っているとき、ある家から呼びいれられる筋で、オチも同じですが、ごちそうになるのは、貧乏長屋らしく、ねぎ雑炊二杯と、ごくわびしいものです。

上方落語の大ネタ「下役酒」として発展した噺を、三代目柳家小さんが東京に移植したものです。

番小屋

隣町との境の四つ辻に町木戸があり、その開閉と不審者の通報、火事の際の半鐘打ちなどに任じる木戸番(番太郎)の住む木戸番屋、町費で雇う書役(町役)の詰める自身番屋がありました。

前者は普通荒物屋や駄菓子屋を営み、後者には、地借りで表通りに店を出す商人が順番に宿直(店番)しましたが、主人の代理で番頭や手代などが詰めることが多かったとか。

火の用心の見回りは、本来は店番の仕事ですが、この噺ではこれを非公式にあぶれ者の市助を雇い、「小使」としてやらせているわけです。

火の番は「二番煎じ」にも登場しますが、木戸が閉まる四ツ過ぎ(午後10時頃)から明け六ツ(午前5時頃)まで、一晩中、特にこの噺の伊勢屋のような大店には一軒一軒回って「火の用心さっしゃりましょう」と呼びかけます。

噺の発端では、伊勢屋から深夜になっても明かりが漏れているので、市助が不用心だと気を回したわけです。

その他、半鐘が鳴った場合は、火の番は太鼓を叩いて火元の方角を触れてまわる義務がありました。

やはり「本家」は大阪

現在、東京ではあまり演じられません。上方では比較的ポピュラーで、自身酒のみで、「一人酒盛り」など酒の噺を得意としていた六代目笑福亭松鶴(1986年没)が得意としていました。

オチは、東京のものは、前に番頭に怒鳴られたので気を遣うあまり、おべんちゃらで「お宅は言わなくてもちゃんとしておられますから」というところを言葉の上で失敗したとされますが、やや唐突過ぎてシャレになりません。

上方の方は「滅相な、ご当家ではどうでも大事ございません」とオチていて、こちらの方がまだ自然ですが、その分平凡になります。「大事ございません」だけならまともで、「どうでも」をつけたからあらぬ意味にとられるというわけで、こうした言葉の機微を感じとれなければ、かえって何のことか分からなくなるでしょうね。

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おりかみ 折り紙 ことば

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「折り紙付き」という表現で、今も生き残っている言葉です。

「折り紙」は念のため、千羽鶴のことではなく、江戸時代で主に刀剣の保証書、鑑定書をこう呼びました。歌舞伎の古風なお家騒動もので、盗まれたお家の重宝のナントカ丸という刀の詮議をする筋がよくありますが、そういう時「折り紙」は付き物です。銘の鑑定書ですから、それがなければ真贋が 分からないからです。これが転じて、「折り紙付き」は定評がある意味に用いられました。

ただし、これは悪い意味にも使われ、「折り紙付きの大悪人」などとも。この類語としては江戸では「金箔付きの」とも使われました。

つくばい 蹲 ことば

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原義は犬猫が前足を地面に突いてしゃがむ意味のようで、だから「突く+這う」というわけです。

「犬つくばい」という複合語も古くはありました。

今はカットされることが多いですが、『仮名手本忠臣蔵』二段目「建長寺の場」で、高師直(=吉良上野介)にはずかしめを受けた桃井若狭助が、明日は殿中で師直を討ち果たすと息巻くので、お家には変えられないと、師直にこっそり賄賂を届ける決心をした家老、加古川本蔵。主人に「もし相手が、犬つくばいになってわびたら斬るのを思いとどまるか」とカマをかけます。今で言う土下座で、絶対権力者である師直がそんな恥知らずなマネをするはずもないのですが、実際は次の三段目「喧嘩場」前半で、本蔵の賄賂が功を奏して師直が、なんと本当に犬つくばいになってご機嫌取りをしたので、若狭助が呆れて斬るのを思いとどまるという場があります。この語は派生語も多く、動詞で「つくなむ」、「つくばる」とも。転じて庭の手水鉢のある場所、また手水鉢そのものを「蹲(つくばい)」と呼びました。

古い江戸語で「因果のつくばい」という慣用句がありましたが、これは「運の尽き」を意味する強調表現で、「突く=尽く」という、単なるダジャレ。しかし、いかに円生、彦六といえど、いくらなんでもこんな古い言葉は知らなかったでしょうね。