二階の間男

にかいのまおとこ 落語あらすじ事典 千字寄席

バレ噺。女房が亭主を尻目に自宅であいびき。二階付き長屋での噺です。

別題:お茶漬け 二階借り 茶漬け間男(上方)

【あらすじ】

ある夫婦、茶飲み話に亭主の友達の噂話をしている。

「畳屋の芳さんは粋でいい男だなァ」
「あらまァ、私もそう思っているんですよ。男っぷりもよし、読み書きもできるし、子供好きでつきあいもいいし」
「おらァ、男ながら惚れたョ」
「あたしも惚れましたよ」

ところが、間違いはどこに転がっているかわからないもので、この女房、本当に芳さんに惚れてしまった。

こうなると、もう深みにはまって、はらはらどきどき密会を重なるうち、男の方はもうただでは刺激がないとばかり、一計を案じて、亭主のいる所で堂々と間男してやろうと、ある日、ずうずうしくも乗り込んでくる。

「実はさる亭主持ちの女と密通しているので、お宅の二階を密会の場所にお借り申したい」
というのである。

まぬけな亭主、わがことともつゆ知らず、
「そいつはおもしろい」
というわけで、言われるままに当の女房を湯に入ってこいと追い出し、ごていねいにも
「いろ(相手の女)は明るい所は体裁が悪いと言っているから、外でエヘンとせき払いをしたらフッと明かりを消してください」
という頼みも二つ返事。

こうもうまくいくと、かえって女房の方が心配になり、表で姦夫姦婦の立ち話。

「あたしゃいやだよ。そんなばかなことができるもんかね」
「まかしとけ。しあげをごろうじろだ」
「明かりをつけやしないかしら」

亭主は能天気にパクパクと煙草をふかした後、かねての合図でパッと灯火を消すと、あやめも分かたぬ真っ暗闇。

「どこの女房だかしらないが、ズンズンおはいんなさいよ」

うまくいったとほくそ笑んだ二人。

女房は勝手を知ったる家の中。

寝取られ亭主になったとも知らず
「この闇の中で、よくまァぶつからねえで、さっさと上がれるもんだ」
と、妙に感心しているだんなを尻目に、二階でさっさとコトを始めてしまった。

亭主、思わず上を眺めて
「町内で知らぬは亭主ばかりなり。ああ、そのまぬけ野郎のつらが見てえもんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【うんちく】

二階付き長屋

「三軒長屋」にも登場しました。二階付き長屋は数が少なく、おもに鳶頭のように、大勢が出入りする稼業の者が借りました。八代目林家正蔵(彦六)が、終生、稲荷町の二階付き長屋に住んでいたことはよく知られています。

円生の逸品

原話は、天保13(1842)年刊の『奇談新編』中の漢文体笑話です。明治23年(1890)5月、「百花園」に掲載された初代(鼻の)三遊亭円遊の速記が残っています。

「紙入れ」「風呂敷」と同じく、間男噺ですが、その過激度では群を抜いていて、現在、継承者がいないのが惜しまれます。

この噺は演者によって題が異なります。桂米朝は「茶漬け間男」で、六代目三遊亭円生は「二階の間男」で、五代目春風亭柳昇は「お茶漬け」で、それぞれやっていました。ここでの「茶漬け」は亭主が茶漬けを食っている間にコトを済ます、というすじだからです。ここでは六代目三遊亭円生の速記を使いました。あの謹厳実直を絵に描いたようなイメージの、昭和の名人の、です。

寝取られ男

この言葉に対応するフランス語は「コキュ(cocue)」が有名です。cocuはカッコウから来ている言葉のようで、「かっこうの雌は他の鳥の巣で卵を産むことから」のようです。そういえば、大学時代にこんなことをしていた女性がいましたっけ。ちゃっかりしてました。フランスでは伝統的にコキュを描いた文学や演劇などが多くあります。他人のセックスを覗いて笑うネタにするのは世界共通ですが、フランスはもう少し高度な文化のようでして、他人の持ち物で楽しむ人を覗いて笑う趣味がある、ということでしょうか。古木優。

六尺棒

ろくしゃくぼう 落語あらすじ事典 千字寄席

ほとんど二人、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話噺」です。

【あらすじ】

道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。

店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。

番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。

「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……あなたのせがれの孝太郎で」

さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。

「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊び火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたとどうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」

明日っからもう家にいますと謝ろうが、跡取りを勘当しちまって、家はどうなると脅そうが、いっこうに効き目なし。

自殺すると最後の奥の手を出しても……。

「止めんなら今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていたとお伝えを願います」

孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。

「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって、『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」

親父が小言にかかると、孝太郎、養子をとってまで、どうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまうと脅迫。

言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまから様子をうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。

六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」

幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げ出し、抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。

いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。

そこへおやじが腰をさすりながら戻ってくる。

「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。お前のおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」

立場が完全に逆転。

「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと、『一杯のんだらどうだ?小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」
「なにを言やがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

初代遊三の十八番

文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。

明治末期には 初代三遊亭遊三が得意にしていました。 御家人上がりで、もとは彰義隊士という変わり種の落語家でした。

この遊三、ヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、飲む打つ買うの「三道楽煩悩」だけが一人前。

お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと脱走。

維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。カラスをサギと、有罪をむりやり無罪にしてあっさりクビに。これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。

女優、十朱幸代の曽祖父にあたります。つまり、十朱久雄の祖父ということですね。なんとなく納得。

志ん生へ

この遊三師匠、五代目志ん生の父親の美濃部戌行、明治の爆笑王金ちゃんこと初代三遊亭円遊と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達。

その関係でか、せがれの志ん生をかわいがり、志ん生は、のちに十八番にした、「火焔太鼓」「疝気の虫」なども遊三から習っています。この「六尺棒」もその一つです。

遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、せがれになめられっ放しということがよくわかります。本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。

志ん生の方は、遊三のくすぐりなどは十分残しながら親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。

なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝を願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。

十代のころ、もと警官のおやじの金キセルを勝手に質入れして槍を持って追いかけられ、そのまま家に帰らなかったというほろ苦い思い出が、志ん生のこの噺に生きているのでしょう。

六尺棒

樫材などで作る、泥棒退治用のこん棒ですが、志ん生の父親は維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。

高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同じ年(大正3年)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたかもしれません。

対話噺

落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。

今回の「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとり、ダイアローグだけで展開する「対話噺」とでもいえるものです。それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙がこれほどはっきりわかる噺はないかもしれません。

この種のものは落語にはそう多くありません。

隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はその典型。「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども同じように登場人物二人ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。