鹿政談 しかせいだん 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

落協を出て間もない円生が1978年11月、早大でやったのを聴いたことあります。

【あらすじ】

奈良、春日大社の神の使いとされる鹿は、特別に手厚く保護されていて、たとえ過失でもこれを殺した者は、男なら死罪、女子供なら石子詰め(石による生き埋め)と、決まっている。

そのおかげで鹿どもはずうずうしくのさばり、人家の台所に入り込んでは食い荒らすので、町人は迷惑しているが、ちょっとぶん殴っただけでも五貫文の罰金が科せられるため、どうすることもできない。

興福寺東門前町の豆腐屋で、正直六兵衛という男。

あだ名の通り、実直で親孝行の誉れ高い。

その日、いつものようにまだ夜が明けないうちに起き出し、豆を挽いていると、戸口で何やら物音がする。

外に出てみると、湯気の立ったキラズ(おから=卯の花)の樽がひっくり返され、大きな犬が一匹、ごちそうさまも言わず、高慢ちきな面で散らばった奴をピチャピチャ。

「おのれ、大事な商売物を」
と、六兵衛、思わず頭に血がのぼり、傍の薪ザッポで、思いざまぶんなぐった。

当たり所が悪かったか、泥棒犬、それがこの世の別れ。

ところが、それが、暗闇でよく見えなかったのが不運で、まさしく春日の神鹿。

根が正直者で抜けているから、死骸の始末など思いも寄らず、家族ともどもあらゆる気付け薬や宝丹、神薬を飲ませたが、息を吹き返さない。

そのうち近所の人も起き出して大騒動になり、六兵衛はたちまち高手小手にくくられて目代(代官)の塚原出雲の屋敷に引っ立てられる。

すぐに目代と興福寺番僧・了全の連印で、願書を奉行に提出、名奉行・根岸肥前守の取り調べとなる。

肥前守、六兵衛が正直者であることは調べがついているので、なんとか助けてやろうと、
「その方は他国の生まれであろう」
とか、
「二、三日前から病気であったであろう」
などと助け船を出すのだが、六兵衛は
「お情けはありがたいが、私は子供のころからうそはつけない。鹿を殺したに相違ござりまへんので、どうか私をお仕置きにして、残った老母や女房をよろしく願います」
と、答えるばかり。

困った奉行、鹿の死骸を引き出させ
「うーん、鹿に似たるが、角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」
「へえ、確かにこれは犬で」

ところが目代、
「これはお奉行さまのお言葉とも思われませぬ。鹿は毎年春、若葉を食しますために弱って角を落とします。これを落とし角と申し」
「だまれ。さようななことを心得ぬ奉行と思うか。さほどに申すなら、出雲、了全、その方ら二人を取り調べねば、相ならん」

二人が結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある。

鹿は餌代を減らされ、ひもじくなって町へ下り、町家の台所を荒らすのだから、神鹿といえど盗賊同然。打ち殺しても苦しくない。

「たってとあらば、その方らの給料を調べようか」
と言われ、目代も坊主もグウの音も出ない。

「どうじゃ。これは犬か」
「サ、それは」
「鹿か」
「犬鹿チョウ」
「なにを申しておる」

犬ならば、とがはないと、六兵衛はお解き放ち。

「これ、正直者のそちなれば、この度は切らず(きらず)にやるぞ。あぶらげ(危なげ)のないうちに早く引き取れ」
「はい、マメで帰ります」

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【うんちく】

上方落語を東京に移植

上方で名奉行の名が高かった「松野河内守」の逸話を基にした講釈種の上方落語を、二代目柳家(禽語楼)小さんが、明治24年(1891)に東京に移植したものです。

松野なる人物、歴代の大坂町奉行、京都町奉行、伏見奉行、奈良奉行、長崎奉行のいずれにも該当者がなく、名前の誤伝と思われますが、詳細は不明です。

円生十八番

東京では戦後、六代目三遊亭円生が得意にしたほか、主に音曲師として鳴らした七代目橘家円太郎(1902-77)もよく演じました。

二代目三遊亭円歌、六代目春風亭柳橋も手掛け、もともとの本場上方では、戦後は桂米朝の独壇場でした。

従来、舞台は奈良本町二丁目で演じられていましたが、円生が三条横町としました。

くすぐりの「犬鹿チョウ」のダジャレは、花札からの円生のくすぐり。

オチは、普通東京では「アブラゲのないうちに」を略します。

根岸肥前守

根岸肥前守鎮衛(1737-1815)は、優れた随筆家でもあり、奇談集『耳嚢』の著者として、あまりにも有名。

最近では、風野真知雄作「耳袋秘帖」シリーズの名探偵役として、時代小説ファンにはすっかりおなじみです。

奈良奉行を肥前守にしたのは円生ですが、実在の当人は、江戸町奉行在職(1798-1815)のまま没していて、奈良奉行在任の事実はありません。

落語では、ほかに「佐々木政談」にも登場します。

春日の神鹿

鹿を殺した者を死罪にするというのは、春日神社別当である、奈良興福寺の私法。

ただし、石子詰めは、江戸時代には実際には行われていません。

幕府は興福寺の勢力を抑えるため、奈良奉行を置いていましたが、歴代奉行が、興福寺と事を構えるのを嫌い、この噺の目代のように、利権で寺と結託している者もあって、本来、公儀の権力の侵犯であるはずの私法を、ほとんど黙認していたものです。

春日神社の鹿の数と、燈籠の数を数えられれば長者になれるという言い伝えが、古くからありました。

根岸肥前守の子孫

幕末に、根岸鎮衛の子孫と思われる、根岸衛奮という人物がいて、この人が安政5年(1858)から文久元年(1861)までの三年間、奈良奉行を勤めています。

六代目円生が、かどうかはわかりませんが、この噺の奉行を根岸肥前守としているのは、あるいは、この人と混同したか、承知の上で故意に著名な先祖の名を用いたのかもしれません。

【語の読みと注】
耳嚢 みみぶくろ

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三人無筆 さんにんむひつ 演目

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柳派の噺。いまとまっては時流にはなじまないかもしれませんね。

別題:帳場無筆 向こうづけ 無筆の帳付け

【あらすじ】

お出入り先の伊勢屋の隠居が死んだ。

弔いの帳付けを頼まれたのが熊五郎と源兵衛の二人。

熊は字が書けないので、恥をかくのは嫌だから、どう切り抜けようかとかみさんに相談すると、
「朝早く、源さんよりも先に寺に行って、全部雑用を済ましておき、その代わり書く方はみんな源さんに押しつけちまえばいい」
と言う。

「なるほど」
と思って、言われた通り夜が明けるか明けないかのうちに寺に着いてみると、なんと、源さんがもう先に来ていて、熊さんがするつもりだった通りの雑用を一切合切片づけていた。

源さんも同じ無筆で、しかも同じことをかみさんに耳打ちされてきたわけ。

お互い役に立たないとわかってがっかりするが、しかたがないので二人で示し合わせ、隠居の遺言だからこの弔いは銘々付けと決まっていると、仏に責任をおっかぶせてすまし込む。

ところが、おいおい無筆の連中が悔やみに来だすと、ごまかしがきかなくなってきた。

困っていると地獄に仏、横町の手習いの師匠がやってきた。

こっそりわけを話して頼み込み、記帳を全部やってもらって、ヤレヤレ一件落着、と、後片付けを始めたら、遅刻した八五郎が息せききって飛び込んでくる。

悪いところへ悪い男が現れたもので、これも無筆。

頼みのお師匠さんは、帰ってしまって、もういない。

隠居の遺言で銘々付けだと言ったところで、相手が無筆ではどうしようもない。

三人で頭を抱えていると、源さんが
「そうだ。熊さん、おまえさんが弔いに来なかったことにしとこう」

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【うんちく】

無筆が無筆を笑う

オチの部分の原話は、明和9(=安永元、1772)年刊『鹿の子餅』中の「無筆」。弔問に来た武士と取り次ぎの会話となっています。

原型はそれ以前からあり、元禄14(1701)年刊『百登瓢箪』巻二中の「無筆の口上」では、客と取り次ぎの両方が無筆、というお笑いはそのままで、客がしかたなく印だけ押して帰るオチになっています。

この元禄年間(1688-1704)あたりから、無筆を笑う小咄は無数にでき、落語も「無筆の医者」「無筆の女房」「無筆の親」「無筆の犬」「按七」「無筆の下女」「手紙無筆」「無筆のめめず」など、やたらに作られました。 

江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから寺子屋が普及、幕末には、日本人の識字率は70%を超えたといわれ、当時の世界最高標準でしたが、それでも三割近くは無筆。19世紀前後では、寄席に来る客の三、四割が無筆という割合で、「無筆が無筆の噺に笑っていた」ことになります。現代なら人権問題に及びそうですが、なんとも大らかな時代ではありました。

柳派に伝わる噺

明治28年(1895)11月、雑誌『百花園』掲載の三代目柳家小さんの速記があります。

無筆の小咄は遠く元禄年間まで溯るので、この噺も相当古くから口演されていたものと思われます。

小さん代々に継承される柳派系統の噺で、五代目小さんの音源もありますが、現在は無筆がほぼ皆無となり、だんだん理解されなくなる運命でしょう。

戦後では八代目春風亭柳枝(1959年没)が得意とし、柳枝は記帳する名に、噺家仲間の本名を使っていました。もとは柳枝門下だった三遊亭円窓が、独自の工夫で持ちネタにしています。

円窓のオチは、「そんなことをしたらだんなに申し訳がねえ」「いや、かまいません。ホトケの遺言にしときます」というもの。

落語に多い「三」

落語の世界で「三」は大きな要素です。

「三」のつく噺は、現在すたれたものを含め、「三人旅」「三人絵師」「三人息子」「三人癖」「三人ばか」「三人娘」「三方一両損」「三拍子」「三枚起請」「三軒長屋」……。まだまだあります。

仏教に「三界」という言葉があり、これは過去・現在・未来の三世のこと。全宇宙は「三千世界」。仏教の三宝は仏・法・僧で、長屋も三軒間口で三畳。

この噺に見られるように「三人寄れば文殊の知恵」となるパターンが落語に多いのは、「三」が最も安定した状態という、仏教哲学が深奥に潜んでいるのではないでしょうか。そもそも世界も「天地人」からなります。

【語の読みと注】
帳付け ちょうづけ:参列者の記帳
銘々付け めいめいづけ:自分で名前を書く

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三で賽 さんでさい 演目

スヴェンソンの増毛ネット

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バクチの噺。「看板のピン」という題でも聴きますね。

【あらすじ】

髪結いの亭主で、自分は細々と人に小金を貸したりして暮らしている新兵衛という男。

死んだ親父は「チョボ一の亀」と異名を取った名代のバクチ打ちだが、親父の遺言で、決して手慰みはしてくれるなと言われているので、身持ちは至って固い。

しかし、新兵衛がその実欲深でおめでたく、かなりの金を貯め込んでいることを聞き込んだのが、町内の札付きの遊び人、熊五郎と源兵衛。

ここは一つ、野郎をペテンにかけて、金を洗いざらい巻き上げようと悪だみを練る。

二人は新兵衛に、金持ちのだんな方が道楽にバクチを開帳するので、テラ銭(場所代)ははずむから、奥座敷を貸してほしいと持ちかける。

つい欲に目がくらんだ新兵衛、承知してしまい、臨月のかみさんをうまく言いくるめて実家に帰す。

熊と源は、仲間をだんな衆に化けさせて当日新兵衛宅に乗り込み「人数が足りないから、すまねえがおまえさん、胴を取って(親になり、壺を振ること)くれ」と持ちかけた。

親父がバクチ打ちなので、胴元がもうかることくらいは百も承知の新兵衛、またもう一つ欲が出て、これも二つ返事で引き受ける。

ところが、二人が用意したのは、三の目しか出ないイカサマ寨。

おかげで、たちまち新兵衛はスッテンテン。

その上、なれ合いげんかを仕組み、そのすきに親父の形見の霊験あらたかな「ウニコーロの寨」と全財産をかっつぁらって、熊と源はドロン。

だまされたことに気づいた新兵衛だが、もう後の祭り。

泣いていると、大家がやってくる。

「大家さん、三で寨を取られました」
「なに、産で妻を取られた?」
「親父が遺言で、女房をもらっても決してしちゃあいけないと言いましたが、ついつい、熊さんの強飯にかかったんで(だまされたの意)」
「なに、もう強飯の支度にかかった?そいつは手回しがいい。して、寺はどうした?」
「テラは源さんが持っていきました」

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【しりたい】

ダジャレオチのバクチ噺

原話は不詳です。明治29年(1896)の三代目柳家小さんの速記がありますが、この噺自体は、小さん以後、ほとんど演じ手がありません。

本来この噺には、マクラとして現在「看板のピン」と題する小咄がつきます。これについては、「看板のピン」をご参照ください。

四代目小さんが「看板のピン」の部分を独立させ、一席噺に改作したもので、こちらは五代目小さんが継承、得意にしていました。

本体であるはずの「三で寨」がすたれたのは、ダジャレオチでくだらないのと、ストーリーがややこしくて、すっきりしないところがあるからなのでしょう。

わかりにくいオチ

「居残り佐平次」のそれと同じく、「だまされた」の意味の「おこわにかかる」を、大家が葬式の強飯(=おこわ)と勘違いしたものです。

チョボ一

一個のサイコロを使うので、こう呼びます。勝てば四倍、場合によれば五倍にもなるギャンブル性の強いもので、「チョボなら七里帰っても張れ」という、バクチに誘い込むことわざもありました。

遊び人

博徒とゆすりかたりの両方を指しました。とにかく「悪党」の代名詞です。

ウニコーロ

「ウニコーロ」とはポルトガル語で、北洋産のイルカに似た海獣とされます。雄の門歯が一本に長く突き出しているので、一角獣とも呼ばれます。その牙で作ったのが、ウニコーロ(ウニコール)の寨です。

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三助の遊び さんすけのあそび 演目

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落語版「影武者」の噺。

【あらすじ】

上京して湯屋で釜焚きをしている男。

今日は釜が壊れて店が休みなので、久しぶりにのんびりできると喜んだが、常連客が次から次へとやってきて、その度に
「今日は休みかい」
と聞かれるので、うるさくてしかたがない。

やむなく外をぶらついていると、ばったり会ったのが知り合いの幇間の次郎八。

「どうせ暇なら、吉原でも繰り込もうじゃ、げえせんか」
と誘われるが、どうも気が進まない。

というのも、職業を明かすとお女郎屋ではモテないから、この間、素性を隠して友達と洲崎の遊廓に行ったら、相棒が
「古木集めて 金釘貯めて それが売れたら 豚を食う」
という、妙てけれんな都々逸をうたったため、バレてしまって女郎に振られた苦い経験があるからだ。

それでも次郎八が
「あーたを質両替屋の若だんなという触れ込みで、始終大見世遊びばかりなさっているから『たまには小さな所で洒落に遊んでみたい』とおっしゃっている、とごまかすから大丈夫」
というので、四円の予算だが、半信半疑でついていくことにする。

「あたしのことは家来同然、次郎公と呼んでください」
と念を押されて、さて吉原に来てみると、客引きの牛太郎に
「だんなさまは、明日はお流し(居続け)になりますか」
と聞かれて
「いや、わしは流しはやりません」
と早くもボロが出そうになるので、次郎八はハラハラ。

危なっかしいのを、なんとか次郎八がゴマかしているうち、お引き(就寝)の時間になる。

当人は次郎八以上にハラハラ。

お女郎同士が「あの人はオツな人だけど、白木の三宝でひねりっぱなしはごめんだよ」
と話しているのを聞いて、お女郎屋の通言で、一晩きりはイヤだという意味なのを、銭湯でご祝儀を白木の三宝に乗せて客が出すことと間違え、バレたのではないかと心配したり
「炊き付けたって燃え上がるんじゃないよ」
と言うので、またビクビクしたりの連続。

これは「おだてても調子に乗るな」という意味。

その度に次郎公、次郎公と起こされるので、しまいには次郎八も頭に来て
「さっさと寝ちまいなさいッ」

しかたなく寝ることにして、グーグー高いびきをかいていると花魁が入ってきて
「あら、ちょいと、お休みなの」
「はい、釜が損じて、早じまえでがんす」

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「小せん」から志ん生へ

原話は不明です。明治中期までは、四代目三遊亭円生が得意にしていましたが、現在残る古い速記は、明治34年(1901)7月、「文藝倶楽部」に掲載の三代目柳家小さんのもの、大正8年(1919)9月に出版された、初代柳家小せんの遺稿集『廓ばなし小せん十八番』所収のものがあります。

戦後は、おそらく小せん直伝と思われる五代目古今亭志ん生の一手専売でした。明治の小さんでは、三助が吉原で振られて洲崎遊郭へ行く設定で、したがって舞台は洲崎でした。門下の小せんの演出では、本あらすじで採用したとおり、反対に洲崎で振られて、吉原に行きます。志ん生は、二度とも吉原で、以前振られた原因となった都都逸の最後を「これが売れたらにごり酒」としていました。

志ん生没後は、三助そのものが死語になり、噺に登場する符丁などの説明が煩わしいためか、演じ手はありません。

三助

湯屋の若い衆の異称でした。使われだしたのは文化年間(1804-18)からです。

別に、下男の「権助」の別称だったこともあり、下働きをするという意味の「おさんどん」から付いた言葉です。やや皮肉と差別意識を含んだ「湯屋の番頭」という別称も使われました。

同じ三助でも、釜焚きと流しははっきりと分かれており、両方を兼ねることありません。

この噺の主人公は釜焚き専門です。

昭和初期に至るまで、東京の銭湯は越後(新潟県)出身の者が多く、第36代横綱・羽黒山政司(1914-69)も、新潟県から出て、両国の銭湯で流しの三助をやっているところを、その体格が評判になり、立浪部屋にスカウトされています。

歌舞伎では、二代目市川猿翁が猿之助時代に家の芸である澤瀉十種の内、オムニバス舞踊「浮世風呂」中の「三助政吉」で三助に扮したことがありした。これは四代目猿之助にも継承されています。

洲崎遊廓

前身の深川遊廓は、江東区深川富岡八幡宮周辺で「七場所」と称する岡場所を形成し、吉原の「北廓」に対して「辰巳」として対抗しました。

文化文政期には、「いなせ」と「きゃん」の本場として通に愛されましたが、遊廓は天保の改革でお取りつぶしとなりました。

明治維新後、現在の江東区東陽一丁目が埋め立て地として整地され、明治21年(1888)7月、根津権現裏の岡場所がここに移転。新たに洲崎の赤線地帯が生まれました。

最盛期には百六十軒の貸座敷、千七百人の娼婦、三十五軒の引手茶屋がありました。

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猿丸太夫 さるまるだゆう 演目

★auひかり★

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典型的な滑稽噺です。

【あらすじ】

昔の旅は命がけ。

友達と泣きの涙で水杯を交わし、東海道を西に向かった男、原宿の手前で雇った馬子が、俳句に凝っているというので、江戸っ子ぶりを見せびらかしてやろうと、
「オレは『今芭蕉』という俳句の宗匠だ」
とホラを吹く。

そこで馬子が、
「この間、立場の運座で『鉢たたき』という題が出て閉口したので、ひとつやって見せてくれ」
と言い出す。

先生、出まかせに
「鉢たたきカッポレ一座の大陽気」
とやってケムに巻いたが、今度は「くちなし」では、と、しつこい。

「くちなしや鼻から下がすぐにあご」

だんだん怪しくなる。

すると、また馬子が今度は難題。

「『春雨』という題だが、中仙道から板橋という結びで、板か橋の字を詠み込まなくてはならない」
と言うと、やっこさん、すまし顔で
「船板へ くらいつきけり 春の鮫」

「それはいかねえ。雨のことだ」
「雨が降ると鮫がよく出てくる」

。そうこうしているうちに、馬子の被っている汚い手拭いがプンプンにおってくるのに閉口した今芭蕉先生、新しいのを祝儀代わりにやると、馬子は喜んで
「もうそろそろ馬を止めるだから、最後に紅葉で一句詠んでおくんなせえ」
と頼む。

しかたがないので
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は来にけり」
と聞いたような歌でごまかす。

そこへ向こうから朋輩の馬子が空馬を引いてきて
「作、どうした。新しい手拭いおっ被って。アマっ子にでももらったのか?」
「なに、馬の上にいる猿丸太夫にもらった」

★auひかり★

【しりたい】

田舎者と侮ると

原話は、宝暦5年(1755)刊、京都で刊行の笑話本『口合恵宝袋』中の「高尾の歌」です。

これは、京の高尾へ紅葉狩りに行った男の話。

帰りに雇った駕籠かきに、歌を詠んだかと聞かれ、「奥山の……」の歌でごまかす筋は、まったく同じで、オチも同一です。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、箱根で「猿丸太夫」をめぐる、そっくり同じようなやりとりがあり、これをタネ本にしたことがわかります。

江戸や京大坂の者が、旅先で、在所の百姓などを無知と侮り、手痛い目にあう実話は結構あったのでしょう。

オチは、馬子が「奥山」の歌を知っていて皮肉ったわけですが、別に、知ったかぶりの江戸っ子を逆に「猿」と嘲る、痛烈な風刺もあると思われます。

円朝も演じた噺

この噺の、江戸を出発するところ、俳句の問答を除いた馬子とのくだりは、「三人旅」にそっくりなので、これを改作したものと思われます。

小咄だったのを、「三人旅」から流用した発端を付け、一席に独立させたものなのでしょう。

古くは三遊亭円朝が「道中の馬子」の題で速記を残し、大正13年(1924)の、三代目柳家小さんの速記も残りますが、今はすたれた噺です。

猿丸太夫

正体不明の歌人です。生没年、伝記は一切不明。

「猿丸太夫集」なる歌集がありますが、そこに採られている歌は、当人の作と確認されたものは一首もありません。

「小倉百人一首」に「奥山に」が撰ばれていますが、これが実はすべて「古今和歌集」の詠み人しらずの歌であることから、平安時代の歌人といわれます。別に、柿本人麻呂説もあります。

運座

うんざ。各人各題、あるいは一つの題について俳句を作り、互選しあう会です。座には宗匠、執筆(=記録係)、連衆(句の作り手)で成り立ちます。

18世紀末の安永・天明期以後、俳諧(俳句)人口は全国的に広がり、同時に高尚さが薄れて遊芸化しました。

したがって、この噺のような馬子が俳句に凝ることも、十分考えられたのです。

江戸後期の日本人の教養レベルは、現在想像されるより、ずっと高かったわけです。

馬子などの肉体労働者は、そのころは多く非識字者であるはずでした。それが字を知っているばかりか、江戸っ子よりはるかに博識であるという、落語的な逆転の発想がみられます。

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ざこ八 ざこはち 演目

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お、聴かせるな、と思いきや、オチはやっぱり落語でした。

【あらすじ】

眼鏡屋の二男坊の鶴吉。

年は二十二になるが、近所でも評判の男前で、そのうえ働き者で人柄がいいときている。

そこで、これも町内の小町娘で、金持ちの雑穀商ざこ八の一人娘のお絹との縁談がまとまり、鶴吉は店の婿養子に迎えられることになった。

ところが、その婚礼の当日、当の鶴吉がふっと姿を消してしまう。

それというのも、貧乏な眼鏡屋のせがれが玉の輿にのるのをやっかんだ連中が、小糠三合あれば養子に行かないというのに、おめえはざこ八の身上に惚れたか、などといやがらせを言うので、急に嫌気がさしたから。

それから十年。

上方に行って一心に働き、二百両という金をためた鶴吉が、久しぶりに江戸に戻ってきた。

十年前の仲人だった桝屋新兵衛方を訪ね、ようすを聞いてみると、とうの昔に店はつぶれ、ざこ八もこの世の人ではないという。

あれから改めてお絹に、葛西の豪農の二男坊を養子にとったが、そいつが身持ちが悪く、道楽三昧の末財産をすべて使い果たし、おまけにお絹に梅毒まで移して死んだ。

ざこ八夫婦も嘆きのあまり相次いで亡くなり、お絹は今では髪も抜け落ち、二目と見られない姿になって、物乞い以下の暮らしをしているという。

「お絹を今の境遇に追いやったのは、ほかならぬおまえさんだ」
と新兵衛に言われて、返す言葉もない。

せめてもの罪滅ぼしと、鶴吉は改めて、今では誰も傍に寄りたがらないお絹の婿となり、ざこ八の店を再興しようと一心に働く。

上方でためた二百両の金を米相場に投資すると、幸運の波に乗ったか、金は二倍、四倍と増え、たちまち昔以上の大金持ちになった。

お絹も鶴吉の懸命の介抱の甲斐あってか、元通りの体に。

ある日、出入りの魚屋の勝つぁんが、生きのいい大鯛を持ってきた。

ところがお絹は、今日は大事な先の仏(前の亭主)の命日で、精進日だからいらない、と断る。

さあ、これが鶴吉の気にさわる。

いかに前夫とはいえ、お絹を不幸のどん底へ落とし、店をつぶした張本人。

それを言っても、お絹はいっこうに聞く耳を持たない。

夫婦げんかとなり、勝つぁんが見かねて止めに入る。

「おかみさんが先の仏、先の仏ってえから今の仏さまが怒っちまった」

夫婦の冷戦は続き、鶴吉が板前を大勢呼んで生臭物のごちそうを店の者にふるまえば、お絹はお絹で意地のように精進料理をあつらえ始める。

一同大喜びで、両方をたっぷり腹に詰め込んだので、腹一杯でもう食えない。

満腹で下も向けなくなり、やっとの思い出店先に出ると、物乞いがうずくまっている。

「なに、腹が減ってる ああうらやましい」

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【しりたい】

ご存じ、三木助十八番

もともとは上方落語の切りネタ(大ネタ)で、東京では戦後、二代目桂三木助直伝で三代目三木助、八代目林家正蔵(彦六)が、東京風のやり方で売り物にしました。

特に、三木助がこの噺を好み、十八番として、しばしば演じています。

本家の上方では、六代目笑福亭松鶴が得意にし、東京でも、二代目桂小南が、上方風で演じました。

あまり出来がいいともいえない噺なので、現在は、東京ではあまり演じ手がいません。

三木助門下だった入船亭扇橋が継承していたくらいでしょう。

上方では「ざこ八」の名は、「ざこく(=雑穀)屋八兵衛」が、縮まったものと説明されます。

前後半で異なる原話

前半の、「今の仏様が怒った」までの原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「二度添」、同3年(1774)刊『軽口五色帋』中の「入婿の立腹」です。

「二度添い」では、亭主が、何かにつけ後妻に難癖をつけ、「もとの仏(=先妻)がいたら」と、ぐちるのでけんかに。

隣の太郎平が仲裁に入り、「今の仏も悪い人でもない」と、オチになります。

その翌年に京都で出た「入婿の立腹」では、あらすじ、オチともほぼ現行通りになっていて、明らかに、その間に改作されたものでしょう。

東京の正蔵は。「先の仏」と題し、前半で切っていました。

もうひとつ。

上下二つに分ける場合、上方では後半部は「二度のご馳走」と題されることもあります。

後半の原型は、遠く寛永5年(1628)成立の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻三「自堕落 九」と思われ、オチの物乞いの部分は、明和9年(1772)刊「楽牽頭」中の「大食」が原話です。

「醒睡笑」の方は、食いすぎて、数珠を落としてもうつむいて拾うことさえできない男が、バチあたりにも足指で数珠をはさみながら「じゅず(=重々)ごめんあれ」とシャレる噺です。

大阪の六代目松鶴は、オチを、「ごちそうしたのが腹帯の祝い。そう聞いただけでも腹が大きなる」と、していました。

妊婦の腹と、ごちそうで腹が膨れるのを掛けたものです。

こぬか三合

正確には「こぬか三合持つならば入婿になるな」で、つい最近まで使われていた諺です。

「こぬか三合あったら婿に行くな」とも。

こぬか三合は、わずかな財産の例えで、ほんの少額でも金があるなら、割に合わない婿になど入るな、という戒めです。

長子相続が徹底していた江戸時代、特に武士の次男、三男は、家の厄介者で、婿養子にでも行かなければ、まともな結婚など夢の夢。

婿入りしたならしたで、養父母にはいびられ、家付き娘の女房はわがまま放題。男権社会なのに、四六時中気苦労が絶えないという、経験者の実感がこもっています。

「養子に行くか、茨の藪を裸で行くか」など、似たニュアンスの格言はたくさんあります。

精進料理

盆、法事、彼岸、祥月命日などに、魚鳥その他の生臭物を断ち、野菜料理を食する習慣が古くからありました。

こうした戒律はキリスト教やイスラム教にもあるので、ここに日本文化を見いだすことはナンセンスです。

これが終わるのを精進明け、精進落ちといい、逆に精進に入る前に、名残にたらふく魚肉を食らうのを精進固めといいました。

もちろん、願掛けなどで、一定期間精進するならわしは明治初期までは普通に行われていました。

悲劇的な「後日談」

「女ごころといえばそれに違いもあるまいが、これが原因で夫婦生活に破錠をきたし、お絹が家出をして二年目に、葛西の荒れ果てた堂の中で死んでいた。行年三十。その時お絹の着ていた薄い綿入れの着物に雨が当たって、やわやわとした草が生えた。大正年代まで夜店でよくみかけた絹糸草だが、夫婦仲の悪くなるという縁起をかついで、この頃ではもう下町でもあまり見掛けないようである」     『落語国・紳士録』(安藤鶴夫)

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西京土産 さいきょうみやげ 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

明治になって生じた没落士族。その悲哀を背景にした滑稽譚です。

【あらすじ】

長屋に住む独り者の熊五郎。

隣の元士族で、今は古紙回収業の作蔵が、女を引き込んでいちゃついているようすなので、おもしろくない。

嫌味を言いに行くと作蔵、実はこれこれこういうわけと、不思議ないきさつを物語る。

母一人子一人の身で、死んだおやじの士族公債も使い果たし、このままでは先の見込みもないので、いずれは道具屋の店でも開こうと一念発起した作蔵、上方を回って掘り出し物の古道具でも買い集めようと、京から奈良と旅するうち、祇園の芸妓の絵姿が手に入った。

この絵の中の女に一目惚れした作蔵、東京に帰ると、母親が嫁取りを勧めるのも聞かず、朝夕飯や茶を供えて、どうか巡り合えますようと祈っていると、その一念が通じたか、ある日、芸妓が絵からスーッと抜け出し
「どうかあんたのお家はん(=妻)にしてかわいがっとくれやす」

都合のいいことに、女は作蔵がいる時だけ掛け軸の中から出てきて、かいがいしく世話をしてくれる。

この世の者でないから食費もかからず、しかも絶世の美女ときているので、わが世の春。

毎日、鼻の下を伸ばしている。

母親に見つかってしかられたが、わけを話して許しを得て、今では三人仲良く暮らしている、という次第。

話を聞いてうらやましくてならない熊公、
「こんないい女が手に入るなら、オレも古紙回収業になろう」
と、作蔵からかごを借り、鵜の目鷹の目で、抜け出しそうな女の絵を買おうと近所をうろつきだす。

都合よく、深川の花魁の絵姿の掛け軸が手に入ったから、熊は大喜びで毎日毎晩一心に拝んでいると、その念が通じたか、ある夜、花魁がスーッと絵から抜け出て
「ちょいと、主は本当に粋な人だよ。おまえさんと添い遂げたいけど、ワチキは今まで客を取ってて、体がナマになっているから、鱸の洗いで一杯やりたいねえ。軍鶏が食いたい、牛が食べたい。朝はいつまでも寝てるよ。起きない(=畿内)五か国山城大和」

隣とはえらい違いで、本当に寝ているだけでなにもしない。
「これはひどい奴を女房にした」
とぐちりながら、ある朝、熊さんが自分で朝飯をこしらえて花魁の枕元に置き、夕方、仕事から帰ると、もぬけのカラ。

方々探したが、行方がわからないので、しかたなく易に凝っている大家に卦を立ててもらうと、「清風」と出た。

「セイは清し、フウは風だから。神隠しにあったんだろう」
「そりゃあ、違いましょう。実は柱隠しでございます」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

「鼻の円遊」の創作

明治25年(1892)10月、「百花園」掲載の初代三遊亭円遊(鼻の円遊)の速記が、唯一の記録です。

いわゆる没落士族の悲哀を背景にした噺ですが、筋自体は「野ざらし」と「応挙の幽霊」を継ぎ足した感じで、後半の花魁 おいらん)のずうずうしさだけが、笑いのタネです。

円遊は、その年の5月末から8月いっぱい、西京 京都)から関西、東海地方を旅興行で回っているので、噺の題名はその土産話という、ニュアンスなのでしょう。

「西京」は、明治以後に使われた名称で、江戸が「東京」と改名して首都とされたため、それと区別するために用いたものです。

士族公債

明治2年(1869)の版籍奉還に伴い、同10年(1877)に政府から士族に発行された秩禄(=金禄)公債証書。一人当たり、平均四十円にも満たないケースがほとんどでした。

そのため、士族の多くは生活に困窮。子女が身売りしたり、落語でよく登場するように慣れない商売に手を出して失敗する悲劇が明治初期、いたるところで見られました。

神隠し

いわゆる「蒸発」で、子供の場合はほとんどが人さらいでした。

柱隠し

オチが今では分かりにくくなっていますが、柱隠しは、柱の表面に掛けた装飾のことです。「たがや」にも登場する「柱暦」もその一つですが、多くは、細長い紙に書画を描いたもので、柱掛け、柱聯ともいいました。この噺の場合は、柱隠しに使った掛け軸の中から花魁が出現したことを言ったものです。つまり、神隠しではなく、掛け軸の中にまた戻っていったのだろう、ということでしょう。

江戸時代には、柱隠しを利用した、「聯合わせ」という優雅な遊びがありました。柱に木製や竹製の聯を掛け、単に飾って自慢しあうだけでなく、その上に手拭い、扇面、短冊、花などをあしらい歌舞伎の下題に見立てて、洒落るなどしたものです。

明治期には、ハンカチを使うこともありましたが、のちには、祭礼の神酒所の飾りにしか、見られなくなりました。

清風

せいふう。江戸時代、神隠しは天狗の仕業と考えられ、天狗の羽うちわが起こす風をこう呼びました。ここでは、冗談半分にそれとしゃれたものです。

【語の読みと注】
軍鶏 しゃも

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万病円 まんびょうえん 演目

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ろくでもない奴の、脅しのテクニック集です。

【あらすじ】

悪侍の行状記。

その1。

湯屋にて、湯船の中で、自分の褌ばかりか、女房の下袴まで堂々と洗濯。

ほかの客から番台に苦情が出て、湯銭をみんな返させられるので、困った親父が恐る恐る抗議すると、きさまは番台で男客の○○や××を預かるかと逆襲。

アレは切り離せないから預かれないと言うと、正物は平気で湯につけているのに、それを包む風呂敷である褌を洗うのがなぜいけないと屁理屈で逆ネジ。

帰りしなに、わざと五両中判を出し、釣りを出せと無理難題。

まんまと湯銭を踏み倒す。

その2。

居酒屋にて、肴をいろいろ聞いて、番頭が
「後は蟹のようなもの」
と答えると
「じゃ、その『のようなもの』をくれ」

蛸も海老も茹でると赤くなると聞いて
「それじゃ、稲荷の鳥居は茹でたのか?」
などとからかった挙げ句、
「どうだ、蟹代あんこう代鱈の四文なり(=『紙代判行代でただの四文なり』という読売瓦版の売り立て文句)というのは?」
と、しゃれでケムにまき、番頭がだまされて承知したのをタテに、支払った代金は三品取って、酒代と合わせてたった八文。

文句を言うと「値段を決めておいてそれが成らんとあれば主人をだせ。刀の手前容赦はできん」とすごんだ上、町奉行所に訴え出ると脅し、まんまと飲食代を踏み倒す。

その3。

菓子屋にて、小僧をつかまえて、饅頭の蒸籠の上で褌を干させろと無理難題。

金鍔を猫の糞、餡ころ餠を馬糞などと汚いことを言ってからかい、小僧が、一つ四文の積もりで
「餡ころ餠はいくつ召しても四文で」
と言ったのを、あちこち食い散らして都合十個食い、
「いくつ食っても」
と言ったのだから全部で四文だと強弁。

「一つ四文ならなぜそう申さん。フラチな奴だ。主人を出せ。らちが明かなければ裁判を」
とコワモテ。

まんまと饅頭代を踏み倒す。

その4。

古着屋にて、袷の綿入れの値段を聞くと、掛け値なしの三両二分。

これを一分一朱に負けさせようとしたが、失敗。

サンピン、盗ッ人、団子、屁でも嗅げと親父の悪態を背に退散。

これで三勝一敗。

その5。

紙屋にて、例によって
「疫病神はあるが、疱瘡神はどうだ」
と攻撃をしかけ、
「風の神は」
と聞くと
「ございます」

扇を出され、
「開かねば扇も風の蕾かな」
という句で切り返される。

ここは薬も売っているのに目をつけ、もう一勝負。

万病の薬と張り紙があるので、
「病の数は四百四病と心得るが、万病とは大変に増えているな」
「子供の百日咳を入れると五百四病で」
「そろばんを貸せ。五百四病だな」
「殿方の病で疝気を入れると千五百四病」
「なるほど」
「ご婦人の産前産後もあれば、脚気肥満(=しまん、四万)もあります」

★auひかり★

【しりたい】

噺のなりたち 1

各部分で原話が異なります。

湯屋と菓子屋のくだりは不明ですが、居酒屋の部分は文化3 1806)年刊、十返舎一九作の咄(=落語)本『噺の見世開』中の「酒呑の横着」。

この部分は昭和期に、三代目三遊亭金馬が「居酒屋」として独立、改作し、大ヒットを飛ばしました。

次の古着屋くだりは、上方落語の「ないもん買い」の踏襲で、原話は安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「通り一遍」、紙屋の方は同2年(1773)年刊『千年艸』中の「紙屋」です。

このうち、前者の原話では古着屋の代わりに道具屋と竹細工屋がなぶられ、後者の紙屋のオチは「風の神なら、おくりやれさ(=送れ)」と言って踏み倒します。

噺のなりたち 2

この噺の核になる、最後の薬屋のくだりは、貞享4年(1687)刊の笑話本『正直咄大鑑』中の「万病錦袋円」が最も古い形です。

これは、下谷・池の端の「くわ(か)んがくや(屋)だいすけ」という江戸名代の薬屋で、「錦袋円(きんたいえん)」なる万病に効く霊薬を売り出したところ、浪人がゆすりにやって来る設定。

「四百四病」の言いがかりはそのままで、機知のある店の若い者が、「あなたのような御浪人さまにも『臆病』という病はあるはず」と、切り返すところが異なります。

宝暦5年(1755)刊の『口合恵宝袋』中の「万病円」では、京都二条の薬屋で「十三味地黄丸」の看板を見た男が「地黄丸 造血・強精剤)は六味か八味のはず」と、因縁をつけるところから始まり、主人が「あまり売れないので五味(=ゴミ)がかって十三味」と、撃退されます。

その後、やはり「万病円」と四百四病の問答から、疝(千)気→腸満(=万)でオチになります。

文化4年(1807)刊『按古於当世』中の「もがりいいの侍」を経て天保15年(1844)刊の『往古噺の魁』中の「ねぢ上戸」では、さらにシャレが豊富になり、「百日咳」「産前産後」「脚気肥満」と、より現行に近くなっています。

いずれにしても、たわいないダジャレの応酬で、「一目あがり」同様、だんだん数が増えていくだけのものなので、落語家がそれぞれシャレを工夫して、付け加えたものでしょう。

類話といえる上方の「ないもん買い」が幕末の桂松光の楽屋ネタ帳「風流昔噺」に記載されているところから、この噺も、やはり幕末から明治初期に、最終的にまとめられたと思われます。

五両中判

浪人が湯屋で、ゆすりの小道具に使います。

あまり聞きませんが、天保五両判金のこと。天保8年(1837)から安政2年(1855)までの十八年間、通用しました。

大判十両と小判一両の中間ですが、なぜこんな大金を浪人風情が持っていたのかは、?です。

ゆすった金か、さもなければ、ニセ金かも知れませんね。もし、金に困っていないのなら、この男、純然たる「愉快犯」ということになります。

金馬以後はやり手なし

「侍の素見(ひやかし)」と題した、四代目橘家円喬の速記(明治29=1896年)が最古です。

短い噺なので円喬は、昔は侍がどれだけいばっていたか、というテーマの小咄を、マクラに二題振っています。

オチの「脚気肥満」は、江戸っ子が「ヒ」を「シ」と発音することから、「ヒマン」→「シマン(=四万)」としたダジャレで、円喬の工夫かもしれません。

戦後では三代目三遊亭金馬と六代目三升家小勝が得意とし、速記は両者、音源は金馬のもののみが残ります。

金馬は、この噺に居酒屋が登場するため、同題の自身のヒット作との縁で、よくこちらも高座に掛けていました。

東京では最近は、ほとんど聞かれません。

また、金馬は、原話の「万病円」や、上方のオチにならって「一つで腸満(=兆万)があります」と、オチていました。

上方の「ないもん買い」

現在でも、笑福亭仁鶴などが得意とするネタです。

東京と異なり、なぶりに来るのは、タチの悪い町人です。最初に古着屋で、三角の布団や袷の蚊帳を出せと無理難題を言ったあと、魚屋で「『めで鯛』をくれ」。

けんかになったところで仲裁が入り、「おまえもたいない(=たわいない、大阪弁)やっちゃな」「いや、タイがあったさかいに、こんな目におうた」と、オチになります。

古くはこのあと、「万病円」につなげることも。その場合、オチはやはり「たった一つで腸満」でした。

★auひかり★

権助芝居 ごんすけしばい 演目

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最後はドタバタになる、おきまりの噺です。

【あらすじ】

町内で茶番(=素人芝居)を催すことになった。

伊勢屋の若だんなが役不足の不満から出てこないので、もう幕が開く寸前だというのに、役者が一人足りない。

困った世話人の喜兵衛、たまたま店の使用人で飯炊きの権助が、国では芝居の花形だったと常々豪語しているのを思い出し、この際しかたがないと口をかけると、これが大変な代物。

女形で「源太勘当」の腰元千鳥をやった時、舞台の釘に着物を引っ掛け、フンドシを締めていなかったのでモロにさらけ出してしまい
「今度の千鳥はオスだ」
とやったと自慢げに話すので、吉兵衛頭を抱えたが、今さら代わりは見つからない。

五十銭やって、芝居に出てくれと頼む。

「どんな役だ?」
「有職鎌倉山の泥棒権平てえ役だ」
「五十銭返すべえ。泥棒するのは快くねえ」
「芝居でするんだ。譲葉の御鏡を奪って、おまえが宝蔵を破って出てくる。鏡ったって納豆の曲物の蓋だ。それを押しいただいて、『ありがてえかっちけねえ、まんまと宝蔵に忍び込み奪え取ったる譲葉の御鏡。小藤太さまに差し上げれば、褒美の金は望み次第。人目にかからぬそのうちにちっとも早く、おおそうだ』と言う」
「五十銭返すべえ」
「なぜ?」
「そんなに長えのは言えねえ」
「後ろでつけてやる。そこで紺屋の金さんの夜まわりと立ち回りになる。そこでおまえが当て身をくって目を回す。ぐるぐる巻きに縛られて」
「五十銭返すべえ」
「本当に縛るんじゃない。後ろで自分で押さえてりゃいい。誰に頼まれたと責められて、小藤太様がと言いかけると、その小藤太が現れて、てめえの首をすぱっと斬り落とす」
「五十銭返すべえ」

ようようなだめすかして、本番。

客は、泥棒が、若だんなにしては汚くて毛むくじゃらだと思って見ると、権助。

「やいやい権助、女殺し」
「黙ってろ、この野郎」
「客とけんかしちゃいけねえ」

苦労してセリフを言い、立ち回りは金さんの横っ面をもろに張り倒して、もみ合いの大げんか。

結局、縛られて舞台にゴロゴロ。

「やい権助。とうとう縛られたな。ばかァ」
「オラがことばかと抜かしやがったな。本当に縛られたんじゃねえぞ。ほら見ろ」

縄を離しちまったから、芝居はメチャクチャ。

太い奴だと、今度は本当にギリギリ縛られて
「さあ、何者に頼まれた。キリキリ白状」
「五十銭で吉兵衛さんに頼まれただ」

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【しりたい】

「マニア向け」の芝居噺

江戸の人々の芝居狂ぶりを、いきいきと眼前に見るような噺です。

原話は不詳で、古くから演じられてきた東京落語です。別題が多く、「素人茶番」「一分茶番」「素人芝居」、また、噺の中で演じられる歌舞伎の外題から「鎌倉山」とも呼ばれます。

現在は、「一分茶番」で演じられることが多いようです。

江戸時代の素人芝居(素人茶番)については、同じ題材を扱った「蛙茶番」をご参照ください。

明治29年(1896)の四代目橘家円喬の速記が残りますが、昔からこれといって、十八番の演者はありません。

蝶花楼馬楽時代の八代目林家正蔵(彦六)、八代目雷門助六、先代金原亭馬の助、三遊亭円弥といった、芝居噺が得意でどちらかと言えば玄人受けする腕達者が手掛けてきたようです。

六代目円生も手掛けたはずですが、記録は残りません。円生没後は一門の五代目三遊亭円楽、円窓、円龍が演じ、それぞれの門下の中堅・若手にも継承されてきました。

なお、戦前に、五代目三升家小勝が「素人演劇」として、モダンに改作したことがあります。

「源太勘当」

源平合戦、木曽義仲の滅亡を描いた全五段の時代物狂言「ひらかな盛衰記」のの第二段です。

原作の浄瑠璃は文耕堂ほかの合作で、歌舞伎の初演は元文4年(1739)4月、大坂角の芝居。千鳥は腰元で、主役の梶原源太景季と恋仲。後に遊女梅ケ枝となります。

「有職鎌倉山」

やはり鎌倉時代を背景にした時代物狂言で、寛政元年(1789)10月、京都・早雲座初演です。

実際はその五年前の天明4年(1784)3月24日、江戸城桔梗の間で、若年寄田沼意知が、五百石の旗本佐野政言に殺された事件を当て込んだものです。

源実朝の鷹狩りで獲物を射止めた佐野源左衛門は、手柄を同僚の三浦荒次郎に譲りますが、善左衛門を妬んだ荒次郎に事あるごとに辱められ、忍耐に忍耐を重ねた後、ついに殿中の柳営の大廊下で荒次郎を討ち果たし、切腹するという筋です。

本来、この噺で演じられるようなお家騒動ものではないはずですが、昔は、こじつけの裏筋が付けられていたのかも知れません。

芝居の泥棒

江戸時代、芝居の興行は、夜の明けないうちから始めて、夕方までやっていました。

お家騒動ものの発端は大方お決まりで、この噺に出てくるように、悪人側の黒幕の家来の、そのまた家来に命じられた盗賊が、お家の重宝(鏡、刀、掛軸など)を盗み出し、蔵を破って出てくるというパターン。

泥棒のセリフも、どれもほとんど紋切り型でした。

その後、雇い主の「小藤太様」が現れて品物を受け取り、これで忠義の善玉側に、この罪をなすりつけられるとほくそ笑んだ上、「下郎は口のさがなきもの。生けておいては後日の障り。金はのべ金」と、口塞ぎのため泥棒はバッサリ、というのがこれまたお決まり。

このシーンは早朝に出され、下回り役者ばかりが出るので、見物人などほとんどいなかったわけです。

泥棒が「主役」に昇格したのは、幕末の河竹黙阿弥の白浪狂言からでした。

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五目講釈 ごもくこうしゃく 演目

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「若だんな勘当もの」の一つです。

【あらすじ】

お決まりで、道楽の末に勘当となった若だんな。

今は、親父に昔世話になった義理で、さる長屋の大家が預かって居候の身。

ところがずうずうしく寝て食ってばかりいるので、かみさんが文句たらたら。

板挟みになった大家、
「ひとつなにか商売でもおやんなすったらどうか」
と水を向けると、若だんな、
「講釈師になりたい」
と、のたまう。

「それでは、あたしに知り合いの先生がいますから、弟子入りなすったら」
大家がと言うと
「私は名人だから弟子入りなんかすることはない、すぐ独演会を開くから長屋中呼び集めろ」
と、大変な鼻息。

若だんな、五十銭出して、
「これで菓子でも買ってくれ」
と気前がいいので、
「まあそんなら」
とその夜、いよいよ腕前を披露することにあいなった。

若だんな、一人前に張り扇を持ってピタリと座り、赤穂義士の討ち入りを一席語り出す。

「ころは元禄十五年極月中の四日軒場に深く降りしきる雪の明かりは見方のたいまつ」
と出だしはよかったが、そのうち雲行きが怪しくなってくる。

大石内蔵助が吉良邸門外に立つと
「われは諸国修行の勧進なり。関門開いてお通しあれと弁慶が」
といつの間にか、安宅の関に。

「それを見ていた山伏にあらずして天一坊よな、と、首かき斬らんとお顔をよく見奉れば、年はいざようわが子の年輩」
と熊谷陣屋。

そこへ政岡が出てくるわ、白井権八が出るわ、果ては切られ与三郎まで登場して、もう支離滅裂のシッチャカメッチャ。

「なんだいあれは。講釈師かい」
「横町の薬屋のせがれだ」
「道理で、講釈がみんな調合してある」

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【しりたい】

またも懲りない若だんな

原話は、安永5年(1776)刊『蝶夫婦』中の「時代違いの長物語」です。

これは、後半のデタラメ講釈のくだりの原型で、歌舞伎の登場人物を、それこそ時代もの、世話ものの区別なく、支離滅裂に並べ立てた噴飯モノ。いずれにしても、客が芝居を熟知していなければなにがなにやら、さっぱりわからないでしょう。

前半の発端は「湯屋番」「素人車」「船徳」などと共通の、典型的な「若だんな勘当もの」のパターンです。

江戸人好みパロディー落語

明治31年(1898)の四代目春風亭柳枝(1868-1927)の速記が残ります。柳枝は、「子別す」「お祭佐七」「宮戸川」などを得意とした、当時の本格派でした。 

寄席の草創期から高座に掛けられていた、古い噺ですが、柳枝がマクラで、「お耳あたらしい、イヤ……お目あたらしいところをいろいろとさし代えまして」と断っているので、明治も中期になったこの当時にはすでにあまり口演されなくなっていたのでしょう。

講談や歌舞伎が庶民生活に浸透していればこそ、こうしたパロディー落語も成り立つわけで、講釈(講談)の衰退とともに、現在ではほとんど演じられなくなった噺です。CD音源は五代目三遊亭円楽のものが出ています。

興津要(早大教授、1999年没)はこの噺について「連想によってナンセンス的世界を展開できる楽しさや、ことば遊び的要素があるところから江戸時代の庶民の趣味に合致したもの」と述べています。

五目

もともとは、上方語で「ゴミ」。転じて、いろいろなものがごちゃごちゃと並んでいること。現在は「五目寿司」など料理にのみその名を残します。

遊芸で「五目の師匠」といえば、専門はなにと決まらず、片っ端から教える人間で、江戸でも大坂でも町内に必ず一人はいたものです。

【語の読みと注】
蝶夫婦 ちょうつがい

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駒長 こまちょう 演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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志ん生もやっている噺。人情噺めいてはいるのですが……。

【あらすじ】

借金で首が回らなくなった夫婦。

なかでも難物は、五十両という大金を借りている深川の丈八という男だ。

この男、実は昔、この家の女房、お駒が深川から女郎に出ていた時分、惚れて通いつめたが振られて、今の亭主の長八にお駒をさらわれたという因縁がある。

「ははあ、野郎、いまだに女房に未練があるので、掛け取りに名を借りて、始終通って来やがるんだ」
と長八は頭にきて、
「それなら見てやがれ」
と渋るお駒を無理やりに説き伏せ、一芝居たくらむ。

お駒に丈八へ恋文を書かせ、それが発覚したことにして、丈八が来る時を見計らってなれ合いの夫婦げんかをする。

あわてる丈八に、どさくさに二、三発食らわして、
「こんな女は欲しいならてめえにくれてやる」
とわざと家を飛び出す。

その間に、今度は本当にお駒を丈八に口説かせ、でれでれになった頃合いを見計らって踏み込む。

「不義の現場押さえた」
とばかり出刃包丁で脅しつけ、逆に五十両をふんだくった上に裸にむいてたたき出すという、なかなか手の込んだもの。

序幕はまったく予定通り。

「こんな女ァてめえにくれてやるが、仲へ入った親分がいるんだから、このままじゃあ義理が立たねえ。これから相談してくるから、帰るまでそこ動くな」

尻をまくって威勢よく飛び出した長八だが、筋書きがうまくいって安心したか、まぬけな奴もあるもの、親分宅で酒を飲みながら時間をつぶすうち、ぐっすりと夜明けまで寝込んでしまった。

第二幕。

こちらは長八の家。

丈八は上方者で名うての女たらし。差し向かいでじわじわ迫る。

「わいと逃げてくれれば、この着物も、これもあんたのもん」
とやられると、お駒も昔取った杵柄。

「つくづく貧乏暮らしが嫌になり、あんな亭主といては一生うだつが上がらない。この上は」
と急きょ狂言を書き直し、長八が帰らないのを幸い、丈八といつしか一つ床に。

挙げ句の果てに、夜が明けぬうち、家財道具一切合切かき集め、手に手を取ってはいさようなら。瓢箪から駒。

翌朝。

長八があわてふためいて家に駆け込んでみると、時すでに遅く、モヌケのカラ。

火鉢の上に書き置き一通。

「遂には、うそがまことと相なりそろう。おまえと一緒に暮らすなら、明くればみその百文買い、暮るれば油の五勺買い。朝から晩まで釜の前。そのくせヤキモチ焼きのキザ野郎。意気地なりの助平野郎」

さらには
「丈八さんと手に手を取り、二世も三世も変わらぬ夫婦の楽しみを……」

「あのあまァ、どうするか見てやがれッ」
と出刃を持って飛びだすと、カラスが上で
「アホウ、アホウ」

底本:五代目古今亭志ん生、四代目橘家円喬

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

円朝作の不倫噺

原話は、明和5年(1768)刊の笑話本『軽口はるの山』巻四の「筒もたせ」とみられます。

この小咄はかなり短く、金に困った男が友達に、うまくすれば銀三百匁にはなるから「美人局」をやってみろとけしかけられます。

そこで、かみさんに因果を含めて近所の若い者を誘惑させ、いよいよ「間男見つけた」と戸棚から飛び出したものの、あわてて「筒もたせ、見つけた」と言ってしまうというおマヌケなお笑いです。

これをもとに、明治初年に三遊亭円朝が一席の落とし噺に仕立てたとみられますが、円朝自身の速記は残っていません。

代わりに、春陽堂版「円朝全集」(昭和2年刊)には、円朝の口演をもっとも忠実にコピーしたとされる門下の三遊一朝(昭和5=1930年没)の速記が掲載されました。

この噺の登場人物名は、すべて講談の大岡政談や浄瑠璃中の、白子屋お駒の情話から取ったものです。

お駒の実録などについては、「城木屋」をご覧ください。

「教訓」としての円朝演出

一朝の速記を見ると、マクラで、うぬぼれが強く人間をばかにするカラスの性癖を引き合いに、「まして人間はうぬぼれが強うございまして、おれの女房はおれよりほかに男は知らない、どんなことをしてもおれのことは忘れまい、なぞと思っていると大違いでございます」と語っています。

男の思い上がりを、円朝がこの噺を教訓として戒めているのがうかがわれます。

なるほど、これがあって初めて、オチのカラスの「アホウ、アホウ」が皮肉として効いてくるわけです。

古い速記では「美人局」と題した四代目橘家円喬のもの(明治28年=1895年)も残っています。

円喬は上方ことばを自在に操れた人なので、活字だけを追っても、大阪弁の丈八の口説きに、いかにもねっとりとした色気が感じられます。

つつもたせ

「美人局」と書きます。博打から出た言葉といわれます。筒持たせ、つまり博打の胴を取るように情夫がしっかり状況をコントロールしている意味でしょう。それとも、もう少しエロチックな意味があるのかもしれません。「美人局」の表記は、中国で元代のころに遡るといいます。井原西鶴なども使っているので、上方ではかなり古くから使われた言葉なのでしょう。

明くれば味噌の百文買い

芝居がかった、女房の置手紙の文句ですが、食うや食わずの貧乏暮らしを象徴する言い回しです。

黙阿弥の芝居「御所五郎蔵」でも、敵役星影土右衛門の子分が主人公を辱めて「こなたと一生連れ添えば(中略)米は百買い酒は一合」と、似たような表現で罵倒します。

「味噌こし下げて歩く」も同意です。

志ん生の独壇場

戦後は、五代目古今亭志ん生が一手専売で、ほかに演じ手はありませんでした。おそらく、敬愛する四代目円喬の速記などから独力で覚えたものでしょう。次男の志ん朝が継承していました。

志ん生は、この噺の欠点である構成の不備や不自然さを卓抜なくすぐりで補い、不倫噺を、荒唐無稽の爆笑編に転化することで、後味の悪さを消す工夫をしています。

当サイトのあらすじは、主に志ん生の速記・音源を参考にしましたが、オチ近くの女房の置き手紙などは、円喬のをそっくり取り入れています。

【語の読みと注】
美人局 つつもたせ

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碁泥 ごどろ 演目

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典型的な滑稽噺。昔はマクラに使われていたそうです。

別題:碁盗人 碁打ち盗人(上方)

【あらすじ】

碁仇のだんな二人。

両方とも、それ以上に好きなのが煙草で、毎晩のように夜遅くまでスパスパやりながら熱戦を展開するうち、畳に焼け焦げを作っても、いっこうにに気づかない。

火の用心が悪いと、かみさんから苦情が出たので、どうせ二人ともザル碁だし、一局に十五分くらいしかかからないのだから、碁は火の気のない座敷で打って、終わるごとに別室で頭がクラクラするほどのんでのんでのみまくろう、と話を決める。

ところが、いざ盤を囲んでみると、夢中になってそんな約束はどこへやら。

「マッチがないぞ」
「たばこを持ってこい」

閉口したかみさん。

一計を案じ、マクワウリを小さく切って運ばせた。

二人とも全く気がづかないので、かみさんは安心して湯に出かける。

そのすきに入り込んだのが、この二人に輪をかけて碁好きの泥棒。

誰もいないようなので安心してひと仕事済ませ、大きな風呂敷包みを背負って失礼しようとした。

すると、聞こえてきたのがパチリパチリと碁石を打つ音。

矢も楯もたまらくなり、音のする奥の座敷の方に忍び足。

風呂敷包みを背負ったままノッソリ中に入り込むと、観戦だけでは物足らず、いつしか口出しを始める。

「うーん、ふっくりしたいい碁石だな。互先ですな。こうっと、ここは切れ目と、あーた、その黒はあぶない。それは継ぐ一手だ」
「うるさいな。傍目八目、助言はご無用、と。おや、あんまり見たことのない人だ、と。大きな包みを背負ってますねッと」
「おまは誰だい、と、一つ打ってみろ」
「それでは私も、おまえは誰だい、と」
「へえ、泥棒で、と」
「ふーん、泥棒。泥棒さん、よくおいでだねッ、と」

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【しりたい】

おじさん、そこおかしいよ!

原話は不詳です。上方落語「碁打ち盗人」を三代目柳家小さんが、大阪の桂文吾に教わり、大正2年(1913)ごろ、東京に移しました。

小さんは、はじめは「芝居道楽」などのマクラとして演じていましたが、後に独立させました。

大正2年と、晩年の13年(1924)の速記が残りますが、最初の演題は上方にならって「碁盗人」でした。

両国の立花家でこの噺を演じたところ、十五、六の少年に、碁を打つ手の行き方が、碁盤に対して高すぎると注意され、その後きちんと碁盤の高さを計ってやるようになったと、大正13年の方のマクラで述べています。生意気なガキですが、前世の談志だったかも?

小さん代々相伝の噺

小さんのうまさは、名人円喬に「もうあたしは『碁泥』は演らない」と言わしめたほどだったといいますが、同じようなことを「笠碁」に対して円朝が言ったという話もあるので、あるいは混同されて伝わった逸話かも知れません。

門弟の四代目小さん、孫弟子の五代目小さんと継承され、代々の小さん、柳派伝統の噺となりました。

戦後、三代目三遊亭小円朝も得意にしていましたが、小円朝は、最初の泥棒の助言に対して、主人が言葉で答えず、石を持った右手を耳の辺りで振ってみせるやり方でした。「本家」の上方では、現在はあまり演じられないようです。

煙草盆

たばこぼん。炭火を灰で埋めた小型の火鉢と、吸殻を捨てる竹筒(灰吹)を入れた四角の灰皿です。歌舞伎の小道具として、よく舞台で見られますね。

灰吹がほとんど見られなくなった現在、かつて五代目古今亭志ん生がやった、「畳に火玉が落ちたよ」「ハイ、フキましょう」というくすぐりも、理解されにくくなっています。

泥棒の語源

泥棒にもピンからキリまであります。

「おかめ団子」の主人公のように、本当に「出来心」でフラリと入ってしまうのが「空き巣ねらい」で、計画的に侵入する盗賊より罪が軽く、盗んだ金額にもよりますが、江戸時代には初犯なら百たたきで勘弁してもらえることが多かったようです。

「どろ」は「どら」「のら」と同義語で、もともと怠け者の意。怠惰で、まともに働く意欲がないから盗みに入るという解釈から。

古くは「泥た棒」「泥たん棒」「泥つく」とも呼び、イカサマ師やペテン師、スリなども合わせて「泥棒」ということがありました。

泥棒伯円

幕末から明治にかけて白浪(=盗賊)ものを得意にした講釈師、二代目松林伯円(1831-1905)は「泥棒伯円」とあだ名され、お上から「副業」にやっているのではないかと疑われたほど。

ところが、後に明治政府の肝いりで教導職となって「忠君愛国講談」に転向、明治天皇御前口演までやってのけました。彼が手掛けた泥棒は、鼠小僧、稲葉小僧始め、大物ばかりでコソ泥などいません。このことからも講談と落語の違いが明白です。

互先

実力が同じ者同士が、交互に白を持って先番になる取決めです。

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五十四帖 ごじゅうしじょう 演目

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「源氏物語」をもじった、駄洒落丸出しの噺。

【あらすじ】

手習の師匠をしている、村崎式部という浪人。

もとは某藩の祐筆を務めていたが、これが、あだ名を「光君」と呼ばれたほどの色男。

吉原通いをするうちに玉屋の中将という花魁と相思相愛の仲になったことから、中将の年季が明けるのを機に身請けして女房にしたが、
「祐筆の身が遊女を女房にするとはけしからん」
とご重役方の怒りに触れて、あえなくクビ。

仕事上、書をよくしたので、子供らに習字を教えて、細々と生計を立てている、今日このごろ。

ところが、いい男だから、近所の菓子屋の娘で十五になるお美代というのが式部に夢中になり、いつしか二人はわりない仲に。

これがバレないはずがなく、中将、嫉妬で黒こげ。

ある日、式部がつい、反物の仕立てをお美代に頼もうと、口走ったことから、かみさんの怒りが爆発。

夫婦げんかになった。

けんかが白熱して、母親の仲裁も聞かばこそ、「源氏物語」五十四帖の本を投げ合い、「源氏」尽くしの言い合いに。

「もうもう縁を桐壺と、思うておれど箒木が、蜻蛉になり日なたになり、澪標(=身を尽くし)、早蕨の手を絵合わして乙女になるゆえそのままに、須磨しておれど、向こうの橋(=菓子)姫と情交があるの、明石て言えと、いらざることを気を紅葉賀、もう堪忍が奈良坂や、この手拍子の真木(=薪)柱で、空(=打つ)蝉にするぞ」

「いかに榊木(=酒気)げんじゃとて、あんまりなこと夕顔でござんす。花の宴(=縁)があればこそ、末摘花を楽しみに、また若紫のころよりも、人目関屋の雲隠れ、心の竹川言いもせで、(中略)いまだ十四五なあの胡蝶と、あんまり浮気な藤裏葉、うら腹男、御法(=祈り)殺してくりょう」

これでもまだ足りず、宇治十帖まで行きそうな気配なので、おっかさん、さじを投げて隣のかみさんに救援を頼んだ。

「まあ、おっかさんも大変じゃございませんか。焼き餅けんかが、ただ始終苦情(=四十九帖)で」
「いえ、五十四帖でございます」

底本:六代目桂文治

★auひかり★

【しりたい】

焼き餅もペストも風雅な時代

原話は不明。明治33年(1900)2月の「百花園」に掲載された六代目桂文治の速記が残るだけです。

この年は、子年のうえペストが大流行し、東京府、東京市がネズミを一匹五銭で買い上げるという騒ぎになりました。

文治はこれを当て込んで、マクラでペストをあれこれ話題にし、ネズミがペストを媒介するなら、「夫婦げんかは犬も食わない」というのだからそれ以外のけんかは犬が媒介するのだろうと珍妙な論理を展開。焼き餅による夫婦げんかがテーマの、この噺につなげています。

いずれにしても、源氏物語の五十四帖を読み込む趣向だけなので、文治以後、口演記録はありません。

手習いの師匠

江戸では、庶民はふつう「寺子屋」とは呼ばず、もっぱら「手習い」でした。

武士の子には、旗本、御家人のうちで書をよくする者が教えましたが、そこに町人が出入りしても、かまいませんでした。

町家の子は主に浪人が教えますが、むろん規模の小さい自宅営業。

多くは七歳の春に通い始め、弟子入りの時は母親が付き添い、束脩として二朱、そのほかに天神机、硯、砂糖一斤を持参するのが普通です。

月謝は普通月二百文で、その他盆暮れに二朱ずつ、毎月二十五日に天神講の掛け銭が二十四文、夏には畳銭二百-三百文、冬には炭代を同額納めました。

天神講

てんじんこう。学問の神である天神を祭る行事のための積み立て金。町家の子には習字のほか、必ず算盤を教えることになっていました。「読み書きそろばん」と呼ぶゆえんです。

【語の読みと注】
祐筆 ゆうひつ:書記
花魁 おいらん
嫉妬 しっと
反物 たんもの
桐壺 きりつぼ
箒木 ははきぎ
蜻蛉 かげろう
澪標 みをつくし
早蕨 さわらび
須磨 すま
空蝉 うつせみ
末摘花 すえつむはな
若紫 わかむらさき
束脩 そくしゅう:入学金
算盤 そろばん

★auひかり★

子殺し こころし 演目

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陰惨丸出し。笑えるかなあ。こんなもの、よく笑いに取り入れたものですね。

【あらすじ】

亭主の働きが悪く、借金取りに責めたてられて、大家にも店立てをくっている夫婦。

いっそ夜逃げをしようと相談中に、知人が尋ねてくる。

ある家で、かみさんが産後の肥立ちが悪くてとうとう死んでしまい、亭主もその跡を追うようにあの世へ行ってしまって赤ん坊だけ残されたが、どこか育ててくれる人はないかと、亭主の兄弟分に頼まれたが、心当たりはないかという相談。

なんでも、引き取ってくれる人には、五十両の養育費を付け、赤ん坊の着物も添えるというので、夫婦は金にひかれて、その子をもらい受けることにした。

その五十両で借金もきれいに返し、一息ついてほっとしたものの、こうなると、じゃまになるのが赤ん坊。

もともと金づくでしかたなく引き取ったもので、ピイピイ泣いて手間がかかり、夜も寝られないとあって、
「五十両ぽっちの目腐れ金でこの先も居すわられたのでは割りに合わねえからいっそ片付けちまおう」
と亭主が言い出す始末。

絞め殺したのでは喉に痕がついてバレるからと一計を案じ、湯に連れていって温め、こたつの脇で布団をかぶせて押さえつけた。

しばらくして見てみると、赤ん坊の死骸は、注文通り、真っ赤。

これを医者に見せ、
「疱瘡で亡くなりました」
と言い立ててさっさと葬式を出し、遺留品もきれいに始末してしまう。

以来、悪行が実を結んでか、にわかに金回りがよくなった夫婦。

そうなると亭主の気が大きくなり、吉原のお女郎になじんで、十日も二十日も帰らない。

おもしろくないのがかみさんで、ある日、やっと帰ってきた亭主をつかまえて責めたてたあげく、赤ん坊殺しの件まで大きな声でしゃべり出すので、亭主は仰天。

そんなことがお上に漏れれば、首と胴が泣き別れになると必死になだめすかす。

「もう決して家は明けない」
と謝って、
「おまえと久しぶりに一杯やろうと酒屋に一升頼んできたから、湯に行っている間に届いたら燗をつけておいてくれ」
と、言い残して出ていく。

ところが天の網、さっきのかみさんの声が人に聞かれて、訴人されたか、奉行所の捕り手が四方から家を囲んだ。

「御用だっ」
「おや、酒屋さんかい」

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【しりたい】

江戸の嬰児虐待

陰惨な噺で、特に現在の社会状況を考えると、リアルすぎてシャレになりません。

百年二百年たとうが、人の世は同じことの繰り返しということでしょうか。

いずれにせよ、資料的価値以外にはないでしょう。

原話も不明で、明治32年(1899)の初代三遊亭円左の速記のみ残ります。

この円左以前も以後も、まったく口演資料がないところをみると、あるいは、これ限りの円左の新作かもしれません。

御用聞き

酒屋に限ってこう呼びました。徳利拾いともいいます。

まず酒の御用を聞き、それから味噌醤油と、二、三回も、御用は御用はと聞くのでついた名とか。

オチは、お上の御用を承る目明しの「御用聞き」と掛けています。

初代円左は、わざわざマクラでそのことを説明していて、当時でさえ、後者の意味がわからなくなりかけていたことがうかがえます。

ここで円左は、江戸時代の目明しを「おてききしゅう」と呼び、速記で「御探偵衆」と当て字させています。そのあたりは、いかにも明治のにおいがします。

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小言念仏 こごとねんぶつ 演目

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短くって、すじもへったくれもない噺。念仏系宗旨をちゃかしてます。

別題:世帯念仏(上方)

【あらすじ】

親父が、仏壇の前で小言を言う。

ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

「鉄瓶が煮立っている」
「飯がこげている」
「花に水ゥやれ」
と、さんざんブツブツ言った後、
「表にドジョウ屋が通るから、ナマンダブ、ナマンダブ、買っときなさい、ナアミダブ、ドジョウ屋ァッナムアミダブ、鍋に酒ェ入れなさいナムアミダブ、一杯やりながらナムアミダブ、あの世ィ行きゃナマンダブ、極楽往生だナマンダブ、畜生ながら幸せなナムアミダブ、野郎だナマンダブ、暴れてるかナマンダブ、蓋取ってみなナムアミ、腹だしてくたばりゃあがった? ナムアミダブ、ナマンダブ、ざまァみゃがれ」

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【しりたい】

仏教への風刺

原話は不明で、上方落語「世帯念仏」を、そのまま東京に移したものです。移植の時期はおそらく明治期と思われます。

上方でもともと「宗論」「淀川(後生鰻)」などのマクラに振っていた小咄だったものが、東京で一席の独立した小品となりました。

念仏を唱えながらドジョウをしめさせるくだりは「後生鰻」と同じく、通俗化した仏教、とくにその殺生戒の偽善性を、痛烈に風刺したものといえるでしょう。しかも、念仏ですから、浄土宗、浄土真宗、時宗系をちゃかしているわけです。「後生鰻」も念仏系の噺です。

小言

これすらも、昨今は死語化しつつあるようですが、小言は「叱事(言)」の当て字。

特に小さな、些細なことを、重箱の隅をほじくるようにネチネチと説教するニュアンスが、「小」によく表れています。江戸では「小言坊」「小言八百」などの言葉があり、「カス(を食う)」というのも類語でした。

どじょう。鰻にくらべて安価で、精のつくものとして、江戸のころは、八つ目うなぎとともに庶民層に好まれました。

我事と 鰌の逃げる 根芹かな
なべぶたへ 力を入る どじょう汁
念仏も 四五へん入る どじょう汁

さまざまな雑俳に詠まれています。

最後のは、煮ながらせめてもドジョウの極楽往生を願う心で、この噺のおやじよりは、まだましですね。

ドジョウを買うときは升で量りますが、必死で踊り狂うので、なかなか数が入らず、同じ値段でも損をすることになります。

そこで、ドジョウをおとなしくさせるまじないとして、碗の蓋の一番小さいものをヘソに当ててにらみつければ、たちどころにドジョウは観念し、同じ大きさの升でも二倍入ると、『耳嚢』(根岸鎮衛の随筆)にあります。ホントでしょうかね。

金馬や小三治の苦い笑い

昭和に入って戦後まで、三代目三遊亭金馬の十八番でした。明るい芸風の人だったので、風刺やブラックユーモアが苦笑にとどまり、不快感を与えなかったのでしょう。

短いため、さまざまな演者が今も手がけますが、柳家小三治のものが自然に日本人の嗜虐性を表現していてうならせます。

上方の「世帯念仏」は桂米朝が継承していました。

東西ともオチは同じですが、明治の五明楼玉輔の速記では「ドジョウ屋が脇見をしているすきに、二、三匹つかみ込め」と、オチています。

【語の読みと注】
世帯念仏 しょたいねんぶつ
耳嚢 みみぶくろ

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後家殺し ごけごろし 演目

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すじだけ読むと、とても笑える代物ではないのですが。

【あらすじ】

職人の常さん、大変に義太夫に凝っている。

ある日、町内の伊勢屋という大きな質屋で開かれた会で、「平太郎住家」を一段語ったのが縁となって、そこの後家さんといい仲になった。

もう三年越し。

後家さんは年のころ二十七、八で、色白の上品ないい女。

常さん、コソコソ隠れてするのが嫌いな性分なので、堂々とかみさんに打ち明けると、このかみさんもさばけたもの。

「決してうれしいことではないけれど、私を追い出すというのでさえなければ、おまえさんがほかに変な女に引っ掛かるよりはいいし、男の働きだから」
と公認してくれている。

そんなわけで、本宅と伊勢屋に一日交代で泊まり、向こうも心得たもので、月々にはちゃんと金も届けて寄こすし、うらやましいご身分。

ところが、その話を聞いた友達がやっかみ半分に、
「あの後家さんは、もうとうにおまえに飽きが来て、荒井屋という料理屋の板前で喜助という男とできている」
と吹き込んだから、さあ常さんは心穏やかではない。

喜助は女殺しの異名を取る、小粋ないい男。

疑心暗鬼にかられた常吉、ついにある夜、出刃包丁を持って伊勢屋に踏み込み、酒の勢いも借りて
「よくもてめえはオレの顔に泥を塗りゃあがったなッ」

後家さんのいいわけも聞かばこそ、馬乗りになると、出刃でめった突き。

なます斬りにしてしまった。

あとで、その話はまったくの作り話と知れ、後悔したが、もう遅い。

お白州へ引き出され、打ち首と決まった。

「その方、去る二月二十四日、伊勢屋の後家芳なる者を殺害いたし、重々不届きにより、重き科にも行うべきところ、お慈悲をもって打ち首を申し付ける。ありがたくお受けいたせ」
「ありがたかありません」
「今とあいなり未練なことを申すな」

奉行が、
「いまわの際に一つだけ願いをかなえてつかわす」
というので、常さん、義太夫で
「後に残りし女房子が、打ち首とォ聞くゥなァらばァ、さそこなげかァーん、ふびんやーとォー」
と語ると奉行、ぽんと膝をたたいて
「よっ、後家殺しッ」

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【しりたい】

円生ネタ

もともと上方落語の切りネタ(大ネタ)で、原話は不詳です。

大阪の二代目桂三木助からの直伝で、戦後、六代目三遊亭円生が東京に移植、独壇場にしていました。

義太夫の素養が不可欠なため、円生在世中もほとんどほかにやる落語家はなく、没後の継承者も出ません。今となると、貴重な噺です。

実際に、高座で義太夫を語る音曲噺なので、「やはり耳で聞いていただくのがいちばん」と円生も述べています。               
円生は、「噺の中の進行のために、浄瑠璃の文句のすべてを節づけず、半分の文句は普通にしゃべりますが、義太夫の素養がないと、節の場合とちがって自然に出てこないものです」とも、語り残しています。

この噺や「豊竹屋」などは、円生が少年時代、プロの義太夫語りだった円生ならではのもの。豆仮名太夫で出ていました。こうした噺を自在にこなせる落語家は、もう出ないでしょう。

平太郎住家

浄瑠璃「祇園女御九重錦」全五段のうち三段目。

柳の木の精が人間の妻になるという筋立てで、俗に「柳」ともいい、歌舞伎にも脚色されています。

お慈悲をもって打ち首

「下手人」といいます。この言葉は、犯人をも意味しますが、罪名として用いられる場合は、単純な斬首刑のこと。

取られる物は首だけで、同じ打ち首でも、「死罪」のように市中引回し、家財没収、山田朝右衛門によるためし斬りなどの付加刑がない分、確かにありがたいお慈悲です。

後家殺し

上方で、浄瑠璃にかけるほめ言葉です。語源は不明ですが、後家を悩殺するほどの色男、という意味でしょう。

義太夫の三味線は「太ザオ」なので、あらぬ連想をたくましくすることも不可能ではありませんが……。

「後家が惚れるくらいですからいい加減な義太夫ではいけません」(六代目円生)

【語の読みと注】
下手人 げしゅにん:斬首刑

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甲府い こうふい 演目

【RIZAP COOK】

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奇妙なタイトルです。日蓮宗がらみの噺ですね。

【あらすじ】

甲府育ちの善吉。

早くから両親をなくし、伯父夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山に断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺の境内で巾着をすられ、無一文に。

腹を減らして市中をさまよったが、これではいけないと葭町 よしちょう)の千束屋 ちづかや)という口入れ屋を目指すうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆が袋だたきにしようというのを、主人が止め、事情をきいてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々法華宗、
「これもお祖師さまの引き合わせだ」
と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金は出ないが、商高の応じて歩合が取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向なく懸命に
「豆腐ィ、胡麻入り、がんもどき」
と売って歩いた。

愛想がよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、放っておくと虫がつくから、早く婿を取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨も合うし、真面目な働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し
「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪ざっぽ持ってこい」
と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分風情がと遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付き地主。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所へは一度も帰っていないので、
「両親の十三回忌と身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」
と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度してやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若だんな、どちらへお出かけで?」
と聞かれて善吉が振り向き
「甲府 豆腐)ィ」
と言えば、お孝が
「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前人情噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治の速記が残ります。大筋は現行とほとんど変わりません。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、戦後は、八代目春風亭柳枝、八代目三笑亭可楽がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

「鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。流罪を許されて身延に隠棲した日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井(はきい)氏から寄進を受けて開基したものです。日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝(1422-1500)が現在の山梨県南巨摩郡身延町に移してますます発展させました。日蓮宗の本拠としては、江戸の池上本門寺があるので、江戸の門徒は通常、ここに参詣すればよいとされました。日蓮の終焉の地です。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増し始めたのは、宝永年間(1704-11)とか。宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録があります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語に頻繁に登場する「大家」は差配ともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人間です。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多く、その場合、地主と大家を兼ねていることになります。こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋で、通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁や鳶頭など、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵(1888-1945)は『落語通談』に記しています。「斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った」と。

この「古老扇橋」は声色(声帯模写)の名人としても知られた八代目入船亭扇橋(1865-1944)でしょう。改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりませんが、同書によれば、筋は大同小異。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、舅夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房に任せてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居になった「模範落語」

『落語通談』によると、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、戦時中、報国紙芝居になったとか。いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局にとって「期待される人間像」の典型であったかわかろうというものです。でも、泣かせます。

無名庵は当時の政府の片棒をかついで昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度の人。「何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった」。つまりは、そういう噺です。

【語の読みと注】
巾着 きんちゃく
葭町 よしちょう
千束屋 ちづかや
口入れ屋 くちいれや
居付き地主 いつきじぬし

【RIZAP COOK】

高野違い こうやちがい 演目

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ところどころで古典の知識が試される、ペダンチックな噺です。

【あらすじ】

出入りの鳶頭が店に年始に行くと、だんなが子供たち相手にカルタをやっている。

鳶頭はカルタなど見たことがないので珍しく、あれこれトンチンカンなことを言うので、だんながウンチクをひけらかして、ご説明。

洗い髪で、たいそうごてごてと着物を着ている女がいると言うと、それは下げ髪、着物は十二単で、百人一首の中の右近と教えられる。

同じような女が二人いるが、赤染衛門に、紫式部。

赤に紫に黄色(鬱金色=右近)で、まるで紺屋の色見本のよう。

紫とやらいう女の歌が
「巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」

誰かに逢いたいと神に願掛けしている歌だと聞いて
「そりゃ、合羽屋の庄太ですよ。借金を返しゃあがらねえ」
「おまえの話じゃないよ」

太田道灌が
「急がずば 濡れざらましを 旅人の跡 より晴るる 野路の村雨」

弘法大師の歌が
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 高野の奥の たま川の水」

これは六玉川のうち、紀州は高野山の玉川の水は毒があるため、のまないよう戒めた歌だというので、鳶頭、親分が大和巡りに行くから知らせてくると飛び出す。

「それで、その歌はなんだ」
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 跡より晴るる 野路の村雨」
「それじゃ尻取りだ。下は『たかのの奥の 玉川の水』というんだろ」

鳶頭、先に言われたので、しゃくなので揚げ足を取ろうと
「親分、タカノじゃなくてコウヤでしょう」
「同じことだ。仏説にはタカノとある」

またへこまされたので、それではと
「ごまかしたって、こっちにゃ洗い髪の女がついてるんだ。じゃ、こんなのはどうです。『巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな』。さあ驚いたろう」
「驚くもんか。それは誰の歌だ」
「ナニ、着物であったな、鳶色式部だ」
「鳶色式部てえのはない。紫だろ」
「紫と鳶色は昔は同じだったんで。これは仏説だ」
「そんな仏説があるか。大変に違わあ」
「へえ、そうですか。それじゃ、紺屋が間違えたんでしょう」

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【しりたい】

現代人にはわからない

古風な噺で、和歌の教養がないと、今ではよくわからないでしょう。江戸時代には「小倉百人一首」がごく一般に普及していて、これくらいの和歌はわかりあっていたのです。明治にいたっても同様です。共有の文化でした。

原話は、文化8年(1811)ごろ刊行された、初代三笑亭可楽(1833年没)作の噺本『種が島』中の「源氏物語」です。

無知な男が、和歌の解釈を聞きかじって、トンチンカンなひけらかしで失敗するパターンは現行通りです。

原話では紫式部の歌でなく、謡曲「源氏供養」にある、式部が石山寺の観音の化身だという伝説から、「鳶色式部」を出しています。

オチは、弘法大師(高野山)と太田道灌の歌の上下をとり違えたのと、「紫(色)」と「鳶(色)」の間違いを掛け、色→紺屋の連想から、紺屋=高野のダジャレオチとしています。

原話のオチは、「ナアニ、おれがそそっかしいのじゃアねえ。ぜんてえ、せんに(=だいたい、前に)高野で間違った」というものです。こちらの方がわかりやすいかもしれません。

紺屋の色見本

紺屋形ともいいます。今でもある、服地のサンプルまたはカタログです。

紺屋は、初期は藍で紺色を染めるだけだったのが、のちに染料の進歩により、様々な色の染物ができるようになりました。

特に紺屋の女房になった、吉原の六代目高尾太夫考案の、浅黄色の早染め(かめのぞき)は評判になりました。

かめのぞき」については「紺屋高尾」をごらんください。

オチは、高野山弘法大師の歌の間違いに、そそっかしい紺屋が、色見本を見ても紛らわしい紫と鳶色を染め間違えたことを掛けてあるわけです。

六玉川

むたまがわ。歌枕に詠まれる全国の六つの玉川のこと。

山城の井出の玉川
摂津の卯の花の玉川
近江の野路の玉川
陸奥の野田の玉川
武蔵の調布の玉川
紀伊の高野の玉川

高野の玉川は、高野山奥の院弘法大師廟のそばを流れる川です。

川水の毒については、噺の中でだんなの解釈する通り、弘法大師のこの歌が載っている「風雅和歌集」の詞書に「高野奥院へまいる道に玉川という河のみなかみ(=上流)に毒虫の多かりければ、この流れを飲むまじき(飲んではならない)由を示しおきて後よみはべりける」とあって、実際に中毒の危険を示唆しています。

高野山には女人禁制であったため、
「毒水を 飲む気づかひは 女なし」
という川柳もありました。

ただし、別の説では、名水をいたずらに酌むなという教訓がのちに「毒水」と誤伝されたものともいわれます。

鳶色式部

鳶色は、鳶の羽色の茶褐色のこと。

布地では「鳶八丈」を指します。鳶八丈とは、鳶色の地に、黒または黄の格子縞の着物です。明治中期に、袴の色から、女学生の異名に用いられたこともあり、あるいは、それもかけられているかもしれません。

円喬のオハコ

古くから口演された江戸落語で、明治28年(1895)の四代目橘家円喬の速記が残ります。円喬はこの噺を好み、よく高座に掛けたようです。名人の名を後世に残しながら、ややキザで教養をひけらかす臭みがあったという、この人が好みそうな噺でしょう。

戦後は、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌という、兄弟弟子だった二人が、ともに手掛けました。「やかん先生」の金馬はファンに愛されながらも、そのペダンチックが嫌われもしました。

このような古ぼけたうんちく噺は、円喬や金馬のように、才気ばしった落語家でないと衒学趣味だけが鼻につき、さまにならないのかもしれません。現在は、ほとんど演じられていません。

【語の読みと注】
鳶頭 とびのかしら
十二単 じゅうにひとえ
右近 うこん
赤染衛門 あかぞめのえもん
紺屋 こうや
六玉川 むたまがわ

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小いな こいな 演目

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柳橋の芸者さんが出てきて、ちょっと艶っぽい噺です。

【あらすじ】

幇間の一八が、この間の約束どおり芝居に連れていってくれと、だんなにせがみに来る。

ところがだんな、今日は都合でオレは行けないからと、代わりに、おかみさんに、女中と飯炊きの作蔵をつけて出そうとする。

作蔵、実は、これがだんなと一八の示し合わせた狂言らしいと見抜いているので、仮病を使って、家に残ってようすをうかがう。

二人きりになると、案の定、だんなは作蔵に、
「柳橋の小いなという芸者のところまで使いに行け」
と言いつけた。

かって知ったるだんなの女。

作蔵、にんまりして
「そう来べえと思ってた。行かれねえ」

さらに作蔵は
「おまえさま、あんだんべえ、今日はおかみさま、芝居エにやったなァ、柳橋の小いなァこけえ呼んで、大騒ぎする魂胆だんべえ」
と、すべて見通されては、だんなも二の句が継げない。

一八だけでなく、作蔵も代わりに芝居にやった藤助もグルなのだが、実はだんなは男の意気地で、小いなを三日でも家に入れてやらなければならない義理があるので、今日一日、おかみさんを芝居にやり、口実をこしらえて実家に帰すつもり。

「決して、かみさんを追い出そうというのではないから」
と作蔵を言いくるめ、やっと柳橋に行かせた。

まもなく、小いな始め、柳橋の芸者や幇間連中がワッと押しかけ、たちまちのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ、藤助が血相変えて飛び込んできた。

「おかみさんが芝居で急に加減が悪くなり、これから帰ってくる」とのご注進だったので、さあ大変。

一八は、風を食らって逃げてしまった、という。

膳や盃洗を片づける暇もなく、小いなをどこかに隠そうとウロウロしている間に、玄関で、おかみさんの声。

しかたなく、部屋の中に入れないように、だんな以下、総出で襖をウンショコラショと、押さえる。

玄関に履物が散らばっているので、もうバレていておかみさんは、カンカン。

「きよや、早く襖をお開け」
「中で押さえてます」
「もっと強くおたたき」

女中が思い切りたたいたので、襖の引き手が取れて穴が開いた。

その穴からのぞいて、
「あらまあ、ちょいと。お座敷が大変だこと。おかみさん、ご覧あそばせ」
と言うと、襖の向こうから幇間が、縁日ののぞきカラクリの節で
「やれ、初段は本町二丁目で、伊勢屋の半兵衛さんが、ソラ、おかみさんを芝居にやりまして、後へ小いなさんを呼び入れて、のめや歌えの大陽気、ハッ、お目に止まりますれば、先様(先妻)はお帰り」

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【しりたい】

明治の新作

三代目柳家小さんの、明治45年(1912)の速記が残るだけで、現在はすたれた噺です。

新富座

噺の中で、かみさんや女中を芝居見物にやる場面がありますが、その劇場は、新富座となっています。

新富座は、日本最初の西洋式座席、ガス灯による照明を備えた近代的な劇場として、明治8年(1875)に開場。

この噺は、それ以後の作になります。オチは、のぞきからくりの口上、特に先客を追い出す時の文句を取り込んだものですが、現在では事前の説明がいるでしょう。

小さんは、この噺のマクラとして「権助提灯」を短縮して入れています。

のぞきカラクリ

「のぞき眼鏡」ともいいます。代金は二銭で、絵看板のある小さな屋台で営業しました。

眼鏡(直径約10cmのレンズ)をのぞくと、西洋画、風景写真などの様々な画面が次々と変わって現れます。

両側の男女が細い棒をたたきながら、独特の節回しで「解説」を付け、それに合わせて紐を引くと、画面が変わる仕掛けです。

明治5年(1872)夏ごろから、浅草奥山の花屋敷の脇で始まり、神保町、九段坂上など十数か所で興行され、たちまちブームに。

原型は江戸中期にすでにありましたが、維新後の写真の普及とともに、開花新時代の夏の風物詩となりました。

早くも明治10年前後には飽きられ、下火になったようです。

歌舞伎では、河竹黙阿弥が、幕末に書いた極悪医者の狂言「村井長庵巧破傘」の外題を明治になり、「勧善懲悪覗機関」と変えて、時代を当て込みました。

男の意気地

このだんな、まだ小いなを正式に囲ってはいません。あるいは、何か金銭的な理由その他で妾宅を持たせてやれない代わりに、二、三日なりと本宅に入れて、実を見せたというところ。

いかにも明治の男らしい、筋の通し方です。

【語の読みと注】
幇間 たいこもち
内儀さん おかみさん
村井長庵巧破傘 むらいちょうあんたくみのやれがさ
勧善懲悪覗機関 かんぜんちょうあくのぞきからくり

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鍬潟 くわがた 演目

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珍しい相撲ネタの噺です。巨人と赤ん坊のような極端な対比の大一番。

【あらすじ】

身長が二尺二寸(68cm)という小さな男。

何か背が伸びる方法はないかと、隣の長屋の甚兵衛に相談した。

甚兵衛、
「背丈はどうにもならないが、おまえさんが奮起すれば、大男にも負けないだけの働きができる」
と言って、昔の大坂相撲の鍬潟という力士の話をする。

鍬潟も、なんと三尺二寸(97cm)の、超ミニサイズ力士。

ところが、ある時、江戸で無敵の大関雷電為右衛門を破って、満天下をあっと言わせた。

雷電は、六尺五寸(197cm)、四五貫(170kg)はあろうという、雲つく大男。

身長は、ゆうに倍以上、巨人と赤ん坊。

まともならぶつかっただけで、バラバラにされてしまう。

ところが、鍬潟、一計を案じて体中に油を塗り、立ち上がると土俵の中をチョロチョロと逃げ回る。

雷電、あせって捕まえようとするが、油でツルツル滑る上、なにせ小さいからどこにいるのかわからない。

さんざん追い駆けっこをした挙げ句、滑ってつんのめったところを、鍬潟が足にくいついたので、雷電たまらず土俵下へ、という、前代未聞の一番。

満場は爆笑の渦へ。

のちに、この雷電と義兄弟の縁を結び、名力士として名をなしたという話。

これを聞いて、小男は一念発起した。

「ワシも第二の鍬潟になれるかも」
と、相撲部屋に入って修行を積むが、ある日、稽古疲れで家に帰ると高イビキ。

起こされると、布団から手足が出ていたから、稽古のおかげで背が伸びたと喜んだ。

女房、
「足が出るわけさ。そりゃ座布団だもの」

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【しりたい】

大酒の甲斐もなく

原話は安永6年(1777)に大坂で刊行された笑話本『新撰噺番組』巻五の「一升入る壺は一升」です。

これは、子供並みに小さな男が、なんとか背を伸ばしたいと、日夜神に祈ると、ある晩、不思議な童子が夢枕に。童子は男に、「飯、餅、酒を一斗(10升=18L)ずつ飲食し、目覚めたあと背伸びをすれば、なんじの背は布団から足が出るくらいにはなるぞよ」と、妙なご託宣。男は下戸だったのに、大きくなりたい一心。命がけで酒をのみ干し、馬のように食らって目覚めると、アーラ不思議、本当に足がにゅっと布団の外へ。やれありがたいと狂喜して立ち上がると、背は元のまま。後ろを振り返ると、寝ていたのは座布団の上。

オチの部分がそっくりですが、この小咄の題は、しょせん、人には生得の定められた器しか与えられないという教訓でしょう。

円生の逃げ噺

上方落語で、東京にいつ移植されたかは不詳です。上方の演出では、発端が少し違っています。

道頓堀の芝居小屋に、関取が顔パスの無料で入場。見ていた二尺二寸の小男が、巨体の陰に隠れていっしょに入ろうとし、つまみ出されます。そこで、男がくやしがって一念発起。相撲取りになってやろうと決心するわけです。

東京では、大正から昭和初期に五代目三遊亭円生(1940年没)が得意にしました。五代目は「デブの円生」とあだ名されたほど、相撲取りなみに恰幅のいい落語家でした。

戦後は、養子の六代目円生が継承。客種が悪いときに演じる「逃げ噺」の一つにしていました。円生自身、相撲に造詣が深く、相撲ネタの「阿武松」「花筏」なども十八番でした。

類話「小粒」

類話「小粒」では、こうなります。

ある小男が大きくなりたい一心で芝山の仁王尊に願掛けします。すると、仁王さまが夢枕に立ち、「なんじの信心の威徳により、背丈を三寸伸ばしてとらす」とありがたいお告げ。目覚めて、半信半疑で足を伸ばすと、蒲団から足がニュッ。やれありがたやとはね起きると、布団を横にして寝ていた、というものです。

原話の形には、こちらの方が近いですが、オチのダメ押しが効いています。

上方噺「野崎まいり」

小男がからかわれる噺では、上方の「野崎まいり」があります。

野崎まいりの慣習、船上と土手の上の悪口合戦。船の小男がさんざん悪態をつかれ、くやしまぎれに「山椒は小粒で、ひりりと辛いわい」と言い返そうとして、「さんしょは、ええと、ひりりと辛いわい」。土手の男が、「やい、教えてもろたんならちゃんと言え。小粒が抜けとるわい」と言うと、小男、川の中をキョロキョロ探して「えっ? ど、どこに」

雷電について

雷電為右衛門(1767-1825)は信濃(長野県)出身。最高位は大関。松江藩主松平家の抱え力士で、怪力無双、優勝相当25回。生涯成績は254勝10敗2分14預かり5無勝負、勝率9割6分2厘。文化8年(1811)2月、43歳で引退。全盛時は197cm、170kg。43、44、38連勝、各1回。

横綱や大関には一度も負けず、生涯10敗は、小結に1敗した以外はすべて平幕や十両相手のポカ負けというところから、この噺のようなヨタ噺が考えられたのでしょう。

相撲至上最強といわれる、伝説の強豪ですが、横綱とならなかったのは、免許を出す吉田司家が外様の肥後細川家の家臣だったので、松平家が申請しなかったためと伝えられます。

鍬潟について

もちろん架空の力士です。江戸時代には、小人力士や巨人力士、子供力士などを見世物的に巡業の看板にすることはあっても、実際に割りを組んで、相撲は取らせませんでした。

【語の読みと注】
雷電為右衛門 らいでんためえもん

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廓大学 くるわだいがく 演目

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廓中毒の若だんなのばかぶり、儒学のばからしさをも笑います。

【あらすじ】

若だんなが吉原に入り浸り。

もう堪忍袋の緒が切れたと、親だんなが勘当しようとする。

それを番頭が止める。

「若だんなは反省して、今二階に閉じこもって『大学』の素読をしているので今度だけは勘弁してやってほしい」と取りなす。

親だんなも、「まじめになってくれるのなら言うことはない」と、二、三日ようすを見ることにした。

初めは、改心を装っていた若だんな。

時がたつと、だんだん本性を現し、がまんすればするほど吉原が恋しくなる。

「俺くらいになると、吉原中の人間に顔を知られている」
と、モテにモテた日々を回想し、
「吉原の車屋は威勢がよかった」
とか、
「山谷から船で芸者を連れて遊びに出たら、帰りが遅いと見番(廓の出入りの管理者)に文句を言われたが、廓の世話人の久兵衛に取りなしてもらった」
とか、
「吉原では番頭新造が花魁の懐を握っている」
とか、
「禿は居眠りすると相場が決まっている」
などと、次から次へと思い出すたびに、矢もたてもたまらなくなって、思わず大声を張り上げてしまう。

それを聞きつけたおやじ、二階に上がってきて
「このばか野郎。番頭が、おまえは『大学』の素読をしていると言うから覗いてみれば、とんでもないことをしゃべってやがる」
「えー、おとっつぁん、私はこれで『大学』の素読をしてましたんで」
「なんだい、これは。大変小さい本だねえ」
「へえ、『廓大学』と申します」

実は、「吉原細見」という案内書。

若だんな、ここで勧進帳よろしく、「大学」と見せかけて読み上げる。

「大学、朱憙章句、ご亭主のいわく、大学の道は道楽を明らかにするにあり、金を使わすにあり、自然に止まるにあり、と」

大学のパロディーを展開して、おやじをケムにまく。

親だんなが、なんだか怪しいと本を取り上げてみると、「松山・玉章」(花魁の名)。

「なんだ、マツヤマタマズサってえのは」
「おとっつぁん、そうお読みになっちゃいけません。ショウザンギョクショウ。ともに儒者の名です」
「変な先生方だねえ。どこにいるんだ」
「行ってみなさい。ズラリと格子の内に並んでます」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

大学

「郭大学」の「大学」は、儒教の経典で四書五経のうち、四書の一つ。書名です。五経のうちの「礼記」の一編で、朱熹が注釈、改訂しました。四書は儒学の根本経典である五経を学ぶための補助教材です。「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書。

政治の理想と士太夫のあるべき姿を示すもので、朱子学一辺倒の旧幕時代には、支配階級である武士の必修テキストでした。

若だんなの読み上げるのは、そのパロディー。儒教道徳の要であるガチガチの学術書を軟派の極みのお女郎買い指南にすり替えたあたり、この噺の「作者」の並みでない反骨精神が感じられます。

吉原細見

正しくは「新吉原細見記」。吉原廓内の娼家、揚家、茶屋と遊女名が詳細に記された、絵図つき案内書です。ガイドブックです。

毎年タイトルを変えて改訂され、延宝年間(1673-81)から大正5年(1916)まで、二百三十余年にわたって発行され続けました。安永4年(1775)版の『籬の花』、天明3年(1783)版の『五葉松』などが有名です。

初代小せんの十八番

明治中期まで、二代目柳家(禽語楼)小さんが得意にし、そのうまさは折り紙つきだったといいますが、速記は残されていません。

小さんは士族出身で、武張った噺がうまかった人。もちろん幼時には、「大学」の素読くらいさせられたでしょうから、こういうパロディーは、お手のものだったでしょう。

大正期には、初代柳家小せんの十八番でした。廓噺の完成者。二代目小さんの孫弟子です。現存する小せんの速記は、大正8年(1919)9月に、小せんの遺著として出版された、『廓ばなし小せん十八番』に収録されています。

貴重な文献資料

若だんなが吉原の回想をする、小せんの次のようなくだりは今では貴重な文化的資料(?)といえます。

「昔は花魁がお客に無心をする、積み夜具(客がお女郎となじみになったしるしに、新調の夜具を積み重ねて飾る)をあつらえることも出来ないから、本床をあつらえてやらうてえんで床をあつらえてくれると、ふだんはどんなにに振られているお客でも、その晩だけは大切にされたもんだとかいうね、実に吉原というところは不思議なところだねえ」

「車と言えば、吉原の車と町車とは違うね、堤(吉原の日本堤という土手)の車なんと来た日には威勢がいいんだからなア」

「車」は人力車のことです。

今は聴けない噺

原話は寛政8年(1796)刊の創作小咄本『喜美談語』中の「学者」です。

吉原に入りびたりのせがれをおやじが心配し、儒者の先生に意見を頼みます。ところが、若だんなもさるもので、自分のなじみの女郎は博学の秀才で「和漢の書はおろか、客の鼻毛まで読みます」などと先生をケムにまくものです。

初代小せん没後、後継者はありません。日本の現代社会はすでに儒学の基本がすたれているため、今では誰も笑えないでしょう。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
禿 かむろ
細見 さいけん
勧進帳 かんじんちょう
朱憙 しゅき:朱子。1130-1200年
籬の花 まがきのはな
本床 ほんどこ

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へっつい【竃】ことば

【RIZAP COOK】

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かまど。

石や土でつくり、漆喰で塗り固めたもの。「竃幽霊」「品川心中、上」などに登場します。

【RIZAP COOK】

ねずみいらず【鼠入らず】ことば

【RIZAP COOK】

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鼠が入ってこないように隙間をなく作った食器棚。

だれだい。鼠入らずの中に首つっこんでるのは。六さんかい。

品川心中

【RIZAP COOK】

あだじけない【あだじけない】ことば

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けちん坊、吝嗇である、の意味です。

「ケチくさい」のニュアンスから「貧弱な」「取るに足りない」という意味も派生しました。語源は、「大言海」によると、「あた(あだ)」は蔑みの意味を表す接頭語、「しけない」は「しわけなし(い)」が縮まった言葉で、「しわい=ケチ」の古い形です。

江戸っ子風の洒落言葉として「あたじけなすび(茄子)」という表現もあります。これは文字通り「ケチん坊」のことで、感謝の意味の「かたじけなすび」とまったく同型です。

ふだんあだじけない嘉藤太が平松なぞへ連れて参ってあれを喰え是をたべろと馳走致しますのは不思議な事だと。

                        三遊亭円朝「敵討霞初島」

【語の読みと注】
平松 ひらまつ:料亭の名

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汲み立て くみたて 演目

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八笑人からの構成。町内の連中のすったもんだ噺。少々匂い立ちますが。

【あらすじ】

町内の連中が、美人の常磐津のおっ師匠さん目当てに、張り合って稽古に通っている。

なぁに、常磐津などはどうでもいいので、気に入られていいことがしたい、ただそれだけ。

それだけに嫉妬が渦巻き、ライバルに対する警戒は相当なもの。

「野郎が四度稽古してもらったのになんでオレはまだ二度なんだ」
とか、
「膝と膝を突き合わせて、間違えたらツネツネしてもらえるから、唄より三味線を習おう」
とかいうような、不心得者も出る。

ところが、留さんが、
「師匠はどうやら建具屋の半公とできてるらしい」
という噂を持ってきたので、一同、顔色が変わる。

なんでも、師匠の部屋へ通ってみると、半公が主人然として、師匠と火鉢越しのさし向かい。

火鉢が真ん中。

半公向こうの師匠こっち、師匠こっち半公向こう。

やがて半公がすっと立つと、師匠もスッ。

ぴたっと障子を閉めて、中でコチョコチョと二人じゃれついていたというから、穏やかではない。

そこで、今、師匠の家に手伝いに行っている与太郎を捕まえて聞きただすと、案の定、このごろ、半公がちょくちょく泊まりに来る、という。

ある日、二人が大げんかして、半公が師匠の髪をつかんでポカポカなぐったが、その後、師匠が
「いやな奴に優しくされるより、好きな人にぶたれた方がいい」
と抜かしたそうな。

そういえば、与太郎、今日はいつになくいい身なりをしているので、聞いてみると、
「師匠と半公のお供で柳橋から船で夕涼みだ」
という。

「おっ師匠さんが『あの有象無象どもが来ると、せっかくの気分が台なしだから、ないしょにしておおき』って言ってた」
「なんだ、その有象無象ってえなあ」
「うん、おまえが有象で、こっち全部無象」
「こんちくしょうめっ」

「あんまり人をばかにしてやがるから、これから皆で押しかけて、逢瀬をぶちこわしてやろうじゃねえか」
と、すぐ相談がまとまった。

「半公の野郎が船の上で、師匠の三味線で自慢のノドをきかすに違いないから、こっちも隣に船を寄せて、鳴り物をそろえてドンチャカドンチャカ、ばか囃子でじゃましてやろう」
というわけ。

「逃げたらどこまでも追いかけていって、半公がなにかぬかしたら、かまわないから袋だたきにしちまおう」
という算段。

さて数刻後、船の中。

半公がいよいよ端唄をうなり出すと、待ってましたとばかり隣からピーヒャラドンドン。

そのうるさいこと。

「やあ、お師匠さん、見てごらん。有象無象が真っ赤になって太鼓をたたいてら」
「うるせえ、てめえじゃ分からねえ。半公を出せ」
「なんだ、なんだ。師匠とどういう仲になろうと、てめえたちの指図は受けねえ。糞でもくらやあがれ」
「おもしれえ。くってやるから持ってこい」

やりあっていると、間に肥船がスーッ。

「汲み立てだが、一杯あがるけえ?」

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【しりたい】

「八笑人」の懲りない面々

オチの部分の原話は、滝亭鯉丈(1777-1841)作の滑稽本『花暦八笑人』三編下(文政6年刊=1823)です。

「八笑人」は落語「花見の仇討ち」のネタ本でもあり、いわばこれは、その続編の一部。

あの能天気な連中が、また懲りずに、妙ちくりんな趣向を思いつきます。

これはその一人卒八が考えた納涼の趣向で、両国橋ぎわに小船と屋根舟を出し、仲間が両方に分かれてののしりあう、というもの。

卒八「サア両方でくそをくらえ、イヤうぬ(=おまえ)くらえ、われくらえと、いいつのっている中へ、おれが、こえ船をたのんで、うわのりをして、グツと中へのり込で、サア汲たてあがらんかあがらんかというが、おちだがどうだろう」

というわけで、オチがついた馴れ合い狂言を仕組むのですが、あまりに下品というのでこれは中止。改めて、両国橋から身投げのふりで飛び込むという人騒がせをやらかすことになります。

『花暦八笑人』と滝亭鯉丈については「花見の仇討ち」をお読みください。

六代目円生の極めつけ

明治から大正にかけ、俗に品川の円蔵と呼ばれた四代目橘家円蔵が高座にかけました。記録は明治30年(1897)の円蔵の速記が最古で、その没後は、門下の五代目三遊亭円生、孫弟子の六代目円生へと継承されました。

もっとも、円蔵もあまり演じなかったので、円生は、初代三遊亭円右の速記などで覚えたと語っています。戦後は、円生の独壇場で、極めつけの十八番でした。

常磐津の素養がないとできない噺なので、円生没後は弟子の五代目円楽がたまにやるくらいでしたが、近年では三遊亭小遊三や五街道雲助などが手掛けています。

蚊弟子

常磐津のお師匠さんは、「百川」始め、落語にはちょくちょく登場します。

「オシサン」または「オッショサン」と発音しますが、落語で師匠というと、美人でおつな年増ときまっています。そこで、我こそは師匠としっぽりと……と、よからぬ下心で経師屋連がわいわい押しかけ、騒動を起こすわけです。

なかには「蚊弟子」といって、暑いので、涼みがてら夏のうちだけ稽古にくる手合いもあったとか。

江戸末期には、各町内に一人は遊芸の師匠がいたもので、清元、常磐津、長唄、歌沢などさまざまでした。なんでもござれ教える師匠も中にはいて、それを俗に五目(寿司の五目から)の師匠と呼んだものです。

肥船

葛飾や市川など江戸湾の在から肥を仲買いし、取り仕切る渡世人の組織は、香具師、博打などと並んで一種の治外法権を持ち、なかでも葛西の肥汲みは、江戸の裏社会に隠然たる勢力を持っていました。

彼らが立往生(ストライキ)をすれば、大名から長屋の町人に至るまで、肥の引き取り手がなく、たちまちに往生することになるわけです。

集めた肥を船で運ぶようになったのは、永代橋が落下する大惨事(文化4=1807年)のあと、橋を荷車が通れなくなったからだといいます。

船は出ませんが、肥汲みが登場する落語には、ほかに「法華長屋」があります。

【語の読みと注】
常磐津 ときわづ
有象無象 うぞうむぞう
逢瀬 おうせ
端唄 はうた
経師屋連 きょうじやれん:師匠を張り合う意味

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工夫の医者 くふうのいしゃ 演目

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ばかばかしくてハイカラな明治の噺です。

別題:新治療 頓知の医者(上方) 蘭方医者(上方)

【あらすじ】

藪で名高い先生の所へ、金さんが診察にやってくる。

のっけから、先生の所はいつ来ても病人が来ていたことがないと、嫌味を言われたので、先生、信用を取り戻そうと、薬なしで病を治すことを考えだしたと大きく出る。

「へえ、どういうんです」
「薬を使わず、理屈で治す。これはドイツの医者でもまだ発明してない」

金さんが、
「それじゃあ、あっしはさなだむしがわいたんですが、ひとつその理屈で治してほしい」
と頼むと、先生すまして
「それはわけない、蛙を飲め」
「どういうわけで?」
「腹の中へ入れば虫をくう」
「蛙が後に残ってあばれます」
「そんなら蛇をのみなさい」
「蛇が腹の中でのたくったら?」
「「ナメクジをのむ。蛇はとろける」
「ナメクジが残ったら?」
「雀をのむんだ」
「腹の中に巣を作られちゃ困ります」
「そうしたら鷹をのめばいい。雀をくっちまう」
「鷹が残ったら?」
「鷲」
「鷲が残ったら?」
「狩人」
「狩人が残ったら?」
「鬼をのむ」
「こっちがのまれる。それで、鬼が残って腹ん中を突っ付きまわしたら?」
「それなら節分の豆をのみなさい。鬼は外だ。もしいけなければ熱燗で一杯やれば、鬼は焼け死ぬ」
「その酒はなんといいます?」
「鬼殺し」
「先生、あなた頭がおかしくなりましたね」
「なに、鐘馗(=正気)だ」

底本:初代三遊亭円遊(鼻の円遊)

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【しりたい】

鼻の円遊の爆笑編

原話は、天保8年(1837)刊の笑話本『落噺仕立ておろし』中の「声の出る薬」とみられます。

もともと、小咄程度の短い藪医者噺を、鼻の円遊こと初代三遊亭円遊が独立させて、明治24年(1891)、速記に残したものです。

明治31年(1898)、円遊門下の初代小円遊の速記では「新治療」と題して、「工夫の医者」から「疝気の虫」につなげ、さらに、最初に出てきた患者(ここでは棟梁)が再び登場。

疝気の治療薬に、葵の葉三枚だけ処方されたので怒ると、「これは三つ葵(徳川の紋章)、虫はサナダ(=真田)であるから、病はじきに癒えます(=家康)」と、地口でオチるという、三編の小噺のオムニバスとしていました。

上方版はエロ噺

上方バージョンの「蘭方医者」は艶笑落語です。

最後に傘と竿を持った書生を患者が飲まされ、出てくる時に体内にそれらを置き忘れたので、患者は悶絶。医者が、「外科に行ってくれ。カサ(傘=瘡)がサオ(=男根)にかかった」というものです。

題名の「蘭方」はオランダ医学のことですが、「乱暴医者」と掛けてあるのでしょう。

話だけでなく、実際に飲ませてしまうのが東京と違ってしつこいところ。最後は「地獄八景」と同じく、「鬼を飲んだら、大王(閻魔大王=大黄)で下す」というオチも使われました。

上方でも、東京の「工夫の医者」そのままの「頓知の医者」があります。ただし、こちらの演目は東京では「金玉医者」の別題でもあります。ややこしいですが。

原話「声の出る薬」

よく声が出るように、ナメクジをのみ、そのあと、消化薬として蛙をのんだあと、雉→狐→狩人→庄屋→鬼→鬼殺しと、「虫拳」よろしく、次々に天敵をのんでいく小咄があります。

落語とは、順番とのむものにかなり異動があります。

藪医者の小咄5連発!

その1

ある医者のところに、盗人が忍び入った。タンスをかついで逃げるところを、女房が発見。「あれえ、どろぼおうッ」とだんなを起すと、盗人が居直って、「やいっ、手向かいしゃあがると、たたッ斬るぞ」。脇差を抜いたので、先生、薬箱から調合用の匙を出し、「これでもかッ」と、ひらめかす。アーラ不思議、盗人は「こりゃかなわん」と、タンスを捨てて退散。女房、びっくりして、「どうして逃げたの?」と聞くと、先生、「当たり前だ。この匙でどれだけ人を……」

安永2年(1773)刊『聞上手』中の「庸医匕」

その2

長屋の子供が道で遊んでいて、医者に蹴飛ばされた。親が怒ってねじこもうとすると、大家がなだめて、「足で蹴られただけで済んだのはめっけもんだ。今まであの先生の手にかかって、生き延びた患者は一人もねえんだ」

 安永6年(1777)刊『春-』中の「藪医者」

その3

ある男が、二階から落ちて気絶。女房が、あわてて三、四軒隣の、下手村毒庵先生を頼んだ。先生、みるなり、エヘンエヘンと咳払いして「はあ、こりゃもう息が切れた。もうとても助からんて。来るのが一日遅かったわ」

安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「野父医者」

その4

閻魔大王が、明日をも知れない大病に。地獄の医者が、いろいろ手を尽くしても、容態は悪化の一途。最後の手段で、「シャバ(=この世)の名医を連れてこい」と青鬼が言いつけられた。「かしこまりましたが、シャバに参りましても、どれが名医だか分かりません。どうやって見分けましょう?」「そりゃ、門口に幽霊がいない医者が名医だわ」。教えられて青鬼、さっそくシャバで、片っ端から医者の玄関先をのぞいて回る。ところが、どこもかしこも、盛り殺された恨みの幽霊がうじゃらうじゃら。「こりゃいかん」と閉口して、新道(路地裏)に回ると、新しい格子と、医者の表札のある小さな家。ここには幽霊は一人もいない。これこそ名医と喜んで、入ってみれば昨日から開業した医者。

天明2年(1782)刊、『笑顔はじめ』中の「閻魔」

その5

医者同士が、今までに殺した数を自慢しあう。「拙者は、三十人ばかり」「はて、それは少ない。して、医者におなりなすって何年に?」「いや、去年から」。

安永2年(1773)刊『口拍子』中の「医の年数」

いやはやですが、今でもシャレで済まないのが怖いところです。

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首屋 くびや 演目

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自分の首を売るという商売の男。実にどうも、ばかばかしいお笑いです。

【あらすじ】

鳥羽伏見の戦い、上野の戦いなどで、江戸が騒然となっていたご一新のころ。

旗本の二、三男なども、今までのように安閑とはしていられなくなり、いざという時には大いに働かなければならないというので、自然と刀などは、良いものを求めるようになった。

買うには買っても、切れ味がわからなくては安心できない。

刀を試すにはまず胴試し、つまり、生体実験が一番手っ取り早いというわけで、江戸市中のあちらこちらで辻斬りや試し斬りが横行し、標的になる町人は、外もおちおち歩けない。

そんな折も折、番町あたりで、首のところに風呂敷を巻き付け、大声で
「首屋、くびいーやッ」
と売り歩く男が出現した。

さる旗本の殿さま、この声を聞きつけて、御用人の藤太夫を呼び、
「あの首屋を屋敷の中に連れて参れ」
と言いつける。

藤太夫、ばかばかしくなり、おそらく栗屋とでも聞き間違えたのだろうと思ったが、主命には逆らえないので、外に出てみると、確かにクビヤクビヤとがなっている男がいる。

「こりゃ町人、少し待て。その方、何を売っておる」
「私は首を売っております」

大変な奴だと思いながら、
「買ってやるからこちらに参れ」
と勝手口で待たせた後、庭先に通す。

庭には荒むしろが敷かれて、手桶に清めの水。

殿さまが縁側から声をかけ、
「首屋は、その方か」
「へい、さようで」
「なぜそのようなつまらん考えを起こした」

男が言うには、人間わずか五十年、二十五年は寝て暮らし、病気で五年居眠りを五年、昼寝を十年と差し引くとなくなってしまう。

ばかばかしくなったので、いっそひと思いに、というわけ。

殿さまは機嫌がよくなった。

「思い切りのよい奴。買ってやるが、いくらだ」
「掛け値なく七両二分で」

「金は家族に届けてやる」
と言うと、
「死んでも肌に付けておきたい」
となかなかの欲張り。

風呂敷を取り、その場に直ると、殿さま、白鞘の柄を払ってぎらりと氷の刃を抜き放ち、庭に下りて、ひしゃくの水を鍔元から掛けさせた。

「首屋、覚悟はよいな」
「へい」

イヤッと斬り下ろしてくる刃をひらりとかわし、後ろへ飛びのいてふところから張り子の首を放り出すと一目散。

「ややっ、これは張り子。そっちのだ」
「これは看板でございます」

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【しりたい】

値上げされた首代

原話は明和9年(1772)刊の笑話本『楽牽頭』中の「首売」。

オチも含めて、大筋は現行とほとんど同じですが、原話は本所割下水のあたりが舞台で、首代は一両となっています。

現行の七両二分は、間男の示談金と同じで(「お釣りの間男」参照)、これを「首代」と呼んだため、噺の中の首代も、この値段にしたのでしょう。

三遊派伝統の噺

三遊亭円朝から四代目橘家円喬、昭和の六代目円生へと継承された正当派の三遊伝統の噺です。

明治29年(1896)の四代目円喬の速記が残りますが、円朝が明治になって、時代を幕末維新期に設定したと思われ、それが噺に一種の緊迫感とすごみを与えました。

円朝は、オチに関して、「首という言葉を何度も繰り返すようなムダはするな」という芸談を残しています。

明治から昭和にかけて、大看板の多くが手掛けていますが、戦後では、六代目円生と並び、八代目正蔵(彦六)の風格も忘れがたいものがあります。

類話「試し斬り」

短い噺なので、この前に「試し斬り」という小咄を付けることがあります。

刀の試し斬りをしたがっている侍が、朋輩が物乞いを真っ二つにしたという自慢話を聞き、さっそく出かけていって、同じようにバッサリ。

とたんに物乞いがムシロをはねのけて「誰だ、毎晩オレをなぐるのは」とオチる、シュールなオチです。

類話「首医者」

上方に「首医者」という噺があります。

洋行帰りの医者の所に、頭のおめでたい喜六がやってきて、女にもてそうな首と取り換えてほしいと頼みます。

見本をいろいろ見ますが、色男の首は高いので、結局、落語家某の首とすげ替えることにします。

手術が終わって、「これ、首代を置いていかんかい」と医者が言うと、喜六、「前へ回って見てみ。頼んだ奴と首が代わっとる」

張り子

木型に紙を重ねて張り、乾いたあと、型を取り去ったものです。現在でも、芝居の切り首などに用いられます。

【語の読みと注】
本所割下水 ほんじょわりげすい

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首ったけ くびったけ 演目

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珍しく、遊廓の女がひどい目にあう噺です。

【あらすじ】

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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【しりたい】

原話は寄せ集め

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3 1774)年刊「軽口五色帋 ごしきがみ)」中の「女郎の川ながれ」、天明2 1782)年刊の「富久喜多留」中の「迯 にげ)そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売

古い速記では、大正3 1914)年の四代目橘家円蔵のものがあります。

戦後は、二代目三遊亭円歌が演じたほかは、五代目古今亭志ん生の、ほぼ一手専売でした。志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せんの直伝でしょう。志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、女郎に、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、息子の十代目馬生、志ん朝に伝わりました。馬生のは、レコードもあります。最近では、ほとんど手掛ける者がいません。

吉原の火事

吉原遊郭は、明暦の大火(1657年)によって全焼。そのため、日本橋から浅草日本堤に移転しますが、その後も、明治維新までに平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、六千五百戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を大歓迎したとか。

おはぐろどぶ

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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金魚の芸者 きんぎょのげいしゃ 演目

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いやあ、奇妙な噺。鶴の恩返しならぬ、金魚の……。

別題:錦魚のおめみえ

【あらすじ】

本所で金魚屋を営む六左衛門という男。

ある日、金魚の会の道すがら、小石川の武嶋町辺を通りかかると、子供らが池で魚をつかんでいる。

見ると、池から小さな金魚が飛び出してピンピン跳ねた。

丸っ子といって、泳ぎ方が変わっているので珍重される品種。

それを子供が素手でぐいとつかんで持っていこうとするので、あわてて、
「そんなことをしたら手の熱で死んでしまう」
と注意して、浦島よろしく、五銭銀貨一枚やって買い取り、珍品なので、太刀葵と名付け、家の泉水で大切に飼育した。

おかげで大きないい金魚に育ち、品評会でも好評なので気をよくしていると、ある夜、金魚が夢枕に立ち、
「私は武嶋町であなたに助けられましたから、なにか恩返しをと思っていますところへ、あなたが今日、もし私が人間に育って、芸者にでもなったら売れっ子になるだろうとおっしゃるのを聞きました。どうぞ私を芸者にして恩を返させてください。明日の朝、人間の姿で伺いますから、決してお疑いのないよう」
と言ったかと思うと、スーッと消えた。

不思議なこともあるものと、夫婦で話していると、戸口で「ごめんくださいまし」
と女の声。

出てみると、
「私、金魚のお丸でございます」

顔は丸いが、なかなかいい女。

まさかと思って池の中を見ると、金魚がいない。

これは本物と、六左衛門大喜び。

お丸が、今日からでも柳橋から芸者に出たい、柏手を三つ打ってくれれば金魚の姿になるから、手桶に入れて置屋に連れていってくれればよい、というので、試してみると、お丸の言う通り。

柳橋の吉田屋の主人が芸者を一人欲しがっていたので、さっそく連れて行き、また柏手を打つと不思議や、お丸はまた女の姿に。

吉田屋のだんな、一目でお丸が気に入って、
「この人は、おまえさんの娘かい?」
「いえ、実は拾い子で」
「どこで拾いなすった」
「どぶの中で」
「ひどい親があるもんだ。兄弟はありますか?」
「ウジャウジャいますが、黒田さまへ一人、宮さま方にも二、三人」
「どんな物が好きだい?」
「そりゃあボーフラ、もとい、麩が好きなんで。飯粒はいけません。目が飛び出しますから」

変な具合だが、最後に、
「のどを聞かせてほしい」
とだんなが言うので、お丸、三味線を手に取って、器用に清元を一段語った。

「あー、いい声(=鯉)だ」
「いえ、実は金魚です」

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【しりたい】

「鼻の」円遊の新作

明治26年(1893)6月、初代三遊亭円遊が「錦魚のおめみえ」の題で速記を残しています。

同時代の口演記録もなく、これは、夏の季節をあてこんだ、円遊の新作でしょう。

戦後では、五代目古今亭志ん生が、マクラの小咄程度に演じたのみです。

金魚の噺としては、ほかに、昭和初期の田河水泡の「猫と金魚」が目立つくらいです。

金魚は江戸の風物詩

金魚が中国から最初に移植されたのは、文亀2年(1502)のこと。

江戸期にはワキンとリュウキン(中国種)、ランチョウ(朝鮮種)などをかけあわせ、盛んに養殖、品種改良が行われるようになりました。

金魚屋ができたのは、慶安から延宝にかけて(1650-81)とか。

当初は、この噺の六左衛門のように、自宅に池を設けて放し、売っていました。

のち、江戸から昭和初期にかけて夏の風物詩となるボテ振りの金魚屋が登場するのは、それからおよそ一世紀後の安永年間(1772-80)でした。

鳥居清長(1752-1815)が、金魚売りの錦絵を残しています。

容器はギヤマン(=ガラス)製の徳利型が、江戸時代にはもう現れましたが、何といっても高価で、庶民には高根の花。長屋では、用水桶やたらいで泳がすのが普通でした。

犀星、晩年の佳作

詩人で小説家の室生犀星(1889-1962)が晩年の昭和34年(1959)に刊行した小説「蜜のあはれ」は、金魚が、飼い主である画家に恋をするというロマンチックなもの。

小説でも、金魚の擬人化はきわめて珍しいものですが、果たして犀星が、この噺を知っていたかどうか。

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狂歌家主 きょうかいえぬし 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

江戸前の噺。これは狂歌噺。全編に洒落がたっぷり効いています。

別題:三百餅

【あらすじ】

ある年の大晦日、正月用の餅つきを頼む金がないので、朝からもめている長屋の夫婦。

隣から分けてもらうのもきまりが悪いので、大声を出して餅をついているように見せかけた挙げ句、三銭(三百文)分、つまりたった三枚だけお供え用に買うことにした。

それはいいのだが、たまりにたまった家賃を、今日こそは払わなくてはならない。

もとより金の当てはないから、大家が狂歌に凝っているのに目を付け、それを言い訳の種にすることで相談がまとまった。

「いいかい、『私も狂歌に懲りまして、ここのところあそこの会ここの会と入っておりまして、ついついごぶさたになりました。いずれ一夜明けまして、松でも取れたら目鼻の明くように致します』というんだよ」

女房に知恵を授けられて、言い訳に出向いたものの、亭主、さあ言葉が出てこない。

「狂歌を忘れたら、千住の先の草加か、金毘羅様の縁日(十日=とうか)で思い出すんだよ」
と教えられてきたので、試してみた。

「えー、大家さん、千住の先は?」
「ばあさん、どうかしやがったなこいつは。竹の塚か」
「そんなんじゃねえんで、金毘羅さまは、いつでした?」
「十日だろう」
「そう、そのトウカに凝って、大家さんは世間で十日家主って」
「ばか野郎、オレのは狂歌だ」

大家が、
「うそでも狂歌に凝ったてえのは感心だ。こんなのはどうだ」
と、詠んでみた。

「玉子屋の 娘切られて 気味悪く 魂飛んで 宙をふわふわ」

「永き屁の とほの眠りの 皆目覚め 並の屁よりも 音のよきかな」

「おまえも詠んでみろ」
と、言われた。

「へえ、大家さんが屁ならあっしは大便」
「汚いな、どうも。どういうんだ」

「尻の穴 曲がりし者は ぜひもなし 直なる者は 中へ垂れべし」

これは、共同便所に大家が張った注意書きそのまま。

「それだから、返歌しました」
「どう」
「心では 中へたれよと 思えども 赤痢病なら ぜひに及ばん」

だんだん汚くなってきた。

「どうだい、あたしが上をやるから、おまえが後をつけな」
と言うと、
「右の手に 巻き納めたる 古暦」
と言って
「どうだい?」
ときた。

「餅を三百 買って食うなり」
「搗かないから三百買いました」

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【しりたい】

原話は元禄ケチ噺

最古の原話は、元禄5年(1692)刊の大坂笑話本『かるくちはなし』巻五中の「買もちはいかい」です。

これは、金持ちなのに正月、自分で餅を搗かず、餅屋で買って済ますケチおやじが、元旦に「立春の 世をゆずり葉の 今年かな」という句をひねると、せがれが、「毎年餅を 買うて食ふなり」と付け句をします。

おやじが、「おまえのは付け句になっていない」と言うと、せがれは「付かない(=搗かない)から買って食うんだろ」

ここではまだ、現行のオチにある「(狂歌が)付く」=「(餅を)搗く」のダジャレが一致するだけです。

狂歌

狂歌は、こっけい味や風刺を織り込んだ和歌です。起源は平安期にまで遡りますが、古い記録はあまり残っていません。これは、内容が内容だけに、歌壇をはばかって「言い捨て」(=記録しない)にされることが多かったためでしょう。

室町から安土桃山時代に好まれ、豊臣秀吉も狂歌を楽しんだといいます。江戸時代につながる近世狂歌は、松永貞徳(1571-1653)によって京都で創始されました。松永貞徳は貞門俳諧の祖です。

江戸の狂歌

江戸ではずっと遅く、明和6年(1769)、唐衣橘洲(からごろも・きっしゅう、1743-1802)が自宅で狂歌の会を催したのが始まりとされます。

初期の狂歌は、古歌のパロディーが主だったので、歌の素質のある御家人や上層町人の間に広まり、狂歌合わせなども安永・天明期(1772-89)にかけて盛んに催されました。なかでも、太田南畝(1749-1823)は「狂歌の神さま」的存在。四方赤良、のちに蜀山人とも称しました。幕末になると、この噺にも見られるようにきわめて卑俗化しました。

狂歌噺としては、ほかに「紫壇楼古木」「蜀山人」「狂歌合わせ」などがあり、「掛取万歳」の前半でも狂歌で家賃を断るくだりがあります。

古くから親しまれた噺

原話は上方のものですが、噺としては純粋な江戸落語です。古い噺で、文化年間(1804-18)に初めにはもう狂歌噺として口演されていたようです。

明治期の速記もけっこう残っています。「三百餅」または「狂歌家主」の題で、四代目橘家円喬(明治29年)、初代春風亭小柳枝(同31年)、三代目蝶花楼馬楽(同41年)のものがあります。

初代小柳枝の速記はかなり長く、大家が「踏み出す山の 横根(ヨコネ=性病)を眺むれば うみ(=海と膿)いっぱいに はれ渡るなり」とやれば、亭主が「『淋病で 難儀の者が あるならば 尋ねてござれ 神田鍛治町』、これは薬屋の広告で」と返したり、大家が蜀山人先生の逸話を長々と披露する場面があります。

別題の「三百餅」はもちろんオチからきた演題ですが、この三百は餅代、三百文のこと。最近は餅の部分までいかず、滑稽な狂歌の応酬で短く切る場合もあります。

【語の読みと注】
唐衣橘洲 からごろもきっしゅう
太田南畝 おおたなんぽ
四方赤良 よものあから
蜀山人 しょくさんじん
横根 よこね:性病

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