後生鰻 ごしょううなぎ 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

小動物を放すと功徳が。本末転倒のばかばかしさ。最高絶妙の傑作です。

別題:放生会 淀川(上方)

【RIZAP COOK】

【あらすじ】

さる大家の主人、すでにせがれに家督を譲って隠居の身だが、これが大変な信心家で、殺生が大嫌い。

夏場に蚊が刺していても、つぶさずに、必死にかゆいのをがまんしているほど。

ある日、浅草の観音さまへお参りに行った帰りがけ、天王橋のたもとに来かかると、ちょうどそこの鰻屋のおやじが蒲焼きをこしらえようと、ぬるりぬるりと逃げる鰻と格闘中。

隠居、さっそく義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。

「あたしの目の黒いうちは、一匹の鰻も殺させない」
「それじゃあ、ウチがつぶれちまう」
と、すったもんだの末、二円で買い取って、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

翌日、また同じ鰻屋で、同じように二円。

ボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

その翌日はスッポンで、今度は八円とふっかけられたが、
「生き物の命はおアシには換えられない、買いましょう」
「ようがす」
というわけで、またボチャーン。

これが毎日で、喜んだのは鰻屋。

なにしろ隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、たちまち左うちわ。

仲間もうらやんで、
「おい、おめえ、いい隠居つかめえたな。どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」
などという連中も出る始末。

ところがそのうち、当の隠居がぱったりと来なくなった。

少しふっかけ過ぎて、ほかの鰻屋にまわったんじゃないかと、女房と心配しているところへ、久しぶりに向こうから「福の神」。

「ちょっとやせたんじゃないかい」
「患ってたんだよ。ああいうのは、いつくたばちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくっとこう」

ところが、毎日毎日隠居を当てにしていたもんだから、商売は開店休業。

肝心の鰻もスッポンも、一匹も仕入れていない。

「生きてるもんじゃなきゃ、しょうがねえ。あの金魚……ネズミ……しょうがねえな、もう来ちゃうよ。うん、じゃ、赤ん坊」

生きているものならいいだろうと、先日生まれたわが子を裸にして、割き台の上に乗っけた。

驚いたのは隠居。

「おいおい、その赤ちゃん、どうすんだ」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「ばか野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」

隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

後生

ごしょう。昔はよく「後生が悪い」とか「後生がいい」とかいう言い方をしました。後生とは仏教の輪廻転生説でいう、来世のこと。

現世で生き物の命を助けて功徳(よい行い=善行)を積めば、生まれ変わった来世は安楽に暮らせると、この隠居は考えたわけです。

五代将軍、徳川綱吉の「生類憐みの令」も、この思想が権力者により、ゆがんだ、極端な形で庶民に強制された結果の悲劇です。なにごとも、ほどほどがよろしいようで。

江戸市中に鰻の蒲焼が大流行したのは、天明元年(1781)の初夏でした。てんぷらも、同じ年にブームになっています。

それまでは、鰻は丸焼きにして、たまり醤油などをつけて食べられていたものの、脂が強いので、馬方など、エネルギーが要る商売の人間以外は食べなかったとは、よく言い習わされている説ですね。

それまでも、眼病治療には効果があるので、ヤツメウナギの代わりとして、薬食いのように食べられることは多かったようです。

屈指のブラック名品

オチが効いています。こともあろうに、落語にモラルを求める野暮で愚かしい輩は、ごらんの結末ゆえに、この噺を排撃しようとしますが、料簡違いもはなはだしく、このブラックなオチにこそ、えせヒューマニズムをはるかに超えた、人間の愚かしさへの率直な認識が見られます。「一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような名編の一つでしょう。

志ん生、金馬のやり方

上方落語の「淀川」を東京に移したもので、明治期では、四代目橘家円喬の速記が残っています。

戦後では、五代目古今亭志ん生、三代目三遊亭金馬、三代目三遊亭小円朝がそれぞれの個性で得意にしました。志ん生、金馬は、信心家でケチな隠居が、亀を買って放してやろうとし、一番安い亀を選んだので、残った亀が怒って、「とり殺してやるっ」という小ばなしをマクラにしていました。

小円朝は、ふつう隠居が「いい功徳をした」と言うところを、「ああ、いい後生をした」とし、あとに「凝っては思案にあたわず」と付け加えるなど、細かい工夫、配慮をしていました。

この噺は、別題を「放生会(ほうじょうえ)」といいますが、これは旧暦八月十五日に生き物を放してやると功徳を得られるという、仏教行事にちなんだものです。

【RIZAP COOK】

佐々木政談 ささきせいだん 演目

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南町奉行がさかしいガキを検分。その頓智の妙。期待される人間像ですかね。

別題:池田大助 佐々木裁き(上方)

【あらすじ】

嘉永年間のこと。

名奉行で知られた南町奉行・佐々木信濃守が、非番なので下々のようすを見ようと、田舎侍に身をやつして市中見回りをしていると、新橋の竹川町で子供らがお白州ごっこをして遊んでいる。

おもしろいので見ていると、十二、三の子供が荒縄で縛られ、大勢手習い帰りの子が見物する中、さっそうと奉行役が登場。

これも年は同じぐらいで、こともあろうに佐々木信濃守と名乗る。

色は真っ黒けで髪ぼうぼう、水っぱなをすすりながらのお裁き。

なんでも、勝ちゃんというのが
「一から十まで、つがそろっているか」
ともう一人に聞き、答えられないので殴った、という。

贋信濃守はすまして、
「さような些細なことをもって、上に手数をわずらわすは不届きである」

セリフも堂にいったもので、二人を解き放つ。

つのことを改めて聞かれると、
「一から十まで、つはみなそろっておる」
「だって、十つとは申しません」
「だまれ。奉行の申すことにいつわりはない。中で一つ、つを盗んでいる者がある。いつつのつを取って十に付けると、みなそろう」

その頓智に、本物はいたく舌を巻き、その子を親、町役人同道の上、奉行所に出頭させるよう、供の与力に申しつける。

さて、子供は桶屋の綱五郎のせがれ、当年十三歳になる四郎吉。

奉行ごっこばかりしていてこのごろ帰りが遅いので、おやじがしかっていると、突然奉行所から呼び出しが来たから、
「それみろ、とんでもねえ遊びをするから、とうとうお上のおとがめだ」
と、おやじも町役一同も真っ青。

その上、奉行ごっこの最中に、お忍びの本物のお奉行さまを、子供らが竹の棒で追い払ったらしいと聞いて、一同生きた心地もしないまま、お白州に出る。

ところが、出てきたお奉行さま、至って上機嫌で、四郎吉に向かい、
「奉行のこれから尋ねること、答えることができるか。どうじゃ」

四郎吉、
「こんな砂利の上では位負けがして答えられないから、そこに並んで座れば、なんでも答える」
と言って、遠慮なくピョコピョコと上に上がってしまったので、おやじは気でも違ったかとぶるぶる震えているばかり。

奉行、少しもかまわず、
「まず星の数を言ってみろ」
と尋ねると、四郎吉少しもあわてず、
「それではお奉行さま、お白州の砂利の数は?」

これでまず一本。

父と母のいずれが好きかと聞かれると、出された饅頭を二つに割り、どっちがうまいと思うかと、聞き返す。

饅頭が三宝に乗っているので、
「四角の形をなしたるものに、三宝とはいかに」
「ここらの侍は一人でも与力といいます」
「では、与力の身分を存じておるか?」
「へへ、この通り」

懐から出したのが玩具の達磨(だるま)で、起き上がり小法師。

錘が付いているので、ぴょこっと立つところから、身分は軽いのに、お上のご威勢を傘に着て、ぴんしゃんぴんしゃんしているというわけ。

「ではその心は」
と問うと、天保銭を借りて達磨に結び付け
「銭のある方へ転ぶ」

最後に、
「衝立に描かれた仙人の絵がなにを話しているか聞いてこい」
と言われて
「へい、佐々木信濃守はばかだと言ってます。絵に描いてあるものがものを言うはずがないって」

ばかと子供に面と向かって言われ、腹を立てかけた信濃守、これには大笑い。

四郎吉が十五になると近習に取り立てたという「佐々木政談」の一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

江戸町奉行

江戸町奉行は、三千石以上の旗本から抜擢され、老中・若年寄・寺社奉行に次ぐ要職でした。

天保年間までは大坂町奉行、奈良奉行などを経て就任した経験豊かな者も多く、在職期間も「大岡裁き」で有名な大岡越前守の二十年間(1717-36)を筆頭に、十年以上勤めた人も珍しくありませんでしたが、幕末になって人材が払底し、文久3年(1863)から翌元治元年にかけ、一年間で8人も交代するありさまとなりました。

佐々木信濃守

佐々木信濃守顕発は、嘉永5年(1852)から安政4年(1857)まで大坂東町奉行を勤め、江戸に戻って文久3年(1863)、北町奉行に就任。数か月で退いた後、再び年内に南町奉行として返り咲き、翌年退職しました。

オチがある上方演出

民話の「児(ちご)裁判」の筋を借りて、幕末に大坂の三代目笑福亭松鶴が創作したものです。

そのオチは

「あんたが佐々木さんでお父さんが綱五郎、あたくしが四郎吉、これで佐々木四郎高綱」
「それは余の先祖じゃ。そちも源氏か」
「いいえ、平気(=平家)でおます」

わけのわからないダジャレオチとなりますが、子供が出世したかどうかについてはふつう触れられずに終わります。

東京では円生十八番

大阪で長く活躍し、八代目文楽の芸の師でもある三代目三遊亭円馬(橋本の円馬、1882-1945)が、おそらく大正初期に東京に紹介・移植しました。

円馬は、史実通り、佐々木を江戸南町奉行として演じました。円馬の演出を踏襲した六代目三遊亭円生が十八番とし、今回のあらすじも円生のものを底本にしましたが、時代が嘉永年間というのは誤りで、「落語のウソ」です。

後輩の円生から移してもらい、これも得意にしていた三代目三遊亭金馬は「池田大助」の題で演じ、四郎吉が後に大岡越前守の懐刀・池田大助となるという設定でした。これだと当然、時代は百五十年近く遡ることになります。

この噺は子供の描写が命で、へたくそが演じるとまるで与太郎と区別がつかなくなるため、やはり相当の年季と修練が必要な大真打の噺でしょうね。

竹川町

東京都中央区銀座七丁目、ちょうど中央通りをはさんでガスホールやヤマハビルの真向かいになります。地名は、その昔、このあたりが竹林だったことに由来します。

真田小僧 さなだこぞう 演目

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悪ガキの話題を。このがき、こすからくこざかしげなやつです。

別題:六文銭

【あらすじ】

ああ言えばこう言うで、親をへこましてばかりの子供。

今日もおとっつぁんに小遣いをせびり、ダメだと言われると、隣の吉兵衛さんがおとっつぁんの留守に家に上がり込んで、おっかさんと差し向かいで……と気を持たせる話をするので、おやじはついつい気になり、話がとぎれる度に、もう一銭、もう一銭と情報量を追加で取られた上、オチは
「おならをしました」。

子供が逃げていってしまうと、夫婦で、
「末恐ろしいガキだ、今に盗賊になるかもしれない」
と嘆くこと、しきり。

「それに引き換え、あの真田幸村公は、栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳し、十四歳の時、父真幸に付いて、天目山の戦いに初陣、多勢に取り囲まれて真幸が切腹の覚悟をした時、せがれの幸村が、自分に策がありますと申し出て、敵の松田尾張守の旗印である永楽通宝の六文銭の旗を立てて、敵陣に夜襲をかけ、混乱させて同士討ちを誘い、見事に勝利を納めた。それ以来、真田の定紋は二ツ雁から六文銭になった」
という故事をおやじがおふくろに話し、
「あんな奴は幸村どころか、よくいって石川五右衛門だ」
と言っているところへ若さまがご帰城。

いつの間にか盗み聞きしていて、
「おとっつぁん、六文銭ってどんな紋?」
「うるせえガキだ。いいか、こういうふうに二列に並んでいるんだ」
「あたいにもちょっと貸して」

銭を数えるふりをして
「わーい、もーらった、もらった」
とかすめ取って逃げていく。

「あっ、また親をだましぁあがった。やい、それを持ってどこへ行くんだ」
「今度は焼きイモを買ってくるんだ」
「うーん、ウチの真田も薩摩へ落ちたか」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

巨匠が愛した悪童ばなし

上方落語の「六文銭」を、おそらく三代目柳家小さんが東京に移したもので、筋や演出は、東西ともほぼ同じです。

作中の大坂夏の陣の逸話は、大坂で人気のあった講釈演目の「難波戦記」から。当然この噺も、それにこじつけられてつくられたと思われます。

前座噺に近い扱いですが、それでも明治期では三代目小さん、その門下の初代小せん、戦後では六代目円生、三代目金馬、五代目志ん生ほか、意外に超大物が好んで手掛けています。

シャレにならない仕方噺

この噺では、子供のこすからさが相当なものなので、昔は眉をひそめる識者もいたとか。それでも、一心に自分に尽くしてくれる継母をいびりにいびり抜く「双蝶々」の長吉などに比べれば、かわいいものです。

前半の、隣のおやじに、母親の不倫をにおわせる仕方噺(シャレになりません!)で気をもたせ、金をせびり取るくだりは、「アンマさんでした!」と逃げるやり方もあります。

焼きイモ事始

江戸市中に初めて焼芋屋が現れたのは寛政12年(1800)のことで、神田弁慶橋東の甚兵衛橋際で、初めて売り出されました。

甘藷(かんしょ=サツマイモの原種)が小石川農園で試験的に植えられたのは、その65年前の享保20(1735)年3月。江戸では、まず間食用として蒸しイモで売られました。

ウチの真田も

オチの「ウチの真田も薩摩へ落ちたか」は、豊臣秀頼が大坂城で自害せず、真田幸村ともども薩摩に落ちのびたという伝説を採り入れたものです。ただし、講釈の「難波戦記」では、史実通り、秀頼はじめ大坂方はすべて戦死します。

雛鍔 ひなつば 演目

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金を知らない子供と小遣いせがむ悪がき。大人の上いく知恵の巡り小気味よく。

別題:お太刀の鍔(上方)

【あらすじ】

ある植木屋が、大きな武家屋敷で仕事中、昼休みに一服やっていると、若さまがチョロチョロ庭に出てきた。

泉水の傍に落ちていた穴あきの四文銭を拾って、お付きの三太夫に
「これはなにか」
と尋ねる。

「いっこうにに存じません」
「丸くって四角な穴が空いているが、文字の形があるから、古いお雛(ひな)さまの刀の鍔(つば)ではないか」
「いやしいものでございます。お取り捨て遊ばしますよう」
「さようか」

若さま、ポーンと投げ出して行ってしまった。

これを見ていた植木屋、驚いて聞いてみると、若さまは今年お八歳になられるが、高貴なお方には汚らわしい銭のことは教えないという。

ウチの河童野郎が同じお八歳でも、始終「銭をくれ」「おアシをくれ」とまとわりつくのとはえらい違いだと、つくづく感心した植木屋、これまでは、銭をやらないとかえって卑しい料簡になって、悪いことでもしないかと心配で、ついせがまれるままに与えていたが、これは考えなくちゃならねえ、と思いながら家に帰った。

女房にこれこれと話をし、
「氏より育ちと、横丁の隠居が言うが、てめえの育て方が悪いから餓鬼はだんだん悪くなる」
と愚痴をこぼす。

それをちゃっかり後ろで聞いていた悪ガキ、待ってましたとばかり
「遊びに行くから銭おくれよ」

「ためにならねえから銭はやらねえ」
と言うと
「くれなきゃ、糠味噌ん中に小便するぞ」
と親を脅す。

しかると
「やーい、よそィ行っていばれねえもんだから、子供をつかまえていばってやがら。大家さんが来ると震えているくせに」
と手がつけられない。

そこへ、お店の番頭が遅れている仕事の催促にやってきた。

茶を出して言い訳していると、外へ逃げていった河童野郎がいつの間にか戻ってきて
「こんなもーのひーろった」
とうるさい。

穴空き銭を振りかざして、
「なんだろうな、おとっつぁん、真ん中に四角い穴が空いていて、字が書いてある。あたい、お雛さまの刀の鍔だろうと思うけど」

これを聞いた番頭、
「店の坊ちゃんでも銭を使うことはご存じだが、おまえさんのとこの子は、銭をしらないのかい」
と感心。

「女房が屋敷奉公していたので、ためにならない銭は持たさない」
と苦し紛れにうそをつくと
「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳し、末頼もしい子を持って幸せだ。いくつだい」
「へえ、本年お八歳に相なります」
「お八歳はよかった。坊や、おじさんが銭……といっても知らないか。うん。銭はためにならない。おじさんが好きなものを買ってあげよう。なにがいい」
「どうもありがとう存じます。やい、喜べ。あれ、拾った銭をまだ持ってやがる。きたねえから捨てちまえ」
「やだい。これで芋を買うんだ」

底本:三代目柳家小さん

【しりたい】

江戸人の金銭蔑視

多いときには人口の七割が武士だったという江戸の町人は、「武士は喰わねど高楊枝」という、朱子学をバックボーンにした武家の金銭を卑しむ思想に大きな影響を受けていました。

もっとも、落語では、寝言にまで「金をくれ」と言う「夢金」の船頭・熊五郎や、小粒銀をアンコロ餅に包んで食べ、悶死する「黄金餅」の西念のような、江戸っ子の風上にもおけない、強欲な守銭奴も例外的に登場しますが、だいたいにおいて、やせがまんの清貧思想がこの町では支配的だったわけです。

そういう意味でこの噺には、誇張・デフォルメされた形でも、「強欲よりも無知のほうがずっといい」という江戸っ子の信念(?)が、よくあらわれていると思います。

そういえば、 往年のディズニー映画『黄色い老犬』で、開拓者一家の少年が、「お金ってなーに」とマジメな顔で聞くシーンがありました。アメリカ人にも昔は、こういうカマトトを喜ぶ「江戸っ子」がいたのですかね。

原話

この「雛鍔」の原話と思われる小ばなしは二つあり、古い方が享保18年(1733)刊『軽口独機嫌』中の「全盛の太夫さま」、次に安永2年(1773)刊『飛談語』中の「小粒」です。

前者は、全盛の吉原の太夫が、百文のつなぎ銭(穴あき一文銭を百枚、麻縄に通したもの)を蛇と思い込んで驚き、梯子から落ちたのをまねして失敗する話、後者もやはり女郎が、銭を知らない振りをする筋立てで、本当の無知と、無垢を装うしたたかさという違いはあっても、どちらも遊女が主人公です。

それが落語化される過程で、いつ子供にすり替わったかは不明です。

四文銭

明和5年(1768)以降鋳造されたもので、青銭ともいいました。

ウチの河童野郎

当時の子供の髪型から、男の子のことを乱暴に呼んだ言葉です。もともとは小僧(丁稚)の髪型で、頭頂部を剃って小さくまげを結ったものを河童と呼びました。

ちなみに、「山の神が河童野郎をひり出した」とは、むろん「かみさんが男のガキを産んだ」の意味です。

悪ガキが登場する噺

このほかに「真田小僧」「初天神」「佐々木政談」、上方落語で、初代桂春団治のレコードが残る「鋳かけや」、六代目三遊亭円生がしっとりと演じた長編人情噺「双蝶々」、八代目林家正蔵が昭和40年度の芸術祭奨励賞を受賞した、平岩弓枝作の「笠と赤い風車」などがあります。

これらのうち、前四席は(「雛鍔」を含めて)いささか度の過ぎたいたずらやマセぶりが目立つものの、どれも落語流にデフォルメされた子供像です。

対照的に後の二席は、どちらも、片親の孤独とひがみから継母の愛情を曲解し、非行の泥沼にはまっていく少年像が近代的でリアルです。ひたすら哀れで空しく救いのない、江戸版「大人は分ってくれない」といえるでしょう。

上方の「お太刀の鍔」

金を知らない子供が、大富豪・鴻池の「ぼんち」という設定で、噺の筋は東京そのままです。

考えてみれば、商都・大阪で金銭を卑しむというのは完全に自己否定ですし、まして商人の跡取りが、いくら子供でも金を知らないという発想はそもそもおかしいわけです。

まあ、江戸とは対極の金銭万能思想への一種の自虐として、大阪人がこういう噺をおもしろがるということはあるかもしれませんね。

上方から東京へ移された噺は山ほどありますが、おそらくこの噺は数少ない逆ルートでしょう。

三井の大黒 みついのだいこく 演目

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名人噺。能たる鷹は爪を隠す。甚五郎はときおり爪をさらします。

別題:左小刀 出世大黒 左甚五郎

【あらすじ】

名人の噺。飛騨の名工・左甚五郎の。

伏見に滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼される。

手付に三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきた。

関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染(あいぞめ)川に架かる橋に来かかると、板囲いの普請場で、数人の大工が仕事をしている。

のぞいてみると、あまり仕事がまずいので
「手切り釘こぼし……皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」

これを聞きつけて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたき。

棟梁の政五郎が止めに入り、上方の番匠(ばんじょう=大工)と聞くと、同業を悪く言ったおまえさんもよくないと、たしなめる。

まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、甚五郎、その日から日本橋橘町の政五郎宅に居候。

とにかく口が悪いので、政五郎夫婦は面食らうが、当人は平気な顔。名前を聞かれ、まさか、日本一の名人でございとは名乗れないから、箱根山に名前を置き忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぬうぼう」とあだ名で呼ばれることになった。

翌朝、甚五郎はさっそく、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、
「名前を忘れるようなあんにゃもんにゃには下見板を削らしておけ」
ということになった。

これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、むっとしたが、棟梁への義理から腹に納め、削り板に板を乗せると、粗鉋(あらしこ)で二枚削り。

これを合わせて水に浸け、はがして、またぴたりと合わせると、さっさと帰ってしまう。

後でその板をみると、二枚が吸いつくように離れない。

話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、「離れないのは板にムラがないからで、これは相当な名人に違いない」と悟る。

その年の暮れ。

政五郎は居候を呼んで、
「江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんの仕事には苦情がくると、打ち明け、上方に帰る前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないか」
と勧めるので、甚五郎、ぽんと手を打ち
「やらしてもらいたい」

それから細工場に二階を借り、備州檜のいいのを選ぶと、さっそくこもって仕事にかかる。

何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎がのぞくと、二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。

隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。

取ると、二尺はある大きな大黒。

これが、陽に当たってぱっちり目を開けた。

そのとき、下から呼ぶ声。

出てみると、駿河町の三井の使い。

手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。

政五郎、やっと腑に落ち、
「なるほど、大智は愚者に似るというが」
と感心しているところへ、当人が帰ってくる。

甚五郎、代金の百両から、お礼にと、政五郎に五十両渡した。

「恵比寿さまになにか歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」

そこで、さらさらと「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

左甚五郎

甚五郎(1594-1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。異名を左小刀(さしょうとう)といい、京都の御所大工でしたが、元和6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。

落語や講談では「飛騨の甚五郎」が通り相場で、姓の「左」は「飛騨」が正しいとする説もありますが、実際は播磨国・明石の出身ともいい、詳しい出自ははっきりしません。

落語では「竹の水仙」「ねずみ」に登場するほか、娘が甚五郎作の張形(女性用の淫具)を使ったため「処女懐胎」してしまうバレ噺「甚五郎作」があります。

要するに、江戸時代には、国宝級の名作はすべて「甚五郎作」にされてしまうぐらい、左甚五郎は「名人の代名詞」だったわけです。

三木助最後の高座

講談から落語化されたもので、戦後では六代目三遊亭円生と三代目桂三木助が、ともに十八番としました。

とりわけ三木助は、同じ甚五郎伝の「ねずみ」も事実上の創作に近い脚色をするなど、甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようで、この噺もたびたび高座に掛けました。

三木助最後の高座となった、昭和35年(1961)11月の東横落語会の演目も、この「三井の大黒」でした。

三木助没後は高弟の入船亭扇橋、さらにその門下の扇遊へと継承されてました。

藍染川と今川橋

藍染川は神田鍛冶町から紺屋町を通り、神田川に合流した掘割です。紺屋町の染物屋が、布をさらしたことからこう呼ばれました。

明治18年(1885)に埋め立てられています。

六代目円生は「今川橋」の出来事として演じましたが、実際の今川橋は、藍染川南東の八丁堀に架かっていた橋で、日本橋本白銀町(ほんしろがねちょう)二丁目と三丁目を渡していました。

下見板

噺の中で甚五郎がくっつけてしまう「下見板」は、家の外壁をおおうための横板で、大工の見習いが練習に、まず削らされるものでした。甚五郎が怒ったのも、無理はありません。

駿河町の三井

初代・三井八郎右衛門高利が延宝元年(1673)、日本橋本町一丁目に呉服屋を開業。天和2年(1682)の大火で、翌年、駿河町(東京都中央区日本橋室町一、二丁目)に移転、「現金掛値なし」を看板にぼろもうけしました。

近日息子 きんじつむすこ 演目

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上方噺。三十近い、このどら息子、ばかなんだか、こざかしいんだか。

【あらすじ】

三十歳近くになるが、ぼんくらな一人息子に、おやじが説教している。

芝居の初日がいつ開くか見てきてくれと頼むと、帰ってきて明日だと言うから、楽しみにして出かけてみると「近日開演」の札。

「バカヤロ、近日てえのは近いうちに開けますという意味だ」
とおやじが叱ると、
「だっておとっつぁん、今日が一番近い日だから近日だ」

なにしろふだんから、気を利かせるということをまるで知らない。

「おとっつぁんが煙管(きせる)に煙草を詰めたら煙草盆を持ってくるとか、えへんと言えば痰壺を持ってくるとか、それくらいのことをしてみろ。そのくせ、しかるとふくれっ面ですぐどっかへ行っちまいやがって」
とガミガミ言っているうち、おやじ、かわやに行きたくなったので、
「紙を持ってこい」
と言いつけると、出したのは便箋と封筒。

「まったくおまえにかかると、よくなった体でも悪くなっちまう」
と、また小言を言えば、せがれ、プイといなくなってしまった。

しばらくして医者の錆田先生を連れて戻ってきたから、わけを聞くと
「お宅の息子さんが『おやじの容態が急に変わったので、あと何分ももつまいから、早く来てくれ』と言うから、取りあえずリンゲルを持って」
「えっ? あたしは何分ももちませんか」
「いやいや、一応お脈を拝見」
というので、みても、せがれが言うほど悪くないから、医者は首をかしげる。

それを見ていた息子、急いで葬儀社へ駆けつけ、ついでに坊主の方へも手をまわしたから、説教の薬が効きすぎた。

長屋の連中も、大家が死んだと聞きつけて、
「あのばか息子が早桶担いで帰ってきたというから間違いないだろう、そうなると悔やみに行かなくっちゃなりません」
と相談する。

そこで口のうまい男がまず
「このたびは何とも申し上げようがございません。長屋一同も、生前ひとかたならないお世話になりまして、あんないい大家さんが亡くなるなん……」
と言いかけてヒョイと見上げると、ホトケが閻魔のような顔で、煙草をふかしながらにらんでいる。

「へ、こんちは、さよならっ」
「いいかげんにしろ。おまえさん方まで、ウチのばか野郎といっしょになって、あたしの悔やみに来るとは、どういう料簡だっ」
「へえ、それでも、表に白黒の花輪、葬儀屋がウロついていて、忌中札まで出てましたもんで」
「え、そこまで手がまわって……ばか野郎、表に忌中札まで出しゃがって」
とおやじが怒ると、
「へへ、長屋の奴らもあんまし利口じゃねえや。よく見ろい、忌中のそばに近日と書いてあらァ」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

「近日」は芝居用語

江戸時代の芝居興行では、金主(=スポンサー)と座主(=プロデューサー)のトラブル、資金繰りの不能、役者の「もっといい役をつけろ!」というクレームや、ライバル役者同士の序列争いなど、さまざまな原因で、予定通りに幕が開かないことがしばしばでした。

そこで、それを見越して、初日のだいぶ前から、「近日開演」の札を出して予防線を張っていました。

これを「近日札」といって、大阪・道頓堀の劇場街では、昭和に入っても戦争前まで、このしきたりが残っていたそうです。古くは上方でこれを「前繰(さきぐり)」とも呼びました。

民話からつくられた噺

「病人に坊主」という民話が原型といわれます。

小ばなしでは、先走って寺に知らせるくだりは安永3年(1774)、上方で刊行された笑話本『茶の子餅』中の「忌中」、オチの「近日札」の部分は、その前年に江戸で刊行の『仕形噺口拍子』中の「手まはし」がそれぞれ原話で、この二つをミックスして落語に仕立てたのでしょう。

特に後者は、すでに現在の「近日息子」の後半とほとんど同じです。

三木助の当たり噺に

もともと上方落語で、「吹き替え息子(干物箱)」と同じく「息子」という言い方も大阪のものです。

東京で口演されるようになったのは明治40年ごろからですが、東京の落語家はほとんど手掛けず、もっぱら上方くだりの二代目桂三木助などが、大阪のものをそのまま演じていた程度でした。

大阪での修行時代に二代目桂春団治からこの噺を伝授された生粋の江戸っ子・三代目桂三木助が戦後磨きをかけ、独特の現代的くすぐりをふんだんに入れて大当たり。十八番に仕上げました。

三木助演出の特徴は、年代を大正末期に設定してあるため、長屋の連中の会話がデスマス調でていねいなことや、名前も錆田に長谷川と、新作落語のような印象が新鮮な点でしょう。

三木助のくすぐりから

●(長屋の住人の会話。昨夜乙が湯屋で会った大家が死んだと聞いて)

甲「なんですか? ゆうべ湯に行って帰りにざるを二杯食べると、今朝死ねませんか」
乙「死ねないって理屈はないでしょうけどねえ」
甲「あのね、イースーピン(一四筒)が通ってもチーピン(七筒)が通らない場合があるン」

「イースーピン」のくすぐりは、戦後の麻雀ブームでサラリーマンや学生客に大ウケだったとか。

●(早桶をかついできた息子)

「おとっつあん、ちょっと入ってみてねえ、そいで具合が悪いようだったら、あの、今のうちならね、(寝棺と)取り替えてくれるって」

青菜 あおな 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

柳家の噺。屋敷でだんなから聞きかじった「奥や」を植木職人が家で鸚鵡返し。

別題:弁慶

【RIZAP COOK】

【あらすじ】

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方の柳影(やなぎかげ)という「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸が出まして、名を九郎判官(くろうほうがん)」
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう=九郎」、「それならよしとけ=義経」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返し……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

青菜

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。

冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩

柳影はもち米と麹と焼酎で仕込んだ、アルコール分の強い酒で、江戸で「直し」、京では「南蛮酒」ともいいました。夏のもので、必ず冷やでのみます。

イワシの塩焼き

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

弁慶、そのココロは

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつで、「立ち往生」の意味を利かせています。

これも、今では『義経記』の、弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現在では、説明なしには通じなくなっているかもしれません。

上方では人におごられることを「弁慶」というので、(これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています)このシャレにはその意味も加わっているでしょう。

小里ん語り、小さんの芸談

この噺は柳家の十八番といわれています。ならば、芸談好き、五代目柳家小さんの芸談を聴いてみましょう。弟子の小里んが語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

【RIZAP COOK】

錦の袈裟 にしきのけさ 演目

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町内の若い衆が吉原に大挙繰り込んでどんちゃん騒ぎ。与太郎だけもてるとは。

別題:袈裟茶屋(上方) ちん輪

【あらすじ】

町内の若い衆が
「久しぶりに今夜吉原に繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。

それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中が、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬の長襦袢一丁になってカッポレの総踊りをやらかし
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。

そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうという相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦の褌をそろいであつらえ、相撲甚句に合わせて裸踊りとしゃれこもう、ということになる。

幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てるが、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。

与太郎、女郎買いに行きたい一心で、鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。

そこでかみさんの入れ知恵で、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込み、なんとかこれで全員そろった。

一同、予定通りその晩は、どんちゃん騒ぎ。

お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めたから、驚いたのは廓の連中一同。

特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪という白い輪がぶーらぶら。

そこで
「あれは実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。

そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。

残りは全部きれいに振られた。

こうなるとおもしろくないのが「家来」連中。

翌朝、ぶつくさ言いながら殿さまを起こしに行くと、当人は花魁としっぽり濡れて、起きたいけど花魁が起こしてくれないと、のろけまで言われて踏んだり蹴ったり。

「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」

どうにもならなくて、寝床から引きずり出そうとすると、与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。

「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間で、細かい筋は東京のとかなり違います。

たとえば東京では、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官びいきのパターンですが、上方では、袈裟を芸妓(げいこ=芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。

東京ではこの噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従三人です。

このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵の明治時代の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっていて、まだ東京移植後間もなく、大阪の設定に近いことがわかります。

円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。

これを現行の形に改造したのは、大正期の盲小せんこと初代柳家小せんとみられます。

戦後この噺の双璧だった五代目志ん生、六代目円生は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。

それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末、上方で流行した俗曲で、「活惚れ」と書きます。もとは江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたといいます。

かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船

こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称住吉踊り。明治初期に東京で初代かっぽれ梅坊主が、より洗練された踊りに仕上げて大流行。新富座では九代目市川団十郎も踊りました。

寛一お宮の『金色夜叉』の尾崎紅葉も、若いころ一時、この梅坊主に入門していたとか。

袈裟

梵語(=サンスクリット語)の「カサーヤ」からきています。煩悩の意味で、三条、五条、七条の三種類があり、貪欲・瞋恚(しんい=怒り)・痴愚の三毒を捨て去ったしるしにまといます。

僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も、緑から紫、緋の衣と変わります。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。

これを洗練したものが、三味線の合い方(=伴奏)でお座敷で唄われました。 

【コラム 古木優】

「ついでに生きてる」与太郎が女にもててしまう珍しい噺。

もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」に似ている。若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。

ばかばかしいが、当人たちには天下分け目の勢いなのだろう。だから、落語の格好の題材となる。

海賀変哲は「落語の落」で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。

たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。

「ちん輪」という野卑な別題もある。この噺は初代柳家小せん(盲小せん)が絶妙だったという。大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。会話の応酬と洒落の連発でスピ-ディーなのだ。

五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭円生は、小せんから習った。円生の師匠は四代目橘家円蔵(品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから直接習っている。

この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだ。いいかげんなものである。

松曳き まつひき 演目

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粗忽噺。殿さまと三太夫さらには八五郎も入って、粗忽者同士の珍妙やりとり。

別題:粗忽大名(上方)

【あらすじ】

ある大名の江戸屋敷。

殿さまがそそっかしく、家老の田中三太夫がこれに輪をかけて粗忽者。

同気相求めるで、これが殿さまの大のお気に入り。

ある日、殿さまが、
「庭の築山の脇にある赤松の大木が月見のじゃまになるので、泉水の脇にひきたいが、どうであるか」
と三太夫にご下問。

三太夫が
「あれはご先代さまご秘蔵の松でございますので、もし枯らすようなことがありますと、ご先代さまを枯らすようなものではないかと心得ます」
と諌めるが、殿さまは、
「枯れるか枯れないかわからないから、今屋敷に入っている植木屋に直接聞いてみたい」
と言い張る。

そこで呼ばれたのが、代表者の八五郎。

「さっそく御前へまかりはじけろ」
と言うからまかりはじけたら、三太夫が側でうるさい。

「あー、もっとはじけろ。頭が高い。これ、じかに申し上げることはならん。手前が取り次いで申し上げる」
「それには及ばん。直接申せ」
「はっ、これ、八五郎。ていねいに申し上げろ」

頭に「お」、終わりに「たてまつる」をつければよいと言われた八五郎、
「えー、お申し上げたてまつります。お築山のお松さまを、手前どもでお太いところへは、おするめさまをお巻き申したてまつりまして、おひきたてまつれば、お枯れたてまつりません。恐惶謹言、お稲荷さんでござんす」

よくわからないが、枯れないらしいと知って、殿さまは大喜び。

植木屋に無礼講で酒をふるまっていると、三太夫に家から急な迎え。

国元から書状が来ているというので、見ると字が書いていない。

「だんなさま、そりゃ裏で」
「道理でわからんと思った。なになに、国表において、殿さま姉上さまご死去あそばし……」

これは容易ならぬと、あわてて御前へ。

殿さま、
「なに? 姉上ご死去? 知らぬこととは言いながら、酒宴など催して済まぬことをいたした。して、ご死去はいつ、なんどきであった?」
「ははっ……とり急ぎまして」
「そそっかしいやつ。すぐ見てまいれ」

アワを食って、家にトンボ返り。

動転して、書状が自分の懐に入っているのも気がつかない。

やっと落ち着いて読みなおすと
「……お国表において、ご貴殿姉上さま……?」

自分の姉が死んだのを殿と読み間違えた。

いまさら申し訳が立たないので、いさぎよく切腹してお詫びしようとすると、家来が、殿に正直に申し上げれば、百日の蟄居(ちっきょ)ぐらいですむかもしれないのに、あわてて切腹しては犬死にになると止めたので、それもそうだと三太夫、しおしお御前へまかり出た。

これこれでと報告すると、殿さまは
「ナンジャ? 間違いじゃ? けしからんやつ。いかに粗忽とは申せ、武士がそのようなことを取り違えて、相済むと思うか」
「うへえ、恐れ入りました。この上はお手討ちなり、切腹なり、存分に仰せつけられましょう」
「手討ちにはいたさん。切腹申しつけたぞ」
「へへー、ありがたき幸せ」
「余の面前で切腹いたせ」

三太夫が腹を切ろうとすると、しばらく考えていた殿さま、
「これ、切腹には及ばん。考えたら、余に姉はなかった」

底本:初代三遊亭金馬=二代目三遊亭小円朝

【しりたい】

使いまわしのくすぐりでも

「粗忽の使者」とよく似た、侍の粗忽噺です。特に、職人がていねいな言葉遣いを強要され、「おったてまつる」を連発するくすぐりは「粗忽の使者」のほか、「妾馬」でも登場します。

ただ、基本形は同じでも、それぞれの噺で状況も八五郎(「粗忽の使者」では留五郎)の職業もまったく違うわけです。

この「松曳き」では殿さまの前でひたすらかしこまるおかしみ、「粗忽の使者」では後で地が出て態度がなれなれしくなる対照のおかしさと、それぞれ細部は違い、演者の工夫もあって、同じくすぐりを用いても、まったく陳腐さを感じさせないところが、落語のすぐれた点だと思います。

殿さまの正体

御前に出た八五郎に、三太夫が叱咤して「まかりはじけろ」と言います。「もっと前に出ろ」という意味ですが、実はこれは仙台地方の方言だそうです。

とすれば、このマヌケな殿さまは、恐れ多くも仙台59万5千石の太守・伊達宰相にあらせられる、ということになりますが。

小里ん語り、小さんの芸談

この噺は、小さん、十代目馬生、談志あたりがやっていました。その流れで、柳家喜多八(2016年没、小三治の弟子)や桃月庵白酒(雲助の弟子)も。あまり聴かない噺ですが、以下は小さんが弟子の小里んに語った芸談です。芸の奥行きをしみじみ感じさせます。

語りの芸は演じきっちゃいけないだなァ。
それと師匠は「昔は大名が職人と酒盛りなんかするわけがない。それは噺のウソだってことは腹に入れとかなくちゃいけない」と言ってました。ありえないことだけれど、それを愉しく演じなきゃいけない。かといって、無理に拵えた理屈をつけてはいけない。「ウソだと分かって演るなら、ウソでいいんだ」と言ってたのは、「噺のウソを、ウソのまま取っておく大らかさが落語にはあった方がいい」という教えですね。無理に辻褄合わせで理屈をつけると解説になって理屈っぽくなっちゃうでしょ。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

宮戸川 みやとがわ 演目

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江戸の噺。隅田川が舞台のお花半七なれそめで始まる因縁噺。後半は悲惨だが。

【あらすじ】

日本橋小網町の質屋、茜屋半右衛門のせがれ、半七。

堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。

頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。

気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。

こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。

友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日ごろから折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。

いつしか二人はばったり。

話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島のおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。

「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。

結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。

一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。

違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。

「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」

下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。

下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。

二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。

こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。

翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。

ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。

おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。

【しりたい】

実際の心中事件に取材

六代将軍・家宣が亡くなった正徳2年(1712)、この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が同年、浄瑠璃「長町裏女腹切」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが、芝居や音曲で大流行しました。

それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四世鶴屋南北が江戸・玉川座に書き下ろした「寝花千人禿(やよいのはな・せんにんかむろ)」(茜屋半七)が大当たりしたため、落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。

すたれた後半部分

明治中期までは、初代三遊亭円右、三代目春風亭柳枝などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがあり、柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。

上のあらすじは、その柳枝の速記の前半部分を参照しました。

その後、古風な芝居ばなしがすたれると共に、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。

昭和に入って八代目柳枝、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生といった名人連が得意にしましたが、いずれも前半のみで、円生一門の三遊亭円楽や円窓などに継承されていました。

三代目三遊亭円歌、柳家小満ん、五街道雲助、金原亭世之介、古今亭菊生、柳家喬太郎などが後半を含めてやったことがあります。

後半のあらすじ

前半から四年ほどのちの夏、お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。

傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花は癪(しゃく)を起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。

女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。

承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。

雇った船頭もグルとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。

三人の渡りゼリフで。

「亭主というはうぬであったか」
「ハテよいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」

……というところで起こされた。

お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。

宮戸川

夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名で、地域でいえば山谷堀から駒形あたりまでの流域を指します。「宮戸」は、三社権現の参道入り口を流れていたことから、この名がついたとか。

この付近は白魚や紫鯉の名産地でした。

文政年間(1818-30)、駒形の酒屋・内田甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になりました。

小網町

現在の東京都中央区日本橋小網町。

小網町三丁目の行徳河岸から下総(千葉県)行徳まで三里八丁を、行徳船という、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。

ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。

霊岸島

東京都中央区新川一、二丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り島でした。

船宿

舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。

【コラム 古木優】

芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。この噺は、前半と後半がある。今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。

では、後半とは、どんな噺なのか。 霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。

その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。

傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。

それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。

お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。

一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。

船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。

ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。

半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」

結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。ふざけるな。できのよくない筋運び。オチも凡庸。だからか、今では演じる者がいない。長いし。

ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知ればおのずとわかる。宮戸川とは隅田川の別称で、駒形辺から上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。

噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷辺。ともに隅田川がらみの地だ。なによりもお花が投げ捨てられたのが吾妻橋。隅田川まみれの噺なのである。

初天神 はつてんじん 演目

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悪ガキの上手をいく、ピンボケな、すれたおやじ、熊五郎の噺です。

【あらすじ】

新しく羽織をこしらえたので、それをひけらかしたくてたまらない熊五郎。

今日は初天神なので、さっそくお参りに行くと言い出す。

かみさんが、
「それならせがれの金坊を連れていっとくれ」
と言う。

熊は
「口八丁手八丁の悪がきで、あれを買えこれを買えとうるさいので、いやだ」
とかみさんと言い争っている。

当の金坊が顔を出して
「家庭に波風が立つとよくないよ、君たち」

親を親とも思っていない。

熊が
「仕事に行くんだ」
とごまかすと
「うそだい、おとっつぁん、今日は仕事あぶれてんの知ってんだ」

挙げ句の果てに、
「やさしく頼んでるうちに連れていきゃ、ためになるんだけど」
と親を脅迫するので、熊はしかたなく連れて出る。

道々、熊は
「あんまり言うことを聞かないと、炭屋のおじさんに山に捨ててきてもらうぞ」
と脅すと
「炭屋のおじさんが来たら、逃げるのはおとっつぁんだ」
「どういうわけでおとっつぁんが逃げる」
「だって、借金あるもん」

弱みを全部知られているから、手も足も出ない。

そのうち案の定、金坊は
「リンゴ買って、みかん買って」
と始まった。

「両方とも毒だ」
と熊が突っぱねると
「じゃ、飴買って」

「飴はここにはない」
と言うと
「おとっつぁんの後ろ」
と金坊。

飴売りがニタニタしている。

「こんちくしょう。今日は休め」
「冗談いっちゃいけません。今日はかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」

二対一ではかなわない。

一個一銭の飴を、
「おとっつぁんが取ってやる」
と熊が言うと
「これか? こっちか?」
と全部なめてしまうので、飴売りは渋い顔。

金坊が飴をなめながらぬかるみを歩き、着物を汚したのでしかって引っぱたくと
「痛え、痛えやい……。なにか買って」

泣きながらねだっている。

「飴はどうした」
と聞くと
「おとっつぁんがぶったから落とした」
「どこにも落ちてねえじゃねえか」
「腹ん中へ落とした」

今度は凧をねだる。

往来でだだをこねるから閉口して、熊が一番小さいのを選ぼうとすると、またも金坊と凧売りが結託。

「へへえ、ウナリはどうしましょう。糸はいかがで?」

結局、特大を買わされて、帰りに一杯やろうと思っていた金を、全部はたかされてしまう。

金坊が大喜びで凧を抱いて走ると、酔っぱらいにぶつかった。

「このがき、凧なんか破っちまう」
と脅かされ、金坊が泣き出したので
「泣くんじゃねえ。おとっつぁんがついてら。ええ、どうも相すみません」

そこは父親で、熊は平謝り。

そのうち、今度は熊がぶつかった。

金坊は
「それ、あたいのおやじなんです。勘弁してやってください。おとっつぁん、泣くんじゃねえ。あたいがついてら」

そのうち、熊の方が凧に夢中になり
「あがった、あがったい。やっぱり値段が高えのはちがうな」
「あたいの」
「うるせえな、こんちきしょうは。あっちへ行ってろ」

金坊、泣き声になって
「こんなことなら、おとっつぁん連れて来るんじゃなかった」

【しりたい】

オチが違う原話

後半の凧揚げのくだりの原話は、安永2年(1773)、江戸で出版された笑話本『聞上手』中の小ばなし「凧」ですが、オチが若干違っています。

おやじが凧に夢中になるまでは同じですが、子供が返してくれとむずかるので、おやじの方のセリフで、「ええやかましい。われ(おまえ)を連れてこねばよかったもの(を)」。

ひねりがなく平凡なものですが、古くは落語でもこの通りにやっていたようです。

文化年間から口演か

古い噺で、上方落語の笑福亭系の祖といわれる初代松富久亭松竹(生没年不詳)が前項の原話をもとに落語にまとめたものといわれています。

松竹は少なくとも文政年間(1818-30)以前の人とされるので、この噺は上方では文化年間(1804-18)にはもう演じられていたはずです。

松竹が作ったと伝わる噺には、このほか「松竹梅」「たちぎれ」「千両みかん」「猫の忠信」などがあります。

東京には、比較的遅く、大正に入ってから。三代目三遊亭円馬が移植しました。

仁鶴の悪童ぶり

東京では柳家小三治、三遊亭円弥、上方では桂米朝でしたが、六代目松鶴から継承した笑福亭仁鶴も得意とします。オチは同じでも、上方の子供のこすっからさは際立っています。

初天神

旧暦では1月25日。そのほか、毎月25日が天神の祭礼で、初天神は一年初めの天神の日をいいます。

現在でも同じ正月25日で、各地の天満宮が参拝客でにぎわいますが、大阪「天満の天神さん」の、キタの芸妓のお練りは名高いものです。

出来心 できごころ 演目

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オチによっては「花色木綿」とも。泥棒噺。江戸前。間抜け泥、いかにもの笑い。

別題:花色木綿

【あらすじ】

ドジな駆け出しの泥棒。

親分に、
「てめえは素質がないから廃業した方がいい」
と言われる。

心を入れ替えて悪事に励むと誓って、この間土蔵と間違って寺の練塀を切り破って向こうに出たとか、電話がひいてあるので入ったら交番だったなどと話すので、親分はあきれて、おめえにまともな盗みはできねえから、空き巣狙いでもやってみろと、こまごまと技術指導。

まず声をかけて、返事がなかったら入るが、ふいに人が出てきたら
「失業しておりまして、貧の盗みの出来心でございます」
と泣き落としで謝ってしまう。

返事があったら人の家を訪ねるふりをして
「何の何兵衛さんはどちらで?」
とゴマかせばいいと教えられ、さっそく仕事に出かける。

ある家で
「ええ、何の何兵衛さんはどちらで?」
「なにを?」
「いえその、イタチ西郷兵衛さんは……」
としどろもどろで逃げ出した。

次の家では、主人が二階にいるのも気づかず、羊羹を盗み食いして見つかり、
「イタチ西郷兵衛さんはどちらで?」
「オレだよ」
「えっ? その、もっといい男の西郷兵衛」
「なにを?」
「よろしく申しました」
「誰が?」
「あたしが」
「この野郎ッ」
……あわてて逃げ出す。

「あんな、まぬけの名の野郎が本当にいるとは思わなかった」
と胸をなで下ろしながらたどり着いたのが、長屋の八五郎の家。

畳はすり切れ、根太はボロボロ。

転がっているのは汚い褌一本きり。

しかたなく懐に入れ、八五郎が帰ってきたので、あわてて縁の下に避難。

八五郎は、粥が食い散らされているのを見て、
「ははあ泥棒か」
と見当をつけるが、かえって泥棒を言い訳に家賃を待ってもらおうと、大家を呼びに行った。

「それじゃしかたがねえ。待ってやろう」
とそこまではいいが、盗難届けを出さなくてはならないと、盗品をいちいち聞かれるから、はたと困った。

苦し紛れに布団をやられたと嘘をつくと
「どんな布団だ? 表の布地はなんだ?」
「大家さんとこに干してあるやつで」
「あれは唐草だ。裏は?」
「行きどまりです」
「布団の裏だよ」
「大家さんのは?」
「家は、丈夫であったけえから、花色木綿だ」
「家でもそれなんで」

羽二重も帯も蚊帳も南部の鉄瓶も、みんな裏が花色木綿。

「あきれて話しにならねえ。あとは?」
「お礼で。裏は花色木綿」

縁の下の泥棒、これを聞いて我慢できずに下から這い出てくる。

「さっきから聞いてりゃ、ばかばかしい。笑わせるない」
「おやっ、そんなとこから這いだしゃあがって。てめえは泥棒だな?」
「この家にはなにも盗めるものなんぞねえ」

警察に突き出すと言われ、あわてて
「えー、どうも申し訳ござんせん。失業しておりまして、六十五を頭に三人の子供が……これもほんの貧の出来心で……と哀れっぽく持ちかけたら、銭の少しもくれますか?」
「誰がやるもんか。八、てめえもてめえだ」

お鉢が回ってきたので、八五郎、こそこそ縁の下へ。

「おい、なにも盗られてねえそうじゃねえか。どうしてあんな、うそばかり並べたんだ?」
「これもほんの出来心でございます」

【しりたい】

「出来心」ならお上のお慈悲?

落語には泥棒噺が多く、「穴泥」「もぐら泥」「だくだく」「釜泥」「締め込み」「転宅」「夏どろ」……まだまだあります。

そのほとんどが、まぬけで愛すべき空き巣の失敗をおおらかに笑う噺で、いかにのどかな江戸時代でも犯罪の実態は陰惨なものが多かったことを考えれば、落語の泥棒は、むしろ、こういう泥テキばかりなら……という庶民の願望のあらわれともいえるでしょう。

しかし、現実にはお奉行のお裁きは峻厳だったのです。

十両盗めば初犯でも死罪は有名ですが、窃盗を重ねて盗んだ金額が累積で十両に達すれば、その時点で一巻の終わりです。空き巣で初犯なら「出来心」でお上のお慈悲にあずかれますが、土蔵を切り破ったり、家人の在宅しているところに押し入れば、重罪の押し込み強盗ですから、初犯、かつ未遂でも主犯は原則死罪でした。

三度目で首が飛ぶ

空き巣では初犯敲き、再犯刺青、再々犯は有無を言わさず首が飛びました。

極端にいえば、一回に三文盗んだ場合は敲きで済みますが、初犯一文、再犯一文、再々犯一文と三回に分けて合計三文盗めば、あわれ、この世の別れというわけ。

1994年に米カリフォルニア州で制定された「スリーストライク法案」も、重罪を三度重ねれば仮釈放ナシの禁固25年-終身刑という過酷さ。なんと空き巣三回、三回目にたった152ドル盗んだだけで懲役52年という判決が出て、世論を震撼させたことがありますが、こちらは命がないのですから、まさに究極の「スリーストライク、アウト」でしょう。

オチで変わる演題

泥棒噺は、柳家小さん代々が得意にした江戸前の滑稽噺の典型で、この噺も、三代目から五代目小さんまで継承され、五代目春風亭柳朝、入船亭扇橋、桂文朝などの持ちネタでもあります。特に柳朝の泥棒のすっとぼけた味は絶品でした。

泥棒が入る家の主人の珍名は、演者によって「ちょうちん屋ブラ右衛門」などと変わります。

オチは二通りあり、あらすじで紹介した小さんのものが基本形ですが、現実にはそこまでいきません。 寄席などでは「下駄を忘れてきちゃった」で終わる「間抜け泥」が多いようです。 八代目春風亭柳枝のように、大家と泥棒の会話でのもあります。

大「どこから入った?」
泥「裏です」
大「裏はどこだ?」
泥「裏は花色木綿」

このオチでの演目は「花色木綿」となります。

花色木綿

「花色」は「縹色(はなだいろ)」の省略で、薄い藍色の木綿地になります。

「出来心」も死語に

噺のタイトルにもなっているこの言葉も、最近はだんだん使われなくなってきているようです。

「出来」はこの場合、「とっさに」「即席に」という意味。古くは、即席のシャレのことを「出来口」といいました。

要するに、計画してやった犯行ではなく、ついとっさに魔がさしたものなのでご勘弁を、という言い訳ですね。

コソ泥どころか、重大な犯罪をしでかしても、しおらしく謝るどころか、「逆ギレ」して居直るヤカラばかりが増えた昨今ですから、こんな言葉が消えていくのも無理はありません。

小里ん語り、小さんの芸談

こういうネタは「間抜けな奴が本気じゃないといけない」と師匠も言ってました。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

松竹梅 しょうちくばい 演目

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めでたい噺。礼儀知らずの長屋三人組が婚礼に招かれ、忌み言葉めぐり一騒動。

【あらすじ】

長屋の松五郎、梅吉、竹蔵の三人組。

そろって名前がおめでたいというので、出入り先のお店のお嬢さまの婚礼に招かれた。

ところがこの三人、名前だけでなく、心持ちもおめでたいので、席上どうしたらいいか、隠居に相談に行く。

隠居は、ついでなら鯨飲馬食してくるだけが能でないから、何か余興をやってあげたらどうかと勧め、「なったあ、なったあ、蛇(じゃ)になった、当家の婿殿蛇になった、何の蛇になあられた、長者になぁられた」という言い立てを謡(うたい)の調子で割りゼリフで言えばいいと、教えてくれる。

終わりに「お開きにいたしましょう」と締めるというわけ。

いざ練習してみると、松五郎は
「な、な、納豆」
「豆腐ーい」
と全部物売りになってしまうし、竹蔵は竹蔵で
「デデンデデン、なあんのおおおう」と義太夫調子。

危なっかしいが、道々練習しながらお店に着く。

いきなり「まことにご愁傷さま」とやりかけて肝を冷やすが、だんなは、おめでたい余興と聞いて大喜び。

親戚一同も一斉に手をたたくものだから、三人、あがってボーッとなる。

それでも、松と竹はどうやら無事に切り抜けたが、梅吉が
「長者になられた」
を忘れ、
「風邪……いや番茶……大蛇……」
と、とんでもないことを言いだし、その都度やり直し。

最後に
「なんの蛇になあられた」
「亡者になあられた」

……これで座はメチャクチャ。

三人が隠居に報告に来て
「これこれで、開き損なっちまいまして」
「ふーん、えらいことを言ったな。それで梅さんはどうしてる」
「決まり悪そうにグルグル回って、床の間に飛び込んで、隅の方で小さくなってしおれてました」
「ああ、それは心配ない。梅さんのことだ、今ごろは一人で開いて(帰って)いるだろう」

【しりたい】

作者は出自不明

上方の笑福亭系の落語家の祖とされる初代・松富久亭松竹が作ったといわれている噺です。

この松竹という人、生没年や詳細な伝記はもちろん、そもそも存在したかどうかもよくわかりません。

したがって、松竹が「松竹梅」の作者だというのも伝説の域を出ないわけです。

まさか、演題と芸名にゴロを合わせたヨタではないでしょうが。

ただ、オチの部分のネタ元になったとみられる小ばなしはあって、文政6年(1823)に江戸で刊行された、初代三笑亭可楽(1777-1833)『江戸自慢』中の「春の花むこ」がそれです。

これは、植物仲間で「仙人」と尊称される梅の古木が、庭の隅の桃の木に「老いらくの恋」をし、姫ゆりを仲人に頼んで、キンセンカを持参金代わりにめでたく婿入り。ところが婚礼の夜、突然植木屋が(もちろん人間)庭に乱入し、花々が恐怖におののいて小さくなってしまいます。これを見た植木屋、「ははあ、これは今夜、花婿が来るのだな。こういうときに切っては無情というものだ」と帰っていったので、仲人の姫ゆりがほっとして顔を持ち上げ、「さあさあ皆さん、お開きなさい」という、童話的でほほえましいお話です。

東京移植は「オットセイ」

古くから上方落語としてはポピュラーな噺でしたが、これを明治30年ごろ、四代目柳亭左楽が東京に移しました。

左楽はぼおっとした容貌と、ふだんの少々間の抜けた言動で、「オットセイ」とあだ名され、奇談がたくさんあります。

ちょうどこの噺の東京初演と思われる、明治31年(1898)の速記が残っていますが、よほど気に入ったとみえ、もともと持ちネタが少ないこともあって、一時期「松竹梅」ばかりやっていたとか。

この人の、師匠の談洲楼燕枝が亡くなった(明治33年2月)ときの追悼句がふるっていてます。

悲しさや 師匠も亡者に なあられた

当の「オットセイ」ご本人が「亡者になあられた」のは、明治44年(1911)11月4日、享年55でした。

「あっちの会長」柳橋十八番

謡の調子で、割ゼリフにしてご祝儀の言い立てをやり、「亡者になあられた」で失敗するのがこの噺の笑わせどころです。

このあらすじの参考にした、かって落語芸術協会に会長として君臨した六代目春風亭柳橋は、戦後この噺をよく高座にかけ、特に謡を稽古する場面でのくすぐりを充実させ、飄々とした中にもより笑いの多い噺に仕上げました。

その意味で十八番といってよいのですが、残念ながら音源は残されていません。

「なったなった……」は北海道?

「なったなった」のお囃子は、関西地方の婚礼の習俗と思われますが、はっきりわかりません。

前項の左楽の速記では、隠居が「北海道から八十里ばかり入った小さな村で」もっぱら行なっていると説明していますが、左楽は自分のあだ名を逆手にとって、やたらに「北海道」を連発してウケをねらったそうですから、もちろんこれは嘘八百でしょう。

忌み言葉

「開く」は今でもよく使われる、結婚式の忌(い)み言葉ですが、「忌み言葉」というのは、使用を避ける言葉と、代わりにめでたく言い換える言葉の両方を意味します。

ただ、言い換えられる場合と、それもできず、禁止されるだけの場合があり、どちらかというと後の方が多いようです。

いずれにしても、太古から言霊信仰が根強く、何か不吉な言葉を吐くとそれが現実になってしまうという病的な恐怖心を先祖代々に受け継いできたわれわれ特有の習慣です。日本文化の一端でもあります。

以下、婚礼のタブーの語をいくつか。

「帰る」
「戻る」
「出て行く」
「死ぬ」
「引く」
「別れる」
「出る」
「割る」
「割く」
「出かける」
「欠ける」
「犬」(=「去(い)ぬ」)
「猿」(=「去る」)
「殺す」
「離れる」
「話す」
「放す」
「まかる」
「落ちる」
「悲しい」……

これじゃ、うっかり舌禍を起こしちまいそうですねえ。

大山詣り おおやままいり 演目

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上方では「百人坊主」。参詣の帰途、宿で熊が泥酔し総スカン。熊が仕返しを。

【あらすじ】

長屋の講中で大家を先達に、大山詣りに出かけることになった。

今年のお山には罰則があって、怒ったら二分の罰金、けんかすると丸坊主にする、というもの。

これは、熊五郎が毎年、酒に酔ってはけんかざたを繰り返すのに閉口したため。

行きはまず何事もなく、無事に山から下り、帰りの東海道は程ケ谷(保土谷)の旅籠。

いつも、江戸に近づくとみな気が緩んで大酒を食らい、間違いが起こりやすいので、先達の吉兵衛が心配していると、案の定、熊が風呂場で大立ち回りをやらかしたという知らせ。

ぶんなぐられた次郎吉が、今度ばかりはどうしても野郎を坊主にすると息巻くのを、江戸も近いことだからとなだめるが、みんな怒りは収まらず、暴れ疲れ中二階の座敷でぐっすり寝込んでいる熊を、寄ってたかってクリクリ坊主に。

翌朝、目を覚ました熊、お手伝いたちが坊さん坊さんと笑うので、むかっ腹を立てたが、言われた通りにオツムをなでで呆然。

「他の連中は?」
「とっくにお立ちです」

熊は昨夜のことはなにひとつ覚えていないが、
「それにしてもひでえことをしやがる」
と頭に来て、なにを思ったか、そそくさと支度をし、三枚駕籠を仕立て途中でのんびり道中の長屋の連中を追い抜くや、一路江戸へ。

一足先に長屋に着くと、かみさん連中を集めて、わざと悲痛な顔で
「残念だが、おまえさん方の亭主は、二度と再び帰っちゃこねえよ」

お山の帰りに金沢八景を見物しようというので、自分は気乗りしなかったが、無理に勧められて舟に乗った。

船頭も南風が吹いているからおよしなさいと言ったのに、みんな一杯機嫌、いっこうに聞き入れない。

案の定、嵐になって舟は難破、自分一人助かって浜に打ち上げられた。

「おめおめ帰れるもんじゃないが、せめても江戸で待っているおまえさんたちに知らさなければと思って、恥を忍んで帰ってきた。その証拠に」
と言って頭の手拭を取ると、これが丸坊主。

「菩提を弔うため出家する」
とまで言ったから、かみさん連中信じ込んで、ワッと泣きだす。

熊公、
「それほど亭主が恋しければ、尼になって回向をするのが一番」
と丸め込み、とうとう女どもを一人残らず丸坊主に。

一方、亭主連中。

帰ってみると、なにやら青々として冬瓜舟が着いたよう。

おまけに念仏まで聞こえる。

熊の仕返しと知ってみんな怒り心頭。

連中が息巻くのを、吉兵衛、
「まあまあ。お山は晴天、みんな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」

【しりたい】

大山

神奈川県伊勢原市、秦野市、厚木市の境にある標高1246mの山。

ピラミッドのような形でひときわ目立ちます。日本橋から18里(約71km)でした。

中腹に名僧良弁(ろうべん)が造ったといわれる雨降山(あぶりさん)大山寺(だいさんじ)がありました。

雨降山とは、山頂に雲がかかって雨を降らせることからの銘々なんだそうです。

山頂に、剣のような石をご神体とする石尊大権現があります。つまり、神仏混交、修験道の聖地なんですね。

江戸時代以前には、修験者、華厳、天台、真言系の僧侶、神官が入り乱れてごろごろよぼよぼ。

それを徳川幕府が真言宗系に整理したのですが、それでもまだ神仏混交状態。

明治政府の神仏分離令の結果、中腹の大山寺が大山阿夫利(あぶり)神社に。神の山になったわけです。

末寺はことごとく破壊されましたが、大正期には大山寺が復しました。今は真言宗大覚寺派の準本山となっています。

ばくちと商売にご利益

大山まいりは、宝暦年間(1751-64)に始まりました。ばくちと商売にご利益があったんで、みんな出かけるんですね。

6月27日から7月17日までの20日間だけ、祭礼で奥の院の石尊大権現に参詣が許される期間に行楽を兼ねて参詣する、江戸の夏の年中行事です。

大山講を作って、この日のために金をため、出発前に東両国の大川端で「さんげ(懺悔の意)、さんげ」と唱えながら水垢離(体を清める)をとった上、納め太刀という木刀を各自が持参して、神前で他人の太刀と交換して奉納刀としました。

これは,大山の石尊大権現とのかかわりからきているんでしょうね。

お参りのルートは3つありました。

(1)厚木往還(八王子-厚木)
(2)矢倉沢往還(国道246号)
(3)津久井往還(三軒茶屋-津久井)

日本橋あたりから行くには(3)が普通でした。

世田谷区の三軒茶屋は大山まいりの通過点でにぎわったんです。

男の足でも4-6日はかかったというから、金も時間もかかるわけ。金は、先達(先導者)が月掛けで徴収しました。帰りは伊勢原を経て、藤沢宿で1泊が普通です。

あるいは、戸塚、程ヶ谷(保土ヶ谷)、神奈川の宿のいずれかで、飯盛(私娼)宿に泊まって羽目をはずすことも多かったようです。それがお楽しみで、群れて参詣するわけなんです。

江戸時代の参詣というのは、必ずこういう抜け穴(ホントに抜け穴)があったんですねえ。

だから、みなさん一生懸命に手ぇ合わすんですぇ。うまくできてます。

この噺のように、江ノ島や金沢八景など、横道にそれて遊覧することも。

こはい者なし 藤沢へ出ると買ひ (柳多留14)

女人禁制で「不動から 上は金玉 ばかりなり」。最後の盆山(7月13-17日)は、盆の節季にあたり、お山を口実に借金取りから逃れるための登山も多かったそうです。

大山まいりは適度な娯楽装置だった、というわけ。

旧暦は40日遅れ

落語に描かれる時代は、だいたいが江戸時代か明治時代かのどちらかです。

この噺は、江戸時代の話。

これは意外に重要で、噺を聞いていて「あれ、明治の話だったのー」なあんていうこともしばしば。

噺のイメージを崩さないためにも、時代設定はあらかじめ知っておきたいものです。

江戸時代は旧暦だから、6月27日といっても、梅雨まっさかりの6月27日ではないんです。

旧暦に40日たすと、実際の季節になります。

だから、旧暦6月27日は、今の8月3日ごろ、ということに。お暑い盛りでのことなんですね。

こんなちょっとした知識があると、落語がグーンと身近になるというものです。

元ねたは狂言から

「六人僧」という狂言をもとに作られた噺です。

さらに、同じく狂言の「腹立てず」も織り交ぜてあるという説もあります。

「六人僧」は、三人旅の道中で、なにをされても怒らないという約束を破ったかどで坊主にされた男が、復讐に策略でほかの二人をかみさんともども丸坊主にしてしまう話です。

狂言には、坊主のなまぐさぶりを笑う作品が、けっこうあるもんです。

時代がくだって、井原西鶴(1642-93)が各地の民話に取材して貞享2年(1685)に大坂で刊行した『西鶴諸国ばなし』中の「狐の四天王」にも、狐の復讐で五人が坊主にされるという筋が書かれています。

スキンヘッドは厳罰

明治の名人、四代目橘家円喬(1865-1912)は、江戸時代には坊主にされることがどんなに大変だったかを強調するため、この噺のマクラでマゲの説明を入念にしています。

円喬の速記は明治29年のもの。明治維新から30年足らず、断髪令が発布されてから四半世紀ほどしかたっていません。

実際に頭にチョンマゲをのっけて生活し、ザンギリにするのを泣いて嫌がった人々がまだまだ大勢生き残っていたはずなのです。

いかに時の移り変わりが激しかったか、わかろうというものです。

六代目三遊亭円生も「一文惜しみ」の中で、「昔はちょんまげという、あれはどうしてもなくちゃならないもんで(中略)大切なものでございますから証明がなければ床屋の方で絶対にこれは切りません。『長髪の者はみだりに月代(さかやき)を致すまじきこと』という、髪結床の条目でございますので、家主から書付をもらってこれでくりくりッと剃ってもらう」と説明しています。

要するに、なにか世間に顔向けができないことをしでかすと、奉行所に引き渡すのを勘弁する代わりに、身元引受人の親方なり大家が、厳罰として当人を丸坊主にし、当分の謹慎を申し渡すわけです。

その間は恥ずかしくて人交わりもならず、寺にでも隠れているほかはありません。

武士にとってはマゲは命で、斬り落されれば切腹モノでしたが、町人にとっても大同小異、こちらは「頭髪には神が宿る」という信仰からきているのでしょう。

朝、自分の頭をなでたときの熊五郎のショックと怒りは、たぶん、われわれ現代人には想像もつかないでしょうね。

多くの名人がみがいた噺

四代目円喬は、坊主の取り決めを地で説明し、あとのけんかに同じことを繰り返してしゃべらないように気を配っていたとは、四代目柳家小さん(1888-1947)の回想です。

小さん自身は、取り決めを江戸ですると、かみさん連中も承知していることになるので、大森あたりで相談するという、理詰めの演出を残しました。 

そのほか、昭和に入って戦後にかけ、六代目円生、五代目古今亭志ん生、八代目春風亭柳枝、八代目三笑亭可楽、五代目小さん、志ん朝と、とうとうたる顔ぶれが、好んで演じました。

夢楽が師匠の可楽譲りで若いころから得意にしていますが、若手を含め、今もほとんどの落語家が手がける人気演目です。

上方の「百人坊主」

落語としては上方が本場です。

上方の「百人坊主」は、大筋は江戸(東京)と変わりませんが、舞台は、修験道の道場である大和・大峯山の行場めぐりをする「山上まいり」の道中になっています。

主人公は「弥太公」がふつうです。

こちらでは、山を下りて伊勢街道に出て、洞川(どろかわ)または下市の宿で「精進落とし」のドンチャン騒ぎをするうち、けんかが起こります。

東京にはいつ移されたかわかりませんが、江戸で出版されたもので「弥次喜多」の「膝栗毛」で知られる十返舎一九の滑稽本『滑稽しっこなし』(文化2=1805年刊)、滝亭鯉丈の『大山道中栗毛俊足』にも、同じような筋立ての笑話があるため、もうこのころには口演されていたのかもしれません。

ただし、前項の円喬の速記では「百人坊主」となっているので、東京で「大山詣り」の名がついたのは、かなり後でしょう。

黄金の大黒 きんのだいこく 演目

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大家のせがれが黄金の大黒を掘り出した。長屋の喧騒な雰囲気が出ています。 

【あらすじ】

長屋の一同に大家から呼び出しがかかった。

日ごろ、
「店賃なんぞは爺さんの代に払ったきりだとか、店賃? まだもらってねえ」
などどいう連中ばかりだから、てっきり滞納で店立ての通告かと戦々恐々。

ところが、聞いてみるとさにあらず、子供たちが普請場で砂遊びをしていた時、大家のせがれが黄金の大黒さまを掘り出したという。

「めでたいことなので、長屋中祝ってお迎えしなければならないから、みんな一張羅を着てきてくれ」
と大家の伝言。

ごちそうになるのはいいが、一同、羽織なぞ持っていない。

なかには、羽織の存在さえ知らなかった奴もいて、一騒動。

やっと一人が持っていたはいいが、裏に新聞紙、右袖は古着屋、左袖は火事場からかっぱらってきたという、大変な代物だ。

それでも、ないよりはましと、かわるがわる着て、トンチンカンな祝いの口上を言いに行く。

いよいよ待ちに待ったごちそう。

鯛焼きでなく本物の鯛が出て寿司が出て、みんなふだんからそんなものは目にしたこともない連中だから、さもしい根性そのままに、ごちそうのせり売りを始める奴がいると思えば、寿司をわざと落として、「落ちたのはきたねえからあっしが」と六回もそれをやっているのもいる始末。

そのうち、お陽気にカッポレを踊るなど、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

ところが、床の間の大黒さまが、俵を担いだままこっそり表に出ようとするので、見つけた大家が、
「もし、大黒さま、あんまり騒々しいから、あなた、どっかへ逃げだすんですか」
「なに、あんまり楽しいから、仲間を呼んでくるんだ」

【しりたい】

キンゴローが東京に紹介

明治末から昭和初期にかけて、初代桂春団治の十八番だった上方落語を、昭和の爆笑王、柳家金語楼が東京に持ってきて、脚色しました。

戦前には「兵隊」ほか新作落語で売れに売れ、戦後はコメディアンとして舞台、映画、テレビと大活躍した、あの金語楼(1901-72)です。

現在も、けっこう演じられるポピュラーな噺ですが、なぜか音源は少なく、CDで聴けるのは立川談志と大阪の笑福亭仁鶴のものくらいです。

初代春団治、金語楼とも、残念ながらレコードは残されていません。

オチはいろいろ

東京では、上のあらすじで紹介した「仲間を呼んでくる」がスタンダードですが、大阪のオチは、長屋の一同が「豊年じゃ、百(文)で米が三升」と騒ぐと大黒が、「安うならんうちに、わしの二俵を売りに行く」と、いかにも上方らしい世知辛いものです。

そのほか、「わしも仲間に入りたいから、割り前を払うため米を売りに行く」というのもありますが、ちょっと冗長でくどいようです。

大黒さまは軍神マルス?

大黒天は、もとはインドの戦いの神で、頭が三つあり、怒りの表情をして、剣先に獲物を刺し通している、恐ろしい姿で描かれていました。

ところが、軍神として仏法を守護するところから、五穀豊穣をつかさどるとされ、のちには台所の守護神に転進しました。

えらい変わりようです。

日本に渡来してから、因幡の白兎伝説で知られるとおり、大国主信仰と結びつき、「大黒さま」として七福神の一柱にされました。

血なまぐさいいくさ神から福の神に。これほどエエカゲンな神サマは、世界中見渡してもいないでしょうね。

七福神の一員としてのスタイルはおなじみで、狩衣に頭巾をかぶり、左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持って、米俵を踏まえています。

福の神として広く民間に信仰され、この噺でも、当然袋をかついで登場します。 

江戸の風物詩、大黒舞い

江戸時代には、大黒舞いといい、正月に大黒天の姿をまねて、打ち出の小槌の代わりに三味線を手に持ち、門口に立って歌、舞いから物まね、道化芝居まで演じる芸人がありました。

吉原では、正月二日から二月の初午(はつうま)にかけて、大黒舞いの姿が見られたといいます。

「黄金の大黒」のくすぐりから

大家が自分のせがれのことを、
「わが子だと思って遠慮なくしかっておくれ」
と言うと一人が、この間、大家の子が小便で七輪の火を消してしまったので、
「軽くガンガンと……」
「げんこつかい?」
「金づちで」
「そりゃあ乱暴な」
「へえ、お礼にはおよびません」

堀の内 ほりのうち 演目

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粗忽噺。日蓮宗がらみの。ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。

【あらすじ】

粗忽者の亭主。

片方草履で、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

【しりたい】

小ばなしの寄せ集め

粗忽(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

上方版「いらちの愛宕詣り」

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗の名刹です。

「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でしたが、元和年間(1615-24)に日円上人が開基して日蓮宗に改宗。

明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。

こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

笠碁 かさご 演目

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柳家の噺。志ん生は「雨の将棋」で。碁打ちの二人、意地の張り具合と友情。

【あらすじ】

碁敵のだんな二人。

両方ともザル碁で、下手同士だが、ウマがあって毎日のように石を並べあっている。

仲がいいとつい馴れ合うから、いつもお互いに待った、待ったの繰り返し。

そんなことでは上達しないからと、今後一切待ったはなしということにしようと取り決めたのはいいが、言い出しっ屁がついいつもの癖で
「そこ、ちょいと待っとくれ」

「おまえさんが待ったなしを言いだしたんだからダメだ」
と断ると、
「それはそうだが、そこは親切づくで一回ぐらいいいじゃあないか」
と、しつこい。

自分で作ったルールを破るのは身勝手だと「正論」を吐けば、おまえは不親切だ、理屈っぽすぎると、だんだん雲行きが怪しくなる。

しまいにはかんしゃくのあまり、昔金を貸したことまで持ち出すので、売り言葉に買い言葉。

「その恩義があるから大晦日には手伝いに行ってやれば蕎麦一杯出しゃがらねえ、このしみったれのヘボ碁め」
「帰れ」
「二度と来るもんか」

……という次第で決裂したが、意地を張っているものの、そこは「碁敵は憎さも憎しなつかしし」。

雨の二、三日も降り続くと、退屈も手伝って、
「あの野郎、意地ィ張らずに早く来りゃあいいのに」
と、そぞろ気になって落ちつかない。

女房に鉄瓶の湯を沸かさせ、碁盤も用意させて、外ばかり見ながらソワソワ。

一方、相方も同じこと。

どうにもがまんができなくなり、こっそり出かけてようすを見てやろうと思うが、あいにく一本しか傘がないので、かみさんが、
「持っていかれると買い物にも行けない」
と苦情を言うから、しかたなく大山詣りの時の菅笠をかぶり、敵の家の前をウロウロと行ったり来たり。

それを見つけて、待ったのだんなは大喜び。

「やいやい、ヘボ」
「なに、どっちがヘボだ」
「ヘボかヘボでねえか、一番くるか」

めでたく仲直りして碁盤を囲んだのはいいが、なぜが盤に雨漏り。

それもそのはず、まだ菅笠をかぶったまま。

【しりたい】

碁敵

ごがたき。碁打ちのライバルをいいます。

この噺の原話は古く、初代露の五郎兵衛(1643-1703、「唖の釣り」参照)作の笑話本で元禄4年(1691)刊『露がはなし』中の「この碁は手みせ金」です。

マクラに「碁敵は憎さも憎しなつかしし」という句を振るのがこの噺のお約束ですが、この句の出典は明和2年(1765)刊の川柳集『俳風柳多留』(はいふう・やなぎだる)初編で、「なつかしし」は「なつかしさ」の誤伝です。

円朝をうならせた小さんの至芸

明治に入ると、三代目柳家小さんが、碁好きの緻密な心理描写と、いぶし銀のような話芸の妙で、十八番中の十八番としました。

あの円朝も、はるか後輩の小さんの芸に舌を巻き、そのうまさに、「もう決して自分は『笠碁』は演じない」と宣言したといいます。

五代目小さんも、もちろん得意にしましたが、五代目の「笠碁」は、大師匠の三代目の直系でなく、三代目柳亭燕枝に教わったもので、従来は、待ったのだんなが家の中から碁敵を目で追うしぐさだけで表現したのを、笠をかぶって雨中をうろうろするところを描写するのが特徴でした。

「待った」はタブー

西洋のチェスでは、待った(Take Back)は即負け。「将棋の殿さま」では、殿さまが家来に待ったを強制する場面がありますが、碁盤、もしくは将棋盤の裏側のくぼんだところは、待ったをした者の首を乗せるためのものとか。

碁も、「いったん石を下ろしたら、もう手をつけることはできない」と「笠碁」のだんなの一人が言っていますが、これもチェスのTouch and move&quot(触れたら動かせ!)の原則と共通して、勝負事は洋の東西を問わず、厳しいものという証でしょう。

しかし、そう豪語した当人がすぐ臆面もなく「待った」するところが、落語の、人間の弱さに対する観察の行き届いたところです。

囲碁の出てくる噺はほかに「碁どろ」「柳田格之進」があります。

志ん生の「雨の将棋」

楽屋内でも将棋マニアで知られ、素人離れしてかなり強かったという五代目古今亭志ん生は、「笠碁」を改作して碁を将棋に代え、「雨の将棋」と題して、より笑いの多いものに仕立てました。

オチは、奮戦しているうちに片方の王様が消え、あとで股ぐらから出てきたので、「かなわないから、金の後ろへ逃げた」という珍品です。

小里ん語り、小さんの芸談

「笠碁」の「笠」は、かならず「雨」をイメージさせるものなのですね。弟子の小里んが記憶の底から掘り出した、五代目小さんの芸談です。

師匠に言われたのは「これは秋の雨だぞ」ということです。「秋は人恋しくなるから、じっとしていると、出ていきたくなる。梅雨は鬱陶しいから、碁を打とうという気分とは違う。シトシトシトシトした、大降りじゃない、物悲しいような雨だ」と教わりました。「大山詣りの菅笠で凌げる程度の降りだから」ってね。(中略)「やっぱり、この噺は雨の音が聞こえるようじゃないとダメだ」とも言ってましたよ。喧嘩のあとの物悲しさが、雨で増すというかな。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

火事息子 かじむすこ 演目

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火事好きのせがれ。家出の果ては全身文身の臥煙に。火事が親子の対面。

【あらすじ】

神田三河町の、伊勢屋という大きな質屋。

ある日近所で出火し、火の粉が降りだした。

火事だというのに大切な蔵に目塗りがしていないと、だんながぼやきながら防火に懸命だが、素人で慣れないから、店中おろおろするばかり。

その時、屋根から屋根を、まるで猿のようにすばしこく伝ってきたのが一人の火消し人足。

身体中見事な刺青で、ざんばら髪で後ろ鉢巻に法被という粋な出で立ち。

ぽんと庇の間に飛び下りると、
「おい、番頭」

声を掛けられて、番頭の左兵衛、仰天した。

男は火事好きが高じて、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当になったまま行方知れずだったこの家の一人息子・徳三郎。

慌てる番頭を折釘へぶら下げ、両手が使えるようにしてやった。

「オレが手伝えば造作もねえが、それじゃあおめえの忠義になるめえ」

おかげで目塗りも無事に済み、火も消えて一安心。

見舞い客でごった返す中、おやじの名代でやってきた近所の若だんなを見て、だんなはつくづくため息。

「あれはせがれと同い年だが、親孝行なことだ、それに引き換えウチのばか野郎は今の今ごろどうしていることやら……」
と、そこは親。

しんみりしていると、番頭がさっきの火消しを連れてくる。

顔を見ると、なんと「ウチのばか野郎」。

「徳か」と思わず声を上げそうになったが、そこは一徹なだんな。

勘当したせがれに声など掛けては世間に申し訳がないと、やせ我慢。

わざと素っ気なく礼を言おうとするが、こらえきれずに涙声で、
「こっちィ来い、このばかめ。……親ってえものはばかなもんで、よもやよもやと思っていたが、やっぱりこんな姿に……しばらく見ないうちに、たいそういい絵が書けなすった……親にもらった体に傷を付けるのは、親不孝の極みだ。この大ばか野郎」

そこへこけつまろびつ、知らせを聞いた母親。

甘いばかりで、せがれが帰ったので大喜び。

「鳥が鳴かぬ日はあっても、おまえを思い出さない日はなかった、どうか大火事がありますようにと、ご先祖に毎日手を合わせていた」
と言い出したから、おやじは目をむいた。

母親が
「法被一つでは寒いから、着物をやってくれ」
と言うと、だんなはそこは父親。

「勘当したせがれに着物をやってどうする」
と、まだ意地づく。

「そのぐらいなら捨てちまえ」
「捨てたものなら拾うのは勝手……」

意味を察して、母親は大張り切り。

「よく言ってくれなすった、箪笥ごと捨てましょう。お小遣いは千両も捨てて……」

しまいには、
「この子は小さいころから色白で黒が似合うから、黒羽二重の紋付きを着せて、小僧を供に……」
と言いだすから、
「おい、勘当したせがれに、そんななりィさせて、どうするつもりだ」
「火事のおかげで会えたんですから、火元へ礼にやります」

【しりたい】

命知らずの臥煙渡世

ここでは、徳三郎は町火消ではなく、定火消、すなわち武家屋敷専門の火消人足になっている設定です。

これは臥煙(がえん)とも呼ばれますが、身分は旗本の抱え中間(武家奉公人)で、飯田町(今の飯田橋辺)ほか、10か所に火消屋敷という本拠がありました。

もっぱら大名、旗本屋敷のみの鎮火にあたります。

平時は大部屋で起居して、一種の治外法権のもとに、博徒を引き入れて賭博を開帳していたため、その命知らずとガラの悪さとともに、町民の評判は最悪でした。

せがれが臥煙にまで「身を落とした」ことを聞いたときの父親の嘆きが推量できますが、この連中は町火消のように刺し子もまとわず、法被一枚で火中に飛び込むのを常としたため、死亡率も相当高かったわけです。

小説「火事息子」

落語の筋とは直接関係ありませんが、劇作家・演出家でもあった久保田万太郎(1889-1963)に、やはり、爽やかな明治の江戸っ子の生涯を描いた同名の小説があります。

これは、作者の小学校同窓であった、山谷の名代の料亭「重箱」の主人の半生をモデルとしたものです

重箱は今も赤坂にある鰻屋。超高級店です。

江戸時代には山谷にありました。今と違って、山谷は避暑地でした。

八代目正蔵の生一本

徳三郎は、番頭を折釘にぶらさげて動けるようにしてやるだけで、目塗りを直接には手伝わず、また父親も、必死にこみあげる情を押さえ通して、最後まで「勘当を許す」と自分では口にしません。

ともすればお涙ちょうだいに堕しがちな展開を、この親子の心意気で抑制させた、すぐれた演出です。

こうした、筋が一本通った古きよき江戸者の生きざまを、数ある演者の中で、特に八代目林家正蔵が朴訥に、見事に表現しました。

明治期には初代三遊亭円右の十八番で、昭和に入っては正蔵始め、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生、三代目桂三木助など、名だたる大看板が競演しています。

蒟蒻問答 こんにゃくもんどう 演目

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無言の話芸、仕方噺の極致。古寺に居合わした蒟蒻屋と托鉢僧との問答。

【あらすじ】

八王子在のある古寺は、長年住職のなり手がなく、荒れるに任されている。

これを心配した村の世話人・蒟蒻屋の六兵衛は、江戸を食い詰めて自分のところに転がり込んできている八五郎に、出家してこの寺の住職になるように勧めたので、当人もどうせ行く当てのない身、二つ返事で承知して、にわか坊主ができあがった。

二、三日はおとなしくしていた八五郎だが、だんだん本性をあらわし、毎日大酒を食らっては、寺男の権助と二人でくだを巻いている。

金がないので
「葬式でもない日にゃあ、坊主の陰干しができる。早く誰かくたばりゃあがらねえか」
とぼやいているところへ、玄関で
「頼もう」
と声がする。

出てみると蘆白(あじろ)笠を手にした坊さん。

越前永平寺の僧で沙弥托善と名乗り、
「諸国行脚の途中立ち寄ったが、看板に『葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず』とあるので禅寺と見受けた、ぜひご住職に一問答お願いしたい」
と言う。

なんだかわけがわからないが、権助が言うには、
「問答に負けると如意棒でぶったたかれた上、笠一本で寺から追い出される」
とのこと。

住職は留守だと追っ払おうとしたが、
「しからば命の限りお待ち申す」
という。

大変な坊主に見込まれたものだと、八五郎が逃げ支度をしていると、やって来たのが六兵衛。

事情を聞くと、
「俺が退治してやろう」
と身代わりを買ってでた。

「問答を仕掛けてきたら黙ったままでいるから、和尚は目も見えず口も利けないと言え。それで承知しやがらなかったら、咳払いを合図に飛びかかってぶち殺しちめえ」

さて翌日。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。

「法界に魚あり、尾も無く頭もなく、中の鰭骨を保つ。大和尚、この義はいかに」

六兵衛もとより、なんにも言わない。

坊主、無言の行だと勘違いして、しからば拙僧もと、手で○を作ると六兵衛、両手で大きな○。

十本の指を突き出すと、片手で五本の指を出す。

三本の指にはアッカンべー。

托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げ出した。

八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我らの及ぶところではござらん。『天地の間は』と申すと『大海のごとし』というお答え。『十方世界は』と申せば『五戒で保つ』と仰せられ、『三尊の弥陀は』との問いには『目の下にあり』。いや恐れ入りました」

六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。ばかにしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、こォんなに大きいと言ってやった。十でいくらだと抜かすから、五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」

【しりたい】

実在した沙弥托善

この噺、禅僧から落語家になったという二代目林家(屋)正蔵が、幕末の嘉永年間に作ったものだそうです。

噺の中であやうく殺されかかる(?)旅の禅僧・托善(沙弥は出家し立ての少年僧のこと)は、正蔵の坊主時代の名です。

原典については、このほかに、やはり禅僧出身の二代目三笑亭可楽とする説、もっとずっと古く、貞享年間(1684-88)刊の笑話本『当世はなしの本』中の「ばくちうち長老になる事」とする説もあります。

仏教と落語の深い関係

まあ、こういうことを言い出すと辛気臭くなって、落語がおもしろくなくなるかもしれませんが、「落語家の元祖」といわれる安楽庵策伝(「てれすこ」「子ほめ」参照)からして高僧でしたし、「寿限無」「後生鰻」「宗論」など、仏教の教説に由来する噺は少なくありません。

仏教と落語の結びつきは強いのです。

落語はもともと、節談説教(僧が言葉に抑揚を付け、美声とジェスチャーで演技するように語りかける説教)から起こったといわれているのです。関山和夫の一連の著作が根拠となります。

現在の落語協会会長である三遊亭円歌が日蓮宗の僧籍にあるのも、落語の伝統からして、別に珍しいことではない、ということになりますね。

ヴィジュアルで楽しむ仕方噺

「蒟蒻問答」では、後半の六兵衛と托善の禅問答は無言で、パントマイムのみになります。このように、動作のみによって噺の筋を展開するものを「仕方噺(しかたばなし)」といいます。目で見る落語のことです。

「愛宕山」「狸賽」「死神」など、一部分に仕方噺を取り入れている噺は多いのですが、「蒟蒻問答」ほど長くて、しかもストーリーの重要部分をジェスチャーだけで進めるものはほかにありません。

苦肉の実況解説付き

そのため、実際に寄席やテレビなど目の前で見ている客はいいのですが、レコードやラジオなどで耳だけで聞いていると、噺のもっともオイシイ部分で音声がとぎれてしまい、なにがなんだかわからなくなってしまいます。

そこで、この噺を得意にした五代目古今亭志ん生がこの噺をラジオ放送したときは、苦肉の策で、なんと歌舞伎並みの同時解説がつきました。「山藤章二の志ん生ラクゴニメ」の音源も同じのを使っています。

このように手間がかかるためか、昔から「蒟蒻問答」のレコードや放送は数少なく、現在出ているCDは、志ん生、八代目正蔵のものくらいです。

ホントはくだらない禅問答

噺では、六兵衛のジェスチャーを托善が勝手に誤解し、一人で恐れ入って退散してしまいますが、最初の「法界に魚あり……」は、魚という字から頭と尾(上下)を取れば、残るのは「田」。そこから、鰭骨(きこつ=中骨)、つまり|の部分を取り除けば、「日」の字になります。単なる言葉遊びです。これこそハッタリというものでしょう。

次の「十万世界」は、東西南北、艮(うしとら=北東)巽(たつみ=東南)坤(ひつじさる=南西)乾(いぬい=西北)の八方位に上下を加えた世界で、広大無辺の宇宙を表します。

「五戒」は禅の戒律(タブー)で、殺生戒 殺さない偸盗戒 盗まない邪淫戒 エッチしない妄語戒 うそをつかない飲酒戒 酒を飲まないの五つをさします。

こぼればなし

「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」は禅寺の表看板として紋切型ですね。「葷」とは、ネギやニンニなど臭気を放つ野菜のことです。以下は、三代目三遊亭金馬の思い出話。

明治の昔、大阪の二代目桂文枝が上京して、柳派の寄席に出演。ところがさらに、対立する三遊派の席にも出て稼ごうとすると止められました。楽屋内の張り紙に「文枝、三遊に入るを許さず」。

町内の若い衆 ちょうないのわかいしゅう 演目

男の悩みにこの1粒!【Cidorfin EX Hi-grade】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

最後の一言「寄ってたかって」でバレ噺に。長屋のおかみさんは太っ腹!

【あらすじ】

長屋の熊五郎、兄貴分の家に増築祝いに寄ると、かみさんが、今組合の寄り合いに出かけて留守だと言う。

熊がお世辞ついでに、
「兄貴はえらい、働き者でこんな豪勢な建て増しもできて、組合だって兄貴の働き一つでもっているようなもんだ」
と並べると、このかみさんの言うことが振るっている。

「あら、いやですよ。うちの人の働き一つで、こんなことができるもんですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

熊公、この言葉のおくゆかしさにすっかり感心してしまい
「さすがに兄貴のとこのかみさんだ。それに引き換え、うちのカカアは同じ女でありながら」
と、つくづく情けなくなった。

帰るといきなり、熊のかみさんは
「どこをのたくってやがった」
とヘビ扱い。

「てめえぐれえ口の悪い女はねえ、これこれこういうわけだが、てめえなんざこれだけの受け答えはできめえ」
と熊が説教すると
「ふん、それくらい言えなくてさ。言ってやるから建て増ししてごらん」

痛いところを突かれる。

形勢が悪いので
「湯ィへえってくる」
と言えば
「ついでに沈んじゃえ。ブクブク野郎」

熊公が腹を立て
「しらみじゃねえが、煮え湯ぶっかけてやろうかしらん」
と考えながら歩いていると、向こうから八五郎。

そこで熊が「カカアの奴、ああ大きなことを抜かしゃあがったからには、言えるか言えねえか試してやろう」と思いつき、八五郎に
「オレが留守のうちになにかオレのことをほめて、うちの奴がどんな受け答えをするか、聞いてきてくんねえ」
と頼む。

一杯おごる約束で引き受けた八五郎、いきなり熊のかみさんに
「あーら、八っつあん、うちのカボチャ野郎、生意気に湯へ行くなんて出てったけど、どうせあんなツラ、洗ったってしょうがないのにさ。あきれるじゃないか」

先制を食らわされ、目を白黒させたが、なにかほめなくてはとキョロキョロ見回しても、なにもない。

畳はすりきれている。土瓶は口がない。かみさんは臨月で腹がせり出している。

これだと思って
「いやあ、さすがに熊兄ィ。この物価高に赤ん坊をこさえるなんて、さすが働き者だ」

するとかみさんが
「あら、いやですよ。うちの人の働き一つでこんなことができるものですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

【しりたい】

原話もそのまま

たいていの噺は、原典があっても、長い年月を経るうちにかなりストーリーが変わってくるものですが、この「町内の若い衆」ばかりは最古の原話とされる元禄3年(1690)刊の笑話本『枝珊瑚珠』中の「人の情」以来、大筋はまったく同じなんです。

この笑話集は、江戸落語の始祖といわれる鹿野武左衛門(1649-99)の手になるものです。

それから1世紀を経た寛政10年(1798)刊の『軽口新玉箒』中の「築山」になると、オチとなる女房のセリフが「これも主(=主人)ばかりでなく、内の若い衆の転合に(てんごう、=いたずらで)こしらえました」と、余計エスカレートしています。

いかに、「若い衆がよってたかって」のオチにインパクトが強かったか、わかろうというものです。

「こさえてくれた」でご難

このたった一言のおかげで、あわれこの噺は太平洋戦争中は禁演落語の一つに指定され、「噺塚」に葬られました。

五代目古今亭志ん生がまだ七代目金原亭馬生だったころの昭和10年(1935)2月、レコードに吹き込んだ「町内の若い衆」の速記が残っています。

問題の最後の部分は、「こさえてくれた」ではとても検閲を通らず、「育ててくれた」という、おもしろくもおかしくもないものになっていますが、この時点までは、この程度のゴマカシで、バレ落語も辛うじて命脈を保っていたことになります。

もっと強烈「氏子中」

前述の志ん生の速記は、実はタイトルが「氏子中(うじこじゅう)」で、長男の十代目金原亭馬生も同じ題で「町内の若い衆」を演じています。ところが、同じ不倫噺でも本来、この二つは別話なんですね。「氏子中」という噺はこんな具合です。

商用の旅から一年ぶりに帰った亭主の与太郎が、女房が妊娠しているのを見て、驚いて問いただすと、女房もさるもの、氏神の神田明神に願掛けして授かった子だと、しらばっくれる。親分に相談すると、「子供が産まれたら、祝いに友達連中を呼んで荒神さまのお神酒で胞衣(えな、=胎盤)を洗えば、胞衣に本当の父親の紋が浮かび出る。そいつに母子ともノシつけてくれてやれ」そこで、言われたとおりにすると、「神田大明神」の文字がくっきり。疑いが晴れたかに見えたが、よくよく見ると横に「氏子中」。

こちらは、三遊亭円楽がたまに演じていました。

岸柳島 がんりゅうじま 演目

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渡し舟に乗り合わせた町人と侍。武士の間抜けな横暴ぶりを笑います。

【あらすじ】

浅草の御廐河岸から渡し船に乗り込んだ、年のころは三十二、三の色の浅黒い侍。

船縁で一服つけようとして、煙管をポンとたたくと、罹宇(らお)が緩んでいたと見え、雁首が取れて、川の中に落ちてしまった。

日ごろよほど大切にしていたものと見え、たちまち顔色が変わる。

船頭に聞くと、ここは深くてもう取ることはできないと言われ、無念そうにブツブツ言っている。

そこへ、よせばいいのに乗り合わせた紙屑屋が、不要になった吸い口を買い上げたいと持ちかけたので
「黙れっ、武士を愚弄いたすか。今拙者が落とした雁首と、きさまの雁首を引き換えにいたしてくれるから、そこへ直れっ」
ときたから紙屑屋は仰天。

いくら這いつくばって謝っても、若侍は聞かばこそ。

下手に仲裁をすれば、今度はこっちにお鉢がまわりそうだから、誰もとりなす者はいない。

あわれ、首と胴とが泣き別れと思ったその時、中間に槍を持たせた七十過ぎの侍が
「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴公の恥。ことに御主名が出ること、乗り合いいたししたる一同も迷惑いたしますから、どうぞご勘弁を」
と詫びたが、かえって火に油。

「しからば貴殿が相手。いざ尋常に勝負をさっしゃい」

けんかが別の所に飛び火した。

「それではやむを得ずお相手するが、ここは船中、たってとあれば広き場所で」
「これはおもしろい。船頭、船を向こう岸にやれ」

さあ、船の中は大騒ぎ。

若侍は袴の股立を取り、襷を掛けて、この爺、ただ一撃ちと勇んで支度する。

老人の方はゆっくりと槍の鞘を払い、りゅうりゅうとしごく。

対岸近くなると、若侍は勢いこんで飛び上がり、桟橋にヒラリと下り立った。

とたんに老人が槍の石突きでトーンと杭を突くと、反動で船が後戻り。

「あ、こら、卑怯者。船頭、返せ、戻せ」
「これ、あんなばかにかまわず、船を出してしまえ」
「へいっ。ざまあみやがれ、居残り野郎め。満潮になって、魚にでもかじられちまえ」

真っ赤になって怒った若侍、なにを思ったか、裸になると、大小を背負い、海にざんぶと飛び込んだ。

こりゃあ、離されて悔しいから、腹いせに船底に穴を開けて沈めちまおうてえ料簡らしいと、一同あわてるが、老侍は少しも騒がず、船縁でじっと待っていると、若侍がブクブクと浮き上がってきた。

「これ、その方はそれがしにたばかられたのを遺恨に思い、船底に穴を開けに参ったか」
「なーに、落ちた雁首を探しにきた」

【しりたい】

原典は中国の古典

『呂氏春秋』の「察今編」という逸話集にこんな話があります。

其の剣、舟中より水中におつ。にわかにその舟にきざみていわく、「これわが剣のよりておちし所なり」と。

これが「岸柳島」の原典と見られています。

この一文はひところ、高校の漢文の教科書や受験参考書などによく登場していましたから、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。

巌流島か、岸流島か

安永2年(1773)刊の『坐笑産』中の小ばなし「むだ」を始め、さまざまな笑話本に脚色されていますが、その後、上方落語「桑名舟」として口演されたものを東京に移す際、佐々木小次郎の逸話をもとにした講談の「佐々木巌流」の一節が加味され、この名がついたものです。

そのせいか、もとは若侍を岸に揚げた後、老人が、昔佐々木巌流(小次郎)がしつこく立ち会いを挑む相手を小島に揚げて舟を返し勝負をしなかった、という伝説を物語る場面がありました。

この説明がなければ、「巌流」といってもなんのことかわからず、むしろ「岸流島」の演題が正しいと三遊亭円朝が述べています。

こちらも志ん生の十八番

古くは三遊亭円朝、四代目三遊亭円生が演じ、大正の初代柳家小せん(「五人回し」参照)を経て、戦後は五代目古今亭志ん生が抱腹絶倒のくすぐり満載で大ヒットさせました。

志ん生が昭和31年(1956)に演じた「巌流島」は、同師の数少ない貴重な映像の一つとして残っています。

六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵、三代目三遊亭小円朝などの大看板も手掛けました。

上方では、東海道・桑名の渡し場を舞台にしています。

志ん生のくすぐり

●若侍が舟中に飛び込んできて

「あー、これッ。もっとそっちィ寄れッ。じゃまだッ。町人の分際でなんだその方たちは。あー? うー、人間の形をしてやがる。生意気にィ……あー、目ばたきをしてはならん。……息をするなッ」

●果たし合いが決まって舟中の連中

「あのじいさんは斬られる。するってえと、返す刀であの屑屋を斬る。そいからこんだ、てめえを斬る。斬らなきゃオレが頼む。『えー、そっちが済みましたらついでに……』」
「床屋じゃねえや」

●置いてけぼりの若侍をののしって

「ざまあみやがれ、宵越しの天ぷらァ」
「なんだい、そりゃ?」
「揚げっぱなしィ」

犬の目 いぬのめ 演目

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眼病の男。医師が目玉を抜き洗って干す。それを犬が食べて。逃げ噺。

【あらすじ】

目が悪くなって、医者に駆け込んだ男。

かかった医者がヘボンの弟子でシャボンという先生。

ところが、その先生が留守で、その弟子というのが診察する。

「これは手術が遅れたので、くり抜かなくては治らない」

さっさと目玉をひっこ抜き、洗ってもとに戻そうとすると、水でふやけてはめ込めない。

困って、縮むまで陰干しにしておくと、犬が目玉を食ってしまった。

「犬の腹に目玉が入ったから、春になったら芽を出すだろう」
「冗談じゃねえ。どうするんです」

しかたがないので、「犯犬」の目玉を罰としてくり抜き、男にはめ込む。

今までのより遠目が利いてよかったが、
「先生、ダメです。これじゃ外に出られません」
「なぜ?」
「小便する時、自然に足が持ち上がります」

【しりたい】

オチはいろいろ

軽い「逃げ噺」なので、オチはやり手によってさまざまに工夫され、変えられています。

艶笑がかったものでは、「夜女房と取り組むとき、自然に後ろから……」なんていうものも。

「まだ鑑札を受けていません」というのもあります。

原話である安永2年(1773)刊の『聞上手』中の「眼玉」では、「紙屑屋を見ると、吠えたくなる」というものです。

明治時代でのやり方

明治・大正の名人の一人で、六代目三遊亭円生の大師匠にあたる四代目橘家円蔵(品川の円蔵)の速記が残っています。

円蔵は男を清兵衛、医者を横町の山井直という名にし、前半で、知り合いの源兵衛に医者を紹介してもらうくだりを入れています。

ギャグも、「洗うときはソーダを効かさないでくれ」「枕元でヒョイと見回してウーンとうなる」など、気楽に挿入していますが、「ソーダ」のような化学用語に、いかにも明治のにおいを感じさせるものの、今日では古めかしすぎて、クスリとも笑えないでしょう。

円蔵は、目が落ちそうだと訴えるのに、中で目玉をふやかす薬を与えていて、そのあたりも現行と異なります。

三平の「貴重な」古典

昭和初期には、五代目三升家小勝が「目玉違い」の題で演じましたが、なんといっても先代林家三平の「湯屋番」「源平盛衰記」と並んでたった三席だけ残る貴重な(?)古典落語の音源の一つが、この「犬の目」です。その内容については……、言うだけヤボ、というものでしょう。

おおらかなナンセンス

類話「義眼」のシュールで秀逸なオチに比べ、「犬の目」では古めかしさが目立ち、そのためか最近はあまり演じられないようですが、こうした単純明快なばかばかしいナンセンスは今では逆に貴重品で、ある意味では落語の原点、エッセンスといえます。

新たなくすぐりやオチの創作次第では、まだまだ生きる噺だけに、若いやり手のテキストレジーに期待したいものです。

ヘボン先生

ヘボンは、明治学院やフェリス女学院を作ったアメリカ人の医者で熱心なキリスト教徒でした。

正しくは、ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn、1815-1911)といいます。姓の「Hepburn」はオードリー・ヘップバーンと同じつづりのため、最近では「ヘップバーン」と表記されることもあります。

1世紀以上も「ヘボン」に慣れた私たちには「ヘップバーンとはおれのことかとヘボン言い」といった違和感を覚えるわけですね。

米国長老派教会の医療伝道宣教師であり医師でもあったため、来日中は伝道と医療に貢献しました。

ヘボン式ローマ字の考案者として知られています。ヘボンが編纂した初の和英辞典『和英語林集成』に記載された日本語の表記法が原型となっています。

日本人の眼わずらい

ヘボンが来日してまず驚いたのは、日本人があまりにも眼病をわずらっていることでした。

これは、淋菌の付いた指で目をこすって「風眼」という淋菌性の眼病にかかる人が多かったからとのこと。「文違い」なんかにも出てきますね。

それだけ、日本人の性は、倫理もへったくれもなく、やり放題で、その結果、性病が日常的だったわけでもあるのですがね。

眼病となると、それが性病由来なのかどうかさえもわかっていなかったようです。

遊郭や岡場所などが主な元凶で、二次感染の温床は銭湯だったわけです。

衛生的にどうしたとかいう以前に、性があんまりにもおおっぴらだったことの証明なのでしょう。

ですから、この噺が、ヘボン先生の弟子のシャボン先生(そんなのいるわけありません)が登場するのは眼病とヘボンという、当時の人ならすぐに符合するものをくっつけて作っているところが、みそなんですね。

紙入れ かみいれ 演目

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年増女に誘われた新吉。だんながいきなり帰ってきて。さあ、困った。

【あらすじ】

いたって気が小さい小間物問屋の新吉。

お出入り先のおかみさんから、今夜はだんなが帰らないので寂しいから、遊びに来てくれという手紙をもらった。

だんなにバレれば得意先をしくじるが、年増のちょっといい女で食指も動く。

結局、おそるおそる出かけてみると、おかみさんの方は前々から惚れていた男だから、下にも置かないサービスぶり。

盃をさしつさされつしているうちに、酔ったおかみさんがしなだれかかってきた。

いまだに、いつだんなが踏み込んでくるかとびくびくものの新吉に比べ、こういう時は女の方が度胸が座っている。

「今夜は泊まってっとくれ」
「困ります。だんなが……」
「帰ってきやしないさ。おまえ、あたしが嫌いかえ」
「いえ、そんな……」

おかみさん、
「もしイヤというならあたしの立場がないから、だんなが帰った後、おまえが押し込んできてむりやりあたしを……」
と言い立てると新吉を脅し、布団に引きずり込む。

さて、これから……という時に、突然表戸をドンドンとたたく音。

「おい、開けねえか」

だから言わないこっちゃないと、文句を言う暇もない。

新吉、危うく裏口から脱出した。

翌朝。

床の間に、おかみさんの呼び出し状をはさんだままの紙入れを忘れてきたことに気づいた新吉、真っ青になる。

あの紙入れは自分の物だとだんなにも知られている。

とすると、もうバレているだろうが、もしそうでないのにこっちが逃げたんじゃあ、かえってヤブヘビだと考えて、おそるおそるようすを見にいくことにした。

だんながもし顔を見て
「この野郎、ふてえ野郎だ」
と言いかけたら、風を食らって逃げちまえばいい。

行ってみるとだんな、いつもと変わらず、
「おめえはそうして朝早くから商売熱心なのは感心だ」
とほめるので、新吉、これはことによると不意を突く策略かも、とますます緊張。

「……おい、どうしたんだ。顔が青いぜ。何か心配事か。使い込みだな」
「いえ」
「女の一件か」
「へえ」
「相手はカタギか、商売人か?」
「いえ……」
「てえとまさかおめえ、人の……」
「へえ、実はそうなんで」

とうとう言っちまった。

「他人の女房と枯れ木の枝は登り詰めたら命懸け、てえぐらいだ、てえげえにしゃあがれ」
と小言を言いながら、だんなが根掘り葉掘り聞いてくるの。

新吉、
「実はお世話になっている家のおかみさんが、……」
と一部始終をしゃべり出して、
「……そこィ長襦袢一枚でおかみさんが」
「こんちくしょう、いいことしやがって」「
寝たとたんにだんなが」
「悪いところィ帰りやがったな」

「逃げるには逃げたが、紙入れを……」
と言っているところへ、泰然自若として当のおかみさんが起きてきた。

話を聞いても少しもあわてず、
「あーら、そりゃあ心配だけどさ、けど、亭主の留守に若い男を引っ張り込んで、いいことをしようというおかみさんだもの、そこにぬかりはないと思うよ。紙入れぐらい」
とポンと胸をたたいて
「ちゃんと隠してありますよ。ねえ、おまいさん」
「そうだとも。たとい見たころで、間男されるような野郎だあな。そこまで気がつくめえ」

【しりたい】

人の女房と……なんとやら

「風呂敷」「包丁」と並び、不倫噺の傑作です。

因果と、どれもおもしろく、傑作ぞろいなんです、これが。

下半身のお楽しみは、千年一日のごとく変わらないようでで。

五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生のが傑作でしたが、おかみさんのしたたかさ、タチの悪さでは円生が図抜けていたでしょう。

間男の代金

「フリン」「姦通」というとなにか陰惨なイメージですが、「間男」というとどこかユーモラスで憎めない印象があります、ということを、さる師匠がマクラで言っていましたが、なに、やることと「罰則」に違いはありません。

間男を発見された場合、助命のための示談金は享保年間以後、ずっと七両二分と相場が決まっていました。

十両盗めば死罪ですから、人の女房を盗んだ「命金」も本来十両というのが理屈のようですが、これは十両大判の法定相場が七両二分ですから、額面十両、実利七両二分としたというのが本当のようです。

安永年間以後、幕府財政の悪化で貨幣が改鋳され、相場は五両に下落。

しかし、間男の首代はそのまま七両二分で、死罪の限度額も下がりませんでした。

上方のおそるべきオチ

上方ではまだ続きがあります。

おかみさんが調子に乗って、「その間抜け亭主の顔が見たいもんや」と言うと、だんなが顔を突き出して、「大方、こんな顔やろ」

ぞっとするようなすご味ですが、なるほど、これだけ微に入り細をうがってご説明申し上げれば、勘づかない方がどうかしていますね。

間男小ばなし「七両二分」

ある男が隣のかみさんとの間男を見つかり、示談金の相場は七両二分だが、金がないので、逢い引きした回数が二回だから、一回を一両と考えて二両に負けてもらう。家に帰って女房に恥ずかしながらと相談すると、かみさん、ニヤリと笑い、「金はやることないよ。隣へ行って、一両お釣りをもらっといで」「なぜ?」「あたしゃあ、隣の亭主に三度させてるんだ」

志ん生師匠に座布団二枚!

「浴衣ァ着て湯にへえっているような」
  ……おかみの手紙を読んだ新吉の心境。
              (五代目古今亭志ん生)

宿屋の富 やどやのとみ 演目

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金なし男が投宿、大金持ちぶりをふかすふかす。富くじに当たり震え止まらず。

【あらすじ】

馬喰町の、あるはやらない旅籠。

そこに飛び込んできた客が、家には奉公人が五百人いて、あちこちの大名に二万両、三万両と貸しているの、漬物に千両箱を十乗せて沢庵石にしているの、泥棒が入ったので好きなだけやると言ったのに、千両箱八十くらいしか持っていかなかったのと、好き放題に吹きまくる。

人のいい主人、これは大変な大金持ちだとすっかり感心。

「実は私どもは宿屋だけではやっていけないので、富の札を売っているが、一枚余ったのを買ってくれないか」
と持ちかける。

値は一分で、一番富千両、二番五百両。

「千両ぽっち当たってもじゃまでしょうがないから嫌だ」
というのをむりに説得、買ってもらった上、万一当たったら半分もらうという約束を取り付けた。

男は一人になると、
「なけなしの一分取られちゃった」
と、ぼやくことしきり。

「あれだけ大きなことを吹いたから、当分宿賃の催促はねえだろう。のむだけのんで食うだけ食って逃げちゃおう」
と開き直る。

翌朝。

「二万両返しにくる予定があるので、断ってくる」
と宿を出た男、なんとなく湯島天神の方に足が向く。

ちょうど富の当日で、境内では一攫千金を夢見る輩が、ああだこうだと勝手な熱を吹いている。

ある男、自分は昨夜夢枕に立った神さまと交渉して、二番富に当たることになっているので
「当たったら一反の財布を作って、五百両を細かくして入れ、吉原へ行きます」
と、素見でなじみみの女郎と口説の上、あがって大散財し、女郎を身請けするまでを一人二役の大熱演。

「それでおまえさん、当たらなかったらどうすんの」
「うどん食って寝ちまう」

騒いでいるうち、寺社奉行立ち会いの上、いよいよ富の抽選開始。

子供のかん高い声で
「おん富いちばーん、子のォ、千三百、六五ばァん」
と呼び上げる。

二番富になると、さっきの夢想男、持ち札が辰の二千三百四十一番なので、期待に胸をふくらませる。

「おん富にばーん、たつのォ、二千三百四十」
「ここですよ、女を身請けするか、うどん食って寝るかの別れ目は。一番ッ」
「七番」
「ふわー」

あわれ、引っくり返った。

一方、一文なしになった宿の客、当たり番号を見て
「オレのが子の千三百六十五番。少しの違いだな。うーん、子の、三百六十五番……三百六十五……うわっ、当たったッ、ウーン」

ショックで寒気がし、そのまま宿へ帰ると、二階で蒲団かぶってブルブル震えている。

旅籠のおやじも、後から天神の森に来て、やっぱり、
「子の千三百六十五……アリャリャリャリャー、ウワーッ」

こっちもブルブル震えて、飛ぶように家に帰ると、二階へすっとんで行き、
「あたあた、ああたの富、千両、当たりましたッ」
「うるせえなあ、貧乏人は。千両ばかりで、こんなにガタガタ……おまえ、座敷ィ下駄履いて上がってきやがったな。情けないやつだね」
「えー、お客さま、下で祝いの支度ができております。一杯おあがんなさい」
「いいよォ、千両っぱかりで」
「そんなこと言わずに」
と、ぱっと蒲団をめくると、客は草履をはいたまま。

【しりたい】

毎日どこかで富くじが

各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために興行したのが江戸時代の富くじで、単に「富」ともいいます。

文政年間(1818-30)の最盛期には江戸中で毎日どこかで富興行があったといいます。

有名なところは湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺、目黒不動境内など。

これら寺社では、多い時は月に20日以上、小規模な富が行われましたが、当サイト「富久」でご紹介したように、千両富となるとめったにありませんでした。

陰富もあった

当たりの最低金額は一朱(1/16両)でした。

「突き富」の別名があるのは、木札が入った箱の中央の穴から錐で突き刺すからで、ほとんどの場合、邪気のない子供にさせました。

普通、二番富から先にやりますが、落語では演出上、細かい点は気にしません。

富はあくまで公儀=寺社奉行の許可を得てその管轄下で行うものですが、幕末には「陰富」という非合法な興行が、旗本屋敷などで密かに催されるようになりました。

黙阿弥作の『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』に、今はカットされますが、「比企屋敷陰富の場」があり、大正15年(1926)11月の帝劇でただ1回上演されています。

これも上方から

上方落語の「高津の富」を、三代目柳家小さんが大阪の四代目桂文吾に教わり、明治末に東京に移しました。

その高弟の四代目小さん、七代目三笑亭可楽を経て五代目小さんに受け継がれましたが、小さんの型は、境内のこっけいなようすがなく、すぐに主人公が登場します。

オチは、あらすじで参照した五代目古今亭志ん生や次男の志ん朝は「客は草履をはいたままだった」と地(説明)で落としましたが、小さんのでは「あれっ、お客さんも草履はいてる」とセリフになります。

馬喰町は繁華街だった

東京都中央区日本橋馬喰町。

いまはさほどではありませんが、当時は江戸随一の繁華街で、元禄6年(1693)に信濃善光寺の開帳(秘蔵物を見せて金を取ること)が両国回向院で行われたとき、参詣人が殺到して以来、旅籠町として発展しました。

「お神酒徳利」にも登場します。

二階ぞめき にかいぞめき 演目

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自宅の二階に吉原をこさえた若だんな。ここまでなりきれれば、吉原狂!

【あらすじ】

若だんなが毎晩、吉原通いをするものだから堅物のおやじはかんかん。

世間の手前「勘当する」と言いだす。

番頭が心配して意見をしにくるが、この道楽息子、まるで受け付けない。

「女がどうのこうのじゃないんで、吉原のあの気分が好きなんだから、毎日行かずにはいられない、吉原全部を家に運んでくれれば、行かない」と言う。

これには番頭驚いたが
「それで若だんなの気がすむなら」
と二階を吉原の通りそっくりに改造し、灯まで入れて、ひやかし(そぞろ歩き)ができるようにした。

棟梁の腕がいい上、吉原まで行って実地検分してきたので本物そっくりで、若だんなは大喜び。

番頭に
「服装が大事だから古渡り唐桟を出せ」
「夜露は毒だから頬っかぶりをしていく」
などと騒いだあげく
「じゃ、行ってくるよォ。だれが来ても上げちゃァいけないよォ」

二階の吉原へ、とんとんとん。

上ってみると、茶屋行灯に明かりは入っているし、張り見世もあるし、そっくりなのだが、残念なことに、人がいない。

……当たり前だ。

そこで、人のいなくなった大引け(午前二時)過ぎという設定で、一人で熱演し始める。

『ちょいとあァた』
『なんでえ、ダメだよ、今夜は』
『そんなこと言わないで。あのコがお茶ひいちゃうから』

忙しいこと。背景音楽を新内から都々逸へ。

「別れにヌシの羽織がァ、かくれんぼォ…ッと」

ここで花魁が登場。

『ちょいと、兄さん、あがっとくれよッ』
『やだよ』
『へん、おアシがないんだろ。この泥棒野郎』
『ドロボーたァなんでィ』
『まァまァ』

止めに入った若い衆と花魁、一人三役で大立ち回り。

『この野郎、さあ殺せッ』

一階のおやじ、大声を聞きつけて、
「たまに家にいると思えば……」
と苦い顔。

ところがよく聞いてみると、なにか三人でけんかしているもよう。

あわてて小僧の定吉を呼んで
「二階へ行ってせがれを連れてこい」
と命じる。

定吉、上がってみると
「あれッ、ずいぶんきれいになっちゃたなあ。明かりもついてやがる」

頬っかぶりをした人がいるので、「泥棒かしらん」と思ってよく見ると、これが若だんな。

なにやら自分で自分の胸ぐら取って「さあ殺しゃあがれ」とやっている。

「しょうがねえなあ。ねえ、若だんな」
「なにをしやがる。後ろから小突きやがって。前から来い。だれだって?なあんだ。定か。悪いところで会ったなあ。おい、おめえな、ここでおれに会ったことは、家ィ帰っても、おやじにゃあ、黙っててくんねえ」

【しりたい】

ぞめき

「騒」と書きます。動詞形は「騒(ぞめ)く」です。

古い江戸ことばで、「大勢でわいわい騒ぎながら歩くこと」を意味します。

そこから転じて、「おもに吉原などの遊里を見世に上らずに、女郎や客引きの若い衆をからかいながら見物する」という意味になりました。

これを「ひやかし(素見)」ともいい、こちらの方が一般によく使われました。

要するに、遊興代がないのでそうするよりしかたがないのですが、そればかりともいえず、ひやかし(ぞめき)の連中と張り見世、つまりショウウィンドーにずらりと並ぶ女郎との丁々発止のやりとりは、吉原の独特の文化、情緒となって、遊里を描いた洒落本や芝居、音曲などの恰好の題材となりました。

原話では少しつつましく……

もっとも古い原典は、延享4年(1747)、江戸で刊行された笑話本『軽口花咲顔』中の「二階の遊興」ですが、オチを含め、現行の落語と大筋は変わりません。

こちらはそう大掛かりな「改築」をするわけでなく、若だんなが二階のふすまや障子に茶屋ののれんに似たものをつるし、それに「万屋」「吉文字屋」などと書き付けて、遊びの追憶にふけっている、という安手の設定です。

そのあと一人三役の熱演中、小便に行きたくなって階段を下りる途中で小僧に出くわし、オチのセリフになりますが、落語のように、現実を完全に忘れ去るほどでなく、至ってつつましいものです。

その後、落語としては上方で発達したので、二階を遊郭(大坂では新町)にしてしまうという現実離れした、はでさと贅沢さは、完全に上方の気風によって付け加えられたといってよいでしょう。

志ん生がもっとも好んだ噺

落語の古い口演記録として、きわめて貴重な、万延2年(1861=文久元)の、上方の桂松光のネタ帳『風流昔噺』に、この噺と思われる「息子二階のすまい ここでおうたゆうな」という記述があり、すでにこのころには上方落語として演じられていたことがわかります。

これを明治期に、三代目柳家小さんが東京に「逆輸入」したとされますが、古い速記やレコードは一切なく、残っているのは談志や志ん生のものです。

志ん生がこの噺を誰に教わったかは不明ですが、おそらく、三代目小さん門下の廓噺の天才・初代柳家小せん(「五人まわし」参照)でしょう。

志ん生は寄席やホール落語で「二階ぞめき」を数え切れないほど演じました。

それだけに、志ん生の数多い得意噺のうちでも、もっとも志ん生好みの噺といえますが、自分が若き日に通いつめた、古き良き吉原への追慕もさることながら、志ん生がなにより愛したのは、この若だんなの純情さ、それを許してしまう棟梁その他周囲の人々の江戸っ子の洒落気や懐の深さではなかったでしょうか。

志ん生指導:正しい吉原の歩き方・序

「ひやかし」の語源は……。「昔、吉原の、近在に、紙漉(かみすき)場があって、紙屋の職人が、紙を水に浸して、待ってんのが退屈だから、紙の冷ける間ひと廻り回ろう-てんで、『ひやかし』という名前がついてきたんですな」とのことです。

ところで、ただ単に吉原をぶらつくといっても、おのずとそこには厳しいルールとマナーがあります。洗練された文化を体現し、粋な男になるためには、情熱と努力、そしてなにより年期が大切なのです。

次の若だんなの一言がすべてを物語っています。「俺ァ女はどうでもいいんだよ。うん。俺ァ吉原ってものが好きなんだよ」 好きこそものの上手なれ。

それでは、志ん生師匠指導「ひやかし道」の基本から。

正しい吉原の歩き方:まずは正しい服装から

どの道も、修行はまず形からです。

それにふさわしい服装をして初めて、魂が入ります。

相撲取りはあの格好だからこそ相撲取り。スーツで土俵入りはできません。

その1

必ず古渡り唐桟(こわたりとうざん) を着用のこと。

唐桟は、ふつうは木綿の紺地に赤や浅黄の縦縞をあしらい、平織(縦糸・横糸を一本ずつ交差させたシンプルな織り方)に仕立ててあります。室町時代にインドから渡来した古いデザインなので、「古渡」の名があります。

はでな上に身幅が狭く、上半身がきゅっとしまっていかにもすっきりしたいい形なので、色街遊びには欠かせません。

その2

着物は必ず袂を切った平袖にします。

いわばノースリーブです。

これは、吉原を漂っていると、必ず同じ格好のひやかし客とぶつかります。

そうすると、ものも言わずに電光石火でパンチが飛んで来ますから、袂があると応戦が遅れ、あえなくのされてしまいます。それでは男の面子丸つぶれ。

そこで、平袖にして常に拳を固めて懐に忍ばせ(これをヤゾウといいます) 、突き当たった瞬間、 間髪入れずに右フックを見舞わなければなりません。そのための備えなのです。

その3

必ず「七五三の尻はしょり」をします。

七五三とは、 七の図、つまり腰の上端、フンドシまたはサルマタの締め際まで 着物のすそをはしょり、内股をちらりとのぞかせることで、 鉄火な(威勢のいい)男の色気を見せつけます。

仕上げに、渋い算盤玉柄の三尺帯をきりりと締めれば一丁あがり。

ただし、くれぐれもフンドシを締め忘れないよう注意のこと。

公然わいせつで八丁堀のだんなにしょっ引かれます。

その4

最後に、手拭で頬かむりをすれば準備完了。

ただし、 この場合もどんな柄でもいいというわけにはいきません。

ひやかしに 最適なのは亀のぞきという、ごく淡い、品のいい藍色地に染めたものです。頬かむりは、深夜に出かけるため、夜露を防ぐ意味も ありますが、なによりも、かの有名な芝居の「切られ与三」が源氏店の 場でしているのがこの「亀のぞき」であることからも分かるように、 ちょっと斜に構えた男の色気を出すためには必携のアイテムです。

これで、夜の暗さとあいまって、あなたも海老蔵に見えないこともありません。

ただし、間違っても黒地で盗人結びになどしないこと。

八丁堀のだんなにしょっ引かれます。

その5

以上で、スタイルはOK。

あと、基本的な心得としては、その2でも触れましたが、必ず、100%間違いなく、一回の出撃でけんかが最低三度は起こりますから、無事に生きて帰るためにも、先制攻撃の覚悟を常に持つこと。

どんなに客引きの若い衆に泣き落とされ、はたまた張り見世のお茶ひき(あぶれ)女郎に誘惑され、果ては銭なしの煙草泥棒野郎と罵られても、絶対に登楼などしないという、固い決意と意志を持ってダンディズムを貫くことが大切です。

とまあ、こういうスタイルで若だんなは「出かけた」わけですが……。

この二階の改築費用、どのぐらいについたか、他人事ながら心配です。おまけに、当主の親父は知らぬが仏。この店の身代も、この分では十年ももつかどうか……。

いつの世も、かく破滅の淵をのぞかないと、道楽の道は極められないようで。

幇間腹 たいこばら 演目

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昔は道楽者やばかでも医者になれたみたいです。現代と変わらないか。

【あらすじ】

道楽者の若だんな、家が金持ちであるのをいいことに、あらゆる悪行をし尽くして、もうすることがなくなってしまった。

そこではたと考え込み
「こうやって道楽をして生涯を終わってしまうのは、実にもったいない。これからはせめて、同じことなら人助けになる道楽をしてみよう」
と妙な改心をした挙げ句、
「人助けならいっそ医者だが、なるのが大変だから、どうせなら簡単に免許が取れそうな鍼医にでもなってやろう」
と思いつく。

思い立ったが吉日と、さっそく杉山流の鍼医の先生に弟子入りしたが、書物の講釈ばかりして一行に鍼を持たせてくれない。

根がお調子者で気まぐれだから、じきに飽きてしまい、すぐにでも「人体実験」をしてみたくてたまらなくなった。

猫を突っついてみても練習にはならない。

やっぱり人間でなければと、そこで思い出したのが欲深の幇間の一八。

「金の五両もやれば文句はあるまい」
と喜び勇んで一八の家に出かけていく。

一八もこのところ不景気なので、久しぶりに現れた若だんなを見て
「さあいい獲物がかかった」
と大はりきり。

その上、若だんなに
「三百人も芸人とつき合った中で、頼りになるのはおまえ一人」
とおだてられ、つい調子に乗って
「若だんなのためなら一命も捨てます」
と口走ったのが運の尽き。

若だんなの
「一生の頼み」
と聞いて仰天したがもう遅く、いやいやながら五両で「実験台」を引き受けさせられてしまう。

「南無阿弥陀仏」
と唱え、
「今日がこの世の見納め」
と観念して横になると、舌なめずりの若だんな、初めてなので手が震える。

まずは一本、水落ちへブッスリ。

スッと入るのでおもしろくなって、全部入れちまったからさあ抜けない。

「こういう時はもう一本、友達のハリを打って、意見をして連れ戻してもらうよりしかたがない」
というので、もう一本。

またも抜けない。

「若い奴を迎えにやったから、ミイラ取りがミイラになって、いっしょに遊んじまってるんだ、ウン。今度は年寄りのハリを送って、連れ帰ってもらおう」
と、もう一本。

またまた抜けない。

どうしようもなくなって、爪を掛けてグーッと引っ張ったから、皮は破れて血はタラタラ。

あまりの痛さに一八が
「アレー」
と叫んだから、若だんな、びっくりして逃げ出してしまった。

「一八さん、どうしたい。切腹でもしたのかい」
「冗談じゃねえ。これこれこういうわけで、若だんなを逃がしちまって一文にもならない」
「ああ、ならないわけだよ。破れだいこ(たいこ=幇間)だから、もう鳴らない」

【しりたい】

原話の方が過激?

もっとも古い原型は、安楽庵策伝の『醒睡笑』(「子ほめ」「てれすこ」参照)巻二「賢だて第七話」、ついで元禄16年(1703)刊『軽口御前男』中の「言いぬけの(もがり)」ですが、この二話ではともに、鍼を打って患者を殺し、まんまと逃げてしまいます。

前者では鍼医が瀕死の病人の天突の穴(のどの下の胸骨のくぼみで、急所)にズブリとやり、病人の顔色が変わったので家族が騒ぎ出すのを一喝しておいて、鍼を抜くと同時に「さあ泣け」。わっと泣き出したどさくさに風をくらって退散という業悪ぶりです。

時代がくだって明和9年(1772)刊『楽牽頭』中の「金銀の針」、安永5年(1776)刊の『年忘れ噺角力』中の「鍼の稽古」になるとぐっと現行に近くなり、「迎え鍼」のくすぐりも加わって、加害者は客、被害者が幇間になります。

若だんなの異名は「ボロッ買い」

この噺、もともとは上方から東京に移されたものですが、あまり大ネタ扱いされず、速記や音源も多くありません。

明治27年(1894)の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残されているのは貴重で、今回のあらすじはその小さんのものを底本にしました。

この中で一八は尾羽打ち枯らした老幇間、若だんなは15歳から21歳の今日まで、ありとあらゆる女という女を賞味し尽くし、「人類ことごとく試してみて、牝馬のお尻まで犯してはみたが、まだ幇間のお尻を試したことは無い」。

江戸ことばで、誰とでも見境なく寝る意味の「ボロッ買い」という大変な代物という設定です。

現行と少し違うのは、出入りの按摩にそそのかされて「人体実験」を思いつくのと、若だんなが直接一八宅に押しかけるところでしょう。

一八が承知する最後の決め手が「公債証書の五枚に地面(=土地)の一ヶ所」というのが、いかにも時代です。

「幇間腹」をあきらめた文楽

八代目桂文楽が「幇間腹」を覚えようと、「孝ちゃん」こと柳家甚語楼時代の志ん生に教わりに行ったというエピソードがあります。昭和初期のことです。

ということは、そのころにはこの噺は、大看板の師匠連で演じる者はなく、やっているのは無頼の悪名高い、悪友の甚語楼くらいしかいなかったということのようです。

しかし、結局ものにならず、文楽はいさぎよく「幇間腹」を断念します。後年あれほど幇間噺を得意にした文楽が、なぜモノにできなかったかよくわかりませんが、あまりにもギャグだくさんでおにぎやかなだけの噺で、同じ幇間噺の「鰻の幇間」などと違って、自分の目指す幇間のペーソスや陰影が出しにくく、このまま覚えてもとうてい甚語楼には勝てないと思ったのかもしれません。おもしろい逸話です。

杉山流

鍼医術の一派で、天和2年(1682)、盲人の杉山和一が幕命を受け、鍼治講習所を設置したのが始まり。

江戸をはじめ全国に爆発的に普及しました。

志ん生の「幇間腹」

戦後は三代目春風亭柳好、五代目古今亭志ん生が得意にしましたが、やはりなんと言っても志ん生のものでしょうね。

志ん生は、後半の鍼を打ち込むくだりは、むしろあっさりと演じ、「迎え鍼」の部分では、二本目が折れたところで若だんなは逃げてしまいます。

その分前半はみっちり。

たとえば若だんなの凝っているものがわからずに不安になって、「え? ゴルフ?」「え? 撞球(ビリヤード)ですかァ? 」 と懸命にヨイショして聞き出そうとしたり、「おまえに鍼を打つ」と言われ、動揺をごまかすため、「そんなこたァ、嘘だー」と泣き出しそうな唄い調子で言ったり、「芸人はてめえだけじゃない」と若だんなに居直られると、また節をつけて「いやだよォ、あなたは」と媚びるなど、感情を押し隠さず、ナマの人間としての幇間を率直に表現する志ん生ならではの真骨頂でした。

志ん生はこの噺をごく若いころからよく演じていて、晩年の速記でも、一八が「マーチャン」(麻雀のこと)に凝っているという設定から、時代背景をを昭和初期のまま固定していたことがうかがわれます。

胡椒の悔やみ こしょうのくやみ 演目

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まじめなときになんだか笑っちゃうことって、ときにありますよね。

【あらすじ】

なにを見てもおかしくなる、という幸せな男。

今日もケラケラ笑って兄貴分の家にやってくる。

「自分の長屋の地主の娘が、急に昨夜死んでしまったのが、おかしくてたまらない」
と言う。

「あきれけえった野郎だ」
と兄いがたしなめても、
「だって、七十八十でもまだ腐らない奴があるのに、あんな十七八の小娘が死んじまって生意気だ」
と、不思議な理屈でいつまでたっても笑いが止まらない。

兄貴分が
「てめえがいつも出入りさせてもらって、ふだんから半纏の一枚もいただいてる家じゃねえか。こういう時こそ手伝いに行って、くやみの一つも言ってみろ。また目をかけてくれる」
と勧めるが、
「くやみの言い方がわからないからやさしい奴を一つ教えてくれ」
という。

「……いいか。承って驚き入りました、お嬢さまはおかくれだそうでございます、さぞお力落としでございましょう」
「えー、お力が出たでしょう」
「ばか野郎。なぐられるぞ」

なんとかセリフだけは教え込まれ、
「悲しくなくても涙の一つくらい流さなくちゃならねえ、特にてめえは笑い止めが必要だ」
と兄貴分が言い、渡されたのが胡椒の粉。

なめると、なるほど涙がポロポロ。

「向こうまで遠いから、あんまり早くなめていくと効き目が切れる。かといって、向こうへ行ってからベロベロやってくやみを言ったのではバレてしまって体裁が悪いから、垣根か戸袋の陰でこっそりなめろ」
と、細かい「指導」の上、送りだされる。

さて式場。

早くも女どもが、クドクドと心にもないくやみを並べ立てるのを聞くと、野郎、またまた笑いがこみ上げてきた。

「あのオカミめ。あいつも胡椒なめやがったな。プッ、フ、フ、ハハ、いけねえ。俺もそろそろやるか」

ドジな奴で、いっぺんに全部口に放り込んだので、まるで舌に火がついたよう。

そこへ娘の母親。

「おまえ、どうおしだね。 ボロボロ涙をこぼして」
「へえ、少しなめすぎたらしくて……承って驚き入り……お嬢さまが……ハックショッ!! 鼻に入りやがって。……もし、水をすこしおくんなさい」

やっと落ちつき、
「えー、お嬢さまがおかくれでございまして、お嬢さまがおかくれで」

そこでグイッと水をのんで、
「あー、いい気分だ」

【しりたい】

原話二題

原話として知られる小ばなしは、安永2(1773)年刊の『聞上手』中の「山椒」、及び同3年刊『茶の子餅』中の「悔やみ」です。

前者の「山椒」は、八百屋で山椒をかじっていた男が、からいので茶をもらってのんでいるうち、向こうの家で主人が二階から落ちて大けがという騒ぎ。男はまだスウスウ言いながら駆けつけ、家人と話しているうちに辛味が消え、「やれそれは、スウ、ホウ、いい気味(=気分)だ」と言ってしまうもの。

後者の「悔やみ」は、やや現行に近くなり、山椒のからさで悔やみの演技がよくできたので、思わず「いい気味だ」と口に出す筋立てです。

八代目柳枝の十八番

昭和34年(1959)9月23日、ラジオの公開録音で「お血脈」を演じている最中に倒れ、亡くなった八代目春風亭柳枝。

三遊亭円窓の最初の師匠ですが、美声を生かした端正で穏やかな語り口で、「野ざらし」「王子の狐」など、江戸前の噺で人気がありました。

その柳枝がもっとも得意にしたのがこの噺で、同師はオチの部分を「はあっくしょい。ああ顔がこわれちゃう。こりゃおどろいたねどうも。……一時はどうなることかと思いましてな、どうも。……うぷっ、うけたまわり、うけたまわりますれば……うふふふっ、お嬢さんお亡くなりになったそうで……うーい、あーあ、いい気持ちだ」と写実的に演じ、滑稽味を強く出しました。

この噺の場合、どのやり手も「いい気持ち」のきっかけがわかりにくいので、水をのんで辛味が治るという段取りをつけることが多いようです。

胡椒の効用

古くから薬用として用いられ、特に、鼻の中に異物が入って出ないとき、胡椒粉をなめ、くしゃみをして出す民間療法がよく行われていました。

別話「悔やみ」

この噺の別題は「悔やみ」ですが、ややこしいことにまったく別話で「悔やみ」があります。

お店のだんなの葬式に、女房から悔やみのセリフを教えてもらい、出かけたまぬけ亭主が、ふだん世話になっているおかみさんの前でお経をあげながら、だんなに冷奴で焼酎をごちそうになったとか、腹痛を起こしてはばかりに行ったら紙がなく、困っているのを助けてもらったとか、くだらない思い出話をさんざん並べたあげく、「ナムアミダブ……だんなが先に死んで、こんないい女のおかみさんを一人置くのは、もったいない。あらもったいないったら、ンニャアモリョリョン」と、最後は明治の五代目桂文楽が流行らせた奇妙な「モリョリョン踊り」の節で、とんでもない下心を出す。

この噺は、六代目三遊亭円生がよく演じました。

お神酒徳利 おみきどっくり 演目

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インチキ易で消えた徳利を探し出した(?)番頭。その後の展開が広がって。

【あらすじ】

馬喰町一丁目に刈豆屋吉左衛門という旅籠があった。

先祖が徳川家康から拝領した、銀の葵の紋付きの一対のお神酒徳利を家法にして代々伝えてきたが、大切なものなので一年一回、大晦日の煤取りの時しか出さない。

ある年の大晦日、その煤取り(大掃除)の最中に、台所に水をのみにきた番頭の善六がひょいと見ると、大切なお神酒徳利が流しに転がっている。

入れ物がないので、そばの大きな水瓶に放り込んで蓋をし、うっかり者の番頭、それっきり忘れてしまった。

店ではいよいよお神酒をあげようとすると、徳利がなくなっているので大騒ぎ。

ところが善六、帰宅して、はっと水瓶のことを思い出し、すぐ報告をと思うのだが、痛くもない腹をさぐられるのも……と困っていると、しっかり者の女房が知恵を授ける。

女房の父親がたまたま易者をしているので、それに引っかけて、筮竹はバレやすいから、商売柄、算盤をパチパチやって、ニワカ素人易者のふりをして言い当てて見せればいい、というわけ。

善六、店に戻ると、さっそく女房に言われた通り、いいかげんに易をたて、水瓶の蓋を取って徳利を「発見」してみせたので、主人は大喜び。

易の大先生だと、店中の評判になる。

たまたま宿泊していて、この評判を聞きつけたのが大坂今橋・鴻池の番頭。

「主人の十七になる娘が三年この方大病で、あらゆる名医を頼み、加持祈祷も尽くしたが効果がなく困っていたところなので、ご当家にそんな大先生がおられるなら、ぜひ大坂に来ていただきたい」
と頼む。

善六、頭を抱えるがもう遅い。

帰ってまた女房に相談すると、
「寿命のことは私にはわかりませんとかなんとかゴマかして、礼金の三十両もせしめておいで」
と尻をたたくので、不承不承、承知して、東海道を下ることとなった。

途中の神奈川宿・新羽屋源兵衛という本陣。

泊まろうとすると、家内になにやら取り込みがあるようす。

聞けば、宿泊中の薩州の侍の、密書入りの巾着が盗まれたとかで、主人が疑いをかけられて役所へひかれたという。

善六のことを聞くと、店中大喜び。

「ぜひ大先生にお願いを」
と言われて善六はゲンナリ。

もうこれまでと逃げ支度にかかった時、部屋の障子がスーっと開いて、色青ざめた女がおずおずと入ってくる。

聞くと、
「近在の百姓の娘で宿の女中をしているが、父親の病気を直したい一心からつい出来心で巾着に手を出した」
という。

「高名な易の先生が来ているというのでもう逃げられないと思い、こうして出てきた、どうぞお慈悲を」
と泣くので、善六、これぞ天運と内心ニンマリ。

威厳を取り繕って、巾着が、稲荷さまのお宮が嵐でつぶれて床板が積み重ねてある間に隠してあることをうまく聞き出し、これは稲荷の祟りだと言い繕って、巾着を首尾よく掘り出して見せたので、善六、もう神さま扱い。

女には礼金から五両与えて逃がしてやり、拝まれながら大坂へ出発した。

鴻池でも下へもおかない大歓迎。

しかし、そろそろ「仕事」にとりかからなければならないと、また気が重くなりだしたその夜、善六の夢枕に不思議な白髭の老人が立った。

これが実は、正一位稲荷大明神。

神奈川での一件以来、霊験あらたかな神社と評判で、はやりにはやって宮の造営もできたとかで、褒美として娘の「治療法」を教えてくれる。

稲荷に言われた通り、乾隅の柱四十二本目を三尺五寸掘り下げると、一尺二寸の観音像が現れたので、それを祭ると、病人はたちまち全快。

さあ、鴻池の喜びはひとかたでなく、望みの物をお礼にというので、馬喰町に旅籠を一軒持たせてもらい、繁盛した、という。

算盤占いだけに、生活がケタ違いによくなった、という話。

【しりたい】

世界中に同類の民話

上方落語のルーツ研究では右に出る者がない宇井無愁の『落語の根多』によると、日本各地の民話に類話があるばかりか、朝鮮、中国、トルコ、コーカサスにも類似した民話があるということです。

「ごくあたりまえのことが無知の目には奇蹟とうつり、世間の無知が人気者を作り出すという諷刺になっている」(同書)という英雄伝説草創のパターンは、全人類に共通しているのかもしれませんね。

演出に二つの流れ

上方落語「占い八百屋」を三代目柳家小さんが東京に移して、それが四代目、五代目へと継承された小さん系の型、五代目金原亭馬生(おもちゃ屋の、1864-1946)からの直伝で、押しも押されもせぬ十八番に仕上げた、六代目三遊亭円生の演出の二系統があります。

上のあらすじは、円生のものをテキストにしました。

三代目桂三木助のはほぼ円生通りでしたが、オチが「これも神奈川の稲荷大明神のおかげだね」「なあに、カカア大明神のおかげだ」となっています。

大阪、小さん系はいたずらから

小さんの方は前半が異なり、上方の通りで主人公は八百屋。

出入り先のお店で女中をからかってやろうとわざと徳利の片割れを水がめに隠しますが、ゲンが悪いと大騒ぎになって言い出せなくなり、やむなく算盤占いで……というのが発端です。ここでは徳利は貴重品でも何でもありません。

在所の弟の訴訟事を占ってほしいという主人の頼みで三島宿(大阪では明石宿)まで出かけ、途中の宿屋で頼まれた泥棒探しを運良く解決したものの、たちまち近在から依頼が殺到。たまらなくなって逃走し、「今度は先生が紛失した」というオチです。

類話「出世の鼻」とのかかわり

「出世の鼻」(別題「鼻利き源兵衛」)という噺は、「お神酒徳利」に似ていますが、別話です。

主人公の八百屋が、ソロバン占いの代わりに、紛失物のにおいを鼻で嗅ぎ出すという触れ込みで、幸運にも大金持ちに成り上がるという異色作です。

馬喰町の旅籠

「宿屋の富」でも記しましたが、日本橋馬喰町は江戸随一の宿屋街で、東海道筋からの旅人はもとより、江戸に全国から集まった「お上りさん」はほとんど、ここの旅宿にワラジを脱ぎました。

「八十二軒御百姓宿」といい、幕府公認、公許の旅籠街で、大坂では、高津がこれにあたります。

この場合の「百姓(ひゃくせい)」は「万民、人民」というほどの意味です。

大きく分けて、百姓宿と旅人宿がありました。

百姓宿は公事宿(くじやど)で、訴訟・裁判のために上京する者を専門に泊め、勘定奉行所の監督下で必要書類の作成など、事務手続きも代行しました。

旅人宿は、公事宿の機能をを兼ねる旅籠もありましたが、主に一般の旅人を宿泊させました。

ただし、こちらは町奉行所の管轄下で、怪しい者、手配の犯人が潜伏していないかなど、客を監視して逐一お上に通報する義務を負っていたところが、「公許」の旅籠街たるところです。

馬喰町の旅籠は「宿屋の仇討ち」にも登場します。

円生の噺中の「刈豆屋吉左衛門」は馬喰町の総取締で、実在しました。

五代目小さんのくすぐり

●八百屋が宿の待遇に文句をつけて

「客が着いたら、女房に閨房(けいぼう、つまりベッド)のお伽(とぎ、=お相手)をさせましょうくらい言え」

浮世根問 うきよねどい 演目

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「根問」とはルーツを尋ねること。さかしげなガキの「どーして?」ですね。

【あらすじ】

三度に一度は他人の家で飯を食うことをモットーとしている八五郎。

今日もやって来るなり「お菜は何ですか?」と聞く厚かましさに、隠居は渋い顔。

隠居が本を読んでいるのを見て八五郎、
「本てえのはもうかりますか」
と聞くので
「ばかを言うもんじゃない。もうけて本を読むものじゃない。本は世間を明るくするためのもので、おかげでおまえが知らないことをあたしは知っているのだから、なんでも聞いてごらん」
と隠居が豪語する。

そこで八五郎は質問責め。

まず、今夜嫁入りがあるが、女が来るんだから女入りとか娘入りと言えばいいのに、なぜ嫁入りかと聞く。

隠居、
「男に目が二つ、女に目が二つ、二つ二つで四目入りだ」
「目の子勘定か。八つ目鰻なら十六目入りだ」

話は正月の飾りに移った。

「鶴は千年亀は万年というけど、鶴亀が死んだらどこへ行きます?」
「おめでたいから極楽だろう」
「極楽てえのはどこにあります?」
「西方弥陀の浄土、十万億土だ」
「サイホウてえますと?」
「西の方だ」
「西てえと、どこです?」

隠居、うんざりして、
「もうお帰り」
と言っても八五郎、御膳が出るまで頑張ると動じない。

この間、岩田の隠居に
「宇宙をぶーんと飛行機で飛んだらどこへ行くでしょう」
と聞くと、
「行けども行けども宇宙だ」
とゴマかすので、
「じゃ、その行けども行けども宇宙をぶーんと飛んだらどこへ行くでしょう?」

行けどもぶーん、行けどもぶーんで三十分。

向こうは喘息持ちだから、だんだん顔が青ざめてきて、
「その先は朦々(もうもう)だ」
「そんな牛の鳴き声みてえな所は驚かねえ。そこんところをぶーんと飛んだら?」
「いっそう朦々だ」
「そこんところをぶーん」

……モウモウブーン、イッソウブーンで四十分。

「そこから先は飛行機がくっついて飛べない」
「そんな蠅取り紙のような所は驚かねえ。そこんところをぶーん」
とやったらついに降参、五十銭くれた。

「おまえさんも極楽が答えられなかったら五十銭出すかい?」
「誰がやるか。極楽はここだ」
と隠居が連れていったのが仏壇。

こしらえものの蓮の花、線香を焚けば紫の雲。鐘と木魚が妙なる音楽というわけ。

「じゃ、鶴亀もここへ来て仏になりますか?」
「あれは畜生だからなれない」
「じゃ、なにになります?」
「ごらん。この通りロウソク立てになってる」

【しりたい】

根問

ねどい。「根問」は上方ことばで「根掘り葉掘り聞くこと」を意味します。

小さん二代が確立

上方落語の「根問もの」の代表作で、明治期に東京に移されたものです。上方では短くカットして前座の口ならしに演じられますが、初代桂春団治の貴重な音源が残ります。

明治時代にはまだ、東京では「薬缶」と「浮世根問」の区別が曖昧で、たとえば、明治期の四代目春風亭柳枝の速記はかなり長く、「無学者」の題で演じています。

いろいろな魚の名前の由来を聞いていく前半は「薬缶」と共通しています。

今回のあらすじは、師匠の四代目小さん譲りで演じた、五代目柳家小さんのものを底本にしましたが、この二代の小さんが上方のやり方を尊重し、この噺を独立した一編として確立したわけです。

鶴亀のろうそく立て

オチの「ろうそく立て」については、今ではなんのことやらさっぱりわからなくなっているので、現行の演出ではカットし、最後までいかないことが多くなっています。

これは、寺などで使用した燭台で、亀の背に鶴が立ち、その頭の上にろうそくを立てるものです。

鶴亀はいずれも長寿を象徴しますから、要するに縁起ものでしょう。

目の子

「目の子勘定」といって、公正を期すため、金銭などを目の前で見て数えることです。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『髪結新三』で、大家の長兵衛が悪党の新三の目の前で小判を一枚一枚並べる場面が有名です。

原話について

もっとも古いものは、京都辻噺の祖・露の五郎兵衛(1643-1703)の『露休置土産』中の「鶴と鷺の評論」です。

これは、二人の男が鶴の絵の屏風について論じ合い、一人が「この鳥は白鳥にしてはちょっと足が長い」と言うと、もう一人が「はて、わけもない。これは鷺だ」と反論します。見かねた主人が「これは鶴の絵ですよ」と口をはさむと、後の男が「人をばかにするでない。鶴なら、ろうそく立てをくわえているはずだ」。

時代が下って、安永5年(1776)、江戸で刊行された『鳥の町』中の小ばなし「根問」になると、以下のようになっています。

「鶴は千年生きるというが、本当かい?」
「そうさ。千年生きる証拠に、鎌倉には頼朝の放したという鶴がまだ生きているじゃないか」
「じゃ、千年たったらどうなる?」
「死ぬのさ」
「死んでどうなる?」
「十万億土(極楽)に行くのさ」
「極楽へ行ってどうする?」
「うるさい野郎だな。ろうそく立てになるんだ」

ぐっと現行に近くなります。

竃幽霊 へっついゆうれい 演目

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昔は、へっついから幽霊がよく出たもんです。そう、出そうでしょ、あそこ。

【あらすじ】

ある道具屋から買ったへっつい(かまど)から幽霊が出るというので、買う客買う客みな一日ともたずに青い顔で返品に来る。

道具屋の親方、毎日一分二朱で売って三割安で戻ってくるから、初めはもうかると喜んでいたが、そのうち評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。

困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいいばかがいたら、三両付けて引き取ってもらうことにした。

これを聞きつけたのが裏の長屋に住む遊び人の熊五郎。

「幽霊なんざ目じゃねえ」
とばかり、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳兵衛さんを誘って、半分の一両二分もらった上、とりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。

こわがる徳さんに、幽霊は自分が引き受けて、もうけは折半するからと因果を含めて、二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にぶつけた。

その拍子に転がり出たのが、なんと三百両の大金。

「ははァ、これに気が残って出やがるんだ」
と合点して、その金を折半、若だんなは吉原へ、熊公は博打場へそれぞれ直行したが、翌日の夕方、帰ってみると二人ともきれいにすってんてん。

しかたがないから寝ることにしたが、その晩、徳さんの枕元へ青い白い奴がスーっと出て
「金返せェ」

「ギャーッ」
と叫ぶのを飛び込んできた熊公がなだめすかし
「こりゃあ、金をたたき返してやらないと毎晩でも出るな」
と思案する。

翌日。

徳さんの親元から三百両を借りてきた熊、へっついを自分の部屋に運び込むと、夕方から
「出やがれ、幽霊ッ」
とどなっている。

丑三ツ時になると、へっついから青白い陰火がボーッと出て
「へい、お待ちどうさま」

「鰻ィあつらえたんじゃねえや、恨めしいとか何とか言え」
と毒づくと
「へえ、それが恨めしくないんで」
とくる。

そこで幽霊が「身の下」はないから身の上を語るところによれば、生前は鳥越に住んでいた留といって、表向きは左官で裏は博打打ち。

それも、チョウ(丁)よりほかに張ったことはないそうな。

ある日。

めずらしく賭場で三百両もうけたが、友達が借りに来てうるさいので、金をへっついの中に隠したまま、その夜フグに当たってあえない最期、という次第。

熊は
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、百五十両ずつ立てんぼだ」
とむりやり半額にして返してやる。

「おめえ、不服か。実はこっちも心持が中途半端でいけねえ。いっそ、どっちかへ押しつけちまおう」
「ようがす」

熊の提案に、幽霊もかつてはくろうとなので、興奮して手をユラユラさせながら承知した。

二ッ粒の丁半で、出た目は半。

幽霊は丁しか張らないので、熊の勝ち。

「親方、もう一丁頼みます」
「勘弁してもらおう。もうてめえに金がねえじゃねえか」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」

【しりたい】 

原話は墓でバクチ

安永2年(1773)刊の『俗談今歳花時』中の「幽霊」という小ばなしが原話です。

これは、火事で「真黒やき」になった仲間の一周忌追善に、バクチ狂いだった故人をしのび、墓場でチョボイチをご開帳していると、懐かしいサイの音に誘われ、当人が幽霊となって出現。さっそく仲間に加わって、死装束をカタに三百文張りますが、あえなく負けて意気消沈、早々と消え支度。「ナゼもっとせ(し)ないぞ」「イヤモ(う)、幽霊(=ゆうべ)も三百はりこんだ」

これは、寒中に裸で物ごいするすたすた坊主が唄って歩く「夕べも三百張り込んだ」のもじり、ダジャレにすぎません。まことにどうも、バクチあたりなことで。

上方落語を東京に

この噺も、今東京に残る噺の多くと同じく上方種で、上方落語「竃の幽霊」または「かまど幽霊」を明治末か大正初期に、三代目三遊亭円馬が東京に移したものです。

上方のオチは、熊が巻上げた金を元手に賭場で奮戦していると、またまた幽霊が出現。「まだこの金に未練があるのか」「いえ、テラをお願いに参じました」となります。

寺と博打のテラ銭を掛けたもので、前に金を巻上げた後、熊が幽霊に、石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏しろと言い渡した言葉を受けてのものです。

上方のやり方では、熊は完全にイカサマを使うことになっていて、その辺が東京と違ってあざといところ。

東京でも五代目柳家小さんは、このサゲを用いていました。

円生、三木助が双璧

五代目志ん生、四代目、五代目小さんも演じましたが、レコード、速記の数からも、戦後はやはり六代目円生、三代目三木助がこの噺の双璧といえるでしょう。

なかでも三木助は、幽霊に仰天してへっついを返しに来る男を大阪弁に変え、いちいち言葉尻に「道具屋」「道具屋」とつけるなど、独自の滑稽味を出して十八番としました。

リアルはご法度

ただ、この三木助は若い頃、身を持ち崩して「隼の七」と異名を取った本物の博徒だったこともあり、熊の目つきのこわさや、あまりにもリアルなサイを振る動作が、客や楽屋内に薄気味悪がられ、初期の評判はよくなかったようです。

現に、四代目小さんがこの噺について、「サイを振る手つきはまずくていい、こういうところは人にほめられるな」と戒めています。これは同じバクチ噺の「狸賽」などでも同じでしょう。

「クマ」五郎は普通名詞?

阿佐田哲也のギャンブル小説で、雀ゴロ(麻雀専門のバイニン、博打打ち)が「クマゴロウ」と呼ばれていたのをご記憶の方も多いと思います。

博徒、特にイカサマ師の異称を「クマ」と呼ぶのは相当古くかららしく、細工を施してある賽を「熊女」などともいいました。

そのせいか、「竃幽霊」の主人公は東西問わず、誰が演じても熊五郎です。

三代目三木助の人物設定では、熊は白無垢鉄火、つまり表面は堅気の素人を装って、裏に回れば遊び人ということにしてあります。

「クマ」の語源はよくわかりませんが、あるいは、熊手でかき寄せるように賭場でテラ銭をさらうところからきているのかもしれません。