ねぎまのとのさま【ねぎまの殿さま】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

世間との乖離ぶりを笑う、「殿さま」もののひとつですね。

【あらすじ】

さるお大名が、庭の雪を眺め、急に向島の雪景色を見たくなった。

そこで、お忍びで、年寄りの側用人三太夫だけをお供に、本郷の屋敷を抜け出し、本郷切り通しから池之端仲町の、錦丹円という大きな薬屋の前に来て馬を止めると、うまそうな匂いが漂ってきた。

このあたりは煮売り屋が軒を並べていて、深川鍋や葱鮪を商っている。

ちょうど昼時で、殿さま、空腹に耐えられず、
「あれへ案内いたせ」

鶴の一声で、
「下郎の参る店でございます」
と三太夫が止めても聞かない。

縄のれんから入ると、殿さまにはなにもかも珍しく、「宮下」が大神宮さまの祭壇の下の席であると聞き、その場で拍手を打ったり、
「床几を持て」
と言いつけたりのトンチンカン。

床几の代わりに醤油樽に座らされ
「町人の食しているものはなんじゃ?」

若い衆が答えたのが、早口なものだから、殿さまには
「にゃっ」
と聞こえる。

「さようか。その『にゃー』を持て」
「へいッ、ねぎま一丁ッ」

ぐらぐらあぶった(煮た)のを見ると、煮売屋の安い葱鮪だから、鮪も骨と血合いがついたまま。

殿さま、葱を一口かむと、熱い芯が飛び出して丸呑みし、喉が焼けそうになったので、
「これは鉄砲仕掛けになっている」
と、びっくり。

酒を注文すると
「だりにいたしますか、三六にいたしますか?」

「だり」は一合四十文の灘の生一本、「三六」は三十六文の並み。

だりをお代わりして、殿さますっかりご機嫌になり、珍味であったとご満悦で、雪見をやめて屋敷へ帰る。

この味が忘れられず、何日かしてまた雪が降ると、ご膳番の留太夫に
「昼(食)の好みはニャーである」
とのお達し。

留太夫、なんのことかわからないが、ご機嫌を損ねればクビなので、聞き返せない。

首をひねった末、三太夫に聞いてやっと正体が判明したが、台所では、鮪の上等なところを蒸かし、葱もゆでて出したので、出てきたのは、だし殻同然。

殿さまは
「屋敷のニャーは鼠色であるな。さぞ珍味であろう」
と口をつけたが、あまりのまずさに
「これはニャーではない。チユーである。ミケのニャーを持て」

また、わけがわからない。

「ミケ」とは葱の白と青、血合いの垢の三色だと三太夫が「翻訳」したので、やっとその通りにこしらえると、殿さまは大満足。

熱い葱をわざわざかみつぶして
「うむ、やはり鉄砲仕掛けだ。ああ、だりを持て。三六はいかんぞ」

また三太夫に聞いて、瀬戸の徳利に猪口をつけ、灘の生一本を熱燗で持っていくと、殿さまは喜んでお代わり。

「だりと申し、ニャーと申し、余は満足に思うぞ」
「ありがたきしあわせ」
「だが留太夫、座っていてはうもうない。醤油樽を持て」

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

だり

行商、駕籠、八百屋、魚屋の符丁で、4、40、400のこと。「だりがれん」だと45、450になります。

煮売り屋

一膳飯屋のことです。「煮売り」は上方から来た名称で、元は、長屋の住人などが、アルバイトに屋台のうどん、そばなどを商ったのが発祥です。江戸では、元禄年間(1688-1704)に浅草に奈良茶飯を食べさせる店ができたのが本格的な飲食店、つまり煮売屋のはしりとか。落語では「二人旅」にも登場します。

錦丹円

正しくは「錦袋円」、俗称を「金丹屋」ともいいました。元祖は了翁僧都という高僧で、承応4年(1655=明暦元)、夢告によって仁丹に似た錦丹円という霊薬の製法を授かり、これを売って得た三千両余で、現在の湯島聖堂の場所に寛文10年(1670)、「勧学寮」という学問所兼図書館を建設しました。大正年間まで残っていたその額は、徳川光圀(水戸黄門)の揮毫だったとか。錦丹円の娘が不忍池の主の大蛇に見初められ、池の中に消えたという伝説が残っていました。

池之端仲町

舞台になる池之端仲町は、現在の東京都台東区上野二丁目。このあたりは、古くは不忍池の堤でした。上野広小路と地続きで、将軍家の直轄領なので、お成りの際の警備の都合で本建築は許されず、バラック同様の煮売屋が並んでいました。店を、上野「袴腰の土手」と設定するやり方もあります。袴腰は、上野黒門の左右の石垣をさします。その形状が袴に似ていたから。今の上野公園のあたりです。

講談からの翻案

五代目立川談志(生没年不詳、明治初期-昭和初期)が、講談から落語に翻案したといわれます。講談では、殿さまは松江の雲州公(松平治郷、「目黒のさんま」参照)で、煮売り屋のおやじを召抱えて料理番にするという筋立てです。

今輔の十八番

昭和の新作落語のパイオニア的存在だった五代目古今亭今輔(1898-1976)が数少ない「古典落語」の持ちネタとして十八番にしていました。現在でもよく高座に掛けられますが、客がセコなときに演る「逃げ噺」の代名詞的存在です。

【語の読みと注】
葱鮪 ねぎま
床几 しょうぎ
錦袋円 きんたいえん

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

なかざわどうに【中沢道二】演目 

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「寝床」や「鈴ふり」と同工異曲の短い噺です。

【あらすじ】

江戸名物に「火事とけんかと中っ腹」とあるぐらい、江戸の職人は短気で、縁日などで足を踏んだ踏まれたで始終けんかばかりしている。

これを伝え聞き、少しは気を和らげてやりたいと、中沢道二という心学の先生が、はるばると京から下向してきた。

中橋の寒菊という貸席を道場に借り、「木戸銭、中銭、一切なし」というビラをまいたので、物見高い江戸者のこと、なかには、京都の田楽屋が開店祝いにタダで食わせると勘違いする輩もいて、我も我もと押しかける。

下足番の爺さんに
「おまえさんとこの田楽はうまいかい?」
と早くも舌なめずり。

「手前どもの先生は、田楽じゃござんせん。心学でござんす」
「へえ、おい、田楽は売り切れちまって、鴫焼きになっちまったとよ」

なんでも食えれば、後はそば屋で口直ししようと、二階へ通る。

当然、なにも食わせない。

高座へ上がってきた、頭がピカピカ光って十徳を着込んだ道二先生、ていねいにおじぎをして講義にとりかかる。

金平糖の壺へ手を突っ込んで抜けなくなり、高価な壺だがしかたがないと割ってみたら、金平糖を手にいっぱい握っていたという話や、手と足が喧嘩して足がぶたれ、
「覚えてろよ。今度湯ィ入ったら、てめえに洗わせる」
という、落とし噺などで雰囲気を和らげ、本来の儒教の道徳を説こうとするが、おもしろくもなんともないので、みんな腹ぺこのまま、ぶうぶう言って帰ってしまう。

一人残された道二先生、
「どうしてもう江戸っ子は気が短いのか」
と嘆いていると、客席にたった一人もじもじしながら残っている職人がいた。

先生喜んで
「あなたさま、年がお若いのに恐れ入りました。未熟なる私の心学が、おわかりですか」
「てやんでえ、しびれが切れて立てねえんだい」

【しりたい】

中沢道二

なかざわどうに。享保10年(1725)-享和3年(1803)、江戸中期、後期に活躍した人です。京都、西陣織元の家の出身。40歳頃に手島堵庵に師事し、石門心学を修め、安永8年(1779)、江戸にくだって日本橋塩町に「参前舎」という心学道場を開き、その普及に努めました。手島は石門心学の祖、石田梅岩の弟子です。ということは、中沢は石田梅岩の孫弟子。

のちに老中松平定信の後援を受け、全国に道場を建設、わかりやすい表現で天地の自然の理を説きました。心学については「天災」のその項をご参照ください。

実話を基に創作

この噺は中沢道二の逸話を基に作ったとみられます。本来は短いマクラ噺で、ここから「二十四孝」や「天災」につなげることが多くなっています。一席にして演じたのは八代目林家正蔵(彦六)くらいでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら
鴫焼き しぎやき

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

にわかに【庭蟹】演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

逃げ噺。高座での時間の調整用。志ん生のが秀逸。テーマは「洒落」。

別題:洒落番頭

【あらすじ】

洒落のわからない、無粋なだんな。

得意先のだんなから、お宅の番頭さんは粋で洒落がうまいとほめられ、番頭に
「おまえさんは洒落がうまいと聞いたが、あたしはまだ洒落というものを見たことがない。ぜひ見せておくれ」
と頼む。

番頭が
「洒落は見せるものではないから、なにか題を出してください」
と言うので、
「庭に蟹が這い出したが、あれはどうだ」
「そうニワカニ(俄に)は洒落られません」

それなら、雨が振り出して、女が傘を半開きにしていくところではどうかと聞くと
「さようで。そう、さしかかっては(=差し当たっては)洒落られません」

だんな、
「主人のあたしがこれほど頼んでいるのに、洒落られないとはなんだ」
とカンカン。

そこへ小僧が来て、ちゃんと洒落になっていることを説明。

だんなは、なんだかまだわからないが、謝まって、ほめるからもう一度洒落てくれと頼むと、番頭、
「だんなのようにそう早急におっしゃられても、洒落られません」
「うーん、これはうまい」

底本:五代目古今亭志ん生

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

ダジャレを集めた逃げ噺

昭和では六代目三升家小勝(1971年没)が時折演じました。三代目三遊亭金馬が自著『浮世談語』中で梗概を紹介しているので、金馬のレパートリーにもあったと思われます。

ダジャレを寄せ集めただけの軽い噺で、小咄、マクラ噺、逃げ噺として扱われることが多く、洒脱で捨てがたい味わいを持ちながら、速記もなく、演者の記録も残りにくい性質のものです。

「洒落番頭」の別題もあるようですが、ほとんど使用例を聞きません。

志ん生の音源で

『志ん生、語る。』(岡本和明編著、アスペクト、2007年)は、家族、門弟、落語界の朋友・後輩たちが五代目志ん生の知られざる、とっておきの逸話を語る貴重なものですが、その付録CDで「小咄二題」として「小僧とぼた餅」とともに「庭蟹」が収録されています。

志ん生の「庭蟹」はこれまで、「化物つかい」のマクラとして音源化されたものはありましたが、まさに「幻の音源」にふさわしい、貴重なものです。

噺の進め方は極めてオーソドックスで、「庭蟹」「さしかかっては…」のダジャレのほか、「ついたて(=ついたち)二日三日」のシャレも入れ、きちんとオチまで演じています。

原話もダジャレの寄せ集め

安永9年(1780)刊の笑話本『初登』中の「秀句」が原話です。

「これは「庭蟹=にわかに」のくだりを始め、ほぼ」現行通りの内容ですが、オチは、下男の十助が茶を持って出て、「だんな、あがりませ」と言うのをだんながダジャレと勘違いし、「これはよい秀句」と言う、たわいないものです。

秀句傘

狂言「秀句傘」に原型があるともいわれます。「秀句」は本来、美辞麗句のことで、のち、テレビの大切りで言う「座布団もの」の秀逸な洒落を意味するようになりましたが、ここでは単なる地口、ダジャレに堕しています。

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

なきしお【泣き塩】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

短い噺ですが、志ん生もやっていました。

別題:当てずっぽう 塩屋 焼き塩(上方)

【あらすじ】

若侍が、往来でいきなり若い娘に声をかけられる。

娘は田舎から出てきて、女中奉公をしているお花。

故郷の母親が病気で心配しているところへ、田舎から赤紙付きの手紙がきたが、自分は字が読めないので、どうか変わりに読んでほしいという、頼み。

侍、さっと手紙に目を通すと
「あー、残念だ。手遅れであるぞ。くやしい。無念じゃ。あきらめろ」

いきなり泣き出したから、お花は仰天。

母親が死んだと思い込み、これもわっと泣き出した。

これを見ていた二人の町人、
「あの二人は一つ屋敷に奉公する小姓と奥女中で人目を忍ぶ仲だが、不義はお家のご法度、ついにバレてお手討ちになるところを奥さまのお情けで永の暇になったんで、女の方が男の胤を宿しちまって、あなたに捨てられては生きていけませんからってんで泣くと、男も、そんならいっしょに死のう、てんで泣いているんだ」
と、勝手なことを言い合う。

そこへ通りかかったのが、天秤を担いだ焼き塩売りの爺さん。

二人を見ると
「もしもし、若い身空でどうなすったんです。あなたもまだお若いお武家さま。あたくしにもあなたと同じくらいのせがれがおりますが、道楽者で行方知れず。親の身で片時も忘れたことはありません。無分別なことをしないで、手前の家にいらっしゃい。決して悪いことは申しません」
と説教しながら、これも泣き出した。

「あそこはきっと泣きどころかもしれねえ」
と、二人が首をかしげていると、お花のおじさんがやってきた。

事情を聞いて手紙を読んでみると、お花の母親は全快し、許婚の茂助が年期明けで、のれん分けしてもらって商売するので、お花を田舎に呼んで祝言するという、めでたい知らせ。

お花は喜んで行ってしまう。

まだ侍が
「残念だ、手遅れだ」
と泣いているので、伯父さんがわけを尋ねると
「それがしは生まれついての学問嫌い。武芸はなに一つ習わぬものはないが、字が読めない。あのお女中に手紙を突きつけられ、武士たる者が、読めぬとは申されぬ。それで身の腑甲斐なさを泣いていたのじゃ」

そばで塩屋の爺さんもまだ泣いている。

「私はね、なにかあると、すぐ涙が出るたちでして」
「へえ、そうかい」
「へい、あたしの商売がそうなんです」

天秤棒を肩に当てると
「泣き塩ォーッ」

底本:初代三遊亭円右

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

円馬、円右から志ん生へ

原話は安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔隨訳』中の小咄です。

上方で「焼き塩」の題で演じられていたものを、明治末、三代目桂文団治(1856-1924)の演出をもとに三代目三遊亭円馬が東京に移植。円馬よりはるかに先輩の初代三遊亭円右が「当てずっぽう」の題でよく演じ、同人の死の前年、大正12年(1923)の速記も残ります。昭和初期には七代目三笑亭可楽が「塩屋」の演題で速記を残しましたが、戦後は五代目古今亭志ん生の独壇場でした。

塩屋

江戸時代、塩売りはおもに老人のなりわいでした。この噺に登場する通り、塩を載せた浅いざるを二つ、天秤で担って売り歩きます。天秤ほか、商売道具はすべて借り物なので、元手はかかりません。

焼き塩は、ニガリを多く含む赤穂塩などでは雨の日などにべとべとになるため軽くあぶってさらさらにしたもの。別名を撓め塩ともいい、天文年間(1532-55)に、堺の塩商人、壷塩屋藤太夫が初めて製造販売したとされます。現在でも、スーパーなどで普通に売っています。

壷塩屋藤太夫

現在、台所用の塩壷は施釉製共蓋の粗陶。茶道の茶碗や水指しなどに「塩笥」と称するものがあります。元は朝鮮半島の塩入れであるそうですが、共蓋のものは見当たらないようです。江戸時代に堺あたりから壷に入った焼き塩である「壷塩」をつくり全国に売り出しました。壷の形は同じようなものですが、おおざっぱには筒形をして蓋が付いています。高さは8~10cm、口径は約7.5cm。赤粘土の素焼き煉瓦のような赤褐色。手づくりか型づぐりです。時代によっては蓋や胴の側部にその時期の印が捺されてあります。

堺の船待神社には女院御所より賜った奉書と、奉行の石河土佐守から伊織家への書状を保管しています。船待神社には元文三年(1738)に壷塩屋が寄進した竹公像の画幅があるそうです。裏面に願文があって、元祖藤太夫慶本、二世慶円、三世宗慶、四世宗仁、五世宗仙、六世円了、七世了讃、八世休心、九世藤左衛門の署名と印が残ります。

天文年間(1532-55年)、藤太夫という人が京都の幡枝土器の方法で壷をつくり、塩を大れて堺湊村から売り出し、代々「藤左衛門」と称し「伊織」の呼名を用いました。八代休心の時にはすでに大坂に出店を設け、のちに大坂に移って代々「浪華伊織」と称して、今も焼き塩の製造販売を営業しています。『堺鑑』に初代を藤太郎としているのは「藤太夫」の誤りだそうです。「泉州麻生」「泉州麿生」の印のあるものは伊織家の壷塩を模倣したものであるそうです。

後継者のない噺

志ん生は、この地味な噺をかなり淡々とオーソドックスに演じていました。円右の速記では、女は京屋のお蝶という上方女、場所が石町新道となっているほか、最後に登場して手紙を読む人物は、円右では町役の甚兵衛ですが、志ん生ではその時により無名の人物になったりしました。

受けない、笑いの少ない噺なので、志ん生以後これといった後継者は出ません。上方では、桂米朝が手掛けています。

「手紙無筆」はこの噺の別題ではなく、本来まったくの別話です。

【語の読みと注】
永の暇 ながのいとま
胤を宿す たねをやどす
撓め塩 いためじお

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

にじゅうしこう【二十四孝】演目 

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

映画「の・ようなもの」の志ん魚がたけうちまりあの家でやってました。

【あらすじ】

長屋の乱暴者の職人、三日にあけずにけんか騒ぎをやらかすので、差配(=大家)も頭が痛い。

今日もはでな夫婦げんかを演じたので、呼びつけて問いただすと、朝、一杯やっていると折よく魚屋が来て鯵を置いていったので、それを肴にしようと思ったら、隣の猫が全部くわえていったのが始まり。

「てめえんとこじゃ、オカズは猫が稼いでくるんだろッ、泥棒めッ」
と怒鳴ると、女房が
「たかが猫のしたことじゃないか」
と、いやに猫の肩を持つので、
「さてはてめえ、隣の猫とあやしいなッ」
と、ポカポカポカポカ。

見かねた母親が止めに入ると
「今度はばばあ、うぬの番だ」
と、げんこつを振り上げたが、はたと考え、改めて蹴とばした、という騒ぎ。

大家はあきれて、
「てめえみたいな親不孝者は長屋に置けないから店を空けろ」
と怒る。

「嫌だと言えば、これでも若いころには自身番に勤めて、柔の一手も習ったから」
と脅すと、さすがの乱暴者も降参。

「ぜんてえ、てめえは、親父が食う道は教えても人間の道を教えねえから、こんなベラボウができあがっちまったんだ。『孝行のしたい時には親はなし』ぐらいのことは知ってそうなもんだ。昔は青緡五貫文といって、親孝行すると、ごほうびがいただけたもんだ」「へえ、なにかくれるんなら、あっしもその親孝行をやっつけようかな。どんなことをすりゃいいんです」

そこで大家、
「昔、唐国に二十四孝というものがあって……」
と、故事を引いて講釈を始める。

例えば、秦の王祥は、義理の母親が寒中に鯉が食べたいと言ったが、貧乏暮らしで買う金がない。そこで氷の張った裏の沼に出かけ、着物を脱いで氷の上に突っ伏したところ、体の温かみで溶け、穴があいて鯉が二、三匹跳ねだした。

「まぬけじゃねえか。氷が溶けたら、そいつの方が沼に落っこちて往生(=王祥)だ」
「てめえのような親不孝ものなら命を落としたろうが、王祥は親孝行。その威徳を天が感じて落っこちない」

もう一つ。

孟宗という方も親孝行で、寒中におっかさんが筍を食べたいとおっしゃる。

「唐国のばばあってものは食い意地が張ってるね。めんどう見きれねえから踏み殺せ」
「なにを言ってるんだ」

孟宗、鍬を担いで裏山へ。冬でも雪が積もっていて、筍などない。一人の親へ孝行ができないと泣いていると、足元の雪が盛り上がり、地面からぬっと筍が二本。

呉孟という人は、母親が蚊に食われないように、自分の体に酒を塗って蚊を引きつけようとしたが、その孝心にまた天が感じ、まったく蚊が寄りつかなかった、などなど。

感心した親不孝男、さっそくまねしようと家に帰ったが、母親は鯉は嫌いだし、筍は歯がなくてかめないというので、それなら一つ蚊でやっつけようと、酒を買う。

ところが、
「体に塗るのはもったいねえ」
とグビリグビリやってしまい、とうとう白河夜船。

朝起きると蚊の食った跡がないので、喜んで
「ばあさん見ねえ。天が感ずった」
「当たり前さ。あたしが夜っぴて(一晩中)扇いでいたんだ」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

二十四孝な人たち

マクラなどで随時採り上げられる、その他の感心な方々に、王褒、郭巨、黄山谷などがいます。

「王褒と雷」は、雷嫌いの母親が死んで、王褒がその墓を雷から守るという、忠犬ハチ公か忠犬ボビーのようなお話。

「郭巨の釜掘り」では、母親に嫁の乳をのませるため、子供を犠牲にして生き埋めにしようとすると、金塊を掘り当てるという猟奇的な話。

黄山谷は、父親の下の世話をするというもので、現代の介護問題の先取りのような話。名前からしてクサイものに縁がありそうな男ですが。

このうち郭巨の逸話は、戦前の日本ではかなりポピュラーで、明治の「珍芸四天王」の一人、初代立川談志(1889年没)がパントマイムのネタにし、「この子があっては孝行ができない、テケレッツノパ、天から金釜郭巨にあたえるテケレッツノパ」とやって大当たりしたことで有名です。

孟宗のタケノコ掘りは、歌舞伎時代狂言『本朝二十四孝』の重要なプロットになっているほか、かつて、三木のり平が声の出演をしていた「桃屋」のテレビCMでも、パロディー化して使われました。

差配

明治以後、大家が町役でなく、単なる「管理人」となってから、この名で呼ばれるようになりました。「差配する」とは、文字通り土地、建物を管理する意です。

オチの工夫

古い速記は、明治24年(1891)7月の三代目春風亭柳枝、ついで同27年(1894)7月、二代目柳家(禽語楼)小さんのものが残ります。

現在でも、多くの落語家が手掛けていますが、「道灌」と同様、前座噺の扱いで、どこでも切れるため演者によってオチが異なります。

たとえば、呉孟をまねるくだりでも「オレなら、二階の壁に酒を吹っかけて、蚊が集まったところで梯子をはずす」というもの、母親が「甘酒がのみたい」と言うのを「二十四孝に酒はねえ」とオチるものなど、さまざまです。

孟宗のくだりで切って、母親がタケノコのお代わりを求めるので、「もう、そうはねえ」と地口で落とす場合もあります。

現行は、今回あらすじに記載した形が、もっとも一般的です。

八代目林家正蔵(彦六)は、大家が「孟宗の親孝行を」と言いかけたのを「おっと、天が感じたね」と先取りしてオチにし、時代を明治初期としていました。

中国の説話から構成

原話は、安永9年(1780)刊の笑話本『初登』中の「親不孝」。これは、中国・元代(1271-1368)の教訓的説話から、王祥と孟宗の逸話を採ったものを主にし、それらに呉孟のくだりほか、いくつかの話を加えて作られました。

【語の読みと注】
青緡五貫文 あおざしごかんもん
郭巨の釜掘り かっきょのかまほり

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

なりたこぞう【成田小僧】演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

今は廃れてしまった明治の噺。その頃はマセガキを「成田小僧」といったそうです。

【あらすじ】

本郷春木町の塗り物屋、十一屋の丁稚長松は、口から先に生まれたようなおしゃべり小僧。

父の代参で深川不動に参詣する若だんな江崎清三郎のお供。途中、深川の茶屋松本楼で昼食に。

それも、清三郎が長松の口車に乗ったためだ。

座敷で食事をしていると、芸者が厠に来たのを長松が見つけ大騒ぎ。店の女に聞けば、山谷堀大和屋の小千代。幇間の正孝と花洲といっしょに来ているとのこと。

長松は、幇間ともども呼んでしまう。しめて五十両。

清三郎は
「茶屋へ来たことさえおとっつぁんに知れたらどうしようかと思っているところだのに。私は勘当だ」
とビビるのを、長松は
「長男除きはできやしません。親子の縁の切れなくなったのは、王政ご一新のお上のありがたいところでゲス」
と平気のへいざ。

これが縁で、小千代と清三郎はいい仲に。

後日、吉原の幇間花洲の家に大和屋の女将が訪れた。

小千代が清三郎にばか惚れなのに、近頃、清三郎の姿を見なくなった。

これが続いて、小千代がブラブラ病(恋わずらい)を患う始末。

ついては、花洲に見舞いに来てほしい。

そんな話を、女将は花洲に語って聞かせた。

花洲は、幇間仲間の船八と連れ立ち、山谷堀の大和屋へ。

清三郎との思い出話に花が咲き、小千代の気も紛れる。

ところが、船八は
「若だんなは芸者を連れて逃げたそうです」
と無神経にしゃべくった。

これを聞いた小千代は顔色を変えて、いきなり外の人力車に乗ってどこかへ走り去った。

花洲、船八、下働きのお梅、大和屋の女将が、次々と車に乗って小千代を追いかける。

話変わって、午後十時過ぎの吾妻橋辺。

清三郎が失踪した日を命日に定め、大だんなが菩提寺の深川浄心寺に長松を連れてお参りに行った帰り道。

清三郎には双子の妹がいた話などを大だんなが長松に語って聞かせているところに、女の身投げを長松が見つけて思い止まらせる。

女は、なんと小千代だった。

話しているうち、小千代こそが大だんなの娘、つまりは清三郎の双子の妹だということが明らかに。

小千代は
「それを聞きましては、なおさら生きてはいられません」
と、ふたたび飛び込みにかかるところ、店の番頭善兵衛が駆けつけた。

若だんなが外務省の役人とサンフランシスコにいる、という手紙が届いたとの知らせ。

一同はほっと安堵、胸をなでおろした。

大だんなが小千代に
「なぜにおまえは貞女の鑑を立てる」
と言えば、小千代が
「元が塗り物屋の鏡台(=兄弟)」

底本:初代三遊亭円遊

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

深川不動

深川不動は江東区富岡一丁目。成田山新勝寺の東京出張所です。江戸時代には、日本橋坂本町や蔵前八幡境内に置かれていましたが、明治3年(1870)、現在地の永代寺境内の吉祥院内に移されました。独立の不動堂が建ったのは明治14年(1881)です。演題の由来はここからです。

成田小僧

当時、ませた子供を「成田小僧」と呼んでいましたが、それがこの噺からきたものかどうかは、よくわかりません。長松のませぶりを成田小僧に見立てて物語の狂言回しにしようとしたのでしょう。本郷の人を深川不動に参詣させて「成田」を取り込んでいるわけです。物語の重要な転換点では長松が活躍するわけで、狂言回しどころかやはり主人公なのかもしれません。

円遊の改作

幕末から明治初期にかけて二代目春風亭柳枝(1822-74)が得意にしていたそうです。初代三遊亭円遊(鼻の円遊)が、明治22年(1889)5月、23年(1890)11月と、二回に分けて速記を『百花園』に残しています。陰気な因果噺だったのを、円遊が陽気なこっけい噺に改作したようです。今ではすたれた噺です。

『落語大会』(松陽堂書店、明治33年12月刊)という落語集に「成田小僧」が「円朝口演」として載っているそうです(筆者未見)。これを受けてか、角川書店版『三遊亭円朝全集』には「成田小僧」が円朝口演として載っているのですが、『落語大会』の本文は『百花園』1号(明治22年5月10日)のそれと一致するため、円遊の口演速記を円朝名義で収録したものではないか、というのが佐藤至子氏の見解です。この見解のいきさつは岩波書店版『円朝全集』第13巻に載っています。円遊は円朝の弟子です。

浄心寺

江東区深川平野町二丁目。旧霊厳寺表門前町。日蓮宗身延山派の名刹で、山号は法苑山。万治元年(1658)開山で、四代将軍家綱の乳母三沢局(浄心院)の菩提を弔うため創建されたものです。浄心寺門前は『南総里見八犬伝』の作者滝沢(曲亭)馬琴の出生の地でもあります。

山谷堀

隅田川から今戸橋を経て、山谷にいたる掘割。江戸情緒の象徴のような名勝でした。一般には、吉原の入り口付近を指します。

松本楼

富岡八幡宮の鳥居内にあった料亭です。伊勢屋とともに、二軒茶屋と称された名店でした。深川で江戸以来の老舗は、ほかに平清、小池がありました。

本郷春木町

文京区本郷三丁目の内。元禄9年(1696)から町地となりました。町名のは、元和年間(1615-24)にこの地に滞在した、伊勢の御師春木太夫に由来します。明治6年(1873)、同町内に「奥田座」が開場。明治9年(1776)に春木座、35年(1902)に本郷座と改称。小芝居ながら、明治の名優団菊も出演した由緒ある劇場でしたが、昭和5年(1930)に廃場となりました。

【語の読みと注】
御師 おんし 伊勢神宮では「おんし」。一般には「おし」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

らくだ【らくだ】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

長屋の嫌われ者、鼻つまみ者が急死。葬儀に巻き込まれる男の変容ぶり。上方噺。

別題: 駱駝の葬礼

【あらすじ】

乱暴者で町内の鼻つまみ者のらくだの馬がフグに当たってあえない最期を遂げた。

兄弟分の、これまた似たような男がらくだの死体を発見し、葬式を出してやろうというわけで、らくだの家にあった一切合切の物を売り飛ばして早桶代にすることに決めた。

通りかかった紙屑屋を呼び込んで買わせようとしたが、一文にもならないと言われる。

そこで、長屋の連中に香典を出させようと思い立ち、紙屑屋を脅し、月番のところへ行かせた。

みんならくだが死んだと聞いて万々歳だが、香典を出さないとなると、らくだに輪をかけたような凶暴な男のこと、何をするかわからないのでしぶしぶ、赤飯でも炊いたつもりでいくらか包む。

それに味をしめた兄弟分、いやがる紙屑屋を、今度は大家のところに、今夜通夜をするから、酒と肴と飯を出してくれと言いに行かせたが、「店賃を一度も払わなかったあんなゴクツブシの通夜に、そんなものは出せねえ」と突っぱねられる。

「嫌だと言ったら、らくだの死骸にかんかんのうを踊らせに来るそうです」と言っても「おもしれえ、退屈で困っているから、ぜひ一度見てえもんだ」と、大家は一向に動じない。

紙屑屋の報告を聞いて怒った男、それじゃあというので、紙屑屋にむりやり死骸を背負わせ、大家の家に運び込んだので、さすがにけちな大家も降参し、酒と飯を出す。

横町の豆腐屋を同じ手口で脅迫し、早桶代わりに営業用の四斗樽をぶんどってくると、紙屑屋、もうご用済だろうと期待するが、なかなか帰してくれない。

酒をのんでいけと言う。

女房子供が待っているから帰してくれと頼んでも、俺の酒がのめねえかと、すごむ。

モウ一杯、モウ一杯とのまされるうち、だんだん紙屑屋の目がすわってきて、逆に、「やい注げ、注がねえとぬかしゃァ」と酒乱の気が出たので、さしものらくだの兄弟分もビビりだし、立場は完全に逆転。

完全に酒が回った紙屑屋が「らくだの死骸をこのままにしておくのは心持ちが悪いから、俺の知り合いの落合の安公に焼いてもらいに行こうじゃねえか。その後は田んぼへでも骨をおっぽり込んでくればいい」

相談がまとまり、死骸の髪を引っこ抜いて丸めた上、樽に押し込んで、二人差しにないで高田馬場を経て落合の火葬場へ。

お近づきの印に安公と三人でのみ始めたが、いざ焼く段になると死骸がない。

どこかへ落としたのかともと来た道をよろよろと引き返す。

願人坊主が一人、酔って寝込んでいたから、死骸と間違えて桶に入れ、焼き場で火を付けると、坊主が目を覚ました。

「アツツツ、ここはどこだ」「ここは火屋(ひや)だ」「冷酒(ひや)でいいから、もう一杯くれ」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

上方落語を東京に移植

本家は上方落語です。本場の「駱駝の葬礼」では、死人は「らくだの卯之助」、兄弟分は「脳天熊」ですが、東京では両方無名です。

「らくだ」は、江戸ことばで体の大きな乱暴者を意味しました。明治・大正の滑稽噺の名人・三代目柳家小さんが東京に移植したものです。

聞きどころは、気の弱い紙屑屋が次第に泥酔し、抑圧被抑圧の関係がいつの間にか逆転する面白さでしょう。後半の願人坊主のくだりはオチもよくないので、今ではカットされることが多くなっています。

これも五代目志ん生の十八番の一つで、志ん生は発端を思い切りカットすることもありました。なお、戦前にエノケン劇団が舞台化し、戦後映画化もされています。

かんかんのう

らくだの兄弟分が、紙屑屋を脅して死骸を背負わせ、大家の家に乗り込んで、かんかんのうを踊らせるシーンが、この噺のクライマックスになっています。

かんかんのうはかんかん踊りともいい、清国のわらべ唄「九連環」が元唄です。九連環は「知恵の輪」のこと。文政3年(1820)から翌年にかけ、江戸と大坂で大流行。飴屋が面白おかしく町内を踊り歩き、禁止令が出たほどです。

以下、その歌詞を紹介しますが、何語なのかわからない珍妙なことばです。

 かんかんのう、きうれんす きゅうはきゅうれんす さんしょならえ さあいほう

 にいかんさんいんぴんたい やめあんろ めんこんふほうて しいかんさん

 もえもんとわえ ぴいほう ぴいほう

【らくだ 古今亭志ん生】

とよたけや【豊竹屋】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方噺の音曲噺。「豊竹豆仮名太夫」だった六代目円生がやっていました。

【あらすじ】

下手の横好きで、義太夫に凝っている豊竹屋節右衛門という男。

なんでも見聞きしたものをすぐ節をつけて、でたらめの義太夫にしてしまうので、かみさんはいつも迷惑している。

あくびにまで節をつける始末。

朝起こされると
「おとといからの寝続けに、まだ目がさめぬゥ、ハァ(と欠伸して)、あくびィ、かかるところに春藤玄蕃、くび見る役はァ、まつおうまるゥ」
と、さっそく「寺子屋」をひとうなり。

あちこち飛んで、
「その間遅しとォ、駆けいるお染、逢いたかったァ……」
と野崎村に変わったと思うと
「武田方の回し者、憎い女と引き抜いてェ」
と「十種香」になり、いつの間にか
「母の皐月がァ、七転八倒ォ、やややややァッ」
と「太功記」十段目・尼崎の場。

「ちちちちちっつん、つんつん、巡礼姿の八右衛門、後に続いて八幡太郎、かっぽれかっぽれ甘茶でかっぽれェ」
と、しまいにはなんだかわからない。

朝飯になると、碗の蓋を取るなり
「ちちん、お碗の蓋ァ、開くゥればァッ、味噌汁八杯豆腐、煮干の頭の浮いたるはァ、あやしかりけるゥ、ぶるるるッ」
と、興奮して蛮声を張り上げ、お膳を引っくり返す騒ぎ。

そこへ訪ねてきた男、これまた
「てん、ちょっとお尋ね申します、豊竹屋節右衛門さんンンは、こちらかええッ」
と、妙な節回し。

同類が現れたと、かみさんは頭を抱える。

この男、浅草三筋町三味線堀に住む花林胴八といって、でたらめの口三味線を弾くのが好きという、負けず劣らずの義太夫狂。

節右衛門の噂を聞いて、手合わせしたいと訪ねてきたもの。

三味線とはちょうどいいと、かみさんの渋い顔もどこ吹く風、節右衛門は大喜び。

さっそく二人の「競演」が始まった。

隣のお婆さんが洗濯する音が聞こえると
「ばあさァんせんだあくゥ、ううゥゥゥ」
「は、じゃっじゃっじゃっじゃじゃ。しゃぽォん」
「にじゅうごにちのォ、ごォえェんにィち」
「はっ、てんじんさん」
「ちんをふったわァ、ごォみィやァ、かァえ」
「ハッ、ちりちりん、ちんりんちんりん、ちりつんでゆくゥ」
「うまいッ。きょねんのくれのォ、おォおみォそおか、米屋と酒屋に責められェ、てェ」
「てんてこまい、てんてこまい」

いよいよ乗ってきて、
「子供の着物を親が着てェ」
「ハッ、つんつるてん」
「そばに似れどもそばでなくゥ、うどォんに似れども、うどんでなく、酢をかけ蜜かけたべェるのは」
「とォころてん、かァんてん」
「おなかこォわァしてェ、かよォうのォはッ」
「せっちんせっちん」
と、やっていると、棚から鼠が三匹。

「あれあれ、むこうの棚に、ねずみが三ついでてむつまじィく、ひとつのそなえをォ、引いてゆゥく」
と、節付けすると、鼠まで節をつけて
「チュウチュウチュウチュウ」

「いやあ、節右衛門さんとこのねずみだけあって、よく弾き(=引き)ますな」
「いやあ、ちょっとかじるだけで」

底本:六代目三遊亭円生

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

貴重な音曲噺

原話は不詳ですが、貞享4年(1687)刊の笑話本『はなし大全』中巻ノ二の「口三味線」がそれらしき原型のようです。大坂で、天保年間(1830-44)から口演されてきた、今に残る貴重な音曲噺です。いつ、だれが東京に移植したかは、不明です。演題は、浄瑠璃の一派で、豊竹越前少掾(1681-1764)が享保16(1731)年に創始した豊竹派をもじったものです。

円生の十八番

義太夫の素養がなくてはできないため、戦後、音曲噺がすたれてからは、幼時「豊竹豆仮名太夫」を名乗って義太夫語りだった、六代目三遊亭円生の独壇場でした。

円生は最晩年、まるで後継者を捜し求めるように頻繁にこの噺を高座に掛け、国立劇場のTBS落語研究会(1978年12月26日)を始め、残された音源は11種、CDは6種という、ちょっとした記録です。入船亭扇橋、林家正雀、古今亭志ん輔など、手掛ける人が出ました。

円生の工夫

円生の芸談によると、昔は現行の話の前に、節右衛門が湯屋で義太夫をうなりすぎてふらふらになる場面がつくこともあったといいます。東京でも、柳派はこのやり方でした。円生は、口三味線で胴八が洒落る場面で「隣のじいさん抱き火鉢」「たどん」とやっていたのを婆さんの洗濯に変えています。

通じないオチ

「ちょっとかじるだけ」というオチは、人形浄瑠璃の符丁で三味線を弾くことを「かじる」と呼んだことから。もう現在では、よほどの文楽マニアでないと通じないでしょう。

義太夫四題 

噺の中で披露される演目は、いずれも今日、文楽、歌舞伎のレパートリーとして著名なものですが、複数の浄瑠璃の登場人物が、入り乱れてごたまぜで現れるのが落語の落語たるところで、こういう滑稽は「五目講釈」にも登場します。

「寺子屋」は『菅原伝授手習鑑』の四段目の切です。松王丸は、大宰府に流罪となった旧主・菅丞相(菅原道真)の一子・菅秀才の命を救うため、わが子を身代わりに立てる悲劇の人物。春藤玄蕃は、菅秀才の首実験のため派遣される役人で敵役。おやじが流罪なのに縁座の子供が打ち首という摩訶不思議な芝居。

「野崎村」は、世話浄瑠璃『新版歌祭文』全二段の上の切。

「十種香」は、『本朝二十四孝』四段目の中で、長尾謙信の息女八重垣姫が、恋する武田勝頼の回向に香を焚く場。

八右衛門は『恋飛脚大和往来』(近松門左衛門)の新口村の段の登場人物。八幡太郎義家は『奥州安達原』(近松半二)の登場人物。町人と武将がごちゃまぜに出る混乱ぶりです。

三味線堀

台東区小島一丁目にあった堀。形が三味線に似ていたことからこう呼ばれました。寛永7年(1630)、鳥越川の掘削によってできたもので、閑静な景勝地でした。戦後、川も堀も無残に埋め立てられ、今は跡形もありません。

フィクションでは、昭和37年(1962)の東映映画『怪談三味線堀』の舞台となったほか、『その男』(池波正太郎)の主人公、剣客の杉虎之助が生まれ育った地でした。

花林胴八

カリン(マルメロ)の木で三味線の胴を作ることから、それをもじった名です。

【語の読みと注】
新口村 にのくちむら
花林胴八 かりんどうはち

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ながさきのこわめし【長崎の赤飯】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方の人情噺。突拍子もないことを「長崎の赤飯」といいます。

別題:上方芝居(上方)

【あらすじ】

日本橋金吹町の質両替商、金田屋金左衛門。

勘当した一人息子の金次郎はどこでどうしていることかともらすと、女房の許には季節の変わり目に手紙が届いている、という。

女房の言うことには、金左衛門が勘当するや、伊勢の弥左衛門の家に預けたとか。

弥左衛門が商用で長崎に赴いた折に同行した金次郎、回船問屋・長者屋の娘お園に見初められ身を固めたとのこと。

それをきいた金左衛門、番頭の久兵衛に「おとっつぁん、一生の大病」と、手紙を書かせる。

開封した金次郎は身重のお園を気にしながらも急ぎ長崎をたった。

わが家に戻った金次郎の姿を見て、金左衛門夫婦は大喜びだが、またも長崎に行かれては寂しいので、久兵衛と画策。

八丁堀岡崎町の町方取締与力、渡辺喜平次の娘おいちと添わせるべく手はずを整えた。婚礼が近づいた日、身重のお園が物乞いの姿に身をやつして現れる。

これは女一人で江戸までの旅路も物乞い姿なら遂げやすかろうということから。

金左衛門も久兵衛もヒキガエルの化け物のようななりのお園に驚き、金次郎は死んだ、と告げる。

落胆するお園。

そこへ金次郎が帰ってきた。

金左衛門らの不実にまたも落胆するお園だが、身繕いをし、支度を整えれば元の美しい姿に。金左衛門もこの娘なら嫁に許そうという気にころりと変わった。

そこへ喜平次が訪ね、お園を連れ去ってしまう。

金左衛門は、
「おいちさまをひとまずもらいなさい。その間に手を回してお園さんを返してもらい、家風が合わないといっておいちさまを出せばいい」

婚礼の晩。

現れた花嫁はおいちではなく、お園だった。

金左衛門は
「こりゃどうも。お料理が粗末でいけないからすぐ取り換えて」

関所破りを改めようとしたが、お園の思いが強いことを知った喜平次のはからいで、このような具合に。

おいちはかねて望みの尼になる。

お園は男子を産み、金太郎と名付けた。

この子に長者屋を継がせ、金次郎は金田屋を相続。

金太郎の初節句に、十軒店から人形を買って長崎に送ると、長崎から赤飯が返礼に届いた。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

二つの系統

原話は井原西鶴の作品といわれますが、未確認です。上方落語として文化年間(1804-18)から口演された古い噺で、明治期に五代目金原亭馬生(1864-1946)が東京に移植したものです。馬生は大阪出身で、副業に玩具屋をやっていたため「おもちゃ屋の馬生」とあだ名されました。

この噺は系統が二つあります。一つの系統はこの「長崎の赤飯」。

五代目馬生直伝で、六代目三遊亭円生が一手専売で演じ、円生在世中は当人も言っていますが、ほかには誰も演じ手はありませんでした。その円生没後、弟子の円窓に継承されたものの、ほとんどすたれていました。その後、鈴々舎馬桜ほかが高座に掛け、若手も手掛けるようになって、ようやく復活をみています。

別の系統は、八代目林家正蔵(彦六)が演じた「上方芝居」です。

これは、前半、女が老けづくりをし、物乞いに変装して若だんなに会いに来るところが「長崎の赤飯」と共通しています。ルーツは同じと思われますが、いつ枝分かれし、誰が脚色して改作したかは不明です。大阪で演じられた形跡はなく、明治期では、四代目橘家円喬、初代三遊亭円右と、円朝門の名人が得意にしました。二人と同門の三遊一朝老人から、八代目正蔵(彦六)が若き日に教わり、晩年、時々高座に掛けました。もっとも、こちらは、発端とオチはまったく違っていて、女は若だんなが上方見物に行ったとき、芝居小屋でけんかした相手との手打ちの座敷に出た、春吉という芸妓という設定です。二人は親に無断で夫婦約束をしますが、若だんなが江戸へ帰ってから音沙汰がないので、春吉はしびれを切らして出てきます。ところが、若だんなは奥州へ行って留守なので、仕方なく死んだことにし、麻布絶口木蓮寺に墓があると偽って、小春を連れて行きます。オチは「お見立て」と同じで、「どれでも好きなの(墓石)を選んでください」となっています。初代円右はこれをさらに怪談仕立てに変え、春吉がニセの墓前で自害、のちに化けて出ることにしたので、「長崎の強飯」とはますます違った噺になりました。

長崎のこわめし

オチは、江戸の古い慣用表現で、突拍子もないことを言うと「長崎から赤飯が来る」などと言いました。同じ意味で「天竺から古ふんどしが来る」とも。ありえない話の意味から転じて、「気長な」「間延びしたこと」のたとえにも使われました。この噺のオチのニュアンスでは、後者の方を効かせているのでしょう。「こわめし」は今の「おこわ」の語源で、もち米で炊いた冠婚葬祭用の飯のことです。

日本橋金吹町

にほんばしかなぶきちょう。中央区本石町三丁目の内。日銀本店の真向かいあたりです。元禄(1688-1704)以前に、この地に金座が置かれていたことから、起こった町名といわれます。当時は文字通り「かねふきちょう」と読んだとか。元禄年間、金座はすぐ南の今の日銀の位置に移り、明治維新に至りました。

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

とんちき【とんちき】演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「とんちき」とは「まぬけ」の意。奇妙な構成が笑わせます。

【あらすじ】

嵐の日なら廓はガラガラで、さぞモテるだろうと考えた男。

わざわざ稲光のする日を選んで、びしょ濡れで吉原へ。

揚がってなじみのお女郎を指名、寿司や刺し身もとってこれからしっぽり、という矢先に、女が
「ちょいと待ってておくれ」
と消えてしまう。

世の中には同じことを考える奴はあるもので、隣の部屋で、さっきから焦れて待っている男、女が現れると
「おめえ、今晩は客がねえてえからおらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、朝、おまえさんが顔を洗ってたら、二階から楊枝をくわえて髭の濃い、変な奴が下りてきたろ。足に毛が生えた、熊が着物を着ているような奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

隣の男、「あんな野郎なら」と安心して、花魁と杯のやりとりを始める。

そのうちに、花魁が
「だけどもね、いまチョイチョイと……」
とわけのわからない言い訳をして、また消えてしまう。

前の座敷へ戻ると
「おめえ、今晩は客がねえてえから、おらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と、嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、おまえさんが顔を洗いに二階から下りてきたとき、あたしが顔を洗わせてたお客があったろ。あの目尻が下がった、鼻が広がったあごの長い奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

底本:初代柳家小せん

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

円遊から小せんへ

原話は不明。初代三遊亭円遊が「果報の遊客」の演題で明治26年(1893)7月、『百花園』に速記を載せています。

円遊のものは、同じ廓噺の「五人廻し」をくすぐりたくさんにくずしたようなもので、文句を言う客に女郎が「おまはんはあたしの亭主だろう。自分の女房によけい客がつくんだから、いいじゃないか」と、居直って膝をキュっとつねり、隣の部屋に行ってまた、間夫気取りの男を翻弄。

「おまはんも甚助(焼き餅)だねえ。奥に来てる奴は知ってる人だよ。あのばかが来てるんだよ」「うん、あのばかか」とオチた上、「両方で同じことを言っております」と、よけいなダメを押しています。

明治末から大正初年にかけ、これを粋にすっきりまとめ、「とんちき」の演題を使い始めたのが、初代柳家小せんでした。近代廓噺のパイオニアです。

大正8年(1919)9月、その遺稿集として出た『廓ばなし小せん十八番』に収録の速記を見ると、マクラで、活動写真のおかげで近ごろは廓が盛らないなどと大正初期の世相を織り込み、若い落語家(自分)がなけなしのワリ(給金)を持って安見世に揚がり、「部屋ったって廻し部屋、たばこ盆もありゃアしません。たもとからマッチを出して煙草を吸い始める、お女郎衆のお座敷だか田舎の停車場だかわからない」と、当時の寒々とした安見世の雰囲気を活写し、今に伝える貴重な風俗ルポを残しています。

小せんはさらに、花魁がいつまでも向こうを向いて寝ているので、「こっちをお向きよ」「いやだよ、あたしは左が寝勝手(=寝やすい)なんだよ」「そうかい、それじゃ俺がそっちへ行こう」「いけないよ。箪笥があるんだよ」「あったっていいじゃないか」「中のものがなくならあね」という小咄をマクラに振っています。

これは、小せんに直伝で廓噺を伝授された五代目志ん生が、しばしば使っていたネタ。残念ながら志ん生自身の「とんちき」の速記や音源はありません。それにしても、小せんと志ん生の年齢差はたった7歳。昭和48年(1973)、83歳まで生きた志ん生に比べ、小せんは享年36。早すぎる天才の夭折でした。

とんちき

生粋の江戸悪態ことばで、「トンマ」「まぬけ」の意味。もとは「とん吉」と言ったのが、いつの間にか音がひっくり返ったようです。

「しだらがない」が「だらしがない」に転訛したように、誤用、またはシャレでひっくり返して使っていたのが、そのまま定着してしまった例でしょう。

深川の岡場所(遊郭)で、ヤボな客を「とんちき」と呼んだので、廓噺だけにその意味も合体しています。

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

とろろん【とろろん】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

にぎやかで陽気。東海道の丸子宿が舞台の一席。上方噺の音曲噺です。

【あらすじ】

無尽に当たって懐が温かい、神田堅大工町の八五郎。

ひとつ伊勢参りでもして散財しようという気を起こし、弟分の熊と文次を誘って、東海道を西へ。

途中、馬子とばかを言いながら毬子(=丸子)宿までやって来る。

今夜の泊まりは一力屋という旅籠だが、あいにく下で寄合があるので、しばらく二階座敷でご同座を願いたいと頼まれる。

同宿は三人で、大坂者が一人に、上州から出てきたという婆さん、それに梅ヶ谷の弟子で梅干という相撲取り。

あいさつが済んだところへ女中が
「あんたがたハァ、毬子の名物をあがりますかな」
と聞きにくる。

「なんだ」
と聞くと
「トルルルー」
とか。

「ばか野郎、毬子名物ならとろろ汁じゃねえか」
と少しはもののわかった八五郎が教えたが、また
「マンマがバクハンでもようごぜえますか?」
と聞くので、そそっかしい文次が
「バッカラカン」
と聞き間違え
「格好の悪い丼じゃねえか」
と思い込んで、ひと騒ぎ。

麦飯のお櫃は来たが、いくら待ってもとろろが来ない。

二人が
「バッカラカンてやがって、人をばかにしてやがるから、下にケンツクを食わせよう」
と怒るのを、八五郎が
「寄合で忙しくて手がまわらないんだろう」
となだめ、
「下で思い出すように、なんでもトロトロとつく唄をうたって催促しようぜ」と提案する。

八五郎が甚句で
「トントンチリチリツンテントン、泊まり合わせしこの家の二階、麦の馳走はよけれども、なにもなくては食べられぬ、なんで食べよぞこの麦を、押してけ持ってけ三段目」
とやると
「押してけ持ってけ」
が悪く、せっかく来かかったのが戻されてしまう。

「それでは」
と婆さんが、昔取った杵柄、巫女の口寄せを。

「慈悲じゃ情けじゃお願いじゃ、どうぞ宿屋の女子衆よ、とろろを手向けてくださりませ」
「縁起でもねえ。手向けられてたまるか」

今度は大坂者に
「なにかやってくれ」
と頼むと、これは浄瑠璃で
「デンデンデンチトンチン、チントンシャン、シャンシャンジャジャジャ」
と雌馬の小便のよう。

真っ赤にうなって
「麦の馳走はよけれども、おかずのうては食べられぬ。オオオオ」

とうとう泣きだす。

相撲取りが一人ゲラゲラ笑っているので
「おめえもやらねえか」
と催促すると
「最前からおもしろうございました。実はわしは相撲じゃありません」
「なんだ」
「祭文語りで」
「どうりで小せえ相撲取りだと思った」

ほら貝と錫杖を前の宿屋に忘れたというので、口だけで
「なにでべよぞンガエこのン麦をエー、おかずがのうては、ンガエ、食べンエンらンれンぬ、お察しあれや宿屋のご主人、なにで食べよングエこのン麦をングエ」
とやると、主人がすり鉢を持って
「とろろんとろろん」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

東西で異なるオチ

原話は不詳。上方の古い音曲噺「出られん」を東京に移植したものです。

移植者や年代はわかりませんが、大正3年(1914)6月、『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(1869-1924)の速記が残ります。

上方のオチは、題名通り主人が下から「出られん」と言うもので、浪花節の古型である「デロレン祭文」と掛けた地口。一方、あらすじでご紹介したように東京では、「デロレン」を「トロロン」と呼んだので地口も丸子名物のとろろとしゃれたわけです。

小南の復活と工夫

東京では長く途絶えていましたが、戦後、二代目桂小南(1996年没)が大阪風の演出で復活、十八番にしました。小南では、隣の大尽風を吹かせる男に当てこするためなぞ掛けで嫌がらせした後、祭太鼓の合いの手でとろろを催促。隣をのぞくと、お大尽が「テントロロン」と、頬かぶりでひょっとこ踊りを踊っていた、という地(説明)のオチを工夫しました。小南没後は、再び後継者がいなくなっています。

祭文語り

さいもんがたり。祭文は浪花節の原型または古型で、上方では別名「デロレン左衛門(祭文)」と呼ばれました。もともと、祭のときに、独特の節回しで神仏に報告する役割を担いましたが、山伏姿の門づけ芸人がほら貝と銀杖を伴奏に、街頭でデロレンデロレンとうたい歩き、全国に普及したものです。のちに芸能化して歌祭文になり、幕末に浪花節(浪曲)へと進化をとげました。

口寄せ

霊媒のこと。「そもそも、つつしみ敬って申したてまつるは、上に梵天、帝釈、四大天王……」と、さまざまな神仏の名を唱えたのち、死者を呼び出すのが普通の段取りでした。婆さんの「とろろを手向けてくださりませ」は、憑依した亡者のことばのもじりです。

甚句

おもに相撲甚句のことで、「錦の袈裟」にも登場しました。都々逸と同じく、七七七五のリズムを持ちます。

丸子のとろろ汁

丸子(毬子)は東海道二十一番目の宿場で、今の静岡市の内。名物のとろろ汁は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や芭蕉の句でも。

梅若菜 毬子の宿の とろろ汁

そのほか、さまざまな道中名所記でおなじみです。自然薯のとろろを味噌汁で溶くのが特徴で、それを麦飯にかけて饗する質朴な味わいです。

【語の読みと注】
無尽 むじん
旅籠 はたご
寄合 よりあい
手向け たむけ
霊媒 れいばい
自然薯 じねんじょ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

おそれいりやのきしぼじん【恐れ入谷の鬼子母神】むだぐち ことば

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

現代でも辛うじて生き残っていて、もっとも有名なむだぐちでしょう。「恐れ入りました」と地名の「入谷」を掛け、そこから現地の鬼子母神を出したもの。

ここでは雑司が谷のそれではなく、台東区入谷町の喜宝院の鬼子母神堂。それでなければダジャレが成り立ちません。「恐れ入り」のしゃれはこのほかにも数多く、「入相」「煎り酒」「入谷の七合神」「入山」「入山形」「入山三了」「恐れ久松」「恐れ山猫」「恐れちゃんちき茶の袴」と、あげたらきりがありません。

最後に極めつけは、安政4年(1857)初編刊、梅亭金鵞の滑稽本『七偏人』から。「大酩酊に及んで、恐れ入谷の霜のもみぢば真赤にならの八重桜、池田いたみのお酒の香りが、京九重に匂ひぬるかなッ」。なんともはや。

恐れイリヤのクリヤキン。デビッド・マッカラム編


恐れイリヤのクリヤキン。アーミー・ハマー編

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

つくだまつり【佃祭】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

実録をもとにした奇談です。志ん生や志ん朝のでよく聴きますね。

【あらすじ】

夏が巡ってきて、今年も佃の祭りの当日。

祭り好きな神田お玉ヶ池の小間物屋次郎兵衛、朝からソワソワ。

焼き餅焼きの女房から
「祭りが白粉つけて待ってるでしょ」
などと嫌みを言われてもいっこうに平気で、白薩摩に茶献上の帯という涼しいなりで、いそいそと出かけていく。

一日見物して、気がつくと、もう暮れ六ツ。渡し舟の最終便は満員。

これに乗り遅れると返れないから次郎兵衛、船頭になんとか頼んで乗せてもらおうとしていると、
「あの、もし……」
と袖を引っ張る女がいる。

「あたしゃ急ぐんだ」
「そうでもございましょうが」
とやりとりしている間に、舟は出てしまう。

「どうしてくれる」
と怒ると、女はわびて、
「実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、申し訳に本所一ツ目の橋から身を投げるところをあなたさまに助けられ、五両恵まれました」
と言う。

名前を聞かなかったので、それ以来、なんとかお礼をと捜し回っていたが、今日この渡し場で偶然姿を見かけ、夢中で引き止めた、という。

そう言われれば覚えがある。

女は、今では船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも帰りの舟は出せるから、ぜひ家に来てほしいと、願う。

喜んで言葉に甘えることにして、女の家で一杯やっていると、外が騒がしい。

若い者をつかまえて聞くと、さっきの渡し舟が人を詰め込みすぎ、あえなく転覆。

浜辺に土左衛門が続々とうち上がり、辰五郎も救難作業に追われている、とのこと。

次郎兵衛は仰天。

もし三年前に女を助けなければ、自分も今ごろ間違いなく仏さまだと、胸をなで下ろす。

やがて帰った辰五郎、事情を聞くと熱く礼を述べ、今すぐは舟を出せないから、夜明けまでゆっくりしていってくれと、言う。

一方、こちらは次郎兵衛の長屋。

沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしい、というので大騒ぎ。

女房は半狂乱で、長屋の衆に
「日ごろ、おまえさんたちがあたしを焼き餅焼きだと言いふらすから、亭主が意地になって祭りに出かけたんだ。うちの人を殺したのはおまえさんたちだ」
とえらい剣幕。

ともかく、白薩摩を着ているからすぐに身元は知れようから、死骸は後で引き取ることにし、月番の与太郎の尻をたたいて、一同悔やみの後、坊さんを呼んで、仮通夜。

やがて夜が白々明けで、辰五郎に送られた次郎兵衛、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。

読経の声を聞いて、
「はて、おかしい」
と家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。

「幽霊だぁ」
と勘違いして大騒ぎ。

事情がわかると坊さんは感心し、人を助けると仏法でいう因果応報、めぐりめぐって自分の身を助けることになると、一同に説教。

これを聞いた与太郎、
「それならオレも誰か助けてやろう」
と、身投げを探して永代橋へ。

おあつらえ向きに、一人の女が袂に石を入れ、目に涙をためて端の上から手を合わせている。

「待ってくれッ。三両やるから助かれッ」
「冗談言っちゃいけないよ。あたしは歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけてるんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」

【しりたい】

佃島渡船転覆事件

明和6年(1769)3月4日、佃島住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆、沈没。乗客三十余人が溺死する大惨事に。

翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押し込みなど、町役にも相応の罰が課されました。

噺は、この事件の実話をを元にできたものと思われます。

佃の渡しは古く、正保年間(1644-48)以前にはもうあったといわれます。佃島の対岸、鉄砲洲船松町一丁目(中央区湊町三丁目)が起点でした。

千住汐入の渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、三百年以上も存続しましたが、昭和39年(1964)8月、佃大橋完成とともに廃されました。

さかのぼれば実話

中国明代の説話集『輟耕録』中の「飛雲の渡し」を町奉行としても知られた根岸鎮衛(肥前守、1737-1815)が著書『耳嚢』(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話です。

オチの部分の梨のくだりは、式亭三馬(1776-1822)作の滑稽本『浮世床』(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたものです。

中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋です。「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。

『耳嚢』の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。

筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに前記の佃渡船の惨事を前提にしています。

ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、『老いの長咄』という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落として身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという実話が紹介されています。

円喬、志ん生、金馬

明治28年(1895)7月、『百花園』掲載の四代目橘家円喬の速記が残ります。戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ、十八番にしました。

もう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬で、こちらは円喬→三代目円馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。

竜神は梨好き

戸隠神社に梨を奉納する風習は古くからありました。江戸の戸隠神社は、湯島天神社の本殿後方の石段脇にあり、正式には戸隠大権現社。湯島天神と区別されて湯島神社とも呼ばれ、土地の地神とされます。

信濃の戸隠明神(長野県長野市)を江戸に勧請したもので、祭神は本社と同じ、戸隠九頭龍大神です。ありの実(梨)を奉納すると歯痛が治るという俗信は、信濃の本社の伝承をそのまま受け継いだものです。

江戸後期の歌人、津村正恭(淙庵、?-1806)は随筆『譚海』(寛政7=1795年上梓)巻二の中で、この伝承について記しています。それによると、戸隠明神の祭神は大蛇の化身で、歯痛に悩む者は、三年間梨を断って立願すれば、痛みがきれいに治るとのこと。その御礼に、戸隠神社の奥の院に梨を奉納します。神主がそれを折敷に載せ、後ろ手に捧げ持って、岩窟の前に備えると、十歩も行かないうちに、確かに後ろで梨の実をかじる音が聞こえるそうです。

梨と竜神(大蛇?)と歯痛の関係は、よくわかりませんが、戸隠の神が、江戸に来ても信州名物の梨に目がないことだけは、確かなようです。虫歯の「虫」も、梨の実に巣食った虫といっしょに、竜神が平らげてくれるのかもしれません。

佃祭

佃住吉神社(中央区佃一丁目)の祭礼です。旧暦で6月28日、現在は8月4日。天保年間(1830-44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名でした。

本所一ツ目橋

墨田区両国三丁目の、堅川の掘割から数えて一つ目の橋を「本所一ツ目の橋」、その通りを「一ツ目通り」と呼びました。橋は現在の「一之橋」で、このあたりは御家人が多く住み、「鬼平」こと長谷川平蔵(1745年)、勝海舟(1823年)の生誕地でもあります。

【語の読みと注】
輟耕録 てっこうろく
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:江戸町奉行、肥前守
折敷 おしき

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

たのきゅう【田能久】演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

田能久と言ったら若大将。噺は民話が元ネタで出所は高知県。浅草じゃないんだ。

別題:棚牡丹 田之紀

【あらすじ】

阿波の国、徳島の在、田能村の農民、久兵衛。

芝居が好きで上手なので、村芝居の人気者。

とうとう趣味が高じて「田能久一座」を結成、本業そっちのけであちこちを興行して歩いている。

あるとき、伊予の宇和島から依頼が来たので出かけ、これが大好評。

ところが、ちょうど五日目に、おふくろが急病との知らせが届き、親孝行なたちなので、急いで、愛用のかつらだけを風呂敷に包み、帰り道を急いだ。

途中、法華津峠を越え、鳥坂峠に差しかかると、一天にわかにかき曇り、雨がポツリポツリ。

山から下りてきた木こりに、この峠は化け物が出るという噂だから、夜越しはやめろと忠告されたが、母親の病状が気にかかり、それを聞き流して山越えにかかる。

山中でとっぷり日が暮れ、途方にくれていると、木こり小屋があったので、これ幸いと、そこで夜明かしをすることに決めた。

昼間の疲れでぐっすり寝込んだ田能久、山風の冷気で夜中にふと目を覚ますと、白髪で白髭の老人が枕元に立っている。

気味が悪いので狸寝入りを決めると、老人
「おい、目を開いたままイビキをかくやつがあるか」

実は、この老人は大蛇の化身。

人間の味もすっかり忘れていたから、素直にオレの腹の中へ入れと舌なめずり。

田能久、震えあがり、実は母親が病気でこれこれと泣き落としで命乞いするが、もちろん聞かばこそ。

田能久、そこでとっさの機転で、
「狸で人間に化けているだけだ」
と、うそをついた。

大蛇は
「ふーん。これが本当の狸寝入りか。阿波の徳島は狸の本場と聞いたが、呑むものがなくなって狸を呑んだとあっちゃ、ウワバミ仲間に顔向けできねえ」
と、しばし考え、
「本当に狸なら化けてみせろ」
と言う。

これには困ったが、ふと風呂敷の中のかつらを思い出し、それを被って女や坊主、果ては石川五右衛門にまでなって見せたので、大蛇は感心して、オレの寝ぐらはすぐそばなので、帰りにぜひ尋ねてきてくれと、すっかり信用してしまった。

近づきになるには、なんでも打ち明けなければと、互いの怖いものの噺になる。

大蛇の大の苦手は煙草のヤニ。体につくと、骨まで腐ってしまうという。

田能久は
「金が仇の世の中だから、金がいちばん怖い」
と口から出まかせ。

夜が明けて、オレに会ったことは決して喋るなと口止めされ、ようよう解放された。

麓に下り、これこれこういうわけと話をすると、これはいいことを聞いたと、さっそく木こりたちが峠に上がり、大蛇にヤニをぶっかけると、大蛇は悲鳴をあげて退散した。

帰ると、母親の病気はすっかり治っていたので、安心して一杯やって寝ていると、その夜、ドンドンと戸をたたく者がいる。

出てみると、血だらけで老人の姿になった大蛇。

「よくもしゃべったな。おまえがおれの苦手なものをしゃべったから、おれもおまえのいちばん嫌いなものをやるから覚悟しろ」

抱えていた箱を投げ出し、そのまま消えた。

開けてみると、中には小判で一万両。

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【うんちく】

久さんの正体

『日本昔話集成』に「田之久」の題で収録され、高知県の民話にはこの噺の原型となるものがあります。

その他、全国に流布する「親孝行が長者となる伝説」の要素が加わっています。

宇井無愁の考証によれば、「田能」とは本来田楽のことで、田能久は村の鎮守の祭礼に、吉例のお神楽を奉納する田楽師だとか。

ウワバミにいっぱい食わせる小道具も、したがって噺のような芝居の衣装でなく、お神楽の面をいろいろに取り替えただけといいます。

なるほど、だからこそ、あっという間の変身が可能だったわけで、それにだまされるウワバミの知能も、牛並みだったということでしょう。

三遊本流に継承

本来は上方落語で、主人公を澤村田之助の弟子で田之紀という下回り役者で演じる場合は、演題も「田之紀」とし、他に「棚牡丹」という別題もあります。

東京へいつ伝わったかは分かりませんが、明治31年1月、「百花園」に掲載の四代目橘家円蔵の速記が残ります。

円蔵は「イヤ、孝行の徳に依って思はぬ幸いを得ましたが、幸福の天に有る、このへんを申しましたものでございましょう」と、地でオチています。

その高弟の五代目三遊亭円生、さらに六代目円生が継承し、よく高座に掛けました。

円蔵以来、やり方はほとんど変わりませんが、六代目円生は、大蛇がヤニをかけられて苦しむさまなどを、より緻密に描写しました。

大蛇の「タヌキ寝入り」うんぬんのくすぐりは今ではあまり受けませんが、どの演者でもそのまま踏襲しているようです。

珍しい、ご当地落語

数少ない、特定の地方を舞台にした噺で、登場する地名はすべて実在のものです。

阿波徳島は昔から芸能の盛んな土地柄で、阿波人形浄瑠璃の本場でもあります。

歌舞伎や文楽でよく上演される「傾城阿波鳴門」の舞台になりました。

なお、四代目円蔵は、法華津峠を法月峠、鳥坂峠を戸坂峠としましたが、のちに弟子の六代目円生が、これを訂正しています。

【語の読みと注】
阿波 あわ:徳島県の旧国名
伊予 いよ:愛媛県の旧国名
傾城阿波鳴門 けいせいあわのなると:通称「どんどろ」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

どうとり【胴取り】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

他人の不幸をせせら笑う、江戸っ子のあさはかでいやらしいところがよく出ています。

【あらすじ】

露天博打ですってんてんにされた職人。

寒さにふるえ、
「ついてねえ」
と、ぐちりながら
「土手は寒かろォォ」
と、やけで都々逸をうなって道を急いでいると、ふいに
「それへめえる町人、しばらく待て」
と呼び止められる。

驚いて、暗がりをすかして見ると、大柄な侍。

むかっ腹が立って
「なんの用だか知らなえが、江戸は火事早えんだ、とんとんやっつくれ」
と、まくしたてると
「身供は今日、国元より初めてまかり越した。麹町へはどうめえるか、教えろ」

男、田舎侍と侮って八つ当たり気味に
「この野郎、おおたばなことォぬかしゃあがって。どうでもめえれ。東ィ行ってわからなきゃあ西、西で知れなきゃ北、東西南北探せ。どっか出らあ。ぐずぐずしやがると、たんたんで鼻かむぞ」
「無礼を申すと手は見せんぞ。長いのが目に入らんか。……二本差しておるぞ」
「てやんでえ田子作め。見せねえ手ならしまっとけ。手妻使いじゃあるめえし、そんな長いもんが目に入るか。二本差しがどうしたんでえ。二本差しがこわくて田楽で飯が食えるか。気のきいた鰻なんぞァ四本も五本もさしてらァ。まごまごしゃあがると引っかくぞ」

男、侍にいきなり痰と唾をひっかけた。

これがご紋どころへ、べっとり。

侍、堪忍袋の緒が切れて
「おのれ無礼者ッ」
と、長いのをすっと抜く。

さすがに驚いて、ばたばたと逃げてかかると、追いかけた侍、
「えいっ」
と、掛け声もろとも居合いでスパッと斬り、あっという間に鞘に納めると、謡をうたって行ってしまった。

男、「つらァみやがれ」と、悪態をついているうちに、なんだか首筋がひんやり。

首がだんだん左回りに回ってずれてくる。

そのうち完全に真横を向き、息が漏ってきた。

「野郎、いったい何しゃあがったか」と、首筋をしごくと赤い血がベットリ。

「野郎、斬りゃあがった」
と、あわてて下を向くと、とたんに首は前に転げ、胴体だけが掛け出し、橋を渡ったところでバッタリ。

そこへ、威勢よく鼻唄をうなった男が来かかる。

酒が入って懐が温かいらしい。首だけで見上げると、友達の熊。

いきなり声をかけられたが、姿が見えないのでキョロキョロ。

「どこにいるんだ?」
「足もと」

見ると首だけがどぶ板に乗っかって、しゃべっている。

「どうしたんだよ。……おやおや、だから言わねえこっちゃねえ。くだらねえサンピンにかかわるなって。で、胴はどうした? 橋向こう? そりゃ、てえへんだ」

熊が
「今日は博打の目が出て、二、三十両もうかった」
と自慢すると、首が
「五両貸してくれ」
と、頼む。

「そらあ、友達だから貸さねえもんでもねえが、その金でどうしようってんだ?」
「へへっ、橋向こうに胴を取りに行く」

【しりたい】

クビが飛んでも動いてみせるわ

前半は「首提灯」と同じで、原話は安永3ねん(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の「盗人の頓智」ほかの小咄です。「首提灯」をご参照ください。

江戸落語と思いきや、噺としては上方種で、長く大阪で活躍した三代目三遊亭円馬が東京に移植した「逆輸入噺」です。

戦後は、三代目三遊亭小円朝が持ちネタにしましたが、ポピュラーな「首提灯」と前半がほとんど同じなので、小円朝没(1973年)後はほとんど演じられません。

一つには、「館林」「首提灯」と同様に首を斬られてもしゃべるという奇想天外さを持ちながら、斬られてからのセリフが長すぎるため、せっかくの新鮮な印象が薄れてしまうということも、あるのでしょう。

おおたば

「この野郎、おおたばなことォぬかしゃァがってェ」
と、タンカの先陣を切りますが、おおたばは「大束」で、本来は「並々でないことを安易に安っぽく扱うこと」。ところが、どこかで意味の誤用が定着したのか、それと正反対の「大げさなこと」という意味に変わりました。さらにそこから、「傲慢」「尊大」「横柄」「大言壮語」という意味がついたのですから、ややっこしいかぎりです。

この場合は悪態ですから、当然第二の意味ですが、「もっとご丁寧に頼むのが礼儀なのに、町人と侮って、安易にぬかしゃあがって」という意味にも取れなくはありません。

蛇足ながら、ネイティブの発音では「おおたば」の「ば」は「ば」と「ぼ」の中間の破裂音です。

胴取り

バクチで親になることで、オチは、もちろんそれと掛けた洒落です。

浅黄裏

あさぎうら。「棒鱈」「首提灯」を聴いてもわかりますが、ご直参の旗本には一目置いていた江戸っ子も「浅黄裏」と蔑称する田舎侍は野暮の象徴です。江戸勤番ともいい、参勤交代で藩主について国許から出てきた藩士です。同じ藩中でも、江戸詰めの者は、中には江戸の藩邸で生まれ、勤務はずっと在府で、国許を知らないことさえあったのですから、その立ち居振る舞いや意識の乖離は相当のものでした。

江戸勤番でも、立ち返りといってそのまま引き返す者と、藩主の在府中、江戸に留まる者とに分かれていました。

しかし、やがてその浅黄裏どもに完膚なきままにやられ、江戸を占領蹂躙されてしまったのですから、ベランメエも口ほどにもありません。

露天博打

野天丁半ともいい、ほとんどイカサマでした。江戸では、浅草の大鳥神社境内が本場。円朝の「怪談牡丹燈籠」の伴蔵の啖呵、「二三の水出しやらずの最中、野天丁半ぶったくり」は有名で、水出しも最中も露天博打の種類です。

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

つきおとし【突き落とし】演目

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「居残り佐平次」「付き馬」と合わせて「廓噺の三大悪」の一つ、と言われてます。

別題:棟梁の遊び(上方)

【あらすじ】

町内の若い者が集まって
「ひとつ、今夜は吉原へでも繰り込もう」
という相談。

ところが、そろいもそろって金のない連中ばかり。

兄貴分が悪知恵をめぐらし、一銭もかけずに飲み放題の食い放題、という計画を考え出す。

作戦決行。

兄貴分が大工の棟梁に化け
「いつも大見世でお大尽遊びばかりしているので飽きちまったから、たまには小見世でこぢんまりと遊んでみたい」
などと大声で吹きまくり、客引きの若い衆の気を引いた上、一同そろって上がり込む。

それから後は、ドンチャン騒ぎ。

翌朝になって勘定書が回ってくると、ビールを九ダースも親類へ土産にするわ、かみさんが近く出産予定の赤ん坊用にたらいまで宿の立て替えで届けさせるわで、そのずうずうしさにさすがの「棟梁」も仰天した。

ニセ棟梁が留公に
「勘定を済ますから昨日てめえに預けた紙入れを出せ」
という。

この男、実はこれから殴られたうえ
「バカだマヌケだ」
と言われなくてはならない一番損な役回り。

「てめえは役者の羽左衛門に似ているから、いい役をやるんだ」
とおだてられ、しぶしぶ引き受けたが、頭におできができているので、内心びくびく。

留公が筋書き通り
「実は姐さんに『棟梁は酔うと気が大きくなる人だから、吉原へでも行って明日の上棟式に間に合わないと大変だから、お金は私に預けておくれ』と頼まれたので、金は持っていません」
と答えると、待ってましたとばかりに
「なんだと、てめえ、俺に恥ィかかせやがって」
とポカポカ。

留公、たまらず
「だめだよ兄貴。こっち側をぶってくれって言ったのに」
と口走るのを聞かばこそ、ポカポカポカポカ。

そこでなだめ役が
「この留はドジ野郎ですからお腹も立ちましょうが、ここはわっちらの顔を立てて」
とおさめ、若い衆には
「こういうわけで、これから棟梁の家まで付いてきてくれれば、勘定を払うばかりか、おかみさんは苦労人だから祝儀の五円や十円は必ずくれる」
と、うまく持ちかけて付き馬に連れ出す。

途中、お鉄漿溝で
「昨夜もてたかどうかは小便の出でわかるから、ひとつみんなで立ち小便をしよう。若い衆、お前さんもつき合いねえ」

渋るのをむりやりどぶの前に引っ張っていき、背中をポーンと突いたから、あわれ若い衆はどぶの中へポッチャーン。

その間に全員、風を食らって一目散随徳寺。

「うまくいったなあ」
「今夜は品川にしようか」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

三木助十八番、決まらないオチ

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から伝わる生粋の江戸廓噺です。大正期には、初代柳家小せんの速記が残り、戦後では三代目桂三木助(1903-61)の十八番。春風亭柳朝も得意にしましたが、ともに速記のみで音源はなく、珍しく六代目三遊亭円生が、昭和41年(1966)5月にTBSラジオで演じた音源が残ります。

オチは、三木助が「泥棒だな、おい」と加えて悪らつさを薄めたり、一人が遅れて戻り、「いい煙草入れだから、惜しくなって抜いてきた」とするものもありますが、どれも決め手を欠き、いまだに決定的なものはありません。本あらすじのは、初代小せんのものを採りました。

上方版「棟梁の遊び」

異色なのは、大阪の六代目笑福亭松鶴が演じた「棟梁の遊び」で、これは、舞台を松島遊郭に移した、東京の「突き落とし」からの移植版。昔から、大阪→東京の移植は無数にはあっても、逆は珍しい例です。移植者や時期は不詳ですが、こちらはオチが東京の「大工調べ」のをいただいて「大工は棟梁、仕上げをご覧じ」という、ダジャレオチになっています。

廓噺の三大悪

飯島友治(落語評論家)は「突き落とし」「居残り佐平治」「付き馬」を後味の悪い「廓噺の三大悪」と呼んでいます。落語に道徳律を持ち込むほど愚かしいことはありません。

「黄金餅」のようなアナーキーな噺を得意にした五代目古今亭志ん生は、この噺だけは「あんな、ひどい噺はやれないね」と言って生涯、手掛けませんでした。志ん生は若き日、初代小せんに廓噺を直伝でみっちり伝授されていて、「突き落とし」も当然教わっているはずですが、「ひどい噺」と嫌った理由は今となってはわかりません。

吉原への愛着から、弱い立場の廓の若い衆をひどい目に合わせるストーリーに義憤を感じたか、または、小見世の揚げ代を踏み倒すようなケチな根性が料簡ならなかったか。さて、どうでしょう。

小見世

下級の安女郎屋ですが、一応店構えを持っているところが、さらにひどい「ケコロ」などの私娼窟と違う点です。大見世と違い、揚代が安い分、必ず前払いで遊ばなければならない慣わしなので、この噺では、苦心してゴマかさなければならないわけです。

お鉄漿溝

おはぐろどぶ。最後に若い衆が突き落とされる水路ですが、吉原遊郭の外回りを囲むよう掘られた幅二間(約3.6m)のみぞです。通説では、遊女の逃亡(廓抜け)を防ぐため掘られたといいます。お女郎が、歯を染めた鉄漿の残りを捨てたので、水が真っ黒になったのが名前の由来ということです。鉄漿は、鉄片を茶や酢に浸して酸化させた褐色の液体に、五倍子粉というタンニンを含んだ粉末を混ぜたものです。

【語の読みと注】
お鉄漿溝 おはぐろどぶ
鉄漿 かね
五倍子粉 ふしこ

★auひかり★

ちょうちんや【提灯屋】演目

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

上方から東京にもってきた噺。滑稽噺の秀作です。

【あらすじ】

無筆が多かった昔の話。

町内でチンドン屋が、広告を配って歩いている。

長屋の連中、広告を見てやってきたと言えば向こうで喜び、お銚子の一本も出すかも知れないと、さっそく出かける相談。

ところがあいにく、誰も字が読めず、何屋なのかわからない。

そば屋ならもっとのびた字を書きそうなものだし、寿司屋なら握った字を書いてあるはず、てんぷら屋か、はたまた中華料理か、変わったところで、大阪ではすっぽんをまるというから、こう字が丸まったところを見てすっぽん屋かしら、いや、かしわ(鶏)料理屋だろうと、食い意地が張って、片っ端から食い物屋の名前を並べ立てても、らちが明かない。

そこへ米屋の隠居が来たので、読んでもらうと、これが食い物ではなく、提灯屋の新規開店の広告。

一同がっかり。

「当日より向こう七日間は開店祝いとして、提灯のご紋、笠の印等は無代にて書き入れ申し候。柏町一丁目五番地、提灯屋ブラ右衛門」と、あった。

万一、書けない紋があるときは、お望みの提灯をタダでくれるというので、「大きなことを抜かしゃあがる。それなら証拠の広告を持って、タダでもらってこようじゃねえか」と、一座の兄貴分が計略を巡らす。

とても書けないような紋を言い立て、へこましてやろうという算段だ。

まず一人目が、
「鍾馗さまが大蛇を輪切りにした紋を書いてみろ」
と判じ物で迫り、降参させる。

鍾馗さまは剣を持っていて、うわばみを胴斬りにしたから、まっ二つに分かれて片方がうわ、もう片方がばみ。併せて、剣かたばみ、というわけ。

二人目は
「仏壇の地震てんだが、書けるか?」

仏壇に地震がくれば、りんもどうもひっくり返るから、りんどう崩し。

これで、ぶら提灯を二つせしめた。

三人目は「髪結床看板が湯に入って熱い」という、妙な紋。

髪結床の看板はねじれていて、熱いからうめろというので、合わせてねじ梅。

四人目は
「おめえだな、提灯をただくれるてえのは」
と、最初からもらったも同然というずうずうしさ。

この男のが長い。
「算盤の掛け声が八十一で、商売を始めて、もうかったが持ちつけない銭を持って、急に道楽を始めた。家に帰らないから嫁さんが意見がましいことを言う。なに言ってやんでえベラボウめ。男の働きだ。ぐずぐず言うならてめえなんぞ出ていけってんで、かみさんを離縁しちまった」
という紋。

謎解きは、八十一は九九、もうかったから利があり、これでくくり。かみさんが去っていったから、合わせてくくりざる。

出す提灯、出す提灯、みんなタダで持っていかれた提灯屋、もうなんとでも言ってきやがれ、とヤケクソ。

一方、町内は提灯行列。

そこへ、隠居までやって来た。

さあ、こいつが元締めかと、提灯屋はカンカン。

隠居、よりによって一番高い高張提灯がほしいと抜かす。しかも二つも家まで届けろというから、念がいっている。

「で、紋だが」
「ほうら、おいでなすった。鍾馗さまが大蛇を輪切りにして、仏壇の地震でもって、八十一が商売始めて、もうかってかみさんを離縁したって言おうてんだろう」
「落ち着きなさい。私の紋は丸に柏だ」
「うーん、元締めだけあって、無理難題を言ってきやがる。丸に柏、丸に柏と……あッ、わかった。すっぽんにニワトリだろう」

【しりたい】

提灯屋の集団

噺の中に「傘の印」とあるように、傘を合わせてあきなっているところも多く、その場合、傘の形をした看板に「ちゃうちん」と記してありました。「花筏」をご参照ください。

もちろん、この噺でわかるように、紋の染物屋も兼ねた、三業種兼業のマルチ企業だったわけです。

判じ物

判じ物は、狭義では絵や文字から、隠された意味を解かせるもので、現在の絵解きパズルに当たります。単なるなぞなぞ、なぞかけを意味することもあり、この噺で持ち込まれる難題は、そちらに当たります。

江戸っ子はシャレ好きで、地口、なぞかけなど、さまざまなクイズを楽しみ、時には賭けの対象にしました。

代表的ななぞかけには、

宵越しのテンプラ→揚げ(=上げ)っぱなし 
金魚のおかず→煮ても焼いても食えない 
やかんの蛸→手も足も出ない

などがあります。「宵越しのテンプラ」などは、現在でもエスカレーターが上りだけで下りがないビルなどに使えそうですね。

『浮世断語』(三代目三遊亭金馬著、河出文庫から復刻)」は、江戸っ子学の宝庫で、こうしたなぞかけ、判じ物についてわかりやすく解説し、実例も豊富に載っています。

残る速記は五代目小さんのだけ

落語としては上方が本家で、東京移植者は三代目三遊亭円馬と言われますが、はっきりしません。円馬から四代目柳家小さんを経て、五代目小さんに継承されました。現在、小さん一門を中心に演じられていますが、手掛ける者は多くはないようです。

速記、音源とも、長らく五代目のものだけでしたが、柳家小三治、三遊亭小遊三などのCDも出ています。上方では、露の五郎兵衛が演じていました。

発掘された原話

原話はずっと不明とされていましたが、武藤禎夫(落語研究家)は、明和6年(1769)刊『珍作鸚鵡石』中の「難題染物」を原型としてあげています。

これは、提灯屋は登場しませんが、大坂・嶋の内に「難題染物」の看板を掲げる店があり、そこの主人が無類の囲碁好き。今日も友人と碁盤を囲んでいるときに「一つ足らん狐の一声」という紋の注文が来ます。わからずに考え込むと、友人が、「九曜の紋(大円の周りを八つの小円が囲む)なら十に一つ足らず、狐の一声なら『コン』で、合わせて紺の九曜」と、教えるという筋です。

紋を注文するのに、なぞかけで出すという趣向が、確かに「提灯屋」の原話と思わせる小咄です。

【語の読みと注】
鍾馗 しょうき
判じ物 はんじもの:謎かけ

スヴェンソンの増毛ネット

おおいしかったきらまけた【大石勝った吉良負けた】むだぐち ことば

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

なんのことはなく、「うまかった牛ゃ負けた」と同じ意味。「おいしかった」と大石内蔵助を掛け、大石が討ち入りで勝利したから「かった=勝った」。そこから敗者の吉良上野介を出したむだぐち。

ただもう一つ、「大石」から漬物石を効かせ、そこから香の物の異称である「きら」を出したというのは、うがち過ぎでしょうか。吉良家の官職の「こうずけ」から「香漬け」という洒落は、古くからありました。もっとも、大石も「昼行灯」で、仇討ちもできない腑抜けとばかにされていた頃は「大石軽うてはりぬき石」と陰口を叩かれていたのですが。

【語の読みと注】
はりぬき石 はりぬきいし:軽石

スヴェンソンの増毛ネット

たてばやし【館林】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

先代の桂文治が得意にしていましたが、今はあまり聴きません。

別題:上州館林

【あらすじ】

町人の半さん、剣術を少しばかり稽古してすっかり夢中になり、もう道場の先生の右腕にでもなったつもりでいる。

そこである日、諸国を修業してまわり、腕を上げてきたいと先生に申し出る。

本気で、商売をやめて剣術遣いになるつもりらしい。

先生心配になって、自分の武者修行の時の体験談をひとくさり。

ある時、上州館林のご城下を歩いていると、一軒の造り酒屋の前に人だかりがし、何やら騒いでいる。

聞いてみると、まだ夕方なのに泥棒が入り、そいつが抜き身を振り回して店の者を脅し、土蔵に入り込んだ。

外から鍵をかけ、雪隠詰めにしたものの、入ってくる奴がいれば斬り殺そうと待っているので、誰でも首が惜しいから、召し捕ろうとする者もいない、とのこと。

先生、
「しからば拙者が」
と、そこが武芸者、飯六杯味噌汁三杯食って腹ごしらえの上、生け捕りにしてくれようと、主人を呼んで空き俵二俵用意させ、左手で戸を開けると、右手で俵を中に放り込んだ。

向こうは腹が減って気が立っているから、俵にぱっと斬りつけるところを、小手をつかんで肩に担いで岩石落とし、みごと退治した、という一席。

しかし、泥棒の腕がナマクラだったから幸いしたが、腕が立っていたらどうなったかわからない。

「おまえも、もう少し腕を磨いた上で」
と先生が諭すので、半さんもそんなものかと思い直して帰っていく。

しかし。

「オレも先生のような目にあってみたい」
と、まだ未練たらたらな半さん。

独り言をいいながら歩いていくと、ちょうど夕方。

町の居酒屋の前に人だかり。

聞いてみると、侍に酔っぱらいがからんでけんかを吹っかけた。

「斬るほどのこともない」
と峰打ちを食わせたが、酔っぱらいがまだしつこくむしゃぶりつくから、侍、
「めんどうくさい」
と酒屋の土蔵に逃げ込んでしまった、という。

さあ、ここが腕の見せどころ、と半さん。

「あのお侍は悪くはないんだから、おまえが出て騒ぎを大きくすることはない」
と止められても聞かばこそ、先生のまねをして
「しからば拙者が生け捕りにいたしてくれる。所は上州館林。そやつを捨ておけば数日の妨げ。主人、炊き立ての飯を出せ」

腹ごしらえまでそっくりまねて、いよいよ生け捕りの計略。

俵を持ってこさせると、土蔵の戸を右手で開け、左手で俵を放り込む。

向こうは血迷っているから、ぱっと斬りつけ……て、こない。

もう一俵放り込んでも中は、しーん。

こりゃ約束が違う。

「中でどうしているんだろう」
と言いながら、首をにゅっと入れた。

とたん、侍の刀が鞘走り、半公の首がゴロゴロ。

「先生、うそばっかり」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【うんちく】

切れのいいシュール落語

首が口をきくという、同工異曲の噺に「胴取り」がありますが、オチの切れ味、構成とも、問題なくこちらが優れています。

原話は不詳で、別題を「上州館林」。昭和初期には八代目桂文治が得意にし、同時代には六代目林家正蔵(1929年没)も演じましたが、戦後、文治没後は、惜しいことにこれといった後継者はありません。

六代目正蔵は、首が口をきくのが非現実的というので、半公はたたきつけられるだけにしていました。演者自身が、現実を飛び越える落語の魅力を理解できず、噺をつまらなくしてしまう最悪の例でしょう。

ヤットウヤットウ

江戸の町道場は、権威と格式はあっても、総じて経営が苦しいので背に腹はなんとやら、教授を望む者は、身分にかかわらず門弟にしたところが多かったようです。

身分制度のたてまえから、幕府はしばしば百姓や町人の町道場への入門を禁じましたが、江戸は武士の町で、その感化で町人にも尚武の気風が強く、また治安も悪かったため、自衛の意味で、柔や剣術を身につけたいという町人が江戸中期ごろから増加しました。

町人の間では、稽古の掛け声から、剣術を「ヤットウ」と呼びならわし、特に幕末には、物騒な世相への不安からか、江戸の四大道場と称される、神田お玉ケ池の千葉道場、御徒町の伊庭道場、九段坂上の斎藤道場、京橋蛤河岸の桃井道場など、有名道場には志願者が殺到。町人原則だめのたてまえは怪しくなりました。町道場の「授業」時間は、午前中かぎりが普通でした。

【語の読みと注】
雪隠詰め せっちんづめ
伊庭道場 いばどうじょう
桃井道場 もものいどうじょう

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

ちょうじゃばんづけ【長者番付】演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

これも古い上方噺。「東の旅」シリーズの一話です。

【あらすじ】

江戸っ子の二人組。

旅の途中、街道筋の茶店でひどい酒をのまされたので、頭はくらくら、胸はムカムカ。

迎え酒に一杯いい酒をひっかけたいと思っていると、山道の向こうに白壁で土蔵造りの家が見えてきた。

兄貴分が、あれは造り酒屋に違いないから、あそこでうんとのましてやると励まし、おやじに一升ばかり売ってほしいと交渉すると
「一升や二升のはした酒は売らねえ」
と断られる。

どのくらいならいいのかと聞くと、
「そうさな。馬に一駄、船で一艘ぐれえかな」

一駄は四斗樽が二丁、船一艘なら五、六十丁というから、兄貴分の怒ったの怒らないの。

「人をばかにするのもいい加減にしろッ。こちとらァ江戸っ子だ。馬に一駄も酒ェ買い込ん道中ができるかッ。うんつくめのどんつくめッ」

その勢いにおそれをなしたか、おやじは謝り、酒は売るから腰掛けて待っていてくれと言っておいて、こっそり大戸を下ろしてしまった。

気づいたときは遅く、薪ざっぽうを持った男たちが乱入。

さては袋だたきかと身がまえると、おやじ
「さっきおまえさまの言った『うんつくのどんつく』というなあ、どういうことか、聞かしてもれえてえ」
と大変な鼻息。

兄貴分、これはまずいと思いながら、後ろに張ってある長者番付に目を止め、
「江戸ではそれを運つく番付という」
と口から出まかせ。

「江戸の三井と大坂の鴻池は東西の長者の大関だが」
と前置きして、ウンツクのウンチクをひとくさり。

「鴻池の先祖は伊丹で造り酒屋をしていたが、そのころはまだ清酒というものがなかった。あるとき、雇った酒造りの親方があまり金をせびるので、断ると、腹いせに火鉢を酒樽に放り込んで逃げた。ところが、運は不思議で、灰でよどみが下に沈み、澄んだ酒ができた」

これを売って大もうけ、運に運がついて大身代ができたから、大運つくのど運つく。

一方、三井の先祖は越後新発田の浪人で、六部で諸国を廻っていたとき、荒れ寺に泊まると、夜中に井戸から火の玉が三つ。

調べると、井戸底に千両箱が三つ沈んでいた。

これをもとに松坂で木綿を薄利多売し、これも大もうけして、やがて江戸駿河町に呉服屋を開き、運に運に運がついて今では大長者。

おまえのところも今に長者になるから、運つくのど運つくとほめたのがわからねえかと、居直る。

暖簾から顔を出したかみさんは、女ウンツク、青っぱなを垂らした孫は孫運つくで、今に大運つくになると与太を並べると、おやじは大喜び。

酒をふるまった上、
「今度造り酒屋で酒を買いたいときは、利き酒をしたいと言えばいい」
と教える。

江戸では大ばか野郎をウンツクというが、まんまとだまされやがったとペロリと下を出した二人、ご機嫌で街道筋に出ると、後ろから親父が追いかけてくる。

「おめえさまがたをほめるのを忘れていただ。江戸へ帰ったら、りっぱな大ウンツクのどウンツクになってくだせえ」
「なにを抜かしゃあがる。オレたちはウンツクなんぞ大嫌えだ」
「えっ、嫌えか? 生まれついての貧乏人はしようがねえ」

【しりたい】

上方種長編の一部

古くから親しまれた上方落語の連作長編シリーズ「東の旅」の一話で、清八と喜六の極楽コンビが伊勢参宮の途中、狐に化かされる「七度狐」に続く部分です。「うんつく」「うんつく酒」の題で演じられてきました。

上方では、悪態の意気で六代目笑福亭松鶴が優れていました。

東京への移植者とその時期は不明ですが、戦後は三代目桂三木助、八代目春風亭柳枝が得意とし、五代目小さんもたまに演じました。

原話は、安永5年(1776)刊の笑話本『鳥の町』中の「金物見世」。皮肉にもこれは江戸板なので、東→西→東とキャッチボールされたことになります。

この小咄では「うんつく」でなく「とうへんぼく」がキーワードであることでも、ルーツが江戸であることがうかがわれます。

演出の異同

噺中の三井と鴻池のエピソードは、時間の関係でどちらかを切ることもあります。東京風の演出では、上方の「煮売屋」を改作した「二人旅」のオチ近くのくだりを圧縮して「長者番付」の前に付け、続けて演じることもあります。「二人旅」については、その項をご参照ください。

「東の旅」の順番

「東の旅」の順番では、伊勢路に入り、「野辺歌」「法会」「もぎとり」「軽業」「煮売屋」「七度狐」に続いて、この「うんつく」(長者番付)になり、この後、連れがもう一人増えて「三人旅」で、伊勢参宮のくだりは一応完結します。

うんつく

この噺の、上方落語の演題でもあります。

うんつくは運尽と書き、「運尽くれば知恵の鏡も曇る」ということわざから、上方言葉で「阿呆」「野暮」の意味が付きました。

したがって、「ど運尽く」は「大ばか」。「ど」は上方の罵言なので、本来は江戸落語にない語彙です。上方落語のものがそのまま残ったのでしょう。

ところが、後にはこれをもじって、本当に「運付く」で幸運の意味が加わったからややこしくなりました。同音異義語のいたずら悪戯です。

造り酒屋

造り酒屋は本酒屋ともいい、醸造元で、卸専門の店ではこの噺のように小売はしない建前でしたが、地方には、小売酒屋を兼ねている店も多く見られました。

清酒事始め

噺の中で、鴻池が作ったというのはヨタです。実は享保年間(1716-36)、灘の山邑太左衛門が苦心の末発明し、「政宗」として売り出したのが最初。全国に普及したのは、その1世紀も後の文化年間(1804-18)なので、江戸時代も終わり近くなるまで、一部の地方では濁り酒しか知らなかったことになります。

【語の読みと注】
暖簾 のれん
煮売屋 にうりや
山邑太左衛門 やまむらたざえもん

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

ちきりいせや【ちきり伊勢屋】演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

この噺、珍しく柳家系のものですが、円生や彦六が工夫してやってました。

別題:白井左近

【あらすじ】

旧暦七月の暑い盛り。

麹町五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎が、平河町の易の名人白井左近のところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡でじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天が現れているから、あなたは来年二月十五日九ツに死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門は、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果が子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行を積み、来世の安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛にこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨し続ける。

ある日。

弁慶橋のたもとに来かかると、母娘が今しもぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世のなごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間を残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪の通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸で裏店住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札の辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

原話や類話は山ほど

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井』中の「人相見」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国の説話集『輟耕録』中の「陰徳延寿」。それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記』(青木鷺水、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。さらにその焼き直しが『耳嚢』(根岸鎮衛著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲の渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難を遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が競演

明治27年(1894)1月の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残ります。

小さん代々に伝わる噺ですが、五代目は手掛けていません。三代目小さんの預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生が晩年熱演しましたが、円生は上記二代目小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近

白井左近の実録については不詳です。
二代目小さん以来、左近の易断により、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

弁慶橋

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、「……赤坂の田町へまいりました。(中略) 食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……」とあります。

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが千代田区岩本町二丁目にかつてあった橋。設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。藍染川に架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋とは見当が違うわけです。なぜ、円生は弁慶橋と神田のではなくて赤坂のとして語ったのか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町五丁目にあることから、神田よりも赤坂の方にリアリティーを感じたのでしょう。勘違いとも言いきれません。円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

赤坂の「食い違い」は「喰違御門」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。明治10年(1877)、大久保利通が惨殺された紀尾井坂もちょうどこの付近です。

札の辻

港区芝五丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

【語の読みと注】
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがい:くさび
千木 ちぎ:質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

たばこのひ【莨の火】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

もとは上方の噺。それを、彦六が持ってきたんだそうです。

【あらすじ】

柳橋の万八という料理茶屋にあがった、結城ごしらえ、無造作に尻をはしょって甲斐絹の股引き、白足袋に雪駄ばきという、なかなか身なりのいい老人。

欝金木綿の風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋への祝儀二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間を総揚げに。

自分はニコニコ笑って、それを肴にのんでいるだけ。

その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。

「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。

いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋だった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」

包みの中には、小判がぎっしり。

これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花坂爺さんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」

「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂の屋敷前で止まった。

奈良茂ならごひいき筋で、だんなや番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。

不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方はだんなの兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれだんな」。

奇人からついた異名とのこと。

ときどき千両という「ホコリ」が溜まるので、江戸に捨てに来るのだ、という。

事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、糠の代わりに小判で埋めてもらえたんだ」

腰が抜けた喜助、帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車をこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鷹頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。

これでだんなの機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。

ちょうど三日目。

あばたれだんなが現れると、総出でお出迎え。

「ああ、ありがとうありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」

【しりたい】

上方落語を彦六が移植

上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年に八代目林家正蔵(彦六)が二代目桂三木助の直伝で覚え、東京に移植したものです。

正蔵(当時は三遊亭円楽)は、このとき「唖の釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、悟道軒円玉(1865-1940)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。

東京では彦六以後、継承者はいません。

上方版モデルは廻船長者

本家の上方では、初代桂枝太郎(1866-1927)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。

上方の演出では、主人公を、和泉佐野の大物廻船業者で、菱垣廻船の創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。和泉佐野は古く、戦国時代末期から、畿内の廻船業の中心地でした。

飯は屋号を唐金屋といい、元和年間(1615-24)に、江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。

鴻池は新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯のだんなが鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションのようです。

上方の舞台は、大坂北新地の茶屋綿富となっています。

江戸の料理茶屋

宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。

有名な山谷の懐石料理屋八百善は、それ以前の享保年間(1716-36)の創業です。文人墨客の贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。

日本橋浮世小路の百川、向島の葛西太郎、洲崎の升屋などが一流の有名どころでした。

江戸のバンダービルト

奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。初代奈良屋茂左衛門(?-1714)は、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築き、その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門と張り合ったものです。初代の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の三代目茂左衛門源七の代まで栄えました。その後、家運が徐々に衰えましたが、幕末まで一流店として存続しました。

【語の読みと注】
欝金 うこん
駕籠 かご
肴 さかな
奈良茂 ならも
菱垣廻船 ひがきかいせん
百川 ももかわ

【RIZAP COOK】

団子兵衛 だんごべえ 演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

現在ではあまりやられることのない、珍しい噺です。

別題:団子兵衛芝居(上方)

【あらすじ】

七代目市川団十郎の弟子で、下回り役者の団子兵衛。

連日芝居のハネ(終幕)が遅く、その上師匠の雑用もあって帰りが遅い。

長屋では火の用心のため、四ツ(十時過ぎ)には木戸を閉めてしまうので、毎晩大家を起こして開けてもらわねばならず、肩身が狭い。

大家の方も度重なると機嫌が悪くなり、地主がおまえのところを倉庫に使いたいと言っていると、とうとう店だてを食わされる。

困った団子兵衛は、大家の子供に菓子をやったりしてお世辞を使い、その上、自分はこれでも師匠の団十郎と肩を並べる役者で、来月共演するとうそをつき、ようやくかんべんしてもらった。

大家はふだんから芝居など見ない堅物だが、
「そんなにえらい役者なら、どんな役をするのだろう」
と見たくなり、とうとう一張羅の羽織を着込んで見物に出かける。

出し物は、『桜姫東文章』で「清水清玄庵室の場」。

当然、主役だと思うから、清玄か桜姫か釣り鐘権助かと目をこらすが、団子兵衛はいっこうに現れない。

そのうち狂恋の清玄が桜姫を手ごめにしようとし、奴淀平に殺されて化けて出る見せ場。

淀平が花道に行きかかると
「奴め、やらぬ」
と斬られ役の雲助が出てくるが、それがお待たせの団子兵衛。

淀平に投げられて四つんばいになり、背中に足を乗せて踏みつけられる。

ヒョイと顔を上げると、土間の客席に大家。

「おや、団子兵衛さん」
「大家さん、今夜も木戸をお願いします」

【しりたい】

原話は「情けがあだ」

六代目桂文治(明治44年没)の、明治31年(1898)9月『百花園』掲載の速記が残ります。

芝居ばなしを得意にした人なので、後半の「清玄庵室の場」は、殺し場と、清玄が化けるシーンの長ゼリフをそっくり再現。本格的な怪談仕立てで演じました。

原話は安永2年(1773)刊『俗談口拍子』中の「雪の中の大家」。これは、落語と少しニュアンスが異なります。

独り者が毎晩遊びに出歩き、その都度深夜に木戸をたたくのを気兼ねして、路地の塀を飛び越えて長屋に入ります。大家は粋なところを見せ、「遠慮して塀など越えずに、何度でもたたくがいい。開けるのは大家の役だ」。男は喜んで調子に乗り、毎夜毎夜ドンドンドン。しまいには大雪の夜、寝入りばなをまたドンドン。大家、頭にきて、「ええい、今夜だけは飛び越えろい」。

きゃいのう

下回り役者の悲喜劇を扱った噺には「淀五郎」「武助馬」などがありますが、昭和初期に柳家金語楼(1901-72)が創作した「きゃいのう」は、別題が同じ「団子兵衛」で、この噺をヒントに作られたものです。

下回り役者が、腰元の渡りゼリフ、A「もっとそっちに」B「行」C「きゃいのう」の、Cの「きゃいのう」だけを与えられますが、カツラにたばこの吸い殻が入ったのに気づかず、A「もっとそっちに」B「行」C「うーん、熱いのう」で、オチになります。

現在では、オリジナルの「団子兵衛」ともども、ほとんど聞かれなくなりました。上方では同じ筋で、「団子兵衛芝居」といいます。

放浪の団十郎

七代目市川団十郎(1791-1859)は、江戸後期から幕末にかけての名優です。芸風は写実に富み、能の様式を歌舞伎に取り入れた「勧進帳」を始めとする市川家の家の芸「歌舞伎十八番」を設定しました。天保の改革で、生活がぜいたくに過ぎるという理由で江戸を所払いに。長男に八代目を譲って、海老蔵、白猿などの芸名で上方や名古屋の舞台に立ちました。九代目団十郎(1838-1903)は七代目の妾腹の五男です。明治の名優として名を馳せました。

ペーペー役者の悲哀

役者の身分については「中村仲蔵」をご参照ください。この噺の団子兵衛の身分は、明治以後で新相仲、旧幕時代では下立役で、役者の最下級。通称を稲荷町。楽屋稲荷が祭られる大部屋に雑居するのでこの名がついたといわれますが、諸説あります。

いずれにしても、大歌舞伎にいるかぎり、馬の脚から出発して、生涯せいぜい、この噺のようなその他大勢の斬られ役や、捕り手の役しかつかない下積みで終わります。

桜姫東文章

『桜姫東文章』は四世鶴屋南北作の歌舞伎世話狂言で、文化14(1817)年3月、河原崎座初演。

鎌倉新清水寺の僧清玄が、吉田家の息女桜姫に邪恋を抱いて破戒。寺を追放された後、ストーカーとなって執拗に桜姫につきまとい、忠義の奴淀平に殺されても、なおも怨霊と化して姫に取り憑くという筋。

現在でも坂東玉三郎らによって、しばしば上演される人気狂言です。

【語の読みと注】
新相仲 しんあいちゅう
桜姫東文章 さくらひめあずまぶんしょう

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

蛸坊主 たこぼうず 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

お坊さんが登場する噺。ちょっと珍しいですかね。

【あらすじ】

不忍池の端にある料理屋、景色はよし味はよし、器もサービスも満点で大評判。

ある日、坊さんの四人組が座敷にどっかと上がり込んだ。

「われわれは高野一山の修業僧だが、幼少の折から戒律堅固に過ごしているから、なまぐさものは食らわない、精進料理を出してくれ」
と注文する。

出された料理に舌鼓を打っていた四人、急に主人を呼び出し、料理や器をほめた後、このお碗の汁はおいしいが、出汁はなにを使っているかと、尋ねる。

「はい、世間さまではよく土佐とおっしゃいますが、てまえどもでは親父の代から、薩摩を使っておりますので」
「はあ、そりゃいったい、なんのことで?」
「鰹節の産地でございます」

鰹節とは何で作るのかと重ねて問われて、主人は青ざめたが、もう遅い。

「とんだことで、ご勘弁を願います」
と平謝りし、
「すぐに清めの塩を持ってこさせ、昆布の出汁で作り直させます」
と言い訳しても、坊さん四人はいっかな聞かない。

かえって居丈高になり、
「魚類の出汁を腹の中へ入れてしまっては、口などすすいでも清まるものではない。われわれ四人は戒律堅固に暮らしていたのが、この碗を食したために修業が根こそぎだめになった。もう高野山には帰れないから、この店で一生養ってもらう」
と、無理難題。

新手のゆすりとわかった時には、もう手遅れ。

坊さんは寺社奉行のお掛かりで、町奉行所に訴えてもどうにもならない。

困り果てていると、向こうの座敷で食事をしていた、鶴のように痩せた老僧がこれを聞きつけた。

主人を呼んで、
「愚僧が口を聞いて信ぜよう」
と申し出たので、主人は藁にもすがる思いで頼む。

ほかの座敷の町人連中、
「なにやら坊さんが四枚そろったが、けんかになりそうだから、ドサクサに紛れて勘定を踏み倒しちまおう」
と、ガヤガヤうるさい。

老僧、四人の座敷へおもむくと、
「料理をうまくしたいという真心がかえって仇となったので、刺し身を食らっても豆腐だと思えば修業の妨げにはなりますまい」
と、おだやかに説くが、四人は相手にしない。

老僧、急に改まって
「最初から高野一山の者とおっしゃるが、貴僧たちはこの愚僧の面体をご存じか」

知らないと答えると、大音声で
「あの、ここな、いつわり者めがッ」
(芝居がかりで)「そも高野と申す所は、弘仁七年空海上人の開基したもうところにして、高野山金剛峯寺と名づけたる真言秘密の道場。諸国の雲水一同高野に登りて修業をなさんとする際、この真覚院の印鑑なくして足を止めることができましょうや。高野の名をかたって庶民を苦しめるにせ坊主、いつわり坊主、なまぐさ坊主、蛸坊主」
「これ、蛸坊主と申したな。そのいわれを聞こう」
「そのいわれ聞きたくば」
と、四人が取りついた手を振り払い、怪力で池の中にドボーン。片っ端から放り込んでしまった。

四人とも足を出して、池の中にズブズブズブ。

「そおれ、蛸坊主」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【RIZAP COOK】

【うんちく】

東京では彦六

原話は不詳で、本来は純粋な上方落語です。

明治以来、大阪方が「庇を貸して母屋を乗っ取られた」演目は数多いのですが、この噺ばかりは、東京はほんのおすそ分けという感じです。

桂米朝、露の五郎兵衛、桂文我ほか、レパートリーとしているのは、軒並み西の噺家。

東京では、八代目林家正蔵(彦六)が、かつてこの噺を得意にしていた大阪の二代目桂三木助(1884-1943)に習い、舞台を江戸に移して演じたのみです。正蔵の口演は映像が残されているので、古格の芝居噺の型を、今も偲ぶことができます。

あまりおもしろい噺ではないうえ、後半は鳴り物入りで芝居噺となる古風さも手伝ってか、正蔵没後は東京では今のところ、継承者がいません。

舞台設定はいろいろ

二代目三木助は、大坂茶臼山(大坂の役の古戦場)の「雲水」という普茶料理屋を舞台としていました。これが、上方の古い型だったのでしょう。

正蔵は、ここに紹介したように、上野不忍池のほとりとし、店の名は特定していません。でも、幕末の池之端あたりには、この噺に登場するような大きな料亭が軒を並べていました。

「不忍池にすると、上野(=寛永寺)の宗旨は天台ですから、そこへ真言の僧が来るのはおかしいということになりますが、これはまァ見物にでも来たとすれば、そう無理はないと思います」
という、正蔵の芸談が残ります。

場所一つ設定するのも、いい加減にはできないもののようです。

上方でも、桂米朝は、舞台を生玉神社近くの池のほとり、老僧の名を「修学院」としていました。

雲水

托鉢しながら旅の修行を続ける禅宗系の僧侶をさしますが、ここでは老僧の言葉にあるように、高野聖と呼ばれる諸国修行の真言宗の僧侶です。

【RIZAP COOK】

竹の水仙 たけのすいせん 演目

名工ならスヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

講談の名匠ものを借用した一席。だから、オチはありません。

【あらすじ】

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎、
「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」
と言い渡す。

これはただ者ではないと、佐平が感嘆していると、なんとその翌朝、水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になり、このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公
「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然と
「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

いよいよ出発という時、甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平、ゲンキンなもので
「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

小さんの人情噺

五代目柳家小さんの十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸がやっていました。柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一説を落語化したものとみられます。

「三井の大黒」「ねずみ」など、落語の「甚五郎」ものはいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「三井の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があって、三代目桂三木助は「ねずみ」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご

スヴェンソンの増毛ネット

高田馬場 たかだのばば 演目

仇討ち対策にライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

落語世界の仇討ち。おおよそこんなかんじなんですね。

【あらすじ】

春の盛りの浅草奥山。

見世物や大道芸人がずらりと並び、にぎやかな人だかりがしている。

その中で、居合い抜きを演じたあと、蝦蟇の油の口上を述べている若い男がいて、その後ろに美しい娘。これが鎖鎌の芸を見せる。

「その効能はなにかといえば、金創切り傷、出痔いぼ痔、虫歯で弱るお方はないか」

そこへ人を押し分けて、六十過ぎの侍。

蝦蟇の油売りに向かって
「それは二十年ほど前の古傷にも効くか」
と侍が尋ねると、若者は
「ちょっと拝見」
と傷を見るなり
「これは投げ太刀にて受けた傷ですな」
「さよう、お目が高い」

侍が
「身の懺悔だから」
と語るところでは、
「拙者は元福島の家中であったが、二十年前、下役、木村惣右衛門の妻女に横恋慕し、夫の不在をうかがって手ごめにしようとしたところ、立ち帰った夫に見とがめられ、これを抜き打ちに斬り捨てた。妻女が乳児を抱え『夫のかたき』とかかってくるのをやはり返り討ちに斬ったが、女の投げた懐剣が背中に刺さり、それがこの傷だ」
と言う。

若者は聞き終わると、きっと侍をにらみ
「さてこそ、なんじは岩淵伝内。かく言う我は、なんじのために討たれし木村惣右衛門が一子、惣之助。これなるは、姉、あや。いざ尋常に勝負勝負」
と呼ばわったから、周りは騒然となった。

岩淵伝内は静かに
「なるほど、二十年前のことなので油断し口外したは、拙者の天命逃れざるところ、いかにもかたきと名乗り討たれようが、今は主を持つ身。一度立ち返ってお暇をちょうだいしなければならんので、明日正巳の刻までお待ち願いたい」
「よかろう。出会いの場所は」
「牛込、高田馬場」
「相違はないな」
「二言はござらん」

というわけで、仇討ちは日延べになった。

翌日。

高田馬場は押すな押すなの黒山の人だかり。

仇討ち見物を当て込み、よしず張りの掛け茶屋がズラリ。

そのどれもぎゅうぎゅう詰め。

みんな勝手を言いながら待っているが、いっこうに始まらない。

とうとう一刻(二時間)過ぎて、正巳の刻に。

「また日延べじゃないか」
とざわつきだしたころ、ある掛け茶屋で、昨日の侍が悠々と酒を飲んでいるのを見つけた者がいた。

「もし、お侍さん、のんびりしてちゃあ困ります。仇討ちはどうなりました」
「はは、今日はなしだ」
「相手が済みますまい」
「心配いたすな。あれは拙者のせがれと娘」
「なんだって、そんなうそをついたんです」
「ああやって人を集め、掛け茶屋から上がりの二割をもらって、楽に暮らしておるのだ」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【うんちく】

原作者は死罪に

前半の蝦蟇の油売りの口上は、落語「蝦蟇の油」を踏襲しています。この口上については「蝦蟇の油」をご参照ください。

原話は、宝暦8年(1758)刊で馬場文耕(講釈師、1718-59)作『当代江都百化物』中の第六話「敵討ノ化物ノ弁」です。

「百化物」は、武士出身で易者から辻講釈師に転じた文耕が、江戸で起こったさまざまな珍談を、風刺を交えて世話講談風にまとめた読み物で、二十二話で中絶しています。

第六話は、この噺の通りヤラセの仇討ち騒動ですが、後半が違っていて、野次馬が二人のやり取りに夢中になっているうちに、片っ端から懐の財布をすり取られてしまう、というオチです。

原作者の文耕は「百化物」を上梓した宝暦8年9月10日、日本橋槫正町の小間物屋文蔵方で「珍説もりの雫」という政治風刺講談を口演中に南町奉行所に検挙されました。

この講談が、当時評定所で吟味中の、美濃郡上八幡藩三万九千石の百姓一揆騒動を風刺したので、お上のおとがめを受けたためです。

文耕は当初は遠島で済むはずでしたが、吟味中も幕府を批判してやまなかったため、ついに死罪獄門に。同年12月25日、小塚原の露と消えました。

その判決を下したのが、文耕が「百化物」中で「罪を軽く取りさばかるる」名奉行とたたえた土屋越前守だったのはなんとも皮肉で、ヨイショが肝心なときにまったく役立たなかったわけです。

金馬のおはこ

古い速記はなく、デブの円生こと五代目三遊亭円生(1884-1940)の昭和初期のものが残るくらいです。

なんと言っても、戦前から戦後にかけ、三代目三遊亭金馬(1894-1964)の十八番でした。

金馬没後、三笑亭夢楽が手掛け、ついで古今亭志ん朝が演じて以来、若手も高座に掛けるようになりました。

志ん朝が1981年4月12日夜、文京区千石、三百人劇場での「志ん朝七夜」第二夜に演じた「高田馬場」は、その軽快なテンポと現代的なセンスで、この噺の新たなスタンダードとして語り伝えられています。

浅草奥山

奥山は浅草寺裏手の一帯のことで、江戸から明治末期まで、見世物小屋が所狭しと並ぶ、一大歓楽街でした。

享保年間(1716-36)には軍書講釈、ついで宝暦(1751-64)ごろには辻講釈がよく出ましたが、文化年間(1804-18)ごろから見世物が盛んになり、独楽回し、居合い抜き、軽業などの大道芸、女相撲の興行、因果物などのグロテスクな見世物、その他ほとんどなんでもありの「魔境」と化します。

明治になると、浅草公園五区に区分され、あいかわらず見世物でにぎわいましたが、明治末、隣の六区が活動写真や芝居小屋を中心に大歓楽街を形成すると、しだいに人手を奪われ、その役割を終えました。

高田の馬場

古くは「たかたのばば」。地名としては現・新宿区戸塚1、2丁目から西早稲田、早大正門付近の馬場下町あたりまでのかなり広い範囲を含みました。家康の側妾で、越後高田藩主となった松平忠輝の実母阿茶局が賜った芝地で、同人が「高田さま」と呼ばれたことに由来します。その後、寛永13年(1636)に馬場が設けられ、現在の穴八幡神社付近で流鏑馬が催されたといいます。

安兵衛の仇討ち

この噺の仇討ち騒動は、もちろん、講談や映画でおなじみの堀部(中山)安兵衛の「高田馬場仇討ち」が元ネタです。

元禄7年(1694)2月11日に起こったこの事件。講釈師が言う、はでな「十八人斬り」は真っ赤なうそで、安兵衛が斬ったのは村上三郎右衛門以下三名に過ぎないというのが現在の定説のようです。まあ、伝説は無限に広がるもので。

【語の読みと注】
仇討ち あだうち:敵討ちと同じ。こちらは「かたきうち」
蝦蟇の油 がまのあぶら
身の懺悔 みのざんげ
正巳の刻 しょうみのこく:午前10時
槫正町 くれまさちょう:中央区日本橋3丁目あたり

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

大名道具 だいみょうどうぐ 演目

お願い、金勢さまライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

愉快なバレ噺の最高傑作。大名対大明神の戦いや、いかに。

【あらすじ】

さる殿さま。

男っぷりもなにも申し分ないお方だが、残念ながら男としての道具が相当に小ぶり。

欲求不満で業を煮やした奥方が、その方面にご利益があるという城下外れの金勢大明神に殿さまをむりやり引っ張っていき、モノをもう少し大きくしてもらうよう、祈願することになった。

もちろん、家中総出。

ところが、金勢さまのご神体は男子の一物を型どったもの。

四尺ぐらいのりっぱなものが、黒光りしてそそり立っている。

これを見せつけられた殿さま、カーッとなって
「おのれッ、余にあてつけおるなッ」

槍持ちの可内から槍をひったくると、拝殿にズブリと突き入れて、ご神体をゴロッとひっくり返してしまった。

さあ、怒ったのは大明神。

「いざ、神罰を思い知らせてくれよう」
と、その夜、天にもとどろく雷鳴。

殿さまの股間に冷たい風がスーッと吹いたかと思うと、ただでさえあるかないかだったお道具が、きれいさっぱりなくなった。

殿さまばかりか、家中三千人のモノまで、一夜にして一人残らず大切なものを取られてしまったから、大騒動。

あわててご神体を修理したが、お宝はいっこうに戻らない。

結局、山伏を招いて、秘法「麻羅返し」の祈祷をすることになった。

山伏が汗みどろで
「ノーマクサンマンダー」
とやっているのを見て、神さまも気の毒になったのか、修法三日目の夕刻、一天にわかにかき曇り、津波のような大音響とともに米俵が十俵、大広間にドサッ。

中からなんと、三千人分の道具がザーッとこぼれ出た。

殿さまは涼しい顔で、その中で一番大きなモノをくっつけると、さっさと奥へ入ってしまった。

さあ、それから広間は大混乱。

どれが誰のモノやら、わからない。

取り合いで大げんかになるやら、人のお道具を踏みつけるやらの騒ぎがようやくしずまったあと、まだ一人で大広間をごそごそ捜しているのが、槍持ちの可内で、家中第一の大道具の持ち主。

たった一つ発見したのは、四センチほどにも満たない代物。まさに、殿さまの所有物である。

「三太夫さま、あっしのがありません」
「そこにあるではないか」
「冗談じゃねえ。あっしのは、お城一番八寸銅返しってえ自慢のもんで」
「ああ、あれなら殿が持っていかれた」

可内、泣く泣くあきらめさせられたが、殿さまはめでたく「女殺し」に大変身。

三日三晩、寝所に居続けで、奥方は腰も立たないほど。

そこへバタバタと三太夫がやって来た。

「申し上げますッ」
「何事じゃ」
「ただいま槍持ちの可内めが、腎虚で倒れました」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【うんちく】

艶笑落語の大傑作

スケールといい、奇想天外なストーリー展開といい、バレ噺の最高傑作の一つといえるでしょう。

原話は、明和9年(1772=安永元)刊の大坂小咄本『軽口開談儀』中の「大名のお道具紛失」と、安永年間(1772-81)刊の江戸板『豆談語』中の「化もの」。

このうち後者は、殿さま始め家来一同のエテモノを根こそぎさらうのが「化け物」とされているほかは、槍持ちの腎虚というオチまで、大筋はそっくりそのままです。

小島貞二によれば、能見正比古がこれらの原典を脚色、一席にまとめたものとか。能見は血液型による性格分類のパイオニアで知られる人。

当然ながら、口演記録はありません。

金勢大明神

通称は金勢さま。金精神、金精大明神、金精さまなどとも呼ばれます。男根の形をしたご神体をまつった神の一柱をさします。金清、金生、魂生、根性、根精などとも、さまざまな当て字で表記されています。男根の形をしたご神体をまつった神であることでひとくくりにされています。とにかく、ご神体は噺中に出るとおり、巨大でいきり立った男根。これに尽きます。男の永遠の憧れ、精力絶倫を象徴しているところから、五穀豊穣、安産、子孫繁栄、縁結びなどをつかさどります。古くから信仰を集め、社は日本全国に広く分布しています。

八寸胴返し

平常時で24.24cm。いきり立つとどのくらいになるか背筋の寒くなる代物です。「胴返し」というのは撃剣で、胴を払った太刀先をそのまま返し、反対側の胴、面、小手をなぐ基本技です。ということは、ピンと反り返った「太刀先」が顔面を直撃……。まさかねえ。

腎虚

江戸時代には腎気(精力)の欠乏による病気の総称でした。狭義では、過度の性行為による衰弱症状です。これの症例に関しては「短命」で、隠居がわかりやすく解説してくれます。

大名道具

題名の「大名道具」とは、大名が持つにふさわしい一流品全般をいいます。ところで、特に限定していう場合、「大名道具」とは、松の位の太夫のこと。まさに、大名の権力と財力があって初めてちょうだいできる代物ということです。

太夫にかぎらず、お女郎のことを俗に「寝道具」ともいい、年期が明けてフリーになった遊女をタダで落籍するのを「寝道具をしょってくる」と称しました。同じ「大名道具」でも、花魁はハード、男のモノはソフトというわけでしょうか。どんなに特大のソフトを手に入れても肝心のハードがなければ、なんの意味もないわけです。いやはや。

【語の読みと注】
ご利益 ごりやく
金勢大明神 こんせいだいみょうじん
一物 いちもつ
麻羅返し まらがえし
腎虚 じんきょ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

代脈 だいみゃく 演目

スヴェンソンの増毛ネット

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

寄席草創期の古い噺。昨今のパンデミック風潮に好機の医療ものかも。

【あらすじ】

江戸中橋の古法家である尾台良玄は名医として知られていた。

弟子の銀南は師に似つかわぬ愚者で色情者。

ある日のこと。

良玄が、病に伏せている蔵前の大店、伊勢屋のお嬢さまのもとに代脈に行くよう、銀南に命じた。

銀南は、代脈を材木と聞き違え
「かついでまいりますか、しょってまいりますか」
と尋ねるほどのまぬけぶり。

良玄「この間のこと、お嬢さまはどういう具合かひどく下っ腹が堅くなっておった。しきりに腹をさすって、下腹をひとつグウと押すと、なにしろ年が十七で」
銀南「へえ」
良玄「プイとおならをなすった。お嬢さまがみるみるうちに顔が赤くなって恥ずかしそうだ。そこは医者のとんちだ。そばの母親に『陽気のかげんか年のせいで、この四、五日のぼせて、わしは耳が遠くなっていかんから、おっしゃることはなるたけ大きな声でいってくださいまし』と話しかけて、お嬢さまを安心させた。そんなことにならぬよう、下腹などさわるでないぞ」

良玄は十分に注意を与え、銀南を若先生ということにして、代脈に行かせた。

銀南は伊勢屋でしくじりを重ねたあげく、手、舌などを見る。

しまいには、お嬢さまの下腹を押してしまう。

「プイッ」

お嬢さまが、みるみる赤い顔に。

銀南は良玄をまねて
「どうも年のせいか四、五日耳が遠くなって」
とやったはいいが、手代に
「大先生も二、三日前にお耳が遠いとおっしゃってましたが、若先生も」
といわれ、銀南は
「いけないとも。ちっとも聞こえない。いまのおならさえ聞こえなかった」

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

大看板好み与太郎噺

文化年間(1804-18)、寄席の草創期から口演されてきたらしい、古い噺です。

銀南は医者見習いというものの、実態は与太郎そのもの。昔から、ごく軽い与太郎物として扱われ、前座・二つ目の修行噺でもあるのですが、受けるネタだからか、大看板も多く好み、現在もよく高座に掛けられます。

古くは、明治45年(1912)の四代目柳家小三治(のち二代目柳家つばめ)や初代柳家小せんの速記があります。戦後では、六代目三遊亭円生、五代目柳家小さんの大立者が音源を残しています。

昭和56年(1981)4月、文京区千石にあった三百人劇場での「志ん朝七夜」で演じた「代脈」は圧倒的な技量でした。もちろん、古今亭志ん朝のこと。どの師匠のよりも、吹っ切れた明るさとスピード感、冴えた舌耕で、客席を笑いの渦に巻き込んでいました。

実話、屁の功名

後半の屁の部分の原話は、室町後期の名医、曲直瀬道三(1507-94)の逸話を脚色した寛文2年(1662)刊『為愚癡物語』巻三の「翠竹道三物語りの事」、さらにそれを笑話化した元禄10年(1697)刊『露鹿懸合咄』巻二の「祝言」です。

後者は、道三がさるうつ病の姫君を診察した際、姫が一発やらかしたので、音が自分の耳に入ったと知ればいよいよ落ち込んで薬効もなくなると機転を利かせ、耳が遠くなったので筆談で症状を言うように仕向けて見事精神的ケアに成功、本復させたというものです。良玄の自慢話そのものですが、してみると、これは実話を基にしていることになります。

銀南が代脈に行かされる前半の原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』二編中の「代脈」です。

これは、あらすじでは略しましたが、銀南が駕籠の中で寝込んでいるところを、病家の門口で駕籠屋に起こされ、寝ぼけて「ドーレ」と言うくすぐりがあり、その部分のほぼそのままの原型です。

古法家

概して漢方医のことですが、特に、漢や隋代の古い医学書に基づいて治療を行う、保守的な学派の医者を指します。これに対し、元代に起こった、比較的新しい漢方医学を標榜する医者を後世家と呼びました。

中橋

いまの東京駅八重洲中央口あたりです。昔はこのあたりに楓川の掘割があり、日本橋の大通りと交差するところに中橋が架かっていました。掘割が安永3年(1774)に埋め立てられると同時に橋も廃され、一帯の埋立地に中橋広小路町が形成されました。

中橋の橋詰は、寛永元年(1624)、猿若勘三郎が初めて芝居の興行を許された、江戸歌舞伎発祥の地でもあります。

【語の読みと注】
古法家 こほうか:漢方医
曲直瀬道三 まなせどうさん
後世家 こうせいか

スヴェンソンの増毛ネット

大仏餠 だいぶつもち 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

八代目文楽のおはこでした。「神谷幸右衛門」の名が言えずに……。

【あらすじ】

ある雪の晩、上野の山下あたり。

目の不自由な子連れの物乞いが、ひざから血を流している。

ふびんに思った主人が、手当てをしてやった。

聞けば、新米の物乞い。山下で縄張りを荒らしたと、大勢の物乞いに袋だたきにあったとか。

子供は六歳の男児。この家では子供の袴着の祝いの日だった。

同情した主人は、客にもてなした八百善からの仕出しの残りを、やろうとした。

物乞いが手にした面桶を見ると、朝鮮さはりの水こぼし。

驚いた主人、
「おまえさんはお茶人だね」
と、家へあげて身の上を聞いてみると、芝片門前でお上のご用達をしていた神谷幸右衛門のなれの果て。

「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたこともある河内屋金兵衛です」
と、おうすを一服あげ、大仏餠を出す。

幸右衛門、感激のうちに大仏餠を口にしたため、のどにつかえて苦しんだ。

河内屋が背中をたたくと、幸右衛門の目が開いた。

ついでに、声が鼻に抜けてふがふがに。

「あれ、あなた目があきなすったね」
「は、はい。あきました」
「目があいて、鼻が変になんなすったね」
「はァ、いま食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けました」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

「三代目になっちゃった」

三遊亭円朝の作で、三題噺をもとに作ったものです。出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」。円朝全集にも収録されていますが、昭和に入ってはなにをおいても八代目桂文楽の独壇場でした。文楽の噺としては「B級品」で、客がセコなときや体調の悪い場合にやる「安全パイ」のネタでしたが、晩年は気を入れて演じていたようです。にもかかわらず、この噺が文楽の「命取り」になったことはあまりに有名です。

この事件の経緯については、『落語無頼語録』(大西信行、芸術出版社、1974年)に、文楽の死の直後の関係者への取材をまじえて詳しく書かれ、またその後今日まで40年近く、折に触れて語られています。以下、簡単にあらましを。

昭和46年(1971)8月31日。この日、国立劇場の落語研究会で、文楽は幕切れ近くで、登場人物の「神谷幸右衛門」の名を忘れて絶句。「もう一度勉強しなおしてまいります」と、しおしおと高座を下りました。これが最後の高座となり、同年12月12日、肝硬変で大量吐血の末死去。享年79。

文楽はその前夜にも同じ「大仏餅」を東横落語会で演じ、無難にやりおおせたばかりでした。高座を下りたあと、楽屋で文楽は淡々とマネジャーに「三代目になっちゃったよ」と言ったそうです。

三代目とは三代目柳家小さん(1930年没)のこと。漱石も絶賛した明治大正の名人でしたが、晩年はアルツハイマーを患い、壊れたレコードのように噺の同じ箇所をぐるぐる何度も繰り返すという悲惨さだったとか。

文楽は、一字一句もゆるがせにしない完璧な芸を自負していただけに、いつも「三代目になる」ことを恐れて自分を追い詰め、いざたった一回でも絶句すると、もう自分の落語人生は終ったといっさいをあきらめてしまったのでしょう。

「三代目になった」ときに醜態をさらさないよう、弟子の証言では、それ以前から高座での「お詫びの稽古」を繰り返していたそうです。大西氏は文楽の死を「自殺だった」と断言しています。神谷幸右衛門は、噺の中でそのとき初めて出てくる名前ですから、忘れたら横目屋助平でも美濃部孝蔵でも、なんでもよかったのですがね。

無許可放送事件

平成20年(2008)2月10日、NHKラジオ第一放送の「ラジオ名人寄席」で、パーソナリティーの玉置宏氏が、個人的に所蔵している八代目林家正蔵(彦六)の「大仏餅」を番組内で放送しました。ところが、これが以前にTBSで録音されたものだったため著作権、放映権の侵害で大騒動になり、すったもんだで玉置氏は降板するハメになりました。文楽のを流しておけば、あるいは無事ですんだかも知れませんね。やはり、自分の専売特許を侵害された(?)文楽のタタリでしょうか。「大仏餅」は文楽没後は前記正蔵が時々演じ、現在では柳家さん喬、大阪の桂文我などが持ちネタにしています。

大仏餅

江戸時代、上方で流行した餅で、大仏の絵姿が焼印で押されていました。京都の方広寺大仏門前にあった店が本家といわれますが、奈良の大仏の鐘楼前ともいい、また、同じく京都の誓願寺前でも売られていたとか。支店だったのでしょうか。

この餅、安永9年(1780)刊の秋里籬島著「都名所図絵」にも絵入で紹介されるほどの名物で、同書の書き込みにも、「洛東大仏餅の濫觴は則ち方広寺大仏殿建立の時よりこの銘を蒙むり売弘めける。その味、美にして煎るに蕩けず、炙るに芳して、陸放翁が餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり」と絶賛。滝沢馬琴が享和2年(1802)、京都に旅したおり、賞味して大いに気に入ったとか。この店、昭和17年(1942)まで営業していたそうです。

面桶

めんつう。一人分の飯を盛る容器です。

袴着の祝い

男児が初めて袴をはく儀式です。三歳、五歳、七歳など、時代や家風によって祝いをする年齢が変わりました。

朝鮮さはりの水こぼし

さはりは銅、錫、銀などを加えた合金。水こぼしは茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具です。

【語の読みと注】
八百善 やおぜん
面桶 めんつう

【RIZAP COOK】

宗漢 そうかん 演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

古代中国が舞台のバレ噺。戦国七雄を題材にしてもしょせんはね。

別題:薬籠持ち

【あらすじ】

中国は、魏の国の宗漢という医者。

この先生、名医だが大変に貧乏で、日本でいうと裏長屋住まい。

ある雨の日、玄関先で
「お頼み申します」
という声がするので出てみると、
「楚の国からはるばるやってきたものだが、主家のお嬢さまが長い病で難渋しているので、先生にぜひお見舞いを願いたい」
と言う。

先生大喜びで、二つ返事で引き受けたものの、金がないのでお供の者も雇えない。

そこで、やむなく細君を連れていくことにしたが、医者が女の供を連れていては外聞が悪いので、細君を男装させ、長旅をして楚までやってきた。

先方に着くと、下へも置かない大歓迎。

お茶を出されても、細君の方は返事をするとバレるので、おっかなびっくり下を向いているばかり。

見舞ってみると、さほどたいしたことはないので、薬を与えて帰ろうとすると、日はとっぷりと暮れなずみ、折しも大雨が降りり出した。

いくら待っても、やむ気配がない。

恐縮した主人が、一晩泊まっていくようにすすめるので、宗漢先生もその気になったものの、この家ではあいにく、夜具を洗濯に出してしまって余分なものが今ない、という。

そこで、
「まことに申し訳ないことながら、先生は十一歳になる息子と寝ていただき、お供の方は、手前の家の下男とかじりついて、肌と肌とを押しつけて寝ていただくと温かでございます」
ときたので、先生は仰天した。

今さら自分の女房だと言うわけにもいかず、とうとうその晩は心配のあまり、まんじりともせず夜を明かした。

翌朝。

宗漢夫婦が帰ったあと、例の十一歳の息子が
「お父さん、昨夜ボク、あのお医者さんと寝たでしょ。あのオジサン、貧乏だね」
「なぜ」
「フンドシしてなかったよ」

それを聞いていた下男が
「そりゃそうだろう。あのお供なんか、金玉がなかったからな」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

戦国七雄

魏、楚ともに紀元前4-3世紀に割拠した戦国七雄。

魏は山西省南部から河南の北部一帯にかけて、楚は揚子江中流一帯を占めていました。隣国とはいえ、日帰りなどとてもできませんが、時空間をものともしないのが落語の落語たるところです。

細君に男装

なんのことはなく、簪を抜かせただけです。

昔、中国では男女とも、服装から髪型からまったく同じで、これでは困るというので、女には目印として簪を付けさせたというのがこの噺の前提ですが、もちろん、噺家のヨタを真に受けられては困ります。

少年愛も潜んだ噺

原話は不詳。四代目橘家円喬が明治28年(1895)8月、『百花園』に寄せた速記以後、内容が内容だけに演者の記録はもちろんありません。

「薬籠持ち」と題して、バレ小咄として演じるときは、宗漢を日本の医者にし、薬籠(=薬箱)持ちの下男をクビにしたばかりなので、しかたなくかみさんを男装させて出かけることにしています。

その場合、中国のようにはいかないので、ちゃんと男の着物を着せ、頭には頭巾をかぶせて、下男に化けさせています。

往診先は山向こうの村の金持ちで、医者は診察したばかりの子供といっしょに寝かされます。

オチは、貧乏医者で「金がない」というダジャレを含んでいますが、勘ぐれば少年愛のにおいまでするアブない噺ではあります。

【語の読みと注】
魏 ぎ
楚 そ

【RIZAP COOK】